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恐れから出た問いと信仰の答え

NO. 108

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1856年8月31日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「神は力強く私と争われるだろうか。いや、むしろ私に心を留めてくださろう」。――ヨブ23:6


 私は今晩、この言葉と前後のつながりを考察するつもりはない。すなわち、ここでヨブが特に何を云おうとしていたかを考えるつもりはない。ことによると、私はこの言葉を、彼が意図していたのとは違う意味で用いるかもしれない。疑いもなくヨブはこう云おうとしていたのであろう。すなわち、もし神が私に、御前で私の立場を論ずることさえ許してくださるとしたら、自分は堅く信ずる。神は、その至高の力を論争の中で悪用するどころか、私に力を与えることさえして、その論争が公正なものとなり、そのさばきが偏らないものとなるようにしてくださるであろう。「神は力強く私と論争されはしない。いや、むしろ私に力を入れてくださろう」、と。しかしながら、今晩、私たちは、この聖句を別の意味に用いたいと思う。

 失われ、破滅した状態を示す確実な目印の1つは、私たちが神に関して無頓着で、無関心であるということである。神を忘れる悪人であること、これは罪の中に死んでいる人々に特有の目印の1つにほかならない。彼らの考えのどこにも神はいない。「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている」[詩14:1]。罪深い人が絶えず自分の精神の中から排除し、一瞬も考えまいとするのは、神のご本性と、存在と、ご性格である。そして、人が新生していない者である限り、その好みにとって、あるいはその感情にとって何物にもまして忌まわしく思えるのは、かの《天来の存在》に関わる一切合切である。《創造主》としての神であれば、ことによると、その人も考察するかもしれない。だが聖書の神、無限のエホバ、公正をもって人の子らを審く――断罪し、釈放する――お方、そうした神はお呼びでない。その人の考えの中には全くなく、敬われてもいない。そして、よく聞くがいい。心の中に恵みの働きがなされていることを示す、ほむべきしるしは、人が神を考え出すときである。自分の心の中で神について思い巡らす人、こうした人は神の心から遠くはない。もし私たちが神を求めたい、神を知りたい、神を理解したい、神との平和を得たいと願っているとしたら、それは神が私たちの魂を取り扱っておられるしるしである。さもなければ、私たちは今なお神の御名を憎み、神のご性格を忌み嫌っていたはずだからである。

 本日の聖句の中には、この《天来の存在》に関わる2つのことがある。最初のものは、恐れから出た問いである。「神は力強く私と争われるだろうか?」 第二のものは、信仰の答えである。「いや、むしろ私に心を留めてくださろう」。恐れつつ祈りをささげ、罪について案じつつ神を恐れる人々は、信仰をもって神を信じている人々と同様、希望のある状態にある。それゆえ、一方の問いも、もう一方の答えも、どちらとも、この偉大なエホバ、私たちの神、永遠にあがめられるべきお方について言及しているのである。

 I. まず最初のこととして私たちが今晩考察したいのは、《恐れから出た問いかけ》である。「神は力強く私と争われるだろうか?」 私はこれを、罪を確信させられた罪人によって発された問いであると考えたい。その人は救いを求めているが、あなたの神のもとに来て、あわれみを見いだせ、と命じられるとき、自らの強い不安に突き動かされて、震えながらこう問いかけざるをえないのである。「神は力強く私と争われるでしょうか?」

