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人は選ばれ――堕落せる御使いは捨てらる

NO. 90

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1856年6月29日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです」。――ヘブ2:16


 おひとりでおられた《全能の神》は、被造世界によってご自分を明らかに現わすことになさり、その知恵と御力を示すものとして世界を創造された。創造という大いなるみわざに着手されたとき、神はそのみ思いの中で、多種多様な作品を造ろうとお決めになり、ご自分の被造物がみな単一の形、性質、威光、威厳のものにはならないようにされた。こういうわけで、神はあるものをごみ粒に造り、別のものを途方もない高さの山嶺に造られた。あるものを水滴とし、あるものを大海とし、あるものを高山とし、あるものを谷間として創造された。いのちなき作品においてさえ、神は素晴らしい多様性を保たれた。すべての星々に同じ栄光を与えることはせず、すべての世界に同じ重厚な嵩をお与えにはならなかった。すべての岩々に同じ手触りを与えることも、すべての海を同じ形や種類にすることもなさらなかった。むしろ神は、ご自分の御手のわざのうちに、無限の多様性が見られることを喜ばれた。いのちある被造物を創造されたときも、そこには注目すべき差異があった。虫けらから鷲へ、鷲から人間へ、人間から御使いへ――こうした段階に沿って、いのちあるものは、そのさまざまな種類がたくみに創造された。神はあらゆる被造物を鷲に造ることも、あらゆる存在を虫けらとすることもせず、自分のものを自分の思うようにする権利をお持ちのお方として、その権利を行使され、ある生き物は威厳ある獅子――森林の王者――とし、別の生き物は、敵にあらがう力も自らを守る力もなく、ただ補食されるだけの無害な子羊とされた。神は、その被造物をただみこころにかなうものとして造られた。あるものには足の早さを、別のものには翼の素早さを与えられた。あるものには視力の鋭さを、別のものには筋骨の強さを与えられた。神は、その創造において、いかなる硬直した規則にも従わず、ただご自分のみこころにのみ従って、ご自分がいのちを吹き込まれたものたちの形を整えられた。それと同じように私たちは、神が創造された理性的存在たちの間にも、非常な違いを見てとらざるをえない。限りなく矮小な知性の人間から高邁な精神の人間まで、そこには少なからぬ段階がある。そして、さらに高次の階梯に立つ理性的な被造物たちがいる。それは、人間がその同胞である人間にまさるよりも格段に大きな程度において、新しくされる前の人間にまさっている者たち――すなわち、御使いたちの階梯である。そして、御使いと人間を形作る際に、神はやはり、みこころのままに創造することのできるご自分の権利を行使し、ご自分のものをご自分の思うようになさった。そういうわけで、すべての御使いが威厳において同じようではなく、すべての人間が知性において同じようではないのである。神は、彼らを異なるように造られた。

 しかし、いま私たちがあなたの注意を引きたいと思うのは、神がご自分の御手のわざを形作るにあたり、みこころのままに行なわれた2つの事例――御使いたちの場合と、人間たちの場合である。御使いたちは先に生まれた。神は彼らを創造し、彼らに、自分の思い通りのことを行なえる自由意志をお与えになった。人に対してそうされたように、彼らが善を選ぶことも悪を選びとることもできるようになさった。神は彼らに、この約定を与えられた。――すなわち、もし彼らが善を選びとるならば、天における彼らの地位は永遠に安泰であり、不動のものとなる。だが、もし彼らが罪を犯したなら、彼らはその咎ゆえに罰され、栄光の御前から追い出されて、火の炎の中に入れられる。不運にも、御使いたちのかしらのひとりサタンは反逆した。彼は他の者らを誘惑し、天の星々の一部に道を踏み迷わせた。神は、その神聖な復讐によって、反逆した御使いたちを打ち伏せ、彼らをその天の座から放逐し、その幸福と栄光の住まいから追放し、地獄の深淵の中に叩き込み、永遠にそこに住むようにされた。残りの御使いたちを神は正式に認めて、選ばれた御使いたち[Iテモ5:21]と呼び、彼らの王座を永遠に確固たらしめ、彼らに冠を与えられた。神の恵みによって支えられた彼らが、自分たちの聖い行ないの廉直さによって保った相続の冠である。その後、神は、人間と呼ばれる別の種族を造られた。神は、彼ら全員を一度に造るのではなく、そのふたりしかお造りにならなかった。アダムとエバである。そして神は、すべての世代にわたる彼らの子孫全体の安全を、ふたりにゆだねて守らせなさった。神は、御使いたちに対して云われたように、アダムに仰せられた。「わたしはあなたに自由意志を与える。あなたは、あなたの望むままに、従うことも背くこともできる。わたしの掟はこうだ。あなたは、向こうの木に触れてはならない。この命令は決して厄介なものではない。この命令を守るのは、あなたにとって困難なことにはならない。というのも、わたしはあなたに善を選べる自由意志を与えているからだ」。しかしながら、あいにく人間にとって大きな悲惨を招くことに、アダムはそのわざの契約を破ってしまった。彼は呪われた木に触れて、その日、堕落した。あゝ! それは何という失墜であったことか! そのとき、あなたや私は、そして私たち人間すべては、倒れ伏し、呪われた罪が自分の上で勝ち誇っているのを尻目に、立っている人間はひとりとしていなかった。御使いたちの中には立ち続ける者もあったのに、いかなる人間も立ち続けることはなかった。アダムの堕落は、種族全体の堕落だったからである。御使いたちの一部が堕落した後で、神は、彼らの破滅に判を押し、確定し、揺るぎないものとされた。だが人間が堕落したとき、神はそうなさらなかった。神は人を罰すると威嚇しておられたが、その無限のあわれみによって、人類の大きな部分をお選びになり、その特別な情愛の対象とされた。彼らのために、神は尊い救済策を備え、彼らを相手に救いの契約を結び、それをご自分の永遠の御子の血によって確実なものとされた。こうした者たちこそ、私たちが選民と呼ぶ人々である。そして、神が滅びるにまかされた者たちは、自らの罪ゆえに滅びていく。それは、この上もなく正しいことであり、神の輝かしい正義をたたえることになる。さて、ここであなたが注目するのは神の主権である。人間と御使いをその自由意志という足場に立たせることを選ばれた神の主権。堕落した御使い全員を全き破滅で罰することを選ばれた神の主権。全人類に対する刑の執行を猶予し、多くの者たち――だれにも数えきれないほど多くの者たち[黙7:9]――人々の間から選ばれた者たち――天にある神の右の座の前に間違いなく立つことになる者たち――に永遠の赦罪をお授けになることを選ばれた神の主権。本日の聖句は、この偉大な事実に言及している。というのも、ここには正確に訳せば、こう書かれているからである。――「主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです」。これには2つの訳があるため、ここで、できる限り手短にその2つの意味を示すことにしよう。

