隠れている罪
NO. 116
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---- 1857年2月8日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂「どうか、隠れている私の罪をお赦しください」。――詩19:12 自分を義とする思いは、部分的には高慢から生ずるが、その大方は、神の律法に関する無知から生ずるものである。人々は、天来の律法の恐ろしい性格に関してほとんど、あるいは全く知らないがために、愚かにも自分自身が義であると想像する。彼らは、律法の深遠な霊的性格も、その厳格な峻厳さも分かっていない。さもなければ、それとは違う、もっと賢い考え方をしていたであろう。律法がもろもろの思念をいかに厳密に取り扱うか、内なる人のあらゆる情緒といかに密接な関わりを持っているか、それをいったん知りさえするなら、神の天下のいかなる人といえども、自分自身の行為や思念の力によって、自分は神の御前で義なのだ、などと考えようとはしないであろう。ただ律法を人に啓示しさえすれば、――その律法がいかに厳格なものか、いかに無限に正しいものかを知らせさえすれば、――その人の自分を義とする思いは、しなびて消え失せるであろう。――かつては、美麗な衣服と考えていたものも、自らの目の前で不潔な着物[イザ64:6]となるであろう。
さてダビデは、神の律法を見てとり、先ほど私が読み上げた詩篇の中でそれをたたえてから、その卓越性をつくづく思い巡らすことによって、このような思いを口に出させられている。「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう」。そして、こう祈りをささげている。「どうか、隠れている私の罪をお赦しください」。
ローマ教会のラテラノ公会議では、1つの教令が公布された[1215年]。すなわち、あらゆる真の信仰者は、自分の罪をことごとく、一年に一度、司祭に対して告白しなくてはならないというのである。そして彼らは、この教令に従う以外に赦罪を受ける望みは全くない、との宣言までつけ加えた。このような教令ほど馬鹿げたものがありえるだろうか? 彼らは、自分たちの罪を、自分の指を数えるのと同じくらい簡単に告げることができるとでも思っているのだろうか? 何と、たとい私たちが、一時間の間に犯したあらゆる罪を告げることで、自分のあらゆる罪への赦罪を受けることができたとしても、私たちの中のいかなる者であれ、天国に行くことはできないであろう。というのも、私たちに知られているもろもろの罪、私たちが告白することのできるもろもろの罪に加えて、私たちの目につく罪と同じくらい真実に罪でありながら、隠れている罪、私たちの目の前に現われない罪の大群が、おびただしく存在しているからである。おゝ! もし私たちに神のような目があったとしたら、私たちは自分自身について非常に異なった考え方をするであろう。私たちが見てとり、告白する罪は、農夫が市場に持ってくる、ほんの少数の見本のようなものであり、彼の家にある穀物倉にはそのすべてがそっくり残されているのである。私たちの目につき、私たちに認められる罪など、自分自身に隠されていて、私たちの同胞の目につかない罪にくらべれば、ごくごく微小なものでしかない。疑いもなく、この場にいる私たち全員は、自分が意識的に活動しているあらゆる時間を通じて、良心からは一度も叱責されたことがないような汚れたことを何万回も犯しているに違いない。なぜなら、私たちは神の律法を本来そうあるべきほどには学んでこなかったため、一度もそれらを悪いと見てとったことがないからである。さて、このことは、私たち全員にはっきり証ししておこう。私たちが見てとろうが見てとるまいが、罪は罪である。――私たちに隠れている罪は、私たちがそれを罪と知っている場合と同じくらい真実に罪である。それは、故意に、わざと犯す罪――増上慢という、より重大な罪深さを加えている罪――の場合ほど、神の御前において大きな罪ではないが、それは関係ない。自分の罪を知る私たちはみな、自分のあらゆる罪を告白した後で、こう祈ろうではないか。「主よ。私は自分が知る限りの罪を告白しました。ですが、私はその後でも、さらにつけ加えて、こう云わなくてはなりません。『どうか、隠れている私の罪をお赦しください』」。
しかしながら、今朝の私の説教の要点はそのことではない。私がとらえたいと思っているのは、ある特定の種別の人々、すなわち、自分自身には知られているが、同胞たちには隠されている罪を有している人々である。時折、私たちは、信仰を告白する教会の緑の芝生の上に横たわる美しい石をひっくり返してみて驚愕することがある。いかにも善良そうな新緑に囲まれたその石の下には、ありとあらゆる種類の不潔な昆虫や、忌まわしい爬虫類が見いだされるのである。そして、こうした偽善にむかつかされて私たちは、思わずこう叫ばされる。「すべての人は偽りを言う者だ[詩116:11]。少しでも信頼できる者などひとりもいないのだ」、と。すべての人と云ってしまっては公平ではないが、本当のところ、私たちの同胞の偽善についてなされる発見は、人間という種族を軽蔑させるに足るものである。なぜなら彼らは、外見上はしごく立派な押し出しをしていながら、心の健全さはまるで僅かしかないからである。方々。私は今朝、そのあなたに、――隠れて罪を犯していながら信仰を告白しているあなたに、――神の契約を暗闇の中で破ってながら、光の中では善良さの仮面をかぶっているあなたに、――そのあなたに語りかけるであろう。おゝ、願わくは神もまた、あなたに語りかけてくださるように。そして、あなたにこの祈りをささげさせてくださるように。「どうか、隠れている私の罪をお赦しください」。
