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あ す

NO. 94

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1856年8月25日、月曜日午後の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於キングズランド街、マバリー会堂

イズリングトン、ボールズ・ポンド通り、
メトロポリタン共済会養老院のための説教


「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ」。――箴27:1


 神のこの上もなく聖なるみことばが書かれたのは、主として私たちに天国への道を知らせ、この世を通り抜ける私たちの道案内をし、永遠のいのちと光の王国へと至らせるためである。しかし、現在の場における私たちのふるまいについても、決して神が無頓着ではあられないこと、また、今の状態においてさえ、慈悲深い御父は私たちの幸福に無関心ではあられないことを教えるかのように、神は私たちにいくつかの卓越した、賢い格言を与えてくださった。それは、霊的な事がらにおいてだけでなく、現世の問題においても実行に移してよいものである。『箴言』という書を見るたびに私は喜びを感じてきた。これは私たちに、最高度に霊的な知恵を教えてくれるばかりか、特に「いま」――私たちが現在直面している時――について、数々の格言を与えてくれる書である。そうした格言によって私たちは、この世において賢くなることができ、同胞たる人々と入り混じる間に起こる様々な問題における身の処し方を教えられる。私たちには、霊的な照明のみならず、ある程度は現世的な知恵が必要である。御国の子どもたちが、常に暗闇の子らよりも愚かである必要はない。私たちが、墓に入るために自分の家を整える[II列20:1]とともに、日常生活の様々な問題をも整えるのは良いことである。こういうわけで、聖書の中には、その双方のための格言や教えが見いだされるのである。神がこのように人生の副次的な事がらにおいても私たちを教えておられる以上、私が本日の聖句を、ある程度までは単に現世的なしかたで用い、愛する方々に向かって、この世における務めについて助言しようと努めても、筋違いということにはならないであろう。その後で私は、より霊的な事がらについて詳しく語ろうと思う。さて、まずここにあるのは、、この聖句で禁じられている、誤ったあすの用い方である。第二のこととして私は、あすの正しい用い方について言及しよう。

 I. まず最初に、この聖句では《誤ったあすの用い方》が言及されており、私たちはそれを、第一に、この世的な視点――とはいえ、私には知恵の道であると思えるもの――から眺めてみよう。「あすのことを誇るな」。おゝ! 私の兄弟たち。あなたがたがいかなる者であれ――キリスト者であろうとなかろうと――、この箇所には、あなたのための深い知恵がある。「あすのことを誇るな」。なぜなら、そこには多くの非常に賢明な理由があるからである。

 まず第一に、誇るということそのものが、きわめて愚かなことだからである。誇ることによって、人はこれっぽっちも他の人々の評価において大いなる者とならず、その人本人の現実のからだや魂が向上することもない。ある人がいかに好き放題に自慢しても、その自慢によって少しでも大いなる者となるわけではない。否、かえってちっぽけな者となる。人々は例外なく、その人のことをその分だけ悪く考えるからである。その人が自分の持ち物についていくら好きなだけ誇っても、そうした誇りによってその価値が増し加わるわけではない。自分の富を誇ることによって、それを増やすことはできないし、自分の受けている楽しみを得意がることによって、それをより大きなものにすることはできない。確かに、こうした楽しみに満足し、それに得々とすることは、非常に甘やかであるかもしれない。だが、この、あすという宝についてはそうではない。というのも、それはその人がまだ有していない宝だからである。それゆえ、それをその人が誇りにするとは、いかに愚かなことか! ある古い、古いことわざがある。この場で引用しようとは思わないが、それは、狸とその皮に関するものである。あなたもそれを思い出せるかもしれない。それはこの聖句と密接な関係がある。というのも、あすは、私たちがまだ手に入れていないものであり、それゆえ、単にそれを手に入れている場合に誇ることが愚かであるばかりでなく、私たちがそれを手に入れておらず、決して手に入れることができない以上、それを誇るのはまさに愚劣のきわみである。おゝ、人よ。畑に種を蒔いたときには、来年あなたのものとなる収穫について誇るがいい。だが、あすについて誇ってはならない。あすの種を蒔くことは決してできないからである。あすは神からやって来る。あなたは、あすについて誇る何の権利もない。おゝ、鳥猟師よ。もしそうしたければ、かつてあなたの網に鳥たちがかかったことを誇るがいい。もう一度かかるかもしれないのだから。だが、あまり先走って誇ってはならない。というのも、鳥たちはあなたの使うおとりよりも、ずっと自分たちの好みに合った別のおとりを見つけるかもしれないし、あなたの罠から遠く離れたあたりを飛び回っているかもしれないからである。あなたが今まで多くの日々を過ごしてきたとはいえ、別の日が確実にやって来ると考えてはならない。日々は鎖の環とは違う。1つの環があれば必ず別の環があるとは限らない。今の私たちには、ある日がある。だが、その片割れは二度と見られないかもしれない。双子の日はない。きょうには、ひとりも兄弟はいない。それは、たったひとりである。そして、あすはたったひとりでやって来るしかない。そして、その次の日も、次の日も、やはりあすは、この世にひとりっ子として生まれるしかない。私たちは決して一度に二日を見ることはありえないし、日々が大挙して一度に生み出されるのを期待してはならない。

