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人はなぜ救われるのか

NO. 115

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1857年2月1日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「しかし主は、御名のために彼らを救われた」。――詩106:8


 被造世界における神のみわざを眺めるとき、思慮深い人には、たちまち2つの疑問が浮かび上がる。それに答えない限り、私たちは、被造世界そのものの哲理および科学に達する手掛かりが得られないであろう。第一の疑問は、その起源に関するものである。こうしたすべては、だれが造ったのだろうか? 次の疑問は、その意図に関するものである。これらすべては、何のために造られたのだろうか? 第一の疑問、「これらすべては、だれが造ったのか」、には、誠実な良心と健全な精神の持ち主であれば、簡単に答えられよう。その人は、自分の目を上げて彼方にある星々を読みとるとき、その星々が黄金の文字でこの言葉を綴っているのを目にするからである。――《神》と。また、その人は、波浪を見下ろすときも、耳を誠実に開いていれば、1つ1つの波が、《神》、と宣言しているのを聞くであろう。たとい山々の頂を眺めるとしても、それらは、声に出して語りはしないが、沈黙という威厳ある答えで、こう云っているように思えるであろう。

   「われらを造るは 《天来》(あめ)の御手なり」。

山腹を流れるせせらぎや、雪崩の地響き、牛馬の鳴き声、鳥たちのさえずり、自然界のあらゆる声音に耳を傾けるなら、この疑問に対する答えが聞こえるであろう。「神が私たちの造り主です。神が私たちをお造りになりました。私たち自身ではありません」、と。

 次の、意図についての疑問――これらはなぜ造られたのか?――は、聖書を離れては、それほど容易に答えが出せない。だが聖書を眺めるとき、この事実が悟られる。――第一の疑問に対する答えが神であるように、第二の疑問に対する答えもまたしかりなのである。こうしたものは、なぜ造られたのだろうか? 答えは、神の栄光のため、神の誉れのため、神を楽しませるためである。他のいかなる答えも、理にかなうものではない。人が他のいかなる返答をあげようと、これ以外の何も完全に筋の通ったものではありえない。神が何の被造物もお持ちでなかった時のことを一瞬でも考えてみるとしたら、――すなわち、神おひとりが存在し、大いなる時の造り主、自存の孤立において栄光に富むお方、その永遠の孤独において神々しいお方であられた時のこと――「わたしだけだ。わたしのほかにだれもいない」――を考えてみるとしたら、この疑問――なぜ神は被造物たちを存在させるようになさったのか?――に対して、このように答える以外のすべをだれが有しているだろうか? 「神がそれらをお造りになったのは、ご自分の楽しみのため、またご自分の栄光のためである」、と。あなたは、神がそれらを造ったのは、ご自分の被造物たちのためだと云うかもしれない。だが私たちは答える。その当時、そこには、それらを必要とする何の被造物もいなかったのだ、と。私たちも、その答えが今は論理的に正しく聞こえるかもしれないことを認める。神は、ご自分の被造物たちのために収穫を作っておられる。ご自分の被造物たちを光と陽光で祝福するために、太陽を天空に吊り下げておられる。地上にいるご自分の被造物たちの暗闇を慰めるために、夜は月がその行路を歩むよう命じておられる。しかし、万物の起源にさかのぼるとき、最初の答えはこのこと以外の何物でもありえない。「それらは、神の楽しみのために存在しており、創造されたのである」。「主はすべてのものを、ご自分の目的のために、ご自分ひとりで造られた」*[箴16:4]。

 さて、被造世界のみわざにあてはまることは、救いのわざにも等しくあてはまる。目を高く上げて、天の床で明滅するあの星々を越えた高みを見るがいい。光よりも澄みきった白い衣を着た霊たちが、その威光において星々のように輝いているところを見るがいい。贖われた者たちが、その合唱交響曲とともに「喜びをもて御座をば囲む」ところを見るがいい。そして、こう問いかけてみるがいい。「この栄化された存在たちは、だれが救ったのか、また彼らは、何のために救われたのか」。私たちはあなたに告げる。ここでも、先の疑問に対して私たちが与えたのと同じ答えが返されるに違いない、と。――「神が彼らをお救いになったのだ。――神は、御名のために彼らを救われたのだ」。この聖句は、救いに関するこの2つの大きな疑問への答えである。だれが人間を救ったのか。また、なぜ彼らは救われたのか。「主は、御名のために彼らを救われた」。

 今朝、私は、この主題について調べてみようと思う。願わくは神が、私たちひとりひとりにとってそれを有益なものとしてくださり、私たちが「御名のために」救われる者たちとなれるように。この聖句を一言ずつ取り扱うことにすると、――そしてそれは、大方の人が理解するしかたであろう。――ここには4つのことがある。第一に、栄光に富む救い主である。――「主は……彼らを救われた」。第二に、恩顧を受けた民である。――「主は……彼らを救われた」。第三に、主が彼らを救われた天来の理由である。――「御名のために」。そして、第四に、克服された障害である。「しかし」という言葉の中には、何らかの困難が取り除かれたことがほのめかされている。「しかし主は、御名のために彼らを救われた」。《救い主》、救われた者たち、その理由、取り除かれた障害である。