この場にいる、善人ぶった人々全員に向かって、私はこう促したい。自分のあらゆる隠れている罪を放棄し、忌むべきものとし、憎み、忌み嫌うがいい、と。そのため、まず第一に私は、隠れている罪の愚かさを示してみたいと思う。第二に、隠れている罪のみじめさ、第三に、隠れている罪の咎、第四に、隠れている罪の危険を示したいと思う。その後で私は、そこから救い出されるために、いくつかの言葉を適用し、私たちがみな、隠れている罪を避けられるようにするであろう。
I. まず第一に、《隠れている罪の愚かさ》である。
善人ぶった者よ。あなたは美しい。あなたの行ないは、外見では廉直であり、麗しく、気前がよく、高潔で、キリスト者的であるが、あなたは人間の目がまだ突きとめていない何らかの罪にふけっている。ことによると、それは自宅での酩酊かもしれない。あなたは表通りを千鳥足で歩く酔いどれを悪しざまに罵っているが、自宅では同じ習慣に平然とふけっているのである。それは、それとは別の何らかの情欲や悪徳かもしれない。それが何であるかを指摘することは、今の私が行なうことではない。しかし、善人ぶった者よ。私たちはあなたに云う。隠れている罪をかくまっておけると考えているあなたは愚か者である。あなたが愚か者であるというのは、この1つの理由による。すなわち、あなたの罪は隠れている罪ではない。それは知られているのである。そして、いつの日か明らかに示されるのである。その露見は、ごく間近かもしれない。あなたの罪は秘密ではない。神の目はそれを見ていた。あなたは神の面前で罪を犯してきた。あなたは戸を閉ざし、窓帷を引き、太陽の目を閉め出す。だが神の目は暗闇を貫き、あなたを囲む煉瓦の壁は《全能者》の目にとっては硝子も同然に透明であった。あなたを囲んでいた暗闇は、万物を見通すお方の目には、夏の白昼のように明るかった。あなたは知らないのだろうか? おゝ、人よ。「神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」[ヘブ4:13]。祭司がそのいけにえに自分の短刀を突き刺し、心臓や肝臓、その他そこにある内蔵を露出するように、そのようにあなたも、おゝ、人よ。《全能者》によって切り開かれた者として神から見られているのである。あなたには、身を隠すことのできる秘密の小部屋は何1つない。自分の魂を秘め隠すことのできる暗い地下室は何もない。深く掘るがいい。左様、地獄ほどにも掘るがいい。だが、あなたが自分の罪を覆えるほどの土塊は、地球上のどこにも見いだせないであろう。その墓の上に山々を積み上げようと、そうした山々は自分たちの腹中に埋められたものの物語を告げるであろう。たといあなたが自分の罪を海に投げ込むことができたとしても、一千もの波たちがさんざめき、その秘密をあばくであろう。それを神から隠すすべはない。あなたの罪は、高き天で写真に撮られている。その行為は、なされた瞬間に空の上で撮影され、そこに残り続け、いつの日かあなたは、万人の驚き呆れる目の前で、自分が偽善者、善人ぶった者であると明らかに示されるのを目にするであろう。そのとき、あなたは、自分の犯した罪が秘密でも何でもなかったこと、すべてを見通すエホバによって自分のあらゆる行為が観察されてきたことを知るであろう。おゝ、何かを隠れて行なえると考えるなど、人は何という愚か者であることか。この世は、蜜蜂たちが働いている硝子の巣箱のようなものである。私たちがそれをのぞき込むと、この小さな生き物たちの活動のすべてを見てとることができる。そのように、神はのぞき込み、すべてを見てとっておられる。私たちの目は弱い。私たちは、暗闇を通して見ることはできない。だが神の目は、火の球のように、その暗黒を刺し貫き、人の思いを読みとり、その人が自分では最も秘匿されていると思っている行為をご覧になっている。おゝ、これは、もし本当に心から痛感するとしたら、私たちをあらゆる罪から遠ざけるに足る思想である。――「あなたはエル・ロイ[ご覧になる神]!」[創16:13] やめよ、盗人よ! あなたが取ってきたものを落とせ。神があなたをご覧になっている! あなたは、地上のいかなる目にも見きわめられてはいないが、神の目はいま雲を貫いてあなたを見ている。悪態をつく者よ! 御名を汚すあなたの呪いを耳にしていた者はほとんどいない。だが、それは安息日の主なる神の耳に入ったのである。あゝ! 不潔な生活を送っていながら、人々の間では、品行方正な商人として、立派で上品な人格を保っている人たち。あなたの悪徳は、神の書にことごとく書き記されて知られている。神は、あなたの行為のすべてを日誌につけておられる。そして、来たるべきその日に、あなたはどう思うだろうか? そのときには、この大群衆も手おけの一しずくでしかないほど膨大な人の群れが集まり、神があなたの秘密の生活を読み上げ、人々と御使いたちがそれに耳を傾けるのである。私は確信しているが、私たちの中のだれひとりとして、自分の秘密のすべてを、特に私たちの隠れている思念を読み上げられたいと思う者はいないであろう。