貧しい人たちを顧みる義務
NO. 99
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---- 1856年9月25日、木曜日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂
《老巡礼の友》協会のための説教
「ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来たところです」。――ガラ2:10
貧しさは決して美徳ではなく、富は決して罪ではない。その一方で、富は道徳的な善ではなく、貧しさは道徳的な悪ではない。人は善人であっても富者でありえる。だが非常にしばしば、善人が貧しい人であることもきわめて確かである。美徳という植物が育つかどうかは、それを取り巻く環境次第ではなく、だれの手がそれに水を注ぎ、いかなる恵みによって維持されているか次第なのである。私たちは、善であれ悪であれ、自分の置かれた状況から恵みへの支えを引き出しているのではない。私たちの種々の状況は、時として私たちの胸の内側にある恵み深いみわざに悪影響を及ぼすことがあるが、人生のいかなる立場であれ、魂のうちにある恵みのいのちを維持する原因となっていないことは確実である。それは常に天来の力によって支持されなくてはならず、その力は貧しさの中でも、富の中と同じく働くことができるのである。というのも、私たちはキリスト教が見事に育ちきった、この上もなく素晴らしい実例のいくつかを、物質的な状況においては、この上もなく非常にみすぼらしい者たちのうちに見てとるからである。彼らの輝きは、社会的身分からすれば、当然美徳を補助し、恵みを維持する多くのものを有しているだろうと想像されるような人々をはるかにしのいでいる。恵みという植物は、それが育つ荒野からはいかなる栄養も引き出していない。人間の心の中には、その養いとするようなものを何も見いださない。そのいのちのよりどころとなるすべてのものを、それは超自然的に受け取っている。それはその根をことごとく上方へ張り伸ばし、一本たりとも下に向かうものはない。いかなる支えをも貧困から引き出さず、何も富から引き出してはいない。黄金は恵みを維持できないし、逆に襤褸が恵みを生き生きと成長させることもできない。恵みという植物は、その支えのすべてを聖霊なる神から得ており、それゆえ、人間の状況からは全く独立している。だがしかし、よく聞くがいい。否定することのできない事実として、神は大部分の場合、その恵みを貧しさという土壌にお植えになってこられた。神はこの世の偉大な者や、強い者はあまり多く選ばず、「この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし……御国を相続する者とされた」[ヤコ2:5]。私たちには不審なことと思われるが、神の選択が間違いなく賢いものであることは全く確実である。私たちは聖書が教え、私たち自身の見るところから裏づけられる事実に疑いを差し挟むことはできない。主の民は、そのあらかたが、この世の貧しい者なのである。その中に王冠を戴いている者はほとんどいない。四輪馬車に乗っている者はほとんどいない。そこそこの財産を有している人々は、ある程度までしかいない。主の家族の大群衆は、貧窮し、苦しみ悩み、神から日ごとに支給される分に日々より頼み、毎食ごとに神に信頼し、自分たちの必要を神がその満ち満ちた豊かさによって満たしてくださると信ずることによって生かされている。
さて、今晩私たちがまず第一に言及したいのは、神には貧しい民があるという事実である。第二に、私たちは貧しい人たちを顧みなくてはならないという義務である。そして第三に、私たちには、その義務を果たすべき責務があるということである。というのも、私たちが特に主の群れの貧しい人たちを思いやるべき理由は1つや2つではないからからである。
I. まず第一に、《主には貧しい民がある》。――この事実は、私たち全員にとって周知のことであって、日ごとの観察によって確証されている。なぜ主には貧しい民がいるのだろうか? これは、私たちの心に浮かぶ問いであり、自らも貧しい者にとっては、答えることが必ずしも容易ではない問いである。神はみこころであれば彼らを全員富者にすることができるであろう。彼らの玄関の前に黄金の袋を置いておくことも、今は砂漠であるところに、豊かな支えの流れを送ることもできるであろう。彼らの家中に満ちあふれるほどの糧食を振りまくことができるであろう。かつてイスラエルの宿営の周囲に山とうずらを積まれたように[出16:13]、今も天から彼らの上にパンを降らせて彼らを養うことがおできになるであろう。彼らが貧しくなくてはならない理由は、神ご自身の主権のみこころ以外に何もない。「千の丘の家畜らは神のもの」*[詩50:10]であり、それを神は供することがおできになるはずである。神がこの世の富者たちの思いを変えてくださるなら、彼らに自分の富のすべてを放棄させることもできるはずである。いかに富み、いかに強く、いかに権力ある者らにも、そのすべての権能と富とをご自分の子どもたちの足元に持ち来たらせることがおできになるはずである。すべての人の心は神の支配下にあるからである。しかし、神はそうすることをお選びにならない。子らが欠乏に苦しみ、赤貧にあえぎ、暗がりの中でやせ衰えることを許しておられる。これはなぜか? それは、自らがそうした状況の中にあるときには、簡単には答えの出ない問いだと思う。だが、私たちの中の多くの者らが患難の中から脱するのを見るとき、ことによると、主なる神がこれまでも、今も、また常に、この世に貧しい民を持っておられる理由を1つか2つ示唆できるかもしれない。
