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近づく者とサタンとの争闘

NO. 100

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1856年8月24日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「その子が近づいて来る間にも、悪霊は彼を打ち倒して、激しくひきつけさせてしまった。それで、イエスは汚れた霊をしかって、その子をいやし、父親に渡された」。――ルカ9:42


 悪霊に取りつかれていたこの子どもは、いまだ回心していない不敬虔な人々すべてを示す、うってつけの象徴である。私たちは悪霊に取りつかれてはいないが、それでも生まれながらに、数々の悪魔的な悪徳や情欲に取りつかれており、それらは、たとい私たちのからだを苦しめたり悩ませたりしていないとしても、間違いなく私たちの魂を滅ぼすに違いない。悪霊に取りつかれたいかなる人より、はるかに悲惨な苦境にあるのは、神なく、キリストから離れ、この世にあって望みもない人間である[エペ2:12]。しかも、汚れた霊を追い出すことは人間には不可能であって、ただ神おひとりのみ行なえることだが、それと同じく、不敬虔な罪人を回心させることも、人間の力を越えたものであり、ただ《いと高き方》の大能によってのみ成し遂げられる。汚れた霊がこの可哀想な子のうちに引き起こしていたすさまじい唸り声や、泡吹きや、ひきつけは、不敬虔な人々が猛然と突き進んでやまない罪や、不義や、悪徳の象徴である。また、やがて呵責によって彼らの良心が至らされるであろう、また神の復讐によって彼らの心を満たすであろう、悲しくも恐ろしい苦悶を表わすものでもある。この子が、その親たちによって《救い主》のもとに連れて来られたことによって私たちが教えられる教訓は、私たちの中の、若者の世話をゆだねられている者たちは――親としてであれ教師としてであれ――、自分の子どもたちを是が非でもイエス・キリストのもとに連れて行き、主の恵みによって救われるようにしなくてはならない、ということである。わが子を思うこの父親の敬虔な願いと憐れみは、あらゆる親が自分の子どもたちに対して感じるべき思いの模範にほかならない。親たる者はみな、アブラハムのように、「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように」[創17:18]、と祈るべきである。また、単にそうした祈りをささげるだけでなく、わが子をかのシロアムの池に連れて行くための手段を用いることに励むべきである。たまたま御使いがその流れを動かすとき[ヨハ5:4]、わが子が池に入っていやされるようになるためである。親は子どもを《救い主》が歩いておられるところに置き、主がその子をごらんになるとき、いやしていただけるようにすべきである。その子がキリストのもとに近づいて来たことは、救いに至る信仰の象徴である。というのも、信仰とはキリストのもとに行くこと、主の贖いの力を単純に信ずることだからである。そして最後に、本日の聖句で言及されているように、その子が打ち倒され、激しくひきつけさせられたことは、キリストに近づく者が魂の敵との間で繰り広げる争闘の象徴である。「その子が近づいて来る間にも、悪霊は彼を打ち倒して、激しくひきつけさせてしまった」。私たちの今朝の主題は、このよく知られた事実となるであろう。すなわち、近づきつつある罪人たちは、《救い主》のもとに行こうとするとき、しばしばサタンによって打ち倒され、激しくひきつけさせられ、この上もない苦悩を味わい、絶望にかられてあきらめんばかりになるのである。

 今朝、私たちは4つの点を考察したいと思う。覚えやすくするため、私はそれを頭韻を踏んだものとしてみた。悪魔の行為(doings)、意図(designs)、発見(discovery)、敗北(defeat)である。

 I. 第一に、《悪魔の行為》である。この子どもがいやされるためキリストのもとに近づいて来たとき、悪霊は彼を打ち倒し、激しくひきつけさせた。さてこれは、サタンがほとんどの罪人たち――すべてのとは云わないが――に対して行なうことである。彼らがイエスのもとへ行き、光と、主によるいのちを求めようとするとき、悪魔は彼らを打ち倒し、激しくひきつけさせるのである。ここでしばしの間、いかにして悪魔が、人の回心に伴って著しい激痛と苦悶を引き起こすかを指摘させてほしい。彼には膨大な数の手口がある。というのも、彼は狡猾で悪賢く、その目的を達するための、ありとあらゆる手段を有しているからである。

 1. まず第一に、彼がこのことを行なうのは、神の真理をねじ曲げ、魂の希望と慰めをだいなしにすることによってである。悪魔は神学的には非常に健全である。私は決して彼が異端を奉じていると疑ったことはない。彼は、被造世界の中でも、最も正統的見解を有する人物のひとりであると思う。他の人々は、啓示の諸教理を信じないかもしれないが、悪魔はそれらを疑うことができない。彼は真理を知っているからである。また彼は、しばしば真理を偽り伝えるとはいえ、奸知にたけているため、こう理解しているのである。すなわち、罪を確信させられた魂に対する最上の方法は、正面きって真理を否定することではなく、それをねじ曲げることである、と。さて今から私は、私たちが聖書の中で最も際立った真理として信ずる5つの偉大な教理に言及することにしよう。それら1つ1つを歪曲することによって、この悪魔は、魂を奴隷状態と、暗黒と、絶望の中につなぎとめておこうとするのである。

