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贖いの日

NO. 95

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1856年8月10日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「以上のことは、あなたがたに永遠のおきてとなる。これは年に一度、イスラエル人のすべての罪から彼らを贖うためである」。――レビ16:34


 ユダヤ人たちには、イエス・キリストの死を驚くべきしかたで示す、数多くの印象的な儀式があった。そうした儀式はいずれも、私たちの咎の大いなる償い、私たちの魂の救いであるキリストの死を示すものであった。そうした儀式の中でも最たるものの1つが、贖いの日であり、これは私の信ずるところ、私たちの神の大いなる復讐の日の――また私たちの魂が受けれられる大いなる日の――予型として、ことのほかすぐれたものである。その日、イエス・キリストは「死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは……私たちを神のみもとに導くためでした」[Iペテ3:18]。この贖いの日は、たった一年に一度しかなく、イエス・キリストがただ一度だけ死ぬべきであること、また主が二度目に来るときには、罪のいけにえをささげるためではないこと[ヘブ9:28]を私たちに教えている。子羊は不断にほふられていた。彼らは、朝な夕なに神へのいけにえをささげていた。これは人々に、彼らが常にいけにえを必要としていることを思い起こさせていた。だが、贖いの日は、1つの大いなるなだめの供え物の予型であって、大祭司は、一年に一度しか民の罪の贖いとしての血を垂れ幕の内側に持って入ることはなかった。また、このことは特定の、決まった指定の時になされた。それはモーセの選択にまかされも、アロンの都合に合わされも、日付に影響を与えかねない状況にゆだねられもせず、それ専用の特定の日に指定された。それは29節に見られる通りに、「第七の月の十日」であって、他のいかなる日も贖いの日とされてはならなかった。これは、神の大いなる贖いの日が、神ご自身によって定められ、予定されたことを私たちに示している。キリストというなだめの供え物は、ただ一度しか起こったことがなく、それも決して偶然によるものではなかった。神はそのことを世の始まる前から定めておられた。そして、神が予定しておられた、まさにその時刻、神がキリストの死ぬ日と聖定しておられた、まさにその日に、キリストはほふり場に引かれて行く小羊のように引き出され、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、口をお開きにならなかった[イザ53:7]。それが一年に一度しかなかったのは、そのいけにえが一度限りのものとなるからであった。その日付が指定されていたのは、定めの時[ガラ4:4]が来たときに、イエス・キリストは世に来られ、私たちの身代わりとして死ぬからであった。

 さて私はあなたに、この厳粛な日の儀式と、その個々の詳細な部分に注意を向けてほしいと思う。第一に私たちが考察したいのは、その贖罪を行なう人物である。第二に、その贖罪が予型していたいけにえである。第三に、その贖罪の効果である。そして第四に、その贖罪を思い起こす際の私たちのふるまいである。この点は、その日のイスラエル人が取るべき態度として規定されたことによって詳しく述べられている。

 I. 第一に、《この贖罪を行なうべきであった人物》である。冒頭から見てとれるように、それを行なったのは、大祭司アロンであった。「アロンは次のようにして聖所にはいらなければならない。罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え」[レビ16:3]。下級の祭司たちは子羊をほふった。他の祭司たちも、別の折には、聖所のほぼすべての働きを行なっていた。だが、この日には、この大いなる贖罪の日の務めをなす働きを少しでも行なうことのできる者は、大祭司しかいなかった。古のラビ伝承によると、この日には、ともしびをともし、祭壇に火を入れ、香を焚くことを含む、あらゆること、なすべきあらゆる役目が大祭司によって果たされた。そして、それに先立つ二週間前から、大祭司は幕屋の中に赴き、雄牛をほふり、祭司やレビ人らの手助けをするなどして、彼にとって不慣れな仕事を行なう準備をしなくてはならなかったという。あらゆる労働が彼にゆだねられた。そのように、愛する方々。贖罪の働きは、《大祭司》イエス・キリストが、またキリストだけが、行なわれるのである。他にも祭司たちはいる。主は、「私たちを神のために祭司とし、王としてくださった」*[黙1:6]。あらゆるキリスト者は、祈りと賛美のいけにえを神にささげる祭司である。だが、《大祭司》以外のいかなる者も贖罪のいけにえをささげてはならない。大祭司が、大祭司だけが、垂れ幕の内側に入らなくてはならない。彼が雄やぎをほふり、その血を振りかけなくてはならない。というのも、感謝のいけにえは、キリストの選ばれたからだ全体が分担するものだが、贖罪は彼、《大祭司》だけのものだからである。