I. その1つの理由は、私たちが、私たちの中の多くの者らに神が授けておられるすべての慰めゆえに、いかに感謝すべきかを教えるためだと思う。私が食べたことのある中でも、最も甘やかであると思われた食事の1つは、見るも無惨な赤貧の状況を見て涙せざるをえなかった後でとった食事であった。他の人々が日ごとのパンにも事欠いているのを見るとき、私たちのパン一個はたちまち非常に甘やかな味となるではないだろうか? それは、かさかさに乾いているかもしれない。だが、私たちはある人が通りでパンを人に乞うている姿を見てきた。私たちはその日、自分の有するもののために神に感謝した。他の人々の困窮を知ったからである。町へ出歩いて、貧しい人を見るとき、よほど貧しいキリスト者でもない限り、人はその目を天に上げて、自分の神にこう感謝するに違いない。――
「われ他にまさる ものはなけれど
主は他にまさる ものを給えり」。もし私たちがみな同じように金持ちにさせられていたなら、もし神が私たち全員にあり余る富を与えておられたなら、私たちには決して神の数々のあわれみの価値がわからなかったであろう。だが神は貧しい人々を私たちのそば近くに置かれ、彼らの試練を暗い影のようにして、現世的な事がらにおいて私たちに与えておられる輝きを際立たせておられるのである。おゝ! あなたがたは、他の人々の必要に目をとめることによって、自分が感謝すべき理由を見てとらなかったとしたら、決して今の半分ほども神に感謝することはなかったであろう。おゝ! あなたがた、好き嫌いがはなはだしく、目の前に出された食事にほとんど手もつけないでいられる人たち。もしあなたが、貧しい人たちの食卓につくことができたなら、それはあなたのためになるであろう。おゝ! あなたがた、不満足をかこち、あらゆる種類のごちそうが供されていないからといって自分の家庭についてぶつぶつ云っている人たち。もしあなたが、しばらくの間でも、救貧院で与えられる食卓に着き、時にはそれ以下のものを食べ、一日か二日断食して、食欲がわいてくるまで待つとしたら、それはあなたのためになるであろう。左様。あなたがた、神への賛美の歌を決して歌うことのない人たち。もしあなたが、たまには神の寛大な賜物に事欠くようにされるとしたら、それはあなたにとって小さくない益となるであろう。そのときあなたは、神が供してくださる豊かな糧のすべてについて神を感謝するよう導かれるであろうからである。キリスト者の人々でさえ、その感謝への拍車は必要である。神は私たちに非常に多くのあわれみを与えておられるが、私たちは決して神に感謝しない。神の種々のあわれみは日ごとにやって来るが、私たちは日ごとにそれを忘れていくからである。神のあわれみは、
「感謝されずに 忘却(わす)れられ
賛美(たたえ)られずに 死ぬるなり」。あなたは、冷たい冬の夜に戸外に出た後には、暖炉の火について神に感謝するではないだろうか? しばらくの間のどが渇くと、一杯の水の何と美味なことか! さて、たとい神がこのようなしかたで私たちを風雨にさらしておられないとしても、他の人々をそうした立場に置かれていることは、少なくとも神の知恵の一例であろう。それは、ご自分の家族の中の、現世的な事がらにおいては、はるかに恵まれている者たちに対して、ご自分の摂理の賜物ゆえに、いかに感謝すべきかを教えるためである。
2. しかしながら、これは問題を非常に低次元にとらえた見方であると思う。それとは別の、より高次元の、またよりすぐれた理由がいくつかある。神が、常に貧しい民がいるようにしておられるのは、ご自分のなさるすべてのことにおいて、その主権を現わすためである。もしひとりも貧しい聖徒がいなかったとしたら、私たちはそれほど強く神の主権の教理を信じないであろう。少なくとも、たとい聖徒たちがそれを信ずるとしても――彼らは常にそれを信じなくてはならず、信じるであろうが――、悪人や、それを軽蔑する者らは、それほど明確なその証拠を持つことなく、今のようにまばゆいばかりの光に反して罪を犯すということはなくなるであろう。だが、今その光は、彼らのあわれな、暗く、盲目の目玉の上に、救いにおける主権という歴然とした現われによって輝いている。神の主権を否定する人々は、あらゆる証言に反して、また、確かに聖書に真っ向から逆らって、それを否定しているのである。というのも、聖書ではそれが明確に確言されており、神は、聖書のほかにも何かがあるようにと、書かれたことばがご自分の摂理によって裏書きされるようになさったからである。それで神は、ご自分の子どもたちの多くが人々の間で軽蔑されるようになさったのである。「わたしは、わたしの望む者を取り上げる」、と神は仰せになる。「あなたがたは、わたしが王や女王たちを最初に選ぶと思うであろう。わたしは、彼らの台所にいる卑しいしもべたちを、酒宴の広間にいるその主人や女主人たちに優先して選ぶのだ。あなたがたは、わたしが議官や賢者を選ぶと思うであろう。わたしは愚か者を最初に取り上げるのだ。それは、人の知恵を軽蔑することをあなたに教えるためである。わたしは富者の前に貧者を取り上げる。