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理由なき憎悪

NO. 89

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1856年6月29日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「彼らは理由なしにわたしを憎んだ」。――ヨハ15:25


 ここで私たちの《救い主》が言及しておられる引用箇所は、普通、詩篇35篇19節であると理解されている。そこでダビデは、直接は自分について、預言的には《救い主》について、こう語っている。「私の敵を、私のことで喜ばせないでください。ゆえもなく私を憎む人々が目くばせしないようにしてください」。私たちの《救い主》は、これがご自分にあてはまるものであると言及し、それによって実は、多くの詩篇が、事実上メシヤ的なものである、すなわち、メシヤに言及したものである、と告げておられるのである。それゆえ、詩篇はメシヤに言及しているというホーカー博士の所説に間違いはない。博士の言葉には、やや行き過ぎの面はあるかもしれない。しかし、詩篇を読んでいく際には、常にそれを、ダビデもさることながら、ダビデを予型とするお方の暗示として眺めるようにするのは良い案であろう。そのお方とは、ダビデの主なるイエス・キリストにほかならない。

 《救い主》ほど麗しいお方はいまだかつてなかった。主に愛情をいだかずにいるのは、ほとんど不可能に思われるであろう。一見したところ、主を憎むのは、主を愛するよりも、はるかに至難のことに思えるに違いない。だがしかし、主がいかに麗しいお方であるにせよ、しかり、その「すべてがいとしい」[雅5:16]お方であるにせよ、この世のいかなる者にもまして早くから憎しみに出会い、いかなる人にもまさって絶えず迫害を受けなくてはならなかったのは主なのである。主がこの世に生まれ出るや否や、ヘロデの剣が主を殺そうと待ち受けていた。ベツレヘムの幼児らの恐るべき大虐殺は、キリストが忍ばれることになる苦しみと、わが身をかえりみない主の尊い頭に人々が浴びせかけることになる憎しみとの、悲しき前兆であった。最初の瞬間から十字架に至るまで、少年期の一時的な小康状態をのぞいて、あたかも全世界が結束して主に反抗し、あらゆる人が主を滅ぼそうとしていたかのように見受けられる。この憎しみは、手を変え品を変え姿を現わした。時には、それは公然たる行為であった。例えば、人々が主を丘のがけのふちから投げ落とそうとしたとき[ルカ4:29]、あるいは、主がアブラハムもご自分の日を見たいと願い、それを見て喜んだのだと述べたために、人々が石を取って主に投げつけようとしたとき[ヨハ8:59]がそうである。さもなければ、この憎しみは中傷の言葉となって現われた。例えば、――「あれは酔いどれの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」*、と[マタ11:19]。あるいは、侮蔑しきった顔つきによって現われた。例えば、取税人や罪人たちと食卓をともにし、洗わない手で食事をする主を、彼らがうさんくさい目で眺めたときがそうである。さらにまた、この憎しみは彼らの思いの中だけにとどまり、彼らは心の中で、「この人は神をけがしている」、と考えていた。主が、「あなたの罪は赦された」、と仰せになったからである[マタ9:2-3]。しかし、キリストに対する憎しみは、ほとんどいかなる場面においても見受けられた。彼らが主を擁し、王にしようとし、大衆の喝采という底の浅い、はかない上げ潮が主を、頼りない王座にふわりと乗せようとしたときでさえ、そこには主に対する憎しみが潜んでいた。それはただ、パンと魚によって抑えられていたにすぎない。そしてそれは、同じくらいのパンと魚を祭司たちからしこたま供されることだけを求めて、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に」[マコ11:9]、と叫ぶかわりに、「十字架につけろ、十字架につけろ」、という叫びの中で露になっていったのである。あらゆる階級の人々が主を憎んだ。大抵の人々は、ある程度の反対を受けざるをえない。だが、そうした多くの場合、それは階級的反対であり、階級によっては、彼らを尊敬する層もある。貧民層から賞賛される民衆煽動家は、富裕層から軽蔑される覚悟をしなくてはならない。また、貴族階級のために働く者は、もちろん多くの人々から蔑まれるものである。しかし、ここにいるお方は、民の中を歩み、彼らを愛し、富者にも貧者にも、あたかも彼らがご自分のほむべき御目においては同一水準にあるかのように(実際そうなのだが)お語りになった。だがしかし、結局はあらゆる階級がこの方を憎むことになった。祭司たちは、主が彼らの教義をぶちこわしにしたというので、主をけなした。貴族たちは、主が王であると語られたので、主を死罪にしたがった。一方で貧民層は、彼らにしかわからない何らかの理由によって、――確かに主の雄弁を賞賛し、主が何か驚くべき行為をなさると、しばしば主の前に平伏して礼拝するほどでありながら、――その彼らでさえ、おのれの務めをないがしろにしていた指導者層に引きずられ、主を死刑に処することになった。そして主を木に釘づけにした後では、首を振り、主に向かって、もし神殿を三日のうちに建てられるなら、自分を救ってみろ、十字架から降りて来い、とあざけることにより[マタ27:40]、おのれの咎を動かぬものとした。キリストは、人から憎まれ、中傷され、あざけられた。「さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」[イザ53:3]。

