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キリスト者――責任を負う者

NO. 96

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1856年8月10日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者である」。――ロマ8:12 <口語訳>


 彼が《教会》に向かって何と呼びかけているかに注目するがいい。――「兄弟たちよ」である。福音こそパウロに、兄弟たちよ、という云い方を教えたものであった。もし彼がキリスト者になっていなかったとしたら、彼は、そのユダヤ人としての矜持からして、絶対にローマ人を「兄弟」と呼ぶほどへりくだりはしなかったであろう。ユダヤ人は異邦人をあざけり、「犬」と呼んでいたからである。しかし今や、この「ヘブル人の中のヘブル人」[ピリ3:5 <口語訳>]の胸の中には、何のこだわりも偽善もなく、キリスト者を兄弟と認める聖い愛があった。福音はパウロの胸中を和らげ、あらゆる民族的な敵意を忘れ去らせていた。さもなければ、踏みにじられた国民のひとりがその抑圧者を「兄弟」と呼ぼうとはしなかったに違いない。ローマ人はその鉄の足をユダヤ人の上に置いていた。だがパウロは彼らを――自国民を隷属させていた彼らを――「兄弟たち」として語りかけているのである。再三云うが、福音こそ、パウロの魂に、この兄弟愛の感情を植えつけ、彼と、主の選民のだれかれとの間を分かっていたあらゆる隔ての壁[エペ2:14]を取り除いたものであった。「こういうわけで」、と彼は云う。「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです」[エペ2:19]。彼は、「1つの血」の教理を宣言し、キリストにある「1つの家族」という事実を誇りにしていた。彼は、血で買い取られたあらゆる人々との親密な縁を自分のうちに感じており、彼ら全員を愛していた。彼は、自分が呼びかけた人々の多くと会ったことはなかったが、彼らは御霊において彼に知られていた。栄光ある、祝福された望みにあずかる者として知られていた。それゆえ彼は、彼らを「兄弟たち」と呼んでいるのである。私の愛する方々。神の恵みには、どれほど大きく評価しても足りない接合力がある。それは、ばらばらになった社会の骨組みを接ぎ合わせ、友情の絆を固め、人間性という破断した金属を1つにまとまった塊に融合する。それは、その力を感じるあらゆる者を兄弟同士にする。恵みによって人類は、ともに兄弟として結びつけられる。恵みによって高位の人は貧者に手を差し出し、天的な親族であることを告白する。恵みによって知識人、学識者、教養人は、勿体ぶるのをやめて、無学で文盲な人々をだきかかえ、彼らを友と呼ぶ。恵みによって私たちの個人的特質というばらばらな糸は、分裂のない単一体へと織り上げられる。福音が本当に精神の中で実感されさえすれば、利己主義の弔鐘が鳴ることになるであろう。それは高慢な者をその尊大な孤立から引きずり下ろし、踏みにじられた者たちを、人間性に共通する種々の権利へと回復させるであろう。ただ福音を余すところなく宣べ伝えさえすれば、「自由・平等・博愛」という言葉の意味する最良、最高のものがもたらされるはずである。それは決して、民主主義者が求めているような「自由・平等・博愛」、すなわち、多くの場合、自分が優位に立ちたいという願望の別名でしかないものではなく、真の、本当の「自由・平等・博愛」である。――御霊にあって私たちすべては自由となり、キリスト・イエスというお方にあって私たちすべては平等となり、私たちすべてにこの兄弟愛が与えられるはずである。私たちがみな私たちの主と1つであり、福音という共通の絆のもとにあることを見てとることによって、この兄弟愛が与えられるはずである。キリスト教の真理が余すところなく完全に働きさえすれば、高慢や、恨みや、怒りや、ねたみや、悪意は死滅するに違いない。これが――これだけが――、分裂した家族に平和を回復させ、云い争う親族を結束させることのできるものである。ただ福音を宣べ伝えさえすれば、戦争はやむであろう。福音が社会のあらゆる階層に徹底的に浸透し、国々の精神に満ちあふれさえすれば、もはや槍が持ち上げられることはなくなり、それらは鎌として用いられるであろう。もはや剣が血に浸されることはなくなるであろう。それらは平和に土を耕す道具に打ち直されるからである。そのときには軍と軍がぶつかり合うことはなくなるであろう。何百万もの戦死者のためにやもめたちが悲嘆に暮れることはなくなるであろう。むしろ、だれもが他の人に向き合って、相手を「兄弟」と呼ぶであろう。そして、あらゆる一族、あらゆる民族の者たちが、すべての人の顔のうちに、血の縁によって結ばれた親族を見てとるであろう。確かに私自身、あなたがたの中の多くの人々について、この「兄弟」という言葉の力を感じている。もしあなたがたが、かの栄光ある望みにあずかっているとしたら、もしあなたがたが私たちの栄光に富む《贖い主》を信ずる信仰者だとしたら、もしあなたがたが、私の手や私の心とともに、主のみつばさのかげに信頼を置いているとしたら、あなたには「兄弟」という言葉を用いるしかない。それで、主を愛しているあなたがたに対しては、それと同じ呼び方で語りかけつつ、私はすぐさまこの聖句の考察に入りたいと思う。「兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者である」。私たちにはみな、果たすべき責務がある。この事実を次のようなしかたで考察してみよう。――第一に、私たちはこのことをどのように理解すべきか? そして第二に、それは私たちにどのように影響すべきか?

