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高慢と謙遜

NO. 97

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1856年8月17日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」。――箴18:12


 ほぼいかなる出来事にも、その予兆となるものがある。よく知られた古い格言はこう云う。「物事の起こる前にはその影あり」。私たちが前にしている節で、この賢人は、それと同じ教訓を教えている。破滅が国に入り込むときには、まずその影が差し込んでくるものであり、それは高慢という形をとる。栄誉がある人の家を訪れるときにも、やはりその影が差し込んでくるものであり、それは謙遜というあり方になる。「人の心の高慢は破滅に先立ち」。高慢は、晴雨計の水銀が変化するとき雨のしるしとなるのと同じくらい確実な破滅のしるしであって、晴雨計よりもはるかに過つことがない。「謙遜は栄誉に先立つ」。それは、夏が来る前のわが国に、鳥たちが戻って来ては美しい鳴き声を聞かせるのと全く同じである。何事にも前兆はある。破滅の前兆は高慢であり、栄誉のそれは謙遜である。人の心が何にもまして陥りやすいのは高慢だが、聖書においてこの悪徳ほど頻繁に、力をこめて、言葉をきわめて非難されているものはない。高慢をとがめて、預言者たちはその声を張り上げ、伝道者たちは論難し、教師たちは説話を行なった。しかり。それどころか、永遠の神は、人間の高慢をとがめようとするときにこそ、まさに雄弁のきわみへと上っておられる。《永遠者》の強大な云い回しのほとばしりが、この上もなく栄光に富むしかたで、余すところなく表わされているのは、人間性の高慢に対する糾弾においてなのである。ことによると、神のことばの中で最も雄弁な箇所は、ヨブ記のしめくくりとなる場所かもしれない。そこで神は、何にもまさる、抗弁しがたい雄弁の壮烈にして華麗な調子で、人間を完全に論破し、その高慢をはぎ取っておられる。また、イザヤ書14章には、もう1つ非常に雄弁な箇所がある。そこで主は、見るからにその聖なる癇癪を起こし、怒りを燃やしては、人間の高慢を完膚なきまでに徹底的に非難しておられる。神は、偉大で強大なバビロンの王についてこう仰せになる。「下界のよみは、あなたの来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こし、国々のすべての王を、その王座から立ち上がらせる。彼らはみな、あなたに告げて言う。『あなたもまた、私たちのように弱くされ、私たちに似た者になってしまった。』あなたの誇り、あなたの琴の音はよみに落とされ、あなたの下には、うじが敷かれ、虫けらが、あなたのおおいとなる。暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる。『この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ……た者なのか』」[イザ14:9-16]。神がいかに彼に語りかけておられるかに、注目するがいい。よみそのものさえ、あれほど高く上った彼が失墜したことに驚愕したと述べ、だがしかし、彼の高さや偉大さも《全能者》にくらべれば無に等しく、たとい彼が鷲のように星々の間にその巣をかけていようと、神は彼を地に引きずり降ろすと確信をもって断言しておられる。私は云うが、聖書の中で高慢ほど雄弁に非難されているものはない。だがしかし、これほど私たち、あわれで愚かな鳥たちが簡単にかかってしまう網はなく、これほど私たちが愚鈍な野の獣のように絶え間なく踏み込み続ける落とし穴はない。それとは逆に、謙遜は、聖書の中で数々の約束が与えられている恵みである。ことによると、最も多くの約束を与えられているのは信仰であり、愛はしばしば一連の美徳の加で最も輝かしいものと考えられているかもしれないが、謙遜も、神のことばの中で決してそれらに劣る地位を占めているわけではなく、それには何百もの約束が結びついている。あらゆる恵みは、尊い祝福が吊り下げられている釘のように思われるが、謙遜には数多くのあわれみがそこに掛けられている。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」[ルカ18:14]。「心の貧しい者は幸いです」[マタ5:3]。そして他の幾多の箇所において、私たちは神がへりくだった者を愛しておられること、だが「権力ある者を王位から引き降ろされ……低い者を高く引き上げ」[ルカ1:52]なさることを思い出させられる。さて私たちは今朝、高慢と謙遜について話をしたいと思う。願わくは聖霊が、私たちをその一方から守り、もう一方を私たちの心に生み出してくださるように。

 I. 第一のこととして、《高慢》という悪徳について語っていこう。「人の心の高慢は破滅に先立ち」。高慢、それは何だろうか? 高慢、その座はどこにあるのだろうか? 人の心である。そして、高慢、その結果は何だろうか? 破滅である。

 1. 最初に私は、あなたがたに対して、努めて高慢とは何かを説明しなくてはならない。高慢は、被造世界のありとあらゆる奇怪な事物の中でも、最悪に不格好なものであると描写されてよいであろう。そこに麗しいものは何1つなく、均整の取れたものは何1つなく、何もかもが無秩序である。神が造られた、純良で聖なる被造物たちとはまさに正反対である。高慢は地獄の長子であり、実際、その親に似て、ことごとく汚れており、邪悪であり、そのうちにはいかなる形も、様式も、端正さもない。

