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信仰

NO. 107

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1856年12月14日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」。――ヘブ11:6


 古のウェストミンスター会議による教理問答は、こう尋ねている。「人間の主たる目的は何か」。そして、その答えは、「神の栄光を現わし、永遠に神を喜ぶことである」。この答えは、この上もなく正しい。だが、それがもっと短かったとしても、同じくらい真実なであったであろう。人の主たる目的は、「神を喜ばせることである」、と。というのも、そうすることによって――これは、疑う余地ない事実であり、口にする必要もないことだが――、そうすることによって、その人は自分を喜ばせることになるからである。人間の主たる目的は、私たちの信ずるところ、現世においても来世においても、自分の《造り主》なる神を喜ばせることにほかならない。もしだれかが神を喜ばせるなら、その人は現世における、また永遠における、最も大きな幸福を自分自身にもたらすことを行なうのである。人は、神を喜ばせるとき、自分自身に多大な幸いを持ち来たらせないではいられない。というのも、もしだれかが神を喜ばせるなら、それは神がその人をご自分の子どもとして受け入れ、子とする祝福を与え、ご自分の恵みを豊かに注ぎ、今の生において幸いな人とし、永遠のいのちの冠を保証しておられるからである。そして、やがてその人はその冠を戴くことになり、地上の栄光という花冠がことごとく砕け去ったときにも、それは色あせることのない光輝で輝くのである。その一方で、もし人が神を喜ばせないとしたら、必然的にこの世で悲しみと苦しみを身に招かざるをえず、自分のあらゆる喜びの中心に虫と腐れをとりつかせることになる。その人は自分の臨終の枕を茨で一杯にし、自分を永劫に焼き尽くすことになる永遠の火に、燃えるそだを加える。神を喜ばせる人は、《天来の》恵みによって、神を愛し恐れるすべての人々の究極の報いへと旅し続けるが、神を喜ばせない人は、聖書が宣言している通りに、神の御前から追放され、結果的に幸福を享受できなくなる。ならば、もしも神を喜ばせることが幸福になることだというのが正しければ、唯一の重要な問いは、私はいかにすれば神を喜ばせることができるのか、ということである。そして、本日の聖句が語られているしかたには、非常に厳粛なものがある。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」。すなわち、あなたが何をしようと――いかに力を尽くして真剣に苦闘しようと――どれほど卓越した生き方をしようと――えり抜きのいけにえをささげようと――麗しく快いいかなることにおいて衆にすぐれていようと、こうしたいかなることをもってしても、それが信仰と混ぜ合わされていない限り、神にとって喜ばしいものとはなりえないのである。「あなたのささげ物には、いつでも塩を添えてささげなければならない」[レビ2:13]、と主はユダヤ人に仰せになった。それと同じように、主は私たちにこう云っておられる。「あなたの行ないには、いつでも信仰が伴わなければならない」。そうでない場合、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」。

 これは昔からのおきてである。最初の人と同じくらい古いおきてである。カインとアベルが世に生まれ出るや否や、また、彼らが成年に達するや否や、神はこのおきてを実際的なしかたで宣告された。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」、と。カインとアベルは、あるよく晴れた日に、隣り合った祭壇を築いた。カインは果物やたわわな作物を持って来て、それを自分の祭壇に置いた。アベルは群れの初子の一頭を持って来て、それを自分の祭壇に置いた。それから神がどちらを選ぶかが決されるはずであった。カインは自分の最上のものを持って来たが、信仰なしに持って来た。アベルも自分のいけにえを持って来たが、それを、キリストを信ずる信仰とともに持って来た。さて、どちらが最上の結果を得ただろうか? 2つのささげ物は価値としては同等であった。それ自体の値打ちについていえば、2つとも同じように良い物であった。天からの火はどちらに下るだろうか? 主なる神は、どちらを喜んでご自分の火で焼き尽くされるだろうか? おゝ! 私にはアベルのささげ物が燃えているのが見える。カインの顔は伏せられた。アベルとそのささげ物とに主は目を留められたが、カインとそのささげ物には目を留められなかったからである。このことは、最後の人が天国に集め入れられるときまで同じであろう。信仰で味つけされていないささげ物が受け入れられることは決してないであろう。いかに良い物であっても、またそれ自体としては信仰を伴ったささげ物と同じくらい良いものに見えても、信仰がそこになければ、神は決してそれを受け入れることがありえないし、受け入れないであろう。神はここでこう宣言しておられるからである。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」。

 私は今朝、自分の考えを努めて簡潔にまとめ、できる限り手短に、この主題の念入りな説明とも矛盾がないように語りたいと思う。第一に示したいのは、信仰とは何かという解き明かしである。第二に、信仰がなくては救われることが不可能だという議論である。そして第三に、1つの問いかけをしたい。――あなたは神を喜ばせるような信仰を有しているだろうか? こういうわけで、私たちは解き明かしと、議論と、問いかけを示すであろう。

