高く挙げられたキリスト
NO. 91
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---- 1856年7月6日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂
「しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです」。――詩62:2
聖餐式で私たちが黙想したいと願う唯一のことは、私たちのほむべき主イエス・キリストについてである。普通、私たちは、十字架につけられたお方、「悲しみの人で病を知っていた」[イザ53:3]お方としての主を考察するのが習いとなっている。私たちの前には、罪が赦されるため多くの人々のために裂かれた主の肉体、流された主の血の象徴があるからである。だが、十字架につけられた《救い主》は、ほとんどの場合において聖餐式にふさわしい主題かもしれないが、それだけが適当な主題かどうか私には確信が持てない。私たちの《救い主》がいかにして私たちをお離れになったか、――いかなる路を通って死の影を通過されたかを思い出すのはよいことである。だが、私たちから離れている間に主が何をしておられるかを思い起こすこと――十字架につけられた《救い主》が到達しておられる高貴な栄光を思い出すこと――も、同じくらい良いことだと思う。そして、ことによると、その御座に着いておられる主を見つめることは、十字架についておられる主を考察するのと同じくらい、私たちの霊を励ますことになるかもしれない。ある意味で私たちは、十字架上の主は見たことがある。すなわち、地上にいる人々の目は、十字架につけられた《救い主》を、実際に目の当たりにしたことがある。だが、私たちは、天における主の栄光がいかなるものかは全く思い描けない。そうしたことは、私たちのいかに高遠な思想をも越えている。だが信仰は、その御座の上に高く挙げられた《救い主》を見てとることができる。そして確かに、この主題にまさって、私たちの期待を生かし続けることのできるもの、あるいは、私たちの衰え果てた信仰を元気づけるものはないに違いない。私たちの《救い主》は、地上に今はおられないとはいえ、その不在中は玉座に着いているのである。その《教会》をしてご自分のことを思って悲しませているとはいえ、主は私たちを慰めもないまま放り出してはおられない。――主は、私たちのもとにやって来ると約束された。――主は、暇どっている間も統治しており、不在にしている間も御父の御座の上に高く座っておられるのである。
使徒がここで示しているのは、他のあらゆる祭司がささげるいけにえにまさる、キリストのいけにえの優越性である。「すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは」、すなわち、この祭司は、――というのも、この「キリスト」は原語では「これ」「この者」だからである。――「罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後」、その働きを完了し、永遠に、「神の右の座に着」いた[ヘブ10:11-12]。見ての通り、キリストのいけにえの優越性が存する点、それは、祭司が絶えずいけにえをささげ、一頭の子羊をほふった後には、別の子羊が必要になり、アザゼルのための一頭の山羊を荒野に放った後でも、翌年にはもう一頭、アザゼルのための山羊が必要になったが、「キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげたとき」、アザゼルのための何千頭もの山羊が決してしなかったこと、何十万何百万もの小羊が決してもたらせなかったことを行なったということである。主は私たちの救いを完成させ、ご自分の選びの民全員の罪を贖う完全な贖罪を成し遂げられたのである。
私たちが今朝、第一に注目したいのは、この《救い主》の贖罪のみわざの完全さである。――主はそれを成し遂げられた。それは文脈から汲み取ることができる。第二に、この《救い主》がご自分のものとされた栄光である。それぞれの点にはごく手短に触れることとして、私たちの思想をできる限り簡潔にまとめることにしよう。