 それから注意すると興味深いことに、その日、大祭司は卑しめられた祭司となった。4節にはこう書かれている。「聖なる亜麻布の長服を着、亜麻布のももひきをはき、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶらなければならない。これらが聖なる装束である」*。他の日には、彼は人々が黄金の装束と云いならわしていたものを着ていた。額の部分が純金の札になっていたかぶり物をかぶり、鮮やかな青ひもを結びつけ、宝石をちりばめ、純金で飾られ、宝石をはめ込んだ華麗な胸当てをつけ、光輝あるエポデをかぶり、ちりんちりんと鳴る鈴をつけ、他のあらゆる装飾品をもって彼は、受け入れられた大祭司として人々の前に出ていた。しかし、この日、彼はそうしたものを何1つ身につけなかった。黄金のかぶり物はわきへ置かれ、刺繍された胴衣は脱ぎ捨てられ、胸当てははずされ、彼は、聖なる亜麻布の長服を身につけ、亜麻布のももひきをはき、亜麻布のかぶり物をかぶり、亜麻布の飾り帯を締めただけの姿で出てきた。その日、彼は、民が自らを卑しめるのと全く同じように自分を卑しめた。さて、これは注目に値する状況である。引照箇所にある他の数多くの箇所でも裏書きされるように、この日の大祭司の装束は異なっていた。マイアーによると、大祭司は他の日には栄光ある装束を身につけていたが、この日には4つの粗末な装束しか身につけなかった。ではイエス・キリストは、贖罪を成し遂げたときには、卑しめられた祭司であった。主が贖罪を行なわれたときには、天におけるその古の御座の栄光のすべてを着飾ってはいなかった。その額にあるのは宝冠ではなく茨の冠でしかなかった。その身には紫の衣など、ごく短い間、嘲弄されるために着せられたもの以外に全くまとっていなかった。その御手には、人々が残虐なあざけりとともに押しつけた葦のほか、いかなる王笏もなかった。主には純金の履き物も、王としての衣服もなかった。主は、ご自分を権力ある、人々から傑出した者として示すような威光の輝きを全く有しておられなかった。主は、そのからだ1つで、素裸のまま出て来られた。彼らは普段着さえ主からはぎ取り、神の太陽と神の宇宙の真ん前で、主を裸で吊り下げたからである。それは主の恥辱であり、これほど冷酷卑劣な所行を行なうことを選んだ人々の不名誉であった。おゝ! わが魂よ。お前のイエスをあがめるがいい。主は、贖罪を行なわれたとき自らを卑しめ、お前の下等な土くれの衣を身にまとわれたのである。おゝ! 御使いたち。あなたがたには、主がわきへ置かれた栄光がいかなるものであったか理解できよう。おゝ! 王座よ、主権よ、権威よ。あなたがたにはわかるであろう。主がなしですませた宝冠がいかなるものであったか、主が地上の衣を身にまとうためわきへ置かれた衣裳がいかなるものであったかを。しかし、方々。あなたがたには、あなたの《大祭司》が今やいかに栄光に富んでおられるかほとんどわからず、主が以前はいかに栄光に富んでおられたかほとんどわからない。しかし、おゝ! 主をたたえるがいい。というのも、その日、主があなたのもろもろの罪のための贖罪をなされたのは、主ご自身のからだ、主ご自身の人間性という清潔な亜麻布をまとってのことだったからである。