 さて、私たちが今朝、第一に行ないたいのは、ご自分が理由なしに憎まれたという、《救い主》のこのことばを正当だと理由づけることである。第二に、主を理由なしに憎んだ人間たちの罪について論ずることである。そして第三のこととして、キリストご自身の民に対して一二の教訓を示すことである。すなわち、彼らの《救い主》が理由なしに憎まれたという事実から、私たちが学ぶことのできる教訓である。

 I. 愛する方々。まず第一に私たちは、《救い主のこのことばの正しさを示すことにしよう》。――「彼らは理由なしにわたしを憎んだ」。私たちが言及したいのは、人間の罪深さ、およびキリストのきよさ以外の何を考察しようと、この世が主を憎まなくてはならなかった理由は何1つ発見できない、ということである。

 最初のこととして、キリストをそのご人格において考えてみよう。キリストが人としてこの世で生きておられたとき、そのご人格の中には、自然とだれかから憎まれることになるような傾向があっただろうか? 私たちは云いたい。そこには、普通の人間関係において憎しみをかき立てることになるようなものが、ほぼ完全に欠如していた、と。まず、キリストには、人のねたみを買うようないかなる高い地位もなかった。よく知られた事実だが、いかに善良な人であっても、その富か称号が、少しでも同胞よりも引き上げられると、その人を尊敬する人がちらほらいないではないものの、大多数の人は、しばしばその人の悪口を云うものである。それも、その人の中身のためというよりは、その人の地位や称号が主たる理由である。群衆の中にいると、人は自然と貴族を軽蔑するように思われる。ひとりひとりの個々人としては、貴族の殿様方と知り合いになるのは実に素晴らしいことだと考える。だが、人々を寄せ集めると、彼らは殿様や主教を軽蔑し、主権や力を非常に軽んずる口を叩くものである。さてキリストには、その地位を示すような外的な物々しさが何もなかった。豪勢な馬車もなければ、長袖の衣もなく、その同胞よりも高められているものは何も有していなかった。表を歩くときには、付き添いの先触れだの、その誉れとなる華麗な行列だのは何もなかった。事実、キリストの風采は、自然とあわれみの情を生じさせるようなものだったろうと思う。人々の上に引き上げられているどころか、主は、ある意味では人々よりも下にいた。というのも、狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もなかったからである[マタ8:20]。多くの民主主義者は、カンタベリー大主教がランベス宮を通り過ぎるときには、激しいののしり声をあげるのを常としてきた。だが、もし大主教が枕するところもなく、ただ真理のために粉骨砕身し、何の報いも受けていないと聞かされたとしたら、呪ったり、蔑んだりしようと思うだろうか? 地位や、身分や、そうしたものによって本来かき立てられるような嫉妬は、キリストの場合に働くはずがなかった。主の身なりには、人目を引くようなものが何もなかった。それはガリラヤの田舎者の服装――「上から全部一つに織った、縫い目なしのもの」[ヨハ19:23]――であった。また、主は無位無冠の庶民であった。古代王家の末裔ではあったかもしれないが、その王権は明らかに絶えて久しく、主はただの大工の倅としてだけ知られていた。ということは、彼らは、そうした意味において、「理由なしに」主を憎んだのである。

 多くの人々は、自分たちを支配する、あるいは統治する人々に対して、ねたみをかき立てられるように見える。だれかが私を治める権威を有しているという事実そのものが、私の悪い情動を呼び起こし、私はその人を猜疑の目で眺め始める。その人がそうした権威を帯びているからである。一部の人々は、支配権がそこにあり、主権と権力が確立されているからというだけで、自然と型にはまった行動を、右ならえして行なう。そして主のゆえに服従する。だが多くの人々は、とりわけ現代のような共和政体の時代には、権威が権威だからというだけの理由で、権威に反抗したがる自然な傾向があるように見える。しかし、私の信ずるところ、もし当局や政府が毎月変えられたとしたら、ある国々――例えばフランス――においては、事実、いかなる政権下にあっても革命が起こるであろう。彼らは、国内のいかなる政権をも憎み、法などなくなることを願い、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行ないたがるからである。しかし、こうしたことはキリストの場合あてはまらなかった。主は王ではなかった。大衆を統治する権威をわがものにしたりしなかった。確かに嵐や湖を従わせる主ではあった。確かに悪霊に命ずることはおできになったし、お望みになりさえすれば、人間たちをその従順なしもべとなさるに違いなかった。だが主は彼らを治める権力をご自分のものとなさらなかった。主はいかなる軍隊をもお率いにならなかった。いかなる法令も発布せず、自ら国内の大いなる者にのしあがったりなさらなかった。人々は、主が彼らの上に振るったあらゆる権威にもかかわらず、自分の思い通りに行なった。事実、彼らを峻厳な法で束縛するよりも、主は彼らの法体系の過酷さを緩和してやったように見受けられた。というのも、普通であれば死罪になるはずの姦淫の女が主の前に引き出されたとき、主は、「わたしもあなたを罪に定めない」、と云われたからである[ヨハ8:11]。また、主は、いくつかの点で煩雑なものとなっていた安息日遵守の厳格さを、「安息日は人間のために設けられたのです」[マコ2:27]、と仰せになって、ある程度までゆるやかなものとされた。ということは、確かに彼らは、「理由なしに」主を憎んだのである。