I. 私たちがここで、第一のこととして教えられているのは、《この救い主のみわざの完全さ》である。主は、罪を贖い、葬り去るために必要な、すべてのことを行なわれた。それを余すところなく行なわれたので、決して二度と十字架にかかる必要はない。ひとたび開かれた主のわき腹から流れ出した川は、あらゆる罪を流し去るほどに深く深く、また尊いものである。主のわき腹は二度と開かれる必要はなく、主の御手は二度と十字架に釘づけられる必要はない。主のみわざが完了したと私が推測するのは、ここで主が着座したと述べられている事実からである。キリストは、し残したわざがあったとしたら、天で着座なさらなかったであろう。着座は、安らぐ姿勢である。主は地上ではめったに着座することがなかった。「わたしは常に自分の父の仕事をしている」[ルカ2:49 <英欽定訳>]。旅から旅が、労働から労働が、説教から説教が途切れることなく続いていた。主の生涯は、絶えざる労苦の一生だった。つかのま井戸のかたわらに腰を下ろすことはあったかもしれない。だが、そこですら主はサマリヤの女に伝道なさった。主は荒野に出て行かれたが、眠るためではなかった。そこで祈るために出ていった。主の真夜中は、日中と同じくらい激しい務めに費やされた。――苦悶する祈りという労働、人々の魂のために御父と格闘することに費やされた。主の生涯は、絶えざる肉体的、精神的、霊的労働の一生だった。主の全人格が休みなく働いていた。しかし、いま主は安らいでおられる。そこには、主のなすべき労苦はもはや何もない。もはやいかなる血の汗も、いかなる倦み疲れた足も、いかなる痛む頭もない。もはや主は何をする必要もない。主はじっと座っておられる。しかしあなたは、私たちの《救い主》が、そのみわざを成し遂げておられないとしたら、じっと座っているなどと思うだろうか? おゝ! 否。主はかつて云われた。「シオンのために、わたしは休みこまない。その栄光が、たいまつのように燃えるまでは」*[イザ62:1]。そして確かに主は、私たちの贖いという偉大なみわざが完全に達成されなかったとしたら、休もうとはしなかったであろう。ほむべきイエスよ。あなたは、御民が失われる恐れのあるとき、座りこんでおられるでしょうか? 彼らの救いが危険に瀕している間、座り込んでおられるでしょうか? 否。あなたの真実さも、あなたのあわれみ深さも私たちにこう告げています。みわざがなし終えられていなかったとしたら、あなたは今も労働しておられるはずだ、と。おゝ! もし私たちの義という偉大な衣の最後の糸が織りあげられていなかったとしたら、主はそれを今も紡いでおられたであろう。もし私たちの借財の最後の一銭が支払われていなかったとしたら、主は今もその勘定をしておられたであろう。そして、もしすべてが完了し完成していなかったとしたら、主は賢い建築家のように私たちの救いという大伽藍の冠石を置くまで決してお休みになろうとしなかったであろう。しかり。主が着座して、休んで、安楽にしておられるという事実そのものが、主のみわざが完了し完成したことを証明している。
それから再び注目したいのは、主が神の座に着かれたことは、主が楽しみを得ていることを暗示している。というのも、神の右には、「楽しみがとこしえに」あるからである[詩16:11]。さて私が思うに、キリストが無限の楽しみを得ておられるという事実は、主がそのみわざを完了したに違いない証拠をある程度まで含んでいる。確かに、主はそのみわざが始まる前にも、御父との楽しみを得ておられた。だが、受肉した後で、主のみわざが中途半端になっているとしたら、主がお休みになるなどということは考えられない。このみわざを始める前であれば休んでもよいが、それをいったん始めるや否や、あなたも思い出すように、主は自分には受けるべきバプテスマがあると云い[ルカ12:50]、苦悶というその恐ろしいバプテスマのすべてを受けようとして突き進んでいったように見受けられる。主は、そのすべてのみわざが完了するまで、決して地上でお休みにならなかった。みわざの全体がなされるまで、微笑みすらめったにその眉宇にのぼらなかった。主は、「完了した」、と云えるまでは、「悲しみの人で病を知っていた」[ヨハ19:30; イザ53:3]。そして、もしやり残したことがあるとしたら、《救い主》がその御座の上で幸福にしていられるとは、私には到底思えない。確かに主は、かの偉大な御座の上におられても、ご自分の囲いの最も小さな子羊が確保されていないとしたら、また、ご自分が血で買い取られたあらゆる者の永遠の救いがご自分の御座ほどにも神聖なものとなっていなかったとしたら、そのみむねには不安が広がっていることがであろう。キリストの最上の楽しみは、この事実から引き出されている。すなわち、主が「いっさいのものの上に立つかしら」として「教会にお与えに」なられた[エペ1:22]という事実である。主には神としての喜びがあった。だが人-神として、主の喜びは人々の魂の救いから湧き上がっている。ご自分がそのみわざを完全に、しかも敏速に成し遂げた[ロマ9:28]と思うこと、それが主の完全な喜びなのである。そこには、イエスがみわざを完了したに違いないという証拠が、明確ではないかもしれないものの、ある程度まではあると私は思う。