それは、あなたのあらゆる高慢をへりくだらせ、人間のうちには、わたしに選ばせるものが何1つないこと、神の主権の意志だけが人々を恵みの世継ぎに創造するものであることをあなたに教えるためである」。私は、貧しい聖徒たちがいることで神をほめたたえる。彼らは私にこの教訓を教えてくれるからである。すなわち、神は、ご自分のものをご自分の好きなようになさるのである。彼らは私にまざまざと示してくれる。人々がいかに神の主権を否定しようと、神から主権を奪い去ることはできない。神は、最後の最後まで、この地が立ち続ける限り、主権を行使し続けるであろう。また、未来の諸時代においてすら、それを行使する道を見いだされるかもしれない。確かに、この世に貧しい聖徒たちがいることは、人々をお選びになる神が主権をお持ちであるということについての、聖徒の思いの中においては明確な証拠であり、罪人の中の最も鈍い知性の持ち主にとっても、平易でくっきり際立った確言である。
3. さらに、神に貧しい民がいるのは、私が受け取るところ、慰めを与える神の数々の約束の力と、福音の数々の支えとを、神がいやまさって明らかに示すためである。もし、神の聖徒たちのすべてがこの世で悠々自適で、何1つ事欠くことがなければ、私たちは福音の価値を半分も悟らないであろう。おゝ! 私の兄弟たち。私たちが、頭を枕するところもないのに、「それでも私は主に信頼する」、と云うことのできる人々を見いだすとき、――パンと水のほか何も持っていなくとも、それでもイエスを喜んでいる人々を見るとき、――私たちが、「この眺めのいつ やまんと惑い」、「日々新たな 苦境(つらみ)目に」していながら、それでもキリストを信ずる信仰をいだいている人々を見るとき、おゝ、それはいかなる誉れを福音に照り返すことであろう! たとい、そこにいる私の裕福な友人が立ち上がって、「私は自分の日ごとの糧について、明日も神を信ずる信仰があります」、と云うとしても、あなたは云うであろう。「愛する方よ。私にとってそれは何の不思議でもありません。あなたは、家に帰ればパンを買うためのお金がしこたまあり、これこれの日には給料をもらえるではいありませんか。あなたの場合、信仰の出る幕はさほど多くありませんよ」。しかし、どこかの貧しいハバククが立ち上がり、「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず」[ハバ3:17]云々と叫び、「それでも私は主に信頼します」、と云うとき、あゝ! そのとき、それはすべてを支える恵みの力を示すものである。知っての通り、最近は非常に多くの種々雑多な発明について聞かされるが、それは決して実用に耐えない。ある人は、水泳帯について宣伝している。乾いた地面の上では見事なものだが、海で試してみると、残念ながらその目的にはうまくかなわないのではないかと思う。そして実際、ある発明の価値は、それが試されるまではわからない。それが持ちこたえるはずの試練すべてをくぐり抜けさせるまではわからない。さて、恵みは信仰者たちの貧しさによる試験を受けている。――彼らは、なおも、その大多数が、不平を云わず、愚痴をこぼさない人種である。――彼らはいかなる失意の下にあってもへこたれず、すべてのことが働いて自分たちの益となる[ロマ8:28]と信じ、見かけ上は悪いものに見えるすべてのことから、究極的には何らかの善が生み出されると信じている。――彼らの神は、彼らをすみやかに救出するか、みこころによって彼らをそこにとどめておかれる間だけ、確実に彼らをその困難の中で支えてくださる。愛する方々。これこそ神がその民を貧しい状況にとどめ置かれる1つの理由に違いない。建築家は、「ほら、この建物は頑丈ですよ」、と云う。仰せはごもっとも。だが、それは試されなくてはならない! 風が吹きつけたときどうなるか見てみようではないか。海に突きだした灯台がある。それは凪の夜である。――その建物が堅固かどうかはわからない。暴風がそのまわりを吠えたけるときに、初めて私はそれが立ち続けるかどうかがわかる。キリスト教信仰もそれと同じである。もしそれが、大嵐の波に囲まれる機会を多く得ないとしたら、この船が浸水しない頑丈なものかどうかはわからない。もし風が、私たちの貧しい、試みに遭っている兄弟たちに対して吹きつけるようなしかたで、それに吹きつけないとしたら、私たちはそれがいかにがっしりしていて、確固たるものかがわからない。神の傑作は、困難の最中にあっても立つことのできる人々である。――すべてが彼らに逆らい立っても、それでも足場を崩すことのない人々である。こうした人々は、神の最も栄光に富む作品である。そのように、神の最上の子どもたち、神に最も誉れを帰す者たちとは、最も重い患難や試練の負荷の最中にあっても、自分たちを維持する恵みを有する人々である。神はその御民をこうした状況の中に入れて、それから私たちにご自分の恵みの力を見せてくださるのである。