 I. まず第一に、ここには《栄光に富む救い主》がおられる。「彼は、彼らを救われた」<英欽定訳>。「彼」という代名詞は、だれのことと理解すべきだろうか? おそらく話をお聞きの方々の多くはこう答えるであろう。「何と、主イエス・キリストが人間の《救い主》であられるに決まってますよ」。それは正しい。愛する方々。だが、真実のすべてではない。イエス・キリストは《救い主》であられるが、それに劣らず父なる神、また聖霊なる神も《救い主》であられる。天来の真理の筋道について無知な一部の人々は、父なる神のことを、ただ憤りと、怒りと、正義に満ちてはいても、全く愛を持たない《存在》であると考えている。彼らは、御霊なる神のことを、御父と御霊から発された単なる影響力と考えているかもしれない。さて、こうした意見ほど間違ったものはありえない。確かに御子は私たちを贖ってくださる。だが、御父は、私に代わって死ぬため、御子をお与えになったのである。その恵みから出た永遠の選びにおいて、私を選んでくださったのである。御父は私の罪を拭い去り、御父は私を受け入れ、キリストを通して私をご自分の家族に子として迎え入れてくださる。御子は、御父を離れては救うことができない。それは、御父が御子を離れては救うことができないのと同じである。また、聖霊について云えば、あなたがたは知らないだろうか? 御子が贖ってくださるお方だとしたら、聖霊は新しく生まれさせてくださるお方であることを。御霊こそ、私たちをキリストにある新しい被造物とし、私たちを新しく生まれさせ、私たちに生ける望みを持たせ[Iペテ1:3]、私たちの魂をきよめ、私たちの霊を聖化し、最後には私たちを、《いと高き方》の御座の前でしみなく、傷なく、愛する方にあって受け入れられた者として立たせてくださるお方なのである。あなたが《救い主》と云うとき、その言葉の中には、《三位一体》の神――御父、御子、聖霊――がおられることを思い出すがいい。この《救い主》は、1つの名前の下におられる3つの位格なのである。あなたは御父を離れて御子によって救われることはありえないし、御子を離れて御父によって救われることも、御霊を離れて御父と御子によって救われることもありえない。しかし、この方々は、創造において1つであったように、救いにおいても1つであり、私たちの救いのためにひとりの神という下で、ともに働いておられる。この神に、永遠の栄光が世々にわたって、とこしえまであるように。アーメン。

 しかし、ここで注意したいのは、この《天来の》存在が、いかに救いを全くご自分のものと主張しておられるかである。「しかし《主は》……彼らを救われた」。だがモーセよ。あなたはどこにいるのか? モーセよ。あなたは彼らを救わなかっただろうか? あなたが、あの杖を海の上に伸ばすと、それは2つに裂けた。あなたが天に祈りをささげると、蛙が押し寄せ、あぶが群がり、川は血と変じ、雹はエジプトの地を打った。モーセよ。あなたが彼らの《救い主》ではなかっただろうか? また、アロンよ。あなたは、神に受け入れられるいけにえの雄牛をささげた。モーセとともに彼らを荒野で導いた。あなたは、彼らの《救い主》ではなかっただろうか? 彼らは答える。「いいえ。私たちは器でしたが、主こそ彼らを救ったお方です。神は私たちをお用いになりましたが、神の御名にこそすべての栄光をささげなさい。私たちにはいかなる栄光も帰してはなりません」。しかし、イスラエルよ。あなたは強く力ある民だったではないか。あなたは自分で自分を救ったのではないだろうか? ことによると、葦の海が干上がったのは、あなた自身の聖さのためだったかもしれない。ことによると、2つに分かれた大水は、自らの岸辺に立った聖徒たちの敬神の念に恐れをなしたのかもしれない。ことによると、イスラエルを解放したのはイスラエル自身だったのかもしれない。否、否、と神のことばは云う。主が彼らを救われた。彼らが彼ら自身を救ったのでも、彼らの同胞たる人間が彼らを贖い出したのでもない。だがしかし、よく聞くがいい。一部の人はこの点に異議を唱え、人間が自分自身を救うのだと考える。あるいは、少なくとも、司祭たちや説教者たちがその手助けを行なえると考えている。これに対して私たちは云いたい。説教者は、神の下にあって、人間の注意を引いたり、警告したり、人間を目覚めさせる媒介となることはできる。だが、説教者は無であり、神がすべてである。これまでに、熾天使のような説教者の口から発されたことのある、いかに強力な雄弁といえども、神の聖霊から離れては無である。パウロも、アポロも、ケパも、何でもない。神こそ成長させてくださったお方であり[Iコリ3:6]、神にすべての栄光が帰されなくてはならない。私たちは、そこここで、こう云う人々に出会うことがある。「私は、誰それ氏によって回心させられた者です。私は、何とか教会の尊師、何某博士によって回心させられた者です」。よろしい。もしあなたがそうした人だというなら、私はあなたが天国に入るという望みを大して与えることができない。神によって回心させられた人しか、そこには行けないのである。人間による改宗者ではなく、主によって贖われた者だけが行くのである。おゝ、人を私たち自身の意見へと転向させるのは実に取るに足りないことである。だが人を私たちの神、主へと回心させる手段となるのは、すぐれて大きなことである。いつぞや私は、アイルランドに住む、とある善良なバプテスト派の教役者から一通の手紙を受け取った。彼は、私がアイルランドに渡って来ることを非常に熱心に願っていた。彼の云うところの、当地では低迷しているバプテスト派の利益を代表してほしい、そうすれば人々がもう少しバプテスト派のことを尊重するようになるかもしれない、というのである。私は彼に告げた。そんなことだけをするためなら、私はアイルランド海峡を渡ることはおろか、道路一本すら渡ろうとは思わない、と。私は、そうした目的のためアイルランドへ行くことなど考えるべきではない。だが、もし私が同地に行き、神の下にあって、キリスト者たちを生み出し、人々をキリストへと導く手段となることができるとしたら、私は、そうなった人々がその後どうするかは彼ら自身にまかせ、どの教派が神の真理に最も近いと彼らが考えるかは、神の聖霊の導きと示しにおゆだねするであろう。兄弟たち。私は、あなたがた全員をバプテスト派にできるかもしれないが、しかしあなたは、それによって全くましにならないであろう。私は、そうしたしかたでなら、あなたがた全員を回心させられるかもしれないが、そのような回心は、あなたがたを洗いきよめたあげくに一層大きな汚れへと陥らせるもの、回心させたあげくに聖徒にするのではなく偽善者にするものであろう。私は、十把一絡げの回心について、相当のことを目にしてきた。信仰復興論者たちがあちこちに立ち上がった。彼らは、人々の膝をがくがく震わせるような、雷鳴のごとき説教をしてきた。人々は云った。「何と素晴らしいお方でしょう! あの方は、一回の説教で途方もない数の人を回心させたのですよ」。しかし、一箇月後に、彼の回心者たちを探してみるがいい。彼らはどこにいるだろうか? そのうちの何人かは居酒屋にいるのが見られ、何人かは神を汚す悪態をついていているのが聞かれ、その多くはならず者となり、詐欺師となっているのが見いだされるであろう。なぜなら、彼らは神の回心者ではなく、人の回心者だったからである。兄弟たち。いやしくも、みわざがなされるのだとしたら、それは神によってなされなくてはならない。神が回心させてくださらないとしたら、永続するものは何1つなく、永遠にわたって益あるものは何1つないからである。

