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貧しい者への宣教

NO. 114

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1857年1月25日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです」。――マタ11:5


 キリストの先駆者ヨハネには、キリストが人となって来た後も、また、人々に間に公然とご自分を現わされた後も、ヨハネにつき従い続ける者たちがいた。こうした弟子たちは、イエスがメシヤかそうでないかについて疑いをいだいていた。ヨハネ自身は、この問題について何の疑いもいだいていなかったと思う。すでに彼は、この件に関してはっきりとした啓示を受け、堅固な証言をしていたからである。しかし、彼らの疑いを取り除くために、ヨハネは自分の弟子たちに、このような言葉を告げた。「行って、自分たちであの方に尋ねてみるがいい」。こういうわけで、彼は彼らを派遣して、こう云い送ったのである。「お教えください。おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」*[マタ11:3]。イエス・キリストは、その説教を続けながら、「しばし待って、あなたがたの答えを受けなさい」、と云われた。そして、「わたしがそのメシヤです」、という肯定的な答えを与える代わりに、こう云われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです」[マタ11:4-5]。それは、こう仰せになるかのようであった。「それがわたしの答えです。こうした事がらがわたしの証しです。――これは、わたしが神から来た者であると証しする一方で、わたしがメシヤであることを証ししているのです」、と。これがメシヤについて預言されていた事がらであることに注目するとき、あなたはこの返答の真実さと力強さを見てとるであろう。メシヤは、まさにそのときイエスが行なっておられたような事がらを行なうと預言されていたのである。イザヤ書35章5節、6節ではメシヤについてこう云われている。「そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ」。ユダヤ人たちは、このことをあまりにも忘れすぎていた。彼らは単に、現世的な壮麗さと威厳を身にまとったメシヤしか待ち望んでおらず、イザヤの教えを見過ごしてしまっていた。メシヤは、「悲しみの人で病を知って」いる[イザ53:2]お方なのである。そればかりか彼らは、栄光に富むお方、王の《王》、主の《主》たるお方の到来に伴うと預言されていた種々の奇蹟をも、見ての通り看過していた。イエスはこのことを、そのお答えとされた。――ヨハネの問いを実際的なしかたで証明することである。その証明は、絶対的に確実なものであった。しかし、主は単に種々の奇蹟に言及したばかりでなく、それを越えた証拠をも彼らにお与えになった。――「貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです」。これもまた、主がメシヤであるという、1つの証拠であった。というのも、かの偉大なメシヤ的預言者――イザヤ――は、「彼は貧しい者に福音を伝える」*[イザ61:1]、と云っていたからである。そして、イエスがそうしておられたことは、主がイザヤの意図していた者であると証明していた。それだけでなく、ゼカリヤも、メシヤにつき従う貧しい者たちからなる会衆について言及しており、そのことによって如実に、貧しい者への宣教者、イエス・キリストの到来を予告していた。

 しかしながら、今朝の私は、こうした事情について詳しく語ろうとは思わない。話をお聞きの方々すべてにとって、ここにイエス・キリストがシロ、あるいはメシヤという名で予告されていたお方である十分な証拠があることは明らかであるに違いない。私たちはみなそれを信じており、それゆえ、あなたがすでに受け入れていることを証明しようとする必要はほとんどない。むしろ私が今朝、本日の聖句を選んだのは、いかなる国のいかなる時代にも常に福音の目印となるべきものの1つを示すためである。「貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです」。これは、その semper idem[同一の刻印]たるべきである。そして私たちの信ずるところ、貧しい者に福音が宣べ伝えられていないところでは、福音の経綸からの逸脱があり、福音の経綸の根本的特徴であり特色であるべきものが捨て去られているのである。「貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです」。

 私はこの言葉に、3つの翻訳がありえることを見いだした。それゆえ、この聖句の3つの訳文を組み込んだ、3つの項目を立てることにしたい。第一のものは、英欽定訳の訳文である。「貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです」。これは、ティンダル訳の訳文でもある。第二のものは、クランマー訳、およびジュネーブ訳の訳文である。「貧しい者は福音化されているのです」。すなわち、彼らは単に福音を聞くだけでなく、それによって影響されているのである。――貧しい者はそれを受け入れているのである。最後のものは、何人かの卓越した著述家たちの訳文であり、何にもまして、ウィクリフの訳文である。これを読んだとき私は面白く感じた。とはいえ、これが他のいかなる訳にも劣らず正しいものであると信じている。ウィクリフはこれをこう訳している。――「貧シキ者、福音ノ説教ニ取ラレテゴザル」。この動詞は、受動態と等しく能動態にも訳せる。「貧しい者は、福音の説教を取りつつある」。これが、あらゆる時代における福音の経綸の目印の1つたるべきである。