 I. 第一に、《解き明かし》である。信仰とは何だろうか?

 古の著述家たちは、非常に賢い人々であった。――というのも、二百年近く前に、古の清教徒たちによって書かれた数々の書物を見ると、そのほんの一行にさえ、私たちの新しい書物の一頁にもまさる含蓄が込められており、その一頁の中にさえ、私たちの現代の神学書の一巻全体にもまさる内容があることに気づくからである。――こうした古の著述家たちの告げるところ、信仰は3つの事がらから成り立っている。まずは知識であり、次に同意であり、さらに彼らのいわゆる安頼、すなわち、自分の同意した知識をつかみ、信頼することによって自分のものとすることである。

 1. それではまず最初のことから始めよう。信仰における第一のことは知識である。人は自分の知らないことを信ずることはできない。これは明確な自明の公理である。もし私が、あることについて一生の間一度も聞いたことがなく、それをまるで知らないとしたら、それを信じることはできない。だがしかし、ある人々は、そうした類の、ずっと大きな信仰を有している。そうした人は、あなたは何を信じているのかと問われたとき、こう答えた。「私は《教会》が信じていることを信じています」。「《教会》は何を信じているのですか?」 「《教会》は私の信じていることを信じています」。「では、何をあなたと《教会》は信じているのですか?」 「何と、私たちはどちらも同じことを信じているのです」。さて、この人は、《教会》が正しいということ以外、何1つ信じていなかった。《教会》がいかなる点において正しいかを告げることはできなかった。ある人が、「私は信仰者です」、と云っても、自分が何を信じているのか知らなければ何の役にも立たない。だがしかし、私は何人かの人々がこうした立場にいるのを見てきた。ある激越な説教がなされて、その人々の血気をかき立てた。教役者は、「信ぜよ! 信ぜよ! 信ぜよ!」、と叫び、人々はにわかに、自分は信仰者なのだという考えを頭に入れる。そして、その礼拝所から出て来ると、「私は信仰者です」、と云うのである。その後の彼らが、「では、あなたは何を信じているのですか?」、と聞かれると、彼らは自分のうちにある希望[Iペテ3:15]について全く説明することができない。彼らが信じているのは、自分が次の日曜日にも会堂に行くつもりだということである。彼らは、そうした種別の人々に加わるつもりである。彼らは非常に大仰なしかたで歌い、非常に大声でがなり立てるつもりである。――それゆえ彼らは、自分が救われると信じている。だが彼らは、自分が何を信じているかを告げることはできない。もしその人が、「私は信じています」、と云いながら、自分の信じていることを知らないとしたら、いかにしてそれが真の信仰でありえるだろうか? 使徒はこう云っている。「聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう」[ロマ10:14-15]。ならば、真の信仰にとっては、人が聖書について、それなりに知っていることが必要なのである。嘘ではない。今の時代に、聖書は、かつてほど重んじられてはいない。何百年か前に、世界は頑迷固陋と、残虐と、迷信によって覆われていた。私たちは常に極端に走るもので、今の私たちはもう一方の極端に行き着いてしまっているのである。そのときには、こう云われていた。「1つの信仰が正しいのだ。他の信仰はみな拷問台と剣で打ち倒せ」。今はこう云われている。「数ある信条がいかに矛盾しあっていようと、それらはみな正しいのだ」。常識を働かせさえすれば、そうでないことはわかるはずである。しかし、ある人々は答える。「これこれの教理は説教される必要はありませんし、信じる必要もありません」。では、それが説教される必要のないものだとしたら、啓示される必要もないのである。というのもあなたは、神が何かを必要もなく啓示したと云っているも同然であり、必要以上のことをするというのは、必要以下のことをするのと同じくらい、神の分別が足りなかったことになるであろう。私たちの信ずるところ、神のことばのあらゆる教理は人々によって学ばれるべきであり、人々の信仰はこの《聖なる書》の内容全体をつかむべきである。とりわけ、私たちの全くほむべき《贖い主》のご人格に関わる、あらゆる聖書箇所についてそうである。ある程度の知識がない限り信仰はありえない。ならば、「聖書を調べなさい。あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思っているのですから。その聖書が、キリストについて証言しているのです」*[ヨハ5:39 <英欽定訳>]。そして、調べることと読むことによって、知識はもたらされ、知識によって信仰はもたらされ、信仰を通して救いはもたらされるのである。