 まず第一に、高慢は根拠のないものである。それは砂の上に立っている。あるいは、それより悪いことに、その足を、踏みしめる甲斐もない大波の上に載せている。あるいは、なおも悪いことに、たちまち割れるに違いない泡ぶくの上に立っている。この世のいかなるものにもまして、高慢の足場は最悪である。地上で、高慢が堅く立つことのできる堅固な岩は何1つない。私たちは、ほとんどあらゆることについて理由を有しているが、高慢には何の理由もない。高慢は、私たちにとって不自然なものたるべきである。私たちには何1つ高ぶるべきものなどないからである。人間のうちに、誇りとできるようなものがあるだろうか? 私たちが創造されたものであること自体、私たちをへりくだらせるに十分である。私たちは、きょう造られたものでなくて何だろうか? 私たちのはかなさは、私たちが身を低くすべき十分な理由である。私たちは明日にはいなくなっているからである。私たちの無知は、私たちの口から高慢を遠ざけておく十分な理由である。私たちは、悟りのない野ろばの子でなくて何だろうか? そして私たちの罪は、私たちの口をふさぎ、私たちをちりの中に伏させるのに十分な力を持っているべきである。この世の何物にもまして、神にとって高慢は、全く何の弁解もありえない。そこには、建てるべきいかなる棒も石もない。それでも、蜘蛛のように、それは自らの腹にその巣をかかえており、獲物をとらえられそうな所にそれを吐き出しては巣をかけるのである。それは自らの上に立っているように思われる。というのも、それ以外の何によっても安んじられないからである。おゝ! 人よ。高慢について何の理由もない以上、それをはねつけるすべを身につけるがいい。あなたが何者であれ、あなたには何1つ高慢になるべきものはない。多くを持っていればいるほど、あなたは神に借りがあるのである。そしてあなたは、自分を負債者にしているものについて高ぶるべきではない。あなたの発祥を考えるがいい。あなたの掘り出された穴を見るがいい[イザ51:1]。《天来の》恵みがなかったならば、今でもあなたがいかなる者であったか考えてみるがいい。そして、思うがいい。恵みによって支えられていないとしたら、あなたが地獄の中に失われているであろうことを。考えてみるがいい。もし恵みがあなたを破滅から守っていなかったとしたら、罪に定められた者らの中で、あなたほど罪に定められていただろう者がひとりもいなかったはずだということを。こうしたことを考えることによって、自らをへりくだらせるがいい。自分には、自分の高慢の根拠となるようなものが何もないのだと。

 また、それは根拠のないものであるばかりか、脳なしのものでもある。というのも、それは何の利益ももたらさないからである。自分を持ち上げるところには何の知恵もない。他の悪徳には何らかの云い訳がある。人々はそれによって得るものがあると思われるからである。貪欲、快楽、情欲には、それなりの弁解がある。だが、高慢な人は自分の魂を安値で売り渡している。自分の心の水門を開け放ち、自分の魂の大水がどれだけ深いかをだれにでも見てとらせている。そして、それがどっと流れ出すと、すべてが失われてしまう。――そして、空しい一陣の風、甘美な称賛の一言ともに、すべてが無に帰してしまう。――魂は失われ、一滴も残らない。他のほぼあらゆる罪において、私たちは火が消えた後でもその灰を集める。だが、ここでは何が残っているだろうか? 貪欲な人は、その輝く黄金を有しているが、高慢な人には何があるだろうか? その人の持ち物は、高慢を持たなかったときよりも少なくなっており、それによって何ら得をしていない。おゝ! 人よ。もしあなたがガブリエルのように強大であり、彼の聖さのすべてを有していたとしても、それでも高ぶるとしたら途方もない愚か者である。というのも、高慢はあなたを、その御使いとしての身分から、悪霊どもの階級へと沈み込ませ、暁の子、明けの明星がかつて住んでいた場所から、地獄の中でぞっとするような悪鬼どもとともに暮らす住みかに至らせるからである。高慢はそのかしらを高め、自らに誉れを与えようとするが、それはあらゆるものの中で最もさげすまれる。それは自らの額に冠を置くことを求め、そのようにしたが、その頭は熱く、それが置いたのは氷の冠であったため、すべてが溶けてしまった。あわれな高慢は時には自らを見事に飾り立てる。その最も華やかな衣裳をまとっては、他の人々に、「私は何と輝かしい姿をしているのだろう!」、と云う。しかし、あゝ! 高慢よ。道化師のように色とりどりのけばけばしい服を着ているお前は、それゆえに、いやまさって愚かである。お前は、お前よりも愚かではない愚か者たちのための見世物にすぎない。お前には、お前が有していると思っている冠などない。堅固で現実のものなど何もなく、すべてが空しく、はかない。おゝ、人よ。もしあなたが恥辱を望んでいるとしたら、高ぶるがいい。ある王侯は大虐殺を通り抜けて王座に至り、ごく小さな栄光をかちとるために人々へのあわれみの門を閉ざした。だが、彼が自らを称揚し、高ぶったときに、ヘロデのように[使12:23]虫たちが彼をむさぼり食らうか、彼の帝国をむさぼり食らい、それを無に帰してしまった。そして、それとともに彼の高慢も栄光も消え失せた。高慢はいかなる冠も獲得しない。人々は決してそれを尊ばない。地の卑しい奴隷たちでさえ尊ばない。というのも、いかなる人も高慢な人を見下し、自分たち以下の者と考えるからである。

