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にせ信仰告白者に対する厳粛な警告

NO. 102

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1856年8月24日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです」。――ピリ3:18、19


 パウロは、キリスト教の教役者のまさに鑑であった。彼は、群れを見張る用心深い牧者であった。ただ単に彼らに向かって説教を行ない、自分の使信を語り終えたならば、一切の義務を果たしたなどと考えることはせず、彼の目は常に諸教会に据えられ、彼らの霊的幸福と、彼らの恵みにおける成長を、あるいは敬虔さにおける退歩を注視していた。他の土地へ行って永遠の福音を宣言するよう召されたときも、彼は常に、自分が異教の暗黒のただ中に設立したキリスト者集団を見守っていたように思われる。真理のたいまつで別のともしびに火を灯す間も、すでに燃えているともしびの芯を切りそろえることを怠らなかった。あなたは彼が、ピリピにある小さな教会の性格に無関心でなかったことに気づいただろうか? 彼は彼らに向かって語り、警告しているからである。

 さらに、使徒が非常に正直な牧師であったことにも注意するがいい。――彼は、自分の信徒たちに誤った部分があると気づいたときには、それをあからさまに彼らに告げた。彼は、あなたが近頃よく目にするような教役者とは違った。そうした人の誇りは、これまで一度も個人を槍玉にあげたことがないということであり、このようにして自分の恥を誇っているのである。というのも、もしその人が正直であったならば、個人を槍玉にあげていたはずだからである。その人は神の真理を欺くことなく与え、人々を厳しく叱責して、彼らが信仰において健全になるようにしていたはずである。「私はあなたがたに告げる」、とパウロは云う。「なぜなら、これはあなたがたにとって重要なことだからである」。パウロは非常に正直であった。彼は真実すべてを告げることから尻込みしなかった。また、ひるむことなくそれを何度も告げた。一部の人々は、パウロの口から一度聞かされるのは、他のだれから百度聞かされるよりも効き目があると考えたであろうが関係なかった。彼は云う。「私はしばしばあなたがたに云って来たし、もう一度あなたがたに云うが、ある人々はキリストの十字架の敵なのだ」、と。

 そして、あなたも気づくように、使徒は誠実である一方で、真の教役者がみなそうあるべきであるように、ことのほか愛情深い人物であった。彼は、自分が面倒を見ている諸教会のいかなる会員が真理からそれていくと考えることにも耐えられず、彼らを非難しながらも泣いていた。雷を落としながらも涙ぐまずにはいられなかった。神の脅かしを宣告しながら、目を潤ませもせず、つっけんどんな口調になることはできなかった。しかり。戦慄すべきことを語りながらも、彼は目に涙を浮かべており、厳しく叱責しながらも、彼の心は愛に高鳴っていた。だから彼がこれほど厳粛な非難を発するのを聞いた人々も、彼の峻烈きわまりない言葉が愛情によって口述されたことを確信させられるのだった。「私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです」。

 愛する方々。私が今晩語りたい使信は、使徒パウロのそれと趣旨を同じくするものである。残念ながら、今もそれは、彼の時代と同じくらい必要とされているのではないかと思う。その頃そうだったのと同じくらい、私たちの間にいる多くの人々は、「キリストの十字架の敵」としてたちまち見分けがつくようなしかたで歩んでいるのである。遺憾ながら、この悪は減ずるかわりに、増大しており、その危険を深めていると思う。今の時代には、パウロの時代よりも多くの信仰告白がなされており、その結果、より多くの偽善が生じているのである。わが国の諸教会内で差し迫る罪となっていること、それは、そのただ中にいる多くの人々が決してそこにいるべきではないということである。彼らは、居酒屋や、軽佻浮薄な輩が入り浸る他の場所には似合いの連中ではあっても、決して私たちの主の受難の象徴たる聖礼典の葡萄酒をすすったり、聖なるパンを食したりすべきではない。私たちの中に――おゝ、パウロよ。あなたなら今晩それをいかに告げたであろう、またそう告げる間いかに涙したであろう!――私たちの中にいる多くの人々は、「キリストの十字架の敵」なのである。なぜなら、「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの思いは地上のことだけで」、彼らの生き方は神の偉大な事がらとちぐはぐだからである。

 私は今晩しばしの間、この使徒の異例の悲しみの理由をあなたに告げてみたいと思う。使徒は、迫害を受けたときに涙したとはどこにも書かれていない。人々は彼の背中に深い畦溝を作ったが、兵士たちが彼を鞭打っていた間、彼の目からは一滴の涙もふき上がりはしなかったと私は思う。牢屋に入れられても、彼が賛美したとは記されているが、呻き声を上げたとはどこにも書かれていない。彼は、キリストのために自らがさらされていた、いかなる苦難や危険によっても泣いたことがないと思う。私がこれを異例の悲しみと呼ぶのは、ここで涙している人物は決して感傷癖のある人ではなく、数々の苛酷な試練の中にあってもほとんど涙をこぼすことのなかった人だからである。彼は3つのことのために泣いた。彼が泣いたのは、彼らの咎のためであった。彼らのふるまいの悪影響のためであった。彼らの末路のためであった。