 最初に、選びという偉大な教理がある。――神は、ご自分のために、だれにも数えきれぬほどの人々を選んで、聖なる者としようとされた。それは、良いわざに熱心になるべく定められた、ご自分の民だからである[黙7:9; テト2:14]。さて、悪魔は、近づきつつある魂を、この教理の点でかき乱そうとする。「おゝ」、と彼は云う。「お前は選ばれていないかもしれない。お前が近づくのも、苦闘するのも、努力するのも何にもならない。たといお前が座り込んで何もしなくとも、救われることになっているとしたら救われるであろう。だが、もしもお前の名前が失われる者らと一緒に書かれているとしたら、いくら祈ろうが、求道しようが、信じようが、救われることはできないのだ」。このようにして悪魔は、罪人の耳に主権について説教し始め、主が必ずやその人を断ち切るだろうと信じ込ませようとする。彼は尋ねる。「いかにしてお前は、お前のようなみじめな者が選ばれているなどと考えられるのか? お前は罪に定められて当然であり、自分でもそうわかっているはずだ。お前の兄弟は善良で道徳的な人間だが、お前ときたら罪人のかしらである。お前は、神がお前を選ぼうとするなどと思うのか?」 さらに、もしこうした誘惑を受けた人が、選びが功績によらないこと、神の無代価のみこころから出ていることを教えられると、サタンは別の砲列を発射しては、このようにほのめかす。「もしもお前が神の選民のひとりだったとしたら、このように感じはしないであろう。お前が、こうした苦しみの一切合切に陥ることも、これほど甲斐ない祈りを続けることも許されなかったであろう」。そしてさらに彼は、「お前は神の民のひとりではないのだ」、と囁き、そのようにして、その魂を打ち倒しては、すさまじいひきつけを起こさせようとする。今朝の私は、ただ、彼のたくらみに一撃を食らわせるために、あなたがたにこのことを思い起こさせたいと思う。すなわち、人がキリストのもとに来るときには、決して選びの教理について困惑する必要はない、ということである。いかなる人も、子どもにイロハを教える際に、その子が「イ」を学ぶ前から「ン」を学ばせようとはしない。そのように、罪人も、信仰を知るまでは、選びを学ぶように期待されてはならない。その人が取り組まなくてはならない聖句はこれである。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31]。主がこのことをその人に学ばせ、信じさせてくださった後で初めて、その人は、このことに進むことができよう。「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエスに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ」*[Iペテ1:2]。しかし、もしその人が、この主題を頭から振り落とすことができないとしたら、わざわざそうする必要はない。というのも、悔悟する者はみな選ばれており、信ずる者はみな選ばれていると思い出しさえすればよいからである。いかなる大罪人であれ、悔い改めさえすれば、それは、その人が選ばれている証拠であり、キリストを信じさえすれば、その人は確実に選ばれており、その信仰は純粋なものなのである。人は、自分が神を信じているかどうかわからない間は、自分が選ばれているかどうか、はっきりとは云えない。あることの成果を見るまでは、それか確かにあるとは云えない。地中に種があるかどうか知るためには、その土壌を掘り起こさせてもらうか、地面の下から葉が生え出てくるのが見えるまで待たなくてはならない。それと同じように、あなたの名前が《小羊》のいのちの書に書かれているかどうかは、あなたが自分の心を神に向けて差し伸ばすという、あなたのうちにある神の愛が明らかになるまでわからない。不分明という深い岩々の内蔵を引きずり出すことは、種々の証拠や効果という踏み鍬や根掘り鍬が供されるまではできない。グラスゴーには、『キリスト教新報』という新聞があるが、これは別名、『非キリスト教新報』、あるいは、『キリスト教的雀蜂』と称されており、その編集者は私を指して、神のことばを宣べ伝える資格のない者だと云っている。なぜなら、私には知らないことがあるからである。すなわち、(それが一体何のことか、あなたに見当がつくだろうか?)、だれが神の選民であるかを私が知らないからだという。彼は、おおむね次のような言葉を書いている。――「彼自身の告白によると、この若者はだれが神の選民であるかは、彼らに質問を発して、相手の人格を知るまではわからないのだという」。よろしい。もし私にそれがわかっているとしたら、私は実際、驚嘆すべき知恵の持ち主ということになるであろう。神がしかるべき時にご自分の選民に常に賜る、心と生活におけるしるしと、目印と、証拠によらずして、だれにそれがわかるだろうか? 私は、天の公文書保管所の鍵を開け、その巻物を読んだり、増上慢な手で《小羊》のいのちの書を開き、だれが神の選民であるのかを知らなくてはならないのだろうか? 否。そのようなことは、『キリスト教新報』の編集者にまかせておきたい。彼が選民の名前をもれなく正確に記載した名簿を出版するときには、それは売れに売れて、その印刷業者に巨富を得させるに違いない。だが、選びについて魂を悩ませてはならない。悔い改めて信ずる者はみな、自分の選びの結果として、そのように悔い改め、かつ信ずるからである。