4. それからまた、往々にして神の民が試みに遭う貧しい人々であることを神がお許しになるのは、悪魔を悩ませるためである。悪魔がその一生の間で最も悩み苦しんだのは、彼がヨブとともにいたときであると思う。ヨブが富んでいる限り、ヨブはサタンに多くのねたみを引き起こしたが、彼がいかなるときにもまして悪魔を怒らせたのは、貧しくなったときであった。そのときこそ、サタンが烈火のごとき怒りをヨブに対していだいたときであった。なぜなら、ありとあらゆる試練を受けても、彼は神を呪って死のうとはしなかったからである。知っての通り、もしある人が、自分には何かができると考えるとしたら、その人は常にその自己満足にひたりきってしまい、それをしようと試みては失敗するに至る。それでサタンは、自分には神の子どもたちのだれかれをくつがえせると考えている。「さて、サタンよ」、と神は云われる。「わたしはお前に、お前の手管を試みる機会を与えよう。わたしの子どもたちのひとりは非常に貧しい。わたしは彼のパンと水を打ち切った。わたしは彼に患難の水を飲ませ、苦味のパンを食べさせよう。彼は非常に激しい試練に遭うであろう。サタンよ。彼を取り上げて、火水の中をくぐらせ、お前が彼に対して何をできるか見てみるがいい」。それでサタンは、彼の魂の中で天来のいのちを飢え死にさせようとするが、そうすることはできない。いくら手を尽くしても、自分が敗北したことに気づき、悩みと困惑に包まれながら去っていく。それまでも十分にみじめであったが、内側にもう1つの地獄を感じながら去っていく。なぜなら、神の子どもの心にある、いのちの火花を踏み消そうとするその試みがことごとくしくじったからである。神はしばしばサタンが主のみわざを試すことをお許しになる。驚くべきことに悪魔は、その狡猾さにもかかわらず、結局は神の栄光のためになりがちなすべての働きをし続けている。だが、彼はどこから見ても悪魔であり、そうし続けるであろう。常に神の子どもたちにちょっかいを出し続けるであろう。最後の瞬間までも、倦むことなくそうするであろう。あらゆる聖徒がヨルダン川を越えて安全になるまで、神の愛する者たちを悩ませ、困惑させるであろう。あゝ! ならば喜ぼうではないか。神は私たちを解放してくださり、私たちを結局は無事に救い出してくださるのである。しかり。「私たちを愛してくださった方によって……圧倒的な勝利者と」してくださるのである[ロマ8:37]。
5. さらに、この世に貧しい民がいることを許し、その御民を貧しいままにしておかれる、私たちの天の御父の目的は、おそらく、キリストについて、私たちに、ある程度まで、生き生きとうかがい知らせるためである。もしある貧しい人がキリスト者だとしたら、その人は、イエス・キリストの似姿である。あらゆるキリスト者は、イエス・キリストの似姿である。というのも、彼らの上に及ぼされている、キリストの聖めを給う影響力は、彼らを、ある程度までその《主人》に似たものとしているからである。しかし、貧しい人は、その人格においてのみならず、その環境においてもその《主人》に似ている。貧しい聖徒を眺めるとき、あなたは、富んだ聖徒を眺めるときよりも、より真に迫るキリストの肖像を得ているのである。富んだ聖徒はキリストの肢体である。その人には、キリストの像が刻印されており、その像は、その人が天国に行き着いたときに完成するであろう。だが、貧しい聖徒にはその他のものがある。その人は、単に最も顕著な特徴を有するだけでなく、背景も、前景も、その絵の中にある一切のものがあるのである。その人には、その種々の状況がある。労苦によって硬くなった、その褐色の両手を見るがいい。その人の《救い主》の手もかつてはそうであった。その人のくたくたになり、長旅のあまり水ぶくれのできた両足を見るがいい。その人の《救い主》の足も、何度となくそうなったことがあった。その人には、どこにも休み場がないが、その人の《主人》もそうであった。狐には穴があり、鳥には巣があったが、主には枕する所もなかった[マタ8:20]。その人は慈善に頼って食を得ているが、その人の《主人》もそうであった。他の人々が主の必要を満たしていた。見よ! その人は人から招かれて食卓に着くが、その人の《主人》もそうであった。主にはご自分の食卓などなかった。ならば、あなたはキリストを見ているのである。あなたはまだ、自分で見たいだけ十分にキリストを見てはいない。それは、あなたが主のようになり、ありのままの主の姿を見ることのできる場所へと連れ去られるときまで起こらない。神は、私たちが常に《救い主》の貧しさを覚えておくことを望んでおられる。「主は富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられました」*[IIコリ8:9]。そして、人々が何らかの記念日に、その英雄の像を刻んだ勲章を鋳造するのと全く同じように、私はあらゆる貧しい聖徒を、天来の貨幣鋳造所で鋳造された勲章とみなすものである。それは、私たちの主イエス・キリストの生き方を思い出させるよすがとしての勲章である。その人は、私に私の主を思い起こさせることができる。私を、光と栄光へと引き上げるために主が身を屈められた、あの驚くべき貧しさの深みを瞑想せよ、と私に命ずる。おゝ! ほむべきイエスよ。これは賢いことです。私たちはしばしばあなたのことを忘れてしまうからです。――これは賢いことです。あなたが私たちに、あなたを思い出す何らかの機会を与えてくださっていることは。
