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全知の神

NO. 85

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1856年6月15日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「あなたはエル・ロイ[ご覧になる神]」。――創16:13


 人間には、本人が気づいているよりも多くの目が注がれている。人間が見ている者よりも、人間を見ている者の方が多い。人間は、自分では人目につかず、だれからも見られていないと思っている。だが思い出すがいい。雲のような証人たち[ヘブ12:1]によって、その人は注視されているのである。どこにいようと、いかなる瞬間にも、その人の一挙手一投足に注目し、そのあらゆる行動を常に凝視している者たちがいるのである。この《公会堂》の内側には、疑いもなく、私たちには見えない無数の霊が――良い霊、悪い霊が――いるに違いない。今晩、私たちの上には御使いたちの目が注がれている。この完全な霊たちは一心に私たちの礼拝式に注目し、私たちの賛美歌を聞き、私たちの祈りを観察している。ひょっとすると彼らは、罪人がひとり神によって生まれ変わるたびに、その知らせを仲間に知らせに飛びかけているかもしれない。ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こる[ルカ15:10]からである。私たちが眠る時も、目覚めている時も、幾百万もの霊的被造物らはこの地上を歩き回っている[ミルトン『失楽園』4.677]。真夜中には、目に見えない大勢の影たちが宿っており、日中は日中で霊たちがいる。かの空中の権威を持つ支配者[エペ2:2]は、おのれの悪霊どもの集団に付き添われて、しばしば天界を飛び回っている。悪霊たちは、私たちが立ち往生するのを今か今かと見張っている。一方、善霊たちは、神の選民の救いのために戦っている。彼らは私たちのすべての道で私たちを守り、私たちの足を見守って、それが石に打ち当たることのないようにしている[マタ4:6]。おびただしい数の不可視の存在が、私たちひとりひとりに付き添っている。私たちの生涯のどの時期にも、それは変わらない。また私たちが思い出さなくてはならないのは、選ばれた御使いであれ堕落した御使いであれ、そうした霊たちだけが私たちを観察しているのではなく、「全うされた義人たちの霊」[ヘブ12:23]も、絶えず私たちの行動を見守っているということである。使徒の教えるところ、高貴な殉教者たちの群衆と、栄光に富む信仰告白者たちの一団は、天国を目指す私たちの競走の「証人たち」にほかならない。彼はこう云っているからである。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨て……ようではありませんか」[ヘブ12:1]。あの蒼天の彼方から、栄化された者たちの眼差しは私たちを見下ろしている。神の子どもたちはその綺羅星のような玉座に座っては、かつて自分たちが真中にして戦っていた旗じるしを、私たちが男らしく掲げているかどうか見守っている。彼らは、私たちの剛胆さを見つめるか、私たちの臆病さを見破る。そして戦いの日に私たちが発揮する大胆不敵な行為を、あるいは屈辱的な退却を、余念なく目撃している。

 このことを思い起こすがいい。あなたがた、人の子らよ。あなたがたは決して顧みられない存在ではない。決してこの世を、名もなく目立たない者として通り過ぎているのではない。いかに暗い夜のとばりが下りるときにも、その暗闇を通して目という目があなたを凝視しているのである。輝く日中には、御使いたちがあなたの労苦の観客となっている。彼方の天からは、霊たちが見下ろしており、有限な存在に見てとれるものすべてを見ている。しかし、もし私たちがこの思想を大切にしまっておくに足るものだと考えるとしたら、それを一括りにして、大海に落ちた水一滴のように呑み込んでしまうことが1つある。それは、この「あなたはご覧になる神」という思想である。この圧倒的な真理にくらべれば、御使いたちが私を見ていることなど何ほどのことでもない。悪霊たちが私を見張っていることなど何ほどのことでもない。栄化された霊たちが私を注目していることなど何ほどのことでもない。あなたが――神が――いついかなる時も私をご覧になっておられるのである。本日の説教では、そのことについて詳しく語ることにしたい。そして、願わくは御霊なる神がそれを用いて、私たちの霊的益としてくださるように!

 第一のこととして注意したいのは、一般的な教理、すなわち、神がすべての人々を観察しておられる、ということである。第二のこととして注意したいのは、個別的な教理、すなわち、「あなたは私をご覧になる神」<英欽定訳> ということである。そして第三のこととして、ここから、いくつかの、慰めになる実際的な推論を引き出したい。今ここに集まっている、個々に異なる状態にある人々は、この短い一節からそれぞれ学びとることがあるであろう。

