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内住の罪

NO. 83

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1856年6月1日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「ヨブは主に答えて言った。『ああ、私はよこしまな者です』」。――ヨブ11:3、4 <英欽定訳>


 確かに、「私はよこしまな者ではありません」、と云う権利を持っていた人がひとりいたとすれば、それはヨブであった。というのも、神のご自身の証言によると、彼は「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」[ヨブ1:1]からである。だが私たちが見いだすところ、この卓越した聖徒でさえ、神を身近にして自らの状態を悟るに足る光を受けたときには、「ああ、私はよこしまな者です」、と叫んでいる。確かに私たちはみな、神の子らであろうとなかろうと、ヨブが云わざるをえなかったことについて同意するに違いない。そしてもし私たちが天来の恵みにあずかっているとしたら、このことは私たちが大いに考察すべき主題となる。というのも私たちは、新生した者でありながらもなお、ひとりひとりが、「ああ、私はよこしまな者です」、と叫ばざるをえないからである。

 私はこれが聖書で教えられている教理であると信ずるものだが、人は、天来の恵みによって救われていても、自分の心の腐敗から完全にきよめられてはいない。イエス・キリストを信じるとき、私たちのすべての罪は赦される。だが罪の力は、神が私たちの魂に注入される新しく生まれた性質の支配によって弱められ、抑えつけられてはいるものの、死に絶えるわけではなく、なおも私たちのうちにとどまり、私たちが死ぬ日までとどまり続ける。これは、あらゆる正統派の人々によって信奉されている教理である。新生した者のうちには、なおも肉のもろもろの情欲が住んでおり、神のあわれみによって回心させられた者の心には、なおも肉的な性質の邪悪さが残っている。私の見るところ、実際的な事がらにおいて、罪に関する明確な区別をするのは実に難しい。多くの著述家、特に賛美歌作者たちは、キリスト者のこの2つの性質を混同するのが常である。さて私は、あらゆるキリスト者のうちには2つの性質があると主張するものである。それは、《神-人》なるキリスト・イエスの2つのご性質と同じくらい際立って異なっている。そこには、神から生まれたがゆえに、罪を犯せない性質がある。――天から直接やって来た霊的な性質、その作者であられる神ご自身と同じくらいきよく完全な性質がある。また、人間のうちには、アダムの堕落によって全く邪悪で、腐敗し、罪深く、悪魔的になった、かの古い性質がある。キリスト者の心には、正しいことを行なえない性質が残っている。それは新生する前と同じくらい善を行なえず、新しく生まれる前と同じくらい邪悪である。――それ以前と同じくらい罪深く、全く神の律法に対して敵意をいだいている。――その性質は、先に述べたように、新しい性質によって大きく抑制され、抑えつけられてはいるが、取り除かれてはおらず、私たちの肉体というこの幕屋が取り壊されるまでは決して取り除かれることがない。この肉体が滅ぶに及んで私たちは、決して何も汚すものが入り込まない国へと舞い上がれるのである。

 今朝の私の務めは、この、義人のうちにもなおとどまる邪悪な性質について物語ることである。それがとどまっていることを、私はまず証明するであろう。そして、それ以外の点は、話を進める中で示していきたいと思う。

 I. まず、この大いなる恐るべき事実、《すなわち、義人もそのうちには邪悪な性質を有しているという事実》である。ヨブは云った。「ああ、私はよこしまな者です」。彼は常にそれを知っていたわけではなかった。この長い論争の間、彼は自分が正しく、廉直であると云い張ってきた。彼は云った。「私は自分の義を堅く保って、手放さない」[ヨブ27:6]。そして、たとい土器のかけらで自分の身をかき、友人たちからいかなる悪罵で思いを乱されようとも、彼はなおも自分の誠実を堅く保ち、自分の罪を告白しようとはしなかった。だが彼は、ひとたび神が彼と弁論するためにやって来られ、つむじ風の中に神の御声を聞き、「全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか」[創18:25]との問いを耳にするや否や、たちまちその指を唇に当てて、神に口答えしようとはせず、「ああ、私はよこしまな者です」、と云うほかなかった。ひょっとするとある人は、ヨブは規則の例外なのだと云うかもしれない。他の聖徒たちは、そのようにへりくだる理由を自分のうちに有していなかったのだ、と告げるかもしれない。だが私たちは、そうした人々に、ダビデのことを思い出すように云いたい。そして、あの悔悟の詩篇51篇を読むように命じたい。そこに見いだされるダビデは、自分のことを、咎ある者として生まれ、罪ある者として母にみごもられたと云い切っている。自分の心には罪があると告白し、自分にきよい心を造り、ゆるがない霊を自分のうちに新しくしてくださいと神に願っている。詩篇の他の多くの箇所でダビデは絶えず認め、かつ告白している。自分が完全に罪を除かれた者ではないこと、自分の心の周囲には、なおも邪悪な毒蛇がとぐろを巻いているということを。また、もしそうしたければ、イザヤに目を向けてみるがいい。その幻の1つの中で彼は、自分が唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいると云っている[イザ6:5]。しかし、とりわけ福音の経綸の下で見いだされるのはパウロである。今しがた読んだ、かの忘れられない章において彼はこう宣言している。私は、私の「からだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を……罪の律法のとりこにしている」ことに気づいた、と[ロマ7:23]。しかり。私たちは、あの焦燥と非常な苦悶に満ちた、驚くべき叫びを聞く。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」?[ロマ7:24] あなたは、ヨブにまさる聖徒ででもあるつもりなのだろうか? ダビデの口にふさわしかった告白が、あなたにとっては卑しすぎるとでも思っているのだろうか? あなたがたは、イザヤとともに、「私もくちびるの汚れた者です」、と叫ぼうとしないほど高ぶっているのだろうか? それともむしろ、高慢になりすぎて、あの苦闘せる使徒パウロよりも自分を高みに置き、あなたのうちに――つまりあなたの肉のうちに――何か良いものが住んでいると期待しているのだろうか? もしあなたがたが、自分は罪から完璧にきよめられていると考えているとしたら、神のことばを聞くがいい。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです」[Iヨハ1:8、10]。