6. しかし、ここでもう1つの理由をあげて、この主題のこの部分を終えることにしよう。主が、私たちの真中に貧しい人々がいるようにしておられるのは、この理由からである。すなわち、主は私たちの愛をその人に示す機会を私たちに与えようと決めておられるのである。さて私たちがキリストに対する私たちの愛を示すのは、私たちが主のことを歌い、主に祈るときである。だが、もしこの世にひとりも貧しい人々がいなかったとしたら、私たちはしばしば自分の内心でこう云うであろう。「おゝ! 私が助けることのできるキリストの兄弟たちがひとりでもいたら、どんなに良いことか。私はキリストに何かを与えたい。私の《主人》に、私が彼を愛していることを、口先だけでなく、行ないによっても示したい」。そしてもし貧しい聖徒たちがきれいさっぱり取り去られてしまい、私たちがみな悠々自適になり、あり余るほど物持ちになるとしたら、いかなる助けを求める人も全くいなくなり、私たちは泣き出すだろうと思う。なぜなら、助けるべき貧しい聖徒がひとりもいないからである。この世で最も健全なことの1つは、聖徒を助けることである。それは私たち自身の魂にとって非常な祝福である。主の群れの貧しい人たちを訪問し、自分の財をできる限り彼らの必要のために分配することは、心の健全な働かせ方である。それを単なる義務としてばかりではなく、楽しみであり特権であるとみなそうではないか。というのも、自分の財の少しもキリストに与えることができないとしたら、私たちは膝まずいて、主に対する私たちの愛を示せる何らかの機会を与えてくださいと乞い願うに違いないからである。聖徒たちが取り去られるとしたら、私たちの愛が流れることのできる1つの水路がたちまち引っ込められてしまうのである。しかし、そうしたことは決してあるまい。貧しい人たちは常に私たちのそばにい続けるであろうし、なぜ私たちが常にそうした人々を有するかには、それなりの理由が多々あるからである。
II. 私たちが語ろうと思う第二のことは、ここに暗示されている《義務》である。「ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでした」。「貧しい人たちを顧みよ」。この「顧みる」という言葉には、非常に幅広い意味がある。
私たちは、自分の祈りにおいて貧しい人たちを顧みるべきである。私はあなたに、富んでいる人たちのために嘆願をささげるよう思い起こさせる必要はない。だが、貧しい人たちのことは顧みるがいい。彼らを顧みて、彼らが窮乏の中で忍ぶあらゆる試練において、神の慰めと励ましがあるように祈るがいい。あなたが祈りを終えようとするときには、御使いがあなたの腕に触れて、こう云ってくれるように。「貧しい人たちを顧みなさい。群れの貧者たちを思い出しなさい」。あなたの祈りが常に、彼らのために天に立ち上るようにするがいい。
また、あなたの生活においても、貧しい人たちを顧みるがいい。注目すべきことに、私たちはみな、富んでいる人たちのことは覚えている。私たちは万人が平等であると語っているが、私の信ずるところ、英国中のいかなる人といえども、一生のうちの一度でも、貴族の殿様と偶然ともに過ごすようなことがあったとしたら、それを自慢しないでいられるほど賢い人はいないであろう。生きた殿様を目にすることは、この上もなく驚くべきことであり、私たちの中に、それを人に吹聴したいという誘惑に抵抗できる者はほとんどいないであろう。私たちは、人類の平等を堅く信ずるだの何だのと好き勝手なことを云うかもしれないが、それもたまたま自分が多少とも立身出世するまでのことであって、そのときには平等などもはや全く信じなくなるのである。私たちはみな、自分が卑しい状況にあるときには、喜んで他人の足を引っ張ろうとする。だが、少しでも上の立場になると、平等など子どものふける空想にすぎないと愚かにも考える。結局、自分たちが想像していたよりも多くの違いが人間にはあるのだ、と。私たちは常に富んだ人たちのことを思い出す。あなたは、教会の中で、地位のある人を見かける。あなたは常にその人を知っているではないだろうか。取引所にいようと、町通りを歩いていようと、あなたはその人を何の苦もなく見分けることができる。どうしたわけか、あなたの記憶力は、貧しい人たちを覚えておくことにおいては非常にあてにならないが、富んだ人を覚えておくことにおいては非常に強い。あなたには、「貧しい人たちを顧みる」ことを思い起こさせてほしい。実に異様なことだが、富んだ人たちを顧みるようにとの命令はどこにもないのである。思うにそれは、そうする必要が何もないからであろう。私たちは普通、彼らのことは顧みているからである。しかし、私たちが貧しい人たちを顧みるようにとの命令はある。では、今度あなたが貧しい兄弟を見かけたときには、それが石炭運搬夫であれ、煉瓦職人であれ、漆喰運搬人であれ、いかなる人であれ、できるものなら、その人と知り合うがいい。そして、たといその人が、まるでむさくるしい衣服を身にまとっているとしても、なおもその人と知り合うがいい。忘れてはならない。努力して、その人のことを思い起こすがいい。次の聖餐式がある日曜日には、その人のことを覚えているしるしに、その人の顔を正面から見るがいい。というのも、これまで二十回もの間、あなたはその人を見かけても、まるでその人のことを覚えてもいないかのような様子をしていて、この貧しい人の思いは傷つけられているからである。自分が貧しい兄弟だからというので、あなたの側にそうした冷淡さがあるのかと傷つけられているからである。私はそうだとは云わないが、残念ながら、ある程度まではそうではないかと思う。また、あなたがその人を町で見かけたときには、「やあ、兄弟。君を知っているよ」、と云うがいい。そして、もしその人があなたに話しかけに来たときには、町でその人と話しているところを見られたら、自分の沽券にかかわるなどと考えてはならない。もしその人があなたの兄弟であるなら、その人を認めるがいい。もしその人が偽りを語り、教会を離れ、にせの信仰告白をしているのであれば別、しかし、もしあなたがその告白を信じているのだとしたら、行動で現わすがいい。