 次のこととして、贖罪をささげた大祭司は、しみ1つない大祭司でなくてはならなかった。そして、そのような者はどこにも見つからなかったがために、民と同じように自らも罪人であるアロンに白羽の矢が立った。見るとわかるようにアロンは、行って民の罪のための贖いをできるようになる前に、自分をきよめ、自分自身の罪のための贖いをしなくてはならなかった。3節にはこう書かれている。「アロンは次のようにして聖所にはいらなければならない。罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え」。これらは、彼自身のためのものであった。6節にはこうある。「アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする」。しかり。それだけでなく、民を贖うためのやぎの血を携えて垂れ幕の内側に入る前に、彼は垂れ幕の内側に入って、そこで自分自身のための贖いをしなくてはならなかった。11節、12節、13節にはこう書かれている。「アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。主の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持ってはいる。その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである」。「彼は雄牛の(すなわち、彼が自分のために殺した雄牛の)血を取り、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない」[14節]。これは、彼がやぎを殺す前のことである。というのも、その後で、「アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり」、と書かれているからである[15節]。彼は、キリストの予型である血を垂れ幕の内側に携えて入る前に、自分をきよめる血を(これも別の意味でキリストの予型だが)携えて行った。アロンは、垂れ幕の内側に入る前に、雄牛によって自分の罪を予型的になだめなくてはならず、そのときでさえ、その顔の前に香を焚かなくてはならなかった。神が彼を見て、汚れた定命の者たる彼が死ぬことがないようにするためである。さらに、ユダヤ人の伝承によると、アロンはその日には、確か五回沐浴しなくてはならず、この章では、アロンは何度も水を浴びなくてはならないと書かれている。4節にはこう書かれている。「これらが聖なる装束であって、彼はからだに水を浴び、それらを着ける」。また、24節には、「彼は聖なる所でそのからだに水を浴び、自分の衣服を着て」、とある。このように、その日のアロンがしみ1つない祭司となるべきことは、厳密に規定されている。彼はその本性においてそうなることはできなかったが、儀式的には、細心の注意を払って、きよいものとなるべきであった。彼は、聖なる洗盤で何度も何度も水を浴びた。その上、雄牛の血と香の雲があって、神の御前に近づくことができるようにされた。あゝ! 愛する方々。だが私たちには、しみ1つない《大祭司》がおられる。いかなる水浴も必要とされなかったお方がいる。というのも、洗い流すべき汚れを全く有しておられなかったからである。私たちには、ご自分のためにいかなる贖いも必要としなかったお方がいる。というのも、そのお方は、永遠に神の右の座に着いておられ、決して地上になど来たことがなかったからである。そのお方はきよく、しみ1つない。その方は、贖いのふたの前で香を焚き、正義の怒った顔を隠す必要などなかった。身を隠すもの、身を守るものなど全く必要なかった。この方は、ことごとくきよく、清浄であった。おゝ! この方の前にひれ伏し、あがめるがいい。というのも、もしこの方が聖なる《大祭司》でなかったとしたら、あなたの罪を身に負うことは決してできなかったであろうし、決してあなたのためにとりなすことはできなかったであろうからである。おゝ! この方をあがめ敬うがいい。この方は、しみ1つなかったにもかかわらず、この世に来られて、こう云われたのである。「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです」[ヨハ17:19]。この方を、このしみ1つなき《大祭司》をあがめ、愛するがいい。この方が、贖いの日にあなたの咎を取り去ってくださったのである。

 さらに、この贖いは、たったひとりの大祭司によってなされた。――彼は、ひとりきりで、何の手助けも受けなかった。17節にはこう書かれている。「彼が贖いをするために聖所にはいって、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする」。他のいかなる者もそこにいてはならず、すべては大祭司ひとりによってなされたと人々が完全に確信できるようにすべきであった。マシュー・ヘンリーが述べているように、注目すべきことは、弟子たちがただのひとりも、キリストとともに死ななかったということである。主が殺された時、その弟子たちは主を見捨てて逃げていった。人々は主に従う者をひとりも主とともに十字架につけなかった。それは、弟子が贖いの栄誉にあずかったなどとはだれも思わないようにするためであった。強盗たちが主とともに十字架につけられたのは、いかなる者も彼らが主を手助けできたなどとは考えないであろうからであった。だが、もし弟子たちのだれかが死んでいたとしたら、その者が贖いのわざを分担したと想像する者が出たかもしれなかった。神は、カルバリの聖なる円陣を特にキリストだけのものとして守られ、主の弟子たちのだれひとりそこに行って主とともに死ぬことがないようにされた。おゝ、栄光に富む《大祭司》よ。あなたはそのわざをただひとりで成し遂げられました。おゝ、栄光に富むアロンの対型よ。あなたの子らのうち何者もあなたとともに立ってはいませんでした。いかなるエルアザルも、いかなるピネハスも香を焚かなかった。そこには彼自身を除くいかなる祭司も、いかなるレビ人もいなかった。「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった」[イザ63:3]。ならば、すべての栄光を主の聖なる御名に帰すがいい。主はひとりきりで、いかなる手助けもなしに、あなたの咎のための贖いをなされたからである。主の血の洗盤こそ、あなたの唯一の洗いである。主の御わき腹から出た水の流れこそ、あなたの完璧なきよめである。イエスのみなるぞ、イエスのみなるぞ。私たちの救いのみわざを成し遂げられたのは。