 さらに、高慢は、ありとあらゆるものの中で最も狂ったものである。それは、自らの五臓六腑を食い物にしている。自らの生命を取り去るものである。それは、自らの血潮で肩に掛ける紫衣を作り、自らのいのちを取り去ってしまう。自らの家をしぼり取り、掘り崩すことによって、もう少し高い尖塔を建てようとして、建物全体を倒壊させる。高慢ほど人々の物狂いを証明するものはない。高慢のために、彼らは安息も、安楽も、休息も投げやり、人々の間で地位と権力を見いだそうとする。高慢のために彼らは、自分の救いの望みを危うくし、イエスの優しいくびきを離れ、いのちの道に沿って難儀に骨を折って行き、自分のわざで自分を救おうとし、最後には、致命的な絶望の沼へとよろめき沈む。おゝ! 人よ。高慢を憎み、それから逃れ、それを忌み嫌うがいい。それをあなたとともに住ませてはならない。もしあなたが自分の心の中に狂人をいさせたければ、高慢をだきしめるがいい。というのも、高慢にまさるような狂人はどこにも見つからないからである。

 高慢は変幻自在なものである。それは、姿かたちを変える。世の中のあらゆる形をしている。あなたの望むいかなる形でも見いだせる。乞食の襤褸の中にも、富者の衣の中にも見いだせる。高慢は、富者とともに住むことも、貧者とともに住むこともできる。足に履かせる靴もない人間も、四輪軽馬車に乗ってでもいるかのように高慢であることがありえる。時として、それはアルミニウス主義者であって、被造物の力について語る。それから、カルヴァン主義者に変身すると、その空想上の安泰さについて誇る。――その《造り主》だけが、私たちの信仰を生きたものに保つことのできるお方であることを忘れる。高慢は、いかなる形式のキリスト教信仰をも告白できる。それはクエーカー教徒になって、襟なし外套を着ることができる。英国国教徒になって、壮麗な大聖堂で神を礼拝することもできる。非国教徒になって、粗末な集会所に行くこともできる。世界中で最も熱心なカトリック教徒のひとりとなって、あらゆる種類の会堂や教会に集う。あなたがどこへ行こうと、高慢が見てとれる。それは私たちとともに神の家へ行く。私たちとともに私たちの家に来る。市場にも、取引所にも、街路にも、どこにでも見いだ瀬る。それが形をとる1つか2つの姿を示唆させてほしい。時として高慢は、教理的な形をとる。それは自己満足の教理を教える。人が行なえることを私たちに告げ、私たちが失われ、堕落した、卑しい、破滅した被造物であるという事実を認めようとしない。神の主権を憎み、選びを罵倒する。それから、もしそれがそこから追い立てられると、それは別の形を取る。それは、恵みの教理が真実であると認めるが、それを実感することをしない。救いが主からのみ出ていることを是認しはするが、それでも人々をかりたてて、自分自身のわざ、すなわち、律法の行ないで天国を求めさせる。そして、それからも追い立てられると、それは人々を説得して、救いの件においてキリストに何かをつけ加えさせようとする。そして、それらがみな引き裂かれ、私たちの義という古い襤褸がみな焼かれると、高慢は、罪人の心と同じく、キリスト者の心にももぐりこむ。――それは自己満足という名のもとで生き生きと成長し、キリスト者に向かって、あなたは「富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」[黙3:17]と教える。それはその人に、あなたには日々の恵みなど必要ないですよ、と告げる。過去の経験で明日もやっていけます、――あなたには十分知識があります、ありすぎるほどです、あなたは十分祈っています、と云う。それは、その人が「すでに得たのではない」*[ピリ3:12]ことを忘れさせる。うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進ませようとしない。それは、その人の心の中に入り込んで、だれの手も借りない独立した務めを打ち立てるように信仰者を誘惑する。そして、主が霊的破綻をもたらしてくださるまでは、その人が神のもとに行かないようにとどめておこうとする。高慢は千変万化である。それは必ずしも、あなたが思い描くような、堅苦しい紳士の姿をしてはいない。それはよこしまで、ひそかに忍び寄っては、うまく取り入るものである。蛇のように身をひねっては、私たちの心にするりと入り込む。それは謙遜について語り、自分はちりと灰にすぎないとぺらぺら喋る。私の知っているある人々は、自分の腐敗についてこの上もなく素晴らしいしかたで語り、謙遜のきわみといった風情をしていながら、実は、かの隔ての深淵[ルカ16:26]のこちら側に見いだせる中でも最も高慢な卑劣漢なのである。おゝ! 愛する方々。あなたがたには、高慢がいかに多くの形をとるか見当もつくまい。自分の回りを厳しく見回すがいい。さもないと、あなたは高慢に欺かれてしまい、自分が御使いたちをもてなしているのだと考えているときも、知らぬまに悪霊たちを受け入れていることを見いだすであろう。