 次の教理は、私たちの堕落という教理――あらゆる人間がアダムにあって堕落しており、人がみな真理からそれており、そればかりか自分の実際の行為によっても罪に満ちている、ということである。人間のうちには良いものが何も宿っておらず、もしそこから良いものが生ずるとしたら、神によってそこに置かれたものである。というのも、心の中には善の花はおろか、その種子すらないからである。悪魔は、この教理によって魂を苦しめて、こう云う。「お前がいかに堕落した者であるか見るがいい。自分がいかにすさまじく神に逆らう罪を犯してきたかはわかっているだろう。お前は一万回も邪道に陥ってきた。見よ」、と彼は云う。「お前の昔ながらのもろもろの罪が、まだお前を求めて叫んでいるではないか」。そして彼はその杖を一振りして、過去のもろもろの不義をよみがえらせる。それは幽霊のようにぬっと現われ、魂を恐れさせる。「さあ、あの真夜中の光景を見よ。あの忘恩の行為を思い出せ。聞けよ! お前は、あの呪いの言葉が過去の壁からこだましてくるのが聞こえないのか。お前の心を眺めてみよ。それが洗われることなどありえようか? 何と、それはどす黒さで満ちているではないか。お前は、自分が昨日祈ろうとしたことを知っている。だがお前の思いは、半分も祈らないうちに、ふらふらとお前の商売の方にさまよい出した。そして、お前が神を求め出して以来、お前は半分も本気ではなかった。扉を時々叩いたかと思うと、じきにあきらめてしまった。お前が赦されることなどありえるものか。お前は羊飼いにも見つけられないほど遠くへさまよい出してしまったのだ。お前は全く不潔なものとなり果てている。お前の心は何よりも陰険で、それは直らない。だからお前が救われることなどありえないのだ」。多くのあわれな魂は、この教理によって、この上もなく激しくひきつけさせられてきた。私自身、多少はそれを感じたことがある。そのとき私は、自分がいかなる者であったかという恐ろしい記憶によって、完全にひきつけさせられてしまうに違いないと本当に思った。悪魔は罪人を打ち倒し、お前の咎は他にくらべものもないほど極悪のものなのだ、お前の不義はあわれみの限度をはるかに越えているのだ、お前の死刑執行令状には署名がされているのだ! と云いくるめては、ほとんど完全にひきつけさせてしまう。あゝ! あわれな魂よ。もう一度立ち上がるがいい。悪魔にはあなたを打ち倒す何の権利もない。あなたの罪が、神のあわれみにとって大きすぎることはない。信仰さえ欠けていなければ、いかに大きな罪であれ、人を罪に定めることはできない。ある人に信仰があるなら、その人がこれまで犯してきたであろういかなる罪にもかかわらず、その人は救われる。だがもし、その人がたった1つしか罪を犯していなくとも、信仰がなければ、その1つの罪が完全にその人を滅ぼすであろう。キリストの血を信ずる信仰は、罪のとげを破壊する。《救い主》の尊い血は、その一滴だけでも、神がお望みになるとき、紅蓮の炎をあげる一千もの世界を消火できるであろう。あなたのあわれな心のうちに燃える恐れを消し止めることなど、云うまでもない。もしあなたがキリストを信ずるならば、あなたは山なす自分の咎に対してこう云うべきである。「ここから遠く離れて、海の深みに投げ込まれよ」、と。

 それから、有効召命という教理がある。神はその子どもたちを有効にお召しになる。私たちを神のもとに至らせるのは、人間の力ではない。神のみわざこそ人を恵みに至らせるのである。神は、救おうとしている人々を、ご自分の子どもたちだけに賜る有効にして特別な召命によってお召しになる。「さあ」、と悪い者は云う。「あの教役者は、有効召命がなくてはならないと云った。だが請け合ってもいいが、お前の受けた召しはそのような召しではない。それは決して神から来たものではない。それは単に、少しばかり熱くなった感情にすぎない。お前は説教を聞いて少し興奮したのだ。だがそれもやがて、朝もやか、朝早く消え去る露のようになくなってしまうだろう。お前も時には強い願いを持つが、それ以外の時には、半分も熱烈ではない。もし主がお前を引き寄せているとしたら、常に同じ力で引かれるはずだ。お前の願いはすぐにやんでしまうだろう。そんな律法的な確信によって神のもとに向かう気を起こしたお前は、そのうちに神のもとから逃げ出すだろうし、そうすることによって、その分ずっと悪い状態になるだろう」。よろしい。愛する方々。サタンにこう告げるがいい。自分にはこれが有効召命かどうかわからないが、このことだけはわかる。もし自分が滅びるとしたら、キリストのもとに行き、そこでだけ滅びたいのだ、と。彼に告げるがいい。自分には、この召しが効力を有していることははっきりわかる。だからキリストのもとに行かないではいられないのだ。それが永続するかしないか、それはこれからおいおいわかるであろう。だが、自分は決意しているのだ(というのも、これがあなたの最後の守りだからである)、もし自分が滅びるとしたら、キリストの十字架の足元で滅びよう、と。このようにしてあなたは、神の助けによって、彼がこの教理の点であなたを打ち倒すときも、何らかの手段によって、彼に打ち勝つことができるであろう。

 悪魔はまた、最終的堅忍の教理をもねじ曲げるであろう。「見るがいい」、とサタンは云う。「神の子どもたちは常に進み続ける。彼らは決して聖であることをやめない。彼らは堅忍する。彼らの信仰は義人の道のようで、あけぼのの光がいよいよ輝きを増して真昼となるのと同じだ。もしお前が主の民のひとりだとしたら、お前の信仰もそのようであるであろう。しかしお前は、決して堅忍できないであろう。お前は覚えていないのか――半年前に、お前が病床に横たわっていたとき、お前は神に仕えようと決意したのに、それはみな挫折したではないか。お前はキリスト者になろうと何度も誓ったのに、みな二週間ももたなかった。これは全く何の役にも立たないのだ。お前は移り気すぎる。お前は決してキリストにすがり続けはしないだろう。多少はキリストとともに行くだろうが、後戻りすることは確実だ。それゆえ、おまえが主の民のひとりなどであるはずはない。彼らは決して逆戻りしないからだ」。そのように彼は、この偉大で慰めに富む教理について、このあわれな魂を引きずり、激しくひきつけさせるのである。罪人がその望みをかけなくてはならない、まさにその同じ釘を、悪魔はその人の信仰のこめかみに打ち込み、その人をヤエルの天幕の中におけるシセラのごとく死に至らせようとするのである[士4:21]。おゝ、あわれな魂よ。サタンに告げるがいい。お前の云う最終的堅忍はお前のものではなく、神こそその創始者なのだ、と。自分がいかに弱いかは承知しているが、神は、もし良いわざを始めるとしたら、決して未完成のまま放り出したりなさらないのだ、と[ピリ1:6]。そして、このようにして彼を撃退するときあなたは、彼がいくらあなたを投げ倒し、激しくひきつけさせていたとしても、立ち上がれるであろう。

