真理の戦い
NO. 112
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---- 1857年1月11日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂「モーセはヨシュアに言った。『私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます』」。――出17:9
イスラエル人は、強い御手と、伸べられた腕とをもって、エジプトから連れ出された[エレ32:21]。彼らが導き入れられたのは、獣のほえる広大な荒地[申32:10]で、そこには、人家など――あったとしても――ほとんど見られなかった。しばらくの間、彼らはその独行軍を続け、泉その他の、遊牧民の痕跡を発見しはしたものの、自らの孤独を乱す何者とも出会わなかった。しかしそこには、現在と同じく当時も、遊牧アラブ人たちに似た放浪の部族がいたらしく思われる。彼らは、イスラエル人がその足で踏み歩んでいる、まさにその土地を、あちこちへと流浪していた。こうした者らが、略奪品を得ようとの野心にかられて、突如イスラエル人のしんがりを襲撃してきたのである。彼らは、民の最後尾にいた者たちに、卑劣きわまりないしかたで襲いかかり、彼らを略奪しては、素早く逃走していった。この上首尾な襲撃によって勢いづき、度胸を据えた彼らは、大胆にもイスラエル全体を攻撃しようとした。当時、エジプトから連れ出され、奇蹟によって荒野で養われていたイスラエルの民は、二、三百万人を数えたに違いないが関係ない。だが今度は、イスラエルが不意をつかれることはなかった。モーセはヨシュアにこう云っていたからである。――「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます」。神に嘆願し、剣の一撃一撃が、神の強大な助けによって力を倍加されるようにするためである。そして、大勝利が成し遂げられたと告げられている。アマレク人は総崩れになり、いわれない攻撃をイスラエルに仕掛けた彼らは絶滅を宣告された。聖書には、こう書かれている。――「『このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう』。モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、『それは「主の御座の上の手」のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。』と言った」[出17:14-16]。
さて、愛する方々。この戦いの光景が聖書の中に記録されているのは、歴史愛好家を面白がらせる興味深い状況としてではない。それが書かれたのは、私たちの徳を高めるためである。こう告げている聖句が思い出される。――「昔書かれたものは、すべて私たちの益となるために書かれたのです」*[ロマ15:4]。そしてこの箇所からも、いくつかの益を引き出せる。――それは独特の益であると思われる。神はこれを、後の世代のために記録するよう《天来の》権威によって命ぜられた最初の書き物とされたからである。思うにイスラエル人の旅路は、この世をついて進む神の教会の旅路を表わす多くの表象である。そして、私たちの信ずるところ、このアマレクとの戦いは、神のすべての民が、外部の罪および内部の罪に対して、日々、不断に携わるべき戦いの比喩であり表象である。今朝、私は、特に外部の罪に限定して語りたいと思う。私は、今しも神とその真理のために、十字架の敵たちを相手に繰り広げられている大戦闘について語るであろう。第一に私は、この戦いそのものについて、いくつかのことを指摘してみたい。それから、この戦いにおいて認可された方法を検討しよう。それには2つあって、熾烈な攻撃と、熱烈な祈りである。それから、しめくくりとして私は、神の教会を奮い立たせて、それが大いに、また真剣に、神とその真理のためのこの戦いに励むようにさせたいと思う。
I. まず第一に、私たちは、イスラエル人とアマレクとの争闘が象徴していると思われる、《この大いなる戦い》について、いくつかのことを指摘しようと思う。