 しかし、愛する方々。このことを証明する必要はほとんどあるまい。私の確信するところ、あなたがたはみな、神の生きた子どもが経験することについて少しでも知っているとしたら、いかにすぐれた、いかに幸福な瞬間にも、やはり罪が自分のうちに住んでいること、いかに最上の奉仕を自分の神にささげようとするときにも、罪がしばしば自分の中で激越きわまりなく働いていることに気づいてきたに違いないからである。神の多くの聖徒たちは、しばらくの間は、自分で罪とわかることを行なわずにいられることもあったが、それでも内的に完全な者はひとりもいなかった。もしある者が完全であったとしたら、十分もしないうちに御使いたちが天から舞い降り、その人を天国へさらって行くであろう。その人が完全に達するや否や、そうされる準備が整ったからである。私はこれまで、完全ということについて多弁を弄する人々と語り合ったことがあるが、その中で気づいたのは、そうした人々がそのようなものを本当は全然信じていないということであった。彼らは「完全」という言葉を取り上げては、それに別の意味をくっつけているのである。そして、私たちがみな以前から知っていたような教理を証明するか、愚にもつかない、無価値な、私としてはそれを得るために一銭も払いたくないような完全を想定しているのである。これは、こうした人々の多くの場合、心の誤りというよりも、頭脳の誤りである。そして、ジョン・ベリッジが云うように、「神は、彼らが天国に着く前に、彼らの頭を洗ってくださるであろう」。しかし、なぜこうしたことを長々と証明することがあるだろうか? あなたは自分でも毎日このことの証拠を手にしているのである。あなたが不意に罪に陥ることがいかにたやすいか見てみるがいい。あなたは朝起きると、神への熱烈な祈りによって自分をささげ、これから何と幸いな日が始まることかと考える。だが祈り終えるや否や、だれかがやって来てはあなたの神経を逆なでにし、あなたの立派な決意はもろくも崩れてしまう。そしてあなたは云う。「きょうは、あれほど幸いな日になると思っていたのに、とんでもない目に遭った。何と自分の願うようには神のために生きられないことか」。ことによると、あなたは思ったかもしれない。「では寝室に行って、私の神に私を守ってくださるよう願うことにしよう」。よろしい。あなたはおおむね神の力によって守られていたが、突如として何かがやって来た。突如としてむしゃくしゃした気分になり、あなたは不意をつかれた。あなたの心は、攻撃など予想もしていなかったときに、激情に襲われた。扉という扉が叩き壊され、何か聖ならざる云い回しがあなたの口から飛び出し、再びあなたは密室で膝まづいて叫んだ。「ああ、私はよこしまな者です」。私は、自分の心の中に何かがいることに気づいた。私が心のあらゆる扉に閂をかけ、すべては安全だと考えるときにも、こっそり忍び寄っては、閂という閂をはずしてしまい、罪を招き入れる何かがいるのである。それに加えて、愛する方々。あなたは、たとい不意には罪に陥らなくとも、こう気づくであろう。自分の心の中にはすさまじいばかりに悪を好む傾向があり、悪を押さえつけて、「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない」[ヨブ38:11]、と云うことすら一苦労であると。否。もしも天来の力があなたに伴っておらず、守りの恵みがあなたの情動を抑制し、生まれつきの情欲におぼれないようにあなたを守ってくれないとしたら、それがあなたの手になど負えないものであることに気づくであろう。あゝ、イエスの兵士たち。あなたがたは感じてきた。――腐敗の突き上げを感じてきた。それが私にはわかる。あなたがたは誠実と真実によって主を知っているからである。そして、自分の心に嘘をつこうというのでもない限り、この世で完全に罪から自由になれるなど希望をいだくようなことはしないからである。