しかしここで、また別のことがある。主が永遠に着座されたと云われている事実は、主がみわざをなし終えたに違いないことを証明している。キリストは、選民の魂すべてを救うことをお引き受けになった。もし主がすでに彼らを救っておられないとしたら、主は彼らを救うことを行なう義務がある。というのも、主は御父に対して厳粛に誓い、約束なさったからである。多くの魂を栄光に導き、彼らをご自分の義によって全うすると誓い、約束なさったからである。主は私たちの魂をしみなく、完全なものとして立たせなさると約束された。――
「栄光(はえ)ある御顔の 前に現わし
輝く喜び 大いに賜わん」。よろしい。もし主がそうするに足ることを行なっていないとしたら、主はそうするためにもう一度やって来なくてはならない。だが、主がそこに永遠に着座しておられる事実、主がもはや茨の冠を戴くことはない事実、主が決して二度とその御座を離れて、王でなくなる必要がない事実、主がなおもその威光と栄光に取り巻かれ、永遠にそこに座っておられる事実は、主がなだめという偉大なみわざを成し遂げられた証拠である。確かに主はすべてをなし終えたに違いない。それは、主がそこに永遠に着座し、代々の時代にわたって御座に着いておられ、来たるべき時代にはより鮮明な姿を現わすようになるとはいえ、決してそこを離れることはなく、二度と苦しむことも、二度と死ぬこともないという事実からわかる。
だが、最高の証明は、そもそもキリストが御父の右の座に着かれたということである。というのも、キリストが天におられ、その御父に受け入れられたという事実そのものが、主のみわざがなされたに違いないことを証明している。左様。愛する方々。わが国を出国した大使が、外国宮廷にいる限り、そこには平和があるに違いない。そして、私たちの《救い主》イエス・キリストがその御父の宮廷におられる限り、それは主の御民と御父との間に真の平和があることを示している。よろしい。主がそこに永遠におられるというのであれば、私たちの平和は継続的なもの、海の波のようにやまないものであるに違いない。しかし、贖いが完全になされたのでない限り、――正義が完全に満足させられたのでない限り、――その平和は継続的なものではありえなかったであろう。そして、それゆえ、まさにその事実によって、キリストのみわざがなされたに違いないことは確実となる。何と! キリストが、御民のあらゆる咎が転げ落とされもしないうちから、天に入っておられる――その御父の右の座に着いておられる――というのだろうか? あゝ! 否。主は罪人の身代わりであった。そして、主が罪人の破滅を支払い、罪人の死を味わったのでない限り、私が天国を見られる見込みはなかった。主は罪人の立場に立ち、主の選民のすべての咎が主に転嫁された。神は主を罪人とみなされたし、罪人として主は、ご自分の血糊という真紅の流れであらゆる罪を洗い流さない限り、――自ら負われたもろもろの罪をご自分の義が覆わない限り、――転嫁によってご自分のものとなった罪をご自分の贖いが取り去らない限りは、天国に入ることはできなかった。そして、御父が主を高く挙げられるのをお許しになられた事実、――いわば御父が、天国に入る許可を主に与え、「わたしの右の座に着いていよ」、と云われた事実は、主が御父のみわざを全く成し遂げたに違いないこと、御父が主のいけにえを受け入れたに違いないことを証明している。しかし、もしそれが不完全であったとしたら、御父は受け入れなさらなかったに違いない。それゆえ、このように父なる神がそれを受け入れなさった以上、みわざは完成したに違いないと私たちは証明する。おゝ! 何と輝かしい教理よ! この《人》はそれをなし終えたのである。この《人》はそれを完了したのである。この《人》はそれを完成したのである。この方は《創始者》であり、《完成者》である。アルファであり、オメガである。救いは完了し、完成している。さもなければ、主はいと高き所にのぼることも、神の右の座に着くこともなかったであろう。キリスト者よ! 喜ぶがいい! あなたの救いは完了した救いであり、贖いは完全になされている。あなたの棒切れ一本、石一個すら足りなくはない。主の輝かしい衣に必要な一縫いすら欠けてはおらず、――主が完成させたかの輝かしい長衣に布一切れすら足りない部分はない。それは成し遂げられている。――完全に成し遂げられている。あなたは全く主の義によって受け入れられている。あなたは主の血を通してきよめられている。「キリストは……人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです」[ヘブ10:14]。