 一部の人々は、高慢になることによって、他の人々から嫌われる。私の知っている一部の人々は、その気取りさえなければ、ひとりひとりに非常な好感が寄せられるであろう。もしも彼らが、ほんの少しでも謙遜さを持ち合わせていたとしたら、私も彼らと大いに共鳴し、彼らを賞賛するであろうが、彼らが世を歩き回る様子は実に高慢ちきなのである! むろん彼らが高慢でないこともありえる。――おそらく、そうではないかもしれない。だが、ひとりの古の神学者が云ったように、「穴の中から狐の尻尾がつき出ている場合、普通は狐が中にいると思われるものだ」。そして、どういうわけか、人間の精神は高慢にがまんならない。私たちは常にそれに反抗する。しかし、私たちの《救い主》のうちにそれは全くなかった。主がいかに謙遜であられたことか! 左様。主はどこまでも身を落とされた。ご自分の弟子たちの足をも喜んで洗われた。また、人々の間を歩いてたとき、主は何の行列も引き連れておられなかった。決して主は彼らに向かって、「わたしの才能を見よ。わたしの力を見よ。わたしの地位を、わたしの尊厳を見よ。わきに立っているがいい。わたしはあなたがたより偉大な者なのだから」、と云おうとしてはおられなかった。しかり。主が席に着かれると、そばには取税人のマタイが座っている。だが主は、この取税人が最悪の罪人であるにもかかわらず、それがご自分の沽券に関わるなどとはお考えにならない。また、そこにひとりの遊女がいるが、主は彼女にお語りになる。また、7つの悪霊につかれた女もそこにいるが、主はその悪霊どもを彼女から追い出してくださる。別の者はらい病にかかっているが、主はそのらい病人にさえ手を触れてくださる。主は、ご自分がいかに謙遜であられるか、また、いかに高慢のかけらも身につけておられないかを示しておられる。おゝ! あなたが《救い主》を目にできたとしたら、主は謙遜さの鏡であったことであろう! 主には、世間によくあるうわべだけの礼儀作法や慇懃さなど全くなかった。主には、だれからも好感を持たれるような、真の慇懃さがあった。なぜなら、それは、すべての人に対して親切で愛にあふれていたからである。《救い主》には、いかなる高慢さもなかった。従って、その点で人々の怒りをかき立てるようなものは何もなかった。それゆえ彼らは、「理由なしに」主を憎んだのである。

 他にも、どうしても嫌わずにはいられない人々がいる。なぜなら彼らは、がみがみ云い、気難しく、怒りっぽいからである。彼らはまるで、暗澹たる嵐の日に生まれたかのように思える。また、まるで彼らの肉体の組成には、少なからぬ量の酢が混合されているかのようである。ちょっとでも彼らと一緒に座っていると、口をきくには非常な用心が必要であるという気がしてくる。気さくに話すことは全くできない。さもないと、口喧嘩になる。というのも、彼らはほんの一言によって気分を害するからである。あなたは云うであろう。「ああした人は、悪人ではないに違いない。だが実際のところ、あの人の気性には耐えられない」、と。そして、ある人が公衆の前の目立った立場にあるとき、怒りっぽくて気難しい気質をしている場合、人はその人を好きになれない気分がするものである。しかし、私たちの《救い主》に、こうした部分は全くなかった。人から「ののしられても、ののしり返さず」[Iペテ2:23]、顔につばきを吐きかけられても何も云い返さなかった。また、打たれても、相手を呪わなかった。じっと座ったまま、彼らのあざけりを忍ばれた。主は、絶えず軽蔑と汚名を浴びせかける世の中を歩いて行かれた。だが、「一言もお答えにならなかった」。決して怒らなかった。この《救い主》の生涯を読むとき、主は一度も怒った言葉を発したことがない。例外は、パリサイ人的な高慢に対して、聖なる怒りによることばを、煮えたぎる油のように注ぎ出した場合だけである。そのときには、実際、主の怒りは煮えくり返ったが、それは聖なる怒りであった。このように愛に満ち、親切で、優しい霊を前にするとき、人は主がこの世を可能な限り易々と通り過ぎていったであろうと考えるであろう。主の親切な霊により、主の御足にはまっすぐな路が造られたように見える。しかし、それらすべてにもかかわらず、彼らは主を憎んだ。まことに、私たちは云うことができる。「彼らは理由なしに主を憎んだ」、と。