 I. 最初に、私たちの英欽定訳にはこのように記されている。――「主は御使いたちの性質を取られたのではなく」。私たちの主なる《救い主》イエス・キリストは、死ぬために天からやって来られたとき、御使いの性質をお取りにはならなかった。《全能の》神の御子が、御使いのかしらガブリエルの衣裳をまとったとしてさえ、それは、熾天使が身を変えて蟻になるよりも、はるかに大きな卑下であったであろう。だが、御子は、そのへりくだりによって、いざ身を低めるときには、まさに最下辺にまでお降りにならずにはいられなかった。いざ被造物になるときには、最も高貴な被造物にではなく、理性ある存在の中でも最も下劣なもの、すなわち、人間にならずにはいられなかった。それゆえ、主は、御使いの性質という中間的な段階まで身を低めたのではなく、どん底まで身を低めて、人間になられた。「主は御使いたちの性質を取られたのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです」。このことの知恵と愛に注意してみよう。そこには、そうなさった神に栄光を帰さずにはいられないものがあると思う。

 1. 第一のこととして、もしキリストが御使いの性質を取られたとしたら、主は決して人間のための贖いとなることができなかったであろう。御使いの衣裳をまとうのは、人を救いに来られたお方にそぐわないように思えただろうという考えをわきに置いてさえ、あなたはこう認めざるをえないはずである。すなわち、もし主がそのようになさったとしたら、主は死を見ることがありえなかった。御使いたちがいかにして死ねるだろうか? 神がお望みになるならば、彼らの霊が消え失せることは考えられる。神によってしか不滅性を与えられていない者が、完全に消滅してしまうことは考えられる。だが、御使いたちには全く肉体がないため、彼らが死ねるとは考えられない。というのも、死とは肉体と魂の分離だからである。それゆえキリストは、人の姿を取り、死にまで従い、実に十字架の死にまで従う[ピリ2:8]ことが必要だったのである。もし御使いたちがそばに立っていたとしたら、彼らは云ったであろう。「おゝ! 大いなる《主人》よ。私たちの燦然たる衣をお取りになってください。おゝ! 人間たちの、あわれな普段着など取らずに、真珠で飾られた私たちの光輝く衣服をお取りになってください」。そしてガブリエルはこう云ったであろう。「さあ、私の翼をお取りになってください。力ある《造り主》よ。あなたのために翼を失うなど、私にとっては誉れのきわみです。それに、この冠と、瑠璃色の外套を取って、身にまとってください。神の御子よ。私の銀の履き物を御足に履かせてください。身をかがめると仰せになるなら、人になどならず、御使いになってください」。「いや、否」、と主は云われたであろう。「ガブリエルよ。お前の衣裳を着たとしたら、わたしは死と戦えず、墓の中で眠ることができず、死滅の苦痛と苦悶を感じられないであろう。それゆえ、わたしは人間とならなくてはならず、人間になるつもりだ」。「主は御使いたちの性質を取られたのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです」。

 2. 次のこととして注意しなくてはならないのは、私たちの《救い主》が御使いになられたとしたら、主が決して私たちにとってふさわしい模範になることはなかったであろう、ということである。私は、御使いの模範をあらゆる点で真似することはできない。私に真似のできる限り、それは非常に良いものであろうが、あらゆる点でそれを私の模範とすることはできない。もし何かを真似するように与えるというのであれば、私は、私と同じような人間を与えてほしいと思う。そうすれば、私はその人についていこうとすることができよう。御使いでは、私たちの《救い主》が私たちの前に置かれたのと同じ聖なる敬虔な模範を示すことはできなかった。もし主がいと高き所から、こうした輝かしい霊たちのひとりの衣をまとって降りてこられたとしたら、主はその御座を取り巻いている燦然たる智天使たちの見事な模範にはなられたであろうが、私たち、あわれな定命の人間たち、この地上における存在の間中、死ぬべき定めという鎖を引きずるべく運命づけられている者たちは、顔を背けて云ったであろう。「あゝ! このようなことは高すぎて、私たちの手には届かない」。そして、そのために私たちは、全く歩を止めていたに違いない。もし私が大理石を彫刻すべきだというなら、私が複製すべき大理石の像を示してほしい。そして、もしこの定命の土くれが、神の御霊によるかのように、まさに完璧な模範の姿に切り出されるべきだというなら、私には人間を私の模範として与えてほしい。というのも、私は人間であり、人間として私は完全になるべきだからである。キリストは、御使いの性質を取っていたとしたら、《贖い主》になれなかったばかりでなく、私たちの手本にもおなりになれなかったであろう。

