HOME | TOP | 目次

信仰の訴え

NO. 88

----

----

1856年6月22日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「あなたの約束どおりに行なってください」。――IIサム7:25


 ナタンはダビデに向かって、神からの使者として、様々な、きわめてすぐれた尊い約束を与えた。ダビデは、そのように約束されたことについて神への感謝を表わし、こう云っている。「どうか、神、主よ。あなたが、このしもべとその家について約束されたことを、とこしえまでも守り、あなたの約束どおりに行なってください」。

 これは神への祈りである。こうした言葉は、彼の口から自然とあふれてきた。このような約束を聞いた後で、彼はその実現を切望した。このような言葉は、この現代の私たちが自分たちのものとしても、同じように適切なことであろう。また、もし私たちが神のことばに目を向けて、ある約束を読んだ後で、しめくくりに、「どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください」、と云うとしたら、それは、「あなたの約束どおりに行なってください」、というこの聖句の実際的な適用であろう[詩119:49]。

 私は今晩、この説教を始めるにあたり、この聖書が神の云われたことであると証明するつもりはない。私がこの場に来たのは、聖書の霊感を証明する議論を示すためではない。私は、キリスト者である会衆に対して語っているとみなし、それゆえ、冒頭にあたり、聖書は当然神のことばであり、それ以外の何物でもないと考えることにする。そういうわけで、その件については全く触れず、即座にこの聖句へと進むことにしたい。そして神が云われたこと、神の真理の聖書を理解していくことにしよう。私が思うに、この場にいる何人かの人々は、今晩、自分の魂に対してなされた何らかの約束のために、神にこう叫ぶように導かれるであろう。「おゝ、主よ。あなたの約束どおりに行なってください」。

 I. 私たちが最初に述べたいのは、《神が何と云われたかを知ることは、いかに重要であるか》ということである。神が何と云われたかを知りもせずに、「あなたの約束どおりに行なってください」、などと云うのは愚かであろう。ことによると、近頃の世間で何にもましてないがしろにされているのは、聖書かもしれない。実際、この世にある、かび臭い聖書の数は、現在ないがしろにされている、いかなる種類の書物の数よりも多いだろうと思う。世には、おびただしい数の駄作がある。無数の書物は、牛酪屋の包み紙になる以外には全く流通していない。だが、いかに購入する人が多くとも、たちまち打ち捨てられ、全く用いられなくなる本として聖書にまさるものはない。私たちが新聞を買うと、普通それはある人から別の人に手渡される。そうでなくとも、私たちはそれを隅から隅まで精読するように気を遣う。実際、人によっては、広告欄だの何だのをすべて読みさえする。また、よく知られているように、人が小説を買うと、いかに一心不乱に深夜のろうそくが燃え尽きるまで読みふけることか。だが、もちろん聖書は、多くの人々の見るところ面白い本ではない。多くの人々はそう考えている。彼らは、聖書は日曜日に教会にかかえていく本としては非常に良いものだが、決して楽しみの本として用いられるべきものではなく、喜んで開ける本ではないと考えている。それが多くの人々の意見である。だが、これほど真実からかけ離れた意見はない。というのも、魂に関わる重大な真理を、聖書の半分でも、まともに扱っている本がどこにあるだろうか? いかなる本にもまさって注意を払うに値する本は、著者という著者の中でも最大の著者、神ご自身によって書かれた本ではないだろうか? もし貴重な本は注意深く読まなくてはならないとしたら、測り知れぬほど貴重な本を学ぶ際には、いかにはるかにまさって一意専心すべきであることか。しかも、この本にはいかなる過誤も全く混ぜ合わされていないのである。そして、もし私が自分の健康に関する本か、同胞の行ないだけにしか関わっていない本に、自分の時間の一部を費やし、それが正当であるとしたら、私の永遠の運命に関わる読み物には、いかにいやまさって多くの時間を費やすべきであることか。それは、今まで未知であった世界を私に啓示し、いかにすれば私が地獄を逃れて、天国に行けるかを告げてくれるのである。しかし、指摘しなくてはならないことだが、キリスト者たちの間においてすら、聖書は自宅にありながら最も読まれていない本の1つなのである。私たちの数限りない雑誌類やら、私たちの宗教紙やら、私たちの不断の聖書論争やらで、人は聖書をめったに読まない。確かにかつてほど聖書は読まれていないに違いない。私たちの先祖たち、古の清教徒たちは、聖書以外の本はほとんど読まなかった。そして、もしある本が聖書に関するものでないとしたら、それを読むことになど全然関心を持たなかった。ことによると、その点で彼らは厳格にすぎ、狭量にすぎ、自分たちの精神を締めつけすぎていたかもしれない。だが私としては、自分の精神を神学で締めつける方が、偽りで押し広げるよりもましだと思う。私は、少しの真理しか持たずに、それで精神を満たしている方が、たといその精神が豆殻ほどの大きさしかなくとも、巨大きわまりない知性を有しながら、そこに過誤を詰め込んでいるよりもましだと思う。私たちの知性の大きさではなく、その正しさこそ、私たちをこの世で通用する者とし、神の御前で正しい者とするのである。それゆえ、私はあなたに切に願う。あなたがた、キリスト教会の会員たち。もしあなたにほんの少しでも時間があるなら、はかない本を読むためにそれを費やすのではなく、自分の聖書を手に取って、それを絶えず読むがいい。そうすれば、私は1つのことを約束しよう。もしあなたがすでにキリスト者であるなら、聖書を読めば読むほど、聖書を愛するようになるであろう。ことによると、現在のあなたは、短い箇所を読んで、それについて一日中瞑想するのは難しいと思うかもしれない。だが、進んでいくにつれてあなたは、測りがたい深みと、自分には理解しがたい高みを見てとり、この尊い蜂蜜の巣のしたたりに、言葉に尽くせない甘やかさを見いだすであろう。「どうしても、もっとこれを味わなくては」、と云うであろう。そして、あなたの霊は常に、「くれろ、くれろ」、と叫ぶであろう。神のおきてを日々精神に受けなければ満足しなるであろう。それは、あなたの旅の家で、あなたの歌となるであろう[詩119:54]。