 I. 兄弟たちよ。私たちは、果すべき責任を負っている者であるというが、《このことをどのように理解するべきだろうか?》 これは、数限りない意味に理解できるであろう。というのも、実際、私たちは責任を負っているからである。兄弟たち。主を知り、主を愛している私たちは、ただひとりの債権者に対してではなく、多くの債権者に負債を負っているのである。

 私たちは過去に対して責任を負っている。私は目に見えるような気がする。真夜中のともしびに照らされた父祖たち、しばしば密室に退いた古の聖徒たち、講壇に立って勇猛果敢に過誤を非難していた説教者たち、過ちを叱責している忠実な牧師たちの姿が。私たちに先立つこのような人々のおかげで、《教会》はその純粋さを保ってきたのであり、私たちは彼らに責任を負っているのである。私たちには、殉教者や信仰告白者たちがその墓からよみがえる姿が見えるような気がする。――私は彼らの手がまだ血に染まっていること、彼らの肉体が迫害の傷跡を残していることに気づく。彼らは私に告げて云う。昔われらは、火と剣のただ中にあって真理を保ち、それを宣べ伝えたのだ、と。――彼らは、神の御国の進展を守るために死をも忍び、神の聖なるみことばを汚すことなく私たちに伝えてくれたのである! 私は彼らを眺め、彼らの輝かしい列伍の中に、あらゆるキリスト教国において、大胆不敵な「神の獅子たち」であり、真理の不動の柱石であるとしてほめたたえられている人々が見える。彼らにとってこの世はふさわしい所ではなく[ヘブ11:38]、彼らをたたえる声は教会という教会に満ちており、今の彼らは永遠の御座近くにある。そして、私が彼らを眺め、彼らが私を眺める中で、私はあなたがたすべてに目を移して云うのである。「兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者である」。私たちは、海を越え、荒れ狂う嵐をものともせず、旅の危険や大儀さや、盗賊やにせ兄弟といった、いかなる危難をも顧みなかった人々に対して責任を負っている。スミスフィールドの火刑柱の一本一本に対して責任を負っている。そこで死に至るまでイエスに従った何千もの人々の聖なる遺灰に対して責任を負っている。キリスト・イエスのために斬首された、首なしの死体1つ1つに対して、円形演技場で獅子に立ち向かい、エペソで獣と戦った人々に対して責任を負っている。血に酔ったローマ教会の中で虐殺され、またその先駆者である無数の異教徒たちによって殺害された幾千もの人々に対して、責任を負っている。彼らすべてに対して責任を負っている。かの血染めのサンバルテルミの大虐殺の日を、ピエモンテの数々の谷を、スイスの山々を思い出すがいい。私たちの父祖たちの墳墓のある、神聖な塚山をして私たちに語りかけさせるがいい。私たちすべてによって開かれ、読まれているこの聖書は、彼らの自己犠牲的な忠実さの賜物ではないだろうか? 私たちが呼吸している自由の大気は、彼らの死によって買い取られたものではないだろうか? 彼らは、むごたらしい苦しみによって、私たちのための自由を打ち立ててくれたではないだろうか? だのに私たちは、彼らに何の責任も負っていないのだろうか? 私たちは、自分たちの責務というこの巨大な負債をある程度までは返済すべく、今度は私たちの恩恵を未来に施そうと努めるべきではないだろうか? 私たちの子孫たちが過去を振り返ったときに、聖書が保たれ、自由が主張され、神の栄光が現わされてきたという点で、私たちには大きな恩恵をこうむってきたと認めさせるようにすべきではないだろうか? 兄弟たち。私たちは過去に対して責任を負っているのである。