 しかし、ある人は答えるであろう。「よろしい。先生。ですが、人間は自分で自分を回心させるのですよ」。しかり。彼らはそうする。そして、それは立派な回心である。非常にしばしば、彼らは自分で自分を回心させる。しかしその場合、人が行なったことは、人によってだいなしにされる。ある日、自分を回心させた人は、次の日、自分の回心を打ち消す。彼の結んだ結び目は、彼の指で解くことができるものである。これを覚えておくがいい。――あなたは十何回でも自分を回心させられるかもしれないが、「肉によって生まれた者は肉」[ヨハ3:6]であり、「神の国を見ることはできません」[ヨハ3:3]。「御霊によって生まれた者」だけが「霊」であって[ヨハ3:6]、最後には、そうした者だけしか、かの霊の領域――霊的な事がらだけが《いと高き方》の御座の前に見いだされうる領域――に集められることはできないのである。私たちはこの大権を全く神にお渡ししなくてはならない。もし誰かが、神は《創造主》ではないと述べたなら、その人は不信心者と呼ばれるであろう。。もし誰かがその教理――神が万物の絶対的な《造り主》であられること――を侵害するとしたら、たちまちその人は野次り倒されるであろう。だがその人は最悪の不信心者というわけではない。最悪の不信心者とは、ずっとまことしやかである。それは、神を被造世界の御座から追い出すのではなく、あわれみの御座から追い出す人々、人間たちに向かって、人は自らを回心させることができるのだ、と告げる人々である。だが、神がそのすべてをなされるのである。「」だけが、偉大なエホバ――御父、御子、聖霊――だけが、その御名のために彼らをお救いになったのである。

 こうして私は努めて明確にこの天来の、また栄光に富む《救い主》の真理を述べようとしてきた。

 II. さて第二に、《恩顧を受ける人々》である。――「主は……彼らを救われた」。彼らとはだれだろうか? あなたは答えるであろう。「彼らは、この世で見いだされる限り最も尊敬すべき人々でした。非常に祈り深く、愛に満ち、聖く、値する人々でした。だからこそ――彼らが善良であったからこそ――、主は彼らをお救いになったのです」、と。たいへん結構。それはあなたの意見である。だが、私はあなたに、モーセが何と云っているか告げることにしよう。――「私たちの先祖はエジプトにおいて、あなたの奇しいわざを悟らず、あなたの豊かな恵みを思い出さず、かえって、海のほとり、葦の海で、逆らった。しかし主は、御名のために彼らを救われた」[詩106:7-8]。7節を見れば、彼らの性根がわかるであろう。第一のこととして、彼らは愚劣な者らであった。――「私たちの先祖はエジプトにおいて、あなたの奇しいわざを悟らず」。次のこととして、彼らは恩知らずな者らであった。――「彼らはあなたの豊かな恵みを思い出さなかった」*。第三のこととして、彼らは逆らい立つ者らであった。――「彼らは海のほとりで、逆らった」*。あゝ、こうした者らこそ、無代価の恵みが救った人々であった。こうした者らこそ、あらゆる恵みに満ちた神[Iペテ5:10]がへりくだってそのふところに入れ、新しくしてくださった男たちであり、女たちであった。