 I. さて第一に、《英欽定訳》である。「貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです」。これはキリストの時代にそうであったし、キリストの福音にとって、時の終わりに至るまでそうあるべきことである。世に登場した、ほぼすべての詐欺師は、主として富者や、権力者や、尊敬すべき人々に狙いを定めてきた。貧者相手の宣教であることを自分の説教の目立った特徴とし、それに価値を置いていたような詐欺師など、なきにひとしい。彼らは君主たちの前に出ていっては、自分の教理を宣伝した。貴族たちの大広間で、自分の偽りの啓示を長々と論じたがった。彼らの中にはほとんど、いわゆる「豚のような大衆」というひどい呼ばれ方をしている人々に向かって語りかけようとする者、キリストの福音の栄光に富む事がらを彼らに説き聞かせることに価値があると考えた者はいなかった。しかし、キリストの経綸の喜ばしい目印の1つは、主が、貧しい者を第一の目当てとされたということである。「貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです」。主がそうされたのは賢いことであった。もしある建物を燃やしたければ、基部に火をつけるのが最善である。それで私たちの《救い主》は、世を救い、あらゆる種別、あらゆる地位の人々を回心させようとなさったとき、最下層の身分から始め、その火が上へ上ってくるようにされたのである。貧者によって受け入れられたものは、究極的には主の恵みにより、富者にも受け入れられることになると、よくご存じだったからである。それにもかかわらず、主はこのことをご自分の弟子たちにお与えになった。ご自分の福音の目印とすることをお選びになった。――「貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです」。さて、私は今朝いくつかのことを云わなくてはならない。それは、貧しい者に福音が宣べ伝えられるべきだとしたら、絶対に必要であると思われることである。

 第一のこととして、こう云わせてほしい。福音は、貧しい者がやって来て、それを聞くことができる所で宣べ伝えられなくてはならない。もし貧しい者がやって来ることも、福音を聞くこともできないとしたら、いかにして貧しい者に福音が宣べ伝えられていることになるだろうか? だがしかし、わが国の礼拝所のうち、彼らが行くことのできない所、行けたとしても下等な者としてしか行けない所が、いかに多くあるだろうか? 彼らは、後ろの座席に座ることはできても、他の人々のように名を馳せることも、認められることもない。こういうわけで、大群衆を収容するに足るだけ大きな礼拝所が絶対に必要なのであり、またさらに、こういうわけで、「街道や垣根のところに出かけて行く」[ルカ14:23]責務があるのである。もし貧しい者に福音が宣べ伝えられるべきだとしたら、私たちは彼らがそれを得られるところに福音を携えて行かなくてはならない。もし私が英国の民衆に宣べ伝えたければ、ヒマラヤ山脈の山頂の1つに立って説教し始めても何の役にも立たないであろう。彼らは、そこにいる私の話は聞けないであろう。

 また、流行界の会衆のために豪奢な構造物を建築しておきながら、貧しい者に宣べ伝えようと考えることも、まず何の役にも立たない。彼らは、そんなところに行くことはできない。ホッテントットの土人たちがアフリカからはるばる旅をして、この場にいる私の話を聞きに来ることができないのと同じである。私は、彼らがこんな場所に来ることを期待すべきではないし、彼らも喜んでここに入ろうとはしないであろう。ならば福音は、貧しい者がやって来ようとする所で宣べ伝えるべきである。そして、もし彼らがそれを求めてやって来ようとしなければ、それを彼らのところに持って行こうではないか。私たちには、彼らを収容できる場所があるべきであり、彼らが他のいかなる地位や状況の人々とも同じくらい重要視され尊重されるような場所があるべきである。このことを唯一の目的として、私は、大礼拝所を建築すべく、そのため熱心に労してきたのである。なぜなら、ニューパーク街会堂に属する私の会衆の大多数は貧しいが、場所に余裕がないために、どうしてもその扉の中に入ることのできない貧しい人々が、なおも多数いるからである。あなたは私に、なぜ街路で説教しないのかと尋ねる。答えよう。私は喜んでそうしたいし、ロンドン以外のあらゆる場所では常にそうしている。だが、ここではそうすることができない。途方もない治安妨害となることが目に見えているからである。ここでは、いかなる大群衆が集まって来ざるをえないか、想定することも不可能なのである。前回、野外で説教したときの私は、一万二千人の人々を見て身震いした。それゆえ、少なくとも当面は――私の話を聞きに来る人がもっと少なくなるという幸いな時が来るまでは――そうしたことを断念するのが最上であると考えたのである。そうでない限り、私の心は野外礼拝を好むものである。私はそれを他の至る所で実行しており、神にこう祈るものである。願わくは、わが国の教役者たちに熱心さと真剣さが与えられ、彼らが福音を、町通りや、街道や、裏道へと携えて行き、家が一杯になるように、無理にでも人々を連れて来させるように、と。おゝ、神が私たちにこうした、ご自分の尊い恵みをくっきりと示す目印――貧しい者に福音が宣べ伝えられていること――を与えてくださるとしたら、どんなに良いことか!