 1. では、私が第一にこの問いから推察する事実は、真に悔悟した罪人は、神の属性の多くについて正しい観念をいだいている、ということである。その人は、そのすべてを理解しているわけではない。例えば、神の大いなるあわれみについてはまだ知らないし、神の無窮のいつくしみ深さをもまだ理解していない。だが、その神理解の限度内において、その人は神について抜群に透徹した見方をしている。その人にとって、永遠のエホバは、あらゆる属性と行動において偉大なお方に見え、何にもましてその《威光》において偉大であられる。あわれな世の子らも、神がいることは知っているが、彼らにとって神は小さな神である。神の《正義》について云えば、世俗の人はほとんど全くそのことについて考えられない。神がいると考えてはいても、正義などほとんど全く尊重しない《存在》であるとみなしている。だが、いったん神がその人に自らの罪について確信させなさると、その人は神を偉大な神、偉大な正義を有する神、偉大な御力を有する神であると見てとる。神の大いなる正義や、神の大いなる御力について、たといだれが誤解していようと、罪を確信させられた罪人は決して誤解しないであろう。神の正義についてどう思うかその人に聞いてみれば、それは大きな山のようなものです、と答えるであろう。それは高く、その頂に到達することはできない。「あゝ」、とその人は云う。「神の正義はとても力あるものです。それは私を打ち殺すに違いありません。神は私の素っ首の上に災厄の雪崩を叩きつけるに違いありません。正義の要求によって、神は私を罰することでしょう。私は大罪人ですから、神が私のそむきや、不義や、罪を見過ごしにされるなどとは考えられません」。このような人に向かって、神はさほど大きな正義を持ってはいないよ、などと告げても全く無駄であろう。「いいえ」、とその人は答える。厳粛きわまりない口調で、「いいえ」、と答える。そして、その人が、「いいえ」、と云うときの顔つきを見れば、その真剣さがはっきりと見てとれる。その人は答える。「私は神が正義であられると感じます。私は今でさえ神の怒りによって焼き尽くされています。神の御怒りに私は苦しんでいるのです」。その人は云う。「だれが神は正義でないと云おうと、私は神が正義であると知っています。《天来の》あわれみが私を救い出さない限り、もうほんの一、二時間もすれば地獄が私を丸呑みにするに違いないと感じます。キリストがその血で私を洗ってくださらないとしたら、私は決して贖われた者たちの間に立つ望みはないと感じます」。その人は、神の正義について、あなたがたの中のある人々が有しているような奇妙な観念を持ってはいない。あなたは、罪など些細なことだと考えている。ちょっと短く祈りさえすれば、罪などことごとく拭い去ることができると思っている。自分の教会に、また自分の会堂に通っていさえすれば、自分のもろもろの罪を洗い流せると夢想している。あなたは神が、何となく、ごく簡単にあなたの罪を赦してくれるだろうと思う。しかし、あなたは神の正義についてまるで見当違いな考え方をしている。あなたは、神がお赦しになる前には必ず罰を下さなくてはならないことを知らない。もし神がだれかを赦すとしたら、それは神が、まずキリストをその人の身代わりに罰しておられるからなのである。しかし神は、まず刑罰を下すことなしには決してお赦しにならない。それは神の正義に違背することになるであろう。そして、全世界を審くお方は、公義を行なうべきではないだろうか? あなたがたは――あなたがたの中の多くは――、《天来の存在》の正義について、まるで締まりのない観念を有している。だが、罪の知識の下で苦しんでいる罪人はそうではない。

 覚醒した魂は、神が大いに力強いお方であるのを感じる。だれが、神など弱い、と云おうと、その人は答えるであろう。そして私は、神が大いなる力の持ち主であることを証明しようとしてその人が示すであろう事例を告げたいと思う。その人は云うであろう。「おゝ、神は正義と同じく力においても大いなる方です。向こうを見てください。あなたは暗い過去の中に、このことが見えませんか。反逆の御使いたちが神に対して罪を犯したとき、彼らは強大きわまりなく、そのめいめいがエデンを荒廃させ、地を揺るがすことができるはずでした。しかし神は、軽々とサタンと反逆の御使いたちを天から追放し、地獄へ叩き込まれたのです」。その罪人は云う。「さあ、神は力強くはあられないでしょうか?」 またそのとき、その人はさらにあなたに告げるであろう。いかに神が大わだつみの束縛を解き、陸地に躍り上がるようにされたか、またいかに神がその大海に命じて、箱舟に隠された者たちを除く定命の存在を呑み込ませたかを。そしてその罪人は、まなじりを決して云うであろう。――「さあ、これは神が大いなる力をお持ちである証拠ではありませんか、そして悪人を決して無罪放免にしない証拠にはなりませんか?」 これに引き続いて、その人はさらに云う。「あの葦の海をもう一度見てごらんなさい。いかにパロがその深みに誘い込まれたことでしょう。いかにその海が2つに分かれ、イスラエル人が悠々と通れるだけ離れて立ち上がっていたことでしょう。また、それがその後で、いかに大喜びで抱きしめ合い、その腕の中に敵の軍勢を閉じ込め、あっという間に呑み込んでしまったことでしょう」。そして、そう考えながら、その人は殺された者の上でうねる葦の海を見て、こう叫ぶ。「さあ、神は大いなる力をお持ちです。神がなさったことを考えると、そうでなくてはならないと感じます」。そして、あたかもそうした演説だけではまだ足りないかのように、また神の御力の偉大さをことごとく告げ知らせたいというかのように、その人は復讐の行為の物語を続ける。「さあ、思い出してください。おゝ、神は大いなる力をお持ちに違いありません。というのも私は、神が地獄を掘ったことを知っているからです。それは、深く、広く、底が知れません。神はトフェテを造られました。――そこには火とたきぎとが多く積んであります。主の息は硫黄の流れのように、それを燃やすのです[イザ30:33]」。その震える魂は呻いて云う。「そうです。疑いもなく神は大いなる力をお持ちに違いありません。私はそれを感じます。感じるどころではありません。私は、正義が神の力の御手を怒らさせて、私を打っているのを感じます。そして、あのキリストの義によって覆われない限り、私はまもなく粉々に砕かれ、神の御怒りの憤怒で完全にむさぼり食われるでしょう」。罪の確信の下にある場合、その罪人は、神のご性質の中でも、厳しい方の属性については、非常に公正で正確な観念を《天来の存在》についていだいている。だが、先に私が述べた通り、ご自分の契約の民に対する神のあわれみや無限のいつくしみのことはまだ理解していないので、その人は神について峻厳にすぎる見方をしており、暗い側にだけ思いを向けて、私たちの悲惨さという暗闇に、より快活な光を降り注がせるような属性には思いを向けない。これが、この聖句から私の拾い上げた最初の真理である。