 この事実を述べたからには、次に進む前に、一言云い添えなくてはならない。私たちの中のだれであれ、自分が邪悪な心をしているからといって、その事実を自分の罪の云い訳にするのは、とんでもない間違いである。私の知っているある人々は、キリスト者であると告白していながら、罪について非常に軽薄な口のききかたをしていた。腐敗は今なお残っている。ならば自分が罪を犯すのはしかたがないというのである。このような人々は、明らかに神の契約については何の関係もないし、それにあずかることもできない。真に神を愛する子どもであれば、自分に罪があると知ってはいても、その罪を憎む。それはその人にとって痛みであり、惨めさであり、その人は決して自分のの腐敗を、自分の生活の腐敗の云い訳にしたりしない。決して自分の性質の邪悪さを、自分のふるまいの邪悪さの弁解として云い立てたりしない。もしだれかが、自分の心の邪悪さを申し立てることによって、日々の失敗ゆえに感ずる自分の良心のとがめから少しでも逃れられるとしたら、その人は心砕かれた、神の子らのひとりではない。あてになる主のしもべのひとりではない。というのも、そうした真実な人々は罪について呻き、それを神の御座に携えていくからである。彼らは、それが自分のうちにあることを知っている。――それゆえ、それを放ってはおかず、全心全霊を傾けてもそれを押さえつけ、それが立ち上がっては自分を引きずっていかないようにしようとする。覚えておくがいい。私の語ることをあなたの放縦さの隠れ蓑とし、あなたの咎の覆いとしてはならない。

 II. このように私たちは、いかにすぐれた人々といえども、内側にはなおも罪が残っているという事実を指摘してきた。さて、私があなたに告げたいのは、この罪は何を行なうかということである。私たちの心に今なお残っている罪は、何をするだろうか? 答えよう。――

 1. あなたも経験からわかるように、この罪は、あらゆる良いことを阻止しようとする力を振るう。あなたは、何か良いことをしたいと思うとき、この悪が自分のそばにあるのを感じたことがある。今にも山を駆け下ろうとする戦車さながらであったあなたは、車輪におもりがついていた。あるいは、天へ舞い上がりたがる鳥のようであったあなたは、自分の罪が鳥かごの網のように、《いと高き方》のもとへ飛翔するあなたを妨げていることに気づいた。あなたは膝をかがめて祈っていたが、腐敗があなたの想念を散り散りにした。賛美しようとしたが、「汝が舌の上(え)に ホサナはしおれ」るのを感じた。サタンの何らかのほのめかしは、火口箱の上の火花のようにたちまち燃え上がり、その忌まわしい煙であなたの魂が息もつけないほどになった。あなたは、自分の聖なる義務の道をひた走りたいと思うが、罪は簡単にあなたにまつわりつき、あなたの足をからませる。そして、あなたが目標に近づきたいと思っても、それがあなたの足をすくい、あなたはつまづき倒れて、不面目と痛みをこうむるのである。あなたは内住の罪がしばしば、あなたが最も熱意のあるときに、最も激しくあなたを妨害することに気づくであろう。あなたが最も活発に神のために生きたいと願うとき、――通常は、罪が最も活発にあなたを寄せつけないことに気づくであろう。かの「悪い不信仰の心」[ヘブ3:12]は路の真中に立ちはだかり、「この道に来てはならない」、と云う。また、魂が、「私は神に仕えよう。――神の神殿で礼拝しよう」、と云うとき、この邪悪な心は云う。「ダンへ行き、ベエル・シェバへ行き、偽りの神々の前にひれ伏すがいい。だが、エルサレムに近づいてはならない。私はあなたが《いと高き方》の御顔を仰ぎ見るのを許さない」、と。あなたはしばしば、こうしたことが起こるのに気づいてきた。あなたが献身と祈りの念に満ちているとき、あなたの熱い霊に冷水がかけられるのである。また、自分には鳩の翼があるのだ、逃れ去って休むことができるのだ、と考えるとき、あなたの足にはおもりがつけられていて、舞い上がることができないのである。さて、これが内住の罪が引き起こす結果の1つである。