 「しかし」、とあなたは答えるであろう。「彼らが来ることのできる教会や会堂は山ほどあるではありませんか」。答えよう。しかり。だが、それは事がらの半分でしかない。貧しい者に福音が宣べ伝えられるようになる前に、福音は魅力的に宣べ伝えられなくてはならない。何と、現在のようなしかたで宣べ伝えられている限り、人類の大多数にとって、福音には何の魅力もない。告白すると私は、激しい頭痛を感じて眠れないときなど、どこかの物憂げに話をする教役者がやって来て、説教を聞かせてくれれば良いのに、そうすれば、確実に眠りにつけるものを、と感ずるようなことがある。私は、催眠性の影響力を有する人々の話を聞いたことがあり、そうした雄弁が及ぼされれば大いびきをかくことができるからである。しかし、貧しい者が、そうした説教者の話を聞きにやって来るとはまず考えられない。もし彼らに向かって高雅な言葉遣いで――彼らにはチンプンカンプンの美文調で――宣教がなされるとしたら、貧しい者に福音が宣べ伝えられていることにはならないであろう。というのも、彼らはそれを聞きにやって来ないであろうからである。そこには、彼らにとって魅力的な何かがなくてはならない。私たちは、キリストがなさったように説教しなくてはならない。主がなさったように逸話を告げ、物語や、たとえ話を語り、身を低くして、福音を魅力的にしなくてはならない。古の清教徒たちのもとに会衆が集まってきた理由は、こうである。――彼らは、聴衆に無味乾燥な神学など与えなかった。それを例証した。あれこれの古典書から奇抜な逸話を示した。ここには詩歌の一節、そこここには軽妙な軽口や駄洒落を差し挟んだ。――これは、近頃では他の何にもまさる罪中の罪であるが、こうした説教者たちによって絶えず行なわれていたことなのである。そして彼らを私は、講壇の雄弁さの鑑として常に尊敬するものである。キリスト・イエスは魅力的な説教者であった。主は、何にもまして真珠を黄金の額に入れ、そのようにして民衆の注意を惹きつけようとしておられた。主は、わが国の都市部の善良な兄弟たちのように、ご自分を1つの教区教会に押し込めて、十四、五人の大会衆相手に説教することに甘んじてはおられなかった。むしろ、人々がぜがひでも行って話を聞かなくてはならないと感じさせるような様式で説教しようとしておられた。人々の中には、歯ぎしりして、憤りながら御前を去っていった者もいたが、多くの群衆はなおも主に群がって、その話を聞き、癒されようとした。この説教者たちの《王》の話を聞くのは、決して退屈きわまりないお務めなどではなかった。主は退屈するには真剣すぎ、理解不能になるには人間味にあふれすぎていた。私の信ずるところ、このことが真似されない限り、貧しい者に福音が宣べ伝えられることはないであろう。興味深い様式を採用して、人々に話を聞かせるようにしなくてはならない。しかし、もし私たちがそうした様式を採用するとしたら、人は私たちを道化じみた者、野卑な者、云々と呼ぶであろう。神をほむべきことに私たちは、野卑さとは、一部の人々が考えるものとは非常に異なっていることをとうの昔に学んでいる。私たちは、キリストのためには喜んで道化者となることを教えられている。魂の救いが見られる限り、私たちが自分の行き方を変えることはまずないであろう。私は、先の一週間のあいだ、社会の最底辺にいた人々、最も卑しい類の罪人たち、最大級のそむく者たちが大勢、この場所でなされた説教によって神に立ち返り、改心するのを見てきたと思う。ならば、あなたは私が、ペリシテ人を喜ばせるために自分の髪の房を剃り上げるなどと考えるだろうか? おゝ、神の恵みにかけて、否である。サムソンは自分の強さがどこに存しているかを知っており、いかなる人、いかなる人々を喜ばせるためにも、そうしようとはするまい。説教は一般の耳に届かなくてはならない。そして人々に届くためには、彼らにとって興味深いものでなくてはならない。そして、神の恵みによって私たちは、そうした説教をしようと希望するものである。