何よりも先に注意すべきことは、私が語っているこの聖戦、この聖く神聖な戦いは、人間相手のものではなく、サタンと過誤を相手にしている、ということである。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく」[エペ6:12]。キリスト者である人々は、地上を歩くいかなる人にも敵対してはいない。私たちは不信心と敵対してはいるが、不信心者たちの人格を愛し、そのために祈っている。私たちはいかなる異端とも敵対しているが、異端者に対していかなる敵意もいだいてはいない。私たちは、神とその真理に反対するあらゆる事がらにも反対し、死闘をいどむが、いかなる人に対しても、この聖なる格言を実践しようと努めるであろう。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい」[ルカ6:27]。キリストの兵士は、いかなる銃や剣も所持していない。人々を相手に戦っているのではないからである。その人が戦う相手は、「天にいるもろもろの悪霊」であり、地上の玉座に着き、王笏を握っている人々とは異なる主権や力である[エペ6:12]。しかしながら、私の目につく一部のキリスト者たちは――そして、これは私たちがだれしも陥りやすい感情だが――、キリストの戦いを、不正や悪霊との戦いとする代わりに、血肉の戦いとしてしまいがちである。あなたも、宗教論争において注目したことがあるではないだろうか。人々がいかに互いに衝突し合い、人格攻撃し合い、悪口を云い合うことか! これは、キリストの戦いがいかなるものであるかを忘れることでなくて何だろうか? 私たちは人々を向こうに回して戦っているのではない。人々を相手に戦っているのではなく、人々のために戦っているのである。神とその真理のために、過誤と罪を相手に戦っているのであって、人々を相手にしているのではない。わざわいが、わざわいが来る。この戦いの神聖な規準を忘れる人々には。人々の人格に触れてはならない。だが、彼らの罪の方は、勇気をもって、強靭な腕で打ちのめすがいい。小さいものも大きなものも、ともに打ち倒すがいい。神とその真理に逆らういかなるものも容赦してはならない。だが私たちは、決してあわれな、過てる人々の人格に敵対してはいない。私たちは、地獄を忌み嫌うのと全く同じくらいローマを憎んでいる。だが、その信者たちのためには絶えず祈る。偶像礼拝と不信心を猛烈に非難するが、そのいずれかによって自分を卑しめている人々は、私たちの怒りの的ではなく、憐憫の対象である。私たちは人々を相手に戦うのではなく、神の御前で間違っていると私たちの考える物事を相手に戦う。その区別は常につけることにしよう。さもないと、キリストの教会が行なう争闘は、単なる暴力と、血にまみれた着物[イザ9:5]による戦闘になり果て、この世は再びアケルダマ――血の地所[使1:19]となるであろう。この過ちこそ、殉教者たちを火刑柱に釘づけにし、信仰告白者たちを投獄してきたものである。なぜなら、彼らの敵対者たちは、彼らが過誤と想像したしたものと人物との区別をつけられなかったからである。彼らは、過誤と見えるものを激しくなじる一方で、自らの無知な偏狭頑迷さによって、相手の人物をも迫害しなくてはならないと感じた。そのようなことは、する必要がなく、してはならないことであったが関係ない。私は、自分の持ち合わせている、ありったけのサクソン語で自分の思いを云い表わすことを決して恐れはしないし、今も悪魔と、悪魔が教えている事がらに対して、厳しく語るのを恐れはしない。だが私は、いかなる場所にいる、いかなる人に対しても友となり、いかなる人にも、この世に生まれたばかりの赤子に対するのと同じくらい、一瞬も敵対するものではない。私たちは過誤を憎まなくてはならないし、偽りを忌み嫌わなくてはならないが、人々を憎んではならない。神の戦いは罪に対する戦いだからである。願わくは神が私たちを助けて、常にその区別をつけさせてくださるように。
しかし、ここで私たちは、キリスト者が遂行するこの戦いが、その人を大きく励ますことに、最も義なる戦いであることに着目したい。人間が携わる他のあらゆる争闘には、2つの意見があり、ある人々はその戦いを善だと云い、ある人々は悪だと云うものである。だが、あらゆる信仰者が携わっているこの聖なる戦いについては、正気をした人々の間には、ただ1つの意見しかない。古の司祭が十字軍兵士たちを戦いへと奮い立たせたとき、彼は兵士たちにDeus Vult――[神それを望み給う]、と叫ばせた。だが私たちは、それよりもさらに真実に同じことを云えよう。偽りに対する戦い、罪に対する戦いは、神の戦いである。それは、キリスト者たるあらゆる人に好ましく思わせる戦いである。神の敵どもに対する戦いに携わろうとする者に神の是認の証印があることは、完全に確信できるからである。愛する方々。私たちは、罪に対して自分の声を喇叭のように張り上げるとき、自分の戦いが永遠の正義の法によって正当化されていることを、いささかも疑わない。願わくは神が、いかなる戦いをも正しく真実な理由を有するものとしてくださるように。神がアマレク――この世にある罪――と戦われた戦いと同じほどに!
