HOME | TOP | 目次

威厳ある御声

NO. 87

----

----

1856年6月22日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「主の声は、力強く、主の声は、威厳がある」。――詩29:4


 神が造られたものはみな、壮大なものであれ微小なものであれ、神を賛美している。それらはみな、自分の《創造主》の知恵と力と慈愛を明かしている。「あなたの造られたすべてのものは、あなたを賛美します」[詩145:10 <英欽定訳>]。しかし、その中には、他にまさって賛美の歌を高らかに唄う、より威厳に富む御手のわざがいくつかある。神のみわざの中には、普通よりも大きな文字で御名が刻まれているように思えるものがある。例えば、夜となく昼となく頭をむき出しにして神を礼拝している峨々たる連山がそうであり、人間によっては制されることなく、神によって抑えつけられている、逆巻く波浪がそうであり、とりわけ雷鳴と稲妻がそうである。稲妻は神の目の閃光であり、雷鳴は神の発する御声である。雷鳴は、特に神から出たものとされるのが普通であった。いかに哲学者たちがそれを自然的原因によるものだと断言しても関係ない。彼らを信じないわけではないが、私たちはむしろ第一原因たるお方に目を注ぎたいと思う。また、雷鳴を神の声であるとする奇妙で普遍的な信念に満足するものである。雷鳴があらゆる種類の人々にいかなる影響を及ぼしてきたかには驚嘆させられる。先日ホラティウスの頌詩を読んでいたとき私は、彼が冒頭の2つの節では、いかにもイスーリエル的に歌い、神を蔑み、陽気に生きようとしているのを見いだしたが、ほどなくして雷鳴を耳にすると、彼はいと高き所に住まわれるエホバがおられることを認め、その前で震えるのである。いかに邪悪な人も、天空を貫いて響きわたるこの驚嘆すべき御声を耳にしたときには、ひとりの《創造主》がおられるに違いないと否応なしに認めさせられてきた。いかに図太い神経をした、いかに大胆不敵な冒涜を口にできる人々も、神がご自身を力強いつむじ風の中で、あるいは嵐の中で、それなりに現わされるときには、いかなる被造物にもまして弱々しい者となってきた。「主はレバノンの杉の木を打ち砕く」[詩29:5]。神は強情な心を引き下ろされる。強者を打ち伏せ、これまで決して神を認めなかった者たちに御声を聞かせるとき、いやでも神をあがめさせてくださる。キリスト者が雷鳴を神の御声と認めるのは、正しい心持ちをしていると常にそれが聖なる事がらを連想させるという事実からである。あなたの場合はどうか知らないが、私は、雷鳴の轟きを聞くたびに、ほとんど決まってそれが、地上のことを忘れ、高きにいます私の神を見上げるきっかけとなるのである。恐怖だの苦痛だのといった感情を覚えることはない。私が経験するのは、むしろ楽しさである。というのも、この詩句を口ずさみたくなるからである。――

   「神は 高みで統べ治め
    御旨のままに 雷(いかづち)発し
    荒ぶる空に 乗り行きて
    大わたつみも つかさどらん。
    こは我らが 気高き神、
    我らが父、我らが愛なり。
    天(あま)つ力を 降らせ給いて
    われらを上へ 連れ行かん」。

このお方が私たちの神であり、私はそれを歌い、そのことについて考えるのを喜びとする。だが、神がお語りになるときの御声の響きには非常に恐るべきものがある。他の人々にとっては非常に恐ろしく、キリスト者にとってはへりくだらされ、自分を非常に卑しい者とみなさせられるものがある。そのとき、その人は神を見上げて叫ぶ。「無限のエホバよ。虫けらのいのちをお助けください。甲斐なきみじめな者を踏みつぶさないでください。私はこれがあなたの御声であるとわかります。私はあなたを、かしこみ崇めます。あなたの御座の前でひれ伏します。あなたは私の神であり、あなたの他にはひとりもいません」、と。ユダヤ人は、雷鳴が他のあらゆる音を圧して轟きわたるのを聞くとき、それを神の声と呼びたくなったかもしれない。定命の者がいかに大音声を発することができたとしても、いかにその音が力強くとも、雷鳴における神の御声にくらべれば、かすかな囁き声でしかない。そして実際、神がその御座から語られるとき、それらは完全に聞こえなくなる。その御声は耳しいにも聞こえ、神を認めたがらない者らさえ御声を聞く。