 2. 私がこの問い、「神は力強く私と争われるだろうか」、から推察する第二の真理は、震えつつある罪人は、神のあらゆる属性が罪人としての自分を責め立てているように感じる、ということである。「おゝ!」、とその人は云うであろう。「私が神に目を向けるとき、神のうちに見えるのは、焼き尽くす火でしかありません。神の正義に目を向けると、それは抜き身の剣を手にして、今にも私を切り伏せようとしています。神の力に目を向けると、それは大きな山のように、今にもがらがらと崩れ落ちて私を粉砕しようとしているかのようです。神の不変性に目を向けると、その額には峻厳な正義が彫り込まれているのが見える気がします。そして私は聞くのです。『罪人よ。わたしは救わない。わたしはお前を罪に定める』、と。私が神の誠実さに目を向けると、神の脅しのすべてが、その約束と同じく、『しかりでありアーメンである』*[IIコリ1:20]ことに目がとまります。たとい神の愛に目を向けても、その愛でさえ私に渋面を向け、『あなたは私を軽んじた』、と私を責めるのです。神のあわれみに目を向けますが、そのあわれみすら稲妻の矢を発し、私を糾弾する声とともに、私の以前の心のかたくなさを思い出させ、私を厳しく非難するのです。『正義のもとへ行き、そこで拾えるものを拾うがいい。私は、私でさえもが、あなたに敵対する。あなたは私を憤らせたからだ!』」

 おゝ! おののきつつある悔悟せる人よ。あなたは今晩どこにいるだろうか? この場のどこかにいることを、私は知っている。あなたのような人々が数多くいれば何とよいことか! 私がそう云っても、あなたは同意してくれるだろうと私は知っている。というのも、あなたには非常に恐ろしい懸念があるからである。《天来の存在》のご性格のあらゆる属性が火と剣で武装して、あなたを滅ぼそうとしていると思えるのである。あなたは神のすべての属性が、重砲の放列のようにあなたを向き、今にも発射されんばかりになっているのを見ている。おゝ、願わくはあなたがキリストのうちに隠れ家を見いだせるように! そして、おゝ! あなたがた、これまで一度も罪を確信したことのない人たち。しばらくの間、私に、公正を測りなわとし、正義をおもりとせてほしい[イザ28:17]。このことを知るがいい。――ことによると、あなたは笑うかもしれないが――神のすべての属性は、あなたがキリストから離れている限り、あなたに敵対しているのである! もしあなたがイエスのみつばさの陰に身を避けていないとしたら、神の栄光に富む御名のうち1つたりとも、また、その神々しい属性のうち1つたりとも、あなたを呪っていないものはない。あなたは何と考えるだろうか? もし今晩あなたの玄関の前に重厚巨大な大砲が何門も据えられ、その全門に砲弾が装填され、あなたに向けて発射されることになっているとしたら? しかし、あなたは知っているだろうか? 今晩あなたが座っている場所には、重砲の隊列よりも悪いものがあなた目がけて発射されようとしているのである。しかり。私には見える。私には見える! そこには神の正義があり、また復讐の御使いが立っていて、手にした火縄で、いつなりともあなたに復讐を襲いかからせようとしている。そこに神の御力がある。そのむき出しの御腕があり、いつでもあなたの骨々をへし降り、あなたを粉々にすりつぶそうとしている。そこには神の愛があり、あなたがそれを拒絶したがために、全く怒りへと変じて赤々と燃え盛っている。また、そこには神のあわれみがあり、鎖かたびらをまとい、あなたを打ち倒そうとして、戦士のように出て来る。おゝ、罪人よ。今晩あなたは何と云うだろうか? あなたに対して神のすべての属性が刃向かっているのである。神はすでに弓を引き、狙いを定めておられる。天では主の剣に血がしみ込んでいる[イザ34:5]。それは輝いており、鋭く磨き立てられている。力ある御腕がそれをあなたの上に振り下ろすとき、あなたはいかにして逃れようか? あるいは、神がその弓を引き絞り、その矢をあなたに射るとき、またあなたをご自分のあらゆる復讐の的とするとき、いかにして身を避けようというのか? 用心するがいい。用心するがいい。あなたがた、神を忘れる者たち。神があなたを引き裂き、救い出す者もいないということがないように![詩50:22] というのも、あなたが《千歳の岩》に身を避けない限り、また、主の素晴らしい血潮の流れで身を洗わない限り、神はあなたをばらばらに引き裂くことになるからである。ならば、主に逃れるがいい。あなたがた、罪人のかしらよ。身を避けるがいい。しかし、もしそうしないというなら、このことを知っておくがいい。神はあなたに立ち向かっておられる! 神は力強くあなたと争われるであろう。あなたが、あらゆる栄光に富む私たちのイエスをあなたの弁護者として有さない限りそうである。