もし私がこの会衆の中から最も聖い人を選び出し、その人を前に出して、「さあ、私はあなたの考えを全部知っています。今からそれを口に出して云いましょう」、と云うとたら、確かにその人は、自分にかき集められるだけの莫大な賄賂を私に差し出し、少なくともその一部については口をつぐんでいるように願うであろう。その人は云うであろう。「私の行為については告げてください。それは、私も恥じてはいません。ですが、私の思念や想像については告げないでください。――それらについて、私は神の御前に常に恥じる者として立たなくてはならないのです」。ならば、罪人よ。あなたの内密の情欲が、あなたのひそかなそむきの罪が、あなたの秘密の罪悪が、神の御座から大々的に告示され、神ご自身の口から公表され、一千の雷鳴よりも大きな御声で、その場に集められた世界の耳に宣べ伝えられるとき、あなたの恥辱はいかなるものとなるであろう。そのときのあなたの恐怖と混乱はいかなるものとなるであろう。あなたが行なってきたすべての行ないが、白日の下にさらけだされ、全人類の耳に入るのである。おゝ、異端の愚かしい望みを放棄するがいい。あなたの罪は、きょうのこの日、記録され、いつの日か天国の城壁の上から喧伝されるからである。
II. 次のこととして注意したいのは、《隠れている罪のみじめさ》である。
ありとあらゆる罪人の中でも、キリスト教信仰を告白していながら不義の中に生きている人こそは、最もみじめな者である。徹底的な悪人は――手に杯を持ち、「俺は酔っぱらいだし、それを恥ずかしいとも思わねえ」、と云っている人は――、来たるべき世では言葉に尽くせぬほどみじめになるであろう。だが、たとい短くはあっても、その人には、その楽しみの時がある。呪ったり、悪態をついたりする人は――「それが俺の癖なんだ、俺は俗悪な人間なんだ」、と云って、それを公言している人は――、少なくとも、自分の魂に何らかの平安がある。だが、神の教役者とともに歩み、神の教会に結びつき、神の民の前に出てきては、彼らと交際しながら、その一方で罪の中で生きている者、その人は何とみじめな人生を送らざるをえないことか! 何と、その人の生き方は、時折パンくずをちょろまかしては、自分の穴に戻っていく居間の鼠にすら劣っている。そうした人々は、時折、罪を犯すために走らなくてはならない。そして、おゝ! いかに彼らは発覚を恐れることか! ことによると、いつの日か、彼らの人格が明らかになるかもしれない。奸知の限りを尽くして彼らはそれをひた隠しにし、取り繕っているが、翌日には何かがやって来て、涙にかき暮れて過ごすことになる。嘘に嘘を重ね、最後の嘘をもっともらしく見せかけ、欺きに欺きを加え、自分の正体が悟られないようにしようとする。
「おゝ! われらが作るは 蜘蛛の巣の薮、
ひとたび人を 欺かんとせば」。もし私がどうしても悪人にならなくてはならないとしたら、浮かれ騒ぐ罪人の生活、白昼公然と罪を犯す罪人の生活をさせてほしい。だが、もし私がどうしても罪を犯さなくてはならないとしたら、決して偽善者のようには、また臆病者のようには行動させないでほしい。自分は神のものですと公言しながら、実は悪魔のために人生を費やすようなことはさせないでほしい。そのような悪魔をだますしかたは、あらゆる正直な罪人が恥じるところのものであろう。その人は云うであろう。「今もし私が自分の主人に仕えるとしたら、私は徹底的に仕えるであろう。そこでは何のごまかしもするまい。私が何かを告白するとしたら、私はそれを実行しよう。だがもしそうしないとしたら、もし私が罪の中に生きるとしたら、私はそれを、もったいぶった信心ぶりや偽善で糊塗したりすまい」。教会を骨抜きにし、その活力を断ち切ってきたことの1つは、こうした、憎んでもあまりある偽善にほかならない。おゝ! 私たちの中には、いかに多くの場所において、もしその言葉を信ずることができるとしたら、大いにほめたたえることのできる人々、だが、もしその人の隠れている行為を見ることができるとしたら、底知れぬ所のどん底に叩き込めるような人々がいることか。あなたがたの中のだれかがそうしているとしたら、神のお赦しがあるように! いま私は、あなたのことは絶対に赦せない、と云うところであった。公然と放蕩し、自分がそれ以上の人間だなどとは全く公言していない人なら私も赦すことができる。だが、卑屈にへつらい、信心家ぶった口をきき、善人ぶり、祈りをささげ、それでいながら罪の中に生きている人、その人を私は憎み、我慢できず、魂の底から忌み嫌うものである。もしその人が、そうした生き方から離れるとしたら、私はその人を愛するであろう。だが、そうした偽善の中にある間のその人は、私にとって最も忌まわしい生き物である。ひきがえるもその頭には宝石をつけていると云われるが、こうした人には何もなく、不潔さを身にまとっていながら、義を愛しているふりをしているのである。話をお聞きの方々。単なる信仰告白は、地獄へ向かう際の極彩色の衣裳でしかない。それは葬儀馬車の上の羽飾りのようなもの、人々をその墓へと引いていく黒い馬の飾り馬具のようなもの、死んだ魂の葬送行列である。太陽に耐えない蝋のような信仰告白には、何にもまして用心するがいい。2つの顔を使い分けなくてはやっていけなような、いかなることにも注意するがいい。1つのものとなるがいい。さもなければ、別のものとなるがいい。