 また、私の全く確信するところ、私たちは現在に対して巨大な責任を負っている。どこに目を向けてもたやすく証明できることだが、私たちが生きている時代は、この上もなく素晴らしい時代である。これはしばしば繰り返し云われてきたことで、ことによると、何度も繰り返されすぎてほとんど意味を失ってしまったことかもしれないが、それこそ真の危機にほかならない。世界は常にある種の危機の中にあったが、私たちにとってこれは特に危険なことと思われる。私たちの周囲には、以前の人類が決して有したことのないような、善を施すための手立てがいくつもある。地上の最悪の時代にも決して働いていなかったような、悪を行なうための仕組みが見られる。善人たちは少なくとも通常の熱心さをもって働いており、悪人たちは彼らの悪巧みにせっせと励んでいる。不信心、ローマカトリック教、その他あらゆる反キリスト的な様相が今や全力を傾けている。その勢力争いは今や私たちととともにある。あなたの周囲を見回し、自分の義務を悟るがいい。働きはまだなし終えられていない。腕組みをしてよい時はまだ来ていない。私たちの剣はまだ鞘におさめられるべきではない。敵がまだ打ち殺されていないからである。多くの国々では、傲岸不遜な王朝や専制国家が、その盤石の重みを傾けて、なおも良心や人の心の自由な行動を押しつぶしつつある姿が見える。その一方で私たちの目に映るのは、この上もなく真実な、正義のための英雄的行為であり、神によって心を触れられた心のうちにある、この上もない真理への献身である。私たちにはなすべき働きがある。私たちの父祖たちと同じくらい大きな、また、ことによると、さらに大きな働きがある。真理の敵どもは、かつてないほどに数多く狡猾である。《教会》の必要は、これ以前のいかなる時代にもまして大きい。もし私たちが現在に対して責任を負っていないとしたら、人は決して自分の時代、自分の時勢に対して責任を負っていなかったのである。兄弟たち。私たちは自分の生きている時間に対して責任を負っている。おゝ! 願わくは私たちがこの今の時に真理の刻印を押すことができるように。また神が私たちを助けてくださり、時の翼に、それが決して無視され、ないがしろにされたまま飛び去りはしなかったという証拠を印することができるように。

 そして、兄弟たち。私たちは未来に対して責任を負っている。もし私たち、神の子どもたちが、いま真理に立つ勇士でないとしたら、もし私たちが神の全能の真理という偉大な旗印を守り抜かないとしたら、私たちは、自分の至上の主に対する裏切り者となるであろう。もし私たちが、いま私たちの信頼を裏切るとしたら、未来の世代にふりかかる恐ろしい結果をだれが予測できるだろうか? もし私たちが、みすみす正統信仰の弱体化を、あるいは神の真理の名誉が汚されるのを許すとしたら、未来の世代は私たちの名を蔑み、忌み嫌うであろう。もし私たちがいま、福音の真理という良い船をして逆風に押し流させ、岩礁に激突するにまかせてしまったとしたら、もし私たちがこの船の舵をよく見張っておらず、この船が繁栄の終焉に至るかもしれないとその偉大な《主人》に向かってはっきり叫ばないとしたら、確かに私たちの跡を継ぐ者たちは私たちを侮蔑の目で眺め、こう云うであろう。「恥さらしな者たち。あれほど偉大な栄光ある使命を有していながら、それをないがしろにし、後代の私たちに滅茶苦茶な福音と、不純な《教会》を譲り渡したとは」。立ち上がるがいい。あなたがた、真理の戦士たち。堅く立ち上がるがいい。あなたがたは、過去に対して責任を負っているのと全く同じく、未来に対しても責任を負っているからである。しっかり種を蒔くがいい。他の人々がそれを刈り取るに違いないからである。あなたは来たるべき世代の源流である。おゝ、あなたの流れが純粋であるように気をつけるがいい。願わくは神の御霊があなたに力を与え、あなたの模範が未来への遺産として伝わるような生き方をさせてくださるように。