 3. さらに甘やかなことに、もしキリストが一個の御使いであったとしたら、私たちに同情することがおできにならなかったであろう。私たちの同胞たる被造物に同情するためには、私たちはどこか彼らに似たものでなくてはならない。かりに鉄あるいは青銅でできた人間がいたとして、彼は私たちの疲れ切った肺や、痛む骨々に同情できるだろうか? そのような人に病や病気のことを告げてみるがいい。彼にそれが理解できるだろうか? 私は、そのような人に看護してほしいとは思わない。そのようなしろものが私の医者になってほしくはない。彼は私の気持ちがわからないであろう。私に同情できないであろう。否。私たち自身の同胞である被造物たちでさえ、私たちと同じような苦しみを経ていない限り、私たちに同情することはできない。聞いたところ、ある婦人は、一生の間一度も貧困を知らなかったために、結果として貧者に同情できなかったという。彼女は、パンの値段が高騰し、一個14ペンスになった頃に、パンが高すぎるとの不平を耳にした。「おゝ!」、と彼女は云った。「貧乏な人たちって、本当にがまんならないわ。パンが高いだなんて、ぶつくさ云って。もしパンがそんなに高いなら、菓子パンを食べればいいじゃない。いつだって安く売ってるんだし」。彼女は貧者の立場にあったことがなかった。それゆえ、彼らに同情できなかったのである。そして、いかなる人も、ある程度まで同じような立場に立ったことがなく、同じ困難を忍んだことがない限り、大して他者に同情することはできない。「忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした」[ヘブ2:17]。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」[ヘブ4:15]。しかし、もし主が御使いだったとしたら、いかなる同情を私に寄せることができただろうか? かりに私が御使いに向かって、私には到底自分の腐敗に抵抗できませんでした、と告げるとしたら、御使いは私を見つめて、一体何のことを云っているのかと思い惑うであろう。もし私が彼に、私はこの世が野獣の吠える広大な荒野であることに気づきました、と告げるとしたら、いかに彼は私を信ずることができるであろう。というのも彼は、野獣の咆哮など聞いたことがなく、その耳には黄金の立琴の音と、甘美な賛美の合唱交響曲しか聞こえていないからである。もし私が彼に、自分には進み続けることも、私の《救い主》のそば近くあり続けることもつらいことでした、と告げるとしたら、その御使いはこう云うほかないであろう。「私には同情できない。というのも、私はあなたのように誘惑されていないからだ。私は、私の熱烈な情熱を減じさせるような性質をまとわりつかせておらず、夜もない昼の間、衰えることなき翼をもって、御座の周囲を喜びながら回っているのだ。また私には私の大いなる《造り主》から離れたいという願いも意志も持っていないのだ」。そこに見られるのが《救い主》の知恵である。主は人となられ、御使いにはなろうとはしなかった。

 4. さらにまた、キリストが人となられ、御使いにならなかったのは、ご自分の愛する教会と1つになることを願われたからである。キリストは、時の始まる前から、ご自分の教会と婚約しておられた。そして、世に来られたとき主は、実質的にこう云われたのである。「わが花嫁よ。わたしはあなたとともに行こう。そして、あなたとともにいることを私の喜びとしよう。御使いたちの衣服は、もしわたしがあなたの骨の骨、あなたの肉の肉となろうというなら、わたしが着るにふさわしい婚礼衣装ではない。わたしはあなたに堅く強い絆で結ばれている。わたしはあなたを、『わたしの喜びは、彼女にある』と呼んだ。また、わたしは云った。『あなたの国は夫のある国と呼ばれよう』、と[イザ62:4]。よろしい。もし私があなたの夫であるとしたら、わたしはあなたと同じ状態で生きるであろう。夫が宮殿に住み、妻があばら屋に住むなどというのはふさわしくないであろう。夫が豪奢な衣を着て、妻がみすぼらしい服を着ているなどというのは、不似合いであろう」。「しかり」、と主はご自分の教会に仰せられた。「もしあなたが地上に住んでいるなら、私もそうしよう。もしあなたが土くれの幕屋の中に住んでいるなら、わたしも同じようにしよう」。

   「汝れと行かんと 主のたまいぬ、
    憂いと禍(まが)との 深き淵こえ、
    十字架の上にて われは忍ばん、
    死ちょう苦き 杯をも」。

キリストは、ご自分の教会と異なっていることに耐えられない。ご存じの通り、主は彼女なしに天国にいたいとはお思いにならなかった。それゆえ主は、彼女を贖い、彼女を訪れるために、あの長い長い旅をなさった。そして、この使命を帯びてやって来られたとき、主は彼女が土くれからなり、ご自分が土くれからできてはいないことをお望みにならなかった。主はかしらであられる。かしらが黄金からなっていて、からだが土くれからなっているというのは、ちぐはぐなこととなっていたであろう。かの砕かれずにはおかなかったネブカデネザルの像のようであったろう[ダニ2]。「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちにならなくてはなりませんでした」*[ヘブ2:14]。というのも主は、「私たちの救いの創始者」*であられた以上、「多くの苦しみを通して全う」されたからである[ヘブ2:10]。このようにして、やはりあなたは、主が「御使いたちの性質を取られたのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださる」ことに、主の愛と知恵を見てとるであろう。