 この現代における種々の過誤は、聖書を読まないことから発している。私の兄弟たち。もし私たちがみな識別力を働かせながら聖書を読み、聖書を正しく知ろうと願っていたとしたら、今ほど多くの宗派があると思うだろうか? 種々の異端や分派は、ここから発してきた。ひとりの人が、ある点についてほんの少し踏み迷う。別の人が、聖書を参照しもせずに、その人の云ったすべてのことを鵜呑みにする。さらに別の人が、何か他のことをつけ加える。それから、別のもっと狡猾な人が、悪魔の陰険さに満ちて、聖書の箇所をねじ曲げ、それを1つの体系に織り上げる。最初は1つの間違いから作り出されたものが、そこに自然と生ずる他の種々雑多な間違いによってふくれあがり、より巨大なものとなり、ついには、腹黒い異端者の悪知恵によって完成されてきたのである。

 そして、また、頑迷固陋、敵意、無慈悲さはみな、その相当程度において、私たちが聖書を読むことの少なさに起因しているに違いない。いかなる理由で、そちらにいる人は私を憎んでいるのだろうか? 私が自分の正しいと信ずることを説教しているからといって、なぜ私を憎むのだろうか? もし私が真理を語っているとしたら、彼が私を憎む責任が私にあるだろうか? これっぽっちもない。私が時として私の信徒たちから告げられるところ、私は特定の党派を非常に厳しく攻撃するという。よろしい。それはどうしようもないことである。もし彼らが正しくないとしたら、それは私のせいではない。――もし彼らが私の進む道に立ちはだかるとしたら、私は彼らを踏みつけて通らざるをえない。かりに、あなたがたの中のふたりが明日、路を馬車で乗っているとしよう。そして、あなたがたのうちのひとりが路の正しい側を走っているとしよう。そのとき、何らかの事故が起こるとしたら、あなたは云うであろう。「先生、あいつの方が馬を止めるべきだったんでさあ。弁償しなきゃなんねえのは奴ですぜ。奴には、あんな間違った方を走る権利は何にもなかったはずでさあ」。もし私たちが神の真理を宣べ伝えるとしたら、それは私たちについても同じであろう。私たちは一直線に進むしかない。たといこの世で最大の敵意が起こり立つとしても、私たちはそれと何の関わりも持たない。神の真理は時として戦争を引き起こすものである。ご存じの通り、イエス・キリストご自身、人々の間に戦いをもたらすためにやって来たと仰せになった。主が来られたのは、しゅうとめを嫁に、嫁をしゅうとめに対抗させ、家族の者をその人の敵とするためであった[ルカ12:53; マタ10:36]。しかし、たといそこに敵意があるとしても、たとい諸宗派が騒ぎ立てるとしても、だれにその原因があるのだろうか? だれにその責任があるのだろうか? 左様。新しい宗派を作った人間であって、昔からの宗派にしっかり堅くとどまっている人の方ではない。もし私が根本的真理という堅固で強い錨によって無事に係留されているとしたら、だれか他の者が私の船に衝突して、自ら沈没していくとしても、私はその損害を賠償しはすまい。私は堅く立つ。もし他の人々が真理から離れていくことを選び、自分たちの索具を断ち切り、係留具を解き放とうとするとしたら、勝手にするがいい。願わくは私たちは同じようなことをしないように。愛する方々。真理を堅く守るがいい。種々の異端やにせ教理を一掃する最も簡単な手段として、真理を堅く守るがいい。しかし、ご存じの通り、近頃はこう告げる人々がいる。「おゝ、別に何を信じようと大した問題ではありません。教理など無なのです」。そして最近の彼らは、私たちを非常に幸福な家族にしようと努め、ウォータールー橋の近くにある幸福な家族のようにしようとしている。そこには、ありとあらゆる種類の生き物が一緒に閉じ込められているのである。しかし、よく見ると、それは人が檻の鉄格子の間に差し込んだ薄い木片だけで整えられているのである。教派もそれと同じである。彼らは私たちすべてを合同させたがっている。私たちは種々の教理において異なっている。それゆえ、もし私たちが互いに真っ向から反対する教理を奉じているとしたら、私たちのだれかが間違っているに違いない。しかし、私たちにはこう告げられるのである。「それは大して重要なことではありません。疑いもなく、あなたがたはみな正しいのです」。さて、私にはそうは見えない。もし私があることを云い、別の人が別のことを云うとしたら、聖なるすべてのことにかけて、いかにして両者が真理を語っていることがありえるだろうか? 黒と白が同じ色だろうか? 虚偽と真理が同じものだろうか? それらが同じものであり、火焔が大海原の水と同じ揺りかごで眠ることにでもならない限り、私たちは、私たちの諸教理を否定したり、私たちが福音と信ずるものの悪口を云ったりするような人々と合同することに同意しないであろう。私の兄弟たち。いかなる人にも、あなたの識別力を神への臣従から解き放つ権利はない。人と人との間には良心の自由があるが、神と人との間にそのようなものは一切ない。いかなる人であれ、自分勝手なことを信ずる権利はない。人は、神が告げておられることを信ずるべきである。そして、もし人がそれを信じなければ、たといその人が人間に対して、特定の人間集団に対して、何らかの政府に対しては責任がないとしても、それでも――よく聞くがいい――神に対しては責任がある。それゆえ、私は切に願う。もしあなたが異端を避け、教会を輝かしい一致に至らせたければ、聖書を読むことである。人間の注釈や、人間の書物を読むよりも、聖書を読み、このこと――「神がそう云われた」――の上に、あなたの信仰を基づかせるがいい。たとい神の真理のすべてを一致させることができなくとも――覚えておくがいい。――神は互いに対立する二組の真理を作られたのではない。そのようなことは、神ご自身でさえ、いかに強大なお方であっても、成し遂げることのできない不可能事であった。私の兄弟たち。神が云われたことを常に支持し、あなたに対抗して持ち出されうるいかなる議論によっても、道をそらされてはならない。「聖書を調べなさい。それはキリストについて証言しているからです」*[ヨハ5:39参照]。