 2. しかし、内住の罪が行なうことはそれだけではない。それは、私たちが前進するのを妨げるだけでなく、時として私たちに襲いかかることさえある。私たちの邪魔をするだけではない。単に私が内住の罪と戦うのではなく、内住の罪の方が時として私を襲撃するのである。見ての通り、使徒はこう云っている。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」?[ロマ7:24] さて、ここから証明されるのは、彼が自分の罪を攻撃していたのではなく、この罪の方が彼を攻撃していたということである。私は、自分が攻撃をしかけている相手から救い出されることを求めはしない。むしろ、私に反抗してくる者から救い出されることを求める。そして、そのように信仰者たちのうちに住んでいる罪は、時として私たちに飛びかかってくるのである。森にひそむ獰猛な虎か、悪霊の何かのように、私たちのうちにある天界の霊をねたんで襲いかかってくるのである。邪悪な性質がむらむらと起こる。それは、私たちを道ではばもうとするだけでなく、アマレク人のように、私たちを滅ぼし、完全に断ち滅ぼそうとする。愛する方々。あなたは生まれつきの罪の攻撃を今まで感じたことがあるだろうか? 感じたことがないかもしれない。だが、ないとしても、やがて感じることになることは請け合ってもいい。あなたが天国への道を踏破する前に、あなたは罪によって攻撃されることになる。それは、単にあなたがカナン人を撃退するというだけではなく、カナン人が鉄の戦車[士1:19]をもってあなたを征服し、あなたを駆逐し、あなたの霊的な性質を殺し、あなたの敬神の炎を湿らせ、神があなたに植えつけた新しいいのちを砕こうと試みるということである。

 3. キリスト者の中になおも残っている邪悪な心は、攻撃や妨害をしていないときも、常にその人の内側でなおも支配し、そこに住みついている。私の心は、いかなる悪もそこから発散されていないときでさえ、至る所で邪悪さのきわみに達したときと全く同じくらい悪いものである。火山は常に火山である。休火山になっていてさえ、信用してはならない。獅子は獅子であり、たとい小山羊のようにじゃれていても変わらない。蛇は蛇であり、眠っているときには、棒切れで叩いていられるとしても変わらない。その群青色が人の目を引きつけるときも、その牙はなおも毒液を含んでいる。私の心は、一時間ほど何の悪い思いもいだかないとしても、やはり邪悪である。もし私が、丸一日の間、自分の心から一度たりとも罪に誘惑されずに生きられたとしても、それは以前と変わらずやはり邪悪なものであろう。そして、私の心は常にそのよこしまさを現わしているか、次に現わす機会への備えをしているかなのである。それは、私たちを目がけて発射する大砲に弾こめをしているか、はっきり私たちと戦争状態にあるかである。これは確実なことだが、心は決して元来そうあったものと異なるものにはならない。邪悪な性質は今も邪悪である。そこに何の炎もないとき、それは薪を積み上げているのであり、それによって別の日に炎を燃え上がらせるのである。悪の性質は、私の種々の喜びから、私の献身から、私の聖さから、私の行なうすべてから、いつの日か私を攻撃するための材料を集めつつあるのである。邪悪な性質は邪悪でしかなく、それは、いかほどの衰えもなく、いかほどの善なる要素もないまま、邪悪であり続ける。新しい性質は常にそれと格闘し、戦っていなくてはならず、この2つの性質が格闘も戦いも行なっていないときにも、それらの間には何の休戦もない。それらは、互いに争闘していないときも敵同士である。私たちは自分の心をいかなるときも信頼してはならない。いかに言葉巧みに語るときでさえ、それを偽り者と呼ばなくてはならない。また、いかに善良なふりをしているときも、その性質を思い出さなくてはならない。それは邪悪であり、邪悪であり続けるからである。

 私は内住の罪の行ないについて、これ以上詳細に言及しはしない。だが、これだけでも、あなたに自分自身の経験のいくつかを認めさせるのに十分であろう。また、それらが神の子らの経験と一致していることを十分に見てとらせるであろう。こうしたことのゆえにあなたは、たといヨブのように完全であっても、「ああ、私はよこしまな者です」、と云うであろう。

 III. 内住の罪の行ないについて言及したので、第三のこととして言及したいのは、《このように邪悪な心によって私たちがさらされている危険》である。ほとんどの人々は、キリスト者であることがいかに厳粛なことか考えていない。信仰者として守られていることがいかなる奇蹟か知っているような信仰者は、この世にひとりもいないと思う。私たちは、身の回りで行なわれている奇蹟をほとんど考えない。私たちは花々が生長するのを見ても、それらにいのちを与えている素晴らしい力について考えない。星々が輝くのを見ても、それらを動かしておられる御手について考えることの、いかにまれなことか。太陽はその光で私たちを喜ばせるが、私たちは、その太陽に燃料を与えたり、巨人のようにそれを縛りつけてはその道筋を走らせたりしておられる神の奇蹟についてほとんど思いを及ばさない。そして私たちは、キリスト者が誠実と聖さのうちを歩んでいるのを見ても、キリスト者がいかに大量の奇蹟の塊であるかを、いかに僅かしか顧みないことか。日々キリスト者の上に費やされている奇蹟は、その髪の毛と同じくらいおびただしい数に上る。キリスト者は不断の奇蹟である。私が罪を犯すことから守られているあらゆる時間は、新しく生まれた世界がその暗闇に包まれるのを見、「明けの星々が喜び歌う」*[ヨブ38:7]のを聞いた時と同じくらい、天来の力が働いている時なのである。あなたがたは今まで一度も考えたことがないだろうか? キリスト者がその内住の罪によってさらされている危険がいかに大きなものかを。さあ、私に告げさせてほしい。