 さらに、その日働いたのは、多くの労を取る大祭司であった。彼が、比較的安静にしていた後で、その日行なわなくてはならなった一切を成し遂げることができるほど自分の務めに慣れていたとは驚くべきことである。私は、彼が何頭の動物を殺さなくてはならなかったか数え上げてみようとした。そしてわかったのは、十五頭の獣を彼は、別々の時に、それ以外の自分にゆだねられた働きと合わせて、ほふっていたのである。まず最初に、二頭の子羊がある。一頭は朝に、もう一頭は夜にいけにえとされた。これらは常供の定めであるため[民28:3-4]、決して省かれることがなく、この日、大祭司はこの二頭の子羊を殺した。さらに、民数記29:7-11に目を向けるとこうある。「この第七月の十日には、あなたがたは聖なる会合を開き、身を戒めなければならない。どんな仕事もしてはならない。あなたがたは、主へのなだめのかおりとして、全焼のいけにえ、すなわち、若い雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊七頭をささげなさい。これらはあなたがたにとって傷のないものでなければならない。それにつく穀物のささげ物としては、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一頭につき十分の二エパとする。七頭の子羊には、一頭につき十分の一エパとする。罪のためのいけにえは雄やぎ一頭とする。これらは贖いのための罪のためのいけにえと、常供の全焼のいけにえ、それにつく穀物のささげ物と、これらにつく注ぎのささげ物以外のものである」。ということは、ここには雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊七頭、雄やぎ一頭の、合計で十頭いたことになる。また、私たちが学んでいる章では、3節にこう語られている。「アロンは次のようにして聖所にはいらなければならない。罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え」。これで合計は十四頭である。そしてその後で、二頭のやぎがあったが、そのうち一頭だけが殺され、もう一頭は野に放たれた。さてこういうわけで、十五頭の獣がほふられなくてはならなかったのである。これらは、感謝のための全焼のいけにえとは別である。そうした全焼のいけにえも、罪のためにささげられた贖いが受け入れられた感謝の念から、今や民が主に献身したいという願いを示すためにささげられたのである。エシュルンで祭司に任命された彼は、その日には、一般のレビ人のように労苦し、祭司として行なえるだけの、またいかなる通常の日よりもはるかに多くの労働を行なった。私たちの主イエス・キリストも、それと全く同じであった。おゝ、贖いは主にとっていかなる労働であったことか! それは、宇宙のいかなる手にも成し遂げることのできなかったわざであったが、主はそれをおひとりで完成なさった。それは酒ぶねを踏むよりもずっと骨の折れる働きであり、主の体は、うちなる神性によって支えられなかったとしたら、これほど途方もない労働をになうことは到底できなかったであろう。ゲツセマネでは血の汗を流し、夜を徹して目を覚ましていなくてはならなかった。それは大祭司が、自分に何か汚れが触れるのではないかと恐れて行なっていたこととまさに同じである。それ以前にも、主は毎日、野次り声やあざけり声を忍んでおられた。――これは、《子羊》が常時ささげられていたことに似ている。それから、ピラトの官邸で恥辱を加えられ、つばを吐きかけられ、残虐な鞭打ちを受けた。さらに、エルサレムの悲しい街路を抜ける、via dolorosa[悲しみの道]を歩み、その後で十字架に吊された。主の双肩には御民のもろもろの罪の重みがのしかかっていた。――世界を造るよりも大いなる労働である。それは、世界を新たに造ることであった。世の罪をご自分の《全能》の肩に載せ、それらを海の深みに投げ込むことであった。この贖いは、骨の折れる労を取る大祭司によってなされた。主は働かれた。実際イエスは、それ以前にも骨を折ったことはあったが、この驚くべき贖いの日になさったほど働いたことは一度もなかった。

 II. このようにして私は、この贖いをなした人物について考察してきたので、これからしばしの間、《この贖いがなされた手段》について考察してみよう。5節にはこう書かれている。「彼はまた、イスラエル人の会衆から、罪のためのいけにえとして雄やぎ二頭、全焼のいけにえとして雄羊一頭を取らなければならない」。また、7節、8節、9節、10節にはこうある。「二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである」。第一のやぎを私は、贖いなるイエス・キリストの大いなる予型であると考える。アザゼルのためのやぎは、そのようなものとは考えない。第一のものは、贖いがなされるための手段の予型てあり、私たちはまずその第一のものに目をとめたい。

 注意してほしいが、もちろん、このやぎは、いけにえとしてささげられた他のあらゆるものに必要とされた条件すべてにかなっていた。それは、完全で、傷のない、一歳のやぎでなくてはならなかった。それと全く同じように私たちの主も完全な人であり、その人生と力の盛りにあった。またさらに、このやぎがキリストの卓越した予型であったのは、5節で告げられているように、それがイスラエル人の会衆の中から取られたという事実からである。公的財源がそのやぎを提供した。そのように、愛する方々。イエス・キリストは、死なれる前に、まず最初にユダヤ人の公的財源によって買い取られたのである。彼らは主を銀貨三十枚と見積り――相当な額である――、彼らがそのやぎを引き出すのに慣れていたのと同じように、主をいけにえとするために引き出した。実際のところ彼らは、主を自分たちのいけにえにするつもりなど全くなかったが、主をピラトのもとに連れ出し、「十字架につけろ。十字架につけろ」、と叫んだとき、意図せずしてこのことを成就したのである。おゝ、愛する方々! 実際、イエス・キリストは民の真中からやって来られ、人々が主を引き出したのである。これは奇妙なことである。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」[ヨハ1:11]。主ご自身の民が主をほふり場に引き出し、主ご自身の民が主を贖いのふたの前に引いていったのである。