 3. そして、ここでもう1つのことだけ軽く述べておこう。咎ゆえにあえいでいる罪人は、神が「力強く彼と争われる」ならば、神は正しいと感じる。「おゝ」、とその人は云う。「もし私が祈りによって神のもとに行くとしたら、神は私の言葉を聞く代わりに、蛾でもあるかのように私を押しつぶすかもしれません」。何と、魂よ。神がそのようなことをしてさえ、神は正しいというのか? 「そうです」、とその罪人は云う。「正しいのです。何にもまして正しくあられるのです。ことによると私は、自分の飾り物をすべてはぎ取り、赤裸の者のようにして神のもとに逃れいくかもしれません。ことによると、そのとき神は、以前にもまして私を激しく鞭打つかもしれません。そして私は自分の裸のゆえに、ことさらに痛烈に感じるかもしれません」。では神の復讐のしもとがあなたの両肩に打ち下ろされるとしても、神は正しいことになるのだろうか? 「そうです」、とその人は云う。「間違いなく正しくあられます」。では、たとい神があなたを地獄のどん底に叩き落とすとしても、神は正しくあることになるのだろうか? 「そうです」、とこの悔悟せる者は云う。「正しくあられます。無限に正しくあられます。私には何の文句もありません。私はそれが当然の報いだと感じるでしょう。私の唯一の疑問は、果たして神がそうなさるときに正しくあられるかどうかではなく、果たして神がそうなさるかどうかです」。「神は力強く私と争われるだろうか?」 これは恐れから出た問いである。この場にいる方々の中には、ことによると、こうした問いをいま発している人々がいるであろう。

 さて、そうした人々は信仰の答えを聞くがいい。願わくは神が、そうした人々を完全に解放してくださるように。

 II. 《信仰の答えは》、「否」である。おゝ、罪人よ。この言葉を聞くがいい。「いや」。この一言のうちには、何連もの十四行詩がこめられている。「神は力強く私と争われるだろうか?」 「否、否」、と天国にいる聖徒たちは云う。「否」、と地上の信実な人々は云う。「否」、と幾多の約束は云う。「否」、と聖書のあらゆることばは声を大にして云う。否。断固として絶対に否。神は力強くあなたと争われない。むしろ、あなたに心を留めてくださろう。

 1. そして、ここで私たちは、この説教の前半で始めたのと同じような指摘を行なうことにしたい。すなわち、恐れている魂は、多くの点において神の正しい観念をいだいているが、信実な魂は、すべての点において神の正しい観念をいだいている。神を信ずる信仰を持っている人は、単に神を恐れているだけの人よりも、神についてずっと多くのことを知っている。神を信じている人は、いかなる人よりも神のことを理解している。何と、もし私が神を信じているとしたら、私は神のあらゆる属性の正しさが立証されるのを見てとるのである。私は正義の御怒りが、彼方の呪われた木の上で血を流し、苦しみを受けているお方によってなだめられていることがわかる。神のあわれみと神の正義が、神の御怒りと手を組んでいることがわかる。私は神の御力が今や私の味方となっており、もはや私に敵対してはいないことがわかる。神の真実さが、私の希望の屠殺者となる代わりに、私の魂の守護者となっていることがわかる。神の一切の属性が、ことごとく結合し、ことごとく栄光に富んでおり、ことごとく麗しく、そのすべてが人を救うみわざにおいて合体していることがわかる。神を恐れる者は、神について半分を知っている。だが神を信ずる者は、神について知りうる限りのすべてを知っている。そして、神を信じれば信じるほど、神を理解し、そのご栄光を、そのご性格を、そのご性質を、その数々の属性を了解するようになる。