 2. さて、私は高慢の座について語らなくてはならない。――心である。高慢の真の王座は、いかなる場合も人の心である。私の愛する方々。もし私たちが神の恵みによって高慢を押さえつけたいと願うならば、唯一の道は心から始めることである。さて、1つ東洋の物語という形でたとえ話をさせてほしい。それは、この真理を適切な光で照らしてくれるであろう。ダルウィーシュと呼ばれる、ひとりの東方の国の賢者が、放浪の旅の途中で突然、1つの山に行き当たった。彼が足元を見ると、晴れやかな渓谷が見え、その真中を一本の川が流れていた。その流れには太陽が降り注ぎ、日差しを反射するその水は澄みきって美しく見えた。だが降りてみると、彼はそれが泥水で、全く飲み水にはならないことがわかった。すぐ近くに彼は羊飼いの格好をした青年を見た。彼は自分の羊たちのために、一所懸命その水を濾過しようとしていた。あるときには、水差しに水を汲み、それをしばらく立てておき、澄んできてから、上澄みだけを水ために注ぎ出していた。別のところでは、その流れを少し変えて、それが砂や砂利の上を波打って流れるようにさせ、不純物が濾し取られるようにしていた。ダルウィーシュは、青年が大きな水ためを清浄な水で満たそうと努力しているのを眺めてから、こう云った。「わが子よ。なぜそんな無駄骨折りをするのだ?――それで一体何になるというのだ?」 青年は答えた。「父よ。私は羊飼いです。この水は汚れすぎていて、私の羊たちは飲もうとしないのです。それで、私はこれを少しずつきれいなものにしなくてはならないのです。だから私は、このようにして羊たちが飲めるだけの水を集めようとしているのですが、これはたいへんつらい仕事です」。そのように云うと彼は額から汗をぬぐった。その重労働でくたくたになっていたからである。「そなたはなかなかよく働いたな」、と賢者は云った。「だが、自分の骨折っている方向が間違っていることがわかるかな? 今の半分の働きで、そなたはずっと良い結果が得られるのだぞ。わしが見るに、この流れの源が不純で汚染されているに違いない。1つ一緒に出かけて見に行こうではないか」。そこで彼らは、連れだって何哩か歩き、多くの岩山を越えた果てに、その流れがわき上がっている地点まで達した。そのそばに寄ったとき、彼らは野鳥の群れが飛び立ち、野獣たちが一斉に森に飛び込むのを見た。これらが水を飲みに来て、その足で水を汚していたのである。彼らは、こんこんと流れている湧き水を見つけたが、こうした生き物たちのために絶え間なくかき乱されており、その流れは常にどろりと濁ったものとなっていた。「わが子よ」、と賢者は云った。「今から、この泉を守り、湧き水に何も近寄せないような工夫をするがいい。これが、あの流れの源なのだ。そして、それをなし終えれば、もしそなたがあの野獣や鳥どもを遠ざけておけるとしたら、この流れは自然と、澄み切ったきれい水のまま流れるだろうし、そなたが骨を折ることも、もはやなくなるであろう」。青年はそのようにした。そして、彼が働いている間、賢者は彼に云った。「わが子よ。知恵の言葉を聞くがいい。もしそなたが間違っているとしたら、そなたの外側の生き方を直そうとしてはならん。むしろ、まずそなたの心を正しくするようにするがいい。というのも、そこからいのちの流れは生じているのだ。そして、そなたのいのちは、いったんそなたの心がきよくなりさえすれば、きよくなるであろう」。そのように、もし私たちが高慢を取り除きたければ、私たちは、何か特別の装束を採用することによって自分の身なりを整えようとし始めるべきではないし、異様な話し方を用いることによって自分の言葉遣いを和らげようとするべきでもない。むしろ、神が私たちの心から高慢を一掃してくださるように求めようではないか。そして、もし高慢が私たちの心から取り去られたならば、私たちの生き方もまた謙遜なものになると確信しようではないか。木を良くすれば、実は良くなるし、水源をきよくすれば、流れは甘やかになる。おゝ! 願わくは神が私たちすべてに、自分の心を勤勉に守る恵みを授けてくださるように。そのようにして、高慢がそこに入り込み、私たちが心において高ぶるようなことが決してないように。そして、後に御怒りがやって来るのを見いだすようなことがないように。