 しかし、雷鳴が神の声であると証明するには、別段、人間の自然感情に訴える必要はない。私たちには聖書の後ろ盾があり、それゆえ聖書に訴えるだけで十分である。第一のこととして、出エジプト記の、ある箇所を参照してほしいと思う。そこには、欄外に雷鳴が神の声であると告げられている。その9章28節でパロはこう云っている。「主に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ」。これは原文のヘブル語によると、また私の聖書の欄外にも、賢明にも注釈付き聖書を持っているあらゆる人の聖書の欄外にも記されているところ、――「神の声」を示している。「神の声と雹は、もうたくさんだ」。それで、「雷鳴は、空にあげられた神の声である」ことは、単なる幻想ではなく、聖書によって現実に裏づけられているのである。さて、別の証拠として、どうしても指し示さなくてはならないのはヨブ記であろう。その37章3節はこう云っている。「神はそのいなずまを全天の下、まっすぐに進ませる。それを地の果て果てまでも。そのあとでかみなりが鳴りとどろく。神はそのいかめしい声で雷鳴をとどろかせ、その声の聞こえるときも、いなずまを引き止めない」。また、40章9節でも云っている。「あなたには神のような腕があるのか。神のような声で雷鳴をとどろきわたらせるのか」。私は、人間たちが神を忘れよう忘れようとし、神を被造世界の埒外へ全く追い出しては、神を種々の法則で置き換え、あたかも法則を実行し、法則に力や威力を吹き込むお方もなしに、法則が宇宙を支配しているかのようにみなそうとしている今の時代に、――私は云うが、神という大いなるお方ご自身によって直接引き起こされたことを人間が否定できない事がらについて証しできるのを、私は嬉しく思う。

 雷鳴が神の御声であることを示す驚くべき証拠を、もう1つの事実としてあなたに提示したい。すなわち、神がシナイで語り、その律法を告知なさったとき、神の御声は、最初の箇所においてではなくとも、そこに言及する部分において、大いなる雷鳴と叙述されているのである。「雷といなずまが非常に高く鳴り響いた」*[出19:16]。神はそのとき語られ、雷鳴によって恐ろしく語られたので、民がもうその声を聞かなくてすむように願ったほどであった。それから私はあなたに、新約聖書の、ある箇所を参照してもらわなくてはならない。それは、雷鳴がまぎれもなく神の御声であるという私の意見を完全に裏づけるであろう。それは聖ヨハネの福音書11章で、イエスがラザロの墓で天に向かって声を上げ、御父に答えてくださるよう願った場面である。そのとき、天から1つの声があり、そばに立っていた人々は、「雷が鳴ったのだ」と云った[ヨハ12:29]。そのとき聞こえたのは神の御声であったが、彼らはそれを雷鳴のせいだとした。ここには、雷鳴が通常は神の御声のせいであるとされていたこと、また神の御声が特に際立った時に聞こえた際には、それが常に雷鳴の音を伴っていたこと、あるいはむしろ、雷鳴の音そのものであったことが、はっきり証明されている。