 しかし、次のこととして、もし貧しい者に福音が宣べ伝えられるべきであるとしたら、それは単純に説教されなくてはならない。あなたに向かってラテン語で説教しても時間の無駄ではないだろうか。大多数の人々にとっては、ギリシャ語による講話など何の役にも立たない。ことによると、その集会の中の五、六人は非常に徳を立て上げられ、喜んで家路につくかもしれないが、それが何になろう? 大多数の人々は徳を立て上げられも、教えを受けることもなく散会するであろう。あなたは民衆の教育や、英国民の非常な洗練ぶりについて語るだろうか? その大部分は幻想である。無知はまだ葬り去られていない。ある階級の英国人の言葉遣いは、別の階級の人々にとっては死語であり、私たちの中の多くの者にとって平明きわまりない言葉の多くは、大衆にとっては、さながらヒンドスタン語やベンガル語から抜き出された言葉ででもあるかのように難解で、わかりにくいものなのである。大勢の人々は、ラテン語を組み合わせた言葉を理解できない。真理を彼らの心に届かせたければ、率直で、素朴なサクソン語で語らなくてはならない。親愛なる神学博士の何某師は、非常な勉強家であって、自分の蔵書の中で何か難解な言葉を見つけると、決まって翌週の安息日には、それを自分の会衆に告げる。彼には、少数の知的な取り巻きがおり、彼の説教がこれほど理解しがたいからには素晴らしいものなのだろうと考え、会衆席がからっぽであることこそ、彼の知性を証明しているに違いないと考えている。彼らの信ずるところ、彼は非常に有益な社会の一員である。事実、彼らは彼をルターに比し、第二のパウロであると考える。なぜなら、彼の話が理解できないがために、誰ひとり彼の話に耳を傾けようとはしないからである。よろしい。私たちはこの善良な人について、彼も何らかの働きはしているのだろうと思うが、それがいかなるものか見当もつかない。私たちには別の友人、ケムマキ氏がいる。彼の説教は常に、人がそれを聞いた後の一週間をかけて分析しようとしても、何を云わんとしていたか何としても分からないようなものである。もし人が彼の視点から物事を眺めることができたとしたら、おそらく何かを悟ることはできるのであろう。だが、彼の説教を聞く限り、彼自身、濃霧の中で道を見失い、自らの周囲の至る所に、霧をふんだんにまき散らしているかのように思われる。思うに彼は、その主題の深みに没入しすぎて、底の泥をかき乱しては、再び上にのぼる道を見いだせなくなっているのである。人はそうした説教者を到底理解できるものではない。さて、私たちは云いたい。――それも、非常に大胆に云いたい。こうした説教は一部の人々には良いものとして尊重されるであろうが、私たちは全くそれを良いものとは考えない、と。もしこの世が改心させられ、罪人たちが救われるべきだとしたら、それがこのような手段によってなされるとは到底思えない。みことばは、理解されて初めて真に良心や心を刺し貫くことができると思う。それゆえ、私たちは常に、人々が理解できるようなことを説教するであろう。さもなければ、貧しい者に「福音が宣べ伝えられている」ことにはなるまい。なぜジョン・バニヤンは、ベッドフォードシアや、ハンティングドンシアや、その界隈の使徒となったのだろうか? それはジョン・バニヤンが、卓越した天才を有していた一方で、決して身をかがめて自分の言葉遣いを花園で摘むようなことをせず、干し草畑や牧草地に出ていっては、自分の言葉遣いを根っこから引き抜き、人々がそのあばら屋の中で用いていたような言葉を語ったからである。なぜ神は他の人々を祝福して民衆を奮い起こし、霊的な信仰復興をもたらし、敬虔さの力を刷新してこられたのだろうか? 私たちの信ずるところ、それは常にこのことによっていた。――神の御霊の下にあって――彼らは、民衆の語法を採用し、一般大衆が語るように語るからといって軽蔑されることを恥じなかったのである。

 しかし、いま私たちは、それよりも重要なことを語らなくてはならない。私たちが、いかに単純に、また、いかに魅力的に説教していても、「貧しい者には福音が宣べ伝えられている」わけではないかもしれない。というのも、貧しい者に、福音ならざる何かが宣べ伝えられていることがありえるからである。ならば重要なのは、私たちひとりひとりが福音とは何かを問うこと、また、それが何かわかっていると思うときには、こう云うことを恥じないということである。「これこそ福音であり、たといいかなる人がそれを否定しようと、私はそれを大胆に宣べ伝える」、と。おゝ! 残念ながら、世の中には、ほかの福音を宣べ伝えるということがあると思う。ほかの福音といっても、「もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがい」るのである[ガラ1:7]。世の中には、科学や哲学を魅力的に宣べ伝えていながら、福音を宣べ伝えていないということがある。よく聞くがいい。単に何かを宣べ伝えるのではなく、福音を宣べ伝えることこそ、キリストの経綸の、またその真理の目印なのである。私たちは、しかと余すところなく人間の堕落を宣べ伝えよう。人間が律法の下にあって失われ、滅びた状態にあること、また福音の下にあって回復されることを徹底的に詳しく述べるようにしよう。こうした3つのことを、とある善良な兄弟がこう云ったように宣べ伝えることにしよう。「福音は3つのことに存している。神のことばのみ、キリストの血のみ、聖霊のみ」。こうした3つの事がらによって福音は成り立っている。「聖書、聖書のみこそプロテスタント教徒のキリスト教信仰。キリストの血こそ罪からの唯一の救い、私たちの咎が赦される唯一の手段。そして聖霊こそ、ただおひとり人間を新生させ、ただおひとり人間を回心させる力をお持ちの、みこころのままに私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるお方」。こうした3つの事がらなしには、いかなる福音もありえない。ならば用心しようではないか。人々が私たちに耳を傾けているときには、福音を宣べ伝えていることこそ重大だからである。さもなければ、私たちは暴君ネロのように咎ある者となるであろう。ローマが飢えているとき、彼が自分の船団を豊穣な穀倉地アレクサンドリヤに差し向けて持ち帰らせたのは、穀物ではなく、自分の剣闘士たちのために闘技場に撒く砂だったのである。あゝ! ある人々は同じことをしているように見受けられる。――自分の聖所の床に、神の民の魂を養い、成長させる、御国の美味な穀物を撒くのではなく、いかなる神の子どもの魂の益にもなりえないような論争の砂、論理の砂を撒き散らす人々である。「貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです」。それが福音であるように用心しようではないか。ならば、あなたがた罪人のかしらたち。イエスの御声を聞くがいい。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」[Iテモ1:15]。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」[ルカ19:10]。