 3. ここから別の点に移る。すなわち、高慢の結果――破滅である。これは、聖書の中の何百もの実例によって証明できる事実にほかならない。人々が高慢になるとき、破滅が彼らに振りかかる。彼方で、その《造り主》の御座の前において声高らかに頌栄を歌っている輝かしい御使いを見るがいい。一体何がかの御使いの栄光を汚したり、その立琴を取り上げたり、その冠を奪い取ることができるだろうか? しかり。そこにひとりの破壊者が入っていくのを見るがいい。その名を高慢という。彼はかの御使いに襲いかかり、その立琴の弦はブツリと切れる。その冠はその額から取られ、その栄光は消え去り、彼方で転落し、地獄へと下りつつある霊こそ、かつては明けの明星、暁の子と呼ばれた者なのである。彼は今や夜の父、すなわち、《暗黒の太守》、サタン、《堕落者》となり果てている。また、甘美な果樹と、花々で囲まれた楽園の散歩道とあずまやの間を歩んでいる、かの幸いな男女が見えるだろうか? 一体何かエデンを損ない、この幸せなふたりを滅ぼすものがありえるだろうか? しかり。高慢が蛇の形を取ってやって来て、彼らに神々のようになるように求めるのである。彼らは禁断の木の実を食べて、高慢は彼らの楽園をしなびさせ、彼らのエデンを枯らしてしまう。彼らは外へ出て、自分たちのからだの元となった地を耕し、私たちを生み出すことになる。――彼らの子どもたち、困苦と悲しみの子らを。あなたは、神の心にかなった、絶えずその《造り主》の賛美を歌っているひとりの人を見てとれるだろうか? 一体何か彼を悲しませることのできるものがあるだろうか? 彼が一度でも地べたにはいつくばり、呻き、泣き、「神がお砕きになった骨が喜ぶ」ように[詩51:8]、と求めるようなことがあると思えるだろうか? しかり。高慢にはそうすることができる。それは彼の心の中に、自分の国民を数えよう、イスラエルの部族の人口を調べよう、そして、自分の帝国がいかに偉大で強大なものか示してやろう、という思いを吹き込む。それがなされ、彼の高慢のゆえにすさまじい疫病が彼の国を吹き荒れる。ダビデの痛む心を見れば、いったんある人が自分の栄光を神とし始めるとき、いかなる破滅がそこにもたらされるかが見てとれよう[I歴21]。他の善良で聖なる人を見るがいい。それは、ダビデのように大いに神の心にかなっていた人である。彼は富んでおり、豊かであった。そこへバビロンから大使たちがやって来たので、彼は彼らに自分の持ち物の全部を見せた。あなたは、そのときの威嚇の言葉が聞こえないだろうか? 「あなたの財宝は運び去られ、あなたの息子や娘たちはバビロンの王の奴隷となろう」*[II列20:17-18参照]。ヒゼキヤの富の破滅は、彼がそれを誇っているがために、やって来ざるをえない。しかし、あらゆることの中でも最も著しい実例として、彼方にある宮殿をあなたに示させてほしい。これはいまだかつて建てられた中でも最も壮麗な宮殿かもしれない。その中をひとりの人物が歩いている。自分がただの定命の人間ではないかのように顔を天に上げ、こう叫ぶ。「私が建てたこの大バビロンが見えるだろうか?」*[ダニ4:30] おゝ! 高慢よ。お前は何をしたのか? お前は魔法使いの杖よりも力を有している! このバビロンの大建設者を見るがいい。彼は地べたをはいずり回り、雄牛のように草を食らい、その爪は鳥の爪のようになり、その髪の毛は鷲の羽のようになり、その理性は失われた。高慢がこれらすべてを行なった。それは、神がこう書かれたことを成就するためであった。「人の心の高慢は破滅に先立ち」。

 罪人よ。あなたの心は今朝、高慢だろうか? あなたは神の主権をさげすんでいるだろうか? あなたはキリストのくびきに自分を服させているだろうか? それともあなた自身の義を織り上げようとしているだろうか? 何かをしよう、何者かになろうとしているだろうか? 自分自身の評価において、偉大で力強い者になりたいと願っているだろうか? ならば、私の言葉を聞くがいい。罪人よ。破滅があなたに来ようとしている。あなたが自分を高く上げたのと同じくらい真実に、あなたは卑しめられる。あなたの破滅は、その言葉の最も完全にして最も暗黒の意味において、あなたを転覆させようと急行しつつある。そして、おゝ! キリスト者よ。あなたの心は今朝、高慢だろうか? あなたは、自分の種々の恵みを誇りながらここにやって来ただろうか? 自分がこれほど気高い心持ちと、これほど甘やかな経験を有しているからというので、自分に高ぶっているだろうか? ならば、よく聞くがいい。兄弟よ。あなたにも破滅がやって来つつある。あなたの自慢としている事がらの何かは根こそぎにされ、あなたの恵みの何かは粉微塵にされ、あなたの良いわざは、ことによると、あなたにとって厭わしいものとなるかもしれず、あなたはちりと灰の中で自分自身を忌み嫌うであろう。あなたが自分を高めたのと同じくらい真実に、破滅があなたに臨むであろう。おゝ、聖徒よ。――あなたの魂が破滅することは決してありえないが、あなたの喜びとあなたの慰めは破滅するであろう。