 また私たちは、あらゆる時代に対して責任を負っているように、あらゆる種別の人々に対して責任を負っている。しかし、一部の人々は常に自分たちのしていることで良い報いを得ている。それゆえ私は彼らについては言及しない。彼らの主張が私の支持を必要とするとは感じないからである。私たちは、国会議員の人々のおかげを途方もなくこうむっているかもしれないが、彼らは、自分たちの行なうちょっとしたことのために、相当に良い報酬を得ている。少なくとも彼らの一部の場合、その地位の方が彼らに栄誉を与えているのであって、彼らがその地位に栄誉を与えているのではないと思う。確かに私たちは、社会の高位にある人々から大きな恩恵を受けているかもしれない。貴族や主教と称されるやんごとなき方々から、何か神秘的なしかたによって大きな恩義をこうむっているという可能性もあるであろう。だが、私が彼らの要求を弁護する必要はない。彼らは、自分の面倒は自分で見られるに違いないからである。いずれにせよ、彼らは普通はそうしてきたし、自分たちの受けてしかるべきものの多くが盗まれるにまかせるようなことはなかった。(盗まれるにまかせておけばよかったのに、などとだれが思うだろうか? だが、支払いが高すぎることもありえる。特に人が、それがあってもなくともやっていけるような場合はそうである)。私がこれから言及し、私たちが責任を負うべきだと云いたい唯一の社会層は、貧民層である。「何ですって!」、とある人は云う。「私が、貧民に責任を負っているんですって?」 しかり。淑女の方々。あなたは地上を歩いたことのある最も貧しい人に対して責任を負っている。襤褸をかき合わせて震えているその乞食は、あなたから施しを受ければ、あなたにそれなりの恩義を感ずるべきであろうが、あなたの方がより多くの債務を相手に負っているのである。貧しい人への慈善は返さなくてはならない負債である。私たちには、授けたり拒んだりする自由はない。神が私たちに、貧しい人々のことを顧みるよう要求しておられるのであり、彼らの貧しさは、私たちの気前の良さを要求する資格がある。しかし、信仰を有する貧者が私たちに要求するとき、そこにははるかに重い拘束力があり、私は、あなたがこのことをないがしろにしないよう切に願う。おゝ、私たちが、いかに多くを彼らに負っていることか。貧者が日々いかに骨折り仕事を務め、ようやくいのちの火を肉体の中にともしておくに足るほどのものしか受け取っていないかを考えるとき、――いかに彼らがしばしば自分たちの《教会》に仕えていながら、誉れも報いも受けることの少ない人々であるかを思うとき、――彼らの何人かが、私たちと同じキリスト教のための最も困難な奉仕を行ないながら、それでも無視と蔑みによって傍観されているのを知るとき、――いかに彼らの多くが《日曜学校》で骨折り、何の俸給も報酬も受けないでいるかを思い出すとき、――いかに多くの下層階級の人々が他の人々と同じように、また、しばしば、それ以上に祈り深く、注意深く、正直で、廉直で、敬虔で、霊的であるかを考察するとき、私はこう云わざるをえない。私たちは神の貧民全員に対して非常に大きな責任を負っている、と。私たちは、貧しい人の祈りがいかに多くの祝福を私たちの上にもたらしているかほとんど知らない。ならば、愛する方々。私はあなたに願う。貧しい聖徒を見るときには常に、――年老いたキリスト者を眺めるときには常に、――彼があなたに負債を負っているよりも、あなたの方が大きく彼に負債を負っていることを思い出すがいい。というのも、あなたは多くを持っているが、彼は少ししか持っておらず、彼は自分の持っていないものについて負債があるはずがないからである。あなたがたの中の多くの人々は、キリスト者的な理屈の力を感じることはないであろうが、こう思い出させてほしい。あなたでさえ、労働している貧者には恩義をこうむっているのである。富者は富を貯め込むが、貧者は富を作り出している。富貴な人々は祝福を得るが、貧しい人々はそれを天から引き下ろしている。ある人々は神の雨をたくわえる水ためであるが、他の人々はその雨を、まさにエリヤのごとく、天に祈り求めている人々なのである。そして、その多くは社会の下層階級の中に見いだされるのである。「兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者である」。私が持っているものは、私のものではなく、神のものである。そして、もしそれが神のものなら、それは神の貧者に属している。この世で最も富裕な人の持ち物も彼自身のものではなく、神のものであり、もしそれが神のものなら、それはキリストのものであり、もしキリストのものなら、キリストの子どもたちのものである。そして、キリストの子どもたちはしばしば飢えた人々、渇いている人々、貧窮した人々、悩み苦しんでいる人々である。ならば、兄弟たち。そうした階級の面倒をみるがいい。というのも、私たちは彼らに対して責任を負っているからである。