 そして、この点に関して、もう1つだけ心得を述べよう。すなわち、――もし私たちがキリストの規則および使徒的な実践に忠実な者であり続けたければ、私たちについては、こう云われなくてはならない。「貧しい者には福音が宣べ伝えられている」、と。近頃は、講壇が日増しに憎まれつつある。講壇は、数多の年月の間、自分の地歩を保ってきたが、その理由の一部は、それが次第に無益になることによってであった。それは、その高い立場を失いつつある。人々が講壇を力強く不屈に用いる代わりに、臆病に濫用することによって、この世は講壇を軽蔑するようになってきており、今や何にもまして確実に私たちは、司祭の支配下にある民衆であるという二倍も、新聞雑誌の支配下にある民衆である。実際私たちは、新聞雑誌の支配を受けている。『何々報知』や、『何々速報』や、『日刊何々』や、『何々新聞』や、『何々雑誌』こそが、今や講壇の雄弁や様式の審判者となっている。それらは無理矢理に監察官の座については、彼らを評価すべき職務にあるはずの者たちを彼らが評価しているのである。私自身としては、私の悪口を云う自由を快く万人に与えたい。だが、少なくともひとりの編集者の偽りのふるまいに対しては抗議せざるをえない。彼は、私の意味したことを歪曲するために誤った引用を行ない、それどころか、自らの永遠の恥辱として、私の著作にも言葉にも一度も出現したことがないような1つの引用を自分自身の頭ででっちあげたのである。講壇はその名誉を汚されている。それは非常に小さな価値しかないもの、また何の尊敬にも値しないものとみなされている。あゝ! 私たちは常に講壇の威厳を保たなくてはならない。私は、これこそキリスト教界のテルモピュライであると主張する。ここにおいてこそ、善悪の戦闘が戦われなくてはならない。――文筆によってではない。文筆は補佐としては貴重なものだが、「聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦う」[ユダ3]真剣な人々の生きた声ほどではない。いくつかの教会においては、講壇が押しのけられている。そこには非常に目立った祭壇はあるが、講壇は取り除かれている。だが、福音の経綸の下にあって最も顕著なものは、ユダヤ教の経綸に属していた祭壇ではなく、講壇である。「私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕える者たちには、この祭壇から食べる権利がありません」![ヘブ13:10] その祭壇とはキリストのことだが、キリストは、「宣教のことばの愚かさ」[Iコリ1:21]をご自分の祈りの家の中で、最も顕著な立場に引き上げることを喜んでおられるのである。私たちは、自分たちが常に説教を保つよう用心しなくてはならない。これこそ神が祝福なさるもの、これこそ神が成功を冠すると約束しておられるものである。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」[ロマ10:17]。私たちは、講壇が今にもまして尊重され、今にもまして語られ、今にもまして考えられるようにならない限り、大きな変化や、何らかの大きな福音の進展を見ることは期待できない。「よろしい」、とある人は答えるかもしれない。「あなたは講壇の威厳について語っている。仰せながら、あなたこそ、それを引き下げている張本人ですぞ。そのような様式であなたの聴衆に語りかけているあなたこそ」。あゝ! 疑いもなくあなたはそう考えるに違いない。ある講壇は威厳のために死んでいる。仰せながら、この世で最も偉大な威厳は回心者たちの威厳である。――講壇の栄光となるもの、それは――もしこのような比喩を用いてよければ――その戦車の車輪にとりこが引き連れられていること、その後に回心者たちがつき従っていることであり、そうした者らがいる講壇、また最低の人間たちの中から出て来たそうした者たちがいる講壇には、いかなる威厳にまさる威厳があるのである。それは巧みな弁舌や、壮麗な言葉遣いをえり抜いて用いることなどでは決して得られない威厳である。「貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです」。