 それから、贖いの教理がある。これによって悪霊は魂を襲撃するであろう。「おゝ」、とサタンは云う。「確かにキリストは死んだ。だがそれはお前のためではない。お前は特別な人間なのだ」。今でも思い出すが、悪魔はかつて私に、自分が他にくらべものもない、たぐいまれな者なのだと信じ込ませたことがある。私は、自分のような者は他にどこにもいないと思った。他の人々も私がしたような罪を犯し、私と同じくらい悪人になったとはいっても、自分の罪には独特のものがあると思い描いたのである。このようにして、悪魔は私を、あたかも人類の他の人々には属していないかのように切り離そうとした。私は、もし私が他のだれかのようであったとしたら救われるだろうにと思った。いかにしばしば私は願ったことか。もし私が、街通りで悪態をついているあわれな酔いどれだったらよかったのにと。そうすれば私には、より良い見込みがあると思ったのである。だが、事実を変えることはできなかったため私は自分が、森の陰にいる鹿のように、ひとりで死んでいくのだと考えた。しかし、私はよく覚えている。私の友人たちが、かの甘やかな賛美歌を歌っていたのである。――

   「御恵み主権(たか)く 豊けく代価(かた)なし、
    わが魂(たま)よ、なぜ 汝がためならずや?」

デナムの賛美歌集にある一曲だが、これはリッポンの賛美歌集にも含まれているに違いない。記憶に間違いがなければ、それはこのように終わっている。――

   「主はその血潮 豊かに流せり、
    わが魂(たま)よ、なぜ、汝がためならずや?」

これこそまさに、私たちが決して自分に投げかけない問いである。私たちは云う。「確かに、わが魂よ。なぜ他の人々すべてのためでありながら、お前のためのものではないのか?」 立てよ、あわれな魂よ! もしサタンがあなたを激しくひきつけさせているとしたら、こう書かれていると彼に告げるがいい。「キリストは……ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります」[ヘブ7:25]。また、「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。このようにして神はあなたを、近づきつつある罪人として投げ込まれていたその絶望的な争闘から救い出してくださるであろう。

 2. しかし、サタンはさほど細心ではなく、時には、近づきつつある罪人を打ち倒し、激しくひきつけさせようとして、ぞっとするような偽りを告げることがある。あなたがたの中のある人々は、こうしたことを知らないであろうし、私は、もしこれから私が語ろうとすることの中にあなたが理解できないものがあるとしたら、神に感謝するものである。多くの場合、魂がキリストに近づくとき、サタンは不信心な想念を猛烈に吹き込んでくる。私が徹底的な不信者となったことはたった一度しかない。それは、私が《救い主》の必要を知る前ではなく、後のことであった。それは、まさに私がキリストを必要とし、主をあえぎ求めていたときであった。突如として、ある想念が私の思いをよぎり、私はそれをぞっとするほど嫌悪したが、打ち負かすことができなかった。その想念は、神などいないのだ、キリストなどいないのだ、天国も地獄もないのだ、とし、私のいかなる祈りも茶番でしかなく、空っ風に向かって口笛を吹いたり、吠えたける荒波に向かって話しかけるも同然なのだ、と云った。あゝ! 今も覚えているが、いかに私の舟は、火焔の海の上を漂い流れたことか。父祖たちから受け継いだ、信仰という私の錨から、それは切り離されていた。私はあらゆるものを疑ったが、とうとう悪魔は墓穴を掘ってしまった。彼は、私自身の存在まで疑わせようとしたのである。私は、自分が真空の虚無に浮かぶ一観念にすぎないのだと考えた。そのとき私は、その考えに愕然とし、結局は自分が実体を持った血肉であると感じて、悟ったのである。神はおられ、キリストはおられ、天国は実在し、地獄は実在し、こうした事がらすべてはまさに真実なのだ、と。私は、この場にいる多くの人々がまさに不信心の瀬戸際にあるとしても、また、ほとんどあらゆるものについて疑いをいだいているとしても驚かない。サタンは、心が柔らかくなっているのを見いだすときにこそ、彼の不信心という刻印を魂に押しつけようとするのである。だが、神はほむべきかな。彼は決して、真に近づきつつある罪人において、このことを成し遂げることはできない。彼はまた、努めて冒涜的な想念を吹き込んでは、それが私たちから出たものだと私たちに告げる。時として彼は、この上もなく激越な冒涜や悪い想像の奔流を私たちの心に注ぎ込むことがなかっただろうか? そして、私たちは、無知にもそれらが自分の考えだと思い込まなかっただろうか? それでも、それらの1つとして、私たちに属してはいないかもしれない。今も覚えているが、かつて私がひとりきりで神について思い巡らしていたとき、突然、あたかも地獄の水門が緩められたかのように思われ、一万もの悪霊が私の脳裡で謝肉祭を開いているかのように思われたことがある。私は口をふさいで、自分の耳に注ぎ込まれた冒涜的な言葉を発することがないようにした。それまで一度も聞いたことも考えたこともないような事がらが、私の精神に猛烈に押し寄せ、私はほとんど彼らの影響に抵抗できなかった。それは悪魔が私を打ち倒し、激しくひきつけさせつつあったのである。あゝ! あわれな魂よ。あなたは、そうした経験をするかもしれない。だが覚えておくがいい。それは、かの不倶戴天の敵の数ある手口の1つにすぎない。彼は、自分の汚れた獣をあなたの畑の中に押し込んでおいては、それをあなたのものだと呼ぶのである。さて、昔の時代には、浮浪者や無宿人がある教区に迷惑をかけたとき、人は彼らを鞭で打ち、次の教区へと叩き出したものである。そのように、あなたがこうした悪しき想念を得るときには、これらに健全な鞭打ちを加えて叩き出すがいい。もしあなたがそれらに思いふけるのでなければ、それらはあなたのものではない。しかし、もしもこうした想念があなた自身のものではないかと恐れるのであれば、こう云うがいい。「私はキリストのもとに行こう。たといこうした冒涜が私のものだとしても、私はそれを、かの偉大な《大祭司》に告白しよう。というのも、私は知っているからだ。人はどんな罪も冒涜も赦していただけるということを[マタ12:31]」。