 どうしても嫌わざるをえなくなるような、一団の人々がもう一組ある。それは、利己的な人々である。さて、私たちの知っているある人々は、資質においては非常にすぐれており、非の打ち所ないほど正直で廉直ではあるが、彼らはあまりにも利己的である! あなたは、彼らと一緒にいると、彼らが自分の友となっているのは、ただ単にあなたから引き出せるもののためではないかと感じる。そして、あなたが彼らの役に立った後では、彼らはあっさりあなたをお払い箱にし、別の者を探し始めるのである。善を施そうと努める彼らの善行には、下心が隠されている。だが、どういうわけか彼らは常に見破られる。そして、この世のいかなる者にもまして世間の憎悪を招くのは利己的な生き方をしている者である。世の中で蹴球のように蹴り飛ばされているみじめな人々の中には、利己的なしみったれたちがいる。しかしキリストには何も利己的なものがなかった。主が何を行なおうと、主は他の人々のために行なわれた。主には種々の奇蹟を行なう驚くべき力があったが、ご自分のためには石をパンに変えることすらなさらなかった。主はその奇蹟的な力を他者のために取っておかれた。主は、そのご性質全体の中にひとかけらも利己を有していないように見えた。事実、主のご生涯の記述は、ごく短く書き記すことができよう。「彼は他人を救ったが、自分は救わない」[マタ27:42参照]、である。主は歩き回られた。極貧の者ら、最下層の者ら、病み切った者らにお触れになった。人々から何と云われるかなど、意に介さなかった。主は決して名声や、威光や、安逸や、名誉などを顧慮することがなかった。また、その肉体的な、あるいは霊的な慰安など、これっぽっちも重んじなかった。自己犠牲こそキリストの生であった。だが、主はそれを実に易々と行なわれたので、それは何の犠牲にも見えなかった。あゝ! 愛する方々。その意味では確かに、彼らはキリストを理由なしに憎んだのである。というのも、キリストには彼らの憎しみをかき立てるものが何もなかったからである。――事実、それとは逆に、全世界をしてその卓越した非利己的なご人格を愛させ、あがめさせるに違いないあらゆるものがあるからである。

 私が好まない別の種類の人々がいる。すなわち、偽善的な人々である。しかり。私は利己的な人とさえ、その人が利己的であるとわきまえた上でなら一緒に暮らせると思う。だが、偽善者だけは、私の近くにやって来させないでほしい。公的な人がいったん偽善的であったが最後、世間はほぼ二度とその人を信頼しないであろう。その人を憎むであろう。しかし、キリストは、この点にかけても、一切の非難から免れておられた。そして、もし彼らが主を憎んだとしたら、彼らはこのことゆえに主を憎んだのではない。というのも、キリストほど自分を飾らない人は決していなかったからである。知っての通り、主は幼子イエスと呼ばれた。なぜなら、幼子が思っていることをみな口に出し、何のけれんもなく、何も包み隠すことがないように、イエスもそれと全く同じだったからである。主には何の見せかけも、何のごまかしもなかった。主はいかなる豹変も行なわなかった。主には、「移り変わりや、移り行く影」[ヤコ1:17]がなかった。この世がキリストについて何と云おうと、彼らは決してキリストが偽善者であると信ずると云ったことはなかった。そして、彼らが主にいかなる中傷を投げつけてきたにせよ、決して主の真摯さに疑いを差し挟んだことはなかった。もし主が本当は彼らをだましていたのだと証明できたとしたら、少しは彼らが主を憎む根拠もあったかもしれない。だが、主は真摯さの陽光の下で生きておられ、絶えず見つめられる山頂を歩んでおられた。主は偽善者であったはずがなく、人々は主が偽善者であったはずがないことを知っていた。だがしかし、人々は主を憎んだ。まことに、愛する方々。もしあなたがキリストのご性格を調べるなら、そのあらゆる麗しさ、そのあらゆる慈愛、そのあらゆる真摯さ、そのあらゆる献身、人間に恩恵を施そうとするそのあらゆる強烈な熱心さにおいて、あなたはこう云わざるをえないであろう。まことに、「彼らは理由なしに主を憎んだ」、と。キリストのご人格のうちには、人々をして主を憎ませるような何物もなかった。