 しかし私は、私たちが責任を負っている人々の一部について、このようにそれぞれ言及してはきたものの、まだあなたの注意を強く引きたいと願っている1つの点に達してはいない。兄弟たち。私たちは、私たちの契約の神に対して責任を負っている。これこそ、すべてを包み込む点である。私が過去に対して負っている負債など、未来に対して負っている負債など、富者に対して負っている負債など、貧者に対して負っている負債など、私の神に対して私が負っている負債にくらべれば無である。そうしたものに対して私が責任を負っている主たる理由は、私が途方もなく大きな負債を私の神に対して負っているためにほかならない。さて、キリスト者よ。あなたがいかにあなたの神に対して責任を負っているか考えてみるがいい。思い出してほしいが、あなたは、律法的な意味で、アダムのうちにあるかのように神に責任を負っているのではない。あなたはもはや、かつてそうであったように神の正義に対して責任を負ってはいない。私たちはみな神の被造物として生まれ、そのようなものとして神に対して責任を負っている。私たちの肉体と、魂と、力の限りを尽くして神に従う責任を負っている。私たちは――私たちのだれしも経験があるように――神の戒めを破ったとき、神の正義に対して責任を負う者となる。そして、自分では支払うことのできないような多額の刑罰を神に負うことになる。しかし、キリスト者についてはこう云うことができる。キリスト者は神の正義に対して一銭も負債を負っていない、と。キリストがその民の負っていた負債を支払われたからである。私は神の愛に対して責任を負っている。神の恵みに対して責任を負っている。神の力に対して責任を負っている。神の赦しのあわれみに対して責任を負っている。だが、決して神の正義に対して責任を負ってはいない。――というのも神は、ご自身で一度支払われた負債については決して私を非難することをなさらないからである。「完了した!」[ヨハ19:30]、と云われているのは、神の民がいかなる負債を負っていようと、それが永遠に記憶の書から拭い去られた、ということであった。キリストは、天来の正義を完全に満足させなさった。負債は支払われ、その書きつけは十字架に釘づけられ、その領収証が与えられ、私たちはもはや神の正義に対して責任を負ってはいないのである。しかし、そのとき私たちは、そうした意味で神に対して責任を負っていないがために、そうでない場合にくらべて十倍も大きな責任を神に対して負うようになっている。神が、私たちの罪の負債のすべてを赦してくださったため、私たちはいやがうえにも別の意味で神に責任を負う者になっている。おゝ! キリスト者よ。しばし立ち止まって考えてみるがいい! あなたは《神の主権》に対していかなる責任を負っていることか! あなたは一部の人々のように、私は自分で自分が救われるように選んだのだと云ってはいない。むしろあなたは、神がお望みになれば自分を滅ぼすこともおできになったこと、また、あなたが神の民のひとりとなる一方で、他の人々が滅びるがままにまかされているのは、全く神ご自身のみこころから出ていることを信じている。ならば、考えてみるがいい。いかに大きなものをあなたは神の《主権》に負っていることか! もし神がそう望まれたなら、あなたは地獄に堕ちた者たちのひとりであったであろう。もし神があなたの救いを望まれなかったとしたら、あなたに何が行なえたにせよ、それは、あなたを破滅から救い出すには完全に無力であったであろう。思い出すがいい。いかに大きな恩義をあなたが神の際立ったにこうむっているかを。その愛によってこそ、神ご自身の御子は御父のふところから引き裂かれ、あなたにかわって死なれたのである! その十字架と血の汗とによって、あなたの責務を思い起こすがいい。いかに大きな恩義をあなたが神の赦しの恵みにこうむっているかを。一万回も公然と侮辱された後でも、神は変わらず無限にあなたを愛してくださり、無数の罪が犯された後でも神の御霊はなおもあなたの内側に住んでおられるのである。考えてみるがいい。あなたが神のにいかなる恩義をこうむっているかを。いかに神があなたを、罪のうちにあるあなたの死からよみがえらせてくださったか。また、いかに神があなたの霊的いのちを保ち、あなたが転落しないように守ってこられたか、そして、いかに、一千もの敵どもがあなたの通り道に待ち受けていたにもかかわらず、あなたが進み続けることができたことか! あなたがいかに神の不変性に恩義をこうむっているか考えてみるがいい。あなたは一千回も変わったが、神は一度もお変わりにならない。あなたは自分の意図を、また自分の意志を変更してきたがが、神は一度たりとも、その永遠の目的からそれることをなさらず、今もあなたを堅く支えておられる。考えてみるがいい。あなたは、神のあらゆる属性に対して、考えられる限り最も深い負債を負っているということを。神に対してあなたは自分自身を負っているのであり、あなたの持てるすべてのものを負っている。「兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者である」。