 最初に注目すべきは、彼らが愚劣な者らだったということである。神はご自分の福音を必ずしも常には賢く思慮ある者に送らず、愚か者たちへと送られる。

   「主は愚者(しれもの)を 取りて知らせり、
    いともくすしき 死に給う愛を」。

話をお聞きの方々。あなたが無知文盲で、目に一丁字もないからといって、救われることができないと思ってはならない。――あなたが今までずっと無知のきわみの中で育ってきており、自分の名前もほとんど書けないからといって、救われることなどありえないと想像してはならない。神の恵みはあなたを救うことができ、その後で、あなたに光を与えることができる。ひとりの兄弟教役者がかつて私に物語ってくれたある男は、とある村の中で間抜けとして通っており、常に頭のねじがどこか抜けていると考えられていた。だれひとり、彼に何かが理解できるなどとは思っていなかった。しかし、ある日、彼は福音が説教されるのを聞きにやって来た。それまでの彼は酔いどれた男で、せいぜいろくでなしになる才覚だけしか有していなかった。非常にありふれた種類の才覚である。だが主は、その言葉を彼の魂にとって祝福してくださり、彼は変えられた人格となった。そして、何にもまして驚嘆すべきことに、そのキリスト教信仰によって彼に与えられた何かが、彼の潜在的な精神機能を発達させ始めたのである。彼は、自分の生きがいとすべきものを見いだした。それで、自分にできることを試し始めた。手始めに、彼は自分の聖書を読みたいと思った。自分の《救い主》の御名を読めるようになりかたった。それで、長時間をかけて、たどたどしく拾い読みを続けた末に、ようやく1つの章を読むことができた。それから彼は祈祷会で祈るように頼まれた。ここには、彼の発話能力を実践させるものがあった。彼は、ほんの五語か六語しか祈ることができず、恥じ入って着席した。しかし、自宅の家族の中で祈りを続けることによって、彼は、他の兄弟たちのように祈れるようになった。このように彼は進歩し続け、ついには説教者となり、何とも異様なことに、突如として――時たまにしか講壇につくことのない教役者たちの間ではめったに見いだされることがないような、透徹した理解と思考能力を得たのである。不思議なことだが、恵みは彼の天性の諸力をすら発達させる役に立ち、彼に目標を与え、真心から確固としてそれを追求させ、そのようにして彼の秘めていたあらゆる才能を完全に引き出したのであった。あゝ、無知な人たち。あなたがたが絶望する必要はない。主はこうした人々を救われた。彼らの価値のためではない。――彼らには何もなかった。なぜ彼らが救われるべきだっただろうか。主が彼らを救われたのは、彼らの知恵のためではなかった。彼らが無知であったにもかかわらず、主の数々の奇蹟の意味を理解していなかったにもかかわらず、「主は、御名のために彼らを救われた」。

 さらに注目すべきは、彼らが非常に恩知らずな者らであったことである。だがしかし、主は彼らを救われた。主は彼らを何度となく救い出し、彼らのために強大な奇蹟を行なわれたが、彼らはなおも反抗した。あゝ、それはあなたに似ている。話をお聞きの方々。あなたは墓場の瀬戸際から何度となく救出された。神はあなたに、日々、家と食物を与え、あなたの必要を満たし、今のこの時に至るまで、あなたを守ってこられた。だが、いかにあなたは恩知らずであったことか。イザヤが云ったように、「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、わたしの民は知らない。イスラエルは悟らない」*[イザ1:3]。こうした人格をした者がどのくらいいるだろうか? 一年や二年では語り尽くせないほどの恩顧を神から受けていながら、自分は神のために何をしてきただろうか? 人は自分のために働かない馬を飼っておかないだろうし、自分を主人として認めない犬を飼うこともないであろう。しかし、ここには、神がおられるのである。神が日々彼らを守っておられたのに、彼らは神に背くことをふんだんに行ない、神のためには何1つ行なっていなかった。神がパンを彼らの口に入れてやり、彼らを養い、彼らの力を保っておられたのに、彼らは神に反抗し、神の御名を呪い、神の安息日を破ることに自分たちの力を費やしていた。「しかし主は、御名のために彼らを救われた」。こうした類の者らの何人かは救われた。今この場には、打ち勝ち給う恵みによって救われることになる者、神の御霊の強大な力によって新しい人となるだろう者が何人かいるものと私は願いたい。「しかし主は、御名のために彼らを救われた」。彼らを推すべきいかなる理由もないときに、またその忘恩ゆえに捨て去られて当然であるあらゆる理由があるときに、「しかし主は、御名のために彼らを救われた」。