 よろしい。さて、こうした考察は全く後にして、私たちは、雷鳴における神の御声についてではなく、それ以外の場所で聞かれる神の御声について、いくつか言及をしていこうと思う。というのも、神の御声には、単に自然の中で聞こえるものだけでなく、霊的な御声があり、《いと高き方》の他の御声もあるからである。「主の声は、威厳がある」。神は人間に対して様々なしかたで語ってこられ、人間が神を、ご自分のことにかまけるだけで、ご自分の被造物のことなど注目していない神であるなどとは考えないようにされた。恵み深くも《天来の存在》は、時には人間を見下ろし、別の時にはその御手を人間に差し伸ばし、時には定命の外見でご自分を人間に啓示し、しばしば人間に語ってこられた。神は多くの時代に、何の手段も用いない絶対的なしかたで――ご自分の御声をもって――語られた。例えば、シナイの燃える山頂で語られたときや、寝床の中にサムエルに語りかけ、何度も「サムエル。サムエル」、と云われたとき、あるいは、エリヤに向かって語りかけ、エリヤが、「つむじ風を聞き、火を見た」*後で、「かすかな細い声」があったときがそうである[I列19:11-12]。キリストのご生涯においても神は天から直接、ご自分の御口をもってお語りになった。神はヨルダンの岸辺におられたキリストに向かって、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」[マタ3:17]、と云われた。それとは別に、私たちが先に参照した場合においても、神は主に語りかけられたダマスコへの途上にあるサウロに向かって、。神はお語りになった。――イエス・キリストを通してであったが、お語りになったのは神である。――、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」[使9:4]、とお語りになった。神は何度か、ご自分の御声によって直接、いかなる手段の介在も全くなしにお語りになった。別の時期に神は、御使いたちによって人間に語りかけなさった。神は、いわば使信をお書きになり、それをその使いたちによって、いと高き所から下界へと送られたのである。神は、こうした栄光に富む存在の口により、多くの不思議や秘密を人間に告げられた。彼らは、みこころを行なう、神の燃える霊たちである。ことによると神は、それと同じくらい頻繁に、夢や、夜の幻の中で、深い眠りが人々を襲うときに、人間に向かってお語りになってきたかもしれない。それから、肉体の耳がふさがれているとき、神は霊の耳をお開きになり、そうされない限り決して人間に知りえなかったはずの真理をお教えになった。さらにずっと頻繁に神は、人間によって人間に語ってこられた。ノアの時代から今に至るまで、神はご自分の預言者たちをお立てになり、その口によって語ってこられた。私たちが読んでいる哀歌を口にしたのはエレミヤではなく、エホバであった。エレミヤの神が、ご自分の口の肉の器官を通して語っておられたのである。あの未来を予見し、何百万もの人々の破滅を予知したのはイザヤではなく、イザヤのうちにおられる神がそのように語っておられたのである。そして、いま生きている主のあらゆる預言者、また神が立てて語らせておられるあらゆる教役者たちも、それと同じである。私たちが力と効力と油注ぎとをもって語るとき、語っているのは私たちではなく、私たちのうちに宿っておられる御父の御霊である。神は人間を通してお語りになり、今でも私たちは神が、書かれたその《霊感のことば》を通して語っておられることを知っている。私たちが聖書の頁を繰るとき、私たちはこうした言葉を金輪際人間の言葉とみなすべきではなく、神のことばであるとみなすべきである。そして、それらは沈黙してはいても、それでも語っている。また、いかなる音も生じさせていなくとも、まことに、「それらの神は全地に響き渡り、それらの音は、地の果てまで届いた」*[詩19:4]。だがしかし、やはり神は、今に至るまで、手段を用いることによって自ら語っておられる。神は、人間を語らせているのではない。聖書をそれ自体で語らせているのではない。聖書を通して、また人間を通して神が語っておられるのである。初めからいかなる書物も用いず、いかなる人間にもご自分を代弁させなかったのと全く同じように語っておられるのである。左様。そして、時として神の御霊は、何の手段も用いずに人の心の中でお語りになることがある。私の信ずるところ、私たちには多くの隠れた衝動が、多くの厳粛な想念が、多くの神秘的な導きが、一言も言葉が発されることなしに、心の中における神の御霊の単純な動きだけによって与えられている。これは私が確かに知っていることだが、私は、全くものを聞いても読んでもいないときに、自分の内側で神の御声を感じたことがある。御霊ご自身が、何らかの謎めいた奥義を啓示し、何らかの秘密を開き、ある真理へと私を導いて何らかの指示を与え、何らかの通り道に私を至らせるか、さもなければ、何か他のしかたによって直接ご自分で私に語りかけてくださった。そして私の信ずるところ、これと同じことを、あらゆる人が回心において経験しているのである。また同じことを、あらゆるキリスト者が日常生活を営む中で、特に墓の岸辺に近づく際に経験しているのである。――神は、《永遠のお方》は、ご自分で、その人の魂に、抵抗しがたい御声で語りかけてくださるのである。その人がただの人間の声にはそれまで抵抗してきたとしても関係ない。主の御声は、以前に聞こえていたのと全く同じように、今も聞こえている。主の御名はほむべきかな!

 さて今、愛する方々。ここでようやく、この教理、「主の声は威厳がある」、ということを語っていきたい。まず第一に、本質的に「主の声は威厳がある」に違いない。第二に、絶えず「主の声は威厳がある」。第三に、それが行なうすべてのことにおいて、意図した効果を生じさせる「主の声は威厳がある」。

 I. まず第一に、「《主の》声は、《威厳がある》」。左様。そして、これは当然そうでなくてはならない。《威厳ある》お方から出る声は、威厳に満ちていて当然ではないだろうか? 神は《王の王》であり、全地の《支配者》ではないだろうか? ならば神は、ご自分の尊厳を下回るような声でお語りになるだろうか? 王は、王の声をもって語るべきではないだろうか? 力ある君主は、君主の舌をもって語るべきではないだろうか? そして確かに、もし神が神であられるなら、また、もし神が諸世界の《主人》であられるなら、また宇宙の《皇帝》であられるなら、神がお語りになるときには、王侯の舌と、威厳ある声を伴ってお語りになるに違いない。神のご性質そのものからして、神のなさるすべてのことは《神的》なものたらざるをえない。神のご様子は天来のご様子であり、神の御思いは天来の御思いである。では、神のことばは、神から出たものである以上、天来の言葉たるべきではないだろうか? まことに、神の本質そのものからも、私たちは神の御声が威厳あるものであると推し量れよう。

 しかし、ある声に威厳があるとはどういうことだろうか? 私はこれを、いかなる人の声も、それが真実でない限り、威厳のありようがないという意味に取るものである。嘘は、いかに気高い言葉遣いで語られても、決して威厳あるものにはならない。虚偽は、たとい最高に雄弁な唇によって、いかなるしかたで発されても、卑しく、けちなものとなるであろう。そして不真実は、どこでだれによって発されても威厳あるものではない。それは決して真理にはなれないし、真理しか威厳をまとうことはできない。だが神のことばは、純粋な真理、いかに微細な過誤も混ぜ合わせていないものである。それゆえ、神のことばは威厳に満ちたものになるのである。御父が聖書の中で何を云っているのを聞くとしても、どこで御父が奥義によって、あるいはその御霊によって私にお語りになろうと、御父がそれをお語りになっているとしたら、そこには、不真実がひとかけらも混入していないのである。私は、それをありのままに受け取ってよい。