II. さて次に、私たちの第二の点である。――《キリストがご自分のものとされた栄光》である。「キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着」かれた。――そのキリストがご自分のものとされた栄光である。
さて、このことによってあなたは、キリストの複雑なご人格を理解すべきである。というのも、キリストは、神としては、常に御父の御座の上におられたからである。主は常に神であられた。地上におられたときですら、主はなおも天におられた。神の御子は、土くれの衣で包まれるようになったときも、全能であり、遍在のお方であることをやめはしなかった。主はなおも御父の御座の上におられた。主は、そうした意味では一度もそこを離れず、一度も天から下ったことはなかった。主はなおもそこにおられ、「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神」[ロマ9:5]であられた。主が云われたように、「天から下った人の子」は、それと同時に、「天におられた」[ヨハ3:13 <英欽定訳>]。しかし、イエス・キリストは、《人-神》としては、かつて有しておられなかった栄光と誉れをご自分のものとしておられる。というのも、人としては主はかつては御父の御座に着いておられなかった。人は人間であり、苦しんでいる人、定命の者がいまだ知ったこともないような苦痛と呻きに満ちた人であった。だが、《神-人》として、主は神に次ぐ尊厳をご自分のものとされた。主は神の右の座に着いておられる。栄光に富む《三位一体》、御父、御子、聖霊の右に、イエス・キリストという人間なるご人格が着いている。この方は、高く挙げられ、すぐれて高い所の大能者の右の座に着いておられる[ヘブ1:3]。ここから私たちが汲み取れるのは、キリストがいま享受しておられる尊厳は無類の尊厳だということである。この世のいかなる誉れ、いかなる尊厳も、キリストの誉れ、尊厳とはくらべものにならない。いかなる御使いも、キリストほど高くを飛びはしない。かの偉大な《三一の神》以外に、人間キリスト・イエスのご人格に優越すると呼ばれうるようなものは、天国のどこにも見いだせない。主は神の右の座で、「すべての御使い、支配、権威、また、すべての名の上に高く置かれ」*ている[エペ1:21]。御父は、「キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ……るためです」[ピリ2:9-10]。いかなる尊厳も、主の尊厳ほど輝いてはいない。多くの者を神に立ち返らせた義の子らは、主にくらべれば星でしかないが[ダニ12:3]、主はそこで、あらゆる太陽の中でも最も燦然と輝いておられる。御使いたちについていえば、彼らは主ご自分の輝きから出た火花でしかなく、主ご自分の輝かしい本体から出た放射物でしかない。主はそこに、《神格》の偉大な傑作として座っておられる。
「神、その御子の 人格(ひととなり)にて
凌駕(まさ)れり、最大(いか)なるみわざをも」。この輝かしい人、《神格》との結合に入れられた、かの強大な《人-神》たる人は、その威光ある人格の栄光において万物にまさっている。キリスト者よ! 覚えておくがいい。あなたの《造り主》には比類なき尊厳がある。
次のこととして、キリストには真の威光がある。ある人々は単に空疎な称号しか有しておらず、それは、ほとんど何の権力も何の権威も授けてくれない。しかし、《人-神なるイエス》は、その頭に多くの王冠があり、多くの称号を有している。その1つとして安ピカの冠はなく、空疎な称号はない。そこに着座しておられる間、主は pro forma[形式的に]座っているのではない。名目だけの誉れを受けているのではない。むしろ主には真の誉れがあり、真の栄光がある。かの《人間-キリスト》、かつてはエルサレムの街路を歩いておられたお方は、今や天国に座し、御使いたちがその御前でひれ伏している。かの《人間-キリスト》、かつてカルバリで木にかけられ、そこでこの上もなく激しい苦悶のうちに息を引き取ったお方は、今や高く挙げられて御父の御座に着き、天の王笏を振るっておられる。――否。悪霊どもは、その御前で震え、全地は主の摂理の支配を認め、主の双肩は宇宙を支える柱を乗せている。主は、「その力あるみことばによって万物を保っておられ」る[ヘブ1:3]。定命(かいなき)ものみな覆し、悪に善を働かせ、善にはより善なるものを生み出させ、さらに善なるものへと、無限に進めさせていかれる。この《神-人》なるキリストの力は無限である。それがいかに大きいかは、だれも測り知ることができない。「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできに」なる[ヘブ7:25]。