 次のこととして、人々をしてキリストを憎ませることができるようなものが何かキリストの使命のうちにあっただろうか? もし彼らが主に向かって、「あなたはなぜ天国からやって来たのですか?」、と尋ねていたとしたら、主のお答えのうちには、何か彼らの憤りや憎しみを引き起こすようなものがあっただろうか? そうとは思わない。主はいかなる目的のために来られたのだろうか? 主が来られたのは、まず第一に、奥義を説き明かすためであった。――いけにえの子羊が何を意味していたかを彼らに告げ、アザゼルの山羊[レビ16:8]の意義が何であったか、箱舟によって、青銅の蛇によって、マナの壺によって意図されていたのがいかなることであるかを告げるためであった。主が来られたのは、至聖所の垂れ幕を引き裂き、人々がそれまでは決して見ることのなかった秘密を彼らに見せるためであった。彼らは、奥義の覆いを引き上げ、暗い物事を光とし、謎を解き明かしてくれたお方を憎んでよかっただろうか? 自分たちに向かって、アブラハムも見たいと願っていたこと、預言者や王たちが知りたいと切望しながら知ることなく死んでいったことを教えてくれたお方を憎んでよかっただろうか? そこに何か、彼らをして主を憎ませるものがあっただろうか? その他の何のために主は来られただろうか? 主が地上に来られたのは、さまよう者を改心させるためであった。では、そこに何か、人々をしてキリストを憎ませるものがあるだろうか? もし主が酔いどれの品行を改めさせ、遊女を改心させ、取税人や罪人たちを集めて、放蕩息子たちを父の家に連れ戻すために来られたとしたら、確かにそれはあらゆる博愛主義者が賛同してよい目的に違いない。私たちの政府は、そのため――人々をより善なる状態に至らせるため――にこそ作り上げられ、形成されているのである。そして、もしキリストがそうした目的のために来られたとしたら、そこに何か、人々をしてキリストを憎ませるものがあっただろうか? 他に何のために主は来られただろうか? 主は肉体の病をいやすために来られた。これは、憎しみの的として正当なことだろうか? ありとあらゆる種類の病気を無報酬で治療して歩く医者を私は憎んでよいだろうか? 耳しいの耳は開かれ、おしの口は開かれ、目しいは見えるようにされ、やもめたちはその息子たちで祝されているだろうか? こうした原因によって人は不快になってよいだろうか? 確かに主はこう云って当然であった。「そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか[ヨハ10:32]。もしわたしが良いわざを行なってきたというなら、何のためにあなたがたはわたしを悪人呼ばわりするのですか」。しかし、こうしたいかなるわざも人々の憎しみの原因ではなかった。彼らは理由なしに主を憎んだのである。私は、《救い主》が私のため地獄の炎を消しにやって来てくださったからといって、彼を憎むべきだろうか? 御父の燃える剣をご自分の生き血で消すことをお許しになったお方を蔑むべきだろうか? 私のもろもろの罪と悲嘆を身に負い、私の悲しみをになってくださる身代わりを、私は憤りとともに眺めてよいだろうか? ご自分を愛する以上に私のことを愛してくださったお方を私は憎み、蔑んでよいだろうか?――このお方は私を愛し、私が救われるために、かの陰鬱な墓をも訪れてくださったのである。こうしたことが憎しみの原因となるだろうか? 確かに主の使命は、私たちをして永遠に主を賛美させるべきものであった。われを忘れて喜び歌う御使いたちの立琴に唱和させるべきものであった。「彼らは理由なしにわたしを憎んだ」。

 しかし、もう1つだけ云うが、私たちをしてキリストを憎ませるようなものが何かキリストの教えた教理の中にあっただろうか? 否。私たちはこう答える。主の教理の中には、人々の憎しみを引き起こすようなものは何もなかった、と。主の教えた教訓を取り上げてみるがいい。主は私たちに向かって、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにせよ、と告げなかっただろうか?[マタ7:12] また主は、すべての愛すべきこと、誉れあること、評判の良いことを擁護しはしなかっただろうか? また、主の教えはまさに美徳の真髄であり、美徳自身が書き記したとしても、これほど麗しい道徳と、これほど卓越した美徳の法典を完璧に書き記すことはできなかったではないだろうか? 人々が憎んだのは主の教理の倫理的な部分だろうか? 主は、富者も貧者も同一水準に立たなくてはならないと教えた。ご自分の福音は、ある特定の国に限定されるべきではないと教えた。世界を覆うほどに輝かしく進展していくものだ教えた。――これは、もしかすると、彼らが主を憎んだ大きな理由の1つだったかもしれない。だが、確かにこのことのうちには彼らの憤りを正当化する理由はない。キリストのうちには、人々をして主を憎ませるものは何もなかった。「彼らは理由なしにわたしを憎んだ」。