 2. 次のこととして、信仰者は、神との平和に至らされるとき、神の御力を考えても震えることがない。その人は決して、「神は力強く私と争われるだろうか?」、と問うことがない。むしろ、こう云う。「否。以前は私の恐怖であり恐れであった当の御力こそ、今や私の隠れ家であり私の希望なのだ。というのも、神は私に心を留め、まさにその力を私に与えてくださるからである。私は神が《全能者》であられることを喜ぶ。というのも、神は私にその全能性を貸し与えてくださるだろうからである。――『私に心を留めてくださろう』」。さて、ここには偉大な思想がある。もしも私の手に負えるものだったとしたら、実際、私は、良い機会とばかりにそれをあなたに告げ知らせるであろう。しかし、私にはその雄弁の高みに達することができないため、単にしばしの間、この思想をあなたに提示するだけとしたい。私の魂を断罪していたであろう当のその力を、神は私のうちに入れて、救いのみわざが完成されるようにしてくださる。しかり。神はその力をもって私を押しつぶすのではなく、むしろ、まさにその力を私の中に入れてくださる。あなたは御座に着いている《力強いお方》が見えるだろうか? 恐れ多い《主権者》よ。私にはあなたの恐るべき御腕が見えます。何と、あなたは罪人を押しつぶしなさるでしょうか? あなたは彼をあなたの力によって全く滅ぼしなさるでしょうか? 「否」、と神は仰せになる。「ここに来るがいい。わが子よ」。そして、あなたが神の《全能の》御座に赴くと、「さあ」、と神は云われる。「あなたを身震いさせていたのと全く同じ腕だ。見るがいい。それをわたしはあなたに差し伸ばしている。行って生きるがいい。わたしはあなたを、わたしのわざを行なえるようにするため、わたしと同じように力強い者とした。わたしはあなたのうちに力を入れた。あなたを刑車でばらばらに引き裂いていたはずの同じ力が、今やあなたのうちに入れられている。あなたが力強い働きを行なえるようになるためである」。

 さて、私はあなたに、この偉大な力がいかにして自らを現わすかを示すことにしよう。時としてそれは祈りによって伝えられる。あなたは、神がうちに力を入れてくださった人の祈りを聞いたことがあるだろうか? たぶんあなたも、私たちの中のある者たち――貧弱で、取るに足らない魂――が祈るのを聞いたことがあるであろう。だが、あなたは神が巨人とされた人の祈りを聞いたことがあるだろうか? おゝ、もしあるとしたら、あなたは云うであろう。そのような人が嘆願するのを聞くのは素晴らしいことだ、と。私はその人が、あたかも御使いをつかまえては、屈服させようとしているのを見た。その人も、時おりはその組み打ちにおいて足をすべらせる。だが、その人は巨人のように、足場を回復すると、まるでヤコブのように御使いを地面に叩きつけるように思われた。私はその人があわれみの御座をつかみ、こう宣言するのに注目した。「主よ。私は決して去らせません。私を祝福してくださらなければ」*[創32:26]。私は、その人を見た。天国の門が見るからに閉ざされているときに、そこに上っていき、こう云うその人を。「門よ。イエスの御名によって大きく開け」。そして、私はその門が、あたかもその人が神ご自身ででもあるかのように、目の前でパッと開くのを見た。というのも、その人は、《全能の神》の力で武装しているからである。私はその人が、祈りの中で何か大きな山が道の途中にあることに気づくのを見た。そして、その人がそれを祈り倒すと、それはもぐら塚ほどの小ささになってしまった。その人はその山々を打ち叩き、それを、その莫大な力によってもみがらのようにした。あなたがたの中のある人々は、私が宗教的狂信を語っていると思っている。だが、そうした事例はこれまでにあったし、今もあることなのである。おゝ! ルターが祈るのを聞けたとしたらどんなによいことか! 知っての通りルターは、メランヒトンが死につつあるとき、その臨終の床に行き、こう云った。「メランヒトンよ、死んではならない!」 「おゝ」、とメランヒトンは云った。「私は死ななくてはなりません。これは労苦と苦難の世界なのですから」。「メランヒトンよ」、と彼は云った。「私には君が必要なのだ。神の御国の進展には君が必要なのだ。そして、私の名前がルターであるのと同じくらい、君は死んではならないのだ!」 医者はメランヒトンが死ぬだろうと云った。よろしい。ルターは膝まづき、死を引き寄せ始めた。老巧な死はメランヒトンのために激しく戦った。死はほとんどメランヒトンをその両肩にかつぎ上げていた。「彼を降ろせ」、とルターは云った。「彼を降ろせ。私には彼が必要だ」。「知ったことか」、と死は云った。「こいつはわしの餌食だ。わしのものだ!」 「彼を下に降ろせ」、とルターは云った。「下に降ろせ。さもないと、私が相手だ!」 そして彼はその物凄い怪物につかみかかり、それを地べたに叩きつけるかのように思えた。そして、妻を黄泉から連れ帰ったオルフェウスのように、まさに死の陰から勝利を得て出てきた。彼はメランヒトンを祈りによって救い出したのである! 「おゝ!」、とあなたは云う。「それは極端な場合ですよ」。否。愛する方々。あなたが夢想する半分も極端なことではない。この場には、別の場合に同じことを行なった人々がいる。あることを神に祈り、それを得た人々、御座のもとに赴き、約束を示し、それが成就するのでなければ一歩も動きませんと云い、《全能者》に打ち勝って神の御座から戻ってきた人々がいる。というのも、祈りは、世界を動かしている腕を動かすからである。「祈りは神の腱である」、と云った人がある。「それは神の御腕を動かす」。その通りである。まことに、祈りには、信実な心の力とともに、この聖句の美しい成就がある。「神は……私に心を留めてくださろう」。

