HOME | TOP | 目次

得と損

NO. 92

----

----

1856年7月6日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「人は、たとい全世界を得ても、魂を損じたら、何の得がありましょう」。――マコ8:36 <英欽定訳>


 多くの人々が破産の憂き目に遭うのは、自分の帳簿に注意を払わないためである。費用を計算し、支出を把握し、借方と貸方をきちんと管理していさえすれば、損失をこうむることなど決してない。だが多くの人々は、一攫千金を夢見ては無謀な企てに手を出し、本業をないがしろにし、さらに自分の真の経済状態を全くわきまえないでいるがために零落してきた。さて霊的な意味で人間は、大手の商売人のようなものである。――彼は自らの幸福のために商売をしている。現世のためにも永遠のためにも商売をしている。彼は2つの商店を経営している。一方の店は、彼の奉公人の中のひとりで、粗雑で不体裁な者にまかされている。この雇い人は、土くれと同じ性質をしており、からだと呼ばれている。もう一方の仕事は、それよりも無限に重要なものであって、「たましい」と呼ばれる者にまかされている。これは霊的な存在であって、こまごまとした商売をするよりも、むしろ地獄や天国を扱い、永遠という偉大な現実と取引をしている。さて、ある商人が、自分の小さく粗末な小売店の方に一心不乱の注意を傾けながら、もう一方の巨大店舗の方はまるで無視しているという場合、それは実に浅はかなことであろう。そして実際、自分の個人的な家計の支出計算については逐一書き留めておきながら、自分が責任を持っている何らかの大事業の費用を勘定することは全く考えもしないという人は、まさに怠慢としか云いようがないであろう。しかし、ほとんどの人々は全くそれと同じくらい馬鹿げたことをしているのである。――彼らは、からだと呼ばれるちっぽけな小売り店からあがる利得(と彼らが考えるもの)の見積もりは計算しても、永遠という、魂が関わっている大きな問題をないがしろにすることでもたらされる、すさまじい損失を計上することはめったにない。兄弟たち。ぜひ切に願わせてほしい。むろんあなたは、からだについて無頓着ではないし、これは実際そうあってしかるべきことである。特に信仰者の場合、それは聖霊の宮だからである[Iコリ6:19]。だが、その一方で、自分の魂に対しては、格段に細やかな注意を払ってほしい。家屋を飾るのもいいが、住人を餓死させてはならない。船上の備蓄が欠乏しているために乗組員が倒れつつあるというときに、せっせと船体を塗装しているようなことがあってはならない。からだと同じくらい、魂にも気を遣うがいい。生きるための手段と同じくらい、いのちにも気を遣うがいい。おゝ、人々が魂に関わる大いなる事がらを考慮に入れ、神の前における自らの立場を悟るようになるとしたら、どんなによいことか。おゝ、願わくは、あなたがたが自らを吟味する者となるように。もし人々がそのようにしようとしたら――、もしあなたがた全員がいま内側を探るとしたら、あなたがたの中のどれほどの人々が破産者となるだろうか? あなたは、からだに関しては、ちょっとした財産を作ってはいる。それなりにうまく安楽にやってはいる。不自由なく自分を養ってはいる。ことによると、あなたの死すべきからだは、ほしいままに甘やかされていて、その持ち主からすれば非の打ち所がないものかもしれない。だが、あなたのあわれな魂に向かって、調子はどうかと尋ねてみるがいい。残念ながら多くの場合あなたは、それが得をしておらず、損をしていることに気づくのではないかと思う。ここで厳粛に告げさせてほしい。もしあなたの魂が損をしているとしたら、いかにあなたのからだが得をしていても、あなた自身はこれっぽっちも得をしていないのである。イエス・キリストの御名により、あなたがた全員にこう尋ねさせてほしい。「人は、たとい全世界を得ても、魂を損じたら、何の得がありましょう」 <英欽定訳>。

 私たちは、本日の聖句をいくつかに分割して考察したい。第一に、人が全世界を得た場合、いかなる得を手にするか。第二に、人がその魂を損じるとしたら、いかに恐るべき損失をこうむるか。そして、その後のしめくくりとして、いくつかの実際的な教訓を考えたい。

 I. 第一のこととして、《人が全世界を得た場合、いかなる得を手にするか》。常識通りのことを語らない多くのキリスト者たちは、この件について、要するに、全世界を手に入れても何の得にもならない、と云う。ことによると、彼らが正しいのかもしれないが、私は、果たして彼らが自分の主張していることを信じているのかどうか疑問に感ずる。彼らは、いましがた私たちが歌ったように、こう歌う。――