 3. そこで悪魔は、そこでもあなたを打ち負かせないと、別の手段を試してみる。彼は、神のことばからあらゆる脅かしの箇所を取ると、それらがみなあなたにあてはまるのだと云う。彼は、あなたに向かってこの箇所を読む。「死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません」[Iヨハ5:16]。「ここで使徒は」、と悪魔は云う。「ある種の罪を犯した者については祈ることができないと云っているのだ」。それから彼はこう読む。「聖霊に逆らう罪は赦されません」*[マタ12:31]。「これは、お前の人格のことだ」、と彼は云う。「お前は聖霊に逆らう罪を犯したのだ。だからお前は決して赦されないのだ」。それから彼は別の箇所を持ち出す。「そのなすにまかせよ。エフライムは偶像に、くみしている」*[ホセ4:17]。「さあ」、とサタンは云う。「お前は近頃、全く祈りに自由さを感じていない。神はお前をなすにまかせているのだ。おまえは偶像にくみする者とされているのだ。お前は完全に滅ぼされているのだ」。そして、この冷酷な悪鬼は、その歓喜の歌を吠え立て、このあわれな魂が失われたのだと考えて陽気に踊り出すのである。しかし、私の愛する方々。彼を信じてはならない。いかなる人も、悔い改めに向かう恵みを有している限りは、聖霊に逆らう罪を犯してはいない。確かにいかなる人もキリストのもとに飛んで行き、キリストを信ずる限り、その罪を犯したことはありえない。信じている魂は決してそれを犯すことができない。悔悟した罪人はだれひとりとして、それを犯したことはない。もしある人が無頓着で考えなしだとしたら、――もし彼が恐ろしい悲鳴を聞いても、それを笑い飛ばし、自分の罪の確信を遠ざけることができるとしたら、――もし彼が良心の葛藤を全く感じることがないとしたら、その人がその罪を犯したかもしれない恐れはある。しかし、キリストを求める思いが少しでもある限り、あなたは、天に飛び上がって星々の間から蜘蛛の巣をはたき落としたことがないのと同じくらい、その罪を犯したことはありえない。あなたが自分の咎と、贖われたいという願いを実感している限り、そうした罪に陥ったはずがない。悔悟していさえすれば、あなたはなおも救われることができる。だが、もしあなたがそれを犯したとしたら、あなたが悔悟しているはずがない。

 II. これからしばし、第二の点について語ってみよう。――《悪魔の意図》である。なぜ彼は、近づく魂を打ち倒し、激しくひきつけさせるのだろうか?

 第一に、それを失いたくないからである。「そうやすやすと家来を手放す王はいないぞ」、とアポルオンは、全力を尽くして路を進もうとする基督者に云った。「誓って、この先一歩も進ませないぞ。ここでお前の命をなきものにしてくれよう」。そこに彼は立って基督者に復讐を誓った。なぜなら、基督者は彼の領土から逃亡してきたからである。あなたは、サタンがその家来をひとりまたひとりと失っていながら、激怒していないと思うだろうか? 決してそのようなことはない。魂が、その目を光に据えて、かの小さな門から大急ぎで外へ出て行くとき、地獄の犬たちすべてが彼を追いかけて行く。「あそこに、また俺様の家来が逃げて行くぞ。俺様の帝国は縮小しつつあり、俺様の一族は少なくなりつつある」。それで彼は、全力を傾けて、このあわれな魂を連れ戻そうとするのである。あゝ! 魂よ。彼に欺かれてはならない。彼の意図はあなたを打ち倒すことにある。彼があなたにこうしたことを告げるのは、あなたに善を施すためでも、あなたをへりくだらせるためでもなく、あなたをキリストのもとに行かせないようにするため、あなたを自分の網におびき寄せるため、そして、そこで完全にあなたを滅ぼすためなのである。