 第二の例証である。祈りのみならず、義務においても、神を大いに信ずる人、神が心を留めて力を授けてくださった人は、いかに巨人のようになるだろうか。

 あなたは一度も、こうした偉大な英雄たちのことを読んだことがないだろうか? 彼らは全軍を敗走させ、王たちをツァルモンの雪のように散らした[詩68:14]。私はきょう、古のスコットランド教会について書かれた本を読んだが、当時はかのジェームズ王が彼らを暗黒の監督制の下に置こうとしていた。アンドリュー・メルヴィルや彼の盟友たちが代表者として委任され、すでに書き上げられた陳情書を持って出かけようとしたとき、身の安全を考えて立ち返るよう彼らに警告する者があった。彼らの命が危険にさらされていたからである。彼らは一瞬立ち止まり、アンドリューが云った。「神に感謝すべきかな。私は恐れていない。キリストの御国と使信のために心がくじけてもいない。神が何を送ろうとも、私たちの任務は実行してみせる」。この言葉に代表団は勇気づけられ、前進した。王宮に着き、謁見を許されたとき、彼らは国王がレノックスとアランその他の貴族たちに付き添われていることに気づいた。その全員が英国人であった。彼らはその抗議文を提出した。アランがそれを卓子から取り上げ、さらさらと一読すると、それをこの牧師たちに突き返し、憤然として要求した。「このような反逆罪に相当する条項に、だれが署名するというのだ?」 「《私たちが》いたします」、とアンドリュー・メルヴィルが云った。「そのためなら一命をささげる所存です」。このように語ると、彼はその卓子に進み寄り、洋筆を取り上げると、自分の名を署名し、彼の兄弟たちがそれに続いた。アランとレノックスは度肝を抜かれた。王はじっと黙って見守り、貴族たちは驚愕していた。このようにして、私たちの勇敢な先祖たちは王たちの前に出ても、恥を見ることがなかったのである。「高ぶる者どもは、ひどく彼らをあざけりました。しかし彼らは、神のみおしえからそれませんでした」*[詩119:51]。この短い会見の後、その義務を果たした彼らは、無事に退出することを許された。国王は、全軍がその門に押し寄せてきたよりも彼らに震え上がったのである。それはなぜだったか? 神がその御力を彼らのうちに入れて、彼らにその義務を存分に行なわせておられたからである。そして、あなたがたの間にもそうした人々が何人かいる。彼らはさげすまれているかもしれない。だが神は彼らを力あるダビデの勇士としておられる。彼らは雪の中を洞穴に降りて行き、雄獅子の喉輪をつかんで打ち殺すのである[IIサム23:20]。私たちの諸教会の中にいる幾人かの人々は――確かにごく少数であることは認めるが――、アブディエルのように自分の神に仕えることを恐れず、「不信仰な者らの中にあって忠実な者であると見いだされた」。私たちの中のある人々は、時代の慣習に屈することなく、富の膝元にひれ伏すことを軽蔑し、現代のあまりにも多くの教役者たちが常とする日和見的な言葉を用いようとせず、むしろ神の福音と、キリストの純白の旗じるしのためにあくまで抵抗し、それが人間たちの教義によって汚されることも、汚点をつけられることもないようにしようとしている。そのとき彼らは何と力強いことか! なぜ彼らは力強いのか。神が力を彼らのうちに入れておられるからである。

 それでも、ある人は、私が極端な場合を取り上げていると云う。ならば、来るがいい。ここで私たちはなじみ深い場合を取り上げてみよう。あなたがたと同じ種類の人々の中のひとりで、あなたがた自身と同じような者となる人々である。あなたは一度でも立って、天国を眺めたことがあるだろうか? あなたの魂とパラダイスとの間に横たわる山々を目で認めたことがあるだろうか? あなたが戦わなくてはならない獅子たち、打ち殺さなくてはならない巨人たち、渡らなくてはならない川の数を数えたことがあるだろうか? あなたに押し寄せて来ざるをえない幾多の誘惑、あなたが耐えなくてはならない幾多の試練、打ち勝たなくてはならない幾多の困難、避けなくてはならない幾多の危険に一度でも注意したことがあるだろうか? 一度でも天国を俯瞰して、そこへ至るまでの通り道に沿って分厚く散りばめられたすべての危険を眺め渡したことがあるだろうか? そして、自分に向かってこう問うたことがあるだろうか? 「いかにして私が、このあわれでか弱い虫けらが、あそこに辿り着くことなどできようか?」 あなたはこれまで内心こう云ったことがあるだろうか? 「私は、自分のすべての敵たちにかなわない。いかにして私がパラダイスに着くことなどできようか」。もしあなたが今までこの問いを発したことがあるとしたら、私はそれに対する唯一の答えをあなたに告げよう。あなたは《全能の》力を授けられない限り、決して勝利を得ることはできない。あなたの通り道は容易かもしれないが、それは、《全能の》力を抜きにしては、あなたの乳児じみた力には困難すぎる。あなたの通り道には大した誘惑がなく、浅い試練しかないかもしれないが、あなたはそれでも《全能の》力によって保たれない限り、そこで溺れてしまうであろう。よく聞くがいい! いかにあなたの道がなだらかであろうと、《神格》のむき出しの御腕がなければ、あなたがたの中のただのひとりでさえ、天国に行き着くことはない。私たちには《神聖な》力がなくてはならない。さもないと、私たちは決してそこに到着するまい。そして、そこにこの言葉の例証があるのである。「いや、むしろ私に心を留めてくださろう」。