   「わが信仰 御約束にて生き、
    御約束にて 死ぬるなり」。

それについて論ずる必要はない。それを受け取って信ずるだけで十分である。神がそう云われたのだから、私はそれをこの世の子らに向かって証明しようとする必要はない。たとい証明できたとしても、この世の人はさっぱりそれを信ずる気分を増さないであろう。神の威厳の御声がその人を確信させない限り、私の理屈の声などに決してそうすることはできないに違いない。私が立って、この神の御声と他の声とを切り分ける必要はない。私は、神がそれをお語りになったとしたら、それが真理たらざるをえないことを知っている。それゆえ、私は、神の御声には威厳が満ちていると信じて、神が語られたと信ずるすべてのことを信ずるであろう。

 さらにまた、神の御声が威厳のある声だというのは、それが堂々たる声だという意味である。ある人は真実を語るかもしれないが、その語るところにはほとんど威厳がないこともありえる。なぜなら、その人はそれを決して同胞の注意を引きつけることも、その耳をとらえることもありえないような声音で語るからである。事実、真理を解き明かす一部の人々の中には、口をつぐんでいた方がましという人々がいる。というのも、彼らは真理に害を加えているからである。私たちの実によく知っている多くの人々は、神の真理を宣べ伝える格好をし、戦いに赴いては、キリストの誉れを守るために槍を手に取る構えをするが、そのあまりにもへっぴり腰の槍さばきと、神の御霊をあまりにも欠いていることにより、主の聖なる御名に恥辱をもたらすことしかできず、家でおとなしくしていてくれたほうがましなのである。おゝ! 愛する方々。神の御声は、神がお語りになるときには常に堂々たる声である。王侯がその奴隷たちのただ中で立ち上がるとき、それまで彼らが互いにぺちゃくちゃ話をしていたとしても関係ない。シーッ! 陛下が口をお開きになるぞ。神の威厳もそれと同じである。もし神が天でお語りになるとしたら、御使いたちはそのハレルヤの口をつぐみ、その黄金の立琴の調べを中断し、神に耳を傾けるであろう。そして、神が地上でお語りになるとき、その全被造物にふさわしいのは、いついかなるときであれ、自分たちの反抗的な情動を静め、自分たちの理性の声を沈黙させることである。神がお語りになるときには、それが講壇からであろうと、そのみことばからであろうと、私は沈黙を守ることを自分の義務であると考える。たとい私たちが、私たちの神の栄光を歌っている間でも、私たちの魂はおののいている。だが、神がご自分の栄光を御口から語り出されるとき、だれがそれに答えようなどとするだろうか? 天の威厳に対して、だれが自分の声を上げようとするだろうか? 神の御声には非常な威厳があるため、神がお語りになるとき、それは至る所に沈黙を強いて、人々に耳を傾けさせるのである。

 しかし、神の御声には非常に力強いものがあり、それこそ、それが威厳を有している理由である。神がお語りになるときには、弱々しく語るのではなく、力にあふれた御声でお語りになる。私たち、あわれな被造物は、時として、神によってその大能の力を着せられることがあり、語るときに口から恵みがあふれ出てくる。だが多くの場合、私たちは、ごく僅かな成功しか見ることがない。私たちが語りに語っても、私たちの《主人》の御足は私たちの背後になく、私たちの《主人》の霊は私たちのうちになく、それゆえ、ほとんど何もなされない。神はそうではあられない。神は決して一言たりとも無駄になさったことがない。決して、ほんの一語をも徒に語られたことがない。何を意図しておられようと、神がお語りになりさえすれば、それは成し遂げられた。かつて神は、「光よ。あれ」、と仰せられた。すると、たちまち光ができた[創1:3]。そのように神は、永遠の昔に、キリストが神の最初の選民となるように仰せられた。するとキリストは神の最初の選民となった。神は私たちの救いをお定めになった。神がそのことばをお語りになると、それはなされた。神は救拯のために御子を遣わし、ご自分の選民に向かって御子にあって義と認められよと宣言なさった。そして神の御声は力強い御声であった。それは、私たちを義と認めたからである。他のいかなる者の声も罪を赦すことはできなかった。ただ君主の声だけが家臣への赦しを語ることができるのである。そして、神の御声は威厳ある声なのである。というのも、神がお語りになるだけで、私たちの赦罪はたちまち署名され、捺印され、批准されたからである。神はそのことばにおいて大言壮語なさらない。神は大きな口を叩いて、意味もない大仰な言葉を発することはなさらない。神が口に発される単純きわまりない言葉は、人間にはほとんど意味をなさないかもしれないが、その中には神の全能に匹敵する力と意味があるのである。神の御声には、私の魂に力をつけて竜と戦わせるに足る威厳が伴っている。「死よ。おまえが誇っていた勝利はどこにあるのか。かの怪物のとげはどこにあるのか」*[Iコリ15:55]。御約束には、小人を巨人にし、弱虫を《いと高き方》の勇士のひとりとするに足る威厳がある。そこにある力は、荒野で全軍勢を養い、全群衆をして定命の生という迷宮を導き通すに足るものである。ヨルダン川を2つに分け、天国の門を開き、贖われた者たちを受け入れるに足る威厳である。愛する方々。神の御声がいかに威厳あるものであるかを告げるには、神ご自身がこれほど力強くあられ、神のことばが神のようであるという事実を抜きにすることはできない。