私たちがさらに思い起こしたいのは、これが非常に重大な戦いだということである。他の戦いにおいては、こう云われることがある。――「ブリトン人よ! 汝らの炉辺と汝らの家々のため、汝らの妻と汝らの子らのために戦え。――敵と戦い、撃退せよ!」 しかし、この戦いにおいて、それは単に私たちの炉辺や私たちの家々のため、私たちの妻や私たちの子らのためではなく、それよりもはるかにまさる何かのためである。これは、からだを殺しても、後はそれ以上何もできない者たち[ルカ12:4]を相手にするものではなく、魂のため、また永遠のために、人を永遠の破滅に陥れる者たちを相手に行なう戦いである。神のための戦い、人々の魂を必ず来る御怒りから救い出すための戦いである。これは実際、神の選民たち全員が、霊において始め、継続し、成し遂げるべき戦いである。いかなる戦いも、これほど重大ではない。人々の救いの媒介となることは、いかなることをも越えて私たちの到達しえる最高の目的であり、真理の敵どもを潰走させることは、いかなることをも越えて願わしい勝利である。キリスト教信仰は、社会が享受することを期待できるあらゆる祝福の基盤でなくてはならない。人々がそれをいかに卑小なものと考えようと、キリスト教信仰は私たちの自由、私たちの幸福、私たちの慰めに関わらざるをえない。英国は、そのキリスト教信仰を抜きにしては、今あるような国にはなっていなかったであろう。また、英国がその神を捨て去るときに、その栄光は地に落ち、その旗には、「イ・カボテ」[Iサム4:21]と記されるであろう。
福音が沈黙させられ、わが国の教役者たちが説教をやめ、聖書が鎖につながれるその日、そうした日には、――願わくは決してそのような日が来ないように!――その日には、英国は自らを死者の間にあるものと書き記してよいであろう。英国は堕落したからである。神は、英国がご自分への臣従を打ち捨てたのを見てとって、英国をお捨てになられたからである。キリスト者である人たち。この善のための戦いにおいて、あなたがたは、自分の国のため、自分の自由のため、自分の幸福のため、そして自分の平和のために戦っているのである。というのも、キリスト教信仰が――天から出た信仰が――保たれない限り、これらが破壊されることは確実きわまりないからである。
次に思い巡らしたいのは、私たちは、この神とキリストのための大いなる戦いにおいて、陰険で非常に力強い敵と戦っている、ということである。もう一度云わせてほしいが、私はこれから、いくつかの人格について語ろうとしてはいるものの、人々についてではなく彼らの過誤について語るものである。現在の私たちには、この真理のための大いなる抗争において、種々のことさらな困難がある。――ことさらな、というのは、ごく僅かな人々しか、そうした困難があることを認めていないからである。私たちには、あらゆる種別の敵たちがおり、そのすべてが私たちよりも、はるかにはっきりと目覚めている。不信心者はその目を大きく開いており、自分の教説を至る所で広めている。そして、私たちが――大度なお人好しとして――われわれの偉大さは実りつつあるに違いないと考えている間に、霜が私たちの美しい苗の多くの生長を阻んでいるのである。そして、もし私たちが目覚めないとしたら、神よ、私たちを助け給え! ほとんどあらゆる場所において、不信心が大手を振ってまかり通っている。トム・ペインの大胆な、大いばりの不信心ではないが、ずっと洗練された、穏健な不信心である。キリスト教信仰を棍棒で打ち殺すような不信心ではないが、毒薬を一服盛ってそれを毒殺しては、そこを立ち去り、公衆道徳の方は全然傷つけていないよ、などとうそぶくような不信心である。いずこにおいても、こうしたことが増しつつある。残念ながら、わが国の住民の非常に大きな部分は、不信心の霊に染まっていると思う。さらに私たちには、私たちの中の一部の者らが考えている以上に、ローマのことを恐れるべき理由がある。公然たるローマではない。それを恐れる理由はほとんどない。神は英国国民に、非常に大胆なプロテスタント精神を与えておられ、ローマ教皇からの、いかなる公然たる革新も、たちどころに撃退されるであろう。だが私が意味しているのは、ピュージー主義という名の下に英国国教会の内部に忍び込んでいるローマカトリック主義のことである。いずこにおいても、これは増しつつある。彼らは、祭壇の上に蝋燭を灯し始めている。これは、私たちのプロテスタント主義を焼き尽くしかねない、より巨大な炎の前置きでしかない。おゝ! これらの仮面を引きはがす人々がいればどんなに良いことか! 私たちは、こうしたことを恐れるべき大きな理由がある。だが私は、それよりも性質の悪い、あることがないとしたら、これについては毛筋一本もかまいつけないであろう。私たちは、ある精神を扱わなくてはならない。