 I. 第一に、パウロが泣いたのは、この人々の《咎》のためであった。彼らは、生きているとされていたが実は死んでおり[黙3:1]、キリスト教会に加入してはいたものの、人々の間でも神の御前でも、しかるべき歩みをしていなかった。パウロが彼らを告発している罪に注意するがいい。彼は、「彼らの神は彼らの欲望であり」、と云っている。これは、彼らが肉欲にかられた者たちだった、という意味に理解したい。初代教会の中の一部の者らは、神の食卓に着いた後で外へ出ていっては、異教徒たちの饗宴に座し、そこで暴飲暴食にふけっていた。別の者らは、肉体の情欲にふけり、楽しみ(と誤り称されているもの)を享受していた。そうした楽しみは、後になると、肉体にとってさえ、言語に絶する苦痛をもたらし、人々にとって不名誉なもの、ましてやキリスト教信仰の告白者にとっては面目ないものであった。彼らは、自分のからだの衣の方に、魂の衣にまさって気を遣っていた。彼らの神は、彼らの欲望であった。彼らは外側の人体の食物の方を、内なる人のいのちにまさって重んじていた。あゝ! 話をお聞きの方々。私たちの諸教会の至る所には、今なお彼らの欲望-神を伏し拝んでいる多くの者、自らを自分の偶像としている多くの者がいないだろうか? 社会のほとんどあらゆる場において、信仰を告白する人々も、他の人々と同じくらい欲望のおもむくままに生活しているということは、周知の事実ではないだろうか?――すべての信仰告白者がそうだというのではないが、そういう者もいるではないだろうか? 左様。私は、酔っぱらいの信仰告白者のことが耳に入る。あからさまに街通りを千鳥足で歩いたり、真っ昼間から飲んだくれたり、朋輩の前で酔っ払うことはないが、その社交会において酔っ払う寸前になる人々のことである。彼らが酒杯を重ねることはあまりにも多く、酔っぱらいと呼んではその社会的体面にとって侮辱になるだろうが、素面と呼んでは真理にとって同じくらい侮辱になるであろう。私たちの諸教会にいる一部の人々は(それを否定しても無駄である)、他のいかなる種別の人々とも全く同じくらい食卓で大食らいをすること、現世の良きものをきわめ尽くすことを好んでいないだろうか? 私たちの中のある人々は、自分のからだの衣に富をつぎ込んでは、自分の《救い主》の教えを飾ることよりもはるかに多く、自らを飾り立ててはいないだろうか? 四六時中、自分のからだの面倒を見てやることにかまけており、血肉からすれば何の不満もないという人、肉体に仕えるばかりでなく、肉体を神としている人がいないだろうか? あゝ! 方々。教会はきよくない。教会は完全ではない。私たちの群れの中には疥癬にかかった羊がいる。私たち自身の小さな交わりの中では、時おりそうした者らが見つけ出され、それから除名という恐ろしい宣告がやって来る。これによって彼らは私たちの親交から断ち切られる。だが、私たちの気づかない多くの者らは、草むらを這う蛇のように忍び込み、キリスト教信仰に嘆かわしい傷を負わせ、私たちの偉大にして栄光に富む御国の進展に害を及ぼすまで発見されない。兄弟たち。教会の中のある者たちにとって(それが国教徒であれ非国教徒であれ)――この上もない悲しみとともに云わせてほしいが――、「彼らの神は彼らの欲望」なのである。

 彼らのもう1つの罪は、彼らが地上のことしか思っていなかったということである。愛する方々。この最後の一文は、あなたの良心を刺さなかったかもしれないが、これは非常な広がりを有する主張であって、残念ながらキリスト教会の相当に大きな部分がまさにこの点で有罪であると思う。これは異様なことではあるが、事実である。私たちは、キリストによって、人の上に立ちたければ自らをへりくだらせなくてはならない、と告げられているにもかかわらず、野心満々のキリスト者の噂を聞くのである。かの謙遜な《ガリラヤの人》に従うと告白している者たちの中に、この世の階梯の最上位を占めようと躍起になっている者らがいるのである。彼らの目当ては、キリストを大いなるお方とすることではなく、いかなる危険を冒しても自らを大いなる者とすることである。かつてキリスト者は聖く、謙遜で、満ち足りた人であると考えられていた。だが近頃はそうではない。私たちの中には(おゝ、教会よ。恥を知るがいい!)口先だけの信仰告白者たちがいるのである。この世で最も世俗的な者にも劣らぬほど世俗的な者たち、真理を一度も告白したことのない、肉的きわまりない者にも負けないくらいキリストの聖霊に欠けた者たちがいるのである。また、このことも逆説ではあるが、毎日のように私たちを真っ向からねめつけていることである。すなわち、私たちの間には、貪欲なキリスト者たちがいるのである。これは、矛盾である。貪欲なキリスト者などと語るくらいなら、不浄な熾天使だの、罪に陥りがちな完璧な存在だのについて語る方がましである。だが、世にはそうした者がいるのである。その財布の紐を決して緩めようとはしない――少なくとも貧者の叫び声に対しては――キリスト者がいるのである。彼らは財産を貯えることを思慮と呼び、キリストの御国を進展させるためにはこれっぽっちも使わない。もしあなたが商売に意地汚い人、富をつかんで離さない人、貧しい債務者を捕まえては、その血の最後の一滴まで吸い尽くす人を探しているとしたら、――もしあなたが貪欲で、搾取に狂奔し、守銭奴で、血も涙もなくみなしごから生命の糧をしぼりとる人々を探しているとしたら、あなたが行かなくてはならないのは、――こう云うのは赤面させられることだが、厳粛な真実である。――あなたが行かなくてはならないのは、時として私たちの諸教会の中であり、そこで彼らを探すべきである。そうした、「思いは地上のことだけ」である人々、きよい敬虔さの目印たるキリストへの献身など薬にしたくもないという人々、そうした人々の一部は、教会の最も高い役職者の中にいる。こうした悪は、キリスト教信仰の成果ではない。それらは、口先だけの信仰告白の病である。嬉しいことに、選民の残りの者たちはこうしたことからきよく保たれているが、「混血の者」たち[ネヘ13:3]は、悲しいほどにそれらに取りつかれている。