 II. さて、これから私たちの第二の点に移る。《信仰を築き上げるために必要なのは、神が云われたことだけである》。「あなたの約束どおりに行なってください」。信仰の有する唯一の堅固な足がかりは、「そう書かれている。神はそう約束された」、である。罪人が神のもとに来るとき、その人が自分のよりどころとしなくてはならないのは、「あなたの約束どおりに行なってください」、ということだけである。ほとんどの人の精神には、神が仰せにならなかったことを神の御前に持ち出そうとする傾向がある。あえて云うが、あなたがたの中の多くの方々は、祈りにおいて神のもとに行くとき、神がはっきりお与えになると約束したとは証明できないようなものを願い求めるであろう。あなたは神のもとに行って云う。「主よ。ジョン・バニヤンが云ったように行なってください。ホイットフィールドが云ったように行なってください。彼らのような経験をさせてください」。さて、こうしたことはみな良くないことである。私たちは、神のもとに行くときにはただ、「主よ。あなたの約束どおりに行なってください」、と云うのでなくてはならない。それから、さらにまた、私が真実信ずるところ、私たちの諸教会の会員である多くの人々は、単純に神が約束なさったことに自分の信仰を基づかせてはいない。もし私があなたがたの間を巡って、なぜあなたは自分をキリスト者であると信ずるのか尋ねて回ったとしたら、あなたがたの中の多くの方々がいかに奇妙な根拠を持ち出すかは唖然とするほどである。救いの道に関して、人々がしばしば有している奇妙な見解は、実に異様なものである。罪人を単にこのこと、――「主よ。あなたの約束どおりに行なってください」――によって、神へと至らせるのは何と困難なことか。