それをいかに称すべきか私にはわからない。しいて云えば、プロテスタント諸教会の講壇における穏健主義の精神である。人々は、真理の荒削りな圭角をこすり落とし始めている。ルターや、ツヴィングリや、カルヴァンの諸教理を放棄し、それらを垢抜けた嗜好に適応させようと努力し始めている。近頃など、人がローマカトリックの会堂に入って行って、カトリックの司祭から聞かされる説教とほとんど大差ないような説教を、多くのプロテスタント教役者たちは語っている。なぜなら彼らは、論争があるような点には触れず、私たちのプロテスタント信仰の角の立つ部分を持ち出さないからである。また、やはり注目すべきことに、最近の書物の非常に多くにおいて、健全な教理がいかに嫌われていることか! その著者たちは、まるで真理には過誤にまさる値打ちがほとんどないと思い描いているかのように見受けられる。私たちが宣べ伝えている教理について云えば、それがいかなるものであろうとどうでもよいのである。なおも、こう主張するのである。
「生活の義しき人に誤りの あるべきはずも故もなければ」[アレグザンダー・ポープ]。
バプテスト派および他のあらゆる教派の講壇には、無感覚と冷淡さが忍び込みつつあり、それとともに、ある意味で、あらゆる真理が無効にされつつある。彼らがあからさまな過誤を説教することはめったにないが、真理そのものは、ほとんどの場合、だれの目にもつかないほど微々たるしかたでしか口にされず、その曖昧な言葉つきによっては、だれも心を打たれない。人間に可能な限り、神の矢は切っ先を鈍らされ、その剣の刃は戦いの日に折り曲げられている[詩89:43]。人々は、以前のようには真理を耳にしなくなっている。天鵞絨の口が、天鵞絨の座布団の後を継いでおり、建物の中では、風琴のほか何もはっきりした音を立てていない。こうしたすべての事がらから、「いつくしみ深い主よ。私たちを救い出し給え!」 願わくは天が、こうしたすべての穏健主義を葬り去ってくれるように。この危険な時代に、私たちが欲するのは徹底した真理である。まさにいま私たちが欲するのは、神がお告げになった通りに語り、誰をもはばからない人である。おゝ、もしいま古のスコットランド人説教者たちの何人かがいたとしたら! そうしたスコットランド人説教者たちは、国王たちをも震えさせた。彼らは何人のしもべでもなかった。どこへ行こうと自らが君主であった。なぜなら、彼らはひとりひとりこう云っていたからである。「神は私に1つの使信を与えられた。私の額は人々に対して鉄石のようになり、私は神が私に命じておられることを語るであろう」。ミカのように彼らは云った。「私の神、主は生きておられる。私の神が告げられることを、そのまま述べよう」*[II歴18:13]。真理の英雄たち、キリストの兵士たち。目覚めよ! 今でも敵たちがいる。戦いが終わったと考えてはならない。大いなる真理の戦いは、これまでになく熾烈ですさまじいものとなりつつある。おゝ、キリストの兵士たち! あなたの剣を鞘から抜き放て! 神とその真理のために、再び立ち上がれ。無代価の恵みの福音が忘れ去られてはいけない。
この戦いについて、もうひとたび云わせてほしい。これは永久に続くべき戦いである。愛する方々。思い起こそうではないか。この善悪の戦いは、真理が勝利するときまで、引き続かざるをえず、決してやまないに違いない。もしあなたが、私たちの父祖たちが真理と神のため十分働いたので、自分は左団扇で暮らしてよいと考えているとしたら、大変な間違いである。力が正義となり、正義が力となるその日が来るまで、私たちは決して剣を鞘におさめてはならない。キリストが統治し、万国の《支配者》となるとき、――「剣が鋤に、槍がかまに打ち直され」*、人々が二度と戦いのことを習わなくなるとき[イザ2:4]、――その日が来るまで、争闘は続けられるであろう。だれも、もはや用心する必要はないなどと考えてはならない。かつての戦いがすさまじいものであったとしても、それは今も、形こそ変われ、やはりすさまじいものなのである。私たちは今、罪と戦って、血を流すまで抵抗する[ヘブ12:4]必要はないが、過ぎにし時代に殉教者や信仰告白者たちが有していたのと同じ、厳格に抵抗する力が必要である。兄弟たち。私たちは目覚めていなくてはならない。軍隊は、目を覚ましていなくてはならない。主の兵士たちは、自分の立場を自覚すべく奮起させられなくてはならない。今こそ、今こそ、私たちは喇叭を吹き鳴らすべきである。あなたがた、眠り込んでいる兵士たち。戦いに突進せよ! 立てよ、立てよ、立てよ! あなたの軍旗を翻らせ、あなたの剣を鞘から抜き放て。これは戦いの日である。――戦と抗争の日である。