   「汝れに宝石(たから)は 華美なる玩具
    黄金(こがね)は卑しき ちりひじならん」。

確かに、キリストにくらべれば、宝石も黄金もそのようなものであろう。だが一部の人々は、必要もなくこの世の物事に、愚かしい難癖をつけては、宝石を「華美な玩具」、黄金を「卑しきちりひじ」と呼んでいるのである。私はしばしば、友人たちが黄金のことを卑しきちりひじと語るのを聞いては、彼らを賞賛してきた。というのも私は、なぜ彼らは次にそれを見いだしたとき、それをくず屋に払い下げないのか不思議に思うからである。もし彼らがそういうことをするとしたら、私は二度と寄付を求めて回ろうとは思わないであろう。特に私たちには、《いと高き方》への幕屋を建てるために、そうした卑しきちりひじが多少とも必要であるのを見るにつけ、そうしてくれた方がむしろ好都合である。富を軽蔑するふりをしている多くの人々は、だれにもまして富をひそかにため込んでいる人々である。思うに彼らは、富が他の人々の心に害を及ぼすのを心配するあまり、他人がこの危険なしろものに触れることがないよう、それを一所懸命に蓄え込むのであろう。それは非常に親切な行ないかもしれない。だが、彼らの善意は、私たちにはあまりはっきり見分けられないし、私たちは、もしも彼らが時おりその富を分配してくれるとしたら、それと同じくらい親切なことだと考えるであろう。聞くと彼らは、非常にしばしば、「金銭こそあらゆる悪の根だ」、と云っている。さて私は、その聖句を見いだしたいと思う。しかし、創世記から黙示録まで探しても、どこにも見当たらないのである。次のような云う聖句を見つけたことはある。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです」[Iテモ6:10]。だが、金銭そのものについて云えば、私は、そこにはほんど悪はないように思える。もし人がそれを正しく用いようとするなら、私はそれは天からの賜物だと思う。聖なる目的のために神から授けられたものだと思う。そして、確かに神の賜物は悪いものではないに違いない。私の兄弟たち。人がこうした事がらを全然顧みないと云うのは、みな、もったいぶった偽善の文句にすぎない。なぜなら、だれしも多少は顧みているからである。だれでも、多少はこの世のものをほしがっている。そして、この世でちょっとした小金を有していることには、実際のところ、相当に得な部分がある。私は、そうしたあらゆる利得を打ち消したり、あらゆる点であなたが損をしていると云ったりして、あなたをだまそうとは思わない。しかり。私は、この世の得ということに関しては、あなたの中のいかなる人にも劣らず、それが相当なものであるとするにやぶさかではない。それが大きなものであることを私は認める。もしあなたが、この世を用いて何か素晴らしいことを行なうことは可能だと考えるとしたら、私もそう納得してもよい。だが、それを認めた上で、私はあなたに問うであろう。「人は、たとい全世界を得ても、魂を損じたら、何の得がありましょう」?

 さて私は、できるものなら、あなたに代わって、あなたの勘定書を計算し、損益をはじき出してみようと思う。私たちが想定する場合は、しごくまれにしか起こりえないこと、事実、いまだかつて起こったことがないような場合であろう。全世界を得た人は、これまでひとりもいない。ある者たちは、人に知られた地上のほぼすべてを治める王侯であった。だが古代世界の地図を眺めるとき、世界全体とくらべた場合の彼らの版図がいかに小さなものであるかは驚くほどである。実際、現代の王侯たちの版図よりもさほど大きくはないのである。古代人に知られていた世界は、ごく僅かな部分でしかなかった。そして、その当時でさえ、だれひとり、そのすべてを所有してはいなかったのである。しかし、この問題を可能な限りありうべき見方にするとしたら、私は、人がある程度の限定つきで、全世界を得たと云われうる3つか4つの場合があると思う。

 1. 第一のこととして、広大な帝国を治める権力を得ている人は、ある程度までは、全世界を得たと考えられてよいであろう。例えば、《アレクサンドロス》を取り上げてみるがいい。全世界を所有していた人物として、彼ほど見事な実例を指し示すことはできない。彼は自分の領土について、こう云うことができた。すなわち、それには限りがないわけではないが、その版図をせばめられるような国を自分は一国たりとも知らない、と。彼は、何千哩もの間、国境に達することなく旅することができた。彼の足下には、何百万もの武装兵がおり、いつなりとも主君の反目相手に復讐し、その旗印を掲げようとしていた。戦いに立ち上がるとき、彼は無敵であった。評定の間に着座するとき、彼の意志は法となった。彼の軍役に服することで何千もの人間が殺されたが、彼が召還すれば、同じ数の人間がその軍旗のもとに結集した。アレクサンドロスよ、私はあなたを呼び出そう! あなたはどう考えているのか? 世界を得ることは大いに価値あることだろうか? その王笏は、幸福をかなえる魔法の杖だろうか? その王冠は、喜びを確保するだろうか? 見よ、アレクサンドロスの涙を! 彼は泣いている! しかり。彼は征服すべき次の世界がないからといって泣いている! 野望は飽くことを知らない。全世界を得ても十分ではない。確かに、絶対的な王侯となることは、人の自我を絶対的にみじめにすることに違いない。