 私の知っているある人々は、自分が神の子どもであると夢に見たがために、そう信じている。そうした人々は、ある夜、非常に尋常ならざる夢を見た。そして、あなたがそれを笑うと、彼らは全く激怒する。彼らはあなたをたちまち神の家族から切り捨て、あなたを「兄弟たちの告発者」[黙12:10]と呼ぶ。彼らは、神が聖書の中で約束されたことにはより頼まない。むしろ、深い眠りに襲われたときに何か異様な幻を見て、その幻のゆえに、自分たちを神の子どもであるとみなす。私のもとに来る人々と会見する際に私は、時おりこのような話を聞かされる。「先生。私は、これこれの部屋にいたところ、イエス・キリストが見えて、これこれのことを語る御声を聞いたように思うんです。それで、それが私が救われたと思う理由なんです」。さて、それは神の救いの道ではない。罪人は決して、「主よ。私が夢見た通りに行なってください。私が思い描いた通りに行なってください」、と云うべきではなく、「あなたの約束どおりに行なってください」、と云うべきである。たといこの場にいるだれかが全く何の夢も、幻も見たことがなかったとしても、そうしたものを見る必要はなく、ただこう云って神のもとに行くだけでいい。「主よ。あなたは、キリストが罪人たちを救うために死なれたと云われました。私は罪人です。私をお救いください」。それが信仰である。「あなたの約束どおりに行なってください」。しかし、他の人々は、それよりもずっと理性的である。彼らは、自分が救われていると考えるのはなぜか尋ねられると、自分は、ある時どこかの教役者の話を聞いていて忘我の境地に達したことがあるとか、ふと何らかの聖句に心を打たれ、さながら第七の天にまで引き上げられ、それまで一度も有していなかったような思想を受けたのだとか語る。「おゝ、先生」、と彼らは云う。「それは驚くべきことでした。私は自分の心が張り裂けのではないかと思いました。それほど喜びと嬉しさに満ちあふれていたのです。それまでの一生の間、あれほどの感動を感じたことはありません。そして、教会の外に出ると私は、実に心軽やかで、浮き浮きとし、走って家に帰れるような気分でした。実際、歌いながら帰って行くべきだと思うほどでした。それで私は自分が神の子どもに違いないと知っているのです」。よろしい。あなたはそれを知っているかもしれない。だが私は違う。なぜなら、そのようなしかたで悪魔に欺かれ、決してキリストを信ずる信仰を持たなかった多くの人々がいるからである。キリストを信ずる信仰は、決して忘我の気分をよりどころとはしない。それは、「あなたがそう云われまた」、ということに基づく。信仰に問うてみるがいい。果たしてそれが、「あなたがそう云われました」、ということ以外の何かをその足場にしたいかどうかを。信仰は答えるであろう。「いいえ。私は夢でできた梯子に乗って天国へ上ることはできません。それは私の足を載せるにはもろすぎます」。信仰よ、なぜあなたは先へ進まないのか。なぜあの橋を渡らないのか。「いいえ」、と信仰は云う。「私にはできません。あれは忘我の気分でできています。そして忘我の気分は人を酔わせるものです。私は自分の足をそうしたものに載せることはできません」。信仰は、たとえからし種一粒ほどの大きさでしかなくとも約束の上に立つものである。だが、永遠の山々ほど巨大なものであっても忘我の境地の上に立つことはできないであろう。信仰は、「あなたがそう云われました」の上に建てることはできるが、気分や感情、夢や経験の上に建てることはできない。――それが頼りとするのは、ただこのこと、――「あなたがそう云われました」、だけである。私の話を聞いている方々には、思い込みに用心するように警告させてほしい。ある人々の考えによると、聖霊は心の中に働く電撃のようなものであり、人の理解が及ばない神秘的で恐ろしいものがあるという。それは、彼らがそれまで感じたことのある、いかなるものとも全く異なっているだけでなく、神のことばに記述されているいかなるものよりも優越していさえすると感じざるをえないのだという。さて、はばかりながら云わせてほしいが、御霊の有効な働きは、その現われにおいてあいまいであるどころか、それは、聖霊であられるがゆえに、単純で明解なものである。救いの道は、決して大きな神秘ではなく、実に平易なものである。それは、「信じ、そして生きる」ことである。そして、信仰は、その根拠としていかなる神秘も必要としない。それは、むき出しの裸の約束をつかんでは、こう云うのである。「主よ。あなたの約束どおりに行なってください」。

 私の信仰はこの約束に立って生きる。この約束に立つとき、信仰が決して死に絶えないことを私は知っている。しかし、信仰は、人の証言をも、哲学者たちの学識をも、雄弁家の弁舌をも、忘我の気分をも、幻をも、啓示をも必要としない。それが必要とするのは、神の云われたことが心に適用されることだけである。そして、それは神のもとに行って云うのである。「主よ。あなたの約束どおりに行なってください」。