 「では、私は最後まで持ちこたえるのだろうか?」、と信仰者は云う。しかり。あなたは持ちこたえる。というのも、神の力があなたのうちにあるからである。「私はこれこれの試練に耐えられるだろうか?」 しかり。耐えられる。《全能》には奔流をせき止めることができないだろうか? だが《全能》があなたのうちにあるのである。というのも、古のイグナティオス[殉教者]のように、あなたは「神を運ぶ者」だからである。あなたは、神をその身にかかえているのである。あなたの心は聖霊の宮であって、あなたが打ち負かされることは決してない。「しかし、私はこれこれの邪悪な日に抗して立つことができるだろうか?」 おゝ! しかり。あなたにはできる。というのも、神はその御力をあなたのうちに入れてくださるからである。少し前に私が、ある教役者たちの集まりの中にいたとき、彼らのひとりがこういうことを云った。「兄弟。もしスミスフィールドに火刑柱がまた立つようなことになったとしても、残念ながら、私たちの間で焼かれることになるのは、ごく僅かな人々だけだと思いますよ」。「よろしい」、と私は云った。「私は、あなたがどういうふうに焼くかについては全くわかりません。ですが、このことだけは、はっきりわかっています。キリストのために喜んで死のうとするような者はひとりもいないでしょう」。「おゝ!」、と彼は云った。「ですが、彼らは正しい種類の人々ではありませんよ」。「よろしい」、と私は云った。「ですが、あなたは彼らが主の子どもたちだと思いますか?」 「ええ、思いますよ。ただ、正しい種類の人々ではないのです」。「あゝ!」、と私は云った。「ですが、あなたは彼らがその試験に遭うときには、正しい種類の人々であることに気づくでしょう。彼らは、まだ焼かれるための恵みを得ていないのです。それがいま何の役に立つでしょう?」 私たちは火刑柱がやって来るまで、その恵みを必要としない。だが、焼かれる瞬間には焼かれる恵みを得るであろう。もし今、今晩、私たちの中の百人の者たちがキリストのために死ぬよう召されたとしたら、私の信ずるところ、そこには単に百人のみならず、五百人の人々が勇んで死に向かって行進し、その間ずっと歌っているであろう。信仰を見いだすところどこにおいても、神はその人に力を入れてくださると思う。また、神を信ずる信仰を持っている人には何事も決して不可能ではないと思う。こう書かれているからである。「神は……私に心を留めてくださろう」。

 3. しかし、ここで最後に述べたいことは、私たちがみなこれを人生の最後には要するということ、またこう書かれているのは私たちにとってあわれみだということである。というのも、ことによると、そのときほど私たちがそれを必要とするときはないかもしれないからである。おゝ、信仰者よ。あなたは、あなた自身の筋骨によってヨルダンを泳ぎ渡れると思うのだろうか? カエサルは、着たものも脱がずに跳びこんだテヴェレ川を泳ぎきれなかった[シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』(I, ii.)]。では、あなたは、あなたの肉をまとったままでヨルダンを泳げると希望するのだろうか? 否。あなたが沈み込まないためには、アイネイアースが燃えるローマ[トロイ]から父アンキーセースを救出したように、イエスがその肩にあなたを乗せてヨルダンから引き上げ、その流れを越えさせてくださるほかはない。あなたは決してその川を歩いては渡れないであろう。あなたがこの暴君に立ち向かい、面と向かって微笑むには、定命の力を越えたものがなくてはならない。そのときあなたは、神性の帯を締める必要がある。さもなければ、あなたの腰はゆるみ、あなたの力はあなたが最も必要とするときに抜け落ちるであろう。多くの人は自分自身の力でヨルダンに立ち向かったが、おゝ! 最初の波がくるぶしに触れたとき、その人が何という悲鳴を上げ、泣きわめいたことか! しかし、いかに軟弱な者も神をうちにいだいて死に赴いたときには、自分が墓よりも力強いことを見いださないことはなかった。行くがいい。キリスト者よ。というのも、これがあなたへの約束だからである。「神は……私に心を留めてくださろう」。