 ことによると、あなたは、権力を手にすることには非常に大きな快楽があると思うかもしれない。私もそう信ずる。少しでも自分の同胞たる人間たちに対して権力を振るえる場合、それが人の堕落した性質を満足させるものであることは、だれしも否定しないだろうと思う。さもなければ、なぜ政治家たちは不断に権力を求め、日に夜をついで権力を得ようと苦闘し、深夜の議論で精力をすり減らしているのだろうか? 権力には快楽がある。しかし、よく聞くがいい。その快楽は、その不安によって相殺されるのである。人気はその頭を雲々の中に突っ込んでいるが、その足は砂上にある。そして、ある人の頭が星々の間にあるときも、その足は震えているのである。自分の権力を増し加えること、あるいは、それを保つことには不安が伴う。そして、その不安は、その権力の楽しみをあらかた奪ってしまう。ベーコン卿は、正しくも、いや高い身分にのし上がろうとしている人々をこうたとえている。彼らは、天空にある一部の天体のように、人々の賞賛は集めはしても、ほとんどじっとしていることがない、と。そして賢明な人であれば自ら体験しなくとも確信する通り、権力とは、見る者を輝きで眩惑する黄金で飾りたてられてはいても、身につけた者にはその重みでのしかかるものなのである。真実私の信ずるところ、権力の世界をことごとくかちとることは、それ自体ではほとんど得にはならず、収支決算してみれば、残るものはほとんどないと云って差し支えないであろう。というのも、アレクサンドロスその人でさえ、あばら屋に住む農民をうらやみ、金銀で囲まれた自分の宮殿の中よりは、野原の羊飼いたちの方にずっと多くの幸福があると考えたからである。おゝ! 愛する方々。もしもこれらすべてと魂の損失とをくらべるとしたら、実際あなたは驚愕するであろう。しかし私は、それが自らの収支を決算するにまかせよう。私は云う。全世界を得ることは、大したことではない、特に私たちが神に逆らう罪人である場合にそうである、と。そしてさらに、もし世界を治める帝国に、その恐るべき責任が伴うとしたら――、もしそこに、目にも眠ることを許さず、心臓にもその鼓動を停止することを許さない責任が伴うとしたら――、もしそれが、幾多の巨大な犯罪を犯せる力を手に握らせるとしたら――、また、もしそうした巨大な犯罪が亡霊のように人々の真夜中の眠りにつきまとうとしたら、全世界を治める権力を得ることも、それ自体として考えられたときでさえ、得ではなく損である。

 2. 全世界を得る方法がもう1つある。権力によってではなく、そのすぐ隣にあるもの、すなわち――によってである。ここで、私の見本となるのは《クロイソス》である。彼は富という世界を寄せ集めた。というのも、彼の財産は計り知れなかったである。彼の金や銀について云えば、彼はそれを勘定することもせず、彼の宝石類は数に限りがなかった。彼は富んでいた。莫大な富を有していた。1つの帝国を買うことができ、その後で、もう1つの帝国を買うために出費することができた。ことによると、あなたは、途方もなく富んでいることは、非常に大きな得だと考えるかもしれない。だが、私の信ずるところ、巨富を手にすること自体は、到底望ましいことではない。クロイソスに訊いてみるがいい。死に臨んで彼は、「おゝ! ソロンよ、ソロンよ」、と叫んだ。何のことかと尋ねられた彼が答えたところ、かつてソロンは彼に、死に至るまではだれも幸福であると宣言されることはできない、と告げたことがあったという。それゆえ彼は、「おゝ! ソロンよ、ソロンよ」、と叫んだのである。彼の死のみじめさは、彼の生の喜びを一掃していたからである。このように、莫大な富は人を奴隷とし、不安に駆り立て、あまりにもしばしば、その財によって欲深な貪欲を生み出すため、富者はしばしば、魂の損失を計算に入れるまでもなく、その財によって損をしているのである。多くの人は、襤褸をまとったまま歩道を歩いていても、四輪軽馬車に乗って街路を走っている人よりは幸福であろう。「多くの重苦しい心が馬車の中にはある」、と古い諺にいうが、これは驚くほど真実である。いみじくも詩人はこう云っている。

   「もし富あらば 汝れは貧なり。
    金塊(こがね)に背たわむ 驢馬のごと、
    汝れ富を負い 旅を行くのみ、
    死にて身軽に なる日まで」。

かりに、ある人の財が不正直な手段で得られたものであった場合、私は断言する。それは、その人にとって恐るべき呪いとならざるをえない、と。それは、来世のことを考えずとも、それ自体で罰である。愛する方々。その黄金をあなたがいかほどの値に見積もろうとも、もしあなたが反対側に魂を負債として記載しなくてはならないとしたら、あなたはそこに恐るべき損失が生ずることに気づくであろう。しかし、それを抜きにしてさえ、私の信ずるところ、富という世界を得ることは、少なくともほとんどの人にとって、それ自体で損失であろう。生きている人間のうち、これほど海草のからみあった海面を越えて、快楽という端艇の舵をとることのできる人はほとんどいないであろう。人は持てるものが少なければ少ないほど良い。そのようにしてこそ、万人が望む中程度の資産に至るのである。このアグルの言葉は至言である。「貧しさも富も私に与えないでください」*[箴30:8]。莫大な財は確かに大きな得ではない。