 しかし、神の御声が本質的に威厳あるものであることについて、もう一言だけ云わせてほしい。そして、たといあなたが、ここまで述べてきた他の何を忘れても、ぜひこのことだけは覚えてほしい。ある意味で、イエス・キリストは神の御声と呼ばれることができる。というのも、知っての通り主は聖書の中でしばしば神のことばと呼ばれており、確かにこの神のことばには「威厳がある」からである。声と言葉はほぼ同じことである。神はお語りになる。それは神の御子である。御子はことばであり、ことばは御子であり、御声は御子である。あゝ! まことに御声には、神のことばには、「威厳がある」。御使いたち! あなたがたは、私たちに告げることができよう。御子が御父の右の座で支配しておられたとき、いかに崇高な威厳が御子を包んでいたかを。あなたがたは、告げることができよう。受肉するため御子がいかなる輝きをわきへ置かれたかを。あなたがたは告げることができよう。いかにその冠が燦然ときらめいていたか、いかにその王笏が強大なものであったか、いかにその星々できらびやかに飾られた衣が栄光に富んでいたかを。諸霊よ! あなたがた、御子がそのすべての栄光を脱ぎ捨てられたとき御子を見ていた者たち。あなたがたは御子の威厳がいかなるものであったか告げることができよう。そして、おゝ! あなたがた、栄化された者たち。あなたがた、御子が多くの捕虜を引き連れて、高い所に上られる[エペ4:8]のを見ていた者たち。――あなたがた、御子の前で拝礼し、その愛を絶え間なく歌っている、愛する歌い手たち! あなたがたは、御子がいかに威厳に満ちておられるか告げることができよう。あらゆる主権や力の上に御子が着座なさるのを、あなたがたは見ている。御使いたちは単に御足元にはべるしもべたちにすぎず、いかに強大な君主たちも御座の下をはいずる虫けらのようなものである。神だけが統治しておられ、御使いらや、不滅の霊たちの眼差しを越えた所にいや高く、――そこに御子は座しておられる。単に威厳をもってではなく、威厳に満ち満ちて座しておられる。キリスト者よ! あなたの《救い主》をあがめるがいい。神の御子をあがめるがいい。御子を崇拝し、いついかなる時も覚えておくがいい。あなたはいかにちっぽけであっても、あなたが堅く結びついているあなたの《救い主》は、本質的に威厳に満ちておられるのである。