さて、しばしばあなたは、神の家から出て、歩いて家に帰るとき、貧しい人たちのことを顧みていないのではないだろうか。もし彼らがあなたと話をしたいと云えば、その要件がいかに重要なものであっても、彼らが耳を傾けてもらえることはめったにない。もし相当な地位のある紳士のだれそれ氏があなたに話しかければ、「おゝ! もちろんですとも。私はしばらくなら、立ち止まってあなたと話をすることができますよ」。だが、もしだれか貧しい人があなたに用があるとすると、「おゝ! ちょっと急いで家へ帰られなくてならないので」、と云って、すぐさま立ち去るに決まっているのである。さて、今後は、あなたの習癖を正反対にするがいい。富んだ人を見るときには、あなたの好きなようにその人に注意を払うがいい。私は、あなたがどうすることを好んでいるかわかっている。だが、貧しい人を見るときには、良心の問題として、その人に注意を払うようにするがいい。私は、この場にいるひとりの兄弟のふるまいによって非常に喜ばされたことがある。この人は、そのときの状況を覚えているであろうし、そのとき自分が行なったように行なえる恵みを与えてくださった神をほめたたえるであろう。少し前に、この人の会衆席の扉の近くの通路にひとりの紳士と、野良着を来た貧しい人が立っていた。内心私は思った。「彼は、自分の会衆席の中にひとりを入れるに違いない。問題は、それがどちらになるかだ」。ほどなくして彼は外に出て来ると、野良着を来た人が中に入った。彼は非常に正しい考え方をした。その紳士は、あなたがたの中のだれかによって座席を得られる見込みがあるだろうが、彼は貧しい人を顧みることが最上だと思ったのである。また、その貧乏人はことのほか疲れ切っていたはずであった。疑いもなくその人はつらい労働の一週間を送ったに違いなく、おそらくは遠くから歩いてきたのであろう。ロンドンの近くで、野良着を着ている人はあまり多くないからである。それゆえ彼は、現実に、最も困窮している人に施しをしたのである。もう一度云うが、「貧しい人たちを顧みるがいい」。富んだ人を顧みるようにあなたに告げる必要はない。――あなたよりも上に立つ人々に敬意を表し、親切で愛のこもった口のきき方をするように告げる必要はない。この点であなたは人からあれこれ云われることはないであろう。だが、貧しい人たちこそ、あなたが注意を払おうとしたがらない人々であり、それゆえ私はあなたにこの命令を強調するのである。貧しい人たちを顧みるように、と。
しかし、これが特に意味しているのは、こうした人々に必要な物を与えることにおいて、私たちは貧しい人たちを顧みるべきだということであると思う。私たちの中のある者らは、貧しい人たちを顧みるべき必要が特にある。私がそうすべきであることは間違いない。というのも、私のところには私がどうにか救うことのできるよりも、十倍もの数の貧しい人たちが毎日やって来るからである。たとい私がロンドン市長や女王陛下ほど金持ちだったとしても、時として私に向かってなされる途方もない数の要求に応ずることはまずできないであろう。債権者たちから激しく責め立てられている貧しい男、家賃をまかなえない貧しい女の中で、その教役者に手紙を書かない者はいない。そうした貧しい魂がみな教役者のもとにやって来る。そして私は内心こう思う。「私があなたに何をしてやれよう? 私は実に自分にできる限りのことをしてきた。だのに、ここにはそれよりも三、四人も多くやって来るのだ」。それで私はそうした人々を素手で帰すしかない。ただ哀れに思うだけで、助けることができない。そしてこれは、だれかが私の戸口の前に荷馬車一杯の黄金をどさどさとあけるまで続くに違いない。それでも、私たちは「貧しい人たちを顧み」なくてはならない。ある人々は、自分たちにこれほど多くの要請がなされるのを非常につらく思う。私は違う。私がつらいと思うのは、彼らを助けることができないときだけである。もしできるとしたら、彼らを全員を助けることを私は非常な祝福と考えるであろう。たとい私が巨富の持ち主にされたとしても、私は何をするだろうかとは云わない。というのも、非常にしばしば人々の心は、その収入が増えるにつれて、狭く小さくなっていくものだからである。だが、神が私たちに富を与えてくださる場合、確実なことと私に思われるのは、どこかで神の子どもたちが困窮しているならば、私たちは直接に彼らを顧みるべきだということである。あり余る富があれば、いかに多くを彼らの必要のために与えられることができるであろう! 私たちの豊富な贅沢品のどれだけ多くが、いのちをつなぐことを渇望している人々のために授けられることができるであろう。あなたがたは、この世がいかに貧しいかを知らない。あなたは、この壮大な町の一部の地域を馬車で乗り回しながら、「貧困だの何だのと云って! そんなものはないではないか」、と云う。だが、別の地域を乗り回せば、こう云うであろう。「富だの何だの! そんなものはない。世界は貧困に満ちている」、と。あなたがたの中のある人々は、折にふれ、行って貧しさを探し出すべきである。お高くとまっていれば、あなたの生活範囲の中では、めったに貧しさと接触することはない。もしあなたが心を広くしたいと思うなら、貧しい人を訪ねるがいい。彼らとともに、そのみすぼらしい寝ぐらについて行くがいい。それは、場合によってはほとんどそうとしか呼べないものだからである。