 私たちは単に、こうした事がらへの感謝に照らして神に責任を負っているだけではない。神に対する私たちの関係のゆえにも責任を負っている。私たちは神の子どもたちではないだろうか? そして、子は父に対して、一生従っても決して取り除けない責任を負ってはいないだろうか? 私は、自分をあやしてくれた膝、自分に滋養を与えてくれた乳房に対して、決して返しきれない恩義があるのを感じている。また、私を教え、真理の道に導いてくれた人に対して、途方もない恩義があるのを感じている。私がその人に対して負うべき恩義の途方もない重みは、到底口にできないほどである。愛する方々。もし神が父親であるとしたら、どこに神の栄誉はあるだろうか? また、もし私たちが神の子どもたちだとしたら、私たちはそれによって神を愛し、神に仕え、従う義務があることにならないだろうか? 地上の親に対して子どもであるということには、おびただしい数の義務が伴うというのに、《永遠の父》は顧みられずにいてよいだろうか? 否。神の真の子どもは、決して自分があらゆる霊の御父に服従していると認めるのを赤面しはしないであろう。むしろその人は、自分の気高い関係を誇りとし、畏敬の念とともに、自分の《天の親》の命令に従うであろう。さらに思い出すがいい。私たちはキリストの兄弟なのである。そして、兄弟関係には責務がある。人は、自分の兄弟に対して、死ぬまで返しきれない恩義をこうむっている。同じゆりかごで揺すられ、同じ膝であやされたということは、一部の人々が考える以上のことである。ある人々は、それを無とみなす。悲しいかな! よく知られた真実であるが、もし人が助けを必要とするときには、自分の兄弟の家ではなく、どこかよそにそれを求めに行かなくてはならない。あなたが逆境にあるときには、兄弟の家に行ってはならない[箴27:10]。縁もゆかりもない人のもとに行けば、あなたを助けてくれるであろうが、兄弟のもとに行けば、しばしばあなたを厳しくなじるであろう。しかし、これは本来あってはならないことである。兄弟関係には、果たすべき責任という絆があり、私は自分の兄弟に、払いきれない負債を負っている。愛する方々。あなたがたはキリストの兄弟ではないだろうか? そして、あなたがたは、キリストにいかなる愛も負っていないと考えているのだろうか? あなたがたは聖徒たちの兄弟であり姉妹ではないだろうか? そして、あなたがたは、彼らを愛し、彼らに仕え、彼らの足を洗いさえすべきだと考えないのだろうか? おゝ、しかり! 確かにあなたにはそうした責任がある。残念ながら、私たちはだれひとりとして、自分がいかに大きな責任を神に対して負っているか、十分には感じていないのではなかろうか。しかり。確かに私たちは感じてはいない。あなたがある人に善を施す手段となった場合、その人があなたに対して、いかに大きな感謝の念を感ずるかは驚嘆するほどである。だが、その人が、すべての最初の原因たる神に対していかに僅かな感謝の念しか感じないことか! 多くの人々は神のことばが宣べ伝えられるのを聞くことによって、酩酊から解放されてきた。私の宣教によってさえ、そうしたことが起こってきた。そして、こうした人々は、その感謝の念からだけでも、私をいつでも肩車しようとするほど喜ぶのだった。だが、私はこう云わざるをえないであろう。こうした人々は、私の《主人》に対する彼らの感謝については、はるかに貧弱な表わし方しかしていない、と。少なくとも、彼らが神に対する最初の愛を失うことの方が、神のしもべに対してそうするよりも素早いように見受けられる。私たちは、いかなる人に対する感謝を忘れるよりも先に、神への感謝を忘れてしまう。私たちは、自分の小さな負債は支払うことができる。名誉の負債と呼ばれるもの――それは、ある人々の目には負債でも何でもないが――それを私たちは果たすことができる。だが、私たちが神に対して負っている大きな厳粛な負債は、しばしば顧みられないまま見過ごされ、忘れられてしまう。「兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者である」。