 I. 第一のこととして、《一般的な教理》、すなわち、神は私たちをご覧になっておられる、ということである。

 1. このことは、神のご性質から簡単に証明できよう。自分の被造物たちを見ることもできない神などを想定するのは困難であろう。自分の手で造った作品の動きを見てとれない神格などというものは、想像するも至難の業であろう。ギリシヤ人が神にあてはめた言葉は、神が、目の見える神であることを暗示していた。彼らは神を theos(セオス)と呼んだ。そして、その言葉は、私のうろ覚えでなければ、Theisthai(セイスタイ)――見る――という語根からの派生語である。なぜなら、彼らは神を、すべてを見ている者、一目で全宇宙を見通し、定命の知識をはるかに越えた知識を有する存在であるとみなしたからである。《全能の神》は、そのご本性とご性質そのものからして、《全知の神》でなくてはならない。神が私をご覧になっているという思想を抹消すれば、一打ちで《神性》を消滅させることになる。もし神に何の目もないとしたら、神などいないであろう。というのも、盲目の神など神でも何でもないからである。私たちはそのようなものを思い描けないであろう。偶像礼拝者たちは愚鈍かもしれないが、その彼らでさえ、盲目の神を造り出したとは到底考えられない。彼らでさえ、自分たちの神には目玉を――それでものが見えるわけではないにせよ――つけている。ジャガナートには血走った目があり、古代ローマの神々には目があり、そのいくつかは、遠目のきく神と呼ばれていた。異教徒たちでさえ、何の見る目もない神などまず考えられなかったのである。確かに私たちも、ほんの一秒たりとも、日の下で人間によってなされるすべてのことについて知識を有さない《神性》などがありえると想像するほど狂ってはいない。私は云うが、あらゆることを観察していない神を思い描くなど、真丸な四角形を思い描くのと同じくらい不可能である。私たちが「あなたは神」と云うとき、事実、私たちは「神」という言葉に、何もかもご覧になるという神観を込めているのである。「あなたはご覧になる神」。

 2. だが、さらに、神が確かに私たちをご覧になっているに違いないのは、聖書では神があらゆる所におられると教えられているからである。そして、もし神があらゆる所におられるとしたら、神が、ご自分の宇宙のあらゆる部分でなされているあらゆることをご覧になるのに、何の支障があるだろうか? 私は単に神の近くに生きているのではない。むしろ、「神の中に生き、動き、また存在している」[使17:28]のである。この広大な空間の中には、一粒子といえども神によって満たされていないものはない。清浄な空気の中に出て行けば、その一粒子といえども神がおられないものはない。私が踏みしめるこの地上の、また私が動き回る場所のあらゆる部分に神はおられる。

   「汝が御力の 周内(うち)にわれ立ち、
    いずこにも見ゆ われ汝が御手を。
    目覚(さ)めても寝ても 内にも外にも
    われは囲まる なおも御神に」。

暁の翼をかって最果ての星を飛び越えても、そこに神はおられる。神は一箇所に限定された存在ではなく、至る所におられる。神はそこに、またそこに、またそこにおられる。人間のくり抜いた最も深い坑道の中にも、大海原の底知れぬくぼみにも、はるかに聳え立つ高みにも、水深の測りようもない深海にもおられる。神はあらゆる場所におられる。私は神ご自身のことばから、神が無限の空間を満たされる神であることを知っている。天も神にとっては広くはない。神は片方の御手で太陽をつかみ、もう片方の御手で月をおつかみになる。神は、熾天使の翼が一度も羽ばたいたことのない、未踏の天界に長々と横たわり、そこにおられる。また智天使の歌によって一度も破られたことのない厳粛な沈黙がある所に神はおられる。神はいかなる場所にもおられる。宇宙空間を思い描いてみるがいい。神とその空間は等しい。よろしい。ならば、もし神がどこにでもおられるとしたら、いかにして私は、自分がどこにいようと神が私をご覧になっていると信ぜずにいられるだろうか? 神は私を遠くから眺めているのではない。もしそうだとすると、私は夜闇の陰に身を隠せるかもしれない。だが、神はここに、私のそば近くにおられる。また、私のそばにいるだけでなく、私の中に、この心の臓の内側におられる。この肺が鼓動するところに、あるいは、私の血液が私の血管内を勢いよく流れているところに、あるいは、この脈が鈍い太鼓の音のように、死に向かう私の行進に合わせて打っているところに、そこに神はおられる。この口の内側に、この舌の中に、この目の中に、その1つ1つの中にあなたの神は住んでおられる。神はあなたの内側におられ、あなたの回りにおられる。あなたの脇におられ、あなたの背後におられ、あなたの前におられる。このような知識は不思議すぎるではないだろうか? 高遠すぎて達せないではないだろうか? 私は云う。いかにしてあなたは、雷電の閃きのようにあなたのもとに押し寄せるこの教理に抵抗できるだろうか? もし神があらゆる所におられるとしたら、神はあらゆることをご覧になっているに違いないし、それゆえこのことは真理なのである。「あなたはご覧になる神」。