 私たちがあすのことを誇る必要がないのは、それが森羅万象の中でも、最ももろいものの1つであり、それゆえ、誇りとされるべきものの中でも、最もちっぽけなものだからである。砕け波に浮かぶあぶくを誇るがいい。海の上の泡を誇るがいい。空をかすめて飛ぶ雲を誇るがいい。好きなものを何でも誇るがいい。おゝ、人よ。だが、あすのことを誇ってはならない。というのも、それは、あまりにももろいものだからである。あす、それははかないものである。あなたは、それを見たことがない。なぜそれについて誇るのか? あす、それは白痴が虹の根元にあると夢見る杯である。そんなものはそこにはないし、それを見つけることもできない。あす――それは、ローモンド湖の浮き島であり、多くの人々が噂するが、だれも見たことのないものである。あす――それは難破させる者の灯台であり、人々を破滅の岩礁へ誘うものである。あなたはあすのことを誇ってはならない。それは、あなたに想像がつく限り、最ももろく、最も砕けやすいものである。硝子であっても、あなたの云うあすの喜びや、あすの希望の半分も割れやすくはない。風の一吹きで崩れてしまう。それが全く花実を咲かせていなくとも関係ない。深く考えることをしない、お気楽な人は、わがはいの偉大さは、まさに円熟の域に達しつつある、と云う。だが、そこへ霜が降りて来る。――彼の苗を摘み取る、凍てつく霜が降りてきて、彼は倒れる。あすのことを誇ってはならない。あなたはそれを有していない。それを有したときには、それはあなたを欺くであろう。あすのことを誇ってはならない。というのも、あす、あなたは、あすというものが身震いするほど恐ろしいものとなる場所にいるかもしれないからである。

 あなたが、あすのことを誇ってはならないのは、単にそれがきわめて愚かであるからばかりでなく、それがきわめて有害だからである。あすのことを誇るのは、あらゆる点で私たちにとって有害である。それは、いま私たちにとって有害である。私の知る限り、いつかは偉大なことをしたいと年がら年中云っているような人のうち、ひとりとして現在大きなことを行なった人はいない。私の知る限り、そのうち財産を貯えようとこころがけている人のうち、ひとりとして、いま一週間に六ペンスも貯金している人はいない。私の知る限り、どこかの年老いた祖母の遺産を当て込んだり、大法官府から地所を供与される望みや、自分のやんごとなき家名のゆえに何かが転がり込んでくるだろうという大望をいだいている者のうち、ひとりとして、それまでの間に大きな富貴に達するのが見られる人はいない。私の聞いたことのある、ある人は、あすには金持ちになるのだといって、それを自慢していた。だが、私の知る限り、決してその人は大した働きをしない。そのような人々は、空中に楼閣を築くのに多大な時間を費やしており、地上にあばら屋を立てるほどの石材も残らないのである。彼らは自分の精力をことごとくあすにつぎ込んでいた。その結果、現在という畑を刈り取る時間がなかった。未来の重い収穫を待っていたからである。「きょう」という重く荷を積んだ舟には、時間という深みから出た無数の魚を満載している。だが彼らはそれらについてこう云う。「そんなものは何でもない。あすには、もっと重い漁獲がある。それは、ずっと大量の、ずっと豊かなものであろう。向こうへ行くがいい。小舟たちよ。あすには大船が帰って来るのだ。――富を満載した艦隊が帰港するのだ」。そして、そのようにして彼らは、きょうの富をみすみす去らせるのである。なぜなら、あすの、いやまさる富を期待しているからである。それゆえ、彼らは現在でさえ害を受けているのである。

 そして、それよりさらに悪いことがある。将来にかける希望によって、一部の人々は、異常な無節制へと至らされることがある。そうした人々は、やがて持つことになるはずのもの、あるいは決して持たないであろうものを散財するのである。多くの人々は、空しい夢を投機にかけては破滅してきた。その、あすについての熱い誇りはいかなるものだろうか? 彼らは云った。「確かに、私はいま買うものの支払いはできない。だが、あすならできる。というのも、あすには、うなるほどの金持ちになるからだ。あす、私はだれよりも大金持ちになるかもしれない。商売の風向きがうまく行けば(という云い回しを彼らは用いる)、危険な浅瀬からは簡単に浮き上がるであろう」。そのようにして彼らはなおも進み続け、単にその砂地から離脱するための骨折り仕事を拒むだけでなく、なおも悪いことに、脱出の機会を棒に振り、自分の手持ちのものまで無駄に費やしてしまう。やがてより良い時期がやって来ると望みをかけているためである。多くの人が、現在において不具になり、びっこになり、めくらになり、つんぼになったのは、その人が、将来において人よりも大いなる者になるだろうと希望したためであった。私は、このように云う人々をいつも笑い飛ばしてきた。「先生。少しは休みなさいよ。そうすりゃ、それだけ長く働けるんですから。少しはじっとして、力を温存しなさいよ。明日だって働けるじゃありませんか」。私がそうした人々に命じたいのは、それが聖書の教えではないことを思い出すことである。それはこう云っている。「あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい」[伝9:10]。そして私は、もしもあすを期待して自分のきょうを投げ捨て、あすという戦車が私のあらゆる怠慢を埋め合わせるからといって、きょうは怠惰の寝椅子でのうのうとくつろぐとしたら、自分を愚か者にも劣るとみなすであろう。そのように、愛する方々。私たちがもし私たちの神を愛しているなら、たとい私たちのあすをすべて有することになるとしても、なすべきことを十分に見いだすであろうし、私たちのきょうをもすべて用いるであろう。もし私たちが私たちの神が私たちのために何をしてくださったかを考え、このお方にしかるべきしかたでお仕えするとしたら、私たちは、自分の手に余るほどのことを見いだすであろう。たとい私たちの寿命がメトシェラのそれほどまで保たれるとしても――いかに長い人生を送ろうとも、そのあらゆる瞬間に十分なものがあり、そのあらゆる時間に十分なものがあるであろう。しかし、事を将来に行なおうと希望することは、現在における私たちの力を取り去り、私たちの決意をへたりこませ、私たちの勤勉をゆるめてしまう。あすのことを誇ることによって、現在、害を受けないように用心しようではないか。