 3. しかし、別の人は、より高尚な意味で世界を得てきた。彼の名はソロモンである。彼の宝は、財産や権力というよりも(その双方を彼は得ていたが)、知恵と肉体的快楽という宝であった。ソロモンには、精神を楽しませ、目を喜ばせ、からだを魅惑するあらゆるものがあった。彼が一言語るだけで、イスラエルにおける聖詩詠唱の粋を尽くした音楽が甘やかな調子で唄われた。指を一本あげるだけで、貴人が群れをなして彼につき従い、彼の足元に幾多の財宝を広げた。あらゆる作柄の葡萄酒が彼の大杯から飲み干され、あらゆる土地から集まった乙女たちが彼の命令を待っていた。彼は人々を治める主人であった。――主であった。彼は、ありとあらゆる種類の楽しみ、あらゆる類の快楽を満喫した。彼は、肉が楽園と呼ぶあらゆるもの、人々が幸福について思い描くあらゆるものを自分の杯の中で混ぜ合わせた。ソロモンが試みなかったことは何1つなかった。彼は喜びを見いだすために世界をくまなく探し回った。彼は賢者であった。どこを捜せば地上の幸福が手に入るか知っており、それを見いだした。ソロモンよ、あなたは何を見つけただろうか? おゝ! 伝道者よ、あなたの口を開き、私たちに告げるがいい。「空の空。すべては空」、と伝道者は云う[伝1:2]。おゝ! 愛する方々。もし私たちが、自分の願うあらゆる肉の楽しみを得られたとしても、果たしてそれがそれ自体で得となるか私は疑わしいと思う。だが、このことだけは確かである。私たちの魂を損ずることにくらべれば、実際それは恐るべき損である、と。私が思うに、もし私たちの中の多くの者らが自分の願うあらゆる肉体的快楽にふけることができたとしたら、自分のからだをこわし、実は幸福を損なってしまうであろう。多くの人は、自分の楽しみをあまりにも急いで捜したがために、それを獲得できなかった。多くの競走者は、無理をしすぎて賞を失ってきた。そして、多くの人は、楽しみを求める際に、もっと度を越さないようにしていたなら、その肉体にとってさえ、ずっと大きな楽しみを得られたはずである。1ポンドの牛酪を自分の手であぶる者は馬鹿である。串を使えばいいことである。人は性急に快楽を求めることによって、自分を焼き焦がし、自らを損なっては、いのちをなくしてしまう。そこには何も残らない。あゝ! もしあなたがたが官能の楽しみという世界のすべてを得ることができたとしたも、また、もしあなたがたが人間のあらゆる知恵を得たとしたも、あなたの楽しみを抑制する神の恵みがなければ、私の信ずるところ、あなたはそれが丸損であることに気づくであろう。そして私は、この聖句の言葉を確言するであろう。「人は、たとい全世界を得ても、魂を損じたら、何の得がありましょう」。

 見ての通り、この世においてすらこうした大きな勝利は、大した得ではない。それらは、はたから眺める分には大いなるものだが、いざ手中にすると非常にちっぽけである。この世界は、男の子が追いかける蝶々のようなものである。――それを追うのは非常な楽しみだが、やにわに熱心につかんで、その羽根を傷つけてしまうと、失望のほか何でもなくなる。

 しかし、愛する方々。私がここまで極端な事例をあげて述べてきたような莫大なものを獲得してもこの世では大した得にならないという場合、――もし人がこの世を得ることなく、その魂を損ずるとしたらどうであろうか? この問いを次のような形にしてみよう。――人は、もしも現世を得られず、来世をも得られなかったとしたら、何の得があるだろうか? 人は、もしも現世のごく小さな部分しか得られなかったとして――また、それこそ私たちにせいぜい望める分限であるが――、その上で、自分の魂を損じたとしたら、何の得があるだろうか? 私は富んでいる人について、時々こう考えることがある。「よろしい。ああした人は、それなりのものを現世で得ている。だが、もし貧しい人が、死ぬときに待望できる良いものを全く有していないとしたら、何がその人を幸福にできるか見当もつかない」。私は、くたくたに疲れ切った、がさがさの手をした、骨折り仕事をする人々、しばしば主人から虐げられ、踏みつけにされている人々を目にしてきた。そして私は思った。「おゝ! あわれな魂たち。もしあなたが来世を見上げることができないとしたら、あなたは、すべての人の中で一番哀れな者だ。というのも、あなたにはどちらの世も手に入らないからだ。あなたは荷馬のように懸命に働き続けるが、最後になれば安息を得られる確かな場所に至る希望が何もない」。富者は、少なくともこの世を最大限に利用してはいる。恵みから離れては、大した得ではないとはいえ、そうしている。だが、貧者は、この世から得るものがほとんどない。やがてその人は貧困の中から断罪へ、その不潔さから破滅へ、その貧窮院と襤褸から地獄の炎へと至る。このような生き方の何とぞっとさせられる状態であることか。この世では悲惨の人生を送り、飢えとともに生き続けたあげくに、それが実は、いやまさって陰惨な、恐るべき来世の生への前置きであり序曲でしかなかったことに気づくとは。おゝ、もしあなたがこの世から少ししか得るものがなく、あなたの魂を損じるとしたら、何の得があるだろうか?