 そして、もうひとたび注意すべきは、彼らが逆らい立つ者らであったということである。――「彼らは、海のほとり、葦の海で、逆らった」*。あゝ! この世の中には、神に逆らい立っている者らがいかに多くいることか! もし神が人のようであるとしたら、私たちの中のだれが今日ここにいられるだろうか? 私たちは、一度や二度、反抗されれば、堪忍袋の緒が切れてしまう。人によっては、一度でも刃向かわれると激怒してしまう。別の、もう少し温厚な人々は、何度か無礼を耐え忍ぶが、最後にはこう云う。「物事にも限度がある。私にはもう我慢がならない。今すぐそれをやめないと、私がやめさせてやるぞ!」 あゝ! もし神がそれほど怒りっぽかったとしたら、私たちは今どこにいただろうか? 神がこう仰せになったのは、実に至言であった。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なる。神であるわたしは変わることがない。さもなければ、ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされていたであろう」*[イザ55:8; マラ3:6]。彼らは逆らい立つ者らであったが、「しかし主は、御名のために彼らを救われた」。あなたは神に逆らい立ってきただろうか? 元気を出すがいい。もしあなたが悔い改めるなら、神はあなたを救うと約束しておられる。そればかりか、神は今朝、あなたに悔い改めを与え、あなたに罪の赦しすら与えることがおできになる。というのも神は、御名のために、逆らい立つ者たちをお救いになるからである。私は、話をお聞きの方々の中に、こう云っている人の声が聞こえるような気がする。――「そりゃ、先生。文字通り罪を奨励しているようなもんですよ」。本当か! なぜ? 「なぜなら、先生は最悪の人間たちに語りかけてるってのに、奴らが救われると云っているじゃないですか」。お聞きするが、方々。私が最悪の人間たちに向かって語りかけているとき、私はあなたに語りかけていただろうか、いなかっただろうか? あなたは云うであろう。「いいや。私はだれよりも上品な、最上の人間ですよ」。よろしい。ならば、私はあなたに向かって説教する必要は全くない。というのも、あなたは、自分にその必要が全くないと考えているからである。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」[マコ2:17]。しかし、このあわれな人々、あなたによると、私が罪を奨励しているというこの人々は、語りかけられる必要があるのである。私は、あなたのもとを去ることにしよう。では、お元気で! あなたは、あなた自身の福音にすがりつくがいい。それによってあなたが天国への道を見いだすかどうか、はなはだ疑問だが。否。疑問はない。私は、あなたが見いださないと知っている。あなたがあわれな罪人として、キリストのおことばによってキリストにすがりつき、主の御名のために救われるよう至らされない限り、あなたに天国への道など見いだせない。しかし、私はあなたに暇乞いをし、私の道を進み続けよう。しかし、なぜあなたは私が人々の罪を奨励すると云ったのだろうか? 私は彼らが罪から離れ去ることを奨励しているのである。私は一言も、神が逆らい立つ者らをお救いになり、それから彼らを、以前と変わらず神に逆らわせ続けておいたなどと云ってはいない。神が邪悪な人々を救ってから、以前と変わらず罪を彼らに犯させ続けたなどと云ってはいない。しかし、あなたは「救われた」という言葉の意味を知っているであろう。私はそれを先日の日曜日の朝に説明した。「救われた」という言葉は、決して単に人々を天国へと連れて行くことだけを意味するものではなく、それ以上のことを意味している。――彼らをその罪から救うことを意味する。彼らに新しい心と、新しい霊と、新しいいのちを与えることを意味する。彼らを新しい人にすることを意味する。キリストは最悪の人間たちを取り上げて、それを聖徒らになさる。こう語ることのどこに放縦なものがあるだろうか? たといあるとしても、私には見てとれない。私がただ願うのは、主がこの会衆の中の最悪の人間たちを取り上げて、生ける神の聖徒らとしてくださることである。そのとき、そこに放縦さははるかに少なくなるであろう。罪人よ。天の聖徒たちは、かつて、以前のあなたと同じくらい悪人であった。あなたは酔いどれで、御名を汚す悪態をつく者、不潔な人間だろうか? 「彼らの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、彼らは洗われ、――聖なる者とされたのです」*[Iコリ6:11]。あなたの衣は黒いだろうか? 彼らに、その衣がかつて黒くなかったかどうか、問うてみるがいい。彼らは告げるであろう。「ええ。私たちは自分の衣を洗われたのです」。もし彼らが黒くなかったとしたら、洗われる必要ななどなかったであろう。「彼らは……その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」*[黙7:14]。ならば、罪人よ。もし彼らが黒かったとしたら、そして救われたとしたら、なぜあなたがそうならないことがあろうか?

   「主のあわれみは 豊けく代価(かた)なし、
    なぜ、わが魂(たま)よ、汝がためならずや?
    イエスは死にたり 十字架の上に、
    わが魂(たま)よ、なぜ、汝がためならずや?」

元気を出すがいい。悔悟する者よ。神はあなたをあわれんでくださる。「しかし主は、御名のために彼らを救われた」。

 III. さて私たちは第三の点に至る。――《救いの理由》である。「主は、御名のために彼らを救われた」。神が人を救う理由はただ1つ、その御名のためにほかならない。罪人のうちに、その人が救われる資格を与えるもの、あわれみに対して推薦するものは何もない。ある人が救われるべきだという動機を左右するもの、それは神ご自身のお心のほか何1つありえない。ある人は云うであろう。「神は私を救うであろう。なぜなら、私は非常に廉潔だからだ」。方々。神はそのようなことを決してなさらないであろう。別の人は云うであろう。「神は私を救うであろう。なぜなら、私には非常な才質があるからだ」。方々。神はそうなさらないであろう。あなたの才質! 何と! あなたが、よだれを流す、うぬぼれきった痴愚であるあなたが? あなたの才質など、かつて御座の前に立っていた、かの御使いのそれとくらべれば無でしかない。だがその御使いは罪を犯し、今や永遠に底知れぬ所に投げ入れられているのである! もし神が人々をその才質ゆえに救うとしたら、神はサタンを救っていたであろう。というのも、彼には十分な才質があったからである。あなたの道徳や善良さについて云えば、それは不潔な着物でしかなく[イザ64:6]、神は決してあなたを、あなたの行なういかなることのゆえにもお救いにならないであろう。神が私たちから何かを期待しておられたとしたら、私たちの中のいかなる者も、決して救われなかったであろう。私たちは純粋に、また唯一、神ご自身に結びついた理由、また神ご自身の胸のうちに存していた理由のゆえに救われるに違いない。神の御名はほむべきかな。神は「御名のために」私たちを救ってくださる。それは、どういう意味だろうか? それは、こういう意味だと思う。神の御名とは、神の人格、神の数々の属性、神のご性質である。そのご性質のゆえに、その数々の属性のゆえに、神は人を救われたのである。そして、ことによると、私たちはこのことも含めてよいかもしれない。「わたしの名がその者のうちにある」[出23:21]。――すなわち、キリストのうちにある。神が私たちを救われるのは、神の御名であられるキリストのゆえである。では、それはいかなる意味だろうか? 思うにそれは、こういう意味である。