 2. しかし、ある人が何かを知ってはいても、信仰を有していないこともありえる。私はあることを知っていながら、それを信じていないかもしれない。それゆえ、信仰には同意が伴わなくてはならない。すなわち、私たちは、自分の知っていることを、確実きわまりない神の真実として同意しなくてはならない。さて、信仰を持つために必要なのは、私が単に聖書を読み、それを理解するだけでなく、それを私の魂において、生ける神のまことの真理であると受け入れること、聖書の全体を《いと高き方》によって霊感されたものとして心の底から敬虔に受け入れること、そして、救われるために必要だとして神が私に信ずるよう要求しておられるすべての教理を受け入れることである。あなたは聖書を二分し、自分の好きなところだけを信ずることは許されない。そうしたことを故意に行なうならば、あなたにはキリストだけを見つめる信仰がないからである。まことの信仰は聖書に全面的に同意する。ある頁を取り上げると、「この頁の中に何と書いてあろうと、私はそれを信じます」、と云う。次の章をめくっても、こう云う。「この頁には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています[IIペテ3:16]。ですが、いかにそれが難しくとも、私はそれを信じます」。まことの信仰は《三位一体》を見てとる。《三位一体》の《統一》について理解はできないが、それを信ずる。贖いのいけにえを見てとる。こうした思想には困難なものがあるが、それを信ずる。そして、啓示の中に何を見てとろうと、この書に敬虔に口づけしてはこう云う。「私はこのすべてを愛します。私は、この一言一言に、完全で、手放しの、心からの同意をします。たといそれが脅かしであれ、約束であれ、教訓であれ、戒めであれ、祝福であれ関係ありません。私は、これがことごとく神のことばである以上、ことごとく何にもまして確実に正しいと信じます」、と。だれが救われるにせよ、その人は聖書を知っていなくてはならず、また、聖書に全面的に同意しなくてはならない。

 3. しかし、人はこうしたすべてのことをしていても、まだ真の信仰を有していないことがありえる。というのも、信仰の主たる部分は、この最後の項目に存しているからである。それは、真理に対する安頼であり、真理を単に信ずることではなく、それを自分のものとしてつかむことである。また、救われるために真理に依存することである。真理の上に安臥する、という言葉を古の説教者たちは用いていた。あなたはこの言葉を理解するであろう。よりかかることである。こう云うことである。「これは真理です。私は自分の救いをこのことにゆだねます」。さて、真の信仰は、その本質においては、このこと――キリストによりかかること――に存している。私は、キリストを《救い主》であると知ることによっては救われないであろう。だが、キリストを私の《救い主》として信頼するとき、救われるであろう。私は、キリストの贖いが十分であると信ずることによっては、必ず来る御怒りから救い出されないであろう。だが、その贖いを私の信頼の的とし、私の隠れ家とし、私のすべてとするものことによって、救われるであろう。信仰の勘所、信仰の本質は、ここに存している。――わが身を約束に投げかけることである。おぼれかかっている人を救うのは、船の上にかかっている救命浮輪ではない。それがうまくできた素晴らしい発明であるとその人が信ずることでもない。しかり! その人はそれを自分の腰の回りにつけなくてはならない。あるいは、それに自分の手をかけなくてはならない。さもないと、その人は沈んでしまうであろう。古くからある、使い古された例話を用いれば、かりにある家の二階が火事になり、表通りに人々が集まってきたとする。ひとりの子どもが二階にいる。どうすれば逃れることができるだろうか? 飛び降りることはできない。――からだがばらばらになるであろう。ひとりの屈強な人が真下に来て、「俺の腕の中に飛び降りろ」、と叫ぶ。その男がそこにいると知ることは信仰の一部である。その男が屈強であると信ずることも信仰の別の一部である。だが、信仰の本質は、その男の腕の中に飛び降りることに存している。それこそ信仰の証拠であり、勘所であり本質である。そのように、罪人よ。あなたはキリストが罪のために死なれたことを知るべきである。キリストには救うことがおできになると理解すべきである。だが、あなたが救われるためには、そうしたことに加えて、キリストを信頼し、キリストにあなたの《救い主》となっていただかなくてはならない。これは、ハートがその、福音の本質をつく賛美歌で云っていることと同じである。――

   「神に賭(まか)せよ またく汝が身を
    他(た)のもの頼る 心よとく去れ
    イエスのみなるぞ
    よわき罪人 救うるは」。

これこそ、人を救う信仰である。そして、今の時点までのあなたの人生がいかに汚れたものであったとしても、この信仰が今の瞬間にあなたに与えられるとしたら、それはあなたの罪をことごとく拭い去り、あなたの性質を変え、あなたをキリスト・イエスにある新しい人とし、あなたが聖い生き方を送れるように導き、あなたの永遠の救いを、さながらひとりの御使いがその輝く翼にあなたを乗せて、即座に天国に連れて行った場合と同じくらい確実なものとするであろう。あなたにはその信仰があるだろうか? それこそ唯一のきわめて重要な問題である。というのも、信仰を持つ人々は救われるが、信仰を持たない人々は罪に定められるからである。ブルックスがその素晴らしい著作の1つで云ったように、「主イエス・キリストを信ずる人は、その罪がいかに多くとも救われるが、主イエスを信じない人は、その罪がいかに少なくとも罪に定められなくてはならない」。あなたには信仰があるだろうか? この聖句は宣言している。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」。