 さて、私が集計してきたのは、現世に関する勘定だけでしかない。だが、人は、死に至ったとき、もし全世界を得ても、自分の魂を損じているとしたら、何の得があるだろうか? そこに彼は横たわって臨終を迎えている。彼は、自分の慰めとなるいかなる神も有していない。彼のもとに、彼の山なす黄金を持っていくがいい。何と! それはあなたの心臓の動悸を静めないのだろうか? 何と! あなたの金の袋では、あなたにヨルダン川を越えさせることができないのだろうか? 何と、人よ! あなたは自分の「きらめき光る財」の山のために生きてきた。それが、あなたとともに生きはしないというのか? あなたはそれらをかかえて天国に行かないというのだろうか? しかり。その人は頭を振る。いくら財産を貯め込んでも、死に臨んだ人の助けにはほとんどならない。あなたも、ある船乗りのことを聞いたことがあるであろう。船が沈没しつつあるとき、彼はまっしぐらに船室に行き、船長の収納箱をこじ開けると、持てる限りの金子をひっつかみ――それを腰に巻いた帯にゆわえつけると――、海に飛び込んで沈み、自分の罪の証人を腰にまとわりつかせたまま、《創造主》の前に飛び込んでいったのである。おゝ! このようにして得られた黄金とともに死ぬのは良くないことである。また、あなたが臨終の床についているとき、黄金は――それが、いかにして入手したものであれ――、大してあなたのためになると思うだろうか? 否。あなたはあなたのあらゆる富にもかかわらず、必然的に死に屈さなくてはならない。そして、もしあなたが全世界の称賛と名声を得るとしても、それが死の床についたあなたを助けられるだろうか?

   「イェスきみ我れの 死の寝床をも
    むく毛の枕と かえさせたまわん」。

しかし、いざ死ぬときになれば、人の称賛などいかに小さなものに思えることだろうか? おゝ! 私は時々思うことがある。自分の同胞の人間たちからいかに思われているかによって自分に値打ちをつけるとは、私たちは何とあわれな愚か者であることか。だが、おゝ! いざ死ぬ間際になれば、私たちは一生の間自分を追いかけていた騒ぎやざわめきなどに気を遣うことはなくなるのである。死の瞬間に及んだとき、名声だの栄誉だのが何になるだろうか? 泡沫である! 魂があぶくを食物にできるだろうか? 否。そのとき私たちはそうした空しいものを軽蔑するであろう。私たちは云うであろう。「名声よ! その喇叭の音をやめよ。私をひとりで死なせてくれ。私はひとりで御使いのかしらの喇叭を聞かなくてはならないからだ。あぶくのごとき名声よ。私はお前を憎む。お前は私の眠りを乱すことしかせず、私を床から呼び覚ますからだ」。おゝ! 私たちが死を迎えるときには、財にも、権力にも、虚栄にも、名声にも何の利益もないであろう。それらは人が魂を損ずるとしたら、何の得にもならない。

 そして、人は、たとい全世界を得ても、最後の審判の日に、何の得があるだろうか? かりにその人が神の法廷に出るとき、紫の衣を着、額に冠を戴いていても関係ない。そこでは王冠など何の注意も引かないからである。私は神の白い御座の前に、人間たちが全員集まっているのを見る。だが、王侯たちとそのしもべたちは何の区別もなく入り混じっている。君主たちも農民たちも、そこでは同列に立っており、何の見分けもつかない。神が、「離れて行け。呪われた者」、と仰せになれば、その王侯は断罪される。あるいは、「さあ、ここへ来なさい。祝福された人よ」、と仰せになれば、その王侯は救われる。しかし、同じ御声がそれぞれの人に語りかける。もし彼らが聖徒であれば、そこには喜ばしい声があって、彼らをその家へ連れて行く。また、もし彼らが失われた者であるとしたら、威嚇する声が彼らをその定められた破滅へと送り込むのである。あゝ! 神の審きの法廷に出るときには、人が何を達成していようと、何の得にもならないであろう。かりに人が立ち上がって、自分の《造り主》に向かってこう告げるとする。「主よ。私は地上でたいへんな名声を博していました。人々は私を柱の天辺に貼りつけ、あらゆる天候にさらさせ、それを栄光と呼びました。愚か者たちはそれを見て目を丸くし、民衆はそれを賞賛しました。では、おゝ、主よ。あなたは、この私のような人間を破滅へ送り込もうというのですか?」 「おゝ」、と《正義》は云う。「お前の彫像のことなど知ったことか。お前の名声のことなど知ったことか。もしお前の魂が救われてないければ、もしお前がキリストのうちになれれば――いかにお前の彫像や名声がすぐれたものであろうと――、お前は破滅に沈み込むであろう」。こうした事がらは、最後の審判の日には何の役にも立たないからである。いかなる人もそこでは同じように立つ。万人が同列にある。もしキリストが私たちを救っておられるなら、私たちは救われるであろう。だが、もし私たちがキリストから離れているとしたら、いかに偉大で強大な者であろうと、富者にも貧者にも偏りない宣告が下るであろう。