もしあなたがサタンに仕える心を決めたとしたら、神に仕えているふりをしてはならない。そして、もしあなたが神に仕えるとしたら、心を尽くして神に仕えるがいい。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」[マタ6:24]。それを試みてはならない。そうしようと努めてはならない。それほどみじめな人生はないからである。何にもまして、人から隠さなくてはならないような行為を犯さないように用心するがいい。『ユージーン・アラムの夢』、というフッド[1799-1845]の異様な詩がある。――実際これは、最も尋常ならざる一編であって、私がいま語っている点を例証している。アラムはある男を殺し、そのからだを川に投げ込んだ。――「たゆたう川は くろく墨色、その深みには 果てもなし」。翌朝、彼は自分の犯罪の現場を訪れた。
「黒き呪いの 池を求めり、
狂おしき目で おびえつつ。
そして見ぬ、かの 死人を川床に、
不実な流れの 涸れたれば」。次に彼は、その死体を枯葉の堆積で覆おうとしたが、大風が森を吹き抜けて、その秘密を陽光の下にさらけだしてしまう。
「かくて地にわれ 突き伏して
歔欷(きょき)し始めぬ。
そは、われ知りぬ、わが秘事は
地も隠するを こばめるを。
陸にも海も、よしそれが
一万尋(ひろ)の 深みなるとも」。悲しみに満ちた調子で、彼は自分自身の露見を予告している。彼はその犠牲者を洞窟の中に埋め、石で踏み固めたが、歳月がそののろのろとした回転を終えたとき、この醜悪な行為は発見され、殺人者は死刑に処された。
咎は、「薄気味悪い侍従」である。その鉤爪めいた指が血に染まって赤くなっていなくとも関係ない。隠れている罪は血走った目と、眠れぬ夜をもたらし、人がその良心を焼き尽くし、かの穴に入るのに熟しきった者となるまで続く。偽善という競技を続けるのは、苦しいことである。というのも、欺く側は、たったひとりで多数の観察者に立ち向かわなくてはならないからである。そして確かにそれは、みじめな商売に違いない。それなりに佳境に入ったところで、最後に稼ぎ出すのは、途方もない破産なのである。あゝ! あなたがた、発覚することなく罪を犯してきた人たち。「あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい」[民32:23]。そして考えるがいい。その罰が、さほど遠からぬうちにやって来るかもしれないことを。罪は、殺人のように明らかになる。人々は、その夢の中で自分について口走ることすらある。神は時として人々の良心を鋭く突き刺し、自首して、真相を告白せざるをえなくなることすらある。隠れている罪人よ! もしあなたが地上で地獄の前味を知りたければ、あなたの隠れている罪を犯し続けるがいい。というのも、ひそかに罪を犯しながら、評判を守ろうとする者ほどみじめな者はいないからである。歯をむき出した、飢えた猟犬たちに追いかけられている、向こうの雄鹿も、自分のもろもろの罪に追われている人よりは、はるかに幸せである。狩人の罠にかかり、それを逃れようとばたばたしている、向こうの鳥も、自分の回りに入り組んだ欺瞞の蜘蛛の巣を織り上げ、そこから逃れようとして日々労苦し、その骨折り仕事をより分厚くし、その蜘蛛の巣をより強くしようとしている者よりは、はるかに幸せである。おゝ! 隠れている罪のみじめさよ! まことに、人はこう祈って当然である。「どうか、隠れている私の罪をお赦しください」。
III. しかし、ここで次に語りたいのは、咎――《隠れている罪の厳粛な咎》についてである。
さて、ジョン君。君は、だれからも見られていない限り、何かに咎があるなどとは全く思っていないだろうか。君は、現金箱を盗んでいる現場を自分の主人に押さえられたとしたら、それは大変に大きな罪だと感ずる。――だが、主人がそれを発見しないのなら、そこには何の罪もない――全くありはしない。また、商売でごまかしをしたことがばれて法廷の前に引き出されるとしたら、それは非常に大きな罪だろうと思い描きながら、ごまかしをしても決して見つからなければ、全然悪でなどないとしている方々。――あゝ、そんな話は聞かせないでほしいですな。スポルジョン先生。それが商売というものなんです。商売のことについては、あれこれ云わないでください。人に見つからないごまかし、もちろん、そんなことに難癖をつけちゃいけません。罪かどうかをはかる物差しは、普通、世間に何と云われるかどうかなんです。しかし、私はそれが正しいとは考えない。罪は罪である。こっそり行なわれようと、衆人環視のもとで行なわれようと関係ない。人々は、不思議なしかたで咎をはかる。鉄道会社の従業員が間違った信号を掲げる。事故が起こる。その男はしぼられて、厳しく懲戒される。その前日も彼は間違った信号を掲げている。だが、何の事故も起こらなかった。それゆえ、だれも彼の怠慢ゆえに彼をののしらなかった。しかし、それは、事故が起ころうと起こるまいと、全く同じことである。事故が咎を作り出したのではない。咎を造るのは行為であって、世評でも、結果でもない。注意を払うことは彼の努めであった。そして、彼は二回目のときに劣らず一回目のときにも咎があった。彼は不注意によって人命を危険にさらしたからである。罪は、他の人々がそれについて何と云うかではかってはならない。むしろ、それについて神が何と仰せになるか、また、あなた自身の良心が何と云うかによってはかるがいい。