 III. さてここから、第三のことを述べたい。私たちは信仰が非常に大胆なものであることを見てとる。神があることを仰せになると、信仰は神のもとに行って、「主よ。あなたの約束どおりに行なってください」、と云う。

 私が第三に述べたいのは、《信仰がそうすることはきわめて正しい》ということである。主があることを云われたとき、私たちに望まれたのは、私たちが主にそれを思い起こさせることである。神の約束は決してくず紙にされるために語られたのではない。神は、それを用いさせたいと願っておられる。神がある約束を与えられるとき、人がその約束を用いない場合、その約束はその人にとって実質上は役に立たないのであり、その約束にこめられた神の大いなる意図は多少とも挫折させられるのである。神が約束を贈られたのは、それが用いられるためであった。私が英国銀行の銀行券を見るなら、それは特定の金額を支払うという約束であって、私はそれを手にとって、それを用いる。しかし、おゝ! 愛する方々。神の種々の約束を試して、用いるがいい。何にもまして神を喜ばせるのは、ご自分の約束が効力あるものとして万人に用いられることである。神が愛されるのは、ご自分の子どもたちがそうした約束をご自分のもとに持ち出して、「主よ。あなたの約束どおりに行なってください」、と云う姿である。そして、あなたがたに告げたいのは、神の約束を用いることは神の栄光を現わすということである。あなたは、神があなたに約束された富をお与えになることによって、少しでも貧しくなると思うだろうか? 神があなたに聖潔をお与えになることによって、少しでも聖でなくなると思うだろうか? あなたをあなたのもろもろの罪から洗い出すことによって、少しでもきよくなくなると思うだろうか? 神はこう云われた。「さあ、来たれ。論じ合おう。たとい、あなたがたの罪が紅のように赤くても、羊の毛のようになる。たとい、緋のように赤くても、雪のように白くなる」*[イザ1:18]。信仰はその約束をつかむ。「これは尊い約束だ、私はそれを眺めていよう」、などと云いながら突っ立ってはいない。御座の前に突き進んでは、「主よ。ここにあなたの約束があります。あなたが云われた通りに行なってください」、と云う。そして神は云われる。「おゝ! 信仰よ。わたしは、この約束を持ち出したお前に劣らず、この約束がわたしに持ち出されたことを見て喜ぶ。わたしは、わたしの約束が用いさせようと思っていたのであり、それが用いられることは、わたしの栄光を現わすのだ」。左様。だれかが私たちに小切手を与えた場合、私たちがいかに火急に金銭を必要としていても、行ってそれを現金化しようとしなかったとしたらどうであろう。「私は行きたくない」、などと云っていたとしたらどうであろう。その小切手を有効なものとした署名者の人格をいささか侮辱することになるであろう。そのように、あるキリスト者が何らかの約束を得ても、それを神に持ち出さない場合、その人は神に汚名を着せているのである。しかし、信仰が、いかにみすぼらしさと、貧困と、病をまつわりつかせていても、神のもとに行ってこのように云うとき――すなわち、「主よ。私には自分を推薦するものは何1つなく、ただ、『あなたがそう云われた』ということしかありません。そこに約束があります。主よ。私のために、それを成就してください」、と云うとき――、神は微笑んで、こう云われる。「左様。わが子よ。わたしはお前がわたしを信頼しているのを見て嬉しく思う。さあ、その成就を取り戻すがいい。そして、喜びながら進んで行くがいい」。決して、神の約束についてやいのやいの神に求めることによって、神がうるさく思うなどと考えてはならない。こういう云い回しを用いてよければ、神は、うるさがらされることを好んでおられる。あなたがご自分の扉のもとに来て、こう云うことを好んでおられる。「偉大なる《銀行家》よ。この銀行券を現金化してください。偉大なる《約束主》よ。この約束を成就してください。偉大なる契約の神よ。あなたの契約を成就し、私をむなし手で帰らせないでください」。「あなたの約束どおりに行なってください」、は正当な要求である。私たちはそう云うべきである。それは神に栄誉を与える。また神は私たちがご自分の約束を用いることを意図しておられた。「あなたの約束どおりに行なってください」。

 もう1つ述べたいことがある。信仰には、約束通りに行なうよう神に訴えるべき非常に良い理由がある。もしあなたが信仰に向かって、「信仰よ。なぜお前は、神が云われた通りに行なわれると期待しているのか? 神はそう云われたが、お前は、自分がこれこれのあわれみを受ける価値のない者であるとわかっているのか? なぜお前はそう期待するのか?」、と云うとしたら、信仰はこう答えるであろう。「私には、この行動を正当化する理由が山ほどあります。そして、まず第一のこととして、神がおことば通りに行なわれると期待するのは、神がまことの神だからです。私は神がご自分を偽ることができないのを知っています。神は、私にこれこれのものを与えると云われました。もし神が真実な神でなかったとしたら、私も、『あなたの約束どおりに行なってください!』、などと云いはしないでしょうが、神がまことの神であられ、その約束を破ったことがあるなどと聞いたこともないので、またさらに、神が偽りを云うのを不可能とする、変えることのできない2つの事がら、つまり神の誓いと神の約束によって――神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません――、そのことを保証しておられるので[ヘブ6:18]、また、キリストにおいてすべての約束が『しかり』となり『アーメン』となった[IIコリ1:20]ことを知っているので、私には、神のもとに行き、『あなたの約束どおりに行なってください』、と云える歴とした理由があると思うのです。もし神が何か約束してもそれを実行しないような、過ちに満ちた存在だったとしたら、私も少しはためらいを覚えるでしょうが、神は常に真実であり、いつも尊いお方であられるので、私は神のもとに行って、こう云うのです。『主よ。あなたの約束どおりに行なってください』、と」。あわれな罪人よ! 神は云われた。「自分の罪を告白する者はあわれみを見いだす」*[箴28:13]、と。さて、もしあなたが神のもとに行くなら、あなたはこのこと以外に何も訴える必要はない。――「『主よ。あなたの約束どおりに行なってください』。『私は自分の罪を告白しました』。『あなたの約束どおりに行なってください』」。「しかし、罪人よ。なぜわたしは、わたしが約束した通りに行なうべきなのか? お前はそれに値していないではないか」。「主よ。あなたはまことの神であられます」。