 内住の罪によって私たちがさらされている1つの危険は、罪が私たちの内側にあり、それゆえ私たちに大きな力を及ぼしているという事実から発している。名将が町に陣取っているなら、外部の敵が絶えず攻撃をしかけても、町を長い間守り抜けるであろう。彼は頑強な城壁と、磐石の城門を有しており、攻囲軍を笑い飛ばせるであろうし、敵方の出撃は、駄じゃれの奔流ほどにも彼の城壁に効果を及ぼさないであろう。しかし、もしその城門の内側にひとり裏切り者がいて、――それが鍵束の責任者で、いかなる扉をも開錠し、敵を招き入れることができるとしたら、いかに指揮官の労苦は倍加することであろう! というのも、彼は単に外側の敵を防ぐだけでなく、内側の敵をも防がなくてはならないからである。そして、ここにこそキリスト者の危険があるのである。もし私が内側に敵をかかえていなかったとしたら、私は悪魔とも戦えるであろう。私を誘惑したことのあるあらゆる罪に打ち勝てるであろう。だが、こうした内側の悪鬼どもは、外側の悪鬼どもの何倍もサタンに役立つしもべである。バニヤンがその『聖戦』で云うように、敵は、《人霊市》で何人かの友を得ようとした。そして彼は、城壁の内側にいるお気に入りの者たちが、外側にいる者たちよりもはるかに大きな益をもたらすことに気づいた。あゝ! キリスト者よ。もしあなたが邪悪な心をうちにかかえていなければ、あなたはあなたの敵を笑い者にすることができよう。だが、あなたの心が鍵束を持っていることを覚えておくがいい。「いのちの泉はこれからわく」[箴4:23]からである。そして、そこに罪があるのである。あなたが恐れなくてはならない最悪のことは、あなた自身の心の裏切りである。

 さらにキリスト者よ。あなたの邪悪な性質が、いかに多くの支援者をかかえているか思い出すがいい。あなたの恵みによるいのちについていえば、それは天下にほとんど友人を見いださない。だがあなたの原罪には、いたる方面に盟友がいる。それが地獄を見下ろせば、そこに彼らがいる。悪霊どもが地獄の犬たちをあなたの魂にけしかけようと手ぐすねひいて待っている。世を見渡せば、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」[Iヨハ2:16]を見てとる。身の回りを眺めれば、ありとあらゆる種類の人々が、できるものならキリスト者をその堅固さからそらそうとしているのが見える。教会の中を眺めれば、多種多様なにせ教理が勢揃いし、いつでも情欲を燃え上がらせよう、魂をその信仰の真摯さから迷い出させようとしている。肉体を眺めれば、その頭が、手が、足が、そして他のあらゆる器官が、いつでも罪の役に立とうと待ちかまえているのが見える。私の邪悪な心がこれほどおびただしい盟友の群れを有してさえいなければ、私がこれに打ち勝つこともできよう。だが、城門の外に敵があり、それが内側のずっとよこしまな敵と気脈を通じている場合、私の立場は二倍も危険なものとなる。