 あなたも知る通り、高慢が破滅を最もこうむりやすいのは、それが直立して歩くには背高すぎるからである。それがまず間違いなく転落するのは、それが常にその野心に燃えて上を見上げており、決して足元を見ないからである。途中に1つ落とし穴があるだけで、あるは石ころ1つでもあるだけで、それは倒れ伏してしまう。それが転ぶに決まっているのは、それが決して今ある場所に満足しないからである。それは常に上へ登ろうとしている。そして、上へ上へと登り続ける男児たちは、いつかは下に落ちる覚悟をしなくてはならない。高慢は無鉄砲であり、いかなる岩にもあえてよじ登ろうとする。時として、それは茨でぶらさがり、とげで刺され、時として火打石にしがみつき、それで切り傷を作る。そのようにして、それは困苦しつつ難儀しながらも登り続け、ついには自らに可能な限りの高みに達する。それから、そのまさに高みから、それは転落することになる。自然そのものが、高所は避けるように私たちに教えている。高みに立って目が回らない人がいるだろうか? 下に飛び込みたいという誘惑を受けない人がいるだろうか? 高慢は、最も成功をおさめるとき、滑りやすい所に立っているのである。だれが神殿の尖塔の上になど住もうとするだろうか? だが、それこそ高慢がその家を建てる場所であり、まことに高慢が登れば、落ちてくるのは、必然的なことと思われる。神はこの云い回しを実現なさるであろう。「人の心の高慢は破滅に先立ち」。だが、愛する方々。私はこう確信している。私があなたに向かって、また私に向かっていかなることを云おうとも、決して高慢を私たちから遠ざけておくことはできない、と。主だけが高慢に対して心の扉に閂をかけることがおできになる。高慢は、エジプトのあぶのようであり、パロの兵士たちが総掛かりでも外に追い出すことはできない。そして、私たちの有しうるいかに強い決意や、いかに敬虔な熱望をもってしても、私たちは高慢を閉め出すことはできないに違いない。それにはただ主なる《全能の神》が聖霊の強風を送って吹き飛ばしてくださるほかにない。

 II. さて、この聖句の後半を手短に考察しよう。「《謙遜は栄誉に先立つ》」。《ということは》、見ての通り、私たちの天の御父は、私たちが栄誉を持たないとは仰せになっていない。神はそれを禁じておられない。神はただ、私たちがそれに高ぶることだけを禁じておられるのである。善良な人は、現世で栄誉を得ることがありえる。ダニエルは人民の前で栄誉を有していた。ヨセフはエジプト第二の車に乗り、人々は彼の前に膝まずいた[創41:43]。神はしばしば、ご自分の子どもたちの敵の前で、彼らに栄誉をお着せになり、悪人をして、主が実際まことに彼らとともにおられると告白させなさる。しかし神は、私たちがその栄誉を高慢のための外套とすることを禁じ、謙遜を求めるよう私たちに命じておられる。謙遜こそ、真の栄誉に伴うものであり、かつ先立つものなのである。

 1. さて、第一のこととして、短く問いかけてみよう。謙遜とは何だろうか? 私が出会ったことのある最上の定義は、「自分自身について正しく考えること」である。謙遜は、その人自身について正しい見積りを下す。ある人が、自分自身について当然そうあるべきほどよりも低く考えるのは決して謙遜ではない。そうすることが、ややその人を当惑させることであろうと関係ない。ある人々は、自分が何かできるとわかっていても、自分にはできませんと云う。だが、あなたもそれを謙遜とは云わないであろう? ある人がどこかの集会で何らかの役目を果たすように求められる。「いいえ」、とその人は云う。「私には何の力もありません」。だが、もしあなたがその人に同じことを云うと、その人はあなたに腹を立てるであろう。ある人が立ち上がって自分自身をおとしめて、自分でも嘘をついていると知りながら、自分にはあれができません、これができません、別のこともできません、と云うのは謙遜ではない。もし神がある人に何らかのタラントを与えておられるとしたら、あなたはその人がそのことを知らないなどと思うだろうか? もしある人が十タラントを有しているとしたら、その人は自分の《造り主》を辱めて、「主よ。あなたは私に五タラントしか与えておられません」、などと云う権利は全くない。自分を過小評価することは謙遜ではない。謙遜とは、あなた自身について、できるものなら神があなたについてお考えになる通りに考えることである。もし私たちにタラントがあるならは、神がそれを私たちに与えてくださったと感じることである。そして、船に積まれた貨物のように、それが私たちを低く沈めがちなことを示すことである。自分の持つものが多ければ多いほど、私たちは低く横たわるべきである。謙遜は、「私にはこの賜物がありません」、と云うことではなく、こう云うことである。「私にはその賜物があり、私はそれを私の《造り主》の栄光のために用いなくてはなりません。私は決して私自身のためにはいかなる栄誉も求めてはなりません。というのも、私には何か、もらったものでないものがあるでしょうか?」 しかし、愛する方々。謙遜とは、私たちが失われ、滅びて、破滅した者であると感じることである。後に私たちを生かしてくれるのと同じ手によって殺されること、私たち自身の行ないや意欲については粉々にすりつぶされること、イエスのほか何者も知らず何者も頼らないこと、次のように感じ、歌わされるようになることである。――

   「わが手にもてる もの何もなし
    ただ汝が十字架に われはすがらん」。

謙遜とは、私たちが自分自身では何の力もないこと、だがそれはみな神からやって来ることを感じることである。謙遜とは、私たちの愛する方によりかかり、その方がひとりで酒ぶねをお踏みになったと信じ、その御胸にもたせてそこで甘やかに眠り、そのお方をたたえ、自分自身のことは無以下であると考えることである。これは事実、自我を絶滅させ、主イエス・キリストをすべてにおけるすべてとして称揚することである。