 II. さて第二の点である。《この御声は、絶えず威厳に満ちている》。神の御声は、人間の声のように、様々な声音があり、大きさの程度も違う。だが、それは絶えず威厳に満ちている。――神がいかなる声音を用いようと、それは常に威厳に満ちている。時として神は峻烈な御声で人間に語りかけ、その罪ゆえに彼を脅かされる。そして、そのとき、その峻烈さの中には威厳がある。人間が、その同胞に向かって怒りを発し、厳しく痛烈な語り方をするとき、そこにはほとんど威厳はない。だが、正義の神が罪深い定命の者らに向かって怒りを発して、「わたしは罰すべき者は必ず罰して報いる」*、「主であるわたしは、ねたむ神」、と云われるとき[出34:7; 20:5]、また、ご自分が激しく怒る者であると宣言し、だれがその御顔の憤りの前に立ちえようと問われるとき、――岩々がご自分によって投げ落とされるとき――神の恐ろしい御声には威厳がある。それから神は別の声をも使われる。時として神は、優しく教訓を与える声により、私たちに学ばせたいと願っておられることを教えてくださる。そのとき、いかにそれが威厳に満ちていることか! 神は説明し、解き明かし、宣言される。神は私たちに、私たちが何を信ずるべきか告げてくださる。そして、そのときの御声に何という威厳があることか! 人間が神のことばを説明しても、自分の云っていることに何の威厳も持たないことはありえる。だが、神が、御民が真理であるといだくべきことをお教えになるとき、そこにはいかなる威厳があることか! それは、もしだれかがこの《書》に書かれている言葉の一部を取り去るとしたら、神が、このいのちの書から、また聖なる都からご自分の御名を取り去ってしまうであろうほどの威厳である。――聖書を改良しようとすることが冒涜的な心の証拠となり、聖書の一言でも改変しようとすることがイスラエルの神から離反する証拠となるほどの威厳である。別の時に神は別の声を用いられる。――甘やかな、慰めを与える御声である。そして、おゝ! あなたがた、悲嘆に暮れていたときに、神の慰めを与える御声を一度でも聞いたことのある人たち。それは威厳に満ちていなかっただろうか! そこには、私たちがあわれな、病んだ《魂》を慰めようとして用いることのあるような、ただの軽薄さは何もない。母親たちは、しばしば病気の子どもたちに向かって、それなりに優しい調子で語りかけるものである。だが、どこかしらそこには、取ってつけたようなものがあり、それゆえ、威厳に満ちてはいない。だが、神が慰めるために話すとき、神はその威厳あることばをお用いになる。「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」、とあなたをあわれむ主は仰せられる[イザ54:10]。おゝ! この甘やかな御声には威厳がないだろうか? 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」[イザ49:15]。いかに甘やかな、だがしかし、いかに威厳あることか! 神がそれを私たちの魂に語りかけられるとしたら、私たちはそれによって慰められずにはいられない。時として神の御声は叱責する声となる。そして、そのときそれは威厳に満ちている。神は云われる。「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない」[イザ1:3]。そして、神は、あたかも彼らと論争をしておられたかのように非難する口調で語り、山や丘を呼び出しては、罪ゆえに民を叱責する御声を聞かせなさる。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった」[イザ1:2]。しかし、神が叱責なさる御声には常に威厳が満ちている。他の時に、それは神の子どもたちに対する命令の声となる。神は彼らに対してこう云っておられるように思われる。「イスラエル人に前進するように言え」[出14:15]。そして、神が私たちに何をすべきかをお告げになるとき、神の命令はいかに威厳あることか! いかにその御声は力強いことか! あなたがたの中のある人々は、神の御声がいかなるものであるかについて、非常に貧しい評価しかいだいていない。神はあなたに、あなたの主であり《主人》であるお方を尊びバプテスマを受けるように告げておられる。神はあなたに語っておられる。告げておられる。主の聖餐卓を囲んで、主の死の苦しみを記念するようにと。だが、あなたはそれを大したことではないと考えている。その御声は、あなたには効き目がないように見える。しかし、あなたに告げさせてほしい。神が命令する御声は、威厳に満ちており、神の御民によって、その御約束のことばや、教理のことばと同じように重くみなされるべきである、と。いつ神がお語りになろうと、いかなる声音をお取りになろうと、その御声には威厳がある。あゝ! 愛する方々。そして、やがて来たるべき時には、神は、あからさまに威厳に満ちたことばをお語りになるであろう。――そのとき、神は語って、こう仰せになるであろう。「起きよ。あなたがた、死せる者たち。審きへと出よ」。その御声には威厳があるであろう。というのも、そのときハデスは錠を開けて、墓の門は真っ二つに挽き切られるからである。死者の霊は再び肉をまとわされ、干からびた骨はもう一度生きるようになる。そして、じきに神はお語りになり、あらゆる人間を呼び出しては、ご自分の法廷の前に立たせなさる。そして、こう仰せになるとき、神の御声には威厳があるであろう。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」*[マタ25:34]。そして、おゝ! 考えるだに恐るべきことに、神がこう大喝なさるとき、その御声にはすさまじい威厳があるであろう。「のろわれた者ども。離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ」*[マタ25:41]。

 また、神の御声は、その大きさがいかに異なっていようと威厳に満ちている。召しにおいてすら、神の御声の大きさには違いがある。あなたがたの中の多くの方々は、キリストのもとに優しく召され、神の民の多くのようにシナンの雷鳴を聞くことはなかったように思える。だが、御声が大きかろうと柔らかであろうと、それは常に威厳に満ちている。

 そして、それがいかなる媒介を用いようと、それは威厳に満ちている。神は時には貧しい者を選んでご自分の知恵を語らせなさる。たとい私が行って田舎者か無教育の人の話を聞き、そこで文法的な誤りを数多く聞くとしても、それでもその人の宣べ伝えていることが神のことばである場合、そこには「威厳がある」。また、時として私たちは、小さな子どもがある聖句を繰り返しているとき、子どもの方には注意を払わないことがあった。御声の威厳のゆえである。事実、用いられる媒介的手段が卑しければ卑しいほど、御声にある威厳そのものはいやまさるものとなる。私の気づくところ、多くの人々の内側には、自分より貧しい兄弟たちを軽蔑する傾向、自分たちが話を聞くのを常としている教役者よりも粗末な教役者しか有していない小さな教会の会員たちを軽蔑する傾向があるようである。だが、こうしたことはみな間違っている。というのも、神の御声には威厳が満ちており、ある者によって、他の者によってと同じくらいお語りになることができるからである。

 III. 最後のこととして、私が手短に言及しなくてはならないのは、神の御声が《その生み出した効果によって明らかにされる場合》――御声が人の心を刺し貫くように語られる場合についてである。この詩篇を見てみるがいい。そして、ここで言及されている事実を手短に言及させてほしい。私はこれらを自然現象として理解しようとは思わない。むろんダビデはそれを自然現象のつもりで語ったのだが、むしろ私はそれらを霊的に理解するのがよいと思う。ホーカー博士が指摘しているように、「疑いもなく、これらは自然界における働きと同様、恵みからなる働きをも述べるべく意図されたものである」。