 また私の信ずるところ、時として彼のよこしまな意図は、あわれな魂がキリストを信ずる前に、彼らを自殺させようとすることにある。これは極端な場合だが、私の出会ってきた少なからぬ人々は、このように自分のいのちを取り去って、自らの血で手を汚したまま自分の《造り主》の前に突進していくよう誘惑されたことがあった。というのも、サタンは、人を殺す者には決して永遠のいのちがとどまっていないことをよく知っているからである。しかし、彼は決してその意図を、ただひとりの選ばれた罪人の魂においても成し遂げたことはない。

 それからサタンには別の動機がある。魂がキリストに近づくとき、彼は悪意によって、その魂を悩ませようとする。サタンの心は、慈悲心とは正反対のもの――意地悪――から成り立っている。彼はあらゆるものを憎み、何も愛さない。彼は、いかなる者が幸せになることも、いかなる魂が喜ぶことも見るのを憎む。そして、ある魂がキリストのもとに近づきつつあるのを見るとき、彼は云うのである。「あゝ! 俺様はあやつをもう少しで失いかかっておる。あやつの耳に断罪を轟かせる機会も、あやつを俺様のもくろみ通りに地獄の炎の中で引きずり回す機会も二度とあるまい。ならば、あやつがいなくなってしまう前に、何かしてやろう。最後の一握りはきついものにしてやる。最後の一打ちは俺様の全力を込めたものにしてやる」。そして彼がそのあわれな魂に飛びかかると、それは絶望と疑惑の中で地面に打ち倒れ、のたうち回るのである。そのとき彼はその人を激しくひきつけさせ、主に許された害悪の限りを尽くすまではその人から離れようとしないのである。だが恐れてはならない。神の子どもよ。「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」[ヤコ4:7]。そして、たとい彼があなたを地べたに叩きつけるとしても、覚えておくがいい。義人は何度倒れても、また起き上がるのである[箴24:16]。あなたもそうなるであろう。また、敵の意図は挫かれるであろう。こう書かれている通りである。「あなたの敵はあなたにへつらう」*[申33:29]。

 III. 第三のこととして、《悪魔の発見》がある。私は、もしも悪魔が悪魔としてやって来たとしたら、あわれな罪人をひとりも打ち倒せないだろうと思う。だが彼はめったにそのようにやって来はしない。彼は光の御使いとして現われるか[IIコリ11:14]、聖霊としてさえ現われる。彼は、聖霊が救いのすべてのみわざをなさることを知っており、それゆえ、聖霊の働きを偽造しようとする。彼は、聖霊のみわざこそ人間から高慢を取り除き、魂をへりくだらせることを知っている。よろしい。サタンは、そのほむべきみわざを偽造し、人から高慢とともに希望をも取り去る。あわれな罪人をへりくだらせ、また、ちりの中に身を低くせよとその人に告げるかに見せかけて、そのあわれな魂をへりくだらせるばかりか、ぺしゃんこに押しつぶし、神ご自身でもその人を救うことはできないのだ、とその人に告げる。そして、神に恥辱を与えるような考えを罪人にいだかせようとする。サタンは、できるものなら、神の作品を傷つけてやろうとし、それが陶器師のろくろにまだ載っていて、聖霊の形をとる前に、その品に悪魔の目印を帯びさせようとするのである。時としてあなたは、祈りにおいてもだえ苦しめるように神に願うことがある。「それは結構」、とサタンは云う。「祈りにおいてもだえ苦しむがいい。だが、覚えておくがいい。お前は今あわれみを得るか、失われるか、どちらかしかないのだ」。そのようにして彼は、真理にごく僅かなつけ足しをすべり込ませ、それが聖霊による衝動なのだと信じ込ませる。だが実はそれは、《偽りの父》[ヨハ8:44]の欺きでしかない。聖霊は、あなたが失われた、破滅すべき罪人であるとあなたに告げる。「あゝ!」、と悪魔は云う。「その通り。だから、お前は救われることができないのだ」。そして、このようにして彼は、御霊の働きを装って魂を欺くのである。私が堅く信ずるところ、キリスト者経験の非常に多くは、キリスト教的経験ではない。多くのキリスト者たちが経験しているのは、キリスト教とは全く関わりがなく、むしろずっと悪魔信仰に関係している。ジョン・バニヤンの回心記を読むと、そのあらゆる恐怖は聖霊の実であると思うかもしれない。だが、これらは確実にサタン的な影響力の実であった。罪人たちを絶望に追いやり、彼らをかくも長く鉄の檻に閉じ込めておくのは、神の聖霊であるとあなたは思うかもしれない。決してそうではない。そこには、まず神の聖霊がおられ、その後で、できるものならそのみわざを傷つけようとしてサタンがやって来たのである。

 さて私は、あわれな罪人にサタンを見破るための手段をいくつか示したいと思う。そうすれば、自分の罪の確信が聖霊からのものか、単に地獄の唸り声が耳に入っているにすぎないのかがわかるであろう。第一のこととして、これは常に確実なことと思ってよいが、悪魔からやって来るものは、あなた自身を見つめさせ、キリストを見させない。聖霊のみわざは、私たちの目を私たち自身からイエス・キリストに向けさせるが、敵のしわざはその正反対である。「お前には咎がある」、と悪魔は云う。――それは自我である。「お前には信仰がない」。――それは自我である。「お前は十分悔い改めていない」。――それは自我である。「お前はキリストをへなへなとしかつかんでいない」。――それは自我である。「お前には霊の喜びが何もない。だから、キリストの民ではありえない」。――それは自我である。このようにして悪魔は、私たちをつついて穴を掘り始める。だが、聖霊は自我を完全に取り去り、私たちが「何者でもない」ことを私たちにお告げになる。むしろ、