 2. さて、謙遜の座、あるいは王座は何だろうか? 謙遜の王座は心でなくてはならない。私が何にもまして憎むのは、顔つきで生きている謙遜である。ある人々は、あなたがそばにいるときには常に非常に謙遜なようすに見えるが、そうしたすべての陰には何かがあることを悟られる。そして、彼らがどこか別の人々と一緒にいるときには、あなたがいかに自分の心を打ち明けてくれたかを自慢し、吹聴するのである。こうした人々を用心するがいい。彼らはその膝枕にあなたの頭をもたさせながら、あなたをペリシテ人の手に引き渡すのである。私はそうした人種に出会ったことがある。今でも思い出すある人は、あからさまに非常な謙遜さとともに祈るのを常としていたが、それから自宅に行って召使いたちを虐待し、自分の農夫たち全員と大騒ぎをするのだった。その人は教会中で一番しゃちほこばった、最も高慢な人であった。だが彼は、変わることなく、祈りにおいては主に向かって、自分がちりや灰でしかなく、自分の手を口に当て、自分の口を灰につけて、「汚れている。汚れている」、と叫んでいます、と云うのを常としていた。実際、その人は自分のことを最も絶望的なしかたで語っていた。だが、もし神がその人に語りかけたとしたら、こう云われたに違いないと思う。「おゝ、私の御座の前でうそをつく者よ。お前はこのことを云うが、それを感じてはいない。というのも、お前はこれから道を行って、お前の兄弟の喉首を締め上げると、お前の同胞である者たち全員の上にお前を高く上げ、教会の中では一個のデオテレペスとなり、この世の中では一個のヘロデとなるからだ」。私は、外面的な事がらに存しているような謙遜が嫌いである。世の中には、一種の口達者な、信心家ぶった、高慢な謙遜というものがある。それは、時として本物そっくりに見えるが、純正品ではない。あなたも一度や二度はそれに欺かれるかもしれないが、だんだんに、それが羊の皮を抜け目なくかぶった狼であることを発見するであろう。それは、この世で最も簡素な服装を身にまとい、この上もなく優しく、へりくだったしかたで話をする。それはこう云う。「私たちは、私たち自身の特定の意見を押しつけてはなりません。むしろ、常に愛と博愛によって歩かなくてはなりません」。しかし結局において、それは何だろうか? それは万人に対して寛容でありながら、唯一、神の真理を奉じている人々にだけは不寛容なのである。そして、それがへりくだらざるをえないときには、すべてに対してへりくだるのである。それはたぶん、あなたも子どもの頃に本の中で読んだことがあるような人物のひとりに似ている。――

   「その身かがむは、さながら背をば
    直ぐに伸ばせぬ 人にも似たり」。

真の謙遜は、年がら年中「ちりと灰」について語っていたり、その弱さについてぺちゃくちゃ喋っていたりせず、むしろ、他の人々が口にしていることをみな感じているものである。というのも、それは、自らの無価値さを痛感する思いを織り込まれているからである。

 たいていの場合、この世で最も謙遜な人は、だれにも屈さない人であろう。ジョン・ノックスは真に謙遜な人だったが、メアリー女王の前を、聖書を手に堂々と歩き、彼女を叱責する彼を見たとしたら、あなたは性急にも、「何と高慢な男だろう!」、と云ったであろう。

 だれにでも屈伏する卑屈な人々は、本当は高慢な人々だが、謙遜な人々とは、自分のことをあまりにもちっぽけであると考えているがため、身を屈めて自分自身に仕えることに価値があるとは考えない。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは謙遜な人々であった。というのも彼らは、自分たちのいのちには、罪を犯してまで救うほどの値打ちはないと考えていたからである。ダニエルは謙遜な人物であった。彼は、自分の地位、自分の身分、自分の自我のすべてには、祈りを抜かしてまで救う価値があるとは思わなかった。謙遜とは、純粋なものでなくてはならない。謙遜の模倣は、この世で最も高慢に近いものである。愛する方々。真の謙遜という賜物を神に求めるがいい。聖霊によってこのように粉々に砕かれることを求めるがいい。神ご自身がその子どもたちにお与えになるすりこ木によって、すり鉢の中で砕かれることを求めるがいい。神の鞭のあらゆる枝が、あなたから高慢を叩き出すことを求め、あなたの傷の青あざによって、あなたの魂がより良いものとなるようにしていただくがいい。もし神があなたに、あなた自身の心の内側にいくつもある心像の小部屋を示しておられないとしたら、あなたをカルバリに連れていってくださるように求めるがいい。そして、ご自分の輝かしさと栄光とを示して、あなたを御前で謙遜な者としてくださるように求めるがいい。決してさもしく、卑屈で、へつらう者となるように願ってはならない。神があなたを男としてくださることを願うがいい。――近頃、彼らはほとんどいなくなっている。――神だけを恐れ、他のいかなる種類の恐れも知らないような男に。いかなる人間の力にも、導きにも、規則にも屈伏してはならない。むしろ、神に対する謙遜を持てるように願うがいい。神に対する謙遜によってあなたは、他の人々の前でキリスト者としての気高いふるまいを示すことができる。ある人々の考えによると、教役者たちが自分の牧会活動を少しでも干渉されることに憤慨するとき、彼らは高慢なのだという。私が思うに、もし彼らがそうしたことをする理由が平和のためだとしたら、彼らは高慢である。それは、単に彼ら自身の利己主義の別名にすぎない。神の大いなるあわれみ、それは神がある人をいかなる人からも自由にしてくださることである。その人が講壇に立つとき、他の人々が自分について何と考えるだろうかということに無頓着になれることである。私が思うに、教役者とは灯台守のようであるべきである。彼は海に出ており、だれも彼に向かって、もう少ししたら灯火に火を入れたらいいよだの何だのといった類のことを示唆しはしない。彼は自分の義務をわきまえており、自分のあかりを灯し続ける。もしその人が浜辺にいる人々の意見に従ったとしたら、彼のあかりは全く消えてしまうであろう。彼らが彼のところに達せないのは、あわれみ深い摂理である。それで彼は気楽にやって行くことが出来、自分が読む通りの規則に従うことができ、他人の解釈などにほとんど気を遣わなくてすむのである。そのように教役者は、風によってくるくる回る風見鶏になるべきではない。むしろ、風向きを変える者となるべきである。他の人々から支配される者ではなく、いかに堅くしっかり立つべきか、いかに自分のあかりを燃やし続け、常に神に信頼すべきかを知っている人たるべきである。その人は信ずる。もし神がその人を建ててくださっているなら、神はその人を見捨てることはなく、絶え間なく変わる人間の助言などなくとも、ご自分の聖霊によって自分を教えてくださるであろう、と。