主は、「私たちを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として御前に立たせることができる」*[ユダ24]。「すべてのことを働かせて益と」することができる[ロマ8:28]。「万物をご自身に従わせることができる」*[ピリ3:21]。死すら征服できる。というのも、主には死の力があり、かつては死を支配していたサタンの権力があるからである。しかり。主は万物の上に立つ主である。というのも、主の御父が主をそのようになさったからである。私たちの《救い主》の何と輝かしい尊厳であろう! 愛する方々。私はそれを言葉で語ることはできない。私があなたに云えるすべては、単純な繰り返しにしかならない。ただ聖書の言明を繰り返すことしかできない。思想を飛躍させる余地は全くない。私たちは、それまでいたのと同じ所をただ守り、この物語を告げるしかない。主の御父は、主を高く挙げて真の誉れと真の栄光へと至らせたのだ、と。
そして、さらにまた、キリストがいま受けられたこの誉れは(つまり、神なるキリストではなく《人-神》なるキリストが受けられた誉れは、――というのも、主はすでにそれを有しておられ、一度も失ったことがなく、それゆえ決してそれを獲得するということはありえないからである。主は《人-神》であり、そのようなお方として高く挙げられたのである。――)、受けてしかるべき誉れであった。御父が主にお与えになった尊厳に、主はまことに値するお方であった。私は時としてこう考えることがある。もし宇宙の聖い霊たちすべてに対して、もし《王》が喜んで誉れを与えたいと思う者に何をすべきかと尋ねたならば、彼らはこう答えたであろう。キリストこそ神が誉れを喜んでお与えになる者に違いなく、キリストはその御父の右の座に着くのでなくてはなりません、と。左様。もしこのような云い方をしてよければ、私はほとんどこう思い描くことができる。主の力ある御父が、果たしてキリストを高く挙げるべきかどうかを天の投票にかけたとしたら、彼らはこのように歓呼をあげて勝ちをおさめるであろう。「ほふられた小羊は、誉れと、栄光を永久とこしえに受けるにふさわしい方です」*[黙5:12]、と。主の御父は、それを主にお与えになった。だが、それでもすべての聖徒たちの賛意、聖なる御使いたちのすべての賛意は、それに対してアーメンと云った。そして、このことを私は確信している。この場にいるあらゆる心は――あらゆるキリスト者の心は、それにアーメンと云うはずだ、と。あゝ、愛する方々。私たちは主を高く挙げようとするであろう。主に冠を戴かせ、「万物(すべて)の主(あるじ)と(して)御座にむかえ」ようとするであろう。単に主の御父が主に冠を戴かせるだけでなく、私たちも、私たち自身も、もし私たちにその力があったとしたら、主を高く挙げようとするであろう。そして、私たちにその力があるときには、私たちの冠を主の足下に投げ出し、主を万物の主として冠ささげるであろう。それは、受けてしかるべき誉れである。天のいかなる存在にも、そこに着く資格はない。御使いたちでさえ、そこから遠ざけられており、神は「その御使いたちにさえ誤りを認められ」[ヨブ4:18]、彼らを保つ恵みをお与えになる。また、主の聖徒たちの何人たりともその誉れに値してはいない。彼らは地獄こそ自分たちの当然の報いだと感じる。しかし、キリストの高挙は、受けてしかるべき高挙である。御父は主にこう云ってよいであろう。「よくやった。わが子よ。よくやった。あなたは、わたしがあなたに行なうよう与えた働きを完了した。万人の中の最初の者よ。ここに座るがいい。御子の人格との結合によって栄化された者よ。わたしの栄光に富む、同等の御子よ。わたしがあなたの敵をあなたの足台にするまで、わたしの右の座に着いているがいい」。
もう1つだけ例を挙げて、この項目を終わりにしよう。私たちは天におけるキリストの高挙が、ある程度までは代表的な高挙であることを考察しなくてはならない。御父の右の座に高く挙げられたキリスト・イエスは、聖徒たちがあずかることを期待してはならないような卓越した栄光をお持ちではあるが、――元来、主は神の本質の完全な現われであり、御父の栄光の輝きであられるが、――非常に大きな程度において、キリストは、天で持っておられる誉れを、私たちの代表者として持っておられる。あゝ! 兄弟たち。こう思い返すのは甘やかなことである。いかに幸いなしかたでキリストはその民と生きておられることか。あなたがたはみな、知っているはずである。私たちは、
「主の死ぬ折も、復活(よみがえ)る折も、
主の敵ばらに 勝ちし折にも、
天に座す折も、われらは一つ。