 神が彼らを救われたのは、まず最初に、神がご自分のご性質を明らかにお示しになるためであった。神は全く愛であられた。そして、それを明らかに示すことを望まれた。神は、太陽を、月を、星々を造り、緑の草と、笑いさざめく大地の上に花々を撒き散らしたとき、それをお示しになった。からだにとってかぐわしい大気を造り、目を朗らかにする日差しを造ったとき、神はその愛を示された。神は、衣服により、また地中深く蓄えておられた燃料により、冬ですら私たちに暖かさを与えてくださるが、それをさらに越えてご自分を啓示することをお望みになった。「いかにすれば、わたしが彼らをわたしの無限の心で愛していることを彼らに示せるだろうか? わたしは、わが《子》を遣わして、彼らの最悪の者らを救うため死なせることにしよう。そのようにして、私の性質を明らかに示そう」。そして神はそれをなされた。神は、その力と、その正義と、その愛と、その忠実さと、その真理とを明らかに示された。ご自分のすべてを、救いという大いなる台座の上で明らかに示された。それはいわば、神が人間の前に姿を現わすために登られた露天舞台なのである。――救いという露天舞台――ここにおいてこそ神は、人々の魂を救うことにより、ご自分を明らかに示しておられるのである。

 さらに神がそうなさったのは、ご自分の御名に対する嫌疑を晴らすためであった。ある人々は、神が冷酷だと云っている。彼らは意地悪くも、神を暴君だと呼んでいる。「あゝ!」、と神は云っておられる。「だが、わたしは罪人たちの中の最悪の者を救い、私の名に対する嫌疑を晴らすことにしよう。わたしは、かの恥辱を拭い去ろう。かの中傷を取り除こう。もはやだれにも――下卑た嘘つきでもない限り――そう云うことは許すまい。というのも、わたしは豊かにあわれみを注ぐからだ。わたしはこの汚点を除き去ろう。そのとき彼らには、私の偉大な名が、愛の名であることを見てとられよう」。そして神はまた云われた。「わたしはこのことを、わたしの名のために行なうであろう。すなわち、こうした者たちに私の名を愛させるためにそうしよう。たとい最上の人間たちを取り上げ、彼らを救うとしても、彼らがわたしの名を愛するだろうとわたしは知っている。だが、もしわたしが最悪の人間たちを取り上げるなら、おゝ、いかに彼らがわたしを愛するようになることか! もしわたしが行って、地上のかすのような者たちの何人かを取り上げ、彼らをわたしの子どもとするとしたら、おゝ、いかに彼らは私を愛することか! そのとき彼らは私の名にすがりつくであろう。それを楽の音にもまして甘やかなものと考えるであろう。それは彼らにとって、東洋の商人たちの甘松香にもまして貴重なものとなるであろう。彼らはそれを金よりも、しかり、多くの純金よりも尊ぶであろう。わたしを最も愛する者は、最も多くの罪を赦された者である。彼は多くを負っているので、多く愛するであろう」。これこそ、神がしばしば最悪の人間たちを選んでご自分のものとなさる理由である。とある古の著者はこう云っている。「天国の彫像たちの中には、こぶだらけの木からできたものがある。天国の王たる神の神殿は、杉の木でできているが、その杉の木は神が伐採するまでは、ことごとく節くれ立ったこぶだらけの木だったのである」。神は最悪の者を選んでは、ご自分の巧みな手際と技量を表わし、名を成そうとされた。こう書かれている通りである。「これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる」[イザ55:13]。さて、話をお聞きの愛する方々。あなたがいかなる階級の出であれ、ここには、あなたが考察する十分な価値のあるものがある。私は、それを差し出さなくてはならない。すなわち、――もし救われるならば、私たちは神のため、神の御名のために救われるのであって、私たち自身のためではない、ということである。

 さて、このことによって万人は救いに関しては同一水準に置かれてしまう。かりに、この公園にやって来る際には、いかなる者も、私の名前を入園許可証として口にすべきであるという規則があったとしよう。その法規によると、いかなる者も、身分や称号にかかわりなく、ある特定の名前を用いるのでない限り、入園が許されないのである。そこに、ひとりの殿様がやって来る。彼はこの名前を用いて、中に入る。そこに、ひとりの乞食がやって来る。つぎはぎだらけの服をまとっている彼も、この名前を用いる。――法によると、この名前を用いることによってのみ、入園が許可されるのである。――彼はそれを利用して、中に入る。というのも、そこには何の差別もないからである。それで、淑女の方々。もしあなたがやって来るとしたら、いくらあなたが婦徳の鑑であったとしても、主の御名を用いなくてはならない。地下室や屋根裏に住む、貧しく不潔な方々。もしあなたがやって来るとしても、主の御名を用いるなら、扉はパッと大きく開け放たれるであろう。キリストの御名を口にするあらゆる人には救いがあり、その他のいかなる者にも救いはないからである。これは道徳家の高慢を引きずり下ろし、自分を義とする人々のうぬぼれを失墜させ、私たち全員を、咎ある罪人として神の御前では同じ立場に立たせ、主の御手からあわれみを受けさせる。「御名のために」、そして、その理由だけのために。