 使徒がこうした人々について指摘した、もう1つの性格は、彼らがその恥を栄光としていたということである。信仰を告白する罪人は、普通、他のいかなる人にもまして、自分の恥を誇りとする。事実、その人はそれを誤り称しているのである。その人は悪魔の毒に、キリストの薬の名札を貼る。その人は、他の人のうちにあれば悪徳とみなすだろう事がらを、自分の場合には美徳とする。もしその人が、今まさに自分で行なったばかりの行動を他の人のうちに見てとったとしたら、――もし他の人がその人自身の生き写しのようなことをしていたとしたら、おゝ! いかに雷を落とすことか! その人こそ、ほんの僅かな裏表も見つけ出す人である。その人こそ、安息日厳守主義者の中でも最も厳格な人である。盗人の中でも最も廉直な人である。吝嗇家の中でも桁はずれに気前の良い人である。俗的な人々の中でも最も素晴らしく聖い人である。その人は、自分のひいきする罪に平然とふけりながら、年がら年中、虫眼鏡を目に当てては他の人々の過失を拡大している。私は自分のしたい放題に行なってよいのだ。私は大手を振って罪を犯せるのだ。そして、もしその人の教役者が、その人に向かって、あなたのふるまいには裏表がありますよとほのめかしでもしようものなら、その人は教会中に嵐を巻き起こし、あの教役者は個人攻撃をした、自分を侮辱した、と云うのである。そうした人は、叱責しても何にもならない。自分は教会員ではないだろうか? 長年の間そうだったではないだろうか? 自分が聖くないなどと、だれが云おうというのか? おゝ、方々。あなたがたの諸教会の所属会員の中には、いつの日か、かの底知れぬ所の一員となる人々がいるであろう。私たちの諸教会に結びついている人々の一部は、確かにバプテスマを受け、聖餐卓に着き、生きているとはされているものの、いかなる霊的な事がらについても、墓場の中の死骸も同然に死んでいる。近頃は、自分を敬虔な人間であるととして人をたぶらかすことが簡単にできる。自己否定も、肉の抑制も、キリストへの愛も、ほとんど求められないからである。おゝ、しかり。少しばかり賛美歌を覚え、ちょっとした決まり文句を身につけさえすれば、選民さえも欺けるであろう。教会の中に入り込み、上品な方だと呼ばれれば、たといすべての人の信用は得られなくとも、あなたは、波立つ良心を静めることによって、破滅への通り道をなだらかにするであろう。私は厳しいことを語っているが、この言葉は真実である。時々私は、自分では決して認めないような人々、いかなる場所でも同席したくないような人々、だのに私を「兄弟」と呼ぶような人々と出会って、血が逆流することがある。彼らは平然と罪の中で生きていながら、キリスト者を「兄弟」と呼ぶ。神よ、彼を赦し給え! 私たちは、彼らとは兄弟の縁を全く感じることができない。彼らの生活が変わり、そのふるまいがもっと裏表のないものとなるまで、そうしたいとも思わない。

 さて、あなたも見る通り、使徒の時代、ある人々は敬虔にとって恥辱であった。そして、使徒が彼らのゆえに泣いたのは、彼が彼らの咎を知っていたからであった。何と、信仰を告白していなくとも、自分の欲望を神とするだけで、それは十分な咎である。だが、はるかに高い知識を得ていながら、また他の人々に真理を教えるために立てられてさえいながら、それでも行って神に対して罪を犯し、自分の良心に対して罪を犯し続ける人の、何といやまして悪いことであろう。その人は厳粛な信仰告白をするが、その人の場合、偽りなのである。おゝ! こうした人の咎のいかに恐るべきものであることか! そうした人は立ち上がってこう云うかもしれない。――

   「成し遂げられぬ、大いなる取引(わざ)、
    われは主のもの、主はわれのもの」。――

だがしかし、もしその人が、行って他の人々と同じように罪を犯し続け、同じような会話をし、同じようなごまかしをし、キリストの御名を一度も呼んだことのない人々も同然の不敬虔なしかたで歩み続けるとしたら、――あゝ! ここに何たる咎があることか! もし私たちが自分自身咎があるとしたら、それだけでも私たちを泣かせるのに十分である。左様。私たちがこれほどの罪を神に対して犯していることで血の涙を流すのに十分である。