しかしながら、私は本日の講話のこの部分をしめくるにあたり、1つのことに言及しないではいられない。すなわち、私たちが戦わなくてはならないのは、単にキリスト教信仰における過誤だけではなく、実行動における過ちでもある。おゝ! 愛する方々。この世は今なお、よこしまな世であり、ロンドンは今なお忌まわしい町である。あらゆる所に体裁の良い見せかけがあり、瀟洒な外観がありはするが、悲しいかな、隠れた部分の内側では今なお罪がはびこっている。これは虚飾の大都市、まがいものの大邸宅、汚染に満ちた不潔の家である。わが国の大通りには、小綺麗な住宅が軒を連ねているが、その裏には何があるだろうか? 私たちの町の中核には何があるだろうか? この町は巨大な犯罪人であり、広壮な罪人である。至る所に最低の悪徳にまみれて暮らしている者らがいながら、何の掣肘も非難も受けずにのうのうとしている。人々にその罪について告げるのは流行らないことであり、人々の罪について率直に語るだけの性根を有する者はほとんどいないからである。おびただしい数の女性の不品行が、何万もの支持者を数えていることを思うとき、私たちは、男性にとっての同じ罪が猖獗をきわめていると結論せざるをえない。そして、あゝ! それを口にする必要があるのである。恵まれない貧しい者を罠にかけ、誘惑している人々は、上品で道徳的な人々として社会に迎え入れられていないだろうか? これが忌むべき偽善でなくて何だろうか。ロンドンにおいて私たちは、多くの人々が思っている以上に罪人である。ここではあらゆる物が化粧されている。しかし、そうしたしかたで神を欺けると考えてはならないではないだろうか? 罪はこの国をすさまじい歩調で席巻しつつある。不義はなおも私たちの通りをひた走りつつある。それなりに取り繕われ、公然たる罪ではないものの、神にとっても、善良な人々にとっても、やはり同じように不快なものである。おゝ! 私の兄弟たち。この世はまだ良い場所ではない。薄皮で覆われてはいるが、にもかかわらず、内側にはおぞましい疾病がひそんでいる。もう一度云う。立てよ、キリストの兵士たち。罪に対する戦いは完結していない。ほとんど始まったばかりである。
II. しかし今、第二に、私たちが手短に注目しなくてはならないのは、《この戦いのために定められた手段》である。アマレクが出現してイスラエルに襲いかかったとき、神は彼らと戦うための2つの手段をお定めになった。神は、そうお選びになれば、大風を送って彼らを追い散らすことも、疫病を急激に起こして彼らの軍を分断するともおできになったが、そうなさろうとはしなかった。というのも、神は人間の努力に誉れを帰そうとなさったからである。それゆえ、神はヨシュアに云われた。「幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦え」。確かにヨシュアは、神の力によって敵に打ち勝つことができたはずであった。だが、神は云われた。「わたしは、人間の努力に誉れを与えはするものの、なおも神がすべてを行なうことを人々に見てとらせよう。モーセよ! 向こうの丘に登り、そこに立って、お前の杖を掲げて祈れ。それで、ヨシュアの兵士たちが戦いに突進していく間、モーセは嘆願するのだ。そうするとき、お前たちは両方ともうまく行くであろう。モーセよ。お前の祈りはヨシュアの剣なしには成果をあげない。またヨシュアの剣は、モーセの杖なしには、うまく働かないのだ」。罪と戦う2つの道は、――熾烈な攻撃と、熱烈な祈りである。
最初に、教会は熾烈な攻撃を用いて、罪と激しく戦わなくてはならない。あなたが家の中に閉じこもり、神に向かってどうか罪を抑えてくださいと祈っても、自分で行って何かをするのでない限り、何の役にも立たない。たといあなたが、おしになるまでひっきりなしに祈り続けても、自分の力を発揮するまでは、決して祝福されることがないであろう。農夫が収穫のために祈っても、自分で畑を耕し、そこに種を蒔くまで、その収穫が得られるだろうか? 戦士が勝利のために祈っても、自分の兵士たちを棒立ちにさせ、ただ撃たれるがままにしておくとしたら、戦いに勝てるだろうか? 否。そこには、神によって与えられた力を積極的に発揮することがなくてはならない。さもなければ、それがない祈りは何の役にも立たないであろう。ならば、兄弟姉妹。私たちは、ひとりひとりが自分の領分において、敵に激しい打撃を加えようではないか。この戦いは、主の民であるすべての者が何かしら行なうことのできる戦いである。松葉杖をついている者でも、それを戦いの武器として、剣を振るえる勇士たちと同じくらい活用できるのである! 私たちそれぞれには、もし主の選民であるなら、なすべき務めが割り当てられている。それを行なうように心がけようではないか。あなたは小冊子の配布者である。あなたの務めを行ない続け、それを熱心に行なうがいい。あなたは《日曜学校》教師である。行ない続け、そのほむべき働きにおいて立ち止まっていてはならない。