 IV. 私はあなたを長く引き留めすぎてしまった。しめくくりに、「しかし」、という言葉の中に含まれる、種々の障害が取り除かれることに注目しよう。私はそれを、いささか興味深い形のたとえ話で行なうであろう。

 昔々、《あわれみ》が彼女の雪白の御座に着座していた。それをぐるりと取り囲む供回りの面々は愛であった。そこへ、ひとりの罪人が彼女の前に連れて来られた。それは《あわれみ》が救おうと心に決めていた者であった。ふれ係は、喇叭を吹き鳴らし、それを三回大きく鳴らした後で云った。「おゝ、天よ。地よ。地獄よ。この日、私はお前たちを《あわれみ》の御座の前に来るよう召し出そう。この罪人が救われるべきでないと云うのであれば、その理由を告げてみよ」。そこに、その罪人は恐れおののきながら立っていた。彼は、《あわれみ》の大広間に押し寄せて来るであろう、おびただしい数の反対者たちがいることを知っていた。彼らは、瞋恚に燃えたまなじりを決して云うはずであった。「こいつが救われることなどあってはならない。こいつに命拾いなどさせるものか。こいつは失われなくてはならない!」 喇叭が吹き鳴らされたが、《あわれみ》は、落ち着き払ってその御座に着いていた。そこへ烈火のごとく激しい顔つきをした者がずかずかと入ってきた。その頭は光でおおわれ、その声は雷鳴のようであり、その目からは稲妻の閃きがほとばしっていた。「そちは、どなたですか?」、と《あわれみ》が云った。彼は答えた。「私は《律法》、神の律法だ」。「して、その方の申し条はいかに?」 「私は、こう云いたい」、そして彼は一枚の石の板を掲げた。その両面に文字が書き記されていた。「この十の戒めを、そのろくでなしは破ったのだ。私の要求は血だ。というのも、こう書かれているからだ。『罪を犯した者は、その者が死ぬ』[エゼ18:4]。こいつが死ななければ、正義は死ぬのだ」。このみじめな男はからだを震わせ、膝をがくがく鳴らし、その骨髄は火にあぶられた氷ででもあるかのように身の裡で解けていく。彼は恐怖におののく。すでに彼は、雷電が自分に向かって発されたのが見えるような気がする。稲妻の矢が自分の魂に突き刺さるのが見え、地獄が自分の前で大きく口を開いたことが想像され、自分が永遠に投げ捨てられたと考える。しかし《あわれみ》は、にっこりと微笑んで云う。「《律法》よ。わらわがそちに答えましょう。このみじめな者は死に値します。正義は、彼が滅びることを要求しています。――わらわは、そちの主張を認めます」。おゝ! この罪人がいかにがたがたと震えることか。「しかし、そちらに、今日わらわとともに来られたお方がおられます。わらわの王、わらわの主、その御名はイエスです。このお方がそちに、いかにしてその負債が払われうるか、また、いかにその罪人が自由の身になれるかをお告げになるでしょう」。そのときイエスがお語りになり、こう云う。「おゝ、《あわれみ》よ。わたしはあなたの命令に従おう。わたしを捕らえるがいい、《律法》よ。わたしを園に置き、わたしに血の滴を汗と流させ、それから木に釘付けるがいい。わたしの背中を鞭で打ってから、わたしを殺すがいい。わたしを十字架にかけるがいい。私の手足から血を流させるがいい。わたしを墓に下らせ、その罪人が負っているすべての負債をわたしに払わせるがいい。わたしが彼の代わりに死のう」。そこで《律法》は勇み立ってこの《救い主》を鞭で打ち、彼を十字架に釘付けては、満足しきった顔つきを浮かべて戻ってくると、再び《あわれみ》の御座の前に立った。そこで《あわれみ》は云った。「《律法》よ。それで、そちに何か云うことはありますか?」 「何もない」、と彼は云う。「もう何もない、美しい奥方」。「何と! そちの戒めの1つたりとも、この男を責め立てていないのですか?」 「ああ。1つたりともない。こいつの身代わりのイエスは、1つ残らずそれを守りきったし、――こいつの不従順の罰を支払ったのだ。だから私は今、こいつを罪に定める代わりに、正義の負債として要求する。こいつが無罪放免されることを」。「ここに立ちなさい」、と《あわれみ》は云う。「わらわの御座に着きなさい。わらわとそちは、ここで一緒に、別の者を召還することにしましょう」。喇叭が再び吹き鳴らされる。「さあ来よ。この罪人に対して云いたいことがある者はみな、彼が無罪放免されてならないわけを語るがいい」。すると別の者がやって来る。――この罪人をこれまでしばしば悩ませてきた者である。その声は、《律法》ほど大きくはないが、それでも心を刺し貫き、ぞっとさせるような響き――それが囁くときでさえ、短剣で切りつけるような声色の持ち主である。「そちの名は?」、と《あわれみ》が云う。「私は《良心》です。この罪人は罰されなくてはなりません。彼は神の律法に途方もなく逆らってきたので、罰を受けなくてはならないのです。私がそれを要求します。そして、私は彼が罰されるまで、あるいは、その後までも彼を責め立てます。というのも、私は彼の後を墓場までついて行き、死んだ後も言葉に尽くせぬ激痛で彼を迫害するつもりだからです」。「いいえ」、と《あわれみ》は云う。「われわの話を聞きなさい」。そして、彼が口を閉ざしている間、彼女はヒソプの一束[出12:22]を取って、《良心》に血を振りかけて、こう云う。「わらわに聞くがいい。《良心》よ。『御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます』[Iヨハ1:7]。さて、何かそちに云うことはありますか?」 「何も」、と《良心》は云う。「何もありません。