 3. しかし、神は空間中におられても眠っているかもしれないと考える者がいないように、念のためこう云わせてほしい。神が行くことのできるあらゆる場所には、単に神がおられるだけでなく、神の活動があるのである。私がいずこへ行こうと、私が見いだすのは、眠り込んでいる神ではなく、この世の事がらについて忙しくしておられる神である。私が緑の草地に、また心地よい牧草地に行くとする。――左様、あらゆる小さな草の葉のうちに神の御手があり、それを成長させている。また、子どもが摘むのを好むあらゆる可愛い雛菊は、その小さな目を上げて云っている。「神は私の中にいて、私の液汁を巡らせ、私の小さな花を開かせておられるのですよ」、と。このロンドンの好きな所を通って行き、草木などほとんど見いだせなくとも、彼方を見上げ、あの星々の運行を眺めるがいい。神はそこで活動しておられる。神の御手がその星々を押し回し、月をしてその夜間行路を辿らせているのである。しかし、たとい星も月もないとしても、そこにはあの雲がある。闇をたっぷりとはらんだ、夜の穂のごとき雲がある。だれがそれらの舵を取って、この藍色の海を進ませているのだろうか? それらに吹きつける神の息が、天をついてそれらを走らせているのではないだろうか? 神は、眠り込んでいる神としてではなく活動する神として、あらゆる所におられる。私は海に面する。そしてそこで、神が果てしない自然の脈拍を絶えざる潮の干満によって打たせておられるのを目にする。私は道なき砂漠にいる。だが、私の上で自然が叫び声をあげ、私は神が野鳥を飛びかけさせておられるのを見てとる。私は隠者の庵に閉じ込められている。だが、一匹の虫が木の葉からぽとりと落ちて、その虫の中に神が保持し支えておられるいのちを見てとる。しかり。私が動物界から閉め出され、苔もむさない不毛の岩の上に立たせられても、そこに私は、私の神が宇宙の柱を支えておられるのを認め、その裸岩を、神が世界を築き上げる巨大な基盤の一部として維持しておられることがわかる。

   「いずこに目を向け 凝視(みつめ)るも
    汝が輝ける 足跡(みあと)映ゆ。
    幾万(あまた)の不思議 起こりきて
    その起源(もと)天(あめ)に ありと云わん。

    生ける諸族(べ)の者 無数(かず)なして
    地にて、海にて、空にあり
    小(ちさ)き羽虫も 虫けらも
    全能(おい)なる力 宣言(あらわ)せり」。

あなたがたは、至る所に神を見るであろう。もしあなたがたが自分の回りに神を見てとらないとしたら、あなたの内側を見つめるがいい。そこに神はおられないだろうか? あなたの血液は、あなたの心臓を中心にして、からだのあらゆる部分へと今も出入りしていないだろうか? そして、そこで神は活動しておられないだろうか? あなたは知らないのだろうか? 自分の脈拍の一打ち一打ちが、《神性》の意志作用を許可証として必要としていることを。それどころか、《天来の》力の行使を、その原因としてより一層必要としていることを。あなたは知らないのだろうか? あなたがついている呼吸の一息一息が、《神性》をその吸気にも呼気にも必要としており、神がその力を差し止めればあなたが死ななくてはならないことを。もし私たちが自らの内側を眺めることができるとしたら、この定命の組織――魂を覆う衣――の中では、数々の力強い働きがなし続けられているのである。それはあなたを驚愕させ、実際に悟らせるであろう。神は眠り込んでおらず、活発に、忙しくしておられることを。あらゆる所で働いている神、あらゆる所で目を開いている神、あらゆる所で御手を働かせている神がおられるのである。何かをしている神、眠っているのではなく労働している神がおられるのである。おゝ! 方々。この確信があなたの精神に輝かしい、目を閉ざせもしない閃きを放たないだろうか? すなわち、神があらゆる所におられ、あらゆる所で活動しておられる以上、必然的に、避けようのない結果として、神は私たちを見ておられ、私たちの行動も行為もことごとく知っておられるのである。

 4. 私にとって決定的と思われるもう1つの証拠がある。それを思い起こせば、確かに神は私たちを見ておられるに違いないであろう。すなわち、神は、あることが起こる前からそれを見ることがおできになる。もし神が、ある出来事が起こる前にそれをご覧になっているとしたら、いま起こりつつあることを見ておられるに違いない。あの古代の預言の数々を読むがいい。バビロンやニネベの終焉について神が何と云われたか読むがいい。エドムの破滅について記された章、あるいはツロが荒れ果てると告げている章だけでも読んでみるがいい。そして東方の諸国をざっと歩いてみるがいい。ニネベやバビロンが倒壊しているのを見、滅亡したこの町々を見て、この問いに答えるがいい。――「神は、予知の神ではないだろうか? 神は、来たるべきことを見ることがおできになるではないだろうか?」 左様。次の千年の時代の間に起こり来ることの中で、すでに神の無限の御思いにとって過ぎ去ったものでないものは1つとしてない。明日、あるいは明後日、あるいは明々後日、もし日々が永遠に続くとしたら永遠を通じて、これから実行されることになる行為の中で、神が知り尽くしていないことは1つもない。そして、もし神が未来をご存知であるとしたら、現在をご存じではないだろうか。もしも未来の事がらを私たちから隠しているほの暗いもやを神の目が見通せるとしたら、神は現在という明るさの中に立っているものをご覧になれないだろうか? もし神がはるかな距離を見通せるとしたら、手近にあるものなど、たやすくご覧になれるではないだろうか? 確かに、かの、最初から最後を識別なさる《天来の存在》は、いま起こっていることを知っておられるに違いない。そして、私たちを「あなたはご覧になる」ということ、神が私たちをそっくりそのまま、人間という種族全体すらご覧になれることは真実であるに違いない。ここまでのことが、一般的かつ普遍的に承認されている教理である。