 そして、覚えておくがいい。それはきょうあなたに害を及ぼすだけでなく、あすもあなたに害を及ぼす。なぜかわかるだろうか? なぜなら、あなたのいのちにかけて云うが、もしあなたがまだやって来る前からあすのことを誇るとしたら、あなたはそれに失望することになるからである。あすは、もしあなたがこれほどほめそやさなければ、非常に良いものであろう。私の信ずるところ、教役者にとって最悪のことの1つは、だれかからほめちぎられることである。というのも、人々はこう云うからである。「さあ、あの人がやって来ますよ。彼はどんな説教をするでしょう。きっと、どんなに雄弁なことでしょう!」 そのあわれな教役者は、彼らの期待に達することができず、彼らは失望させられる。あなたがこれほど実物以上に良いものであるとして熱烈な賛辞を寄せているあすも、それと同じである。「おゝ! 彼はすべてである。彼は完璧である」。きょう――それは無である。それは床のくずにほかならない。だが、あす――それは純金の塊である。きょう――それは掘り尽くされた鉱山であり、そこからはほとんど何も得ることができない。だが、あす――それは富の宝庫である。ただ、それをつかみとるだけで、私たちは富者になれる。途方もない富者になれる。あすがすべてである? ならば、あすは、あわれみを満載し、神からの祝福に満ち満ちてやって来るはずである。だが、それにもかかわらず、私たちは失望させられる。なぜなら、あすは、たとい素晴らしく豊かなものであるとしても、私たちが期待していた通りのものではないからである。むしろ、時としてあすは、私たちが光と日差しに満ちたものとになる期待していても、嵐と、黒雲と、暗闇を伴ってやって来ることがあり、おゝ、そのとき私たちはいかに恐ろしく感じることであろう。なぜなら、私たちは何か別のものを期待していたからである。次の言葉は、必ずしも幸福の使信として悪いものではない。「何も期待しない者は幸いです。その人は決して失望しないからです」。

 もし私たちがこれを実践するすべを知っており、何も期待しないとしたら、失望することはない。それは確かである。また期待することが少なければ少ないほど、私たちは自分の期待することを誇らず、将来はその分だけ幸福なものとなるであろう。なぜなら、私たちが失望する見込みははるかに少なくなるからである。ならば、思い起こそうではないか。もし私たちが将来を殺したければ、もしあすを破滅させたければ、もしその希望をしなびさせたければ、もしその蜜を取り除きたければ、それらを誇りの手に押しつけるに越したことはなく、その他に何も必要ないのだ、と。「あすのことを誇るな」。というのも、誇ることによってあなたはあすをだいなしにするからである。

 それからさらに思い出すがいい。あすのことを誇ることによって、そのあすが過ぎ去ったとき、この世において、人々には、いかに厳粛かつ破滅的な状況が降りかかったことか。左様。多くの人は自分の希望をただ1つのことにかけている。そして、その人が期待していなかったようなあすがやって来る。――ことによると、暗黒の、暗澹たるあすがやって来て、それがその人の希望を灰燼に帰してしまう。その後でその人がいかに悲しく感ずることか! その人は自分の隠れ場にぬくぬくとおさまり、「平安だ、平安だ、平安だ」、と云っていた。だが突然、その人の幸福と喜びの上に破滅がやって来た。その人は、自分のあすのことを誇り、安心しきっていた。では、そこにいるその人を見るがいい。何と見る影もなく落ちぶれ果てていることか。自分の希望をあすにかけていたために、今その人の喜びはしおれてしまったのである。おゝ! 私の愛する方々。決してあすのことを誇りすぎてはならない。なぜなら、もしそうするなら、あなたが自分の喜びに裏切られ、自分の希望が消え失せたことに気づくとき、あなたの失望は途方もないものとなるからである。そこにいる金持ちの人を見るがいい。その人は黄金を山と積み上げていた。だが今は、一か八かの冒険的事業によって、これまで所有したことのあるすべてよりも多くのものを持とうとしている。その人はそれをあすに当て込んでいる。手持ちのものはみなつぎこんでいる。では、想像上の富を誇っていたがために、その人の失望はいかなるものとなるだろうか? あそこにいる人が見えるだろうか? その人の大望は自分の家を興し、自分の名を不滅のものとし、自分の後継ぎを見ること――自分の喜び、自分のいのち、自分の満ち満ちた幸福――を見ることである。だが、一握りの灰と棺が、この涙にくれる父親に残されたすべてである。おゝ! もしその人が息子のいのちが確かなことを誇りすぎていなかったとしたら、あすがその子をなぎ倒した後で、また、それが自分の期待に取りつかせた枯れ病や白渋病の一切合切によって、それほど苦い涙を流すことはなかったであろう。また向こうにいる別の人を見るがいい。この人は有名人で、権力があるが、あすには中傷され、評判ががた落ちになり、その名声には恥辱が加えられる。おゝ! もしこの人がそれに自分の愛をかけていなかったとしたら、人々が「十字架につけろ」、と叫ぼうが、「ハレルヤ」、と叫ぼうが気にかけなかったであろう。そのどちらとも、無視していたであろう。しかし、名声の足場が砂の上に立っているのに、それを安定したものだと信じていたこの人は、あすを見込んでいた。そして、見るがいい。この人がいかに悲しげに地の上を歩んでいることか。なぜなら、あすがこの人に嘆きしかもたらさなかったからである。「あすのことを誇るな」。