 II. さてここから私たちは、《議論》に入る。――私たちは、なぜ信仰がなくては救われないのだろうか。

 今この場には、こう云っている紳士の方々がいるであろう。「さあ、われわれはスポルジョン氏のうちに、何か論理があるかどうか見てやろう」。否。方々がそれを見ることはないであろう。なぜなら、私は決して論理を発揮しようなどとは考えていないからである。私には人々の心に訴えることのできる論理があるとは思うが、私は、別のしかたで心を獲得できるときに、それよりも非力な、頭の論理を用いる気分にはあまりならない。しかし必要とあらば私は、私を咎めだてしようとする小さな人々よりも、ずっと卓越した論理と、他の多くの事がらを知っていることを、はばかりなく証明するであろう。彼らが、いかにして自分の舌を抑えるべきか知っていたとしたら、どんなによかったことか。舌を制すること、それは、少なくとも修辞学の洗練された部分である。私の議論は、心と良心に訴えるはずだと思う。おそらく、それは三段論法的推論を常に好む人々の気には必ずしも召さないであろう。そうした人々は、こう歌われている人々に等しい。――

   「髪の毛一筋 あやまたず
    西と北西に 分割(わ)けうべし」。

 1. 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」。そして私はそれを、この事実から推断するものである。すなわち、聖書の中には、信仰なしに神をお喜ばせした人が、ひとりも記されていない。ヘブル書11章は、神をお喜ばせした人々の章である。その名前に耳を傾けてみるがいい。「信仰によって、アベルは……すぐれたいけにえを神にささげ……ました」。「信仰によって、エノクは……移されました」。「信仰によって、ノアは……箱舟を造り……ました」。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に……出て行きました」。「信仰によって、モーセは……エジプトの富を捨てました」*。「信仰によって、イサクは……ヤコブ……を祝福しました」。「信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し……ました」。「信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り……ました」。「信仰によって、紅海はかわきました」*。「信仰によってエリコの城壁は崩れ去りました」*。「信仰によって遊女ラハブは救われました」。「これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう」。しかし、こうしたすべての人々は、信仰の人であった。聖書の中で言及されている他の人々も何事かは行なってきた。だが神は彼らを受け入れなかった。人々は自らをへりくだせてきた。だがしかし、神は彼らをお救いにならなかった。アハブはそうしたが、彼のもろもろの罪は決して赦されなかった。人々は悔いたが、それでも救われなかった。それが間違った悔い改めだったからである。ユダは後悔し、首を吊ったが、それでも救われなかった。人々は自分の罪を告白してきたが、救われなかった。サウルはそうした。彼はダビデに、「私はおまえに罪を犯した。わが子ダビデ」*[Iサム26:21]、と云ったが、それでも、以前と同じように生き続けた。おびただしい数の人々がキリストの御名を告白し、多くの驚くべきことを行なってきたが、それでも決して神に喜ばれることはなかった。その理由はごく単純に、彼らが信仰を有していなかったことにある。そうした者は、数千年に及ぶ聖書の中に、ひとりも言及されていない。では、最初の四千年の間にひとりもいなかった以上、それから先の二千年の世界歴史の中で、もうひとりいたとは考えられないであろう。

 2. しかし、その次の議論として、信仰は身をかがめる恵みであり、信仰がなくては何をもってしても人に身をかがめさせることはできない。さて、人が身をかがめない限り、その人のいけにえは受け入れられない。御使いたちはこのことを知っている。彼らは、神を賛美するときには、その翼で自分たちの顔を覆いながらそうする[イザ6:2]。贖われた人々はこのことを知っている。彼らは、神を賛美するときには、御足の前にその冠を投げ出す[黙4:10]。さて、信仰のない人は、身をかがめることができない。というのも、その人に信仰がないのはまさにこの理由にあるからである。彼らは、信ずるには誇り高すぎるのである。その人は、自分の知性を明け渡さないと宣言する。子どものようにはならないし、神が信ぜよと告げることをおとなしく信じはしない。その人は誇り高すぎて天国に入ることができない。天国の門は低すぎて、頭を低めない限り、だれも中に入ることができないからである。直立したまま救いへと歩いて行けた人はひとりもいない。私たちは、かがめた膝によってキリストのもとに行かなくてはならない。というのも、キリストは最大の罪人でも入れるほどに大きな門ではあるが、救われたいと思ういかなる人も身をかがめなくてはならないほど低い門であられるからである。それゆえ、信仰が必要なのは、信仰が欠けている場合、謙遜がないことを確実に証明するからである。