 II. しかし、使徒は彼らのために泣くことにまさって、《彼らが及ぼしている害悪》のために泣いていた。彼は力を込めてこう云っている。彼らは、「キリストの十字架の敵」である、と。定冠詞つきの「」である、と。彼は、こう云っているかに思える。不信心者は、敵のひとりであり、御名を汚して呪いを吐く者、悪態をつく者、俗的な者は、敵のひとりであり、向こうにいる迫害者ヘロデは敵のひとりである。だが、こうした者らこそ、敵の主力部隊――サタンの軍勢の親衛隊にほかならないのだ、と。「キリストの十字架の」とは、パリサイ人的な信仰告白者たちである。見かけは敬虔そうに白く塗られて輝いているが、内側は腐っている。おゝ! 私が思うに、キリスト者を何にもまして嘆かせること、それは、キリストがその友人たちの家で傷つけられているのを知ることである。見るがいい。ここに私の《救い主》が御手と御足から血を流しながらやって来られる。おゝ、イエス様、イエス様。だれがその血を流させたのですか? どうしてそのような傷を負われたのですか? なぜあなたは、そのように悲しいお顔なのですか? 主はお答えになる。「わたしは傷を負わされた。だが、どこでこの打ち傷を受けたとあなたは思うか?」 何と、主よ。あなたは、あの、ごてごてと飾りたてた安酒場で傷を受けられたに違いありません。罪人たちが寄り集まり、あざける者の座がある場所で傷ついたのでしょう。不信心な者らの屋敷で傷ついたのでしょう。「いや、そうではない」、とキリストは仰せになる。「わたしは、友たちの家で傷つけられたのだ。この傷跡は、わたしの食卓につき、わたしの名を身に帯び、わたしのことばを語っていた者たちによってつけられたのだ。彼らがわたしを刺し貫き、わたしをもう一度十字架にかけて、わたしに恥辱を与えたのだ[ヘブ6:6]」。このように、友であると告白しておきながら、キリストを刺すなどというのは、 度はずれて極悪な罪人である。カエサルがついに涙したのは、ブルータスから刺されたときであった。そのときこそ彼が打ち負かされ、「Et tu, Brute!」、と叫んだときであった。お前もか。「お前がわたしを刺したのか?」 話をお聞きの方々。あなたがたの中のある人々については、キリストもそのように仰せになって当然であろう。「何と! お前が。お前もか、お前もか。信仰を告白する者、お前がわたしを刺したのか?」 私たちの《救い主》は、その御顔を嘆きで覆うか、むしろ御怒りの雲で閉ざして、ご自分の御国にこれほどの害を及ぼした卑劣漢を追い散らしてしかるべきであろう。

 もし私が戦いに破れなくてはならないとしたら、敵によって破られたいと思う。友人たちから裏切られるのは御免である。死んでも守り抜きたいと思っている要塞を明け渡さなくてはならないとしたら、私は自分でそれを明け渡したい。私のからだを敵に踏み越えて行かせたい。だが、おゝ! 友人たちの裏切りに遭うのは御免である。私のかたわらに立っている戦士が、城門の閂をはずし、敵兵どもを中に入れさせるなど耐えられない。それは、人の心を二度破るのに十分であろう。――まずは敗北のために、そしてもう一度は裏切られたという思いのために。

 スイスで、とあるプロテスタント教徒の小勢が、その自由を守るために苦闘していたとき、彼らは膨大な大軍相手に、ある峠を勇敢に守り抜いていた。最愛の友人たちが打ち殺され、自らも疲れ切って、疲労のあまり倒れ伏しそうになっても、彼らは自らの信ずる大義のために堅く立ち続けた。しかしながら、突如として、喚声が聞こえた。――恐ろしい、ぞっとするような悲鳴だった。敵は、急な上り坂を迂回して登ってきたのである。そして、指揮官がその方向に目を向けたとき、おゝ、いかに怒気をこめてその眉根が寄せられたことか! 彼は歯ぎしりし、地団駄を踏んだ。卑劣なプロテスタント教徒のひとりが、山羊の通り道沿いに血に飢えた敵を手引したために、友たちが打ち殺され始めたのだとわかったからである。そこで彼は友人たちに向き直り、「突撃!」、と叫んだ。獲物に襲いかかる獅子のように、彼らは敵に突進した。もはや死は覚悟の上だった。友によって彼らは裏切られたのだ。大胆な心をしたキリスト者も、自分の同胞たる教会員がキリストを裏切るのを見るとき、――キリスト教の要塞が、その友人のふりをしていた者らによって敵に明け渡されるのを見てとるとき、――同じように感じるのである。愛する方々。私は、教会外に一千もの悪魔を有している方が、教会内に一匹悪魔を有しているよりもましだと思う。私は外側にいる敵対者などすべてどうでもよい。私たちの最大の懸念の種は、群れを食い荒らす、悪賢く「羊の皮をかむった狼」である。そうした者たちに対してこそ、私たちは、聖なる憤りをもって、この天来の怒りによる厳粛な宣告を云い渡すであろう。また、こうした者たちのためにこそ、私たちは自分の最も苦々しい悲しみの涙を流すであろう。彼らは、「キリストの十字架の敵」なのである。