 そして、私はあなたにもう1つの事実だけを思い出してほしい。それは非常に重要な事実だと思う。すなわち、非常にしばしば人々は、あすのことを誇り、自分があすも当然生きていると思っているとき、自ら大きな悲しみを引き継ぐだけでなく、他の人々にもそれを引き継がせるということである。私が説教するときには、しばしば、友人たちに、自分の遺書は確実に作っておくように、また家産を整理しておくように求めてきた。多くの厳粛な事例を思えば、あなたがそうすべきことは自明である。ある晩、ひとりの教役者が、その説教の途中でたまたまこう云ったという。すなわち、彼の信ずるところ、自分の家を整えておくことは、あらゆるキリスト者の義務であり、自分がいつ取り去られようとも、可能な限り、万事問題ないようにしておくべきだ、というのである。そこで、その場にいた彼の教会の会員のひとりは内心こう思った。「私の教役者の云ったことは正しい。私は、私の赤ん坊たちや妻が無一文になるのを見たくはないが、いま私が死んだとしたら、間違いなくそうなってしまうだろう」。それで彼は家に帰り、その夜のうちに遺書を書き、勘定書を精算した。そしてその夜、彼は死んだのである! その未亡人にとって、自分が何不自由ない状態に置かれており、すべてが彼女にとって不都合ないしかたで整えられていたことに気づいたことは、悲しみの最中にあってさえ、喜ばしいことであったに違いない。善良なるホイットフィールドは、こう云ったことがある。自分は、自分の手袋すら、しかるべき場所に置かれているとはっきりわかっていなければ、夜、寝床に入って横たわることができない、と。自分の家の中の何かが整えられていないまま死にたくはないからだ、と彼は云う。そして、私も、あらゆるキリスト者には非常に注意深くあってほしいと思う。ある日の生き方は、たとい次の日を決して見られないとしても、可能な限りのことをなし終えたと感じられるようなものであってほしい。自分にとって必要な備えをしておくだけでなく、自分の名前を受け継ぐ、自分の愛しい者たちのためにも備えをしていてほしいと思う。ことによると、あなたはこれを世俗的な教えにすぎないと云うかもしれない。結構。もしそれを実践しないとしたら、あなたは、この暗澹たる時代にあって、いつの日か、それがまるで天の教えででもあるかのように感じるであろう。「あすのことを誇るな」。

 II. しかしこれから私は、しばらくの間、これを霊的なしかたで詳しく述べていくことにしたい。「あすのことを誇るな」。おゝ! 私の愛する方々。決してあなたの魂の救いに関して、あすのことを誇ってはならない。

 第一のこととして、あすのことを誇る人々は、きょうよりも、あすの方が、悔い改めやすくなるだろうと考える。ペリクスは、より良いおりがあるだろうから、そのときにパウロをまた呼び出し、真剣にその話を聞くことにしようと云った[使24:25]。そして、多くの罪人たちも、今このとき立ち返って悔い改めるのは難しいが、やがて容易になるだろうと思っている。さて、これは嘘っぱちもいいところではないだろうか? まず第一に、罪人が神に立ち返るのが容易であったためしがあるだろうか? それは、いついかなるときであれ、天来の力によってなされなくてはならないのではないだろうか? さらにまた、もしそうすることが罪人にとっていま容易でないとしたら、いかにしてそれが後になってもっと容易になるだろうか? その人のもろもろの罪は、新たな枷を次々とその人の魂にかけ、その人が自分の鉄の束縛から脱出することは、いやまさって不可能になるではないだろうか? そして、あすが来たとき、その人がどこを向いたら、復活するのがずっと容易になっているだろうか? その人の魂はずっと腐敗したものとなっており、それゆえ、こうした云い方をしてよければ、よみがえらされる可能性からはるかに遠ざかっているではないだろうか? おゝ! 方々。あなたがたは、あす悔い改めることの方が自分には容易だと云う。ならば、なぜきょうであってはいけないのか? あなたがたは、そうしようとするなら、その困難に気づくであろう。しかり。この件における、あなた自身の無力さに気づくであろう。おそらくあなたは、後の日には悔い改めが自分の感情にとってもっと好ましいものになるだろうと夢見ているであろう。しかし、いかにしてあなたは、ほんの数時間でそれがずっと快いものなるなどと考えられるのだろうか? もしそれが今あなたの好みにとって酸いものであるとしたら、それは後になってもそうであろうし、もしあなたがたが今あなたのもろもろの罪を愛しているとしたら、そのときのあなたがたはそれをいやまさって愛しているであろう。というのも、習慣の力が、あなたの生き方を固めているだろうからである。あなたの人生の一瞬一瞬は、あなたの永遠の状態に新たな鋲を打ち込んでいるのである。私たちに見える限りにおいて、罪人がその鎖を――彼が犯す1つ1つの罪を――はじき飛ばす見込みは、(人間的な云い方をすれば)次第に少なくなって行くものである。というのも、習慣はその人をいやまして堅くその人の咎に縛りつけ、その人の不義はその人をつかむ力をいや増し加えるからである。ならば、あすには悔い改めることがずっと容易になるだろうなどと主張することによって、あすのことを誇らないよう用心しようではない。これはサタンの嘘の1つである。悔い改めはより困難になるほかないからである。