 そして、キリスト者よ。私はあなたにもう1つのことを思い起こさせたい。すなわち、あなたのこの邪悪な性質は、非常に強く、非常に強大である――もし新しい性質が《天来の》力によって支えられていなければ、その新しい性質よりも強い――ということである。私の古い性質はいかに古いものであろうか? 「それは私自身と同じくらい古い」、と年老いた聖徒は云うであろう。「そして、年齢とともにますます強くなってきている」。老齢とともに弱くなることがめったにないものが1つある。――それは、古いアダムである。彼は、老年になっても青年時代と同じくらい強く、私たちが白髪頭になるときも、私たちの青春時代と同じくらい私たちを踏み迷わせることができる。恵みにおいて成長すれば、それだけ私たちの腐敗は弱くなる、とはよく聞かされることである。だが、私が多くの神の老聖徒たちに出会って、この件について尋ねてみたところ、彼らは、「」、と云うのだった。彼らの情欲は、彼らが長年その《主人》に仕えてきた後でさえ、本質的には――内なる新しい原理によって格段に抑圧されてはいても――最初と同じ強さを有していた。それで、次第に弱くなるどころか、私が堅く信ずるところ、罪はその力を増していくのである。人をだます人間は、人を欺き続けることによって、いやまさって欺瞞に満ちた者となっていく。私たちの心もそれと同じである。それは、最初は私たちをおびき寄せ、たやすく罠にかけるが、何千もの罠を学んだ後の今では、ことによると、以前よりもずっと容易に私たちを誤り導くかもしれない。また、たとい私たちの霊的な性質がより豊かに発達し、恵みにおいて成長してきたとしても、なおも古い性質は、その精力をほとんど失っていない。私は、私たちの心の中におけるサウルの家[IIサム3:1]がますます弱くなりつつあるかどうかはわからないと思う。ダビデの家がますます強くなりつつあることは確かであるが、私の心がよりよこしまさを減らしつつあるかどうか、あるいは、私の腐敗がより強さを失いつつあるかどうかはわからない。私の信ずるところ、私は、たとい私の腐敗がみな死んだと云ったとしても、こう云う声を聞くであろう。「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます」[士16:9]。あるいは、「サムソン。ペリシテ人があなたのうちにいますよ」、と。以前のあらゆる勝利にもかかわらず、また、私が罪という罪を撃ち殺して山と積み重ねても、私は、《全能の》あわれみが保ってくれないとしたら、まだ打ち負かされてしまうであろう。キリスト者よ! あなたの危険を思うがいい! 戦闘中のいかなる人が矢弾に当たる危険も、あなたがあなた自身の罪から受ける危険ほど大きくはない。あなたは、あなたの魂の中に、名うての裏切り者をかかえているのである。彼があなたに巧言を弄しても、信頼すべきではない。あなたはあなたの心の中に休火山を有している。だが、それは途方もない力の火山であり、なおもあなたの全性質を揺さぶることができるのである。そして、あなたが警戒していない限り、また、神の力によって守られていない限り、あなたが有している心は、あなたを最も悪魔的な罪に導き、最も恥ずべき犯罪に陥らせかねない。用心するがいい。おゝ、用心するがいい。あなたがた、キリスト者たち! たといあなたを誘惑する悪魔がひとりもおらず、あなたを踏み迷わせる世がどこにもないとしても、あなたはあなた自身の心に用心する必要がある。それゆえ、身の裡を見つめるがいい。あなたの最悪の敵は、あなた自身の身中にいる敵である。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」[箴4:23]。そして、死もこれからわくことがありえる。――その死は、主権の恵みが妨げない限り、あなたを罪に定めるであろう。私の兄弟たち。願わくは私たちが、自分の腐敗を容易な道で学ぶことができるように。それらが公然たる罪へと吹き出すことによって悟るようなことがないように。

 IV. さてここから第四の点に移る。すなわち、《私たちの腐敗の発見》である。ヨブは云った。「ああ、私はよこしまな者です」。「ああ」という言葉は、彼が驚愕したことを暗示している。この発見は予期せぬものであった。主の民には、自らの経験によって自分のよこしまさを知る特別な時がある。彼らは、生まれつきの情欲の力について教役者が主張するのを聞いても、頭を振って、「そこまでは云えないと思う」、と云ったかもしれない。だが、しばらくしてから彼らは、天からの何か明確な光によって、結局それが真実であったことを悟った。――「ああ、私はよこしまな者です」。私は、しばらく前に、心が何よりも邪悪であることについて、ある深遠な聖句から説教していたことを思い出す。そして、私の最も尊ばれるべき友人のひとりは云った。「よろしい。私はまだそれを発見してはいませんよ」。私は内心、兄弟よ、それは何たる祝福か! と思った。私は、自分もそれを発見していなければどんなによいことかと思った。というのも、それをくぐり抜けるのは、最も恐ろしい経験だったからである。あえて云うが、この場にいる多くの人々は今こう云っているであろう。「私は、自分自身のいかなる義にもより頼んでいません。私はこの世の何にも頼らず、ただキリストの血により頼んでいます。ですが、それでも私は、あなたが口にするようなしかたでは、自分の心のよこしまさを発見してはいません」。そうかもしれない。兄弟よ。だが、もう何年もしないうちに、あなたはそれを発見することになるかもしれない。あなたは、独特の気質をしているのかもしれない。神は、あなたの腐敗を明らかに示すような誘惑とのあらゆる接触からあなたを守ってこられたのである。あるいは、ことによると神は、あなたが力を受けて神のために行なうことのできた種々の行為のゆえに、恵みの報いとして平穏な生活を与え、あなたが自分の罪の激動によってあまり翻弄されずにすむようにしておられるのかもしれない。だが、それにもかかわらず、あなたに云わせてほしい。あなたは、自分の心の最も奥深い部分において、さらに低い深みを見いだすと予期しなくてはならない、と。神はあなたを慰め、力づけてくださる。あなたが炉の中から出てきて、これまでよりも頭を低くして、天来の恵みの足台のもとに横たわるときに! 私の信ずるところ、通常私たちが自分の欠陥を最もよく見いだすのは、最も神に近づいたときである。ヨブは、このときほど神について深く悟ったときは一度もなかった。神はつむじ風の中から語りかけ、そのときヨブは、「ああ、私はよこしまな者です」、と云った。私たちは、意気阻喪しているときや、不信仰に陥っているときに、自分のよこしまさを悟るのではない。そのときも、よこしまさの何がしかは悟るが、すべてではない。私たちは、神の恵みによって山に登るのを助けられたとき、また神に近づくとき、また神がご自分を私たちに現わしてくださるときにこそ、自分が神の御前できよくないと感じるのである。私たちは、神のいと高い威光のかすかなきらめきを得る。神の衣のすその輝きを見てとる。「耐ええぬ光の暗くして」、また、その光景によって目をくらまされた後で、そこに転落がやって来る。あたかも、太陽の激烈な光によって打たれた鷲が、そのいや高い高みから地面に墜落するかのように。信仰者もそれと同じである。その人は神へと飛翔した。そして突如として落ちて行く。「あゝ」、とその人は云う。「私はよこしまな者です。私は、神を見ることがなかったとしたら、このことが決してわかりませんでした。あゝ、私は神を見ました。そして今、いかに自分がよこしまな者かが悟られました」。何にもまして黒さを示すのは、光にさらすことである。もし自分の性格の黒さを見たければ、それを、しみのないきよさと隣り合わせで置かなくてはならない。そして、主が私たちに、ご自分について何か特別の幻、ご自分のほむべきご人格との何らかの甘やかな交流を与えてくださるとしたら、そのときこそ魂が、それまで一度もなかったほどに、――ことによると、それまで一度も感じたことがなかったような(最初に罪を確信したときでさえ感じなかったような)苦悶とともに――、「ああ、私はよこしまな者です」、と悟らされるときにほかならない。神はそうなさることを喜ばれる。私たちが、「その啓示があまりにもすばらしいために、高ぶることのないように」*、神はこのように私たちの「肉体に一つのとげを」送り[IIコリ12:7]、私たちが神を見た後で、私たち自身を見るようにされる。