   『かれ覆われぬ その不義を。
    断罪(さばき)より かれ自由なり』。

今後一切、私は彼を悩ましません。私は彼にとって優しい良心となってやりましょう。私たちの主イエス・キリストの血のゆえに」。喇叭が三度目に鳴り響き、深淵のどん底の墓所から、唸り声とともに獰猛な顔つきの黒い悪鬼がやって来た。その目は憎悪をたたえ、その眉宇には地獄のような威厳がただよっている。彼は問われる。「そちには、この罪人に何か申すことがあるのですか?」 「ああ」、と彼は云う。「あるとも。こいつは地獄と盟を結んでたんだ。墓場と契約してたんだ。ここに、こいつの筆跡の署名があらあな。こいつはな、自分の魂など滅ぼしてしまえと酔った勢いで、神に向かって云ったのよ。金輪際、神に立ち返ることなどしねえと誓いまで立てたんだ。見ろよ、こいつと地獄との契約書だぜ!」 「それを見せてもらいましょうか」、と《あわれみ》が云うと、それが手渡される。その間、この獰猛な顔をした悪鬼は、この罪人を睨みつけ、その暗黒の目つきで相手を刺し貫いていた。「あゝ! しかし」、と《あわれみ》は云う。「この男には、この証書に署名する何の権利もなかったのです。人は、他人の持ち物を署名して譲り渡してはなりません。この男は、とうの昔に買い取られて、代金も支払われていたのです。彼は自分自身のものではありません。死を相手にしたこの契約は無効です。地獄とのこの盟約は、完全にご破算です。サタンよ、立ち去りなさい」。「いやだね」、と彼は再びわめく。「俺には、まだ云うことがあるぞ。こいつは、いつだって俺のダチだったんだ。俺が何かほのめかすたびに、へいこら従ってたもんだ。こいつは福音など蔑んでた。天の威光など馬鹿にしてた。こいつが罪を赦されるっていうのに、俺様は自分の地獄のねぐらへ引っ込み、永遠に咎の罰を忍ばなきゃならねえのか?」 《あわれみ》は云う。「悪鬼よ、立ち去りなさい。彼がそうしたことをしていたのは、彼が新しく生まれる前のことです。ですが、この『しかし』という言葉が、それらをみな拭い去っています。そなたの地獄に行きなさい。これを、そなたに加えられる鞭のもう一打ちとするがいい。――この罪人は罪を赦されるが、そなたは決して赦されないのです。陰険な悪鬼よ!」 それから《あわれみ》は、微笑みを浮かべながらこの罪人の方を向いて云う。「罪人よ。喇叭が鳴るのは今度が最後ですよ!」 それが再び吹き鳴らされた。だが、だれも答える者はいなかった。そこで、その罪人は立ち上がった。そこで《あわれみ》は云った。「罪人よ。自分でこう問うてみなさい。――天に、地に、地獄に、だれか自分を罪に定めることができるのかと問いなさい」。そこで彼が地獄をのぞき込むと、サタンがそこに横たわって、自分の鉄鎖にかじりついていた。また彼が地上を眺めると、地は沈黙していた。それから彼は、信仰の威厳のうちに天国そのものにすら上って、こう云った。「神に選ばれた人を訴えるのはだれですか? 神でしょうか?」 すると、答えがやって来る。「いいえ。神が義と認めてくださるのです[ロマ8:33]」。「キリストですか?」 甘やかにこう囁かれる。「いいえ。彼が死んでくださったのです」。そこであたりを見回して、罪人は喜ばしげに叫ぶ。「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、だれが私を引き離すのですか?」 そして、一度は罪に定められていたこの罪人は、《あわれみ》のもとに戻ってくる。彼女の足元にひれ伏して、彼は、今後は永遠に彼女のものとなることを誓う。もし彼女が彼を最後まで保ってくれ、彼を彼女の望み通りの者とならせてくれるならば、と。それからは、二度と喇叭が吹き鳴らされることはなく、御使いたちは喜んだ。天国は喜色をたたえた。その罪人が救われたからである。

 こうして私は、見ての通り、人の呼ぶところの、劇的な脚色によって事を物語った。だが、それが何と呼ばれようとどうでもよい。これは、何としてもそうできない場合に、耳をとらえるための一方法である。「しかし」。そこにおいて、障害物は取り除かれている! 罪人よ。その「しかし」が何であろうと、それは決して《救い主》の愛を減じさせはしない。それを小さくしはしない。むしろ、それは同じものであり続ける。

   「咎ある魂(たま)よ、逃れ来よ、
    主のみもとにて、傷は癒えん。
    こは栄えある 福音の日、
    代価(かた)なき恵み 満ちあふる。
    来よ、主のもとへ、罪人よ、来よ」。

膝まずき、涙しながら、悲しき告白を行なうがいい。主の十字架を仰ぎ、その身代わりを見るがいい。信じ、そして生きるがいい。あなたがた、ほとんど悪鬼となっている人たち。あなたがた、罪の最果てまで突き進んでしまった人たち。今イエスは仰せになっている。「もしあなたが、わたしを必要だとわかっているなら、わたしのもとに立ち返るがいい。わたしはあなたをあわれもう。わたしたちの神に帰るがいい。豊かに赦してくださるのだから」*[イザ55:7]。

  

 

人はなぜ救われるのか[了]

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