 II. さて、私が第二のこととして目を向けたいのは、《個別的な教理》、「あなたは私をご覧になる神」 <英欽定訳> ということである。

 さても、かくも多くの人々が話を聞いているということには不都合な点が1つある。一度にふたり以上の人に話すときには常にそうだが、人々は、「これは私に向かって語ってはいないのだ」、と考えがちだからである。イエス・キリストは一度、非常に用いられた説教を語られた。なぜなら、主の前には、井戸のかたわらに腰を下ろした女がいるだけで、彼女は自分の隣の人にキリストが語っているのだとは云えなかったからである。主は彼女に、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」[ヨハ4:16]、と云われた。そこには彼女の心を打ちのめすものがあった。彼女は自分の咎の告白をはぐらかすことができなかった。しかし、私たちの会衆について云うと、かの古の雄弁家は自分の願いがすぐにかなえられるのを見るであろう。「友たちよ。ローマ人よ。同国人よ。あなたがたの耳を貸してほしい」。というのも、福音が宣べ伝えられる時、私たちはだれにでも自分の耳を貸すからである。私たちは、自分の隣人のために聞くことに慣れていて、自分自身のために聞くことをしない。さて私は、他のものならあなたが何かを人に貸すことに全く反対はしないが、あなたが耳を貸すことには強く反対するものである。私は、しばらくの間、あなたが自分の耳をしっかり自分のもとに置いていてくれれば嬉しく思う。というのも、私はあなたに、この真理、「あなたは私をご覧になる神」をあなた自身のこととして聞かせようとしているからである。

 よく聞くがいい。神はあなたをご覧になっている。――この会衆の中からいかなる人を選ぼうと――神はあなたを見ておられる。神はあなたを、あたかも世界には神が眺めるべき者が他にだれひとりいないかのようにご覧になっている。この場にいるような大勢の人々を私が眺めなくてはならないとしたら、もちろん私の注意は分散せざるをえない。だが、神の無限の精神は、一度に百万もの対象を把握しながら、ある1つのことに、それ以外の何も存在していないかのように集中できるのである。それであなたは今晩、神から見つめられているのである。宇宙全体の中に、あなた以外の被造物が何1つないかのように見つめられているのである。それを思い描けるだろうか? 星々が消し去られたと考えてみるがいい。御使いたちが死んだと考えてみるがいい。上つ栄光の霊たちがみないなくなり、あなたひとりが最後のひとりとして残されたと想像してみるがいい。そして神がそのあなたを見つめておられるのである。あなたにとって、これは何という考えであろう。――眺められることになるのは、あなたしかいないのである! しかし、よく聞くがいい。神は本当に今晩あなたを、あたかもあなたが御手で造られた唯一の存在であるかのように、完全に、一瞬も目をそらすことなく、ご覧になっているのである。それがどういうことか、わかるだろうか? 神はあなたをその御目のすべてで、視力のすべてをこらして見ておられる。――あなたが――あなたが――あなたが――あなたが、まさに今この瞬間に、神が注意を注いでおられる特定の対象なのである。神の御目は、あなたを見下ろしているのである。それを覚えておくがいい。

 次のこととして、神はあなたを完全にご覧になっている。単にあなたの行動を目に留めておられるのではない。ただ、あなたの顔つきにだけ注意しておられるのではない。単に、あなたがどんな姿勢を取っているかだけ視界におさめておられるのではない。むしろ覚えておくがいい。神は、あなたが何を考えているかをご覧になっているのである。神は内側を眺めておられる。神はあらゆる人の心に窓を有しておられ、そこから中を見ておられる。神には、あなたが何を考えているかあなたから告げてもらう必要はない。――神はそれを見ることができ、神はあなたをお見通しであられる。あなたは知らないのだろうか? 神が、大海原の底にある岩に何と記されているかも読みとれるお方だということを。たとい、それが一万尋もの深海の底にあろうと関係ない。そして私は云うが、神はあなたの胸に記されたあらゆる言葉を読みとることがおできになる。あらゆる考え、あらゆる想像、あらゆる思い、しかり、あらゆる空想の端切れ、精神という矢筒の中にあって、ほとんど弓から放たれもしていないあらゆる思想を神はご存じである。神はそれをみな、ひとかけらも残さず、そのあらゆる原子を見ておられる。

   「われの想念(おもい)の 生まれ出づ前(ま)も
    大いなる神よ! 汝れは知りたり。
    われは内外(うちと)で なおも囲まる、
      汝(な)が広漠(おおき)さに。

   「背後(うしろ)見やれば そこに汝れあり、
    わが前に汝が 御名ぞ輝く。
    かく汝が強き 全能の御手
    虚弱(はかな)き我が身 支えたまわん」。