 II. 第二のことは、ごく手短に語ろう。私たちが果たすべき責任を負っているという、《この教理から私たちは何を引き出すべきだろうか?》

 第一に、私たちはへりくだりという教訓を学ぶべきだと思う。もし私たちが負債者であるとしたら、私たちは決して高慢になるべきではない。私たちが神のために行なえることはみな、無限の債務を認める、ほんの小さなしるしでしかない。しかり。それ以上に、私たちの良いわざは神の恵みの賜物であり、それらの作者であるお方に対して、私たちをさらに大きな負債へ押しやることでしかない。ならば、自分の達成したことによって高ぶっている人々よ。やめるがいい。自分の行なったことは乏しいことでしかなく、余徳のわざどころか、普通の義務でしかないと考えるがいい。若者よ。結局あなたはどれだけ多くのことをなしたのか? 私は先日、あなたの姿を見ていた。あなたは、このような折に自分が、キリストの教会のために実に役に立つ奉仕を多少とも行なったというので、驚くほど大物ぶった様子をしていた。そして、それについて驚くほど誇っていた。若者よ。あなたは自分がなすべきであったこと以上に何を行なったのだろうか? 「いいえ。行なってはいません」、とあなたは云う。「私は負債を負った者です」。ならば、結局自分の支払える以上に大きな負債をかかえている者が、その負債の一部を支払っただけで高慢になるべきだろうか? 1ポンドの中の1ファージングを支払ったことで、何か自慢になるようなことがあるだろうか? 全くないと思う。私たちは自分にできることを行なおう。それは、1ポンドの中の1ファージングにすぎない。それが、神に対して私たちが負っている感謝の負債の中で、私たちに支払えるものなのである。奇妙なことに一部の人々は、自分が他人よりも大きな負債をかかえているのを自慢している。ある人には十タラントがある。そして、おゝ、いかに彼が思い上がることか。いかに一タラントしか持っていない人を見下して云うことか。「あゝ、君はつまらぬ男だね。私には十タラントがあるのだよ」、と。よろしい。ならば、あなたには十タラントの負債があり、あなたの兄弟は、たった一タラントしか負債がないのである。なぜあなたは、自分の方が大きな負債をかかえているからといって高ぶるのだろうか? 実際、王座裁判所にいるふたりの囚人がこのような自慢をしあっているとしたら、それは奇妙な高慢であろう。ある人が云う。「私には百ポンドの借金があるのだ」。それに対して別の人が答える。「私の方が君よりも紳士だね。私の借金は一千ポンドなのだからね」。聞いた話だが、かつて王座部監獄では、人々が自分の債務不履行額の大きさに従って格付けをしていたという。地上でもしばしばそうである。私たちはときどき自分のタラントの大きさに従って格付けをする。しかし、私たちのタラントの大きさは、私たちの負債の量にすぎない。というのも、私たちは、多くを持っていればいるほど、大きな負債をかかえているからである。もし街路を歩いているある人が、その胸に自分の請求書を止め針でつけて、鼻高々に、この私は借金をかかえているのだ、と触れ回っているとしたら、あなたは云うであろう。「あれは狂人に違いない。つかまえて閉じ込めておけ」、と。それと同じく、もしもある人が、神から与えられもののゆえに地上を威張ったようすで歩き回り、「貧民のことなど知ったことか、私は無知な人間とは握手などしない。私は偉大な、力ある者なのだから」、と云っているとしたら、あなたは同じような理由でこう云ってよい。「あのあわれな人間をどこかへ連れて行ってくれ。あんな自慢をするなんて狂っているのだ。あれを安全に保護した上で云い聞かせてやってくれ。あれが所有しているすべては借り物であり、自慢すべき何の理由もないのだ、と」。

 それからさらに、私たちはいかに私たちの《主人》のために熱心になるべきであろう! 私たちは全額支払うことはできないが、少なくともその負債を認めることはできる。負債者は、少なくとも、自分の債権者の要求を認めることだけは行なうべきである。おゝ! 私たちはいかに、神のために生きることによって、自分が神に対して負っている負債を努めて日々認めるべきであろうか。そして、たとい私たちが神に元金を払うことができないとしても、神から貸していただいたタラントについて、また、神から授けられた途方もないあわれみについて、いかにごく僅かな利息でも神にささげるべきであろうか。私の愛する方々。私はあなたに切に願う。この思想を、あなたがどこへ行こうと携えて行くがいい。「私は負債者である。私は私の神に仕えなくてはならない。私がそうするかしないかは、私の勝手にまかされたことではない。私は負債者だ。そして、私は神に仕えなくてはならないのだ」。

 もし私たちがみなこのことを信じていたとしたら、私たちの諸教会を正しい状態に整えることは何とはるかに容易なことであろう! 私はひとりの兄弟のもとへ行き、こう云う。「兄弟。《日曜学校》にこれこれの務めがあるのだが、それをやってくれるないだろうか?」 「ええと、先生。ご承知の通り、私は教会の働きをたいへん愛してます。それに、自分にできることなら何でも熱心に行なって私の《造り主》にお仕えしたいと思ってます。ですが(ここが話の結論である)、実は私は、平日の間たいへんな重労働をしてまして、安息日に《日曜学校》にでかけるだけの余力はないんですよ」。おわかりでろう。この男には自分が負債者であることがわかっていないのである。翌朝、私は彼のもとに請求書を持っていく。すると彼は云う。「物乞いに来たのかい?」 私は云う。「いや、私は請求書を持ってきたのだ。これを見るがいい」。「おゝ、本当ですね」、と彼は云う。「わかりました。さあ、これが現金です」。さて、これが本来のあり方である。自分が負債者であると感じ、それを認めること。なすべきことがある時には、それを行ない、こう云うことである。「このことで私に感謝などしないでください。私は自分のなすべきことを行なったにすぎません。私は単に自分が負っていた負債を払っただけです」、と。