 さらに注目したいのは、このやぎは、アザゼルのためのやぎと同じく、民によって引き出されはしたものの、それでもそこには、神の決定があった。よく見るがいい。こう語られている。「アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする」。私が思うに、ここでくじについて触れられているのは、こう教えるためであった。すなわち、確かにユダヤ人は自分たちの意志でイエス・キリストを死なせようと引き出したが、それでもキリストは、もともと死ぬべく定められていたのであり、主を売った当の男でさえ、そのために定められていたのである。――そう聖書は語っている。キリストの死は予定されていた。そして、そこには人間の手だけでなく、神の手が介在していた。「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」[箴16:33]。それと同じく、人間がキリストを殺害したことは確かだが、イエス・キリストがほふられたのは主の配剤であった。「正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは……私たちを神のみもとに導くためでした」[Iペテ3:18]。

 次に、神意によって贖いをなすものと選抜されたやぎを眺めるがいい。来て、それが死ぬところを見るがいい。祭司がそれを刺す。苦悶するその姿に目をとめるがいい。それが一瞬もがくのを見るがいい。それから噴き出す血潮に注目するがいい。キリスト者たち。あなたがたは、ここにあなたの《救い主》を有しているのである。その御父の復讐の剣が主の心臓をえぐるのを見るがいい。見よ、主の死の苦悶を。主の額にべったりと浮かぶ汗を見るがいい。主の舌が、その上顎にへばりつくのを目にするがいい。十字架の上で主がもらした吐息と呻きを聞くがいい。聞けよ、主が高く鋭く叫ばれた、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、を。そしてもしあなたが立って、あなたの贖いのためのやぎの死を見つめさえするならば、今やこれ以上ありえないほど考えるべきものを有しているのである。主の傷ついた御手から流れ出ている血潮、その御足から地につたい落ちている血潮、その御わき腹に開いた傷口から川のように噴き出している血潮に注目するがいい。かのやぎの血が予型的に贖いをしたのと同じく、キリスト者よ。あなたのために死んでおられるあなたの《救い主》は、あなたのもろもろの罪のために大いなる贖いをなされたのである。そしてあなたは行って自由になれるのである。

 しかし、やはり注目したいのは、このやぎの血が、単に罪を赦すために多くの人のために流された[マタ26:28]だけでなく、その血が垂れ幕の内側に携え入れられ、そこで振りかけられたということである。イエスの血もそれと同じである。「御座にいま血を注がれて」*[ヘブ9:21]。他の獣の血は(雄牛の血だけを除き)、主の前でささげられ、至聖所には携え入れられなかった。だが、このやぎの血は、「贖いのふた」の上と、「贖いのふた」の前に振りかけられ、贖いがなされる。そのように、おゝ、神の子どもよ。あなたの《救い主》の血も、垂れ幕の内側で贖いをなしたのである。主はその血をご自身でそこに携え入れられ、主ご自身の功績と主ご自身の苦悶は、今や栄光の垂れ幕の内側にあり、今や御座の前で振りかけられているのである。おゝ、《大祭司》と同様、栄光に富むいえにえよ。私たちはあなたをあがめます。というのも、このほふられた一頭のやぎが一年に一度、民全体の罪のために贖いをしたのと同じように、あなたは、あなたの1つのささげ物により、永遠に贖いを成し遂げられたからです。

 III. さて、ここからその《効果》に移ろう。

 このやぎの死がもたらす第一の効果は、汚れたものとされた聖なる用具の聖めであった。15節の後半からはこう書かれている。「それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない」[15-16節]。聖所は民によって汚れたものとされていた。神がお住まいになる場所は聖でなくてはならないが、人がそこに行くとき、そこにはある程度の汚れがないわけにはいかない。このやぎの血は、聖ならざる場所を聖とした。このことは、私が今朝この場所に来るとき、私にとって甘やかな思いを誘った。私はこう考えた。「私は神の家に行こうとしている。そして、その家は聖なる場所なのだ」。だが、いかに多くの罪人たちがその床を踏みしめてきたか、いかに多くの不浄な者たちがその歌に声を合わせてきたかを思ったとき、私は思った。「あゝ! かの家は汚されてきた。だが、おゝ! 何の恐れもいらない。イエスの血がそれを再び聖くしたのだから」。「あゝ!」、と私は思った。「あそこに、私たちがささげる、私たちのあわれな祈りがある。それは聖なる祈りではある。聖霊なる神がそれを口述したのだから。だが、それは聖ならざる祈りである。私たちがそれを口にしたのだから。そして、私たちの唇のように汚れた唇から出てきたものは、汚れているに違いない」。「しかし、あゝ!」、と私は再び思った。「それは血を振りかけられた祈りなのだ。それゆえ、それは聖なる祈りに違いない」。そして、私がこの聖所のあらゆる立琴――これは、あなたの賛美の象徴である――に目をやり、この幕屋のあらゆる火皿――これは、あなたの祈りの象徴である――に目をやるとき、私は内心でこう思った。「これらすべてには血がつけられている。今日の私たちの聖なる礼拝には、大いなるイエスの血が振りかけられている。そのようなものとして、それはイエスを通して受け入れられるであろう」。おゝ! 愛する方々。私たちの聖なる用具が、今や真に聖であると思い起こすのは甘やかなことではないだろうか? それらすべてに罪が混ぜ合わされており、私たちはそれらが汚れていると考えるが、それでもそうではないのである。というのも、血があらゆる汚点を洗い流しているからである。今日の日のすべての奉仕は、神の御目には智天使の奉仕のように聖なるものと見えており、栄化された人々の聖歌のように受け入れられるものとなっている。私たちは、私たちの礼拝を《小羊》の血で洗っており、それは《小羊》を通して受け入れられるのである。