人に対してではなく、神に対してするように行なうがいい。あなたは説教者である。神に与えられた能力に従って説教するがいい。思い出すがいい。神はいかなる人にも、ご自分がお与えになった以上のものは要求されない。それゆえ、もしあなたが僅かしか成功していなくとも落胆せずに、なおも進み続けがいい。あなたはゼブルンのように、うまく指揮をとれる者[士5:14]だろうか? それを賢くとるがいい。そうするとき、あなたは王たちの腰をも打ち砕くであろう。たといあなたが僅かしか行なえないとしても、少なくとも他の人々のための弾丸を供給し、彼らの信仰の働き、愛の労苦[Iテサ1:3]を助けるようにするがいい。しかし私たちはみな、キリストのために何事かを行なおうではないか。私は、この世に何事も行なえないキリスト者がいるとは決して信じない。王宮の壁にぶらさがっている蜘蛛一匹といえども、何らかの用向きがあるはずである。教会墓地の片隅に生えている刺草一本にさえ、それなりの目的はある。そよ風の中ではばたいている昆虫一匹でさえ、何か天来の定めを成し遂げているのである。そして私は、神がいかなる人をも、特にいかなるキリスト者をも、ただの空虚なもの、全く何もしない者として創造なさったなどということには決して承伏しない。神はあなたをある目的のために造られた。その目的が何かを見つけるがいい。あなたの適所を見いだし、それを満たすがいい。たといそれがごく小さなものであっても、たといそれがたきぎを割り、水を汲むこと[ヨシ9:21]でしかなくとも、神と真理のためのこの大いなる戦いにおいて何事かを行なうがいい。ヨシュアは出ていって、その兵士たちを選ばなくてはならなかった。私には、彼の姿が見えるような気がする。彼は、若い頃から戦士であったように見受けられる。だが、何というごたまぜの集団から彼は選抜しなくてはならなかったことか! 何と、彼らは一団の奴隷たちであった。エジプト人が握っている剣のほか、一生の間、一度も剣など見たことがなかった。彼らはあわれで、みじめなしろものであった。自分たちの古の敵を《葦の海》で見たときには臆病者となったし、いま彼らの武器はその《葦の海》に打ち上げられていたものであったし、彼らの軍服はまるで統一がとれていなかった。しかしながら、ヨシュアはその中から最も強い者らを選び出し、「私とともに来い」、と云った。彼が率いて戦いに出なくてはならなかったのは実際、だれかが呼んだように、「ぼろぼろの連隊」であった。だがしかし、そのぼろぼろの連隊が勝利したのである。ヨシュアは、略奪生活に慣れきっていたアマレク人と戦って勝利を得た。そのように、あなたがた、神の子どもたち。あなたがたは戦略にはほとんど通じていないかもしれない。あなたの敵たちは議論であなたを圧倒し、論理であなたを負かすかもしれない。だが、もしあなたが神の子どもたちだとしたら、あなたとともにいる者たちは、あなたの敵どもを歯牙にもかけないであろう。あなたはやがて彼らが死んで戦場に横たわるのを見るであろう。ただ、神を信ずる信仰をもって戦い続けるがいい。あなたは勝利するであろう。
しかし、これがすべてではない。ヨシュアは戦ったかもしれないが、モーセが丘の上に立っていなかったとしたら、敗走していたであろう。彼らはふたりとも必要であった。あの戦いが見えないだろうか! それは、さほど大規模なものではないが、それでもあなたが真剣に注意を払うに値している。そこにアマレクがいて、耳障りな叫喚をあげながら戦いに突進している。見よ、イスラエルが彼らを撃退している。アマレクが逃走する! しかし、私は何に注目しているだろうか? 今度はイスラエルが背を向けて逃げている。今度は、彼らが盛り返してアマレクを逃げ出させている! 見よ! 彼らはヨシュアの剣によって分断されている。強大なアマレクは、刈る者の鎌の下の麦のように揺れている。アマレクの連中は元気が衰えている。しかし、またもや! またもや戦いは動転する。ヨシュアが逃げる。だが、再び彼はその軍隊を糾合する! そして、あなたはこの驚異的な現象に注目しないだろうか? そこに、その丘の上にモーセが立っているのである。あなたが注意してみると、彼の両手が伸ばされているときには、イスラエルがアマレクを敗走させる。だが、疲れて彼がその手を下ろすや否や、アマレクが一時的な勝利を得る。そして再び彼がその杖を掲げるや、イスラエルが敵を敗走させるのである。祈りの手が下ろされるたびに、戦闘員の間で勝利がひっくり返る。あなたは、この尊ぶべきとりなし手が見えるだろうか? モーセは、高齢であったので、これほど長い間立ち続けていることによって疲れてしまった。彼らは、石の上に彼を座られた。それでも腕は鉄ではない。手が垂れてくる。だが見よ! 彼の目は火を閃かせ、彼の手は天国に差し伸ばさせる。涙が彼の頬を流れ落ち始め、彼の射出する祈りは、多くの矢のように天国へ発射され、神の耳という目標を射抜く。