 多くの人々が自分のよこしまさの大部分を初めて知るのは、その良心にキリストの血が注がれた後か、何年間も神の子どもであり続けた後である。少し前に私が出会ったひとりのキリスト者の場合、はっきり赦された後になって初めて、強い罪の感覚を得たという。その人は云った。「私が自分のよこしまさを感じたのは、ある声を聞いた後でした。『わたし、このわたしが、あなたのそむきの罪をぬぐい去る』*[イザ43:25]、と。その後で私は、いかに自分が黒かったかを考えました。私が自分のよこしまさを初めて思ったのは、自分が洗われたのを見た後でした」。私が思うに、神の民の多くは、キリストのもとに来る前にも、自分たちの黒さについてある程度は知っていると思っていた。だが彼らは、後になって初めて、いかに自分たちがよこしまであるかを思い知ったのである。そのとき彼らは思った。「このような《救い主》を必要とするとは、いかに私の罪は大きかったに違いないことか! このような洗いが求められたとは、いかに私の汚れは絶望的なものであったことか! キリストの血のような贖罪が必要とされたとは、いかに私の咎はすさまじいものであったことか」。これは確実なことだが、神とキリストについて知れば知るほど、あなたは自分自身について知るようになるであろう。そして、以前したように、「ああ、私はよこしまな者です」、と云わざるをえなくなるであろう。今まで決して推測したことも、想像したこともないほどに途轍もない意味においてよこしまな者です、と。「ああ、私はよこしまな者です」! 「実に私はよこしまな者です」! 疑いもなく、あなたがたの中の多くの人々は、私たちがあなたの邪悪な性質について語っていることは真実ではないとまだ考えているであろうし、ことによると、恵みは自分の邪悪な性質を根絶したのだと想像しているかもしれない。だが、霊的生活についてほとんど無知な人々でもない限り、そのような考えはいだかないはずである。早晩あなたは、古いアダムが今までと同じくらい自分の中で力を振るっているのを見いだすであろう。あなたの心の中では、あなたが死ぬ日まで1つの戦争が繰り広げられるであろう。その戦争では恵みが勝ちをおさめることになるが、そこには吐息と、呻きと、苦悶と、格闘と、日ごとの死が伴うであろう。

 V. このようにして神は、私たちに自分たちのよこしまさを悟らせてくださる。さて、もしこのように私たちが今なおよこしまであることが真実であるとしたら、《何が私たちの義務だろうか?》 今からは、あなたがたの中にいる、永遠のいのちを受け継ぐ方々に向かって、厳粛に語りかけさせてほしい。キリスト・イエスにあるあなたの兄弟として私は、あなたの心にとどまり続ける汚れのゆえに、何よりも必要とされる義務のいくつかを勧めたいと思う。