 もう一言だけ云おう。人は、たとい全世界を得ても、地獄に落ちたならば、何の得があるだろうか? 得があると! 方々。得があると! それは逆であろう。代々の昔に、ひとりの王侯が地獄に落ちた。それまでは、彼が町に入るときには必ず貴人たちが出迎えて挨拶し、王侯たちも礼をもって彼に接したものであった。彼が地獄に落ちたとき、彼がやって来ると知られた。その地下牢のいくつかには、かつて彼が鎖につなぎ、彼の戦車の車輪で引きずった王侯たちがいた。彼が殺戮し、その国を根こそぎに壊滅させた者たちがいた。そして彼らは、彼が地獄に落ちたとき、その火の床に横たわりながら彼を軽蔑の目つきで眺め、一千もの声が叫んだ。「あはは、あはは。お前もわれわれに似た者となってしまったのか」。そのとき彼は、自分が地上で得ていた栄光が大きければ大きいほど、地獄が灼熱の度を増すものであることに気づいた。そして彼は、ありふれた罪人として地獄を受けている一方で、格別な罪人として、大罪人として、自分の咎ある頭の上に、地獄が、怒涛の大波のように、繰り返し繰り返し押し寄せてくることに気づいた。彼は、自分のあらゆる偉大さのゆえに、ことさらに悲惨な状況に置かれていることに気づいた。行くがいい。富める悪人よ。あなたの黄金を積み上げるがいい。ことによると、いつの日かそれが硫黄となり、あなたはそれを呑み込むことになるであろう。行くがいい。名声ある人よ。称賛の喇叭を吹くか、他人に命じて喇叭を吹かせるがいい。名声の息が、やがて炭のように燃える《全能の神》の復讐を扇ぎ立てることになるであろう。行くがいい。権力者よ。その威厳を身に帯びるがいい。あなたは、高く飛べば飛ぶほど、その高みから投げ落とされるときには、大きく失墜し、破滅の中に横たわって永遠に呻吟するであろう。なぜなら、こうしたすべてのことを得ていたのに、あなたには何の得にもならなかったからである。

 II. ということで、第一の点をしめくくることにする。全世界を得ても、それはほとんど何にもならない。キリスト教信仰を抜きにした場合、そこには取るに足らないものしかない。しかしここで私たちは、それと対比されるものに目を向けよう。《魂を損ずること》である。

 この点を詳しく語る間、ぜひとも注意を傾けてほしい。愛する方々。魂を損ずるとは、魂を失うことなのである! 魂を失うことがいかなることか、いかにすれば告げられようか? 魂を損ずることがいかに恐るべきことかをあなたは3つのしかたで思い描くことができよう。第一に、その本質的な価値から。第二に、その可能性から。そして第三に、それが失われた場合の破滅から。

 1. 魂を損ずることがいかに深刻なことかは、その本質的な価値からわかるであろう。魂は、一万もの世界に匹敵する価値がある。事実、世界という世界を、浜辺の砂のようにいくら積み上げても、魂を買うことはできない。大海洋のあらゆる水滴が1つ1つ黄金の地球に変わったとしても、それよりも魂は高価である。そうしたいかなる富をもってしても魂を買うことはできないからである。考えてみるがいい! 魂は、その《造り主》のかたちに造られているのである。こう記されている。「神は人をご自身のかたちに造られた」*[創1:27]。魂は、神のように永遠のものである。神は魂に不滅性を賜っておられる。だからこそ魂は貴重なのである。では、それを損ずるとは、何と恐るべきことか! 神と悪魔の双方がそれを追い求めていることから考えても、魂がいかに貴重であるに違いないことか。あなたは今まで一度も悪魔がどこかの王国を追い求めていると聞いたことはないであろう? しかり。悪魔はそれほど愚かではない。そんなものは獲得する価値がないことを知っている。彼は決してそれを追い求めてはいない。だが常に魂を追い求めている。あなたは今まで一度も神が王冠を追い求めていると聞いたことはないであろう! しかり。神は領土など大した価値があるとみなされない。だが神は、日々、魂を追い求めておられる。神の聖霊は、神の子どもたちを求めておられる。そしてキリストは魂を救うためにやって来られた。あなたは地獄が渇望しているもの、また神が追い求めておられるものが貴重でないと思うだろうか?

 また、私たちも知る通り、魂が貴重であることは、そのためにキリストが支払われた代価によってわかる。「銀や金のような物にはよらず」*[Iペテ1:18]、ご自分の肉と血によって、主は魂を贖われた。あゝ! もしそれを買い取るために主がご自分の心の中心をお与えになったとしたら、魂は貴重であるに違いない。あなたの魂を損ずるとはいかなることに違いないことか。