 また、あすのことを誇る人は、悔い改めて神に立ち返るための時間がたっぷりあると考える。おゝ! 多くの人はこう云っている。「いざ死ぬときが来たら、臨終の床に就いて、こう云うことにしますよ。『主よ。こんな罪人の私をあわれんでください』」。私は、ある年老いた教役者がしてくれた話を今でも覚えている。彼はある男にしばしば警告していたが、男は常にこう云うのだった。「先生。あっしは、まもなく死ぬってことになったら、『主よ。私をあわれんでください』、って云いまさあ。そうすりゃあ、他のみんなと同じに、あっしも天国に行けるって寸法でさあ」。ある夜、市場から帰ってきた彼は、かなり「へべれけ」に酔っており、馬の手綱さばきを間違えて、川にかかっていた橋の欄干をひょいと飛び越えさせてしまった。人々が聞いた彼の最後の言葉は、途方もなく恐ろしい呪い声であった。その川の底から、彼は死んで発見された。転落死したのである。あなたもそうなるかもしれない。あなたは、悔い改めるだけの余裕はあると思っている。だが、一瞬にして破滅があなたをむさぼり食らうかもしれない。あるいは、あなたがその会衆席に座っている間でさえ、あなたの最後の瞬間は底を尽きつつあるのかもしれない。そこにあなたの砂時計がある。見るがいい! その砂は落ちつつある。私は別の一粒をいま目にした。そして、また別の一粒が落ちた。それは全く音もなく落ちていったが、それが落ちた音が聞こえたような気がする。しかり! それそこにある! 時計のチクタクいう音は、あなたの砂時計からその一粒一粒が落ちていく音なのである。あなたがたすべてにとって、人生は一瞬ごとに短くなりつつある。だが、ある人々の場合、その砂はほとんど残っていない。一握りもない。ほんの数粒だけである。見るがいい。今やそれよりも少ない。二、三粒である。おゝ! 一瞬にして、こう云われるであろう。「残された粒は1つもない」。罪人よ! 無駄遣いできる時間があるなどと決して考えてはならない! 決してそのようなものはない。人間には決して余分な時間などない。神は、人々に向かってソドムを逃れるようお命じになるとき、「急げ」、と仰せになる[創19:22]。ロトは急がなくてはならなかった。そして、請け合ってもいいが、御霊が人の心の中でお語りになるとき、御霊は常に急ぐようにお命じになる。生まれながらの思いで罪を確信するとき、人々は非常に愚図愚図しがちであるが、神の御霊は、人の心の中でお語りになるとき、常に、「きょう」、と仰せられる。聖霊なる神が人をお取扱いになるとき、それは常に即座のお取扱いである。罪人は救い出されることをしゃにむに求める。その人はいま赦罪を得なくてはならない。現在のあわれみを得なくてはならない。さもないと、そのあわれみがやって来るのが自分には遅すぎることになりはしないかと恐れるのである。ならば、あなたに切に願わせてほしい。(そして、願わくは聖霊なる神が、私の懇願によってあなたに良い結果を得させてくださるように)。あなたがたひとりひとりに、このことを考えに入れるように、切に願わせてほしい。――すなわち、無駄に費やしてよい時間など全くなく、まだ時間に余裕はあるというあなたの思いは、サタンのほのめかしなのだ、と。というのも、御霊が人間に懇願するとき、御霊は即座に注意を払うよう懇願するからである。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」[ヘブ3:15]。

 「あすのことを誇るな」。おゝ、罪人よ。疑いもなく、あなたはそれをそれ以外のしかたでも誇っているであろう。今後は生き方を改めようと決心するということによって、「あすのことを誇るな」。私は、自分としては、もはや決心などしても無駄だと思っている。私の手元のある、そうした決心の残骸やくずの多さときたら、それを石にできたら大聖堂を建設できるほどである。おゝ! 私たちはみな、決心を破り、誓いを破ってきた! おゝ! 私たちは決心の城郭を建ててきた。途方もない大きさの大建造物で、そのあらゆる威光はバビロンそのものすらしのぐものである。ある人は云う。「私は、あすにはもっと良くなるでしょう。あれこれの悪徳と縁を絶つでしょう。この情欲と手を切るでしょう。あの最愛の罪を捨て去るでしょう。確かに、今はそうできません。――もう一眠りして、まどろみたいのです。でも、あすには、しゃんとするはずです」。愚か者! あなたは、あすを見られるかどうか知らないではないか。おゝ! さらに愚か者よ! あなたには、わかっていて当然ではないか。あなたが、きょうやりたくないと思うことは、あすになってもやりたくないであろうということが。私の信ずるところ、多くの魂は、決して実行に移されることのなかった良い意図によって失われてきた。誕生するや否や絞め殺されてきた数々の決心によって、人々は霊的な嬰児殺しの咎を負わされてきた。そして彼らは、口の中にあまたの決意をへばりつかせたまま、失われてきた。多くの人は、その口に良い決意を乗せ、その舌に敬虔な決意を上せたまま地獄に堕ちていった。おゝ! もしその人がもう一日生きていたとしたら、自分はその分良くなっていただろうにと、その人は云った。もしもう一週間生きていられたとしたら、おゝ、そのときには祈ることをし始めようと思った。あわれな魂! もしその人がもう一週間生き長らえたとしても、それよりも深い罪に沈み込むだけであったであろう! しかし、その人はそうは考えなかった。そして、自分の舌で最上の喜ぶべきことを転がしながら、地獄に行った。――すぐにも自分は良くなるのだ、自分はじきに行ないを改めるのだ、と。たぶんこの場にいる多くの方々は、良い決心を立てつつあるであろう。自分はまだ見習い職人である。よろしい。自分は一人前の職人になるまでは、それを実行することはすまい。自分は一人前の職人である。よろしい。自分は親方になるまではそれを実行することはできない。あなたは安息日を破り続けてきた。だが、状況が変わったら、それをやめるつもりをしている。あなたは悪態をつくのが習い性になっている。あなたは云う。「私は、この仲間たちの中から出て行くときには、悪態をつくまい。こいつらが私の癪に障るのだ」。あなたは、あれこれの小さな盗みを犯してきた。あすには、それと手を切るであろう。なぜなら、あすあなたの財産は十分になっているであろうし、盗みなどしなくともよくなるからである。しかし、この世のありとあらゆる嘘くさい事がらの中でも――また、人を欺きがちなものは数限りなくあるとしても――あす実行に移そうというような決意は、最悪のものである。私はそんなものの1つとして信用しはしない。それらの中には何1つあてにできるものがない。ひからびた葉っぱで大西洋に乗り出して、米国まで航海するという方が、決意に乗って天国まで浮かび上がるというよりもましである。