 第一に、主の御声は、打ち砕く声である。「主の声は、杉の木を引き裂く」[詩29:4]。いかに高ぶった、いかに強情な罪人も、神がお語りになるときには、御前で打ち砕かれる。私の信ずるところ、ヴォルテールの霊でさえ、いかに強情をきわめ、石臼なみに固い霊ではあっても、もし神が彼に語りかけておられたとしたら、一瞬のうちに砕かれていたであろう。この場にいる最もかたくなな心でさえ、神からほんの一言聞くだけで、瞬時に砕かれてしまうであろう。私が永遠に繰り返し云い続けてもそうすることはできないであろうが、「主の声は……レバノンの杉の木を打ち砕く」。

 次のこととして、それは動かす声、圧倒する声である。「主は、それらを、子牛のように、はねさせる。レバノンとシルヨンを若い野牛のように」[詩29:6]。山が動くことなどだれが考えようとするだろうか? それは断固不動のものとして立っている。しかし神の御声は、ゼルバベルの声のように、山に語りかけ、こう仰せになる。「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ」[ゼカ4:7]。この世にあるいかなる山といえども、神がその御声で動かせないものはない。それがローマという山々であろうと、にせ預言者という山々であろうと、異端、不信心、偶像礼拝の巨大な体系という山々であろうと関係ない。神はただことばを発するだけで、偶像どもはその玉座から倒れ落ち、聖職者の政略という堅固な山々は子牛のように飛び跳ねるのである。

 次のこととして、神の御声は分割する声である。「主の声は、火の炎を、ひらめかせる」[詩29:7]。あるいは、しかるべく訳せば、「主の声は、火の炎を消し去る」。金曜日に稲妻があったが、それを見てあなたは気づいたであろう。神の御声が聞かれるとき、その閃光は雲を引き裂き、空を分かつように見える、と。神のことばもまさにそれと同じである。神のことばが忠実に宣べ伝えられ、神の御声が霊的に聞かれるとき、それは常に分割する声となる。あなたは、ありとあらゆる異なる性格の人々を会堂に連れ込んでくるが、神のことばは彼らをみな2つに分かつ。この場所において、神はあなたがたを分割なさる。神の子どもたちは神の御座をいただき、この場で審きの座につく。御声は、人を人から分け放つ。罪人たちを自分のもろもろの罪から分け放つ。罪人たちを自分の義から分け放つ。雲と暗闇を貫いて断ち割る。私たちの困難を分断し、私たちのために天国への道を切り開く。事実、神の御声に分割できないものは何もない。それは分割する声である。

 さらにまた、主の御声は、荒野を揺すぶると云われるほどに大きな声である。「主の声は、カデシュの荒野をゆすぶる」*[詩29:8]。荒野か砂漠の真中に立って何か物音を立てられるかどうか思い描いてみるがいい。だが神がお語りになるとき、その御声は荒野をつんざいて響きわたり、砂漠そのものさえ飛び上がらせる。神の教役者よ! あなたが神の御声を語りさえすれば、人はそれを聞くであろう。もしあなたの話を聞いている人が五、六人しかいなかったとしても、あなたは自分で知っているよりもさらに聞かれるであろう。私たちが福音を説教するならば、私たちの想像を越えて耳にされ、語り草とされない者はひとりとしてない。しかり。ひとりの貧しい婦人との敬虔な会話1つといえども、全世界に伝えられ、最も素晴らしい効果を生み出さずにはおかないであろう。神の御声がいかに大きなものか、それがいかに遠くまで聞こえるかは、だれにもわからない。「声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。『見よ。あなたがたの神を』」[イザ40:9]。そして、あなたの声がいかに弱々しくとも、あなたの能力がいかに乏しくとも、それを上げるがいい。すると《全能の神》は、その恵みによって、荒野そのものさえ揺るがされるであろう。しかり。カデシュの荒野をさえ身震いさせるであろう。

 それから9節には、別の思想がある。私としては、おそらく云わずすませた方がよいのかもしれないが、そうはできない。「主の声は、雌鹿に産みの苦しみをさせ」る。これによって私が理解するのは、古代の人々が信じていたこと、――すなわち、雌鹿は雷の音に驚かされるあまり、しばしば出産の時期が早めて、月が満たないうちに子を産み落とすということである。神の御声についても、まさにそれと同じである。もし人の内側にキリストに向かう願いがあるとすると、神の御声は、その人のそうした願いを表に出させ、その人の魂を喜ばせ、楽しませる。また、実によくあることだが、ある人が神に反して悪いたくらみをいだいているとき、神はただお語りになるだけで、その人のたくらみを流産させられる。いわばそれは、月満ちる前に産み出させられ、時宜を得ない産物として地に落ちるのである。人が何をいだいていようと、神は一瞬でそれをその人の中から出て来させることがおできになる。もしその人に神に向かう願いがあるなら、神はその願いを表に出させ、魂を表に出させ、それを生かすことがおできになる。また、もしそれが神に反する願いであれば、神はその願いを挫折させ、殺し、圧倒し、転覆させることがおできになる。というのも、主の御声は「雌鹿に産みの苦しみをさせ」るからである。