あなたはこの思想を自分のものにできるだろうか? あなたの頭の天辺から足の裏まで、神は今あなたを吟味しておられる。その解剖用刀はあなたの心の中にあり、その槍状刀はあなたの胸の中にある。神はあなたの心を探り、あなたの腎臓を試しておられる。神は前からも後ろからも知っておられる。「あなたは私をご覧になる神」。あなたは私を全く知っておられる。

 さらにまた、神はあなたを絶えず知っておられる。あなたは人間に見られている時があり、そのときあなたの生活はほどほどに正しい。別のとき、あなたは人目を避けて、同胞に見つめられていてはとても行なえないようなことにふける。しかし、思い起こすがいい。あなたがどこにいようと、神はあなたを見ておられるのである。あなたは柳があなたを覆う、人里離れた小川のほとりに身を横たえているかもしれない。あたりはしんと静まり返り、物音もしない。――だが神はそこにいてあなたを眺めておられる! あなたは自室にこもり、自分のふしどのとばりを引き、深夜の暗闇の中で、ばったり倒れ込んで休息をとろうとするかもしれない。――神はそこでもあなたを見ておられる! 私は以前に、ある城に入っていったことを思い出す。長く続く螺旋階段を使って、光が一度も射し込んだことのない場所をぐるぐるぐるぐる下りて行き、ついに人ひとりの長さほどの狭い場所に達した。「ここに」、と番人は云った。「誰それが何年間も閉じ込められていたのです。日の光は一度も射し込むことがありませんでした。時々彼は拷問にかけられましたが、彼の悲鳴はこの分厚い壁を通して外へもれることはなく、この螺旋階段を上って行くこともありませんでした。ここで彼は死に、そこに葬られました」、と地面を指さすのだった。しかし、この男は地上のいかなる者にも見られてはいなかったが、神は彼を見ていた。しかり。あなたは私を永遠に閉じ込めておけるかもしれない。いかなる耳も私の祈りを聞かず、いかなる目も私の悲惨さを見てとらないような所に閉じ込めておけるかもしれない。だが、1つの目だけは私を眺め、1つの顔だけは、私が義のために苦しんでいるとしたら、私に微笑みかけるであろう。もしキリストゆえに私が獄中にあるとしたら、1つの手が私の上に置かれ、1つの声が云うであろう。「恐れるな。わたしがあなたを助ける」[イザ41:13]、と。――いついかなるときも、いかなる場所でも、あなたのいかなる思想の中でも、あなたのいかなる行為においても、いかにあなたが人目につかない所にあろうと、あなたのいかなる公の行動においても、あらゆる時期に、このことは真実である。「あなたは私をご覧になる神」。

 だがさらにまた、この上もなく「あなたは私をご覧になる神」である。私は自分自身を見ることができるが、私の友人や敵たちほどよく見ることはできない。人々は、私が自分を見るよりも、ずっとよく私のことを見ることができる。だが人間には、神が私をご覧になるほど私を見ることはできない。人間の心に通じた人ならば、私の行為を解釈して、その動機を云い当てることができるであろう。だが、神におできになるほど私の心を読みとることはできない。いかなる人も、神が私たちすべてを見抜くほど他者について見抜くことはできない。私たちは、神が私たちを知っておられるほど自分自身を知ってはいない。私たちのあらゆる自己認識、私たちが他者から告げられたあらゆることを越えて、神はあなたが自分自身を知っているよりも完全にあなたを知っておられる。いかなる目も、神があなたをご覧になるようにあなたを見ることはできない。――あなたは日中行動するかもしれない。あなたは自分の行動について恥じないであろう? あなたは人々の前に立ち上がり、こう云うかもしれない。「私は公人だ。私は人から観察され、注目されることを願う」、と。あなたの行為のすべては記録に留められ、万人がそれについて耳にするかもしれない。だが私は知っている。人々が決してあなたを、神があなたをお知りになるようには知ることがないだろうことを。そして、もしあなたがパウロのようにひとりの兵士と腕の鎖でつながれることがありえたとしても、――もし彼が日夜あなたとともにいて、あなたと起居をともにするとしても、――もし彼があなたの考えのすべてを聞けたとしても、彼は神があなたを知るようにあなたを知ることはできないであろう。というのも、神はあなたをこの上もない無比のしかたでご覧になっているからである。

 さて、このことをあなたに適用させてほしい。「あなたは私をご覧になる神」。これはあなたがたひとりひとりについて真実である。しばしの間このことを考えてみよう。私の目があなたに注がれているのと全く同じように、また、それよりもはるかに大きな意味において、神の御目はあなたに注がれている。ロウランド・ヒルが説教するときには、たといあなたが窓にかじりついていようと、出口付近の遠くにいようと、これは自分に向かって説教されているのだという確信が常に得られたという。おゝ! 私もそのように説教することができたらと願う。もし私があなたをして、私が特にあなたに向かって説教しているのだ、私があなたを選び出して、あらゆる言葉をあなたに浴びせているのだと感じさせることができたとしたら、そのとき私は何らかの効果を期待できよう。ならば考えてみるがいい。「あなたは私をご覧になる神」、ということを。