 それはこの世で最ももろいものであり、あらゆる状況に翻弄され、そのあらゆる尊い貨物とともに難破してしまう。――難破して、それに自分の魂をかけていた人を狼狽させる。――難破して、永久に難破したままとなる。用心するがいい。私の愛する方々。あなたがたの中のだれも、あすを当てにしないようにするがいい。私は、ジョナサン・エドワーズの力強く、だが厳粛な言葉を覚えている。彼は云う。「罪人よ。覚えておくがいい。あなたはいま現在、板一枚に立って地獄の口の上にあり、その板は腐っているのである。あなたは、ほんの綱一本で破滅の顎の上に吊り下げられており、そして見よ! その綱のより糸がきしみ音を立て――みちみちと断ち切れつつある。だのに、あなたは明日のことを語っているのである!」 もしあなたが病気だったとしたら、方々。あなたは医者をあす呼びにやるだろうか? もしあなたの家が火事になったら、「火事だ」、とあす呼ぶだろうか? もしあなたが帰宅途中で泥棒に遭ったとしたら、「つかまえてくれ、泥棒だ!」、とあす叫ぶだろうか? 否。確かにそうではあるまい。むしろあなたは、普通の関心事においては、それよりも賢いはずである。しかし、人間は、自分の魂に関わることとなると愚かである。おゝ! あまりにも愚かである。それは天来の無限の愛がその人に自分の日を数えることを教え、その人が自分の心を真の知恵に向けるまでは変わらない。その人はなおもあすのことを誇りながら進み続け、その魂はあすによって滅ぼされるに至るであろう。

 神の子どもに対して、一言だけ助言しよう。あゝ! 私の愛する兄弟姉妹。私は切に願う。あなたも、あすのことを誇ってはならない。ダビデは一度そうしたことがある。彼は云った。「私の山は堅く立っている。私は決してゆるがされない」*[詩30:6-7]。あなたのあすのことを誇ってはならない。あなたは自分の巣をこぎれいに羽毛で覆った。左様。だが、あなたは日が沈む前に、その中にとげを有することになるかもしれず、高く飛び上がる方をはるかに喜ぶであろう。あなたは非常に幸せで、喜ばしげにしている。だが、あなたがいま有しているのと同じだけの信仰を常に有しているだろうと確信してはならない。次に空をかけて来る雲が、あなたの喜びの多くを追い散らすかもしれない。これまで守られてきたのだから、あすも罪から保たれることは確実だと云ってはならない。あすのことについて用心するがいい。多くのキリスト者は、全く何の考えもなしに転がり続けている。そして、突如ばたっと倒れ伏すと、自分の信仰告白に大きなみそをつけるのである。もし、そうした人々が、あすのことに気をつけていさえしていたならば、――もし、うっとり夢想にふけったり、それについて誇ったりする代わりに、自分の通り道に警戒していさえしたならば、その足どりははるかに確かなものとなっていたであろう。確かに神の子どもは、自分の魂の永遠の安泰さについて、あすのことを思う必要はない。というのも、それはキリストの御手のうちにあり、永遠に心配はいらないからである。だが、自分の信仰告白や、慰めや、幸福に関する限り、自分の足どりに日々用心するのはしごく適切なことである。誇ってはならない。もしあすのことを誇っているとしたら、知っての通り、主は決まって、私たちが自分の高慢を置くところに潰瘍を生じさせなさる。そして、もしあなたがあすのことを誇るとしたら、じきにそのあすには虫食いが発生するであろう。私たちが自分の富を誇れば確実にそれは腐食し始めるか、羽をつけて飛んでいってしまう。そして、私たちがあすのことを誇れば間違いなく、ヨナのとうごまのように虫がその根っこをかじり、私たちがその陰の下で休んでいたあすは葉をたらし、私たちの失望の記念碑として立しかなくなるであろう。用心しようではないか。キリスト者の兄弟たち。あすの望みによって、現在のときを浪費しないようにしよう。――いかに確実きわまりない未来を想像できるとしても、それを誇ることによって高慢になったり、油断したりしないようにしよう。

 III. さていま、最後のこととして、もしあすを誇りとすべきでないとしたら、あすは何の役にも立たないのだろうか? 否。神はほむべきかな! あすについて私たちに行なえることは、非常に多い。私たちはあすのことを誇ってはならないが、私たちが神の子どもたちであれば、あすについてしてよいことがある。私たちはそれをあなたに告げたいと思う。私たちは常に、忍耐と確信をもってあすを待ち望んでよい。あすが、ともに働いて私たちの益となるだろうと考えてよい。私たちは、あすについてこう云えよう。「私は、あすのことを誇りはしないが、恐れてもいない。それを自慢しようとは思わないが、脅えてもいない」。

   「わが行く末の 果ては知らねど
    いかにあるとも われ悩まさず。
    かくてわが魂(たま) 安らぎを受く。
    わが主の定め 上もなければ」。

私たちは、あすについて、ごく気楽に構え、全くくつろいでいられる。私たちは、自分の時がすべて主の御手の中にあること、すべての出来事は主の自由になること、そして、たしい摂理の通り道のすべての紆余曲折が自分にはわからなくとも、主はそれをことごとくご存じであることを思い出せる。それらはみな、主の書の中で確定しており、私たちの時はみな主の知恵によって整えられている。たとい、それが、

   「憂(う)きと悩みの 時であれ
    勝利(かち)て救わる 時であれ
    誘惑(いざな)う者の 強がる時も
    救いのきみの 愛知る時も
    すべては来たり、とどまりて、やまん、
    天(あま)つ御父の よしと見るまま」。