さて、私は主張するが、隠れている罪は、どう見ても最悪の罪である。なぜなら、隠れている罪は、それを犯す人が、心で《無神論》をいだいていることを暗示しているからである。あなたは、どうしてそのようなことがありえるのかと尋ねる。答えよう。その人は信仰を告白するキリスト者かもしれない。だが、私はその人に面と向かって、あなたは実質的には無神論者である、と告げるであろう。もしその人が人前では賢明にお上品な信仰告白を保とうとしていながら、実はひそかにそむきの罪を犯しているとしたらそうである。何と、神はいると云いながら、それと同時に、神のことを考えるよりも、人間のことを重要視している人は、無神論者ではないだろうか? それが無神論の真骨頂ではないだろうか?――人々が神を軽視し、被造物の目の方を、彼らの《創造主》の注視よりもずっと重視するというのは、《いと高き方》の神性を否定することではないだろうか? 世の中には、自分の教役者の前では一言も悪い言葉を口にしようとはしないが、神が自分のことを眺めていると知っているときには、平然とそれを行なえる人々がいる。彼らは無神論者である。世の中には、人にばれるだろうと思うときには決して商売上のごまかしをしようとしないが、神が彼らとともおられるときには平然とそうできる人々がいる。すなわち彼らは、神の目よりも人目を気にしているのである。そして彼らは、人間によって罪に定められることの方が、神によって罪に定められることよりも悪いと考えているのである。それをあなたが何と呼びたがろうと、そのしかるべき名は、実質的な無神論である。それは神の栄誉を汚すことである。神を王位から退けることである。神をその被造物たちの下に引き下ろすことである。そして、それは神の神性を奪い去ることでなくて何だろうか? 兄弟たち。私は切に願う。隠れている罪という恐ろしい咎を背負い込んではならない。いかなる人も、こっそり小さな罪を犯すことはできない。それは確かにより大きな罪を生じさせてしまう。いかなる人も偽善者でありながら、慎ましい咎を有していることはできない。その人はますます悪くなり、さらに進んで、彼の咎が公になるまでとなる。最悪の人間、最もかたくなな人であることが見いだされるようになる。隠れている罪の咎に用心するがいい。あゝ、今もし私がロウランド・ヒルのように説教できるとしたら、私はある人々を自宅に帰してから自分を見つめさせ、おののかせるであろう! 伝え聞くところ、彼が説教するときには、窓枠に腰かけている人であれ、群衆の中に立っている人であれ、どこに腰かけている人であれ、そのひとりたりとも、こう云わない人はいなかったという。「あゝ、彼は私に向かって説教しているのだ。彼は、私の隠れている罪について私に告げているのだ」。そして、彼が神の全知を宣言したとき、人々はほとんど、神が現身をとって彼らの真中におられ、彼らを眺めているのを見ているように思ったという。そして、彼がその説教を語り終えたとき、彼らは1つの声を自分の耳の中で聞いたという。「人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。――主の御告げ。――天にも地にも、わたしは満ちているではないか。――主の御告げ。――」[エレ23:24]。わたしは自分がそうできたらと思う。あらゆる人に自分自身を見つめさせ、自分の隠れている罪を見つけ出させることができたらと思う。さあ、話をお聞きの方々。それは何だろうか? それを陽光の下に引きずり出すがいい。ことによると、それは日差しの下で死滅するであろう。こうした事がらは発見されないでいることを愛する。あなた自身の良心に今それが何であるかを告げるがいい。それと向かい合い、神の御前でそれを告白するがいい。そして、願わくは神があなたに、その罪を、また他のどんな罪をも取り除き、心底から真摯にご自分に立ち返る恵みを与えてくださるように。しかし、このことは知っておくがいい。――あなたの咎は咎である。発覚しようとすまいと、関係ない。何か違いがあるとしたら、隠れているだけに、より悪い咎だということである。神よ、私たちを隠れている罪の咎より救い出し給え! 「どうか、隠れている私の罪をお赦しください」。
IV. そして次に注意したいのは、《隠れている罪の危険》である。1つの危険は、ひそかに小さな罪を犯せば必ず次第に公然たる罪へと道を外れて行かざるをえない、ということである。方々。あなたは、罪において、ほどほどの所にとどまっていられると考えても、そうすることはできない。罪を1つ犯すなら、それはアルプスの氷河の下層を溶かすようなものである。そのうちに、別の罪が次々に続かざるをえない。今日あなたが1つの石を石塚に積めば、それと同じくらい確実に、翌日あなたは別の石を投げ込むであろうし、ついには、石また石によってそびえ立ったその堆積が金字塔そのものとなる。珊瑚虫が働いているところを見るがいい。あなたは、それがどこでその働きをやめることになるか定められないであろう。それは、あなた好みの高さの岩礁を築くようなことはないであろう。それが海藻に覆われ、その海藻が腐り果て、その上に土砂が降り積もり、微小な生物によって、1つの島が作り上げられるまでやめないであろう。罪は、くつわや馬勒によって制することはできない。「ですが私は、時々ほんの少し飲むつもりです。私はただ、一週間に一度かそこら酔うことにしています。