 しかし、ここで注目したい第二の大いなる事実は、彼らの罪が持ち去られたということである。これは、アザゼルのやぎによって述べられている。20節にはこう書かれている。「彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ」。見ての通り、それがなし終えられたとき、この大いなる、また素晴らしい贖いは完了し、その効果が民に述べられた。さて、私は、このアザゼルのやぎについて、どれだけ多くの意見があるか見当もつかない。私には珍妙きわまる意見と思われるものの1つを、非常に多くの割合を占める学識者たちが信奉しており、それは私の聖書の欄外にまで記されている。多くの学識者たちの考えるところ、このアザゼルという言葉は、異教徒によって礼拝されていた、やぎの姿をした悪鬼の名であった。そして彼らは私たちにこう告げる。第一のやぎは、罪の贖いとして神にささげられ、もう一頭のやぎは悪魔に苦しめられるために解き放たれるのだ、だからアザゼルと呼ばれたのだ、それはイエスが荒野でサタンの苦しみを受けたのと全く同じなのだ、と。この意見に対する反論としては、こう云うだけで十分である。最初のやぎが神にささげられたのに、このやぎが悪霊どもの間に送られるなどと考えるのは困難である、と。実際、この意見はがさつすぎて、まともには信じられない。単に言及するだけで、十分に反駁となる。さて、第一のやぎは、民の罪のために、その死によって贖いをなしておられる主イエス・キリストである。第二のやぎは荒野に追い放たれて、その消息は永遠に聞こえなくなる。ここで1つの困難が心に浮かぶ。――「イエス・キリストは、永遠にだれからも消息が聞かされないような場所へ行かれたのだろうか?」 これは私たちが全然考える必要のないことである。第一のやぎは、贖いの予型であった。だが第二のやぎは、贖いの効果の予型なのである。第二のやぎは、第一のやぎがほふられた後、民のもろもろの罪を頭上に載せたまま、姿を消してしまった。それで、このやぎは、アザゼルのやぎとして、私たちのもろもろの罪がいかにして荒野の奥地へと持ち去られてしまうかを示しているのである。今年、芸術協会には、一枚の立派な絵画が展示された。それは荒野で死にかけている贖罪のやぎを描いたもので、その上空には燃えるような空が広がり、その足はぬかるみにへばりつき、その周囲には無数の骸骨が散らばり、そこで陰惨でみじめな死を迎えつつある。さて、これは全く何の根拠もないたわごとの一片にすぎない。というのも、聖書の中には、そうしたことをこれっぽっちも裏づけるものが全くないからである。ラビたちの告げるところ、このやぎはひとりの男によって荒野に連れ出され、そこで高い岩の上から転落させられ死なされたという。だが、ひとりの卓越した注解者が語っているように、もしその男がそれを岩から突き落としたとしたら、彼は神がそうせよと告げた以上のことをしたのである。神は彼に、やぎを連れ出して放てと仰せになった。その後でやぎがどうなるかは、あなたや私の知ったことではない。それは、わざと何も語られていないのである。私たちの主イエス・キリストは、私たちのもろもろの罪を、まさしくアザゼルのやぎのように、その頭上に載せて取り去り、私たちのもとから姿を消された。――それですべてである。そのやぎは、それが死ぬという点で予型なのでも、その後の運命に関して予型なのでもない。神が私たちに告げられたのはただ、それが係りの者の手で荒野に連れ去られるということである。最も正確な説明と思われるのは、ヤーカイというラビのものである。いわく、彼らは通常そのやぎをエルサレムの郊外十二哩の所まで連れて行った。その一哩ごとに仮小屋が設けてあり、やぎを連れた男はそこで休憩をとりつつ十哩の地点まで達する。そこからは、やぎが手放されるまで何の休息もない。最後の哩まで来たとき、彼は立って、そのやぎが手元から離れて、姿を消すまで見送る。そのとき民の罪もみな消え去るのである。さて、これ以上詮索しなければ、これは何と見事な予型であろう! しかし、もし神があなたに知らせまいと思われたことについてあなたが余計な首を突っ込むとしたら、あなたはそれによって何も得るところがないであろう。このアザゼルのやぎは、私たちにいけにえや、犠牲を示すためのものではなく、単に罪がどうなるかを示すためのものであった。民のもろもろの罪がその頭上で告白される。そのやぎはいなくなる。民はその姿を見失う。係りの者がそれを連れて行く。そうした罪は彼らのもとからいなくなり、その男は自分の目的地に着く。彼は遠くからそのやぎが、そこここで飛びはねたり、自由にされた嬉しさに山に登ったりするのを目にする。まだ、全く見えなくなったわけではない。だがしばらくすると、今やそれは姿を消してしまう。男は戻ってきて、もはやあのやぎの姿は見えなくなったと云う。そのとき民は両手を打ち鳴らす。彼らの罪もまたみな消え失せたからである。おゝ! 魂よ。お前は自分のもろもろの罪がみな消え失せたのが見えないだろうか? 私たちは長い距離を歩いて、自分のもろもろの罪をかかえて行かなくてはならないかもしれない。だが、おゝ! いかに私たちは目をこらし、それらが完全に忘却という荒野の中に沈み込んでいくかを見ることであろう。その荒野から、それらは二度と再び私たちを責めるものとして見いだされることは永遠にないのである。しかし、注目するがいい。このやぎはいけにえとしてささげられて贖いをしたのではない。それは、罪が消え失せる予型であった。そうしたものとして贖いの予型であった。見ての通り、このことによって私たちのもろもろの罪が失われる以上、これは贖いの成果だからである。だが、いけにえは、その成果を作り出す手段である。それで私たちの前には、この偉大な、栄光に富む思想があるのである。すなわち、主の頭上に自分のもろもろの罪を置いた人々には、キリストの死による、完全で、無代価で、完璧な罪の赦しがある、ということである。ぜひとも注目してほしいが、この日、すべての罪はアザゼルのやぎの頭に置かれたのである。――増上慢の罪、無知の罪、汚れの罪、小さな罪、大きな罪、少ない罪、多くの罪、律法に反する罪、道徳に反する罪、儀式に反する罪、ありとあらゆる種類の罪が、この大いなる贖いの日には取り去られたのである。罪人よ。おゝ、願わくはあなたが、私の《主人》の贖いにあずかることができるように! おゝ! あなたが十字架の上でほふられた主を見てとることができるように! そのときあなたは、主が多くの捕虜を引き連れて行き、あなたのもろもろの罪を、二度と見いだされない所へと持ち去って行くのを見てとれるであろう。