 III. さて、次に私は、相異なる人々にとって、それぞれ役に立つ、《いくつかの異なった推論》に話を転ずることにしよう。

 第一に、祈り深い方々にとって。祈り深い兄弟、祈り深い姉妹よ。ここには慰めがある。――神はあなたをご覧になっている。そして、もし神があなたをご覧になっているとしたら、確かに神はあなたの声を聞くことがおできになる。左様。私たちはしばしば人々の姿は見えなくとも、声を聞くことはできる。もし神がこれほど私たちの近くにおられるとしたら、また、もしその御声が雷のようであるとしたら、確かに神の耳はその目と同じほど鋭く、神は確かに私たちに答えてくださるであろう。ことによると、あなたは祈るとき一言も云えないかもしれない。だが気に病んではならない。神は耳で聞く必要はない。神はあなたをご覧になるだけで、あなたの云いたいことがおわかりになる。「あそこに」、と主は云われる。「私の子どもが祈っている。あれは一言も口にしていない。だが、あれの頬を涙が流れ落ちているのが見えないだろうか? あの吐息が聞こえないだろうか?」 おゝ! 力ある神よ。あなたは涙をも吐息をも見ることがおできになる。あなたは、願いが言葉という衣をまとっていないときも、その願いを読みとることがおできになる。むき出しの祈りを神は解釈することがおできになる。神は、私たちの種々の願いという燭台に、言語によって火をともされるのを必要とはなさらない。神は、火がともされる前から、その燭台を見ることがおできになる。

   「主は知る、われら 語らんとす言(こと)、
    よしわが口の そを告げざるも」。

私たちの霊の苦悶のゆえに、知ってくださる。神は、その願いの重みによって言葉がよろめくときも、その願いを知っておられる。話し言葉では云い知れようのないときも、神は望みを知ってくださる。「あなたはご覧になる神」。あゝ、神よ。私は言葉で祈れないとき、うつ伏せに身を投げ出し、私の祈りを呻きます。そして、呻くこともできなければ、それを吐息にします。吐息にもできなければ、それを願います。そして、このまぶたが永久に閉ざされ、死がこの唇を封印するとき、私は1つの祈りをかかえて天国に入ります。あなたが耳で聞くことはなくとも、目でご覧になるはずの祈りです。――私の内奥の霊の祈りです。私の心と私のからだが云うことを聞かないとき、神が私のいのちの強さとなり、永遠の嗣業とならせたまえとの祈りです。祈り深い方々。ここには、あなたのための慰めがある。神はあなたをご覧になっている。それで十分である。もしあなたが語ることができなくとも、神にはあなたが見える。

 私は祈り深い人々への言葉を告げた。さて次は、心配しがちな人々への言葉である。この場にいるある人々は、非常な心配と、疑いと、不安と、恐れに満ちている。「おゝ! 先生」、とあなたは云う。「もしあなたが私の貧しい家に来ることができたら、あなたは私が不安になるのも不思議に思わないでしょう。私は、自分の小さな家具の多くと別れなければ、生計を立てられませんでした。私は非常に落ちぶれ果てています。私にはロンドンにひとりも友人がいません。私はひとりぼっちです。この広い世間でひとりぼっちなのです」。やめよ、やめよ! 方々。あなたは世でひとりぼっちではない。少なくとも1つの目はあなたを見つめている。1つの御手はあなたを救い出そうとしている。絶望に身をゆだねてはならない。もしあなたがそれほど悪い境遇にあるとしたら、神はあなたの心配、あなたの困難、あなたの不安を見ることがおできになる。善人は、窮乏の状態を見るだけで、それを助けたくなるものである。そして、神は、ご自分の家族の苦悩を見るだけで、たちまちその不足を満たしたいと思われるのである。もしあなたが戦場で負傷して横たわっているとしたら、たといあなたには語ることができなかったとしても、傷病者運搬車に乗ってやって来る戦友たちが自分を見さえすれば、自分を収容しに来てくれると確実に知っている。そして、それだけであなたには十分なのである。そのように、もしあなたが人生の戦場に横たわっているとしたら、神はあなたをご覧になっている。神はあなたを救助してくださる。というのも、神はその子らの災いを眺めさえすれば、たちまち彼らを救助してくださるからである。ならば行くがいい。なおも希望するがいい。夜が最も暗い時間も、輝く明日を期待するがいい。あなたが何をしていようと、神はあなたをご覧になっている。