だれもそれを見てはいません。私はそのまま寝床に直行するのです」。だが、あなたはじきに町通りでも酔いどれとなるであろう。「私は、好色な本を一冊しか読むつもりはありません。だれかが部屋に入ってきたら、安楽椅子の上掛けの下に隠してしまいます」。だが、あなたはそれを、なたの書庫に堂々と置くことになるであろう。「私は、ただちょっとあそこに足を踏み入れるだけです」。だが、あなたはそこに毎日行くようになるであろう。それほど、そこには魅惑的な性格があるのである。あなたにはどうすることもできない。そうするくらいなら、獅子に向かって、どうかあなたの口に私の頭を入れさせてください、と頼んだ方がましである。あなたに彼の顎を統制することはできない。同じように罪を統制することもできない。そこに陥ったなら、いつ滅びることになるかわからない。あなたは、猛獣使いヴァン・アンバーグのように幸運な人で、そこにあなたの頭を何度となく出し入れできるかもしれない。だが、いつの日かそれが高価な冒険となることは確実であろう。さらに、あなたは自分の不道徳な習慣をひた隠しにしようとするかもしれないが、それは現われるであろう。それを防ぐことはできない。あなたは、自分の小さなお気に入りの罪を家の中で飼っている。だが、よく聞くがいい。扉が少し開ければ、その犬は町通りに飛び出すであろう。あなたの胸の中でそれを包み込み、偽善の囲みという囲みをかけて、それを秘密にしておこうとしても、このみじめなものはいつの日か、あなたが人前にいるときに歌い出すであろう。あなたはこの悪しき鳥をじっとさせておくことができない。あなたの罪は外をほっつき歩くであろう。それどころかあなたは、そのうちにそれを気にしなくなるであろう。内密に罪にふけっている人は、次第に自分の額を青銅のように硬くしていく。最初に罪を犯したとき、その人は、自分のしでかしたことを思い起こして、額に汗の粒が吹き出させた。二度目になると、熱い汗が額ににじむことは全くなく、ただ動作がぎこちなくなるだけであった。三度目には、こそこそした、後ろめたそうな表情になりはしたが、からだがこわばることはなかった。その次になるとその人は、さらにもう少し罪を犯し、次第に自分の神を大胆に冒涜する者となり、こう叫んだ。「私は何者だからというのでエホバを恐れなくてはならないのか。彼が何者だかりというので、私は彼に仕えなくてはならないのか」。人々は次第に悪い者となっていく。あなたの小舟を流れに押し出すがいい。――それは流れが押し流す所に行かざるをえない。あなた自身をつむじ風の中に押し出すがいい。――あなたは風の中のわらしべでしかない。その風が運んで行く所に行かざるをえない。――あなたは自分自身を制することができない。風船は上にのぼることはできるが、その行き先を指示することはできない。それは風の吹く所どこへでも行かなくてはならない。あなたがひとたび罪の上に乗っかるなら、それを止める方法はない。最悪の人格にならないように用心するがいい。小さな罪に用心するがいい。それらは、1つまた1つと積み重なって、ついにはその天辺からあなたを投げ落としては、あなたの魂を永遠に滅ぼすであろう。隠れている罪には大きな危険がある。
しかしここには、真のキリスト者でありながら、隠れている罪にふけっている人々がいるであろう。そうした人々は、それを小さな罪にすぎないと云い、だから勘弁してやっている。愛する兄弟たち。私はあなたに云いたいし、それと同時に私自身にも云いたい。――私たちの小さな隠れている罪をことごとく滅ぼそうではないか。それらは小さいと呼ばれているが、たといそうだとしても、思い起こそう。狐たち、しかも小狐たちこそ、花盛りとなった私たちの葡萄畑を荒らすものなのである[雅2:15]。私たちの小さな罪に用心しよう。小さな罪は、靴の中の小石のように天国に向かう旅行者の歩みを非常に難儀なものとする。小さな罪は、こそどろのように、扉を開いては、外にいるずっと大きな泥棒を中に入らせる。キリスト者よ。小さな罪が、あなたのキリストとの交わりをだいなしにすることを思い起こすがいい。小さな罪は、絹の上の小さなしみのように、交わりという見事な織物に損害を与える。小さな罪は、機械類の中の小さな不具合のように、あなたのキリスト教信仰の構造全体をだいなしにしかねない。一匹の死んだ蝿によって香油はだいなしになる[伝10:1]。一本の茨から落とされた種子で、一大陸が有毒な雑草で覆われかねない。兄弟たち。私たちは自分の罪を見つけ次第殺そうではないか。ある人は云った。――「心は汚れた鳥でいっぱいだ。心は、それらの鳥かごなのだ」。「あゝ、だが」、と別の神学者は云った。「あなたはそうした弁解をしてはいけない。というのも、キリスト者の務めは、それらの首をひねって殺すことなのだから」。その通りである。そこに何か悪い事がらがあるとしたら、それらを殺すことは私たちの務めである。キリスト者は隠れている罪を大目に見てはならない。私たちは反逆者をかくまっていてはならない。それは《天の王》に対する大逆罪である。それらを白日の下に引きずり出し、祭壇の上でいけにえとし、私たちの隠れている罪の最愛のものをも、神のみこころと神のご命令によって放棄しよう。小さな隠れている罪には大きな危険がある。それゆえ、それを避けるがいい。容赦してはならない。それから顔を背け、避けるがいい。そして、願わくは神が、それに打ち勝つ恵みをあなたに与えてくださるように!