あなたに彼が見えるだろうか。彼こそ勝利の要である。彼が活気をなくせばアマレクが優勢になる。そして、彼が強くあるとき、選ばれた民は勝利を得る。見よ! アロンが彼の手を一時的に支える。そしてただちにフルがそれを支える。そして、この善良な老人は自分の手を替える。というのも、この戦いは一日中続き、ぎらつく太陽の下で、姿勢を変えずに腕を支えているのは大儀な務めだからである。しかし、いかに男らしく彼がそれを支えているか見るがいい。石から切り出された棒のように固くなり、疲れ切ってはいるものの、モーセの両手はなおも差し伸ばされている。まるで彼が彫像であるかのように。そして彼の友たちは彼の熱心を助けている。そして、いま見るがいい。アマレクの隊伍は、ビスケー湾の疾風を前にした霧のように破られている。彼らは逃走する! 逃走する! それでも彼の手はぴくりとも動かない。なおも彼らは逃走する。なおもアマレク人は逃走する。なおもヨシュアは勝ちを得ている。ついに、とうとうあらゆる敵がその平原に死んで横たわり、ヨシュアは凱歌を挙げながら帰ってくる。
さて、これは、努力と同じく祈りがなくてはならないことを教えている。教役者よ! 説教し続けるがいい。だがあなたは、祈るまでは何の成功も得ないであろう。もしあなたが、膝まずいて神と格闘するすべを知らないとしたら、講壇に立って人間と格闘することが厳しい務めであることに気づくであろう。あなたはそうする努力を重ねるかもしれないが、自分の努力を祈りで裏打ちするまで、成功をおさめないであろう。あなたが自分の努力で失敗するよりは、自分の祈りで失敗することの方が多い。ヨシュアの手が剣を振るうことで疲れたとは一言も書かれていないが、モーセの手は杖を掲げていることで疲れてしまった。その義務が霊的であればあるほど、私たちは疲れがちになる。私たちは一日中立って説教することはできるが、一日中祈っていることはできないであろう。一日中病人の見舞いに出かけていることはできるが、一日中密室にこもっていることはその半分も容易ではないであろう。一晩中、祈りながら神とともに過ごすことは、一晩中、説教しながら人とともに過ごすことよりも、はるかに困難であろう。おゝ! 用心するがいい。用心するがいい。キリストの教会よ。あなたが祈りをやめることがないように! 何にもまして、私は私自身のこよなく愛する教会、私の信徒たちに語りたい。あなたは私を愛してくれているし、私はあなたを愛している。神は私たちに大きな成功を与え、私たちを祝福しておられる。しかし、聞くがいい。私はそのすべての出所が、あなたの祈りにあると考えている。あなたは、全くたぐいないようなしかたで、群れをなしてともに集まり、毎月曜、私のために祈ってくれたし、私は、自分のことがあなたの家庭の祭壇で、あなたの心にこよなく愛しい者として言及されていることを知っている。だが、私が恐れているのは、あなたが自分の祈りをやめてしまうことである。たといこの世が、「奴を打ち倒せ」、と云っても、私は、あなたが私のために祈ってくれているなら、彼らすべてに対抗して立つであろう。だが、もしあなたがあなたの祈りをやめてしまうなら、私は一巻の終わりであり、あなたも万事休すである。あなたの祈りが私たちを強大にしているのである。だが、祈りつつある多勢は、雷鳴を発する多勢である。もし私が自分を軍司令官にたとえるとしたら、私は云いたい。私がこれほど大勢の自分の信徒たちが立って祈っているのを見るとき、私は自分の親衛隊を派遣するときのナポレオンのように感じる。戦闘の形勢は逆転した。「さあ」、と彼は云った。「彼らが行った。いまや勝利は確実だ」。あるいは彼らは、わが国の近衛師団たる黒帽子師団のように、どこに行こうと勝利を得てきた。祈りつつある多勢は、いずこにおいても雷鳴を発する多勢である。人々は何に対抗できても、祈りには対抗できない。もし私たちが、ある人々がそうしてきたように祈れるとしたら、祈りによってハデスの門の蝶番も外せるであろう。おゝ! 私たちが祈りにおける大能を有していたらどんなに良いことか。私は切に願う。切に懇願する。決して祈るのをやめないでほしい。他の何をやめてもいいが、祈りだけはやめてはならない。膝まずき、神と格闘するがいい。そのときまことに私たちの神、主は私たちを祝福し、「地の果て果てが、ことごとく神を恐れ」る[詩67:7]であろう。