 さて、しばしの間、このよこしまな信仰告白者がいかにしてキリストの教会の最大の敵となっているかを示させてほしい。

 第一のこととして、その人は、他のいかなる者にもまして教会を嘆かせる。もし通りにいるだれかが私に泥を投げつけたとしたら、私はその栄誉のためにその人に感謝するだろうと思う。その人が悪人であること、また彼が義のために私を憎んでいることがわかっているとしたら、そうである。しかし、もしキリスト者と自称する者が、その放縦で不潔な素行によって御国の進展に害を及ぼすとしたら、あゝ! それはスミスフィールドに林立する火刑柱よりも、あるいはロンドン塔の拷問台よりも、ずっと有害であろう。キリスト者がもらしたことのある、最も深いため息は、肉的な信仰告白者によって引き出されたものであった。私は、キリストを憎むいかなる人からののしられても、一滴も涙をこぼさないであろう。だが、信仰告白者がキリストを捨てて、その御国の進展を裏切るとき、あゝ! それはまさに嘆かわしいものとなる。そして、このように邪悪な行為を見るとき、だれが涙を抑えていられるだろうか?

 さらに、これほど教会を分裂させるものはない。私は、国中を旅する間に、多くの分裂を見てきた。そして私の信ずるところ、ほとんどあらゆる分裂の原因を辿ってみると、それは、一部の会員の側に敬神の念が欠けていたことに行き着くのである。もしも私たちのただ中に、口先だけの信心家がもぐり込んでさえいなければ、私たちはもっと1つになっているであろう。私たちのただ中にやって来て、私たちを疑り深くさせる、欺きに満ちたあの者らさえいなければ、私たちはずっと互いに対する愛に満ち、ずっと優しい心をいだき、ずっと親切になるであろう。さらに、そうした者たち自身も、神と真理に対する自らの過ちを糊塗するために、ふさわしい歩みをしている人々に向かって難癖をつける。教会に最大の悲しみをもたらすのは、その敵から射かけられる矢でも、地獄の砲兵隊の発射する砲弾でもなく、自らの真中でともされた火であり、善良で真実なふりをして内部にもぐり込みながら、実は陣営中の間者であり、その大義を裏切る者たちなのである。

 さらにまた、これほど、あわれな罪人たちに危害を加えるものはない。キリストのもとに近づきつつある多くの罪人たちは、にせ信仰告白者たちの悪しき生き方がなかったとしたら、ずっと容易に解放され、ずっとすみやかに平安を見いだすであろう。ここで、私が以前語られるのを聞いたことのある話をさせてほしい。それは、非常に厳粛な話である。私は、これによって自分も襟を正させられたいと思うし、あなたがたが全員、同じように感じてほしいと祈るものである。ひとりの若い教役者が、とある田舎村で説教していた。その説教は明らかに聴衆の心に深い感化を及ぼしたらしい。そこにいたひとりの若者は、この説教者が口にした厳粛な言葉の真実さをまざまざと感じた。彼は、礼拝の後で説教者を探し、彼とともに家まで歩いて帰った。道すがら、教役者はありとあらゆる主題について語ったが、講壇上で彼の注意を占めていた主題については一言も触れなかった。このあわれな魂は非常な苦悩の下にあり、教役者に1つか2つ質問をしたが、それらは、まるでちっとも重要なことではないかのように、冷たくはぐらかされた。家に着くと、何人かの友人が集まってきた。そして説教者は、矢継ぎ早に冗談を飛ばし始め、面白おかしい話を繰り広げると、満座を爆笑の渦に巻き込み出した。だが、そこでやめておけば、まださほど悪くはなかったかもしれない。だが彼は、まるででたらめな言葉まで発し始め、みだらとさえ云えるようなことまで語った。若者は、やにわに食卓から立ち上がった。説教の間には涙を流し、先ほどまでは見るからに深い罪の確信のもとにあったというのに、立ち上がって扉の外に出ると、足を踏みならして云った。「キリスト教なんて嘘っぱちだ! これからは金輪際、神など捨ててやる。キリストなど捨ててやる。それで地獄に堕ちるというなら、墜ちてやるまでだ。だが、その責任は、あの男に負わせてやろう。あいつは、ついさっき説教をして、ぼくに涙を流させていたのに、いま何をしているか見てみろ! あいつは嘘つきだ。ならば二度とあいつの話など聞くものか」。若者は、その捨てぜりふを実行に移した。そして、多少の年月が流れてから、彼が死の床についたとき、あの教役者に会いたいという言葉を云い送った。その教役者は、その後、遠い地方に転任していたが、摂理によって引き戻されていたのである。それは、自分が犯した大きな罪について懲罰を与えるために、意図的になされたことだったと私は思う。教役者は、いつも通り片手に聖書を持って部屋に入って来た。――そこから一章を読み聞かせ、このあわれな男とともに祈るためである。男は彼に目を向けると、こう云った。「先生。ぼくは一度あなたの説教を聞いたことがありますよ」。「神はほむべきかな」、と教役者は云った。「神に感謝しますぞ」。疑いもなく、彼は相手が回心者だと考えて、そのことを喜んだのである。「待ってください」、と男は云った。「それほど神に感謝しなくてはならないわけがあるとは思いませんよ。少なくとも、ぼくの方としてはね。先生。あなたは、これこれの晩に、これこれの聖句から説教したのを覚えていますか?」 「ええ、覚えていますよ」。「ぼくはそのとき震えました。先生。頭から爪先まで震えました。ぼくは、膝まずいて祈ろう、そしてキリストによって神を求めようと決心して外へ出ました。ですが、あなたは、これこれの家に云って、自分がそこで何を喋ったか覚えていますか!」 「いえ」、と教役者は云った。「覚えていませんな」。「いいでしょう。ならば、ぼくが教えてあげます。よく聞いてください! その晩あなたが云ったことによって、ぼくの魂は地獄に堕ちるのです。そして、このいのちにかけて、ぼくは神の法廷であなたと対決してやります。その責任者としてあなたを告発してやります」。それから男は目を閉じて死んだ。その寝台のもとから辞去するとき、この説教者がいかに感じていたに違いないか、あなたにはほとんど想像できまいと思う。彼は一生の間、このすさまじい、ぞっとするような重荷を常にかかえていかなくてはならなかった。地獄には自分の血の責任を彼に負わせている1つの魂があるのだということを。