   「汝れは約せり 赦し給うと、
    すべて汝が御子 信ずる者を。
    われ知る、汝れに 偽りなきを。
    キリストなくば われは死ぬのみ」。

行くがいい。あわれな罪人よ。主に申し上げるがいい。主が神であられるのと同じくらいまことに、神は決して私をむなしく去らせはしないはずです、と。信仰には、神がまことであり、それゆえおことば通りに行なわれると感ずべき歴とした理由がある。そして、それだけでなく、神にはそれを行なう力がある。神の能力は無限である。神の意図もまた同じである。神の種々の約束は決して、人から人へ受け渡されることによってすり減ったりしないし、試されることによって、いやがうえにも確かなものとなる。あわれな罪人よ。ここにもまた喜ばしい思想がある。あなたは神のもとに行って、こう云うことができる。「主よ。あなたは私たちのすべての不義を洗い流し、それを海の深みに投げ込まれると約束されました。主よ。もしあなたが移り気な神であったとしたら、私はあなたが私の不義を洗い流さないかもしれないと考えたかもしれません。ですが、あなたはマナセをも洗いました。パウロをも洗いました。今、主よ。あなたが変わらざるお方であるがゆえに、『あなたの約束どおりに行なってください』。というのも、あなたは今も全く同じであられ、これまでと全く同じようにあわれみ深く、全く同じように力強く、全く同じように親切であられるからです。何と、あなたは、ご自分の約束を破ろうとなさるのですか? 主よ。『あなたの約束どおりに行なってください』」。

 しかし、信仰はこのことを、それよりさらに確固たる根拠の上に置く。それはこう云う。「主よ。もしあなたが約束通りに行なわなければ、あなたは汚名を着ることになり、恥辱を受けることになるでしょう」。ある人が約束を実行しない場合、その人は人々からつまはじきになる。人は、自分の約束を破るような者とはつきあおうとしない。では、もし神がその約束を破るようなことがあった場合、神の偉大な御名はどうなるだろうか? あわれな、どす黒い罪人よ! あなたは泉のもとに来つつある。神は、その泉のもとに来るいかなる罪人をも洗いきよめると約束しておられる。さて、畏敬の念とともに云わせてほしい。あわれな罪人よ。もしキリストがあなたを洗わなかったとしたら、それは主の真理に泥を塗るであろう。もしあなたがキリストのもとに行ったときに、キリストがあなたをはねつけたとしたら、確かに地獄にいる悪霊どもは、約束を破るような主の御名を蔑むであろう。愛する方々。神がその約束を違えることがありえるなどと思うのは、神がその《神格》を剥奪されると考えることである。神からその栄誉を取り除けば、神は人間以下のものとなってしまう。人間でさえ大切に思うような誉れを取り去られたような神を、どう考えるべきだろうか? 「おゝ! 先生」、とあなたは云う。「ですが、私にはそんな価値はありません。私は、みじめで、無価値なものでしかありません。私になど神が約束を守られることはないはずです」。私はあなたに告げるが、そのようなことは神の約束においては、みじんも違いを生じさせない。もし神が約束されたなら、神は、あなたの状態に関わりなく、ご自分の約束を実行する神聖な義務があるのである。たといこれまでのあなたが神を中傷してこようと、神を憎み、神を軽蔑してこようと、神から逃げ出し、あらゆるしかたで神を冷たくあしらってこようと、――もし神がここであなたに約束されたとしたら、私の神がそうなさることは請け合ってもよい。神は、一度約束をしたならば、悪魔に対してでもそれを守られる。そして、もし神が、これまでそれほどよこしまであったあなたに対しても約束なさったとしたら、神はその約束をあなたに対して守られるであろう。ならば、もう一度この約束を聞くがいい。あなたは罪人だろうか? 「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。その罪人のかしらさえも」*[Iテモ1:15]。さらにまた、「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります」[ヘブ7:25]。さらにまた、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」[マタ11:28]。そして、もう一度私に、この上もない畏敬の念とともに云わせてほしい。もしキリストが、ご自分のもとにやって来る、すべて疲れた人、重荷を負っている人に休息を与えなかったとしたら、キリストはキリストでなくなるであろう。ご自分の真実さを失い、神格でなくなり、ご自分の誠実さを失うであろう。そして、ひとりのあわれな信仰を持った罪人が失われるということは、神ご自身の神格が失われることになるであろう。不滅のお方が御座からひきずり降ろされるであろう。天国が倒壊し、宇宙が真二つに引き裂かれ、被造世界そのものの大地が、また被造世界そのものが崩れ去るであろう。信仰は、神のもとに行って、こう云ってよいのである。「主よ。あなたの約束どおりに行なってください。というのも、もしそうなさらないと、それはあなた自身にとって不名誉となるからです」。