V. そして、いま私は、しめくくりとして、神が良心を突き刺してこられた、あなたがたの中のある人々に向かって、力の限りに訴えたい。私は、可能であれば、涙をもってでも懇願したい。あなたが、あなたの隠れている罪を放棄するように、と。この場にいるひとりの人のゆえに、私は神をほめたたえる。どこの誰かは知らないが、その人は、ほとんどキリスト者になるよう説得されかかっている。その人はどっちつかずによろめいている。神に仕えようと思い、罪を捨て去ろうと苦闘しているが、それが熾烈な戦いであることを見いだしている。そして、まだその人は、自分がどうなるのか見当がつかないでいる。私は、心からの愛をこめてその人に語りたい。愛する方々。あなたは自分の罪をかかえたまま地獄に行くのだろうか? それとも、自分の罪を離れて天国に行くのだろうか? これは厳粛な二者択一である。目覚めさせられている罪人たちに私は突きつける。願わくは神があなたに代わって選んでくださるように。さもなければ、私はあなたがどちらを選ぶことになるのかを思っておののくものである。この人生の快楽は、あまりにも人を酔わせ、その喜びはあまりにも強い誘惑であるため、もし神が私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださると信じていなかったとしたら、私はあなたについて絶望すべきである。しかし私は神が事を決してくださると信頼している。あなたの前に、その選択肢を置かせてほしい。――その一方には、一時の歓楽、つかの間の至福の人生、ただし、ひょろひょろの貧弱な至福がある。もう一方には、永遠のいのちと、とこしえの栄光がある。一方には、はかない幸福と、やがて訪れる圧倒的な災厄がある。こちらの場合、そこには堅固な平安と永遠の喜びがあり、その後には圧倒的な至福がある。私は、アルミニウス主義者と呼ばれることを何ら恐れることなく、エリヤが云ったようにこう云うものである。「あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。もし、神が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え」*[ヨシ24:15; I列18:21]。しかし今、あなたの選択は念入りに行なうことである。そして、願わくは神があなたを助けてくださるように! まずその費用を計算することもなしに、キリスト教信仰を受け入れようと云ってはならない[ルカ14:28]。覚えておくがいい。そこには、捨て去るべきあなたの情欲がある。放棄すべきあなたの快楽がある。あなたはそれをキリストのために行なえるだろうか? あなたにそうできるだろうか? あなたにそうできるためには、神の恵みがあなたを助けてそうした選択を行なわせてくださるしかないことを私は知っている。しかし、あなたはこう云えるだろうか? 「はい。神の助けによって、地上の華やかな玩具も、その壮麗さも、虚飾も、見かけ倒しの安ピカ物も、すべてこれらを私は放棄します」、と。――
「こは決して 満ち足らわせじ、
キリストなくば、われは死ぬのみ」。罪人よ。もし神の助けによってその選択を下したのであれば、あなたは決してそれを後悔しないであろう。あなたは自分が地上では幸福な者となり、永遠を通じてこの上もない果報者となることに気づくであろう。
「しかし」、とある人は云うであろう。「先生。私はキリスト教信仰に入りたいと思うのですが、あなたの厳格さには同意しかねます」。私は、あなたがそうするように求めてはいない。しかしながら、あなたが神の厳格さには同意しようとするものであることを希望したい。そして神の厳格さは、私のそれより一万倍も厳しい。あなたは、私が私の説教において清教徒的だと云うであろう。だが神は、かの大いなる日の審きにおいて清教徒的であろう。私は峻烈に見えるかもしれないが、決して神がそうなられるほど峻烈になることはできない。私は、あなたの良心の全面にわたって切っ先鋭い砕土機をかけるかもしれないが、神はいつの日か、あなたの全面にわたって、永遠の火焔という砕土機をかけなさるであろう。私は雷鳴のような事がらを語るかもしれない! だが神はそれらを語るのではなく、その御手から投げつけなさる。覚えておくがいい。人々は地獄を笑い飛ばし、そんなものはないと云うかもしれないが、自分の聖書を否認するのでない限り、そうした嘘を信ずることは決してできない。人間の良心は、彼らにこう告げている。
「そこにすさまじ 地獄あり
永劫にある 苦痛(いたみ)あり。
そこに罪人 悪鬼と住めり、
暗闇と火焔(ひ)と 鎖の下に」。方々。あなたがたは自分の隠れている罪を持ち続けて、それがために永遠の焔を受けようというのだろうか? 覚えておくがいい。それは何の役にも立たない。それらはみな捨て去るか、さもなければ、あなたは神の子どもではありえないのである。あなたは、いかにしてもその両者を持つことはできない。神と世を、はありえない。キリストと悪魔を、はありえない。一方か、もう一方か、どちらかでなくてはならない。おゝ! 神があなたに、すべてをあきらめる恵みを与えてくださるように。というのも、それらに何の価値があるだろうか? それらは、今あなたを欺く者である。そして、永遠にあなたに苦悶を与える者となる。おゝ! あなたの目が開かれ、不義の腐敗ぶり、空虚さ、ペテンを見てとるとしたらどんなに良いことか。おゝ! 神があなたをご自身に立ち返らせてくださるとしたら、どんなに良いことか。おゝ! 願わくは神があなたに、悔い改めというルビコン川を渡る恵みを、こう云うことのできる恵みを、今このとき、与えてくださるように。「これからは、私の罪とは死闘を演じます。その1つたりとも、私は進んで保っておきません。むしろ打ち倒します、打ち倒します。カナン人、ヘテ人、エブス人、彼らをみな追い出さずにはおきません」。
「わが知るいかな 愛(いと)し偶像も
――よしその偶像 いかなものたれ――
その玉座より 引きもぎ離し、