 残念ながら、教会で高い地位を占めている人々の中には、この点で大きな咎を有している者らがいるのではないかと思う。多くの青年たちが、真理を厳粛に考察することから追いやられているのは、律法学者やパリサイ人たちの口にする辛辣で、非難がましい批評のためである。多くの注意深い求道者が健全な教理に偏見をいだかされるのは、それを告白する人々の悪い生き方のためである。あゝ! あなたがた、律法学者とパリサイ人たち。あなたは自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせない[マタ23:13]。あなたは知識の鍵を取り上げ、あなたの裏表のある言動でその扉を閉ざし、あなたの不浄な生き方によって人々を追い払っているのである。

 さらに彼らが「キリストの十字架の敵」であるのは、他のいかなる種別のキリスト者たちにもまして、彼らが悪魔に、より多くの物笑いの種を与えているからであり、敵を喜ばせているからである。私は、この世のいかなる不信心な講演者が好き勝手に何を云おうとかまいつけない。彼らは疑いもなく非常に才気に富む者らである。そうでなくては、馬鹿げたことを真実であると証明し、「悪い理由を良い理由のように見せかける」ことはできないであろう。だが、彼らが何と云おうと私たちは頓着しない。彼らは、私たちに反して、好き勝手なでたらめを云ってよい。だが、私たちが好まないのは、彼らが私たちについて何か本当のことを云えるときである。彼らが本当に私たちのうちに裏表のある言動を見つけ出せるとき、そして、それを私たちの責めに帰せるときこそ、彼らは講演の種になる材料を得ているのである。もしある人が廉直なキリスト者であるとしたら、その人は他の人から何と云われるかなど決して恐れることはない。もしその人が聖く非の打ち所のない生活を送っているとしたら、彼らはその人をほとんど物笑いにすることができない。だが、もしその人がある時は敬虔で、別のときは不敬虔である場合には、嘆くことになるであろう。その人は、その聖ならざる生き方によって、敵に冒涜の種を与えているからである。悪魔は、裏表のある信仰告白者たちによって、教会に対して非常な優位に立つ。サタンは、偽善者たちを作り出すときにこそ、巨大な破城鎚を城壁に打ち当てているのである。「お前たちの生き方は、ちぐはぐだ」。――あゝ! それこそ、サタンがキリストの御国の進展に対して用いることのできる最大の破城鎚である。几帳面であるがいい。私の愛する方々。非常に几帳面になるがいい。罪の中に生き、不義の中を歩むことによって、あなたが告白している御国の進展に恥辱を与えるようなことをしてはならない。そして、あなたがたの中にいる、私と同じように強固なカルヴァン主義者であるという方々に一言云わせてほしい。いかなる種別の人々よりも激しくそしられているのは私たちである。一般に、私たちの教理は放縦を招くものだと云われている。私たちは無律法主義者だと呼ばれる。主義者だと云われる。被造世界のくずだとみなされている。ほとんどの教役者は私たちを一顧だにせず、私たちのことを好意的に語ることもしない。なぜなら私たちは、神の神聖な主権について、また、神の神聖な選びと、ご自分の民に対する特別なご愛について、強固な見解を保持しているからである。多くの町では、律法的な教役者たちが、あなたにこう告げるであろう。この町には、無律法主義者ども(と彼らが呼ぶ者)――どうにも頭のおかしな連中――の危険きわまりない巣があるのだ、と。まず間違いないことだが、もしも、ひとりのまともな教役者が講壇に立ち、その説教を終えると、ある人がやって来て、彼の手を握っては、云うであろう。「あゝ! 兄弟。あなたがおいでくださって嬉しいです。本当に本当に嬉しいです。ここの教役者は乳と水しか与えてくれないものですから」。「どちらに行かれているのです?」、と彼は尋ねる。「おゝ、私が通っているのは小部屋の一室で、無代価の恵みだけをほめたたえようとしている所です」。「あゝ! ならばあなたは、ここの教役者が私に話してくれたばかりの、あの無律法主義者の危険きわまりない巣に属しているのですね」。それで、彼と話を始めると、じきにわかるのは、もし彼が無律法主義者だとしたら、自分も無律法主義者のようになるべきだ、ということである。おそらくたぶん、彼はその村で最も霊的な人物のひとりであろう。その人は神についてあまりにもよく知っているため、実際、律法的な牧師の話を聞いてはいられないのである。――彼は無代価の恵みについてあまりにもよく理解しているため、そこに出席せざるをえず、さもなければ、飢え死にしてしまうのである。神を愛する人々がこきおろされるのは、よくあることである。というよりも、神を愛するだけでなく、神が云われたすべてのことを愛して、真理を堅く奉じている人々がこきおろされるのはよくあることである。ならば私たちは、キリスト者としてばかりでなく、独特の種別のキリスト者としても、いかなる云いがかりも敵に与えないように注意しようではないか。むしろ私たちの生き方を全く裏表のないものとし、私たちのいのちと同じくらい私たちにとって大切な、また死に至るまで忠実に保っていたいと希望する大義に恥辱を加えるようないかなることも行なわないようにしよう。