 5. また、もしキリストが人間の性質をお取りにならなかったとしたら、人間性は、今ほどの誉れや慰めを有さないものとなっていたであろう。キリスト者になるということは、人間が、神の造られた中で、最も偉大なものとなることだと私は思う。私は小さな者であるが、神の子どもであるとしたら、自分について、「私は、私の《造り主》に次ぐ者だ」、と云えるのである。そこには無限の、すさまじいばかりの、測りがたい距離がある。だが、イエス・キリストご自身を除き、人間と神の間にはいかなる者もいない。御使いについて云えば、彼は贖われた人間に劣っている。「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか」[ヘブ1:14]。議論の余地なく、下位の者の方が上位の者に仕えるのであり、上位の者が下位の者に仕えはしない。それゆえ、御使いたちは人間たちに劣っているのである。というのも、彼らは私たちに仕えているからである。人間性は高貴なものである。神がかつて人間性を身に帯びたからである。人間性は栄光に富むものである。それは永遠者の衣となったからである。「神は人となって、私たちの間に住まわれた」#[ヨハ1:14]。それゆえ、人は尊厳ある者、栄光に富む者となったのである。また、先に云ったように、もしキリストが人間にならなかったとしたら、人間であることにはそれほど慰めがないであろう。というのも私は、自分が死ななくてはならないことを知っており、今や私の慰めは、私がよみがえることにあるからである。だが私は、キリストが人となったことがなく、主が死んでよみがえったことがなかったとしたら、その慰めを持てなかったであろう。おゝ! 死よ。私はしばしばお前の地下牢を見てきた。そして、だれがそこから脱出できるだろうかと考えてきた。その壁は厚く、扉には巨大な石が転がされてあり、それは堅く封印され、番兵たちが見張っている。おゝ、死よ。お前の墳墓を引き裂ける者、お前のの扉を開ける者がどこにいようか? おゝ、死よ。お前の鉄格子は定命の者によっては挽き切ることができず、お前の鎖は有限の者によって断ち割られるには重すぎる。だが、私は慰めを見いだしている。ひとりの人が死の縄目をはじき飛ばしたからである。その枷を断ち割り、その青銅のかんぬきを切断し、その門の錠を開き、勝ち誇って天空へと進んでいったお方がひとりいるからである。私は、その人によって、やがて御使いのかしらの大喇叭が、眠りについていた私の原子を飛び上がらせるときに、私も行なうことになるはずの実例を見てとる。私もまた、やすやすとよみがえるであろう。私の《救い主》なる主がよみがえったように、主に従う者たちはみなよみがえるに違いないからである。それゆえ、死よ。私はお前の地下牢を見るとき、それが一度開かれたらには、再び開かれざるをえないだろうと考える。お前のうじも、そのえじきを引き渡さざるをえず、それが食物にしていた肉を返さざるをえないだろうと考える。お前の墳墓の石のことは、大海が打ち寄せる砂利だらけの浜辺にある小石か何かのようにみなす。私が墓場の死装束を引き裂き、不死の状態へと上るときには、その石を思い切り投げ飛ばすであろう。人間であることには慰めがある。キリストが死んでよみがえったからである。だが、主が御使いだったとしたら、復活はその偉大で栄光に富む証拠を有さなかったであろう。私たちも人間であることにそれほど満足していなかったであろう。死がやって来るとわかっていても、不死性やいのちを見てとれないからである。