   「イエス・キリスト すべてのすべて」

なのである。サタンは自我の死骸を引っぱり出しては、振り回し、それが腐敗しているからといって、私たちが救われることは絶対にありえない、と私たちに告げる。しかし、覚えておくがいい。罪人よ。あなたを救うのは、キリストをあなたがつかんでいることではない。――キリストである。あなたを救うのは、キリストに対するあなたの喜びではない。――キリストである。それは、キリストを信ずる信仰ですら(媒体ではあるが)ない。――キリストの血と功績である。それゆえ、キリストをつかんでいるあなたの手を見るよりは、キリストを見つめるがいい。あなたの希望よりは、あなたの希望の源なるキリストを見つめるがいい。あなたの信仰よりは、信仰の創始者であり完成者[ヘブ12:2]であるキリストを見るがいい。そして、そのようにするならば、一万もの悪霊をもってしてもあなたを打ち倒すことはできない。だが、あなたが自分を見つめている限りは、そうした悪霊の中の最も下っ端でさえ、あなたを足で踏みにじることができるであろう。

 あなたは別のしかたでも、悪魔のほのめかしを見分けることができる。それらは通常、神の何らかの属性を中傷するものである。時として、それらは神の愛を中傷し、神はあなたを救わないだろう、とあなたに告げる。時として、神の寛容を中傷し、あなたは年をとりすぎている、だから神はあなたを救わないだろう、とあなたに告げる。時として、神の主権を中傷し、神はみこころのままに選ぶことはしないのだ、神は人をえこひいきするのだ、人々をその功績に従ってお取りになるのだ、とあなたに告げる。時として、神の真実さを中傷し、神はその約束を守らないのだ、とあなたに告げる。左様。そして時として神のご存在すら中傷し、そのようなものは存在していないのだ、とあなたに告げる。しかし、おゝ、あわれな、おののいている魂よ。サタンはあなたの上手に出ることはない。だが用心するがいい。――彼を見破るがいい。そして、悪魔を突きとめたときには、あなた自身に関する限り、その目当ての裏をかいてやるがいい。

 IV. さて、最後のこととして、私たちは《悪魔の敗北》を考察しなくてはならない。いかにして彼は破れただろうか? イエスが彼を叱責なさったのである。愛する方々。悪魔から打ち倒されたとき、私たちを救う方法はイエスの叱責以外に何もない。「おゝ」、とひとりのあわれな魂は云う。「何箇月も何年も、私は自分が救われないのではないかという恐れに悩まされてきました。私は、どこかの教役者が何か悪霊を叱るようなことを云ってくれはしないかと望みをかけて、あちこちを行き巡ってきました」。愛する姉妹、または兄弟よ。この悪霊を叱責したのはイエスではなかっただろうか? あるいは、ことによるとあなたは、悪霊を自分で叱責しようとしてきたかもしれない。あなたは、彼と議論し、論破しようとしてきた。私はお前が描写するほどの悪人ではない、とあなたは云い張ってきた。愛する方々。あなたは間違っていたのではなかろうか。サタンを叱責するのはあなたの仕事ではない。「主があなたを戒めてくださるように」[ユダ9]。これこそ、あなたが云うべきことである。おゝ! もしあなたがイエスを見上げて、「主よ。彼を叱責してください」、と云っていたならば、イエスは、「叱!」、と仰せになるだけで、悪霊は一瞬にして静まっていたであろう。というのも、悪霊は主の御力を感じて、イエスがいかに全能であられるか知っているからである。しかし、あなたは、こうした誘惑の下にあるとき、自分で自分の心を静めようと苦闘し、イエスでなければその患難を取り除けないことを思い出さない。もしもこの場に、こうした患い――サタンに取りつかれること――によって激しく苦しんでいる人がいるとしたら、私はその人に云いたい。愛する方よ。腰をおろすがいい。イエスを思い出すがいい。ゲツセマネに行くがいい。嘘ではない。そこには決して悪魔はあなたとともにとどまらないであろう。ご自分の血によって覆われた、あなたの《救い主》の苦悶について思うがいい。キリストが、かの呪わるべき鞭打ちを耐え忍ばれた敷石[ヨハ19:13]へと行くがいい。悪魔は、そこには長くあなたとともにとどまらないであろう。そして、もしあなたが主の十字架の根元に座り、こう云うとしたら――