 そして次のこととして、神の御声は、暴き出す声である。それは、「大森林を裸にする」[詩29:9]。木々はあなたの以前の隠れ場であった。だが、森林の中にさえ、たとえそれがいかに鬱蒼と茂っていようと、稲妻がひらめきわたり、大木の下のいかに覆い隠された場所にも、主の御声は聞こえる。神の御声は、ものを暴く声である。あなたがた、偽善者たち! あなたは大森林の木々のかげに身を潜めている。だが神の御声は、それが発されるとき、あなたを追って鳴り轟く。あなたがたの中のある人々は、種々の儀式や、善良な生活や、決意や、希望の下に隠れている。だが神の御声は大森林を裸にする。思い起こすがいい。やがて来たるべき日に、あなたがたの中のある人々は、岩々や山々の下、または森林の最も奥まった場所に身を隠すであろう。あるいは、身を隠そうとするであろう。だが、主がその御座に着かれるとき、その御声は大森林をも裸にする。あなたがたは、古い樫の木の下に立つか、その幹の洞にもぐりこみ、ここならだれにも見えないと感じるであろう。だが、主の御目は火の玉のようであり、あなたをすっかり見通し、その御声は、雷鳴の轟きのように、こう云う。「出て来よ、犯罪者よ。出て来よ、人よ。私にはお前が見えている。

   『わが目は薄暮を 貫きて汝が 魂を見ゆ、
    夜影(よかげ)も白昼(ひる)も 変わることなし』。

出て来よ。出て来よ!」 そしてそのとき、あなたの偽装はむなしく、あなたのごまかしは無駄となる。「主の声は……大森林を裸にする」。おゝ! 神が今朝、あなたがたの中のある人々に語りかけ、あなたの魂を裸にしてくださればどんなによいことか! 私は神が、あなたの失われた、望みない状態をあなたに対して露にしてほしいと思う。あなたがた、キリストから離れているひとりびとりは罪に定められている! おゝ、願わくは、《救い主》を抜きにしたあなたの立場がいかに恐ろしいものであるかを、神があなたに露に示してくださるように。あなたがいかなる律法的な望みをいだいていようと、いかなる経験を有していようと、キリストに堅く結びついた経験でない限り、それが誤った思い込みであると示してくださるように! ぜひとも神があなたに示してくださるように。あなたのいかなる良いわざも、たといあなたが家としてそれを建てても、最後にはあなたの頭の上に崩れ落ちてくるのだということを。また、あなたが、大森林をも裸にする神の御前に何の覆いもなく、むき出しで立たなくてはならないということを。

 私は今朝、あなたに説教したいと思っていたが、それはできない。だが、ことによると、私のおびただしい数の言葉のただ中に、何か神のかすかな細い声があって、あなたの心に届いているかもしれない。そして、この場の残り全員がそれを蔑むとしても、それが何であろう? 神の御声は、選ばれた人々においてと同じく、捨てられた人々においても、威厳に満ちているであろう。そして、もしあなたがたが地獄に投げ落とされるとしても、神は、あなたがたが聞いて蔑んだ御声から栄光をお受けになるであろう。それは、選民が聞いて、おののき、神に逃れていくことになった御声によってお受けになるのと変わらぬ大きな栄光であろう。決してあなたが断罪されることによって、神からその誉れが少しでも奪われると考えてはならない。左様。方々。神は、あなたがたが滅びることによっても、あなたがたが救われることによってと同じくらい、ご栄光を現わすことがおできになる。あなたがたは、神の栄光の重みにくらべれば、ちっぽけなしろものでしかない。神はいかようにしてもご自身を大きく高めることがおできになる。おゝ! それゆえ、神の前でへりくだるがいい。神の愛と神のあわれみとの前にひれ伏すがいい。そして、いま、救いの計画がいかなるものか聞くがいい。神がいかにしてその選民を召し出されるかを聞くがいい。それは、こうである。「信じる者は」――この御声を、このみことばを、この御子を「信じる者は」、――聞く者ではなく、「信じる者は」、――語る者ではなく、「信じる者は」、――単に淡い希望をかけるだけでなく、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。おゝ! 話を聞いている方々。もし私がこの肉体から外に飛び出し、私の霊の弱さをわきへ置くことができたとしたら、そのときには、私もあなたに説教できるような気がする。だが、私が重々承知しているように、そのときでさえ、お語りになるのは神にほかならない。それゆえ、私は言葉を措くことにする。わが神! わが神! ここにいるわが民を救い給え。イエスの尊い御名のゆえに。アーメン、アーメン。

 

威厳ある御声[了]



HOME | TOP | 目次