 さて今、しめくくりとしてこう問わせてほしい。神は何と約束されただろうか? 私はあなたがた全員に対して、神があなたに何と約束されたか告げることはできない。なぜなら、私にはこの場にいる個々の人格のすべてを選び出すことはできないからである。しかし、私の愛する方々。あなたの人格がいかなるものであれ、キリスト教信仰の最初期の段階から、最後の段階に至るまで、あなたには常にある特別の約束がなされている。そして、あなたは、自分の聖書の頁をめくって見さえすれば、それを見いだすのである。そして、そのとき、神のもとに行き、「あなたの約束どおりに行なってください」、と云うことである。ほんの少しの人格を抜き出させてほしい。この場にいるある人は、主の道において、はなはだしい疲れを覚えている。「おゝ!」、とその人は云う。「私は、真理を求める道にあるとは思いますが、疲れてしまいました」。さて、ここに約束がある。――「主は……疲れた者には力を与え」る[イザ40:29]。このような約束を得たときには、これにしがみつき、これを堅く守るがいい。悪魔に騙されて、これから誘い出されないようにし、こう云い続けるがいい。「主よ。あなたは云われました。主は疲れた者には力を与える、と」。「あなたの約束どおりに行なってください」。これを、約束された主の耳に何度も何度も響かせるがいい。そうすれば、じきに主は約束を果たされるであろう。「あゝ!」、と別の人は云う。「私は疲れているのではありません。私は、自分がいのちなどほとんど全く有していないのではないかと恐れているのです。私は飢え渇いた魂です。私はキリストを欲していますが、キリストに手が届かないのです」。この言葉を聞くがいい。「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです」[マタ5:6]。この約束を神に持ち出し、これを手放さないことである。それ以外の何も訴えてはならない。ただ神のもとにこれを携えて何度も何度も行くがいい。――「主よ。あなたはこう云われました。あなたの約束どおりに行なってください」。あなたは、くまなく罪に覆われ、自分の不義を深く感じているだろうか? 行って、神にこう告げるがいい。「あなたは云われました。『わたしは、彼らの咎を海の深みに投げ入れる』[ミカ7:19参照]。主よ。私は自分がこうした罪を持っていることを知っています。私はそれを否定しません。ですが、あなたは、『わたしはそれを赦す』、と云われました。私は、なぜあなたがそれを赦さなくてはならないか何の理由も思いつけません。私は、自分がもっとまともになる約束などできません。ですが、主よ。あなたはそう云われました。そして、それだけで十分です。『あなたの約束どおりに行なってください』」。この場にいる別の人は、自分が最後まで持ちこたえられるかどうか、また神の子どもとなった後で、自分が見捨てられた者となりはしないか恐れている。ならば、もしそれがあなたの状態だとしたら、行って、神にこの言葉を持ち出すがいい。「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの愛の契約はあなたから移らない」*[イザ54:10]。そして、《救い主》が去って行こうとしておられると思うときには、主の衣のすそをつかみ、こう云うがいい。「イエスよ。あなたの約束どおりに行なってください。あなたは云われました。『わたしは決してあなたを離れない』*[ヘブ13:5]。『あなたの約束どおりに行なってください』」。あるいは、もしあなたが神の臨在を失ってしまったとしたら、この約束を思い出すがいい。「わたしはまた来ます」*[ヨハ14:3]。行って云うがいい。「主よ。わたしは、あなたの臨在という甘やかな慰めを心の中で失ってしまいました。ですがあなたは、『わたしはまた来ます』、と云われました」。そして、もしサタンが、「彼は去って行き、もう二度と戻って来ないのだ」、と云うならば、サタンに向かって、このことはお前と何の関係もない、と云うがいい。神がそう云われたのである。それを手放してはならない。「あなたの約束どおりに行なってください」。もしあなたがそうするなら、あなたには他のいかなる議論も、他のいかなる理由も必要ないであろう。