 II. さて、次の翻訳は、《ジュネーブ訳》であり、これは主としてカルヴァンによって、その注解書の中で用いられているものだが、トマス・クランマーの訳でもある。私の信ずるところ、クランマーの訳は、少なくともある程度まではジュネーブ訳を手本に作られたものである。彼はここをこう訳している。――「貧しい者は福音を受け入れているのです」。ジュネーブ訳はこうである。「貧しい者は福音の良い知らせを受け入れているのです」。これは同語反復ではある。良い知らせは、福音と同じことを意味しているからである。さて、そのギリシャ語はこうである。「貧しい者は福音化されているのです」。さて、この「福音化され」という言葉の意味は何だろうか? 近頃の人々は、福音主義的な客間だの、福音主義者だの何だのを冷笑とともに語る。これは世界中で最も異様な冷笑の1つである。というのも、ある人を福音主義者だからといって冗談の種にするのは、ある人を紳士だからといって馬鹿にするのと同じだからである。ある人を福音派だといって軽蔑するのは、ある人を王様だと呼んで蔑むようなものである。それは栄誉ある、偉大な、栄光に富む称号であって、福音主義者の間に伍することほど栄誉あることはない。それでは、人々をが福音化されているということで何が意味されているのだろうか? 古の大家バーキットは、私たちがこの言葉を簡単には理解できないものと考え、こう云っている。ある人が、イタリア人の間で暮らし、彼らのふるまいや慣習を取り入れ、その国の市民になる場合、イタリア化されるというのと同じように、人は、福音が宣べ伝えられる所で生き、それを告白する人々のふるまいや慣習を取り入れることによって、福音化されるのである、と。さて、これはこの聖句の1つの意味である。私たちの《救い主》の使命の1つの証拠は、単に貧しい者がみことばを聞いているだけでなく、それによって影響され、福音化されることにある。おゝ! だれかを福音化すること、また、ひとりの貧しい人を福音化することは、いかに偉大な働きであろう! これはどういうことだろうか? それは、その人を福音に似たものとするということである。さて、福音は聖く、正しく、真実で、愛に満ち、誠実で、慈悲深く、親切で、恵み深いものである。ならば、人を福音化するとは、ならず者を正直にし、遊女を慎み深くし、俗悪な人間を真面目にし、貪欲な人を気前良くし、強欲な人を慈悲深くし、酔いどれの人を素面にし、憎む者を同胞への愛で満たし、一言で云うと、人を福音化するとは、その人の外的な人格において、その人がキリストのこの命令を実行しようと労する状態に至らせることである。「心を尽くして、あなたの神を愛せよ。また、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」*[マコ16:30-31]。さらに、福音化するとは、内的原理にも関わっている。ある人を福音化するとは、その人を地獄から救い、その人を天的な人格にすることを意味する。それは、その人のもろもろの罪を拭い去り、その人の心に新しい名前を――神の新しい名前を――書き記すことである。それは、その人に自分が選ばれていることを知らせ、自分の信頼をキリストに置かせ、自分のもろもろの罪を、自分の良いわざもろともに放棄させ、ただ自分の《贖い主》としてのイエス・キリストにのみ唯一、また完全に信頼させることである。おゝ! 福音化されるとは何とほむべきことであろう! あなたがたの中に、福音化されている人はどのくらいいるだろうか? 願わくは主が、私たち全員に福音の影響を感じさせてくださるように。私は断言する。ある人を福音化するのはこの世で最大の奇蹟である、と。他のあらゆる奇蹟は、この1つにくるみこまれている。ある人を福音化すること、あるいは、言葉を換えると、その人を回心させることは、盲人の目を開けることよりも大きなわざである。というのも、それは、盲目の魂の目を開き、霊的な物事を見えるようにし、天的な知恵の事がらを理解させることではないだろうか? また、外科手術は魂の手術よりも簡単ではないだろうか? 私たちは、魂に触れることはできないが、目から薄膜や白内障を取り除くことは、科学と技量によって可能になってきている。これは単に足なえの人を歩かせることではなく、正しいしかたで歩くことのできなかった死人を、それ以後ずっと正しいしかたで歩かせることなのである。「らい病人がきよめられ」。あゝ! だが、罪人をきよめるのは、らい病人をきよめるよりも大きなわざである。「つんぼの人が聞こえ」。しかり。そして、一度も神の御声を聞いたことのない人に、自分の《造り主》の御声を聞かせるのは、つんぼの人に聞こえさせるよりも、あるいは死人をよみがえらせることよりも、大きな奇蹟である。いかにそれが偉大なことであっても、それは魂を救うという天来の力の途方もない成果には劣る。人々は生まれながらに罪の中に死んでおり、天来の恵みによって生かされなければ、救われないからである。ある人を福音化するとは、天来の奇蹟の最高の事例であり、常に変わらず比類なき奇蹟、奇蹟中の奇蹟であり続ける。「貧しい者は福音化されているのです」。