 III. 最後に、パウロが泣いたのは、《彼らの末路を知っていたからである》。「彼らの最後は滅びです」。よく聞くがいい。信仰を告白していながら偽善者であった人は、最後には絶対に滅びるであろう。もしも地獄に、他のものより重い鎖があるとしたら、――もしも地獄に他のものより暗い地下牢があるとしたら、――もしもからだをずっと激しく焼き焦がす火焔があるとしたら、――もしも魂を苦悶のうちにずっと効果的に捻りひねる激痛があるとしたら、信仰を告白していながら、結局は腐っていたことが明らかになるキリスト者こそ、それらを得る者らであるに違いない。私は、偽りの信仰告白者として死ぬよりは、むしろ放蕩者として死にたいと思う。偽善者として死ぬよりは、路上の最悪のくずとして死にたいと思う。おゝ、生きているとされていたのに、実は真摯な者ではないことがわかるとは。高く飛翔すればするほど、その墜落はすさまじいものとなる。いくら高く舞い上がっても、自分が思い違いをしていたことに気づくとき、その人がいかに低く転落することか! 天の不老不死の杯を口にしたと考えていたのに、その大椀を飲み干したとき、それが地獄のひと飲みにほかならなかったことに気づくのである。門を通って都に入りたいと希望していたのに、その門が閉ざされていること、自分が見知らぬ他人であるとして離れて行くよう命じられていることに気づくのである。おゝ! その宣告はいかに身震いするようなものであることか。「わたしから離れて行け。わたしはあなたがたを全然知らない!」*[マタ7:23] むしろ私は、「離れて行け。呪われた者よ。残りの悪人どもの中に入れ」、と云われる方が、「主よ。主よ」、と叫んだ後で、ひとりだけ抜き出され、こう云われるよりも良いと思う。「わたしから離れて行け。わたしはあなたを全然知らない。あなたがわたしの宮廷で飲み食いしたとしても、わたしの聖所にやって来ていたとしても、あなたはわたしにとって赤の他人であり、わたしはあなたにとって赤の他人なのだ」。そのような末路――地獄よりも恐ろしく、破滅よりも悲惨な最後――こそ、「彼らの神は彼らの欲望」であり、「彼らの栄光は彼ら自身の恥」であり、「彼らの思いは地上のことだけ」であるという人々の逃れようもない運命にほかならない。