 II. このように私は、この主題の最初の部分を説明しようと努めてきた。さて今は第二の部分についてである。英欽定訳の欄外に記された異なる読み方によると、文字通りの訳はこうなる。「主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです」。これは、キリストが死なれたのは、いかに多くの御使いが救いを必要としていたにせよ、彼らを救うためではなく、堕落した人間を救うためだったということである。さて、私はしばしば喜んで、偉大な恵みの教理に反対する人々の歯の間に硬いものを突っ込んでやりたいと思う。私が頻繁に聞かされるところ、選びという教理は実にぞっとしない教理であって、神がある人々を救い、他の人々を滅びるにまかせるなどと教えるのは、神を不公平なお方にすることだという。時として私がどうしてそうなるのかと訊くと、普通はこのような答えが返される。かりに、ある父親に何人か子どもたちがいたとして、そのうちの何人かを恐ろしい地下牢に入れ、その残りを幸せにしてやったとしたら、あなたはその父親が公平だと思うのか、と。よろしい。答えよう。あなたの想定したような場合であれば、私はあなたに、もちろん私もそうは思わない、と答えるであろう。子どもには父親に要求できる権利があり、父親は子どもの要求するものを与える義務がある。だが、私は知りたいと思う。そうした問いかけをすることで、あなたは何を意味しているのか? いかにしてそれが神の場合にあてはまるのだろうか? 私は、人間が全員神の子どもたちであるなどとは知らなかった。私は、人間はみな神に反逆した臣下であるとは知っていたが、彼らが神の子どもたちであるとは知らなかった。私が知っていたのは、彼らが神の子どもたちになるのは新しく生まれるときだということ、また、彼らが神の子どもたちになりさえすれば、神は彼らを同じように扱い、彼らをみな天国へ連れて行き、彼ら全員に住まいをお与えになるということであった。そして、私は、神がその子どもたちの中のひとりをも地獄に送られたと聞いたことは一度もない。確かに、私は、あなたがそう云うのを聞いたことはある。神の子どもたちの中には恵みから落ちる者があり、それゆえ、神は彼らを地獄へ送るのだ、とあなたが云うのは聞いたことがある。それがどうして公平なのかという問題を解決するのはあなたにおまかせしよう。だが、方々。私は、神の被造物がみな神の子どもたちであると認めてはいないのである。そして私には、あなたに尋ねたいちょっとした疑問がある。あなたは、このことをどう説明するのだろうか?――悪霊たちと堕落した御使いたちがみな失われているのというのに、あなた自身の申し立てによると、堕落した人間たちには全員救われる機会があるのだという。あなたはそれをどう説明するのか? 「おゝ!」、とあなたは云う。「それは問題が違います。私は堕落した御使いたちのことは考えに入れていませんでした」。しかし、もしあなたが、この件について悪魔に尋ねたとしたら、彼は問題が違うとは云わないであろう。彼はあなたに云うであろう。「お言葉ですが、もし人間たちがみな神の子どもたちだというなら、悪霊たちもみな神の子どもたちである権利が完全にあります。私は、彼らが人間と同じ立場に立つべきであり、堕落したひとりの御使いは、堕落したひとりの人間と同じくらい自分のことを神の子どもたちのひとりであると呼ぶ権利があると確信しています」、と。そして、私はあなたに、あなた自身の仮説に立って、この件に関して悪魔に答えてほしいと思う。悪魔が一度あなたにこう尋ねたとしよう。「あなたは、神が自分の子どもたちのひとりを地獄に送り、もうひとりを天国に連れて行くのは不公平だと云います。さて、あなたは、あらゆる被造物が神の子どもたちだと云いましたね。よろしい。私は被造物です。それゆえ、私は神の子どもです。では、どうか教えてくれませんか? 私の御父が私を地獄へ送り、あなたを天国に行かせるのはなぜか、あなたはどう説明をつけようというのです?」 さて、あなたはこの悪魔の疑問を解決しなくてはならない。私は、あなたに代わって答えはしない。私は今まで一度もそのような立論を行なったことはない。私の見解は決して私をそのような境地に追い込みはしない。だが、あなたは困難に巻き込まれざるをえず、自分にできる限りの手立てを尽くして、そこから脱出するがいい。私の原理に立てば、そうした行為は十分に正しいものである。人間も悪魔もどちらとも罪を犯した。どちらとも自らの罪ゆえに断罪されて当然である。神は、そう決心するならば、彼らをどちらとも正当に滅ぼすことがおできになる。あるいは、正義を曲げずにそうできるとしたら、彼らをどちらとも救うことがおできになる。あるいは、みこころであれば、彼らのうち一方を救い、もう一方を滅ぼすことがおできになる。そして、もし――神がそうなさったように――ある残りの者を救うことをお選びになり、その残りの者たちを人間とし、すべての堕落した御使いたちが地獄に沈むことをお許しになったとしたら、私たちに答えられるのは、神は正しい、神にはご自分の被造物をご自分の思うとおりになさる権利がある、ということでしかない。知っての通り、あなたは女王に、彼女がふさわしいとみなすときには、反逆者を赦す権利を認めている。では、あなたは、その権利を神には認めないというのだろうか? 「ええ」、とあなたは云う。「神が全員を赦すというのでない限り、認めません」。よろしい。方々。ならば、そこには何の権利もないであろう。女王は、全員を赦す自由をあなたから認められても、あなたに感謝しはすまい。彼女は云うであろう。「いいえ。場合によっては、私の栄誉と私の法の栄誉にかけても、赦すことができないことがあります。それゆえ、そのような者たちを私は赦しません。場合によっては、私の温情の栄誉のためになり、また私の法に害を及ぼさないこともあるので、そうした者たちを私は赦しますし、そのように行なう私の権利を高く掲げます」、と。さて、あなたは国王や皇帝には認めるものを神には認めないのである。だが、私はここに立って、その権利を神のために主張するものである。そうしたければ、それを否定してもいいが、あなたはそれを聖書に逆らって否定せざるをえないであろう。というのも、聖書は権威をもって宣言しているからである。神は《主権者》であられ、神は、「人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです」、と[ロマ9:18]。

 さて、もし私たちの友人がそうさせてくれるなら、ここでしばらくの間、この立論について考察してみよう。いかにすれば悪霊たちが失われ、一部の人間たちが救われるということがありえるのか。