 さて、ここであなたに告げたい興味深い事実がある。そして、確かにあなたも、それは語る値打ちのあることだと思うであろう。レビ記25:9に目を向けてほしい。こう書かれている。「あなたはその第七月の十日にヨベルの角笛を鳴り響かせなければならない。贖罪の日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせなければならない」 <英欽定訳>。ということは、この贖いの数ある効果の1つは、この事実によって示されているのである。すなわち、ヨベルの年が来たとき、それは年の最初の日に告げ知らされるのではなく、「その第七月の十日に」告げ知らされるのである。左様。私には、これがその最上の部分だったという気がする。アザゼルのやぎはいなくなっており、罪はなくなっている。そして、それらがなくなるや否や、銀の角笛が鳴り響くのである。

   「ヨベルの年ぞ 今や来たれり。
    戻れ、家へと、つみ贖われし者」。

その日、罪人たちは自由の身となる。その日、抵当に入っていた私たちのあわれな土地は開放される。そして、私たちの霊的破産によって没収されていた、私たちのあわれな財産は、すべて私たちに返される。そのように、イエスが死なれるとき、奴隷たちはその自由をかちとり、失われた者たちは霊的いのちを再び受け取る。主が死なれるとき、天国が、長い間失われていた相続の地が、私たちのものとなる。ほむべき日よ! 贖いとヨベルは相伴ってしかるべきである。愛する方々。あなたは心においてヨベルを得たことがあるだろうか? もしないとしたら、私はあなたに告げることができよう。それは、あなたが贖いの日を得たことがないからだ、と。