 3. しかし、ここには別の理由もある。救いにとって信仰が必要なのは、聖書の告げるところ、行ないは救うことができないからである。非常になじみ深い話がある。いかにあわれな人も私の云うことを誤解することはないであろう。ある日、ひとりの教役者が説教しに出かけた。途中で彼はある山に上った。彼の下には、美しくまどろんでいる村々があり、陽光の中に麦畑が穏やかなたたずまいで広がっていた。だが彼はそうしたものを眺めはしなかった。というのも、彼の注意は、とある家の戸口のところにたたずんでいるひとりの女に引きつけられたからである。彼女は彼を見るなり、非常に苦悩した様子で、彼のもとにやって来ては云った。「おゝ、先生。何か鍵をお持ちではありませんか? 私は自分の引き出しの鍵を壊してしまったのです。そして、そこには私が今すぐ必要なものが入っているのです」。教役者は云った。「私には何の鍵もないよ」。彼女は、だれもが何かしら鍵を持っているものと当てにしていたので、がっかりしてしまった。「だが、考えてもごらん」、と彼は云った。「何か鍵があったところで、それはお前さんの錠には合わないかもしれん。その場合、お前さんは今ほしがっている品物を手に入れられんよ。しかし、悩んでいてはいかん。しばらく待っていれば、だれか別の人がやって来るだろう。だが」、と彼はこの機会を善用したいと思ってこう云った。「おまえさんは、天国の鍵のことを聞いたことがあるかな?」 「あゝ! ありますとも」、と彼女は云った。「私は長く生きてきましたし、教会にもずっと通ってましたから、知ってますよ。もし私たちが一生懸命働いて、額に汗して日々の糧を稼ぎ、自分の隣人たちに良くしてやり、教理問答が云うように、目上の人たちには、謙遜でうやうやしくふるまうなら、――それから、もし私たちが神のみこころによって与えられた人生の持ち場で自分の義務を果たし、欠かさずにお祈りを唱えるなら、私たちは救われるんでしょう」。「あゝ!」、と彼は云った。「愛する婦人よ。それは壊れた鍵なのだ。というのも、お前さんは戒めを破ってきたし、自分のすべての義務を果たして来なかったからだ。それは良い鍵ではあるが、お前さんはそれを壊してしまったのだ」。「なら先生」、と彼女は云った。彼がこの問題について理解していると信じて、恐ろしくなった様子であった。「私は何を忘れましたんで?」 「何と」、と彼は云った。「とても大切なことだ。イエス・キリストの血だよ。お前さんは、天国の鍵がキリストの腰にぶらさがっているのを知らんのかな。彼が開くと、だれも閉じる者がなく、彼が閉じると、だれも開く者がないのだ[黙3:7]」。そして、このことを詳しく彼女に説明してやりながら、彼は云った。「お前さんのために天国を開けるのは、キリストなのだ。キリストだけなのだ。お前さんの良い行ないではなくな」。「何てことでしょう、先生」、と彼女は云った。「では、私たちの良い行ないは無駄骨折りなんですか?」 「そうではない」、と彼は云った。「信仰を持った後では違う。もしお前さんがまず信じるなら、好きなだけ良い行ないをしてよい。だが、もしお前さんが信ずるとしたら、お前さんは決して行ないに信頼するまい。というのも、もしお前さんがそれに信頼するとしたら、お前さんはそれをぶちこわしにしてしまうのだ。そしてそれらはもはや良い行ないではないのだ。良い行ないは好きなだけするがいい。それでも、お前さんの信頼は、全く主イエス・キリストに寄せることだ。というのも、そうしなければ、お前さんの鍵は決して天国の門口を開くことができないからだ」。さて、話をお聞きの方々。私たちはそのようにして真の信仰を持たなくてはならない。なぜなら、行ないという古い鍵は、私たち全員によって壊されてしまっており、それよって私たちは決してパラダイスに入ることがないからである。もしあなたがたの中のだれかが、自分には何の罪もないというのであれば、あなたに対しては非常に率直になろう。あなたは自分を欺いており、真の信仰はあなたのうちにはない。もしあなたが、自分の良いわざによって天国に入れると思い描いているとしたら、これほど致命的な迷妄は決してありえない。そして、あなたは最後の大いなる日に思い知るであろう。あなたの、最も高貴な行ないでさえ吹き飛ばされるか、あなたの内側で炎と燃え、あなた自身は永遠に苦しむことになるのだ、と。あなたの良いわざには用心するがいい。それは信仰の後で得るがいい。だが、救われるための道は、単純にイエス・キリストを信ずることである、と覚えておくがいい。