   「主は汝(な)が心労(うれい)、嘆き、吐息を
    知りてもたげん 汝がかしらをば」。

 さてそれから、中傷されている人々への言葉である。私たちの中には、非常に激しい中傷を受けている者たちがいる。中傷の市場が額面割れすることはめったにない。普通それは非常な高値で取り引きされている。そして、いかなる額の株も引き受けようとする者たちがいる。もし人々が、中傷について行なえるようなしかたで鉄道株を処分できたとしたら、この場に仮株券の持ち合わせがある人々がいる場合、明日の正午までには大金持ちになっているであろう。中には、そうした事がらをあり余るほど持っている人々がいる。彼らは、この人、あの人、また別の人の噂話を絶えず聞き込んでいる。そして、良識あることを書くだけの脳が足りない愚か者、あるいは真実だけを心がける誠実さを有していない人々はそこここにいるもので、それがために、神のしもべたちの何人かに対してこの上もなく不名誉な誹謗中傷を書き立てるのである。彼らは、そうした人々にくらべれば無にも等しいのだが、まさにそのねたみによって、彼らをけなしたがるのである。よろしい。それが何になるのか? あなたが中傷されているとしよう。ここに慰めがある。「あなたはご覧になる」。彼らは、これこれのことがあなたの動機だと云うが、あなたは彼らに云い返す必要はない。あなたはこう云える。「神がそのことをご存じです」。あなたは、まるで身に覚えのないこれこれのことについて非難されているとしよう。あなたの心は、その行為に関して潔白であり、あなたは決してそれを行なったことがないとする。よろしい。あなたが自分の評判のために戦うべき必要は全くない。あなたは単に天を指さして、こう云うのである。「あそこには、最後に私を正当に扱ってくださる証人がおられる。――全地の《審き主》がおられる。そのお方の判決を私は喜んで待つことにしよう。そのお方のお答えは、私の嫌疑を完全に晴らすであろう。そして私は、炉で七回も試されて、純化された黄金のように出て来るであろう」。若者たち。あなたは善を施そうと苦闘しているのに、他の人々から別の動機を勘ぐられているだろうか? それを気にして、いちいち返答していてはならない。ただ前進し続けるがいい。そうするときあなたの人生が、罪人呼ばわりに対する最上の反駁となるであろう。ダビデの兄たちは、ダビデがそのうぬぼれと悪い心によって戦いを見にやって来たのだと云った[Iサム17:28]。「あゝ!」、とダビデは思った。「私はやがて、あなたがたに答えることになるでしょう」。彼は野を横切って、ゴリヤテと戦うために出ていった。彼は大男の首を切り落とし、その勝利せる手に輝かしい答えを持って兄たちのもとに戻ってきた。もしだれかが、自分の敵たちの嘘八百に云い返したいと願うとしたら、行って善を行なうがいい。そうすれば一言も口にする必要はない。――それが答えとなるであろう。私は悪口雑言の的となっているが、私の乏しい仲立ちによって地上で救われてきた何百もの魂を指し示すことができる。そして、あらゆる敵に対する私の答えはこうである。「あなたは好きなことを云うがいい。だが、こうした足なえの人々がいやされているのを見て、あなたは彼らに対して何か云えるだろうか? あなたは様式や話しようにけちをつけられるかもしれないが、神は魂を救っておられるのである。私たちはその事実を、巨人ゴリヤテの首のように掲げ上げ、あなたにこう示すであろう。これは石投げや石ころにすぎないが、それならばなおさらよいのである、神こそ勝利を得られたお方なのだから、と」。わき目もふらず、突き進むがいい。そうすれば、あなたはあなたの中傷者たちを乗り越えるであろう。そして、あなたが最も苦悩するときには思い出すがいい。「あなたは私をご覧になる神」、と。

 さて、あなたがたの中にいる不敬虔な人々に一言か二言語りたい。キリストを知らない人たち。私はあなたにこのこと以外何を云うだろう?――この教理に照らして見たとき、あなたのもろもろの罪はいかに憎むべきものであることか! 思い出すがいい。罪人よ。あなたがどこで罪を犯そうと、あなたは神の面前で罪を犯しているのである。暗闇で物を盗むのは、それだけで十分悪いことだが、盗人たけだけしいのは白昼に物を盗む者である。罪を犯してそれを隠したいと願うのは、よこしまなこと、恐ろしいほどによこしまなことである。だが、人が私を見ているときに罪を犯すというのは、心の大きなかたくなさのしるしである。おゝ! 罪人よ。思い出すがいい。あなたは、神の御目があなたに注がれている中で罪を犯しているのである。あなたの心の何というどす黒さであろう! いかにあなたの罪はすさまじいことであろう! というのも、あなたは、神の御目があなたに据えられているとき、正義をものともせずに罪を犯しているからである。ある日、私は硝子製の蜜蜂の巣箱を眺めたことがある。その中でこの生き物たちが行なっている動きは、観察していると非常に不思議に思われた。よろしい。さて、この世は巨大な硝子製の巣箱でしかない。神はあなたがたを見下ろし、あなたがた全員をご覧になっている。あなたはこの巨大な町の街路にある自分の小部屋へ入って行く。あなたの仕事に行き、あなたの快楽に赴き、あなたの宗教的な時間を持ち、あなたの罪を犯す。だが、覚えておくがいい。あなたがどこへ行こうと、あなたは巨大な硝子の下にある蜜蜂のようなもので、神の注視から逃れることは決してできない。子どもたちが両親の面前で不従順なことをするとしたら、それは彼らがかたくなであることを示している。彼らがそれを両親の背後でこっそり行なうとしたら、それは、少しは恥を知っていることを示している。しかし、方々。あなたは神が、実際にあなたとともに立っておられるときに罪を犯しているのである。神の目があなたを徹底的に探りきわめている間に罪を犯しているのである。今でさえ、あなたは、神についてかたくななことを考えているが、その間も神はあなたの邪悪な心から出てくる沈黙の発言をみな聞き取っているのである。これはあなたの罪を極度に憎むべきものとするではないだろうか? それゆえ、私は切に願う。このことを考え、あなたの邪悪さを悔い改めるがいい。そして、あなたの罪がイエス・キリストによって拭い去られるようにするがいい。