 2. しかし、魂が貴重なのは、それが永遠のものだからである。そして、それによって私が注目させられるのは――(私はこうした点をざっと概説するだけにする。あなたがたは家に帰ってから、それをつぶさに考えることができよう)――、魂が貴重であるのは、その可能性のゆえだということである。あなたは、遙かな上方に、あの星を散りばめた王冠が見えるだろうか? あの、しゅろの枝をしきつめた御座に注目できるだろうか? 真珠の門から入るあの都と、その太陽よりも明るく輝く光が見えるだろうか? その黄金の街路と、この上もなく幸福な住民に注目できるだろうか? そこには目が見たことがなく、夢にもまさり、想像しても思い描けない楽園がある。だが、もし魂が損じられたら、それが失われるのである。私たちは多くの遺失物についての広告を目にする。では私に、ある人の魂が損じられた場合、その人が失ったものを広告させてほしい。その人は王冠を失った。立琴を失った。玉座を失った。天国を失った。永遠を失った。魂がいかに幸福になりえるかを考えるとき、魂を損じるのは途方もないことだという気がする。たとい全世界を得たとしても関係ない。事実、私は世界をくらべものにすることもできない。それは、アルプスをもぐら塚で測ろうというようなものである。ちり一粒を単位にして測れと云われたら、私は世界がいかに大きなものかあなたに告げることはできない。同じように、世界をもとにして評価することしか許されなければ、天国の値打ちをあなたに告げることはできない。おゝ! 方々。魂は天国に行ける可能性があるため、その損失はぞっとするほど恐るべきものである。

 3. しかし最後に、損じられた魂がどこに行かなくてはならないかを考えてみるがいい。天国が人の想像を上回るのと同じくらい人の想像を下回る1つの場所がある。陰気な暗闇に覆われ、ただ毒々しく赤みを帯びて光る炎だけが暗がりを照らし出している場所、炎の床をぞっとするような寝床として横たわっている霊たちが呻いている場所、《全能の神》がその御口から硫黄の流れを注ぎ出し、「火とたきぎとが多く積んである」所を燃やしている場所がある。それは神が、失われ、破滅した者らのために、すでにトフェテとして用意されたものである[イザ30:33]。そこには、ただ恐ろしい災厄の光景しか見えない。そうした場所がある。また、そこでは――私はそれがどこにあるのか知らないが、どこかにはあるのである。この地球の内部にはないと思う。というのも、この世界がその内部に地獄をかかえているというのは悲しいことであろう。――だが、遙か彼方の世界のどこかでは、ただ音楽といえば、断罪された霊たちの悲哀に満ちた交響曲でしかなく、わめき声と、うなり声と、恨み声と、呻き声と、歯がみとが、ぞっとするような合奏をなしている。そうした場所があるのである。また、そこでは、悪霊たちが疾風のように飛びかけ、ふしくれだった燃える縄の鞭であわれな魂を苦しめつつあり、苦悶の火焔で焼かれた彼らの舌は口の裏側を焼き焦がし、その口に水一滴を求めて金切り声をあげさせる。――だが水は絶対に与えられない。そうした場所があるのである。また、そこでは魂とからだが、有限のものに忍びうる限りの大きな無限の怒りに耐えており、正義の刑罰が魂を押しつぶし、復讐の鞭が不断に肉体を打ち続け、永遠の御怒りという鉢から注ぎ出されたものが永劫に霊を焼きただれさせ、剣が深々と内なる人を切り裂き、えぐっている。そうした場所があるのである。あゝ! 方々。私にはそれを描き出せないが、1時間もしないうちに、あなたがたの中のだれかがそれを体験することになることもありえる。もしあなたの人生の幕が真っ二つに裂かれるとしたら、あなたがたの中のある人々は、すぐにも自分が損じられた魂たちに直面していることに気づくであろう。そのときには、方々。あなたは自分の魂を損じるとはいかなることか知るであろう。だが、それまでは決して知ることはなく、私もそれをあなたがたに云い表わすことはできない。こうした言葉は空しく、私が口にすることは軽い。それらは、こうしたすさまじい光景を描写できない絵描きが、べたべたとぬたくったしろものにすぎない。地上には、それを描くだけの暗黒さ、すさまじさを伴った絵の具がないからである。あゝ! 罪人たち。もしあなたが地獄とはいかなるものかを知っていたとしたら、自分の魂を損じるとはいかなることかがわかるであろう。