ただ汝れのみを 拝させ給え」「しかし、おゝ、先生。私にはそうはできません。それは、私の目をえぐり出すようなものです」。左様。だが、キリストが云っておられることを聞くがいい。「片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです」[マタ18:9]。「しかし、それは私の腕を切り離すようなものです」。左様。だが、片手片足でいのちにはいるほうが、五体満足なまま燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことである。おゝ! 罪人が神の御前に最後にやって来るとき、あなたは彼が今しているような口のきき方をすると思うだろうか? 神は、その人の隠れている罪を明らかに示すであろう。罪人はそのときこうは云わないであろう。「主よ。私は自分の隠れている罪があまりにも甘やかに思えたので、それを捨てることができなかったのです」。私は、それがそのときにはいかに異なったものになるか見えるような気がする。「先生」、と今のあなたは云う。「あなたは厳格すぎます」。だが、《全能者》の目があなたを睨みつけるとき、あなたはそう云うだろうか? 「あなたは四角四面すぎます」、と今のあなたは云う。だが、《全能の神》に面と向かってあなたはそう云うだろうか? 「私はこれこれの罪は取っておきますからね」、とあなたは云う。だが最後に神の法廷に出たとき、あなたはそう云えるだろうか? そのときのあなたに、そのようなことをする度胸はあるまい。あゝ! キリストが二度目にやって来られるとき、人々の口のきき方には驚嘆すべき変化があるであろう。私には、主が見えるような気がする。そこに主はその御座に着いておられる。さあ、カヤパよ。出て来て、いま主を断罪するがいい! ユダよ! 出て来て、いま主に口づけするがいい! 人よ、あなたは何にしがみついているのか? あなたは主を恐れているのか? さあ、バラバよ! 行って、見てみるがいい。果たして彼らが、いまキリストよりもお前の方を選ぶかどうかを。悪態をつく者よ。今こそ好機到来である。あなたは大胆な人間であった。いま面と向かって主を呪うがいい。さあ、酔いどれよ。いま千鳥足で主のもとへ行くがいい。さあ、不信心者よ。いまキリストなどいやしないと主に告げるがいい。――今や世界は稲妻で照らし出され、地は雷鳴で揺れ動き、その堅固な大黒柱がゆっくりと倒れていく。その今、――神に向かって神などいやしないと告げるがいい。いま聖書を笑い飛ばすがいい。いま教役者をあざ笑うがいい。何と、人々よ。あなたはどうしたというのか? 何と、それができないのか? あゝ! そこにいたのか。丘々や岩々のもとに逃げ去っていたのか。――「岩よ、私たちをかくまってくれ! 山よ、私たちの上に倒れかかってくれ! 御座にある方の御顔から、私たちをかくまってくれ」*[黙6:16; ルカ23:30]。あゝ! 今あなたの大いばりは、あなたの自慢は、あなたの誇りはどこにあるのか? あゝ! 悲しいかな! かのすさまじい驚異の日が来たときのあなたは!
隠れている罪人よ。そのとき、あなたはどうなるだろうか? 仮面を外して、この場所を出て行くがいい。行って自分自身を吟味するがいい。行って膝まずくがいい。行って泣くがいい。行って祈るがいい。願わくは神が、あなたに信ずる恵みを与えてくださるように! そして、おゝ、この日、罪人たちがキリストのもとに逃れて行ったのだ、この日、人々がイエスに対して新しく生まれたのだ、と考えることは、何と甘やかで、快いことか! 兄弟たち。話を終える前に私は、あまりに多くの人々がけちをつけてきた言葉を繰り返そう。――今が最後の機会である。立ち返るか、焼かれよ。神の御前にあって厳粛に私はこう云う。もしこれが神の真理でないとしたら、私はこのことのゆえに、かの大いなる精算の日に責任を問われなくてはならないであろう。だが、あなたの良心は、それが真理であるとあなたに告げている。これを家に持ち帰り、そうしたければ私を嘲笑するがいい。今朝、私は、あなたの血の責任から解かれる。たといだれかが神を求めず、罪に生きるとしても、私は、見張り人が人々の魂の責任を問われるかの日には、あなたの血の責任から解かれるであろう。おゝ、願わくは神が、ほむべきしかたであなたを逃れることができるようにしてくださるように! 一、二週間前の安息日に、この講壇への階段を下りて来たとき、ひとりの友人が告げてくれたことがある。それ以来、その言葉はずっと私の頭に残っている。――「先生。きょう、ここにいる九千人の人たちは、最後の審判の日に、何の弁解もできませんね」。今朝のあなたがたについても、このことは真実である。もしあなたが罪に定められるとしたら、それはあなたに対して宣教がなされなかったためではないし、あなたのための祈りがなかったためでもない。神もご存じの通り、もし私の心があなたがたのためにひとりでに砕けるものなら、それは砕けるであろう。私がキリスト・イエスの愛の心をもって、いかに熱心にあなたがたを慕っているか、その証しをしてくださるのは神だからである。おゝ、神があなたの心に触れて、ご自身のもとに導いてくださるとしたら、どんなに良いことか! 死は厳粛なこと、罪に定められるのは身の毛もよだつこと、キリストから離れるのはぞっとするほど恐ろしいこと、罪のうちにあって死ぬのはすさまじいことだからである。願わくは神があなたを導き、こうした事がらをありのままに見せ、あなたを救ってくださるように。ご自分のあわれみのゆえに! 「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。
「主よ。わが魂(たま)さぐり、試させ給え、
よしわが心 我を責めずとも、
虚偽(あだ)し扮装(みかけ)の 歩みなきかを
汝が御目にて 吟味(けみ)させ給え。隠れし悪は 内にぞなきや?
知らざる罪に われふけらずか?
道踏み外し わが足を更(か)え
全く汝がみち 行かしめ給え」。
隠れている罪[了]
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