   「われ弱くとも 御力あらば
    すべてのことを 成し遂げうべし」。

行くがいい。神の力を恐れるのではなく、喜ぶがいい。神はその御力をあなたに入れてくださる。あなたを押しつぶすために御力をお使いにはならない。

 もう一言だけ語って終わりにしよう。私が堅く確信するところ、いま私の声の届くところには、キリストを求めている人がいるであろう。その唯一の恐れはこうである。「先生。私は祈りたいと思うのに祈れないのです」。おゝ! 魂よ。このことを聞くがいい。「神はあなたに心を留めてくださろう」。家に帰って、膝まづくがいい。もしも祈れなければ、呻くがいい。呻けなければ泣くがいい。泣くこともできなければ情けなく感じるがいい。情けなく感じることもできなければ、情けなく感じることもできない自分を情けなく感じるがいい。というのも、そこまでは多くの人が達するからである。だが、そこにとどまることである。よく聞くがいい。そこにとどまるがいい。そのとき神は、あなたにその祝福をお与えになるであろう。祝福を得るまで立ち上がってはならない。自分の弱さをみなかかえてそこへ行き、もしも情けなく感ずることもできなれば、こう云うがいい。「主よ。私は当然感じてしかるべき情けなさを感じることもできません。ですが、おゝ、そう感じさせ給え! 主よ。私は悔い改めたいのに、悔い改めることができません。――おゝ、どうか助けを与え給え!」 「おゝ! 先生」、とあなたは云う。「ですが私にはそこまでも行けないのです。自分には強い願いがないように思うからです」。ならば行って云うがいい。「主よ。私は願いたいのです。願えるように助け給え」。そして、そのとき、あなたの失われた状態についてつくづく考えるがいい。あなたの破滅と、その救済策について考え、それを思い巡らすがいい。そして、よく聞くがいい。あなたがその道の途中にある間に、主ははあなたと出会ってくださるであろう。ただこう信ずるがいい。もしあなたがキリストを試すなら、キリストは決してあなたの試しをむなしいものにはなさらないであろう。行って、あなたの魂を、今晩キリストにゆだねるがいい。決死の思いでそうするがいい。罪人よ。いま行くがいい。乗るかそるか、そうしてみるがいい。行って云うがいい。「主よ。私にはわかっています。もしキリストを自分のものにできなければ、私は地獄落ちだと」。そこにとどまり、云うがいい。「もし滅びなくてはならないのだとしたら、私はここで滅びます」。そして、私はあなたに云うが、あなたは決して滅びはしないであろう。私は神の保証人である。もしあなたが真摯に祈り、キリストに信頼してさえ、なおもあなたの魂が地獄に行くとしたら、この首を切り落としてくれていい。もう一度云う。もしあなたが真剣にキリストを求めた後でもキリストがあなたを拒絶するとしたら、私は絞首刑になってもいい。縛り首の縄にこの首をかけられてもいい。ただ試してほしい。あわれな魂よ。私は切に願う。「おゝ」、とあなたは云う。「ですが私には十分な力がありません。私にはそれができません」。よろしい。あわれな魂よ。その贖いのふたまで、這いずって行き、ありのままのあなたで、そこにべったり寝そべるがいい。あなたは、真に悲惨なものは一言も語らなくともありありと物語ることを知っている。あわれな物乞いは街角でうずくまっている。彼は何も云わない。そこには、不揃いな膝が突き出しており、傷ついた手がある。彼は何も云わない。だが、胸の前で手を組んだまま、通行人のひとりひとりを見つめている。そして、ただ 一言も語らなくとも、彼は身の不幸をだらだらと語り続けたり、通りを歌い歩いたりするよりも、ずっと多くのものを得ている。それと同じようにあなたもするがいい。乞食のバルテマイのように道端に座っているがいい。そして、もし主がお通りになるのを聞いたなら、そのときには叫ぶがいい。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」[マコ10:47]。しかし、もしあなたがそれすら口にできなければ、そこに座って、あなたのあわれな傷を示すがいい。あなたの絶望的な状態を主に告げるがいい。あなたの忌まわしい腫れ物をかき破り、その毒液を《全能者》にお見せするがいい。あなたの心を裏返しにし、その悪臭を放つ腐敗をすべて《全能者》の目によって検分していただくがいい。そのとき、「主のあわれみは 豊けく代価(かた)なし」である。だれにそれが知れよう。あわれな罪人よ。だれにそれが知れよう? 主はあなたをごらんになるであろう。

   「イエスは死にたり 十字架の上に、
    罪人よ、なぜ、汝がためならずや?」

   「主権(たか)き恵みは 豊けく代価(かた)なし、
    ならばなぜ、そは 汝がためならずや?」

   「わが主はわれを 愛し、救いぬ、
    ならば云うべし、なぜ汝れならずや?」

ただそうするがいい。そして、もしあなたが罪人だとしたら、このことばを聞くがいい。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」[Iテモ1:15]。主は「力強くあなたと争われるだろうか。いや、むしろあにたに心を留めてくださろう!」 願わくは主が、その祝福とともにあなたを家路につかせてくださるように!

 

恐れから出た問いと信仰の答え[了]



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