 3. さて、最後のこととして、謙遜の結果何が生じるだろうか? 「謙遜は栄誉に先立つ」。謙遜は、偉大な王の先導をする先駆けである。それは栄誉の前を歩く。そして、謙遜を有している人は後に栄誉を得るであろう。私はこのことを、ただ霊的にだけ適用しよう。あなたは今日、あなた自身においては、自分が無以下のものであり、空虚であると感じさせられているだろうか? あなたは神の御前でへりくだらされているだろうか? あなた自身の無価値さ、アダムにあるあなたの堕落した状態、そしてあなたがあなた自身のもろもろの罪によって自らもたらした滅びを知っているだろうか? 自分自身の救いを達成することなどできないと痛感させられているだろうか? 「主よ。こんな罪人の私をあわれんでください」*[ルカ18:9]、という思いに至らされているだろうか? よろしい。ならば、この聖句が聖書にあるのと同じくらい真実に、あなたはやがて栄誉を得るであろう。「それは、すべての聖徒の誉れである」[詩149:9]。あなたは、じきにあなたのすべての咎を洗われるという栄誉を得るであろう。じきにイエスの衣を着せられ、《王》の王服を着せられるという栄誉を得るであろう。じきに主の家族に子として加えられ、血で洗われた者たち、信仰によって義と認められた者たちの間に受け入れられるという栄誉を得るであろう。御使いたちの翼に乗せられて運ばれ、かの川を飛び越え、ついには、「死の死にして 地獄(よみ)の破壊者(ほろび)」となられたお方の賛美を歌うことになるであろう。あなたは、いつの日か、冠を戴き、しゅろの枝を振る栄誉を得るであろう。というのも、あなたは今や神から出た謙遜を有しているからである。あなたは、今のあなたが神によってへりくだらされているからといって、滅びなくてはならないことを恐れているかもしれない。私は切に願う。そのように考えてはならない。主は、あなたをへりくだらせたのと同じくらい真実に、あなたを高めてくださるであろう。そして、あなたが低くされればされるほど、あなたがあわれみを受ける希望は大きくなる。あなたがちりの中にいればいるほど、あなたが希望を持てる理由はその分だけ大きくなる。それで、海の底は、それを越えて私たちが天国へ連れて行かれることのありえない場所であるどころか、天国の門に最も近い場所の1つなのである。そして、もしあなたが、あのヨナが下っていった最も深い場所に至らされたとしたら、あなたはその分だけ受け入れられるのが近くなる。あなたが自分のよこしまさを知れば知るほど、また、あなたがあなた自身の評価では黒くなればなるほど、不潔になればなるほど、無価値になればなるほど、その分だけあなたは救われると期待できる権利を得るのである。まことに、謙遜は栄誉に先立つ。謙遜な魂よ。喜ぶがいい。高慢な魂よ。あなたの高慢な道を歩き続けるがいい。だが、その道は滅びに至ると知っておくことである。あなたの高慢の梯子を上るがいい。もう一方から転がり落ちて、粉微塵に砕けるであろう。あなたの栄光という急坂を登るがいい。あなたが高く登れば登るほど、あなたの転落は恐ろしいものとなるであろう。というのも、このことを知っておくがいい。《全能の主》がいかなる者にもまして、その弓で狙いを定めること多く、いかなる者にもまして猛烈にその矢を射かける者は、自分を持ち上げる高慢で強力な者なのである。ひれ伏すがいい。おゝ、人よ。ひれ伏すがいい。「御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は」[詩2:12]。

 

高慢と謙遜[了]


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