 1. 第一のこととして、それは、罪に何らかの違いがあるためであるとは思わない。裁判官の前にふたりの犯罪人が引き出された場合、もしもひとりが救われ、もうひとりが罰されることになっているとしたら、まず間違いなく裁判官はこう云うであろう。「より重い罪を犯したのはどちらか? 罪の重い方が死に、罪の軽い者は救われるがいい」。さて、私はサタンが人間よりも重い罪を犯したとは思わない。堕落した御使いたちが人間よりも大きな罪を犯したかどうかわからない。「なぜです、先生」、とあなたは云う。「人間の罪は、非常に小さなものです。彼は単に自分の《主人》の果物を少し盗んだだけではありませんか」。あゝ、だが、もしそれがそれほど小さな事だったとしたら、そう行なおうとしないことは、いかに小さな事であったはずか! それがそんなに小さな事だったとしたら、人はいかにたやすくそれを避けられたはずであることか! それゆえ、人がそれを行なったがゆえに、それは、なおのこと重大な罪となったのである。「おゝ!」、とあなたは云う。「ですが、サタンは高慢でしたし、堕落した御使いたちは高慢でした」。では、愛する方々。あなたは、かなり確かに同じ範疇に入っているではないだろうか? いずれにせよ、アダムはそうであった。「しかし」、とあなたは云う。「サタンは反逆したのです」。よろしい。もしあなたが反逆者でなかったとしたら、そのような口のききかたをしようとはしなかったであろう。もしあなたが神に反逆していなかったとしたら、あなたはいきり立って神の主権を否定しようとはしなかったであろう。「しかし」、とあなたは云う。「悪魔は最初から偽り者でした」。私は、あなたが最後に真実を語ってからどのくらいになるかと思う。方々。あなたは、悪魔同様、うそのつきかたを知っており、あなたの罪を堕落した御使いたちがしたのと同じくらい高じさせてはいないにせよ、神があなたを放っておき、歯止めをはずされたとしたら、あなたは悪魔と大差なくなるのではないかと思う。私の信ずるところ、もし人々がその望むままのことを行なうよう許され、いかなる政府の統治もなくなるとしたら、彼らはほとんどサタンをも上回るであろう。フランスのロベスピエール[革命家。1758-94]を見るがいい。かの恐怖時代[フランス革命期に最も狂暴であった1793年3月-1794年7月]の行状を見るがいい。異教徒の国々に目を向けるがいい。そこでいかに忌まわしい悪徳、いかにみだらな罪が公然と犯されているかを、私はあえて告げるまい。私はソドムとゴモラを指し示し、人間がいかなる者となりうるかをあなたに問いたい。そして私は云うが、疑いもなく人間は、神の抑制のあわれみが取り去られたとしたら、確実に悪魔と同じくらい下劣なものとなるに違いない。いずれにせよ、アダムの罪がサタンの罪と同じくらい大きなものであったことは疑いない。「あゝ!」、とあなたは云う。「ですがアダムは誘惑されてそうしたのではありませんか」。しかり。それは多少は云い訳になったであろう。だが、悪霊たちの大多数もそうだったのである。確かに、サタンは誘惑されなかった。彼は自らの自由意志で罪を犯した。だが、彼は他の霊たちを誘惑した。そして、それゆえ、人間にとって有効な云い訳は、堕落した霊たちの大多数にとっても有効になるであろう。では、なぜ神は、堕落した霊たちの一部を救われるようにお選びにならなかったのだろうか? 答えよう。あなたには、このこと以外にいかなる理由も決して見いだせないであろう。「自分のものを自分の思うようにしてはいけないということがありますか」*[マタ20:15]。そして私たちはひれ伏して、御使いたちを看過し人間をお救いになった無限の主権を、息もとまらんばかりに賞賛するしかない。

 2. しかし、両者の罪に大した差がないとした場合、次の疑問は、この2つの存在のうち、救われるべき価値があるのはどちらか、ということである。より価値がある被造物はどちらだろうか? その《造り主》から容赦された場合、《造り主》に大きな奉仕を果たすのはどちらだろうか? そして、私はあなたがたのいかなる者にも、こう云うものである。できるものなら、罪深い人間の方が、御使いよりも価値ある被造物だと主張してみるがいい、と。左様。もし神が――人間的な云い方をすれば――損得だけを考えておられたとしたら、御使いを救う方が得であったろう。回復された人間よりは、回復された御使いの方がずっと大きな奉仕を神にささげることができたであろう。たとい私が日に日に神に奉仕するとしても、夜には休まなくてはならない。だが、御使いたちなら、夜のない昼を神の神殿の中で奉仕する。もし私の熱心がかつてないほど激しく燃えるとしても、私のからだは衰えざるをえない。だが御使いたちは物憂さを知らない。また、たとい救われたとしても、私は神の御座の回りに立つ廷臣としては、貧相な者となるであろう。だが、彼方の輝かしい、堕落した熾天使は、もし解き放たれたとしたら、《全能者》の広間という広間に光彩を沿える貴族そのものとなるであろう。たとい私が天国に連れて行かれることがあるとしても、私には御使いのような輝く栄養は有していないし、私の性質は気高くされても、神がそうお定めになった場合の御使いがそうなるものをしのぐことはないであろう。だが、もしサタンが救われていたとしたら、おゝ! いかに大音声で彼は歌うことであろう。また、いかなる喜びとともに彼は天を行進し、彼を地獄から救い出した恵みをたたえ、その栄光を現わすことであろう! それゆえ、もし神がご自分の損得を考えておられたとしたら、神は人間たちを救うよりは御使いたちを救おうとされたであろう。

 3. もう1つ考えるべきことがある。時として政府はこう云うであろう。「よろしい。ここに処刑されるべき者がふたりいる。私たちはそのひとりを救いたい。ふたりのどちらが、敵として活動し続けるのを許すには、より危険な性格をしているだろうか?」 さて、人間的な云い方をすれば、堕落した御使いと人間のうち、どちらがより一層の害を神に及ぼすだろうか? 答えよう。堕落した人間は、天来の統治に対しては、堕落した御使いにくらべればほとんど害を及ぼすことができない。堕落した御使いは実に狡猾で、実に力強く、実に迅速で、実に電光の翼に乗って飛びかけることができるため、人間によってなされるよりも、可能であれば十倍も多くの害悪をその《造り主》に及ぼすことができよう。それで、もしこの種の考察が何か神のみ思いにあったとしたら、神は悪霊たちを選んで彼らをお救いになったであろう。彼らは、もし救われたならば、神に最も栄光を帰し、救われなかったならば、神に最も害悪を及ぼすことができただろうからである。