そのキーキー鳴る階段を上り、部屋のかたすみにある麦わらを見るがいい。そこで彼らは寝るのである。左様。それよりも悪いものを見るがいい。――椅子の上で五年間寝たきりになっている人を見るがいい。つっかいをされなければ起き上がることもできず、他人から食べさせてもらうしかなく、それでも週に四、五シリングで生活し、しかるべき支えが何もなく、十分な肉体的栄養を与えてくれるものもない。行ってこうした人々を見るがいい。そして、もしあなたが自分のかくしに手を突っ込むことなく、こうした老いた巡礼たちを助けようとしないとしたら、残念ながらあなたのうちには大したキリスト教がないと思う。あるいは、もしあなたが最も大きな必要があると見ている人を助けないとしたら、残念ながら神の愛はあなたのうちにないと思う。これは主の民の貧しい人たちに対して私たちが負っている義務であり、私たちは多くの利得を刈り取ることになるであろう。それは、もし私たちが貧しい人たちを顧みなかったならば、それは得られない。
III. さて、《この責務》をじっくりと説かせてほしい。なぜ私たちは、貧しい人たちを顧みるべきなのか。私はこのことを一般的な博愛主義や慈善を根拠に訴えるつもりはない。それは、多少は役に立つかもしれないとはいえ、キリスト者たる人々に対して語りかけるには、あまりにも卑しく低俗なしかたであろう。私は別のしかたで訴えたい。
「貧しい人たちを顧みる」べきであるのは、彼らがあなたの主の兄弟たちだからである。何と! あなたは、ダビデのように、ヨナタンのために何かをしたい[IIサム9:1]と感じないのだろうか? そして、もしヨナタンに貧しく病んだ子があり、メフィボシェテのように足が不自由な者があるとしたら、あなたは、ヨナタンの血が流れているがゆえに、そうした人々をあなたの食卓につけ、できるものなら、生活の面倒を見てやりたいと思わないだろうか? 思い出すがいい。愛する方々。イエスの血は、貧しい聖徒たちの血管を流れているのである。彼らは主の親族であり、主の友である。それがあなたを動かさないとしたら、彼らがあなたの友でもあることを思い出すがいい。もしあなたが神の子どもだとしたら、彼らはあなたの兄弟なのである。あなたの同族なのである。もし彼らが神の子どもたちだとしたら、あなたもそうである。では彼らはあなたの兄弟である。何と! あなたの兄弟を飢えさせておくというのか? できるものなら、あなたは自分の兄弟の窮乏を助け、彼を寒さから守り、その飢えを防ぎ、その必要を満たしたいと思うではないだろうか? おゝ! 私はあなたがイエスを愛していると知っている。イエスの友人たちを愛していると知っている。そして、あなた自身の家族を愛していると知っている。それゆえ、あなたはあなたの貧しい兄弟たちを愛するはずではないだろうか。私はあなたがそうするはずだと、彼らを救い出すはずだと知っている。また、このことも覚えておくがいい。あなた自身、やがてあなたの貧しい兄弟たちのようにならないとも限らない。それゆえ、彼を軽蔑しないように用心するがいい。だれかがあなたを軽蔑することになるだろうからである。おゝ! あなたの所有物すべては神があなたに貸し与えておられることを考えるがいい。みこころならば神はそのすべてを取り上げることもおできになり、あなたがそれを悪用しているのをごらんになれば、神は今それをあなたから取り上げなさるかもしれない。あまたの人々がその富を失ってきたのは、その濫用に対する神の正しい審きのゆえであった。あなたは神の家令であるのに、神のものをだまし取ろうというのだろうか? 神があなたにその富をお与えになったのは、貧しい人たちに分配するためである。あなたは、神があなたにお与えになったもので、彼らの必要を満たしてやろうとしないというのだろうか? しかり。あなたはそうするに違いない。彼らを救ってやれるものを何か有している限り、あなたが彼らのそっぽを向くなどということは信じられない。むしろあなたは自分の持てるものを彼らと分け合うであろう。思い出すがいい。もしあなたが彼らを救い出さないとしたら、あなたには、キリストを愛していないのではないかという重大かつ深刻な嫌疑がかけられるのである。もしあなたがたがキリストの民を愛さないとしたら、いかにしてあなたがたがキリストの弟子であるなどということがありえるだろうか? このことがその目印だというのに。「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」[ヨハ13:35]。また、持てるものがあるというのに与えず、神があなたを富める者としてくださったというのに施さないとしたら、いかにしてあなたが愛する者であるなどと云えるだろうか? 兄弟を愛する愛があなたのうちになければ、神を愛する愛もあなたのうちにないという深刻な疑惑をあなたは呈しているのである。おゝ! 思い出すがいい。あなたが施すとき、神はさらに多くのものをあなたに授けることがおできになる。あなたは何も失わない! あなたはそれを別の財布に入れたのであり、神はそれを、より大きな規模であなたにお返しになるであろう。人々は、神の聖徒たちに施すことによって、何も失わない。もしそれを神の家族のために授けるなら、それはしばしば天的な投資となるであろう。だが、もしそれを抑えておくなら、神は、人を貧しくする別の手段をお持ちである。もし人が神の目的のためにささげようとしないならば、そうである。ジョン・バニヤンが語るひとりの男は、布を巻いたものを持っていて、そこから裁てば裁つほど、布が増えていったという。そして、バニヤンはその詩的な云いかたでこう述べている。――