 4. さらに、信仰がなければ救われることも神に喜ばれることも不可能なのは、信仰がなくては決してキリストと結び合わされることがないからである。さて、キリストとの結合は、私たちの救いにとって不可欠である。たとい私が自分の祈りを神の御座の前に携えて行くとしても、私とともにキリストを連れて行かない限り、決してそうした祈りには答えをいただけないであろう。古のモロシア人たちは、自分たちの王に願いを聞き入れてもらえなかったとき、異様な手段を取った。彼らは王のひとり息子を腕でかかえると、一斉に膝まずき、「おゝ、王よ。息子様のために、われらの願いを聞き届け給え」、と叫んだ。王は微笑んで云った。「私は、私の息子の名を申し立てる者には何も拒むまい」。神もそれと同じである。神は、キリストと肘を接して御前に出て来る者には何も拒まないであろう。だが、もしその人が自分ひとりで行くなら、追い出されるに決まっている。結局においてキリストに結び合わされることは、救いにおいて要となる点である。それを例証する話を1つさせてほしい。かの巨大なナイアガラ瀑布は世界の至る所で語り草になっている。だが、それは聞くに驚くべきもの、眺めるに絶景のものではあるが、もしだれかが事故でその滝に流されたとしたら、人命にとってはきわめて破壊的なものである。何年か前に、ふたりの人がその急流に流され、ふたりとも粉砕されるほかないと思われた。川べりにいた人々はふたりを見たが、彼らを救出するためにはほとんど何もできなかった。しかしながら、とうとう、ひとりの人は、自分に向かって浮かべられた縄をつかむことによって救い出された。だがその縄が、もうひとりの男の手に入ったのと同じ瞬間に、彼のそばに一本の丸太が浮かび上がった。無思慮にも、混乱したその船頭は、縄を握るかわりに、その丸太をつかんだ。それは致命的な過ちであった。彼らはふたりとも切迫した危険の中にあったが、一方の男は陸地の人々と結びつくものを得たために、岸辺に引き上げられたが、もう一方の男はその丸太につかまって、抗いようもなく流れ下り、それ以後何の消息も聞かれなかった。あなたはここに、実際的な例証を見てとらないだろうか? 信仰はキリストとの結びつきである。キリストは、いわば岸辺にいて、信仰という縄を持っておられる。もし私たちがそれを自分の信頼という手でつかみとるなら、主が私たちを岸辺まで引っ張ってくださる。だが、私たちの良いわざは、キリストとは何の結びつきもないために、そのすさまじい絶望の縁へと漂い流れていく。それをいかに固く握りしめようと、しかり、たとい鋼鉄の手鉤でつかんでいようと、それは私たちにとってこれっぽっちも助けにはならない。私があなたに示したいことは、確実におわかりのはずである。一部の人々は逸話を語ることに反対する。だが私は、そうした人々の反対がやむまで逸話を用いるであろう。人々に向かって、真理を何にもまして力強く述べるのは、キリストがしたように、物語をして聞かせることである。ある人にふたりの息子がいた、と。あるいは、旅に出かけようとしている家長が自分の財産を分割しては、ある者に十タラントを、別の者に一タラントを分け与えた、と。

 さて、信仰はキリストとの結合である。あなたがそれを有しているかどうかに注意するがいい。というのも、それを有していないと、あなたは行ないにしがみつき、この川の下流まで漂い流されていくからである! あなたのわざはキリストと何のつながりもなく、このほむべき《贖い主》と何の関係もない! しかし、あわれな罪人よ。あなたは、あなたのあらゆる罪をまとわりつかせたままでも、もしこの縄があなたの腰に巻きついており、キリストがそれを握っておられるとしたら、恐れてはならない!

   「わが主の栄誉(ほまれ) かかりたり、
    いかな小羊(ひつじ)の 救いにも。
    天父(ちち)の給いし ものみなを
    主の御手かたく 守り抜かん」。