 II. さてここで、第二のこととして論じたいのは、理由もなしに《救い主》を憎むという、《人間の罪》についてである。あゝ! 愛する方々。私は人間の姦淫や、不品行や、殺人や、毒殺や、男色についてあなたに告げはしない。人間の戦争や、流血や、残虐や、反逆について告げはしない。もし人間の罪について告げたければ、私はあなたに、人間が神殺しであると告げなくてはならない。――人間は、自分の神を殺害し、自分の《救い主》を打ち殺したのである。そして私は、あなたにそう告げたとき、あらゆる罪の真髄をあなたに示したのである。犯罪の最たるもの、道徳的罪悪を積み上げた恐るべき金字塔の頂点であり絶頂であるところのものを告げたのである。人間は、自分の《救い主》を殺害したとき、自分をしのぐことを行なった。宇宙の主、人類を愛して死ぬために地上にやって来られたお方を弑したとき、罪はヘロデをもしのぐものとなった。罪が、いかなるときにもまして極度に罪深いものに見えたのは、それが理由なしに憎んだときである。他のどの場合においても、人が善を憎んだとき、そこには常に何か酌量すべき事情があった。この世にある善には、決して何か混ぜ物を見ないわけにはいかない。ある人の善良さがいかに大きくとも、そこには常に何か非難を持ち出すのに良い口実がある。いかにすぐれた人であれ、そこには常に私たちの賞賛や愛を減じさせかねない欠点が何かある。しかし、《救い主》のうちにはこうしたものが何1つなかった。その絵を汚すものは何もなかった。聖潔そのものが、一点の曇りもなく立っていた。そこには聖潔があった――ただ聖潔だけがあった。かりに人々が、いまだかつて地上に生を受けた人の中でも最も聖い人物であったホイットフィールドを憎んだとする。その人はあなたに云うであろう。自分は彼の善良さを憎んだのではない、彼のわめくような説教と、彼の語ったとんでもない逸話の数々を憎んだのだ、と。あるいはその人は、彼の口からこぼれた何かを引き出して、それを掲げてはあざ笑うであろう。しかし、キリストの場合、人々はそうしたことができなかった。というのも彼らは、偽証者をかき集めようとしたが、それが一致しなかったからである[マコ14:56]。主のうちには、聖潔のほか何もなかった。そして、半分でも目が開いている者ならだれでも見てとれるように、人々が憎しみを覚えた理由は、単にキリストが完璧であられたということでしかなかったのである。彼らは、それ以外のいかなることゆえにも主を憎むことができなかった。そして、このようにしてあなたは、人間の心の忌まわしく憎むべき悪を見てとるのである。――すなわち、人間は、善が善であるがゆえに憎むのである。私たちキリスト者が憎まれるのは、私たちの種々の弱さのせいだというのは正しくない。人々は私たちを笑い者にする口実として、私たちの弱さを用いている。だが、もし私たちがキリスト者でなかったとしたら、彼らは私たちの弱さを憎まないであろう。彼らは、鬼の首を取ったかのように、私たちの首尾一貫しない点をあざ笑う。だが、彼らが本当に私たちの首尾一貫のなさを気にかけているとは私は信じない。もし私たちがキリスト教信仰を告白していなかったとしたら、あるいは、もし彼らが私たちをキリスト者だと考えていなかったとしたら、私たちが世間の他の人々と同じくらい首尾一貫しない者であっても問題なかったであろう。しかし、《救い主》には何の首尾一貫のなさも、何の弱さもなかったがために、人々は主を憎むあらゆる口実をはぎ取られていた。そして明らかになったのは、人間は生来、善を憎むものだということであった。なぜなら、人間が悪に傾いているがゆえに、善を嫌悪しないではいられないからである。

 さて今、この場にいるあらゆる罪人に対して訴えさせてほしい。果たして今まで、キリストを憎むような原因を有したことがあったかどうか、その人に尋ねさせてほしい。しかし、ある人は云うであろう。「私はキリストを憎んではいない。もし彼がわが家に来たとしたら、私は彼を心から愛するだろうよ」。しかし、実に尋常ならざることに、キリストはあなたの隣家に住んでおられるのである。そこに住むベティという人において住んでいるのである。彼女は、これこれの会堂に通う。すると、あなたは云う。あの女は、ただのあわれな偽善家ぶったメソジストでしかない、と。なぜあなたはベティを好きにならないのだろうか? 彼女はキリストの肢体の一部であり、「あなたがたが、これらの最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」*[マタ25:40]。あなたは、自分はキリストを憎んではいないという。さあ、会堂を見渡してみるがいい。あなたは、この場にいる会員のうち、ひとりの人を知ってはいないだろうか? その人は非常に聖い人物ではあるが、どういうわけか、あなたには我慢のならない人である。なぜなら、その人が前に一度あなたの欠点についてあなたに告げたからである。あゝ! 方々。もしあなたがキリストを愛していたとしたら、あなたはキリストの肢体を愛するであろう。何と! あなたは、私の頭を愛するが、私の手は愛さないと云うのか? 勘弁してほしい。頭を切り落としたら、私は私ではいられないではないか。もしあなたが、かしらなるキリストを愛するなら、キリストの肢体をも愛さなくてはならない。しかし、あなたは、「私はキリストの民は愛さない」、と云うのである。