 この大いなる贖いの日の効果に関して、もう1つのことだけ考えたい。見ての通り、それはこの章全体を貫いている。――垂れ幕の内側にはいるということである。一年にただ一度しか、《大祭司》は垂れ幕の内側に入ることができず、それも、この贖いという大いなる目的のためでなくてはならなかった。さて、愛する方々。この贖いは完成しており、あなたは垂れ幕の内側に入ることができるのである。「こういうわけですから、大胆にまことの聖所にはいることができる私たちは、大胆に天の恵みの御座に近づこうではありませんか」*[ヘブ10:19; 4:16]。神殿の垂れ幕は、キリストの贖いによって引き裂かれており、私たちは今や御座に近づくことができる。おゝ、神の子どもよ。私の知る限り、キリストとの交わりを除けば、あなたの有するいかなる特権にもまして尊いものは、御座に近づけるということである。尊い恵みの御座よ! 贖いの日がなかったとしたら、私にはそこに赴くいかなる権利も全くなかったであろう。その御座に血が振りかけられなかったとしたら、私は決してそこに行くことができなかったであろう。

 IV. さて第四のこととして注意したいのは、私たちが《この贖いの日を考察する際に、ふさわしいふるまい》はいかなるものか、ということである。29節にはこう書かれている。「以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない」。これこそ私たちが、この贖いを思い起こすときに行なうべき1つのことである。罪人よ。確かにこの世の何物にもましてあなたを悔い改めへと動かすのは、あなたの咎を洗い流すために必要であった、キリストという大いなるいけにえを考えることであろう。「律法(おきて)も恐れも かたくなにするほかあらじ」だが、私は、イエスが死なれたと考えるだけで私たちの心を溶かすに十分という気がする。私たちがカルバリという名を聞くときに、常に一掬の涙を流すのは良いことである。というのも、イエスの死に言及することほど罪人を泣かせるものはないはずだからである。その日、「あなたがたは身を戒めなければならない」。そして、あなたがた、キリスト者たち。あなたもやはり、自分の《救い主》が死なれたことを思うときには、あなたの身を戒めるべきである。こう云うべきである。

   「あゝ! わが主 血を流せしや、
    かくわが君の 死に給いしや?
    神聖(けだか)き頭 主はささげしか、
    この我れのごと 虫けらのため?」

悲嘆の滴が流れるべきである。左様、主への感恩の念が心の底から川となって流れるべきである。そして、《救い主》を刺し貫くことになった自分のもろもろの行為について、悲嘆を示すべきである。おゝ、あなたがた、イスラエルの子らよ。「身を戒めよ」。というのも、贖いの日は来ているからである。あなたのイエスのために泣くがいい。死んだ方のために、あなたのもろもろの罪のため殺されたお方のために泣くがいい。そして「身を戒める」がいい。

 それから、さらに良いことに、私たちは、同じ29節に見いだされる通り、「どんな仕事もしてはならない」。この世界の大いなる安息日に神がなさったように、自分の仕事をやめるがいい。自分自身の義を立てるのをやめるがいい。あなたの骨の折れる種々の義務から休まるがいい。主にあって安らぐがいい。「信じた私たちは安息にはいるのです」[ヘブ4:3]。贖いが完了したのを見てとるや否や、云うがいい。「それはなされたのか、なされたのか? では私は、私の神に熱心に仕えよう。だが、今や私は、自分で自分を救おうとはすまい。それはなされたのだ。永久になされたのだ」。

 そのとき、そこには別のことが常に起こった。祭司が贖いをなし負えたとき、通常、彼は、身を洗った後で、その栄光に富む衣裳を着て再び出てきた。民は、彼を見たとき、喜びながら彼の自宅まで彼に付き添い、彼らはその日、全焼のいけにえをささげた。彼は、自分のいのちが守られ(至聖所に入って、そこから出てくることを許され)たことに感謝し、彼らはその贖いが受け入れられたことに感謝した。彼らは、双方が全焼のいけにえをささげた。それは、今や彼らが、「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」[ロマ12:1]となることを願っているという予型であった。愛する方々。喜びをもって家へ帰ろうではないか。賛美しつつ、私たちの門に入ろうではないか。贖いは完了している。《大祭司》は幕の内側に入られた。救いは今や完成している。主はその亜麻布の装束を脱ぎ捨て、その胸当てと、かぶり物と、刺繍された胴衣をつけ、そのあらゆる栄光に包まれて、あなたの前に立っておられる。主が私たちのことをいかに喜んでおられるか、聞くがいい。というのも、主はご自分の民を救い出し、その敵の手から代価を払って彼らを身請けしてくださったからである。さあ、この《大祭司》とともに家に行こう。両手を喜びで打ち鳴らそう。主は生きておられ、生きておられるからである。贖いは受け入れられた。私たちも受け入れられた。アザゼルのやぎはいなくなった。私たちのもろもろの罪はそれとともに消え失せた。ならば、感謝の念とともに家へ帰り、賛美しつつ主の門に赴こうではないか。というのも、主はその御民を愛しておられ、その子どもたちを祝福しておられ、私たちの贖いの日を与えておられ、私たちが受け入れられる日を与えておられ、ヨベルの年を与えておられるからである。あなたがたは主をほめたたえないだろうか? 主をほめたたえよ!

 

贖いの日[了]


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