III. さて今、しめくくりに私は、第三のこととして、いくつかの指摘だけして、《あなたをこの戦いに奮い立たせたい》と思う。おゝ、神の子どもたち。思い出すがいい。あなたを神とその真理のために立つ勇士とするであろう、多くの事がらがあるのである。私があなたに思い出させたい最初のことは、あなたが携わっているこの戦いが、宿縁の戦いだという事実である。これは、あなたが始めた戦いではない。アベルの血が復讐を求めて叫んだ瞬間から[創4:10]、あなたに受け渡されていた戦いなのである。これまでに死んだあらゆる殉教者は、血に染まった旗を次の者に渡してきたし、次の者は順々にそれを別の者に渡してきた。火刑柱に釘づけられて焼かれたあらゆる信仰告白者は、自分の蝋燭を灯して、それを別の者に渡し、「これを頼む!」、と云い残したのである。そして、今ここには、かの古き「主の剣、ギデオンの剣」*[士7:20]がある。その柄をいかなる手が握ってきたか思い出すがいい。いかなる腕がそれを振るってきたか思い出すがいい。それがいかにしばしば「関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し」[ヘブ4:12]てきたかを思い出すがいい。あなたは、それを辱めようというのだろうか? それを辱めようというのだろうか? そこに偉大な御旗がある。それは多くの風の中ではためいてきた。わが国の旗が作られるはるか以前に、このキリストの御旗は高く掲げられていた。あなたは、それを汚そうというのだろうか? それを汚そうというのだろうか? あなたはそれを、なおも汚点のないままあなたの子どもたちに手渡し、こう云おうとしないだろうか? 「先へ進め。先へ進め。私たちは、お前たちに戦いの遺産を残していく。先へ進め。先へ進んで、勝ちを得よ。お前の父たちが行なっていたことを、再びお前も行なうのだ。時が尽きるまで、なおも戦い続けよ」。私が自分の聖書を愛しているのは、それが血のバプテスマを受けた聖書だからである。私がそれをなおのこと愛しているのは、それがティンダルの血をつけているからである。私がそれを愛するのは、それがジョン・ブラッドフォードと、ロウランド・テイラーと、フーパーの血をつけているからである。私がそれを愛しているのは、それが血のしみをつけているからである。私は時々、自分がバプテスマ槽を好んでいるのは、それが血で染まってきたからであり、今も大陸では法律によって禁じられているからだと思うことがある。私がそれを愛しているのは、その中に殉教してきた男女の血を見ているからであり、彼らが真理を愛したからである。ならば、あなたは、これほど傑出した戦士たちの血統が、この真理の御旗をその手で握ってきた後だというのに、そのかたわらに立とうとしないというのだろうか?
私は、自分の願う通りにあなたに語りかけられたらと思うが、この声は嗄れてしまった。それゆえ、私があなたに促せることは、1つのことを考えてもらうことだけである。すなわち、最終的な勝利の展望である。ほどなくして私たちが勝利することは確実である。それゆえ、この戦いをあきらめないようにしようではないか。私が最近、耳にして非常に喜ばされたことに、キリスト教会の隊伍には信仰復興が起こっているという。そこここで私は、偉大な伝道者たちが立ち上がっていると聞く。ある人々は、こうした人々の名前をあげた後で、「彼らに対して何と云いますか?」、と私に云う。私は答える。「主のしもべがみな、預言者となればよいのに」*![民11:29] おゝ! 神がそのみことばを聞かせるために、大群衆を引き寄せられる人々を何万人、何十万人も送ってくださるなら、どんなに良いことか! 私は願う。英国中のあらゆる教会、あらゆる会堂が、これほど人で一杯になり、これほど大きくなる日が来ることを。実際、私は、諸教会では信仰復興が起こりつつあると思う。だが、たといそうでなくとも、それでも勝利は確実である。――神はそれでも勝利をおさめられる。エホバは勝利を得られる。サタンは自分が勝利すると夢想しているが、そうはならない。それゆえ、兄弟たち。勝利に向かって進撃するがいい。勝利に向かって、進め、進め、進むがいい! 神があなたとともにおられるからである。かの大いなるとりなし手を思い出すがいい。キリストは丘の上におられ、あなたが谷間にいる間、嘆願しておられる。そして、必ずやその願いを聞き届けていただくに違いない。それゆえ、前進し、征服するがいい。キリストのゆえに!
私はもはやあなたに語りかけることができない。だが、私が常に自分の説教をしめくくるのを好む言葉を繰り返して終わらなくてはならない。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」![マコ16:16] おゝ! あなたがたがキリストを信ずるなら、おゝ! キリストに信頼を置く信仰を神があなたに与えてくださるなら、どんなに良いことか。これこそ救いの唯一の道である。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31]。
真理の戦い[了]
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