   「おゝ! かの流れ、甘き眺めぞ、
    常に尊き 主の血の河は」――、

あなたは、じきに悪魔があなたを悩まさなくなることに気づくであろう。単に祈り続けるだけでは役に立たない。祈りはそれ自体としては良いものだが、サタンを追い払う道ではない。――それは、キリストについて考えることである。私たちはしきりに、「おゝ、私にもっと強い信仰があれば! おゝ、イエスをもっと愛することができたなら!」、と云い続ける。キリスト者がそう云うのは良いことだが、それで十分ではない。サタンを打ち負かす道、また神との平和を得る道は、キリストを通してである。「わたしが道……なのです」[ヨハ14:6]。もしその道を知りたければ、キリストのもとに来るがいい。「わたしが……真理……なのです」。もし悪魔の偽りを反駁したければ、真理のもとに来るがいい。「わたしが……いのちなのです」。もしサタンに殺されたくなければ、イエスのもとに来るがいい。私たち説教者がみな、あまりにも自分の説教の中で曇らせてしまう1つのことがある。全く意図せずして行なっていることだと信ずるが、――それは、この偉大な真理、すなわち、私たちが頼りとしなくてはならないのは、決して祈りでも、信仰でも、私たちの行ないでも、私たちの感情でもなく、キリストであり、キリストだけなのだ、ということである。私たちは、自分は良い状態にないとか、感情が十分伴っていないとか考えることばかり多くなりがちで、私たちの務めは自我ではなく、キリストだということを思い出さない。私たちの務めは、ただキリストとのみ関わっている。おゝ、魂よ。もしあなたがあなたの魂をイエスにしっかり固定し、他の何もかも無視できるとしたら、――もしあなたが、自分の救いに関する限り、良きわざだの他の何だのをみな軽蔑し、ただキリストだけを見つめられるとしたら、私はあなたに云う。サタンはすぐにあなたを打ち倒すことをやめるであろう。それが自分の目的にかなわないことに気づくであろう。というのも、あなたはキリストの上に倒れ、自らの母なる大地に倒れ伏したあの巨人のように、倒れるたびに、以前にまして強くなって立ち上がるからである。ならば、私には、ひとりのあわれな、試練を受け、誘惑され、悪魔に引きずられている魂の声が聞こえるだろうか? サタンはあなたを、おどろといばら、また茂みの中を引きずり回し、あなたはぼろぼろの傷だらけになっているだろうか? さあ来るがいい。私はあなたに向かって荒っぽい説教を語ろうとしてきた。なぜなら私は、荒っぽい扱いを受けてきた魂には、荒っぽい働きをすべきであると知っていたからである。あわれな罪人よ。ここには、あなたがつかむことのできるものが何もないだろうか? あなたは、その鉄格子の隙間から一条の光も射し込まないほど閉じ込められているのだろうか? 何と! あなたは、手も足も動かせないほど鎖で縛られているのだろうか? 何と、方々。私はきょう、水差しと一片のパンを、地下牢の中にいるあなたにさえ持ってきたのである。あなたは打ちひしがれてはいるが、私が語ったことには、少しはあなたを慰めるものがあるはずである。だが、おゝ! もし私の《主人》がやって来られたならば、主はそれ以上のものをもたらすであろう。というのも、主はこの悪霊を叱責し、それはたちまちあなたから離れ去るからである。私は切に願う。ただキリストだけを見つめてほしい。決して自我によっても、サタンによっても、教役者たちによっても、あるいは、キリスト以外のいかなる手段によっても、解放を待ち望んではならない。あなたの目をただ主に据えるがいい。主の死を、主の苦悶を、主の呻きを、主の苦しみを、主の功績を、主の栄光を、主のとりなしを、日々新たに思い巡らすがいい。朝目覚めるときには主を見つめ、夜横たわるときには主を認めるがいい。おゝ! あなたの希望であれ恐れであれ、あなたとキリストの間に割り込ませてはならない。ただキリストを求めるがいい。先に私たちが歌った賛美を、あなたの賛美、あなたの祈りとするがいい。――

   「主よ、わがものを 取らば取りね、
    ただわが咎を 除かせ給え
    われは打ち伏す、汝が足元に、
    キリストなくば、われは死ぬのみ」。

ということであれば、悪魔があなたを打ち倒し、激しくひきつけさせるとしても、いま彼がそうする方が、永遠にあなたをひきつけさせておくよりもはるかにましであろう。

 しかしながら、この場にいるある人々は、私が今朝説教してきたことを笑い飛ばすであろう。あゝ! 方々。そうしたければそうしてもよい。だが、本日の聖句は苦いものかもしれないが、それをあなたが口にすることを私は願う。キリストに近づく際に激しくひきつけさせられるのは悲しい経験だが、そうした姿になる方が、全身無事なままでキリストから離れている姿よりもよいと私は思う。《救い主》に近づこうとしてばらばらに引き裂かれる方が、健康な、無傷のままの心が《救い主》から遠ざかっているよりもましである。おののくがいい。罪人よ。おののくがいい。というのも、もしあなたがキリストのもとに近づかないとしたら、キリストが最後にはあなたを引き裂くであろう。主の目はあわれむことをせず、その御手はあなたに容赦しないであろう。主はかつて云われた。「神を忘れる者よ。用心せよ。さもないと、わたしはおまえを引き裂き、救い出す者もいなくなろう」*[詩50:22]。方々。もう一時間もしないうちに、あなたがたの中のだれかが、このことを思い知ることになるかもしれない。確かに、さほど遠からぬ未来に、神の御怒りによって引き裂かれる人々がいるであろう。なぜ、あなたがたは死のうとするのか? なぜ、あなたがたは死のうとするのか?[エゼ18:31] あなたには、この問いに答えを返せないだろうと思う。だが、それを肝に銘じておくがいい。あなた自身の血に何の益があるだろうか?[詩30:9] たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得があるだろうか?[マコ8:36] 覚えておくがいい。イエス・キリストは、あなたさえも救うことがおできになる。その御名を信じるがいい。あなたがた、罪を確信させられている罪人たち。キリストを信じるがいい。主があなたを祝福してくださるように。イエスのゆえに! アーメン。

 

近づく者とサタンとの争闘[了]



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