御使い、地獄(よみ)の負けしを歌えり」。今日、あなたは、自分が主と、今その御前において1つであることを知っている。私たちはこの瞬間にも「ともによみがえらせ」られており、後には、「キリスト・イエスにおいて、……ともに天の所にすわらせ」られるであろう[エペ2:6]。さながら私やあなたの代表者する議員が国会にいるように、神のあらゆる子どもを代表するお方が天におられるのである。だが、私たちは自分たちの国会議員と1つになっているわけではないので、このたとえは、私たちの先駆けたるキリストが天において、いかに栄光に富むしかたで私たちの代表となっておられるかを完全に述べることはできない。私たちは実際キリストと1つだからである。私たちは主のからだの各器官であり、主の肉であり、主の骨であり、主の高挙は私たちの高挙である。主は、私たちが主の御座に座れるようにしてくださるであろう。主が征服し、御父のそばの御座に着けられたのと同じようになさるであろう。主には冠があるが、主は私たちにも冠を与えることなしには、ご自分の冠を戴かれない。主には御座があるが、ご自分ひとりで御座を占めているのでは満足なさらない。主の右手には、オフィルの金を身に着けた、その花嫁がいなくてはならない。そして主は、その花嫁を抜きにしてそこにいることはできない。《救い主》は、その《教会》を伴っていなくては、天で満足することがおできにならない。《教会》は、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」[エペ1:23]である。愛する方々。いまキリストを見上げるがいい。あなたの信仰の目によって、主のお姿をとらえるがいい。そこに、多くの冠を戴く主を見つめるがいい。そこに主を見てとるとき、思い出すがいい。あなたがたはいつの日か、主のありのままの姿を見て、主のようになるのである[Iヨハ3:2]。あなたがたは主のように偉大にはなるまい。程度において主のように栄光に富む者にはなるまい。だがそれでも、ある程度までは、主が有しておられるのと同じ誉れにあずかり、同じ幸福、同じ尊厳を享受するであろう。ならば、しばらくの間、名もない者として生きることに満足するがいい。嘲りや、からかいや、冗談や、みだらな歌を忍ぶことに満足しているがいい。貧困の野にある道、患難の山を上るあなたの大儀な道を歩むことに満足するがいい。じきにあなたがたはキリストとともに統治するようになるであろう。主は、「神のために、私たちを王とし、祭司とされました。私たちは地上を治めるのです」[黙5:10 <英欽定訳>]。じきに私たちは《かしら》の栄光にあずかるであろう。油はその頭に注がれている。それは、まだ私たちのもとにしたたり落ちていない。唯一の例外は、私たちが有している真実な交わりの中にある。だが、じきにその油は、衣のすそにまで流れ落ちるであろう。そして私たちは、御民の中で最も卑しい者たちさえ、主とともに王とされ、主の御座に着くことにより、主の家の栄光の一部にあずかるであろう。それは、主が御父の御座に着いているのと全く同じである。
III. さて、最後のこととして、《キリストは何を期待しておられるだろうか?》 私たちに告げられるところ、主は、その敵たちが主の足台にされるのを期待しておられる。 ある意味で、これはすでになされている。キリストの敵たちは、ある意味で、いま主の足台である。悪魔は、キリストの奴隷でなくて何だろうか? というのも、彼は許されるだけしか神の子どもたちに反することを行なえないからである。悪魔とは、キリストの子どもたちを主の愛に満ちた御腕へと連れてくる、キリストのしもべでなくて何だろうか? 悪人とは、意図せずに神の摂理に仕えるしもべたちでなくて何だろうか? キリストは今でさえ、「神からいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、すべての人を支配する権威」*[ヨハ17:2]を有している。それは、ご自分の目的が実現されるためである。キリストはすべての人のために死なれた[IIコリ5:15]。そして、すべての人はいまキリストの持ち物である。この世の中に、その意味でキリストに属していない人はひとりもいない。というのも、キリストはその人の上にある神であり、その人の上にある主だからである。
その人はキリストの兄弟であるか、さもなければキリストの奴隷である。喜んでキリストに従うのでなければ、勝利の行列に引きずられて行かなくてはならない、不承不承の屈服者である。その意味で、万物はいまキリストのものである。