それゆえ、私たちはあすを、時間という金塊の地金であるかのように眺めることができる。それは、鋳造されては日々の出費に用立てられるものであって、私たちはそのすべてについてこう云えよう。「これらはみな黄金なのだ。やがてはみな《王》の刻印が押されることになるのだ。それゆえ、それらに来させようではないか。それらは私たちを悪い方向に至らせはしない。――それらは、ともに働いて私の益となるのだ」。

 しかり。それに加えてキリスト者は、自分のあすを、単に諦めの念をもってではなく、喜びをも覚えながら、正しく待ち望むことができる。あすは、キリスト者にとって、幸いなものである。それは、栄光へと一段近づくことである。あす! それは、信仰者にとっては天国へ一歩近づくことであり、その人が人生という荒海をさらにもう一海里航海してきたということであり、その人は自分の永遠の港――至福に富む自分の天国――へといよいよ近づいているのである。あす、それは、成就した約束という新鮮なともしびであって、神がその天空に置かれたもの、未来に浮かぶ導きの星として、あるいは少なくとも、自分の通り道を元気づけるあかりとして、キリスト者が大いに喜び迎えてよいものである。あす、キリスト者はそれを喜ぶことができる。きょうについては、キリスト者はこう云える。「おゝ、きょうよ。お前は黒いかもしれない。だが、私はお前にさらばと云おう。というのも、見よ。私にはあすが来るのが見えるのだ。そして、私はその翼に乗って飛び去り、お前とお前の悲しみをはるか遠くに置き去りにするのだ」。

 そしてさらに、キリスト者はあすを、単純な希望や喜びさえ越えたものをもって待つことができる。その人はあすを、ある程度までは恍惚の念とともに待ち望むことができる。というのも、あすには自分の主がやって来られるかもしれないと知っているからである。あす、キリストはこの地上においでになるかもしれない。「なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから」[マタ24:44]。あす、千年期に伴うあらゆる光輝の栄光が明らかになるかもしれない。あす、審きの座が設けられ、《王》がその民を審きへと召還なさるかもしれない。あす、私たちは天国にいるかもしれない。あす、私たちはキリストの御胸に抱かれているかもしれない。あす、――左様、それ以前にすら――この頭は冠を戴き、この手はしゅろの葉を振り、この口は賛歌を歌い、この足は黄金の通りを踏みしめ、この心臓は不滅で、永遠で、とこしえの至福に満ちあふれているかもしれない。元気を出すがいい。おゝ、同胞たるキリスト者よ。あすは、あなたにとって何の暗黒も含んでいないことがありえる。というのも、それはあなたの益のために働くほかないからである。むしろ、その中には、貴重な貴重な宝石が含まれているかもしれない。それは土製の水差しであり、その中には何か暗く濁った水が入っているかもしれない。だが、その苦味は十字架によって取り去られている。しかし、ことによると、それはその中に永遠の貴重な宝石を含んでいるかもしれない。というのも、あすの内側には、不滅のあらゆる栄光が包まれているかもしれないからである。あなたは、巡り来る一日一日を期待しては、新鮮な歓喜の油を自分の頭に注ぐがいい。あすのことを誇ってはならないが、しばしばあすによって自分を慰めるがいい。あなたにはそうする権利がある。あなたにとって、それは悪しきあすではありえない。それはあなたの人生最上の日かもしれない。というのも、それがあなたの最後の日かもしれないからである。

 だがしかし、もう1つ助言がある。あすは、キリスト者たちによって、先見の明に反さない形でとらえられるべきである。私たちは、あすのことを誇ることは許されないが、あすのための備えをすることはあって良い。ある折に私は、とある共済会のための支援を訴えたことがある。そして、これよりも適切な聖句を知らなかったために、私はこの聖句を選んだ。「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」[マタ6:34]。私の話を聞いていた人々の中には、私がその日の聖句を読み上げたとき、その趣旨は保険制度だの将来への備えだのにとって、全く対立するものではないかと心配した人々がいた。だが私は彼らに、よく見ればそれが決してそうではないと示した。、これは私たちが、あすについて決して不安な思いをいだくべきではない、という積極的な命令である。さて、いかにして私はそうできるだろうか? いかにして私は、あすのための心配をしないというこの命令を実行できるような状態に自らを持っていけるだろうか! かりに私が実生活で苦闘している人であって、後々、自分の妻子の面倒を見てくれるだろうような何かに保険をかける力を有していながら、そうしないとしたら、あなたは私に向かって未来永劫、あすのための心配は無用だという説教を行なってくれてかまわない。だが私は、自分のそばにいる愛する者らのための備えが全くなされていないのを見るとき、そうせずにはいられないのである。神のことばで心配は無用と云われても、私はその命令を実行することはできなかったであろう。何らかの折には、やはりあすのための心配をしてしまうであろう。しかし、もし私が、現存する多くの厚生制度の中でも、特にすぐれたものの1つの所に行って、そこでは万事が備えられられていることを見るとき、私は家に帰って云うであろう。「さあ、私は、あすのための心配をしないという、キリストのこの命令をいかに実行すべきかがわかったぞ。私は一年に一度、共済会費を支払うことにしよう、後はそれについて何も考えないことにしよう。もうあれこれ考える必要はないし、まさにキリストの命令の霊にも文字にも従っているのだから」。私たちの主は、私たちが思い煩いを取り除くべきであると云われたのであり、今や明らかに、こうした苦悩のもととなる思い煩いは取り除かれている。そして私たちは、単にそのようにするだけで、心配から離れて生きることができるのである。