 さて、たぶんあなたがたの中のほとんどの人々は云うであろう。「やれやれ。今晩のあいつは教会をひっかき回したな。たといあいつが真剣に語っていなかったとしても、いずれにせよ辛辣なことを云ったものだ」。「あゝ!」、とある人は云うであろう。「おそらく、あれは実に本当のことなのだろう。彼らはみな、口先だけの信心家であり、偽善者である連中なのだ。私はずっとそうだと思っていた。私は、あんな奴らの仲間になどなるまい。奴らのだれひとり純粋ではないのだ」。しばし待て。愛する方よ。私は彼らが全員そうだと云ったわけではない。そうしたとしたら、私は非常な不正をすることになろう。偽善者がいるという事実そのものが、全員が偽善者ではないことを証明しているのである。「なぜそうなるのか?」、とあなたは云う。あなたは、この世の中に、純正な銀行券がなかったとしたら、にせの銀行券などあると思うだろうか? 本物の良質なソヴリン金貨がなかったとしたら、だれかが贋のソヴリン金貨を作って流通させようなどと思うだろうか? 否、私はそうは思わない。純正な銀行券こそ、にせの銀行券を作り出すものなのである。それが悪人をかりたてて、それを偽造し、偽札を作らせようとするからである。この世に純金があるという事実そのものこそ、だれかにその金属を偽造させようとさせ、そのようにして隣人をだまそうとさせるのである。もし真のキリスト者がひとりもいなければ、偽善者などひとりもいないであろう。キリスト者の性格が卓越していればこそ、人々はそれを追い求めるのであり、自分が真の樫の心をしていないがゆえに、自らの生き方を木目まがいに塗りたくっては、見た目をそっくりにしようとするのである。彼らは、真の地金を有していないからこそ、自らに金めっきを施し、それを模倣しようとするのである。あなたにも少しは脳みそが残っているに違いないし、それだけでも十分あなたにこう告げるであろう。もし偽善者たちがいるとしたら、純粋な者たちも少しはいるに違いない、と。「あゝ!」、と別の人は云う。「仰せはごもっともです。世の中には多くの純粋な者たちがいるのです。そして私はあなたにこう云えます。あなたが何と考えようと、私は、何の疑いも恐れもいだかないほど純粋なのです。私は自分が神に選ばれていることを知っています。そして、確かに理想通りの生き方を完全にしているわけではなくとも、私は知っているのです。もし私が天国に行かないとしたら、見込みのある者はほとんどいない、と。何と、先生。私はこの十年間執事をしているのですよ。そして二十年間、教会員だったのですよ。ですから私は、あなたが何と云おうと揺るがされはしません。そこで私の隣に座っている隣人について云えば、彼がこれほどの確信を持つべきだとは思いません。だが、この三十年の間、私は決して疑いを持ったことがないのです」。おゝ、私の愛する方よ。お許し願っていいだろうか? 私が、あなたに代わって疑おうと思う。もしあなたが自分では何の疑いもいだかないというのであれば、私が疑い始める。もしあなたがそれほど完全に確信を持っているというのなら、私は実際あなたを疑わしく思わなくてはならない。というのも、私が気づいたところ、真のキリスト者とは、この世で最も疑い深い人々だからである。彼らは常に自分のことを心配している。私の出会ったことのある真に善良な人々は、例外なく、自分がまだ十分に善良ではないのではないかと常に感じていた。そして、あなたがそれほど格別に善良であるという以上、あなたも私があなたの安泰さについてあまり確かに裏書きできないとしても、私を許してくださるに違いない。あなたは非常に善良かもしれないが、もしあなたが私のちょっとした助言を容れてくださるとしたら、私はこうあなたにお勧めしたい。すなわち、「信仰に立っているかどうか、自分自身をため」すことである[IIコリ13:5]。さもないと、肉的で、肉に属する思いによって高ぶらされたあげくに、あなたが悪い者の罠に陥らないとも限らない。「自信を持ちすぎない」。これはキリスト者にとって非常に良い座右銘である。もしそうしたければ、「あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」[IIペテ1:10]。だが、自分に関するあなたの意見をそれほど確かなものとしてはならない。増上慢に用心するがいい。自分自分の評価では善良である多くの人は、神の御前では悪魔そのものであった。教会の評価では敬神の念に富む多くの魂は、神の評価においては、腐れにほかならなかった。ならば、自分を吟味しようではないか。こう云おうではないか。「神よ。私たちを探り、私の心を調べてください。私たちのうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私たちをとこしえの道に導いてください」*[詩139:23-24]。もしもあなたが、そのような思いとともに家に帰るならば、私はこの説教が完全には無駄ではなかったと神をほめたたえるであろう。しかし、この場にいるある人々は、自分がキリストにあろうがなかろうがどうでもいいことだと云っている。そうした人々は、なおもいいかげんな生き方を続け、神をさげすみ、その御名を笑い物にし続けようとしている。この言葉をよく聞くがいい。罪人よ。ある日通用した叫び声も、永遠に通用するわけではない。そして、今のあなたは、キリスト教信仰をくだらないものでしかないかのように語っているが、よく聞くがいい。方々。あなたは、じきにそれを必要とするようになるであろう。あなたは船に乗っている。そして、何の嵐も起こっていないからといって、救命艇を笑い飛ばしている。だが、いざ嵐が来たときには、できるものなら、喜んでそれに飛び乗りたいと思うであろう。さて、あなたはキリストなど何ほどのものでもないと云う。自分には必要ないからだという。だが、復讐の嵐がやって来るとき、また、死があなたをつかむとき、私の言葉をよく聞くがいい。あなたはキリストを求めて泣きわめくであろう。今のあなたがキリストを求めて祈ろうとしていなくとも関係ない。あなたは、そのときにはキリストを求めて金切り声を上げるであろう。今のあなたがキリストを呼び求めようとしていなくとも関係ない。あなたの心は、そのときにはキリストを求めて張り裂けるであろう。今のあなたがキリストを欲しがりもしなくとも関係ない。「悔い改めよ。立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」*[エゼ33:11]。願わくは主が、あなたをご自分のもとに導き、あなたをご自分の真の、また純粋な子どもたちとしてくださるように。あなたが滅びを知ることなく、いま救われ、永遠に救われていることができるように!

 

にせ信仰告白者に対する厳粛な警告[了]


悪人の舌は、この上もなく毒々しい悪口と、偽りの非難でスポルジョン氏を襲撃している。氏の意見は誤り伝えられ、氏の言葉は、ねじ曲げられている。氏の教理は、「冒涜的」、「俗悪」、「悪魔的」であると非難されている。それにもかかわらず、主のいつくしみ深い御手は氏の上にあり、氏は不敬虔な人々の偽りを気にもとめていない。

スポルジョン氏の教理がいかなるものであるかを、すべての人々に知らせるために私たちは、『ニューパーク街会堂講壇』の読者の方々に、私たちの新刊書についてご案内したい。それは、この紳士が編集した、『信仰告白』であり、これは彼が自らの信仰信条として表明したものである。価格――紙表紙版、四ペンス。布装本、八ペンス。皮装金縁本、一シリング。

アラバスター&パスモア、出版業者。パタノスター通り十八番地。



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