「ある人がいて、これを狂気と思う者もいたが
彼は捨てれば捨てるほどいよいよ多く得た」*1。結局この男はさほど狂ってはいなかったのである。自分の与えたものよりはるかに多くを得たのだから。しかし、これは非常に利己的な考え方である。覚えておくがいい。たといあなたが全く何の見返りも受けなかったとしても、それをキリストに施すと云うことは決して小さな誉れではない。また、覚えておくがいい。あなたが主の子どもたちに与えるものは、主の手のひらの上に置いているのである。そしてあなたは、もしキリストが戸口のところに立っておられるときに献金箱の隣を通り過ぎるとしたら、主を喜ばせるためにいかにあなたの金をそこに入れることか! 覚えておくがいい。主の貧しい信仰を有する家族は、主の御手なのである。ならば可能な限りいついかなる折にも、主の御手に金を投げ入れるがいい。貧しい人たちを顧みるがいい。あなたがたは常に顧みるべき貧しい人たちがあるであろう。
よろしい。さて今晩は、よろしければ、この《老巡礼の友》協会にあなたの注意と注目を向けてほしいと思う。これは、ことのほかすぐれた団体である。なぜなら、これによってあなたは、貧しい人たちを顧みることができるからである。まず第一のこととして、この団体によって救済される人々は、人間的に判断する限りにおいて全員キリスト者である。この人たちは全員、前もって、心の変化を経験していることと、自分の内側に天来のいのちがあることとを吟味されている。そして、この協会に受け入れられる者はひとり残らず、真にキリストの神秘的なからだの器官であり、自分の心における恵みのみわざの証拠を示している人々である。次のこととして、こうした人々に与えられる基金は、毎月一回彼らのもとを訪問するキリスト者の人々によって分配される。そして、彼らがこうした人々を訪問するとき、こうした人々とともに祈り、その心を励まそうとすることもせずに立ち去っていくはずはないと思う。私は彼らがそのようなことをしないと知っている。彼はしばしば祈りの時を費やし、こうした人々の魂について、親切な会話を交わしている。そして、最後のこととして、こうした人々は全員六十歳以上である。彼らは私たちの配慮を求める二重の権利がある。なぜなら、彼らは主の年老いた民であり、かつ主の貧しい民だからである。そして、彼らのうちひとりとして、彼らが絶対に、また切実に必要としているもののほか何も与えられることはない。私は、この非常に短い報告書をあなたに読み上げるだけとしよう。それによって、彼らがこれまで何を行なってきたがあなたにもわかるであろう。――
「本《協会》が設立されたのは1807年、六十歳以上の老いた、貧しいキリスト者を、その所属教派も、性別も、都市部農村部の別も問わずに救済するためです。本協会がその価値ある援助を差し出してきた、主イエス・キリストの老いた弟子たちは、千六百五十人に上り、彼らに対して五万ポンドになんなんとする救恤金を分配してきました。
「以下に示すのは、現時点における、救済対象者の人数、および収支会計に関する概要です。――
年間10ギニー(毎月17シリング6ペンス)の受給者 45名
年間 5ギニー(毎月 8シリング9ペンス)の受給者 245名毎月 4シリングを受給する認可候補者 130名
毎月自宅で受給する総人数 420名。毎月総額 172ポンド。
「年間約束献金その他によってあがる収入は、1550ポンド未満。ただし歳出は2000ポンド以上。したがって年間赤字は450ポンド以上。これを《委員会》は、種々の教会および会堂での献金をつのることで、できる限りまかなわなくてはなりません。寄付金および年間約束献金は、会計係または事務局によって感謝とともに受け取られることでしょう。全部局は、無償奉仕者によって支えられています。また、遺贈献金はいつであれ、非常な感謝とともに受け取られるでしょう」。
私たちの友人たちは、遺贈献金などについて語る筋合いなど全くなかった。私たちは、あなたがたにまだ死んでほしくはないからである。私たちは常にあなたには約束献金をしてほしいと思う。私たちは非常に感謝して遺贈献金を受け取るものだが、遺贈献金という形で、私たちのもとを去る金銭を取っておいてはならない。むしろあなたには、十年分の約束献金をしてほしいと思う。ならば私たちはあなたの生きた祈りと、生きた同情と、生きた助けを持てるからである。よろしい。もしあなたがこれが良い協会でないと思うなら、何も与えなくてよい。だが、もしそう思うとしたら、その真価に従ってささげるがいい。人々は、献金があるというと、非常にしばしば他の人々がささげるのと同額しかささげない。だが、これは、その真価とあなたの持てる力に応じてささげ、この協会が受けるに値すると考えるだけるものを、また自分に施すことができると信ずるに足るものを献金するがいい。願わくは神が、あなたに、貧しい人たちを顧みることにおいて、祝福を与えてくださるように。
貧しい人たちを顧みる義務[了]
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*1 ジョン・バニヤン、「天路歴程 続編」 p.170-171(池谷敏雄訳)、新教出版社、1985. [本文に戻る]
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