 よろしい。ならば、もしあなたが兄弟を愛するとしたら、あなたは死からいのちへ移っているのである[Iヨハ3:14]。しかし、あなたは云う。「私は、自分の人格が変えられたかどうか自信はありません。それでも私は、自分の心の中にキリストとその福音に対する反抗心があるという自覚はないのです」。あなたはそれを自覚していないかもしれない。だが、あなたがそれを自覚していないということこそ、あなたの場合をいやがうえにも悲しいものとするのである。ことによると、もしあなたがそれを自覚していたとしたら、またそれのために泣いたとしたら、あなたはキリストのもとに来ようとしたであろう。だが、あなたにそれが自覚できず、感じられない以上、それはあなたの敵意の証拠である。さあ、考えてみよ! 私はあなたがキリストを愛さない限り、あなたがキリストに敵意を持っていると考えなくてはならない。というのも、キリストについては、2つの意見しかないことがわかりきっているからである。あなたはキリストを憎むか、愛するか、その2つに1つである。キリストなどどうとも思わず、無関心にしているということは、明々白々に不可能である。ある人は、「私は正直さなどどうとも思わない」、と云うかもしれない。左様。ならばその人は、不正直ではないだろうか。あなたは、キリストのことなどどうでもいいのだろうか? ならば、あなたはキリストを憎んでいる。あなたがキリストを憎むというのは、ずる賢いことではないか? 何度となくあなたは、福音の熱心な招きを受けてきた。あなたはそうした訴えかけを何度も何度も拒絶してきた。さあ、考えてみよ。キリストのいかなるわざのために、あなたはキリストを憎むのか? この場に、だれか迫害者がいるだろうか? 罪人よ! あなたは何のためにキリストを憎むのか? あなたはキリストを呪っているだろうか? あなたを怒らせるような何をキリストがなされたか、私に告げてみてほしい。あなたに対する主のおふるまいに、1つでも欠陥があるなら指し示してみるがいい。キリストは今まであなたを傷つけたことがあるだろうか? 「おゝ!」、とある人は云う。「彼は私の妻を取り上げ、彼の子どもたちのひとりとしてしまった。そして彼女はバプテスマを受けて会堂に通っている。私はそれが我慢ならないのだ」。あゝ! 罪人よ。それが、あなたがキリストを憎む理由なのか? あなたは、キリストがあなたの妻を炎の中からひったくり、彼女が死に落ち込んでいくのをお救いになったとしたら、キリストを憎もうとしただろうか? 否。あなたは主を愛するようになったはずである。だが主はあなたの妻の魂を救われたのである。あゝ! たとい主が決してあなたを救うことがないとしても、もしあなたが自分の妻を愛しているとしたら、あなたは主を愛し、主があなたにとって実に親切であられたと考えるべき十分な理由があるであろう。私はあなたに云う。もしあなたがキリストを憎むとしたら、あなたは理由なしにキリストを憎んでいるばかりか、キリストを愛すべき有り余る理由があるときにもキリストを憎んでいるのである。さあ、あわれな罪人よ。あなたはキリストを憎むことで何を得てきただろうか? あなたは良心の刺すような痛みを得ている。多くの罪人は、キリストを憎むことによって、牢獄に閉じ込められ、襤褸の着物と、病んだ肉体と、胸も悪くなるほど不潔な家と、破れた窓と、死ぬほど殴りつけられる、あわれな細君と、父親が帰ってくると大慌てで逃げ散る子どもたちを得てきた。キリストを憎むことによって、あなたは何を得たのか? おゝ! もしあなたがあなたの損得勘定を行なおうとするなら、あなたにとってキリストを得ることは得であり、キリストを失うことは致命的な損失であるとわかるであろう。さて、もしあなたがキリストと、キリストを信ずる信仰を憎んでいるとしたら、私はあなたに向かって、あなたは理由なしにキリストを憎んでいるのだと告げたい。そして、あなたに1つ厳粛な警告を告げさせてほしい。すなわち、もしあなたが死ぬまでキリストを憎み続けるとしたら、あなたはそれによってキリストを傷つけはしないであろうが、あなた自身を最もすさまじい形で傷つけるであろう。おゝ! 願わくは神が、あなたをキリストを憎む者であることから解放してくださるように。それは何の得にもならないが、それによって何もかも失われるであろう。罪人よ、あなたはいかなる理由でキリストを憎むのか? 迫害者よ、あなたはいかなる理由でキリストを憎むのか? あなたがた、肉的で、不敬虔な人たち。あなたはいかなる理由でキリストを憎むのか? 何ゆえにキリストの福音を憎むのか? その教役者たち――彼らがいかなる危害をあなたに加えたのか? 彼らは、あなたに世界中のあらゆる善を施したいと切望しているのに、いかなる危害をあなたに加えることができるだろうか? なぜあなたはキリストを憎んだりするのか? あゝ! それはただ、あなたが実に絶望的なまでに害毒にはまりこんでいるがためにほかならない。――あなたのくちびるの下に、蝮の毒があり、あなたの喉が、開いた墓であるがためにほかならない[ロマ3:13]。さもなければ、あなたがたはキリストを愛そうとしていたであろう。彼らは主を「理由なしに」憎んだのである。