 そして、もう1つの思想についてだけ語りたい。もし神があなたをご覧になっているとしたら、おゝ、罪人よ。あなたを罪に定めるのは何と容易なことか。先だってのぞっとするようなパーマー事件では、被告の審理を行なうために証人たちが欠かせず、陪審員が選ばれた。しかし、もしも裁判官が判事席に着き、このように云うことがありえたとしたらどうであろうか。「私はこの目でこの男が毒を調合するのを見た。私はそばに立っていて、彼が一服盛るのを見た。私は彼の考えが読みとれた。彼がそのようにした目的を知っていた。私は彼の心を読んでいた。私は彼が最初にこのどす黒い計画を思いついたとき、彼とともにいた。彼のあらゆるはぐらかしにおいて、彼が正義を欺こうとしたあらゆる行動において、彼を追跡してきた。そして私は、彼が自分でも内心では自分が有罪であるといま知っていることを読みとっている」、と。その場合、この訴訟事件は結審したも同然であろう。裁判はただの形式でしかなくなったであろう。おゝ、罪人よ。あなたが神の御前に引き出され、神が、「お前はこれこれのことを行なった」、と仰せになるとき、あなたは何と考えるだろうか? だれの目にも触れない夜闇の中であなたがしたことを神がお告げになるとき、何と考えるだろうか? あなたは驚きのあまり後ずさりし、云うであろう。「おゝ、天よ! どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか[詩73:11]」? 神は云うであろう。「やめよ。罪人よ。わたしには、まだお前をぎょっとさせることがあるのだ」。そして神は、過去の記録を広げ始めるであろう。何頁も何頁も、神はあなたの人生についてつけてこられた日誌を読み上げるであろう。おゝ! 私はそれを何頁も読み上げられる間のあなたが目に見える。あなたの膝はがくがく打ち鳴らされ、頭髪は逆立ち、全身の血が凍るように感じ、恐怖のあまり冷たくなり、ニオベーの再来のように石の立像となったまま涙を流し続ける。あなたは自分の想念が、人々と御使いらが耳をすませる中で、白日の下に読み上げられることに気づいて雷撃に打たれたようになる。あなたは、自分の想念が読まれるのを聞き、自分の行ないの写真映像が大きな白い御座の上に表示されるのを見、1つの声がこう云うのを聞いて、底知れぬ驚愕を覚える。「これこれのときの反逆、これこれのときの不潔、これこれの時の邪悪な考え、これこれの日の安息日破り、これこれのときの冒涜、これこれの時の盗み、これこれの時期に神についていだいたかたくなな考え、これこれの日に行なった神の恵みの拒絶、別のときになされた良心の圧殺」。こうしたことが、その章の最後まで延々と続き、その後で、すさまじい最終的な破滅がやって来る。「罪人よ。呪われたまま離れ去れ! わたしはお前が罪を犯すのを見ていた。何の証人も必要ない。わたしはお前の悪罵を聞いた。お前の冒涜を聞いた。お前の盗みを見た。お前の思いを読みとった。離れて行け! 離れて行け! わたしはお前を審くとき、きよくある。お前を罪に定めるとき、わたしは正しい。お前はこうした悪をわたしの目の前で行なったからだ」。

 最後に、あなたは私に、救われるためには何をしなくてはならないのかと尋ねるであろう。そして私は、それを告げるまでは会衆を立ち去らせることを決してしたくないと思う。では、ほんの二言三言で、救いの道を聞くがいい。それはこうである。キリストは使徒たちに云われた。「すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:15-16]。あるいは、パウロによる説明を示してみよう。かの看守に向かって彼は語った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31]。あなたは何を信じなくてはならないのかと尋ねるであろう。左様、このことである。キリストが死んでよみがえったこと。その死によってキリストが、信ずるすべての者の罰を背負ったこと。また、その復活によってキリストが、ご自分の子ら全員の罪を拭い去ったということである。そして、もし神があなたに信仰を与えてくださるなら、あなたはキリストがあなたのために死んだことを信ずるであろう。また、キリストの血によって洗われるであろう。そして、あなたは信頼するであろう。この世が終わりを迎えるとき、キリストのあわれみとその愛があなたの永遠の救拯となるということを。

 

全知の神[了]

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