 1つの場合について考えてみよう。そして、それによって真理を例証してみよう。それで話は終わる。あるところに、ひとりの悪党がいるとする。彼は二十件もの押し込み強盗に関わってきた。何度か殺人も犯したとも云われる。警察は彼を追跡し、その足どりを追っているが、彼を見つけることはできない。眼目は彼を発見することにある。というのも、彼を発見し、赦免することによって、大きな善が――彼を処刑するよりも大きな善が――もたらされると希望されるからである。人々はこの絶望的に邪悪な男のもとにやって来ては、こう告げる。「もしあなたが自首すれば、おそらく無条件赦免が得られるでしょうよ」。「おそらくなんてものに頼って、自首したりするもんか」、と彼は云う。別の者がやって来て云う。「もしあなたが自首したら、私があなたのためにとりなしましょう。私は、誰それ閣下をよく知っています。そして、このような上院議員のひとりがあなたのためにとりなしてくれるでしょうよ」。「いいや」、と彼は云うであろう。「今のままでいいさ。今の俺様は全く安全だからな。だれかが俺様のためにとりなしてくれるかもしれねえなんて憶測だけで、自首するつもりはないね」。しかし、間もなくして、巨大な掲示板が貼り出された。「ヴィクトリア女王、これこれの男が自首すれば無条件赦免を与えると約束」。男はその場所につかつかと歩み寄る。ある人は彼に云う。「よせよ、相棒。もしかすると、奴らはおめえを縛り首にするぜ」。「いいや」、と彼は云う。「そんなことはしねえさ」。だれかが云う。「奴らはおめえを何年も追いかけてたんだ。いくらおめえが自分からお上の手に身柄を預けたって、女王さんがおめえを赦すなんて思うのかえ?」 「ああ」、と彼は答える。「彼女なら信頼できるぜ。彼女がだれかに無条件赦免を与えといて、後から処刑したなんてこたあ一度もなかったからな」。彼が警察署に行くと、人々は云う。「あいつが姿を現わすとは驚いたな。きれいに身を隠していたし、自首する必要なんか何もなかったのにな」。ひとりが云う。「なあ、そこに警官がいるが、お前は恐ろしくないのかい? そこに手錠がある。お前は、あれを手首にはめられて、牢屋にぶちこまれやしないか怖くはないのかい?」 「いいや」、と彼は云う。「牢屋中を練り歩いたって、俺様を閉じ込められる独房なんかないね。女王様が俺様を赦すって云ったんだからな。それだけあれば十分さ」。「しかし、お前の所業を見るがいい。お前だって自分が縛り首に値することはわかっとるだろうが」。「わかってるさ。だが俺様は無条件赦免を受けたんだ。だから、身柄を引き渡すのさ」。「しかし、お前が釈放されたら、これから何度押し込み強盗をやらかすか、わかったもんじゃないじゃないか」。「気にするこたあねえ。彼女は俺様を赦すって約束したんだ。彼女の言葉が破られねえことはわかっているさ。この英国の女王陛下ともあろうお方が、この俺みてえなやくざ者に向かって嘘をつくはずねえだろう」。さて、あなたはこのことを不思議に思わないであろう。ここには、何も特に驚嘆すべきことはない、なぜなら、私たちは女王陛下をきわめて確かなお方として信頼できるからである。しかし、この世の何にもまして困難なのは、罪人たちを神のもとに連れて来ることである。ある者は云う。「いいや。私は酔いどれだった。神は私をお赦しになるまい」。私の愛する方々。こう書かれている。「人はどんな罪も不義も赦していただけます」*[マタ12:31]。別の人は云う。「おゝ、私は悪態をずっとついてきた。不信心を続けてきた。神を冒涜してきた。神のおきてを全部破ってきた」。私の愛する同胞たち。こう書かれている。「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます」。あなたには、それが信じられないのだろうか? 神は二枚舌をお使いにはならない。では、あなたは震えおののきながらでもよい、神のもとに来ることはできないだろうか? そして御足元に身を投げ出して、こう云えないだろうか? 「主よ。もしあなたが私を罪に定めても、私はそれに値するものです。もしあなたが私を地獄に投げ落としても、私はあなたが正しくあられると知っています。ですが、主なるあなたは云われました。『わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません』[ヨハ6:37]」。私はあなたに告げるが、神は約束された通りに行なわれる。もしあなたに、その約束を信ずる信仰さえあれば、あなたは決して恐れる必要はない。

 無価値な者、よこしまな者の中でも最もよこしまな者、宇宙のくず、被造世界のごみそのものである人たち。もしあなたが神のもとに来るならは、神はあなたを迎え入れてくださる。というのも、神の約束は、あなたのよこしまさによって破られはしないからである。もしあなたがあなた自身にあてはまる約束を申し立てて、「あなたの約束どおりに行なってください」、と云うなら、神はあなたを受け入れてくださる。さて、それでは結論として、こう云うことにする。あらゆる弱い聖徒は、家に帰り、自分の聖書の頁をめくるがいい。ほんの少し真面目に取り組めば、まさに今の自分の状態そのままの約束を見いだすことができるであろう。そして、そのような約束を見いだせないとしたら、それは十分時間をかけなかったからである。というのも、ぴったりあてはまる約束は必ずあるからである。そして、それをつかんだときには、神のもとに行き、「あなたの約束どおりに行なってください」、と云い、それを手放さないようにすることである。たとい天が空から落っこちるようなことがあろうと、神の約束の1つでも破られることはない。おゝ! 私の《主人》を信頼するがいい! おゝ! 私の《主人》を信頼するがいい! あなたの魂を主にゆだねるがいい! あなたのからだを主にゆだねるがいい。私はあなたに切に願う。それを行なうがいい。神ご自身の御名のゆえに! アーメン、アーメン。

 

信仰の訴え[了]

HOME | TOP | 目次