 さて今、キリスト者たる人たち。私は、ほんのしばし、あなたがたに向かって説教しなくてはならない。確かにあなたがたは、いまキリストを愛すべき大きな理由を有している。かつてのあなたがたは、理由なしにキリストを憎んでいたからである。これまであなたは、友人をひどい目に遭わせておいて、それに気づかなかったことがあるだろうか? 私たちの中のほとんどの者は、不幸なことに、そうしたことがある。私たちは、ある友人が自分に危害を加えたのではないかと、何となく疑ったことがある。その人はそれを全然行なわなかったのに、私たちはその人と何週間も喧嘩することがある。その人が行なったのは、単に私たちに警告することだけであった。あゝ! 私たちが友人を傷つけてしまったときに流す涙のようなものはどこにもない。では、私たちが《救い主》を傷つけた場合、私たちは泣くべきではないだろうか? 主が、ある冷たくじめついた晩に私の扉のもとに来られたのに、私は主の前にぴしゃりと扉を閉ざさなかっただろうか? おゝ! 私は取り返しのつかないことをしてしまった。自分の主に無礼を働いてしまった。自分の友を侮辱してしまった。自分の賞賛するお方に恥辱を投げつけてしまった。私は主のために泣くのがよいではないだろうか? おゝ! 私は自分のいのちそのものを主のために投げ出すべきではないだろうか? 私の犯した罪のために、私自身の不実のために、主は血を流された。あゝ! 山々を、私は山々を築こう。どこで暮らそうと、どこに行こうと、賛美の山を積み上げよう。主の御名が広まるようにしよう。そして私がどこをさまよおうと、主がなされたことを、多くの涙とともに告げていこう。私がかくも長い間、主をひどい目に遭わせ、恐ろしいまでに主を誤解していたことを告げていこう。私たちは主を理由なしに憎んだ。それゆえ、主を愛そうではないか。

 III. 《聖徒たちに対する2つの教訓》

 第一のこととして、もしあなたの《主人》が理由なしに憎まれたとしたら、あなたも、この世からそう簡単に逃れ出ると期待してはならない。もしあなたの《主人》がこうしたすべての軽蔑、こうしたすべての痛みを受けて来られたとしたら、あなたは、自分が常にこの世を四輪馬車に乗って行けるなどと考えるだろうか? 考えているとしたら、とんでもない大間違いである。あなたの《主人》が迫害されたように、あなたも同じことを予期しなくてはならない。あなたがたの中のある人々は、私たちが迫害され、蔑まれるとき、私たちをあわれに思う。あゝ! あなたのあわれみは取っておくがいい。この世がほめそやしている人々のために残しておくがいい。この哀れみが宣告されている人々のために残しておくがいい。「みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です」[ルカ6:26]。あなたのあわれみは、地上の寵愛を受けている者らのために、ためておくがいい。万人から称賛される、この世の主君たちのために、ためておくがいい。私たちはあなたがたのあわれみを求めはしない。否。方々。私たちはいかなる状況にあっても喜び、「患難さえも喜んでいます。私たちの身に起こることが、かえって福音を前進させることになるのを知っているからです」*[ロマ5:3; ピリ1:12]。また私たちは、数多くの試練に遭うときは、それをこの上もない喜びと思う[ヤコ1:2]。というのも、そのようにしてキリストの御名が知られ、その御国が押し広げられていくからである。

 もう1つの教訓として、もし世があなたを憎むとしたら、その憎しみが何の理由もないものであるように、気をつけるがいい。たといこの世があなたに反対するとしても、自分からこの世を反発させることは何にもならない。この世は、私が酢を投じなくとも、十分に苦々しい場所である。ある人々は、この世が自分たちを迫害すると思い込んでいるかのように見える。それゆえまるで迫害を招き寄せるかのように自ら戦闘体勢を取る。さて私には、このようにすることが何の役に立つとも思えない。自分から他の人々の嫌われ者になってはならない。実際、ある人々が出会っている反対は、義のためのものではなく、自分自身の罪のためのものであるか、自分自身の癇癪のせいなのである。多くのキリスト者は、住み込みで働いている。――かりに、キリスト者の女中であるとしよう。彼女は自分が義のために迫害を受けていると云う。しかし、彼女は意地悪な性格をしていて、時としてとげとげしい口答えをするのである。それで女主人が彼女を叱りつけるのである。それは義のために迫害を受けることではない。また別の者がいる。かりに、町の商人だとしよう。その人はあまり尊敬を受けていない。それで自分は義のために迫害されているのだと云う。だが、それは彼が以前、ある契約を守らなかったからなのである。別の人も自分は義のために迫害されていると云う。だが、その人は歩き回っては、だれに対しても高飛車な口をきいて回るのである。それで、時として人々は向き直って、彼を厳しく批判するのである。キリスト者である人たち。もし迫害されるとしたら、それが義のためであるように気をつけるがいい。というのも、もしあなたが自ら迫害を招き寄せたとしたら、それはあなた自身で何とかするしかないからである。あなたが身に招いた迫害があなたの罪のためであるとしたら、キリストはそうした迫害と何の関わりもなく、それらはあなたへの懲らしめとなるであろう。彼らは理由なしにキリストを憎んだ。ならば、憎まれることを恐れてはならない。彼らは理由なしにキリストを憎んだ。ならば、憎しみを買うようなことはせず、この世にいかなる口実も与えないようにするがいい。

 そして今、願わくはキリストを憎んでいるあなたが、キリストを愛する者となるように。おゝ! 主が今ご自身をあなたに近づけてくださるように! おゝ! 主がご自身をあなたに示してくださるように! そして、そのとき確かにあなたはたちまち主を愛するようになるに違いない。主イエスを信じる人は、確かに主を愛するようになり、主を愛する人は救われるであろう。おゝ! 願わくは神があなたに信仰を与え、愛を与えてくださるように。キリスト・イエスのゆえに。アーメン。

 

理由なき憎悪[了]



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