 愛する方々。ある人々は、福音の影響下にやって来た貧しい人々の非常に貴い見本となっている。私は、次のように云うとき、今この場にいるあなたがたすべての心に向かって訴えていると思う。すなわち、貧しく困窮している人々の敬神の思いほど、私たちが崇敬し、尊敬するものはない、と。先日、私のもとに一枚の版画が送られてきたが、それによって私はこの上もなく喜ばされた。それは、素朴ながらも見事に仕上げられた版画である。描かれているのは、差し掛け屋根のある二階座敷にいるひとりの貧しい少女である。床には一本の柱が挿されており、その上には一片の木材があって、その上に一本の蝋燭と聖書が置いてあった。彼女は椅子のところで膝まずき、祈り、神と格闘していた。その部屋にあるものは、何もかも、貧困の刻印がついていた。そこには、粗末な上掛けが古い支柱の寝台架のところまで下がっていた。壁には、一度も壁紙など貼られたことがなく、白く塗られたことすらなかったかもしれない。それは彼女が痛む膝をさすりながら上ってきた上階の部屋で、ことによると、彼女が針仕事でパン代を稼ぐために指がすりきれるほど働き詰めだった部屋かもしれない。そこにおいてこそ彼女は、神と格闘していたのである。ある人々は一顧だにしないで、これを笑うであろう。だが、それは人間の最上の感情に訴え、大集会の中で膝まずいている君主を描き出した美麗な版画にはるかにまさって感動を呼び起こすものである。最近出版された本に、『ヘドリ・ヴィカース大尉伝』という大層すぐれた書物がある。それは多くの人に善をもたらそうとして書かれた本であり、私は神がそれを祝福してくださるように祈るものである。だが、私はヘドリ・ヴィカース大尉の生涯が、果たして世論の中において、『酪農夫の娘』や『ソールズベリー平原の羊飼い』ほど長く存続するかどうか心許なく思う。貧困階層から出て来た人々の生涯は、常にキリスト者の思いをとらえる。おゝ! 私たちは、いずこにおいても敬神の念を愛している。私たちは宝冠と恵みが相伴うところで神をほめたたえる。だが、もし敬神の念が他のどこよりも明るく輝くところがあるとしたら、それは襤褸と貧困の中においてである。救貧院にいる貧しい婦人がそのパンと水を受け取り、真心こめて神をほめたたえるとき、――枕するところもない貧しい人が、それでも目を上げて、「御父は備え給う」、と云うとき、――そうしたときこそ、湿った木の葉の中の蛍のように、周囲の暗闇ゆえに火花が格段にはっきり見えるのである。そのときこそキリスト教信仰は、その真の輝きを閃かせ、その光輝を余すところなく現わすのである。キリストの福音の目印は、貧しい者が福音化されることである。――彼らが福音を受け入れることである。確かに福音はあらゆる身分の人々に影響を及ぼし、彼ら全員に等しく適応される。だがしかし、私たちは云う。「もしある階級が他の階級よりもずっと目立っているとしたら、説教の中では貧しい者こそ、他の人々すべてにまさって、最も強く訴えかけられていると信ずる」、と。「おゝ!」、とある人々はしばしば云う。「神が、誰それにお与えになった回心者らは、みな下層階級出身だ。彼らはみな、悟りのない人々だ。これこれの人の話を聞いている人々はみな、無学な連中だ」。よろしい。そう云いたければ云うがいい。そのつもりになれば、私たちはそれを否定できるが、そうするのがよいかどうかわからない。なぜなら私たちは、それを不面目なことだとは全く考えていないからである。むしろ、貧しい者が福音化され、私たちの口から福音を聞いていることは栄誉であると考える。私は、いかなるときも、それを不面目だと考えたことはない。だれかが、「見るがいい。あいつらは何という無学な連中の寄り集まりだ」、と云うとき、私はこう考える。しかり、それがゆえに、神をほめたたえよ、と。というのも、彼らこそ、まさに最も福音を必要とするはずの人々だからである。もしあなたが、ある医者の戸口を、感傷癖のある淑女たちの集団が取り巻いているのを見たとする。彼女たちは、一週間のうちに三度も具合が悪くなるが、決して何の病気でもない。――もし彼が彼女たちを治せると云われたなら、あなたは云うであろう。「全然驚くにはあたりません。というのも、そこにはひとりも問題のある人がいたことはないのですから」、と。しかし、もしあなたが耳にした別の人のもとには、最悪の病気持ちたちがやって来ており、神がその人を用いて、その人の薬が彼らの病を癒す手段となっているとしたら、そのときあなたは云うであろう。「そこには何かがあるに違いありません。なぜって、それを最も欲している人々がそれを受け取っているのですから」、と。ならば、もしも貧しい者が他の人々にまして福音を聞きに来るのが真実だとしたら、それは福音にとって何の不面目でもない。それを最も欲する者たちがただでそれを受け取っていることは、福音の誉れである。