しかし、愛する方々。私たちはこうしたことよりも大きな事がらを待ち望んでいる。主が来臨するときには、すべての敵が地上でキリストの足に踏み敷かれるのである。それゆえ私たちは、私たちの中の多くの者らは、「祝福された望み、すなわち、私たちの救い主であるキリスト・イエスの御国の栄光ある現われを待ち望む」*[テト2:13]ようになっている。私たちの中の多くの者らは、キリストが来られることを待ち望んでいる。それがいつかを告げることはできない。その時を推測しようなどとするのは愚行であると私たちは信ずる。だが、私たちは、自分たちが生きている間でさえ、神の御子が現われることを待ち望んでいる。そして、主が現われるときには、主がその敵たちをその足で踏み敷き、北極から南極まで、川から地の果てまでを統治なさることを知っている。まもなく反キリストは、彼女の七つの丘に座っていられなくなる。まもなくにせ預言者は、その何百万もの人々を惑わせなくなる。まもなく偶像の神々は、彼らの礼拝者たちを、ものの見えない目、ものをつかめない手、ものを聞けない耳で欺くことはなくなる。――
「見よ! 主は来られる。降り下る雲とともに」。
風の中に、私は主の戦車の車輪を見る。私は、主が近づいておられることを知っている。そして、主が近づかれるとき、主は「弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれ」る[詩46:9]。そしてキリスト・イエスはそのとき、全地の王となられる。実質的に、主は今も王である。だが、主はもう1つの王国を得ることになっている。私は、それがなぜ霊的な国となるべきかわからない。そうした国なら、すでに来ているからである。主は今も、その《教会》において、これから先と同じように霊的な王であられる。確かに、主の国はいずれ非常に広い範囲にわたることになるであろうが。だが、来たるべき御国は、霊的な御国よりもずっと大きなものとなるであろう。それは地上における、目に見えるキリストの王国であろう。そのとき王たちは、主の御足の前で、平身平頭しなくてはならない。そのとき、主の御座には、地の諸族が身を屈めるであろう。そのとき富者や権力者、ツロの商人たち、黄金の産出地の隊商たちは、彼らの香辛料と没薬とを携えてきて、彼らの黄金と宝石を主の御足のもとに置くであろう。
「イエスは統治(おさ)めん、日輪の
尽きざる旅路 続く所を。
御国は海辺(きし)から 海辺(きし)へと伸びん。
月の満ち欠け 絶ゆるときまで」。もう一言だけ云わせてほしい。愛する方々。キリストは、かの大いなる最後の審判の日に、そのすべての敵を御足の下に踏み敷くであろう。おゝ! 死んでいた悪人がよみがえる第二の復活のとき、――不敬虔な者たちが主の御座の前に立ち、主の御声が、「離れよ。のろわれた者ども」*[マタ25:41]、と云われるとき、――御足の下に踏みにじられるのは、すさまじい重圧となるであろう。おゝ! 反逆者よ。あなたはキリストを蔑んできた。これは、あなたにとってすさまじい事態となるであろう。かの人、さらしものにされ、十字架につけられた人、あなたがしばしば軽蔑してきた人が、ことば1つであなたを地獄に送り込む権威をお持ちになるのである。あなたがしばしばあざけり、笑い者にしてきた人、あなたが実質的には、「もし神の子なら、十字架から降りて来い」*[マタ27:40]、と云ってきた人が、ほんの二言三言で、あなたの魂を永遠に地獄に落とすことができる権威を持つことになるのである。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ」、と[マタ25:41]。おゝ! それは何という勝利であろう。人々が、悪人が、迫害者が、キリストに反抗してきたすべての者らが、みな燃える池[黙21:8]に投げ込まれるのである。しかし、もしできるものなら、人間を邪道に導いていた者が引きずり出されるときには、より大きな勝利となるであろう。
「青銅の額あげ、雷の傷跡(きず)受け
判決(さばき)を受けては、地獄(よみ)に苦しむ」。おゝ! サタンが地獄に落とされ、聖徒たちが御使いたちを審き、堕落した霊たちがみなキリストの御足の下に置かれるとき、「『彼は万物をその足の下に従わせた』、としるされている、みことばが実現します」*[Iコリ15:27、54]。そして、死も前に出てきて、「死の死にして 地獄(よみ)の破壊者(ほろび)」によってその鉄の手足を粉微塵に挽かれ、「死は勝利にのまれた」、と云われる。というのも、かの大きな叫び、「勝利、勝利、勝利」が、過去の金切り声をかき消し、死のわめき声を消してしまうからである。そして、地獄は勝利のうちに呑み込まれる。主は高く挙げられている。――その御父の右の座に着いておられる。そして、「それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられる」のである。
高く挙げられたキリスト[了]
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