 さて、もしそうだとしたら、――もし私たちにキリストの命令を実行に移せるようにできるものが何かあるとしたら、そのことを行なうことこそ、この命令の真髄ではないだろうか? もし神が賢明な人々の心の中に、自分たちの種族の不幸を何らかのしかたで改善し、神の摂理によって彼らが受ける苦悩や不慮の災難を軽減するものを編み出そうとする考えを起こしてくださったとしたら、その知恵を利用するということが私たちの義務とならないはずがあるだろうか? その知恵は、疑いもなく神が人々に授けたものなのである。それによって私たちは、この時代の中にあって、この「あすのための心配は無用です」、という箇所の意味を、完全に実行に移すことができるのである。何と、もしある人が、「私はあすのための心配など何もしません。私は単に自分の持っているものを洗いざらい使うだけで、あすどうなるかなどということについては何もしませんし、何も考えません」、と云うとしたら、その人はいかにして自分の家賃を払おうというのだろうか? 何と、この聖句は、もしある人々が考えているようなことを意味しているとしたら、実行に移すことはできなかったであろう。それは、私たちが日に日に無頓着に暮らすべきだということを意味していたはずはない。さもなければ、人は自分の持ち金全部を月曜日に使い尽くし、その週の残りには何も残されていないことになるであろう。だがそれは純然たる愚行である。この箇所の意味は、私たちが、あすについて、決して不安に満ちた、苦悩を招くような思いをいだくべきではない、ということである。私は共済会について説教している。私はそれらの多くを推賞しようとは思わないし、それらの半分が有している根本方針を良いものだとも思わない。私の信ずるところ、それらが居酒屋や一杯飲み屋で集めているものは、非常に大きな害を及ぼしている。だが、キリスト教主義の共済会があるところ、いずこにおいても私は、それが健全な発展をするよう努力しなくてはならない。というのも私は、その根本方針を、キリストのこの命令を実行に移すための最上の手段とみなすからである。「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」。さて私に、この《養老院》をあなたの惜しみない寛大な心に対して推薦させてほしい。これは、順境にあって注意深くある人々が、逆境に陥ったときに頼れる隠れ家となるものである。これは、《共済会》の会員が年老いたときの閑静な隠遁所であり、こうお知らせするのは残念なことだが、その多くの部屋は空室となっているのである。それも申し込み者が欠けているためではなく、基金の不足からなのである。これほど多くの公共財産が利用されないままになっているというのは遺憾なことである。ならば、その管財人を助けて、その持ち家を用いさせるがいい。

 そして今、しめくくりにあたって、キリスト者の方々には、こう思い起こさせてほしい。すなわち、キリスト者には、あすのための救いや、恵みや、支えや、約束を備えるべき必要はない、ということである。しかり。愛する方々。だが私たちはしばしば、そうしなくてはならないかのような口のきき方をしている。私たちは云う。「いかにして私はこれこれの試練に持ちこたえられるでしょうか?」 「労苦はその日その日に、十分あります」[マタ6:34]。あなたは、きょうの恵みのことを、あたかもそれがあすのために十分であるかのように誇ってはならない。しかし、不安になる必要はない。あすの困難とともに、あすの助けもあるであろう。あすの敵とともに、あすの友もいるであろう。あすの危険とともに、あすの守りもあるであろう。ならば、霊的な事がらにおいては何の備えもしなくてよいものとして、あすを待ち望もうではないか。というのも、贖いは完成しており、契約は批准されており、それゆえ、あらゆる約束は成就されるはずのもの、私たちにとって「しかりであり、アーメン」*[IIコリ1:20]であるものとなっているからである。単に一日だけのあすにおいてばかりでなく、五万日ものあすにおいてそうなのである。もしそれほど多くのあすが私たちの頭上を過ぎ行くとしてだが。

 さて、ここでこの聖句の言葉をもう一度だけ、非常に厳粛かつ真剣に口にさせてほしい。おゝ、凛々しい力に満ちた青年たち! おゝ、麗しく若やいだおとめたち! 「あすのことを誇るな」。すぐにも、あなたがたの頬をうじがむさぼることになるかもしれない。おゝ、骨の髄から力に満ちた精力旺盛な人たち! おゝ、あなたがた、真鍮の神経と、鋼鉄の腱を有する強壮な人たち! 「あすのことを誇るな」。「もみの木よ。泣きわめけ」。これまでも、何本もの杉の木が倒れてきたからだ[ゼカ11:2]。あなたは自分のことを大したものだと思っているが、神はあなたを引き倒すことがおできになる。何にもまして、あなたがた、白髪の方々。「あすのことを誇るな」。あなたがた、片足を底知れぬ永遠の淵の上にぶらさげながら、もう片足を時間の縁でふらつかせている人たち! 私は切に願う。あなたがたがあすのことを誇ってはならない。実のところ、私の強く信ずるところ、白髪の人々はこの点において、ほんの子どもたちよりも、大して賢いわけではない。私はある人の物語を読んだことを思い出す。その人は、そばにある隣人の畑を買いたがっていた。そこで隣人のところに行き、それを売ってくれないかと頼んだが、相手は、「いいや、売るつもりはないね」、と云った。それで彼は家に帰って、こう云った。「まあいいさ。百姓何某は老人だ。やつが死んだら、わしが買うことにしよう」。この男は七十歳であり、その隣人は六十八歳だったが、彼は自分よりも相手の方が確実に早く死ぬと思っていたのである。人は往々にしてそう考えるものである。人は、自分の墓の上を闊歩するような計画を立てては、その頃には無感覚になっている。風がじきに彼らの墓を覆う草地を唸り抜けていくが、彼らはそのむせび声を聞くことはない。「きょう」を大事にするがいい。未来という望遠鏡をのぞくのではなく、きょうの事がらを見つめるがいい。「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ」。

 

あす[了]



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