 4. だがしかし、もう1つここで考察すべきことがある。それによってあなたは、さらに深く、いかにこの件における天来の意志が主権的なものであるかを見てとるであろう。ことによると、こう云われるかもしれない。もしだれかを救わなくてはならないとしたら、手間をかけずに救える者を救うがいい、と。さてあなたは、堕落した御使いと、堕落した人間とのどちらの方が簡単に救えたと思うだろうか? 私としては、何の違いも見てとれない。だが何か1つあるとすれば、回復されることは、変革されることの半分も常軌を逸したことではないという気がする。そして、御使いたちを、彼らの転落した地位に回復してやることは、――人間的な云い方をすれば――堕落した人間を、彼らが転落した立場から取り上げ、堕落した御使いたちが以前立っていた地位に置くことほど困難ではなかったであろう。

 もしサタンが天国に入ったとしたら、それは回復に似たものであったろう。――かつての王が、自分の古の王座に返り咲くようなものであったろう。だが、人間が天国に行くとき、それはひとりの王が別の王朝――別の王国――に赴くようなものである。それは人間が御使いの地位に入るということである。そして、ご存じの通り、そのためには聖めの恵みと贖いの愛がなくてはならない。堕落した御使いたちのためにもそれは必要だったかもしれないが、確かに堕落した人間のためほどは必要なかったであろう。ここで私たちは、唯一の答えに立ち返らされる。神が人間たちを救い、御使いたちをお救いにならなかったのは、単に神がそうすることを選んでおられるからである。そして、神は滅びに落ちた御使いたちにこう云われる。「しかし、サタンよ。神に云い逆らうお前は、いったい何か? 形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか』、と云えるだろうか?」*[ロマ9:20]

 5. しかし、あなたは云うかもしれない。神が人間をお救いになったのは、人間をあわれまれたからだ、と。しかし、そのときなぜ神は悪霊たちをあわれまなかったのだろうか? 私の知っているふたりの人は、一週間に3、4シリング程度で生活している。私は、そのうちのひとりを非常にあわれに思うが、もうひとりは、それより少しもまともな暮らしはしていないが、一層深くあわれに思う。というのも、彼はかつては良い境遇にあったからである。確かに人間はエデンから堕落した。だが、サタンは天国から堕落したのであって、その失墜の大きさゆえにいやまさってあわれまれるべきである。そして、それゆえ、もしあわれみが先行していたとしたら、神は堕落した御使いたちを救うと決定し、堕落した人間たちを救おうとはなさらなかったであろう。

 しかし、私はある人がやはりこう囁いているのが聞こえるような気がする。「ですが、私は最初の部分がわかりません。先生は仰いましたね、人間の罪がサタンの罪と同じくらい大きなものであることは疑いないと」。よろしい。ぜひ繰り返させてほしい。別のことを云ってみよう。それには、いかに賢い人でも、決して何の違いも見てとれまい。あなたは、ある罪とある罪が異なっている場合、その罰が同じだなどと思うだろうか? 思わないに違いない。あなたは、同じ罰は同じ罪に下されるはずだ、と云うであろう。よろしい。さて、悪霊たちと人間たちは同じ地獄に入れられる。悪魔とその使いたちのために用意された火の池こそ、人間たちが入れられる場所である[マタ25:41]。それゆえ、私はあなたがたに云いたい。できるものなら、彼らの罪が同じでないことを証明してみるがいい、と。私の信ずるところ、それらは、たとい程度を同じくする罪でないとしても、質においては同じであり、性質において同じである。それゆえ、堕落した御使いと堕落した人間は同列に立っているのである。それで、もし神が違いをつけるとしたら、神はそれを、ただご自分がその違いをおつけになろうと思われるがゆえにおつけになるのであり、その理由の説明はなさらない。これは、功績のように見えるあらゆるものを根こそぎ切り落とす短刀である。これによって自由意志説信奉者からは、不正義のかどで神を告発するあらゆる機会が奪われるのである。というのも、いかにして彼は、ある人を救い、別の人を救わない神を不正であると証明できるだろうか? もし彼が、一部の人間たちを救い、悪霊たちを滅びるにまかせている神を不正であるとほのめかしもしないというのであれば、到底そのようなことはできない。

 さてこれで、この主題を閉じることにするが、ほんの1つか2つ実際的な所見を述べなくてはならない。それをもって、しめくくりとしよう。ある人々は、この教理的な説教を痛罵し、外に出てから私を無律法主義者と呼ぶであろう。私は、そうした人々を怒らせることができる限り、そのようなことを全然気にしない。というのも、ある人が真理を憎んでいる場合、私はその人の憤りをかき立てることに何1つはばかることがないからである。そして、もしだれかが私の神を怒らせているとしたら、その人も怒らされるがいい。その人は、自分の反対を表明した方がはるかにましである。というのも、そのときには、ことによると、そうしたものが自分のうちにあるとわかり、神の御前でそれを悔い改めるかもしれないからである。しかし私はあなたに、これが実際的な主題であることを示したい。それが実際的であるというのは、このようにしてである。もしだれかが、自分を思い通りにする神の権利に服さないとしたら、その人は自分自身の敬神の念を疑うべき非常に深刻な理由を有している。「あゝ」、とあなたは云う。「それは極端ですよ」。さて、私は別に辛辣なこと、頑迷なことを云うつもりはない。ただ、もう一度語っておきたい。私は、あなたが教理的にそれを否定する場合には、そうは云わない。だが、あなたが心の中でこの教理――神にはあなたを救う権利も滅ぼす権利もあるという教理――を憎んでいる場合、あなたは、神の御前における自分自身の立場を一度でも知ったことがあるかどうか疑うべき非常に深刻な理由を示している。というのも、何ら疑問の余地なく、謙遜な罪人はだれひとりとして、自分を滅ぼすことのできる神の権利を疑おうとはしないに違いないからである。そして、私の信ずるところ、自分の同胞である人々に対して少しでも愛をいだいており、かつ、神には自分を滅ぼす権利があると信じている人であれば、たとい自分と同じくらい悪人でしかない他の人が神によって選ばれたとしても、決して神に口答えしたりしないであろう。私はあなたに云う。あなたの不遜な高慢こそ、こうした教理に対して反抗するものなのである。地獄から生まれた、あなたの我慢ならないうぬぼれこそ、あなたにこの真理を憎ませているものなのである。人々は常にこれに反対してきたし、常に反対し続けるであろう。キリストがかつてこの真理を説いたとき、彼らは主を丘の崖のふちまで引きずって行き、そこから投げ落とそうとしたし[ルカ4:29]、私も、この真理を露骨に平易な言葉で語るならば、常に反対に出会う覚悟をしている。だが、あなたには厳粛に告げさせてほしい。もしあなたが、あなたに関する神の権利を信じないのであれば、残念ながらあなたの心はまだ一度も神の御前で正しくされたことがないと思う。