 III. さて、それでは、私たちはいかなる《実際的教訓》をもってしめくくるであろうか? もし罪人が、最高に好ましい状況であると確実に考えられること、すなわち世界を得ることによってさえも、恐るべき損失をこうむるとしたら――自分の魂を損じるとしたら――、いついかなる場合であれ、ちっぽけなことのために自分の魂を売り渡すのは何と馬鹿げたことであろう! あそこに、半ポンド金貨のために自分の魂を売った男がいる。「どこに?」、とあなたは云う。あゝ! その人に自分で答えてもらおう。多くの人々はそうしてきた。ある者は云う。「私は、日曜に私の店で閉める鎧戸は一枚だけにしておき、少しは商売しよう、そして2シリングほど稼ごうと思っとります」。左様。何と見事な報酬であろう。あなたの魂を地獄に落とすのと引き替えに、毎週2シリングというわけである! 別の人は云う。「私は、ああしたカルヴァン主義者の仲間にならなければ、もっとまともな勤め口が得られると思うんです」。そして彼は、神の家に通うのをやめて、もっと流行に則った形の信心を始める。立派なことである。――自分の永遠の利益をだいなしにするのと引き替えに、良い地位を得るというわけである! だが、それによってあなたは、いつの日か、悪い地位に立たされることであろう。人がいかに僅かなもののために自分の魂を売り渡すかには驚くべきものがある。私は1つの逸話を覚えている。――それは本当にあったことだと思う。本当にあったことであってほしい、とさえ云いたい気がする。ある教役者が、とある畑を横切りつつあるとき、ひとりの田舎者に出会って、こう云った。「やあ、こんにちは。たいそう気持ちの良い日ですな」。「ええ、先生。全くですな」。そして、彼を相手にその景色の美しさについてひとくさり話した後で教役者は云った。「何と私らは、自分の受けておるあわれみについて感謝すべきでしょう! 私は、あなたが表に出るたびに祈ってほしいと思いますな」。「祈るですって、先生!」、と男は云った。「あっしは全然祈ったりしませんや。祈って手に入れたいものなんかありませんからな」。「何と奇妙なお人でしょう」、と教役者は云った。「あなたの奥さんは祈らないのですか?」 「そうしたいときは祈ってますよ」。「お子さんたちは祈らないのですか?」 「そうしたいときは祈ってますよ」。「よろしい。あなたは自分は祈るつもりはないと云うのですな」、と教役者は云い、(私が思うに、あまりよろしくないことを云った。疑いもなく彼は、男が迷信深い人間であるのを見てとったのであろう)、「では、もしあなたが、一生の間ずっと祈らないと約束するなら、私はあなたに半クラウン差し上げましょう」。「ようござんす」、と男は云った。「あっしには、祈って手に入れたいものなど考えつけませんからな」。そして男は半クラウンを受け取った。だが自宅に帰ったとき、彼はこの思いに打たれた。「俺は何をしちまったんだ?」 それから何かが彼にこう語りかけた。「よろしい。ジョンよ。お前はじきに死ぬだろう。そして、そのときには祈りたくなるだろう。お前は、じきにお前の《審き主》の前に立たなくてはならないだろう。そのとき、お前が一度も祈ってこなかったというのは、悲しいことになるだろう」。こうした類の想念に取りつかれ、彼はぞっとするほどみじめな気分を味わった。考えれば考えるほどみじめな気分になった。彼の細君は一体どうしたのかと尋ねた。しばらくの間、彼は細君にも話せないでいたが、ついに自分が二度と祈らない約束をして半クラウンを受け取ったのだ、それを思うと苦しくてたまらないのだ、と告白した。このあわれで無知な魂は、自分の前に現われたのが、かの悪い者だと考えた。「そうよ、ジョン」、と細君は云った。「それは悪魔に決まってるわ。だのに、あんたったら、自分の魂を半クラウンで売っちまったのよ」。このあわれな人は何日間か働くこともできなかった。そして、その罪の確信――自分で自分を悪い者に売り渡したのだということ――によって、この上もなくみじめになってしまった。しかしながら、その教役者は自分のしていることをわきまえていた。近所に納屋があり、彼はそこで説教することになっていたのである。彼は、あの男が自分の恐怖する思いを安らげようと、そこにいるはずだと推測していた。案の定、ある安息日の晩、彼はそこに来て、自分に半クラウンを与えたのと同じ人が、この言葉を主題聖句とするのを聞いた。「人は、たとい全世界を得ても、魂を損じたら、何の得がありましょう」。「そうだ」、と男は云った。「自分の魂を半クラウンで売り飛ばしたような人間に何の得があるだろうか?」 彼は立ち上がるや、叫んで云った。「先生、お返しします! お返しします!」 「何と」、と教役者は云った。「あなたは半クラウンをほしがって、祈る必要なんかないと云ったではありませんか」。「でも、先生」、と彼は云った。「あっしは祈らにゃあなりません。もし祈らなきゃ、あっしはおしまいです」。それから、少しやりとりをして確かめた後で、その半クラウンは教役者の手に返され、男は膝まづいて神に祈ることになった。そして、こうした状況そのものが、彼の魂を救う手段となり、彼は変えられた人間となったのである。さて、私はこれほど奇矯なことを行なうことはできないが、あなたがたの中のある人々を家に帰らせる前に、このことを肝に銘じさせておきたい。すなわち、あなたは自分がそんなことをするなどありえないと思うだろうが、この場にいる多くの人々は、世俗的な利得のため何かをすることによって、自分をサタンに売り渡しているのであり、結局のところ、それが彼らの魂を損じることにつながるのである。では、あなたがたの中に、いかにすれば魂を救えるのか知りたいと思う人がいるだろうか? ここに答えがある。「主イエス・キリストを信じてバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたも救われます」*[使16:31; マコ16:16]。そして、あなたがたの中のだれでも、自分が罪人であることがわかっているとしたら、このことを慰めとして受け取るがいい。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。その罪人のかしらさえも」*[Iテモ1:15]。このことを胸にいだいて行くがいい。罪人のかしらよ。そして喜ぶがいい。イエス・キリストは、あなたを救うために来られたのである。願わくは神がその祝福を加えてくださるように! キリストのゆえに。アーメン。

 

得と損[了]



HOME | TOP | 目次