 5. もう1つだけ議論を上げて、切り上げることにしよう。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」。なぜなら、信仰がなくては、聖さのうちに踏みとどまることは不可能だからである。この時代には、何とおびただしい数の、好天の時だけのキリスト者がいることか! 多くのキリスト者は鸚鵡貝に似ている。よく晴れた、穏やかな天気の日には、何隻もの大艦を押し立てた小船団のように海の水面を泳ぎ回るが、風が一吹きでもして海が波立たされると、その帆をたたんで、深みに潜ってしまう。多くのキリスト者もそれと同じである。善良な仲間とともにいるときや、福音主義的な客間にいるとき、敬虔な居間にいるとき、会堂や牧師室にいるときの彼らは、はなはだしくキリスト教的であるが、ちょっとした嘲りにさらされたり、だれかからにやりと笑われ、メソジストだの長老派だの、その他の小馬鹿にした名前で呼ばれたりすると、次の晴れた日が来るまで、彼らのキリスト教信仰は店仕舞いになる。その後、天気が良くなり、キリスト教信仰が自分の目的に役立つものとなると、再び帆が掲げられ、以前のように敬神の者となるのである。嘘ではない。こうした種類のキリスト教信仰は無信仰よりも悪い。私が好むのは、むらのない人――白黒のはっきりした、真っ直ぐな人である。もしもある人が神を愛していないとしたら、愛しているなどと云ってはならない。だが、もしその人が真のキリスト者であり、イエスに従う者ならば、その人はこれを公言し、そのために立ち上がるがいい。そこに恥ずべきことは何もない。恥ずべき唯一のことは偽善的であることである。自分の信仰告白には正直になろうではないか。そうすれば、それは私たちの栄光となるであろう。あゝ! 迫害の時、信仰もなしにあなたは何をしようというのだろうか? あなたがた、信仰を持たない、善良で敬神の念をいだく人たち。もしもスミスフィールドに再び火刑柱が林立し、もう一度火が聖徒たちを焼き尽くすようになるとしたら、――もしロラードの塔がまた開かれ、もし拷問台が再び積み重ねられるとしたら、あるいは、もし足枷のついたさらし台が用いられるとしたら、あなたはどうするだろうか? そうしたさらし台は、実際に、あるプロテスタント教会によって用いられ、私の前任者であるベンジャミン・キーチの迫害を証言した。彼は幼児洗礼に反論する本を書いたかどで、一度エールズベリーでさらし台にかけられたのである。たとい迫害が最も手ぬるいしかたで再興したとしても、人々はいかに蜘蛛の子を散らすように逃げていくことであろう! また、羊飼いの何人かも自分の群れを見捨てることであろう。もう1つの逸話を物語れば、信仰がいかに必要であるかが見てとれるだろうと思う。その一方で私は、知らず知らずのうちに、この講話の最後の部分に至らされてしまうかもしれないが。とある奴隷持ちの米国人が、あるとき、ひとりの奴隷を買おうとして、この奴隷を彼に売ろうとしている人にこう云った。「こいつにはどんな欠点があるか、正直に云ってくれ」。売り手は云った。「こいつには、あっしの知る限り1つしか欠点はありませんや。祈りをするってことですよ」。「あゝ!」、と買い手は云った。「そいつは気にいらんな。わしの知っている手を使って、すぐにこいつからそれを叩き出しててやろう」。それで、その次の夜、カフィーを驚かせたことに、自分の主人が農園にいて、彼が自分の新しい主人と、主人の細君と家族のために、熱心に祈りをささげているのを、立ったまま、じっと聞いているのだった。主人は、そのときは何も云わなかったが、翌朝、カフィーを呼びつけて云った。「わしはお前と云い争いたいとは思わん。だが、わしの地所で祈りを許すつもりはない。だから、祈りはもうやめることだ」。「旦那様」、と彼は云った。「おらには、祈りはやめられねえですだ。祈らにゃならねえですだ」。「やめないと、お前を泣き叫ばせてやるぞ」。「旦那様、おらは祈りを続けなきゃなんねえですだ」。「よろしい。ならば、お前が祈りをやめるまで、一日に二十五度の鞭をくらわせてやるぞ」。「旦那様。それが五十度の鞭でも、おらは祈らにゃあなんねえですだ」。「主人に向かって、そういう生意気な口をきくなら、今すぐ思い知らせてやるぞ」。それで彼は、この奴隷をくくりつけると二十五度の鞭打ちを与えた。それから、まだ祈るかと訊いた。「へえ。旦那様。おらはいつでも祈らにゃならねえですだ。祈りをやめることはできねえですだ」。主人は、唖然としてしまった。彼は、ひとりのあわれな聖徒がいかにして祈り続けられるものか、理解できなかったのである。それが何の得にもならず、ただわが身に迫害を招くしかなかったというのに。彼はそのことを自分の細君に告げた。細君は云った。「どうしてあの可哀想な男に祈らせとかないの? あれは自分の仕事はきちんとこなしてるじゃないの。あなたも私も、祈りのことなんかどうでもいいけど、あれに祈らせといても何の害にもならないでしょうに。仕事さえちゃんとやってれば」。「だが、わしは好かんのだ」、と主人は云った。「あれは、わしを死ぬほど脅えさせたのだ。お前も、あれがどんな目でわしを見たか、見るべきだったのだ」。「怒っていたの?」 「いいや。だとしたら気にはならなかったろう。だが、あれを鞭打った後で、あれは目に涙を浮かべてわしを見たのだ。だが、その目つきは、まるで自分のことより、わしのことをあわれんでいるようだったのだ」。その夜、この主人は眠ることができなかった。彼は寝床の中で輾転反側した。自分のもろもろの罪が思い出されて来た。自分がひとりの神の聖徒を迫害したことが思い出された。寝床の中で起き上がると、彼は云った。「なあ、お前。わしのために祈ってくれないか」。「私は生まれてから一度も祈ったことなんてないのよ」、と細君は云った。「あなたのためにお祈りなんてできないわ」。「わしはもう駄目だ」、と彼は云った。「だれかがわしのために祈ってくれなくては。わしは自分では祈ることができん」。「私の知る限り、この地所の中でお祈りのしかたを知ってる人間なんてひとりもいないわ。カフィーは別だけど」、と細君は云った。呼び鈴が鳴らされ、カフィーが連れてこられた。自分の黒人召使いの手をつかんで、主人は云った。「カフィー。お前の主人のために祈ってくれんか」。「旦那様」、と彼は云った。「おらは、旦那様に鞭で打たれてから、ずっと旦那様のために祈ってましただ。そして、旦那様のためならいつだって祈りますだ」。カフィーは膝まずくと、涙ながらに自分の魂を注ぎ出した。そして、夫も妻もふたりとも回心したのである。この黒人は、信仰なしにはこのようなことはできなかったであろう。信仰がなかったとしたら、彼はたちまち尻に帆かけて逃げ出して、「旦那様。おらは祈るのやめますだ。おらは白い旦那の鞭はいやですだ」、と云っていたであろう。しかし、彼が自分の信仰を守り抜いたために、主は彼に誉れを与え、彼の主人の魂を彼の報酬として与えたのである。