 しかし、もう1つ、実際的な結論がある。もしあなたがこのこと――すなわち、神にはあなたの魂を地獄に送る権利があること、また、たとい神が他の人を救い、あなたを救わないとしても、神は正しくあられ、もし神があなたをお救いになるとしたら、それは無代価の、分け隔てをする愛の行為となるはずであること――を真実だと感じられるとしたら、あなたは、天の御国に非常に近い精神を示しているのである。人は、何かしら心が変化していない限り、この真理を認めようとはしないと思う。頭では認めるかもしれないが、新しい心と正しい精神を得ていない限り、これを真実だとは感じられないものである。私も、神の主権を信ずる人がみなキリスト者に違いないとまで云うつもりはない。だが、私は云う。もし人が心から謙遜になり、柔和になり、悔い砕かれて、《救い主》の足元にひれ伏し、

   「わが手にもてる もの何もなし」、

と云い、「私には何の義も、何の権利もありません。もしあなたが私を断罪なさるなら、あなたは正しくあられます。もしあなたが私をお救いになるなら、私は永遠にあなたに感謝しましょう」、と云うなら、そのような人は、その心に中に恵みのみわざを有しているがために、このような結論に至らされているに違いない。ならば、あわれな罪人よ。もしあなたがこう云えるとしたら、イエスのもとに来るがいい。イエスに来たるがいい。というのも、主は決してあなたを追い払わないからである。放蕩息子の話をして終わることにしたい。その放蕩息子は、ある朝、旅立った。そして長い長い旅をした。自分の罪と愚かさという高い山に登らなくてはならなかった。彼がその頂上に達し、真の悔い改めという名の塔に近づくや否や、家の屋上に座していた彼の父親の目に入った。そして父親は、彼を見るなり即座に駈け出した。そして、息子が戸口に来る前に、息子をだきかかえ、口づけした。父親はわが子を自分の家に連れ込み、祝宴が供され、彼らはその席に着いた。だが、息子が着席した後で父親が目を向けると、彼は食べておらず、涙がその頬をしたたり落ちていた。「わが子よ」、と父親は云った。「なぜ食べないのだね? なぜ泣いているのだね? わが子よ。この祝宴はみな、お前のために用意されたのだよ」。息子は涙にくれて云った。「お父さん。私のすべてを赦してくださるのですか?」 「もちろんだ」、と父親は云った。「赦すとも。食べるがいい。わが子よ。泣いてはならない」。放蕩息子は食べ始めた。父親は、他の招待客たちに目を向け、しばらく経ってから息子を見ると、再び涙を流して、食べていないのが見えた。父親は云った。「わが子よ。なぜ食べないのだね? この祝宴はみなお前のためのものなのだ。なぜ泣くのだね? わが子よ」。「お父さん」、と彼は再び涙で頬にぬらしながら云った。「私を家にいさせてくださるのですか?」 「おゝ、もちろんだとも。わが子よ」、と父親は云った。「食べるがいい。泣いてはならない。お前はここにいてよいとも。お前は私の愛する子なのだ」。よろしい。放蕩息子は食べ始め、父親は他の招待客たちに目をやった。すると彼の息子はまたしても泣き出した。「愛する子よ」、と父は尋ねた。「なぜ泣くのだね?」 「おゝ、お父さん」、と彼は云った。「私がここから離れないようにしてくださるのですか? というのも、もしあなたがそうしてくださらなければ、私は自分が逃げ出すと知っているからです。お父さん。私がここにい続けるようにしてくださいますか?」 「そうするとも、わが子よ」、と父親は云った。「お前が逃げ出さないように私がするとも」。

   「恵みは縛らん 枷のごと
    さまよう心を わがもとに」。

息子は目をぬぐうと、食事を食べ始め、二度と泣くことはなかった。あわれな放蕩息子よ。ここに、あなたが聞くべきことがある。もしあなたがキリストのもとに来るなら、あなたはずっとそこにとどまっているであろう。そして、それに加えて、キリストがあなたをそこにとどめ続けてくださるであろう。それゆえ、喜ぶがいい。というのも、思い出すがいい。主は、あなたを滅ぼす権利をお持ちだが、そうはなさらないのである。主の心はあなたに対する愛とあわれみに満ちている。ただ主のもとに来るがいい。そうすれば、あなたは救われるのである。

 

人は選ばれ――堕落せる御使いは捨てらる[了]



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