 それから、あなたを家に帰らせる前に、もう1つだけ素朴な助言をさせてほしい。気前の良さを発揮する前には、また、特にあなた自身に対して気前良くする前には、正しい者となるがいい。自分の快楽のために金銭を費やす前に、自分の負債を払っておくように用心するがいい。私はそれを多くのキリスト者に勧めたい。さて、この場にいる、あなたがたの中のある人々は、今晩、私たちを非常に暑苦しくさせて、私たちに迷惑をかけている。あなたは、この場に来ることによって、あなた自身に対して非常に気前の良いことをしているが、本当なら出席しているべき礼拝所をないがしろにすることによって、あなたの教役者に対してあまり正しくないことをしている。あなたは自分自身に向かってこう云った。「われわれは疑いもなくそこにいるべきだ。それが、われわれの果たすべき責任だ。それにもかかわらず、われわれは自分の好奇心を一度だけは満たしたいのだ。この妙ちきりんな説教者の話を聞きたいのだ。こいつなら、きっと何か無茶苦茶なことを云って、これから二週間くらいは冗談の種に困らなくなるだろうから」。さて、なぜあなたは、自分の負債を支払い終えてもいないのに、この場に来ているのだろうか? あなたはあなた自身の教役者の下に結集し、彼の手を主のわざにおいて力づけていなくてはならなかったはずである。さらに、いかに多くの人々がこう云っていることであろう。「私は、これこれの贅沢がほしい。神の御国の働きが、いま私がささげている以上のお金を要求していることはわかっている。だが、私はあの贅沢品がぜひほしいのだ。あのシリングは私のものだ。神には与えるまい」。さて、かりに、あなたに対して自分の返済能力を越えるほどの負債を負っている人がひとりいたとしよう。ここでもし明日、その人が一頭立て二輪馬車を仕立てて出かけていくのをあなたが見たとしたら、あなたはこう云うであろう。「彼があの素敵な馬と二輪馬車に乗ってグリニッジに下っていくのは非常に良いことだが、私はむしろ彼が先日私から借りた十ポンド紙幣を支払ってくれた方がよかった。もし彼がそれを払う余裕がないというなら、払いきるまで家に中でじっとしているべきだ」、と。神についてもそれと同じである。私たちは、自分の至当で正当な負債を払うよりも前に、私たちの時間や私たちの金銭を自分の楽しみのために費やしている。さて、人間に対して正しくないことは、神に対しても正しくはない。もし自分の負債を払うべき金銭を楽しみのために費やすことが人間から盗むことだとしたら、神への奉仕において自分の役割をなし終えたと感じてもいないうちに、そうした奉仕以外の何かに、自分の時間、自分のタラント、あるいは自分の金銭を用いるとしたら、それは神から盗むことである。私はあなたに願う。諸教会の会員の方々。執事の方々。あるいは、いかなる方々であれ、このことを心に銘記していてほしい。神の御国の進展に対して、あなたは負債を負っている。多くをなしたことについて感謝を受けると期待してはならない。あなたが行なったすべてのことは、単に自分の義務であることを行なったにすぎないであろうからである。

 さて、あなたがたの中の、そうした意味における負債者である人々には別れを告げよう。だが、もう一言だけ、他の意味で負債者である人々に告げさせてほしい。罪人よ。あなたは神の正義に対して責任を負っている。今まで一度も赦されたことのないあなたは、支払日がやって来るとき、何をしようというのか? そこにいる愛する方。あなたは暗黒の罪をどんどんため込んできた。支払日が来るときあなたは、自分の負債を代わって払ってくれるキリストも持たずに何をしようというのか? もしあなたが最後の精算日に神から離れ、キリストから離れているとしたら、神に対するあなたの負債の全目録が開かれ、あなたの債務を償還してくれるキリストを全く有していない場合、何をしようというのか? 私はあなたに願う。「あなたの債権者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、彼は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません」*[マタ5:25-26]。しかし、もしあなたがあなたの債権者と和解するとしたら、彼はイエスのゆえに、あなたの債務すべてを帳消しにし、あなたを自由にしてくれるであろう。そのときあなたは、決してあなたの不義のために責任を負わされることはないであろう。

 

キリスト者――責任を負う者[了]

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