 III. さて今、私は手短に最後の点を述べてしめくくることにしよう。それは第三の翻訳、《ウィクリフ訳》である。「貧しい者は、福音の説教を取りつつある」。「あゝ!」、とある人は云うであろう。「そうした連中は家にとどまって、自分の鋤や、鍛冶場の大槌のことを考えていればものを。自分の鋳掛け仕事や、仕立て仕事を続けていて、説教者になったりしなければよかったものを」、と。しかし、福音の誉れの1つ、それは貧しい者たちがその説教に手をつけてきたということである。かつて、ひとりの鋳掛け屋がいた。そして、このことを聞くとき、世故に長けた人々は赤面するがいい。――かつて、ひとりの鋳掛け屋がいたが、その鋳掛け屋を評して、ひとりの大神学者は云ったのである。もし彼のように説教できさえしたら、自分の学識すべてと引き替えにしても惜しくはない、と。かつて、ひとりの鋳掛け屋がいた。大学の壁に背中をこすったことすら一度もない男だったが、彼は一冊の本、『天路歴程』を書いたのである。いまだかつて、神学博士がこのような本を書いたことがあるだろうか? かつて、ひとりの給仕がいた。――釣鐘亭という旅館を経営する母親のために、白目製の手桶をかついで働いていた少年がいた。その人は、この世の目からすると人々を狂人にしたと云われたが、私たちの目からすると彼らをキリストに導いた。彼は一生の間そうし続けて、ついに誉れを一身に担って墓に下っていったときには、周囲の大勢の人々の善意を集め、教会史のみならず、世界史に不滅の名を残した。あなたは、神の民の間でも抜きんでて尊敬の念を集める偉大な人物として、ジョージ・ホイットフィールドの名にまさる名を聞いたことがあるだろうか? だがしかし、こうした人々は、ウィクリフが云ったように、福音の説教を取った貧しい人だったのである。もしあなたがウィクリフの伝記を読むとしたら、あなたはその中で彼がこう云っていることに気づくであろう。すなわち、彼の信ずるところ、英国の宗教改革は、彼自身の働きにもまして、ラッタワースから彼が遣わした貧しい人々の労苦によって押し進められたのである。彼は自分の周囲に一団の貧しい人々を集めて、信仰の手ほどきをし、それからイエスが行なわれたように、彼らを二人か三人ずつあらゆる村に送り出した。彼らは市場に行くと、人々を周囲に集めては、聖書を開き、一章を読み上げた。それから彼らは人々のもとに、その手書き写本を残していった。そして、それから何箇月も何年もの間、人々はそれを読むために集まっては、自分たちのところにキリストの福音を告げにやってきた福音者たちのことを思い出すこととなった。こうした人々は市場から市場へ、町から町へ、村から村へと巡り歩いた。彼らの名前が名声を得ることはなかったが、彼らこそは真の改革者だったのである。あなたは、クランマーや、ラティマーや、リドリについて語るであろう。彼らは多くのことをなした。だが英国の真の改革者は、その名前が歴史の年代記から消え去ってはいても、永遠の記録には記されている人々なのである。神は真理を説教する貧しい者を祝福してくださった。私は学識や知恵を軽視するつもりなど毛頭ない。聖書は学識なしには翻訳されることがなかったであろうし、人は、聖められている人であるとしたら、学識を持てば持つほどよい。その人は、より多くの才幹を自分の《主人》の奉仕にささげることができる。だが、それは、みことばの説教のため絶対的に必要ではない。荒削りで、ぶしつけで、無教養な精力は、教会の中で多くのことをなしてきた。ひとりのボアネルゲがある村の中で立ってきた。その人は文法的に正しい言葉を三語とつなぎ合わせることができなかったが、眠気を誘う教区牧師が長年の間、自分の信徒たちを罪深い安逸へと寝かしつけてきた場所で、この男は牧夫アモスのように活動を開始し、非常に大きな覚醒をもたらした。彼は、とある田舎家で説教を始め、人々が彼の回りに群がった。それから一軒の建物が建てられた。そして彼の名前は後世の私たちのもとに何某師という形で伝えられた。だが、そのときの彼は、農夫のトムだの、鋳掛け屋ジョンだのとして知られていたのである。神は、最も素性の卑しい人々、天性の賜物以外にほとんど何も神への奉仕に用いられるものを有していないように思われた人々を用いてこられた。私たちは主張する。貧しい人々が福音の説教を取り上げていることは、決して不面目ではなく、逆に誉れなのである、と。

 私は今朝あなたがたに、福音を説教している何人かの貧しい人々を支援するよう求めなくてはならない。私たちは、絶えず私たちの貧しい兄弟たちからの手紙を受け取っており、彼らの支援要請に対して、「いいえ」、と云うことはめったにない。だが、私たちの友人たち、とりわけ福音を愛する友人たちが、神の忠実なしもべたちを支えるために本気で何かを行なうようにならない限り、そうせざるをえない。私が過去一年の間、教役者たちの支援のために何度となく説教してきた理由は、もしもだれかが、彼らのために説教し、献金を集めなかったとしたら、彼らは生活できなかったからである。ある場所では、人口があまりにも少なく、彼らは自分たちの教役者を支えることができなかった。別の場所では、それは新規の運動であって、それゆえ、人々は教役者を支えることができなかった。あなたがたの中のある人々は、《教会牧師援助協会》への寄付を行なっている。これは非常にすぐれた協会である。だが、もしあなたが貧しい副牧師を養う正しいしかたを知りたければ、それを教えよう。ひとりの主教を五十人に分割するがいい。それで間に合う。もしそれがすぐさま、ただちに行なうことができたとしたら、《牧師援助協会》の必要など全くなくなるであろう。あなたは、ことによると、こう云うかもしれない。「そうしたことは、あんたたちの教派で行なうがいい」、と。

 答えよう。私たちは、そうしたことができるような主教をひとりも有していない。私の信ずるところ、全バプテスト派の中で、その給料が六百ポンドを超えたことがあるような教役者は、ひとりも見いだせないはずである。そして、私の信ずるところ、それと同額の俸給を受けている教役者は、三人しかおらず、私はそのひとりではない。この三人は大きな必要をかかえており、一銭たりとも余分ではない。その一方で私たちの教派の大多数の教役者たちの給与は、二十ポンド、三十ポンド、四十ポンド、五十ポンド、六十ポンドといったところであり、百ポンドを越えてはいない。本日集められた献金の総額は、その収入が八十ポンド以下で、非常に大きな入用のある人々に与えられるであろう。

 さて今、愛する方々。私は口を閉ざしている人々のために、自分の口を開き、貧しい人々のために弁論してきたが、最後に群れの貧しい者に向かって、貧しい者のキリストを考察するように懇願させてほしい。彼らに向かって、キリストに自分の思いをささげるように促させてほしい。そして、願わくは主が、彼らをしてキリストに自分たちの心を明け渡させてくださるように。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。

 願わくは神が、高き者も低き者も、富める者も貧しき者も、しかり、あなたがたのすべてを祝福してくださるように。その御名のゆえに。

  

 

貧しい者への宣教[了]

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