 III. さてここでしめくくりに来るのが、《問いかけ》である。重大な問いかけである。話をお聞きの愛する方々。あなたには信仰があるだろうか? あなたは主イエス・キリストを心を尽くして信じているだろうか? 信じているとしたら、あなたは救われると希望できる。左様。あなたは絶対の確信をもって、自分は決して滅びを見ることがないと結論してよい。あなたには信仰があるだろうか? 私が、この問いかけに答える助けをしてもよいだろうか? 私はあなたに3つの試験を示したい。あなたの負担にならないように、できる限り手短にそれを語って、今朝は別れを告げよう。信仰を有している人は、自分自身の義を放棄してしまっている。もしあなたが、ひとかけらでも自分自身に信頼しているとしたら、あなたには信仰がない。ほんの一粒でもキリストが行なわれたこと以外のものを頼りにしているとしたら、あなたには信仰がない。あなたの行ないに信を置いているとしたら、あなたの行ないは反キリストなのである。そしてキリストと反キリストは決して並び立つことができない。キリストは中途半端を許さない。完全な《救い主》であられるか、全く《救い主》ではないかのいずれかである。ならば、もしあなたに信仰があるとすれば、あなたはこう云えるであろう。

   「わが手にもてる もの何もなし
    ただ汝が十字架に われはすがらん」。

それから、真の信仰はこのことによっても知られる。すなわち、それはキリストへの非常な敬意を生み出す。あなたはキリストを愛しているだろうか? キリストのために死ねるだろうか? キリストに仕えることを切望しているだろうか? キリストの民を愛しているだろうか? あなたはこう云えるだろうか?

   「イェス、われ愛さん、汝が麗しき名を、
    わが耳に、そは 妙なる調べ」。

おゝ! もしあなたがキリストを愛していないとしたら、あなたはキリストを信じていないのである。というのも、キリストを信ずれば愛が生まれるからである。だがしかし、それだけではない。真の信仰がある人には、真の従順があるものである。もしある人が自分には信仰があると云いながら、何の行ないもないとしたら、その人は偽りを云っているのである。もしだれかが、自分はキリストを信じていると宣言しておきながら、聖い生活を送っていないとしたら、その人は間違っているのである。というのも、私たちは、良いわざに頼りはしないものの、信仰が常に良いわざを生み出すと知っているからである。信仰は聖さの父であり、子どもを愛さない者は親をも愛していないのである。神の祝福は、その両の御手による祝福である。一方の御手で神は赦罪を与えてくださる。だが、もう一方の御手では聖さを与えてくださる。そして、いかなる人も一方を受けながら、もう一方を持たずにいることはできない。

 さてここで、愛する方々。私は膝まずき、キリストのゆえに、あなたに対して、この問いかけに答えてくれるよう乞い願ってもよいだろうか? あなたの静かな密室で答えてほしい。あなたには信仰があるだろうか? おゝ! 答えるがいい。しかりか、否か。「わかりません」、だの、「どっちでもかまいません」、だのといった答えは抜きにするがいい。あゝ! あなたは、かまうことになるであろう。いつの日か、大地がよろめき、世界が揺れ動くときには、どっちでもよくはなくなるであろう。あなたがたは、かまうであろう。神があなたを審きに召し出し、信仰のない者、信じていない者を罪にお定めになるときには、かまうであろう。おゝ! 願わくは、あなたがたが賢くあるように。――今、かまいつけるように。そして、もしあなたがたの中のだれかが、自分にはキリストが必要だと感じているとしたら、あなたにこう乞い願わせてほしい。キリストのゆえに、今、キリストを信じる信仰を求めるがいい。キリストは悔い改めと赦しを与えるために、高く上げられているのである[使5:31]。また、もし主があなたに悔い改めを与えておられるとしたら、赦しをもあなたにお与えになるのである。おゝ、罪人よ。自分のもろもろの罪を知っている人たちよ! 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31]。主の愛と血に、主の行なわれたことと死なれたことに、主の悲惨さと主の功績に、あなたの身を投げかけるがいい。そして、もしあなたがこのことをするならば、あなたは決して転落しない。むしろ今、あなたは救われるし、かの大いなる日にも救われるであろう。その日、救われていないことは、実に身の毛もよだつこととなる。「悔い改めよ。立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」*[エゼ33:11]。キリストをつかむがいい。その衣のふさに触れるがいい。そのとき、あなたがたはいやされるであろう。願わくは、神があなたにそうできる助けを与えてくださるように。キリストのゆえに。アーメン、アーメン。

 

信仰[了]

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