 第一のこととして、もしあなたの心がなおもよこしまであり、あなたの中にはなおも邪悪な性質があるとしたら、もはや自分の務めは果たし終えた、などと考えることが、いかに間違っていることか。私は、あなたがたの中のある人々について不満を云いたいことが1つある。あなたは、バプテスマを受ける前は、ことのほか真剣であった。あなたは常に恵みの手段に携わり、私は常にこの場であなたの姿を見ていた。だが、ある人々は――その何人かは、今この場にもいるが――、そのルビコン川を渡るや否や、その瞬間から熱心を減じさせ始めた。なすべきことは、もうなし終えたと考えたのである。私は厳粛に云いたい。あなたがたの中のある人々は、教会に加入する前には、祈り深く、慎み深く、敬虔で、あなたの神のそば近くに生きていたが、その時以来、次第に衰えていった。さて、そのような人々がキリスト者であるかどうかは実に疑わしく思われる。もしある人がバプテスマの後で真剣でなくなるのを見るとしたら、私はそうした人々にはバプテスマを受ける権利がなかったのだと思う。というのも、もしそうした人々がその儀式の尊さについてふさわしく感じとっていたとしたら、また、神に正しく身をささげていたとしたら、背を向けて世の生き方に帰って行きはしなかったであろうからである。私は、かつては全く裏表なく私たちとともに歩んでいた一、二名の人々がずるずると姿を見せなくなり始めるのを見ると悲しく思う。神のことばを堅く守ることにかけては、私はあなたがたの中の大半の人々について何の過失も見いださない。私は神をほめたたえるものである。二年以上もの間にわたって、あなたがたは神によって堅く保たれ、守られてきた。私は、あなたが祈りの家に欠席するのを見たことがないし、あなたの熱心がしぼんできたとも思わない。だが、ごく一部の人々は、この世によって誘惑され、サタンによって道を踏み外させられ、あるいは、その環境の変化か、やや遠方への転居によって、冷淡になり、主のわざに勤勉に励まなくなってきている。いま私の話を聞いている方々の中には、以前ほど真剣でなくなった人々がいる。私の愛する方々。もしあなたが自分の心のよこしまさを知っていたとしたら、あなたは以前と同じくらい真剣である必要を見てとっていたはずであろう。おゝ! もしあなたが回心したときに、あなたの古い性質が根絶されたとしたら、いま用心すべき理由は何もなかったであろう。もしあなたの情欲がみな消え失せ、あなたの内側にあった腐敗の力がことごとく死に絶えていたとしたら、堅忍すべき必要は何もなかったであろう。だが、まさにあなたがたには邪悪な心があるがゆえに、私はあなたに命ずるのである。これまでと同じくらい真剣になり、自らのうちにある神の賜物をかき立て、これまでしてきたのと同じくらい自分自身に気を配るがいい。方々。戦闘が終了したと思い込んではならない。それは、人を戦いに召集する第一の喇叭にすぎない。その喇叭が鳴り終えたので、あなたは戦闘が終わったと考えている。だが私はあなたに告げる。否。この戦いはいま始まったばかりなのである。軍勢は引き出されたばかりであり、あなたは装備を身につけたばかりなのである。あなたには、やがて来たるべき争闘がある。真剣になるがいい。さもなければ、あなたの最初の愛は死に絶えてしまい、これから、「彼らは私たちの中から出て行って、もともと私たちの仲間ではなかったことを証明する」*[Iヨハ2:19]ことになるであろう。私の愛する方々。信仰の後退に用心するがいい。それはこの世で最もたやすいことだが、最も危険なことである。あなたの最初の熱心を捨てないように用心するがいい。いささかも決して冷たくならないように警戒するがいい。あなたがたは、かつては熱く、真剣であった。今も熱く真剣であるがいい。そして、あなたの内側で一度は燃えていた火が、今もあなたを活気づけているようにするがいい。今もなお、勤勉と熱心をもって自らの神に仕える、力ある勇士であるがいい。

 さらに、もしあなたの邪悪な性質がなおもあなたの内側にあるとしたら、あなたはいかに油断せずにいるべきことか! 悪魔は決して眠らない。あなたの邪悪な性質は決して眠らない。あなたも決して眠るべきではない。「わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい」[マコ13:37]。これはイエス・キリストのことばである。いかなる言葉にもまして二倍以上も繰り返す必要があるのは、この「目をさましていなさい」、という言葉である。ほとんどいかなることにもまして行なうのが難しいのは、目を覚ましていることである。目を覚ましているのは、非常に大儀な働きだからである。特に、眠り込みがちな魂によって目を覚ますべきときがそうである。目を覚ましていることは、非常に疲れる働きである。それによって公の栄誉が得られることはめったになく、それゆえ私たちは名声を得る見込みで自分を鼓舞することができない。目を覚ましているという働きは、残念ながら私たちの中でほとんど正しく行なわれていないのではないかと思われる。だが、もし《全能者》が目を覚まして私たちを見守っておられなかったとしたら、悪魔はとうの昔にあなたを連れ去っていたことであろう。愛する方々。私は常に目を覚ましているようあなたに命ずる。隣家が火事になったとしたら、人はいかにすみやかに床から起き上がることか。また、もしそこらに可燃物があるとしたら、いかにそれを家屋から遠ざけ、目を覚ましてよく見張り、自分たちの家も、このむさぼり食らう元素のえじきにならないようにすることか! あなたは心の中に腐敗を有している。最初の火花に用心するがいい。それがあなたの魂を燃え上がらせないように。「ほかの人々のように眠っていないで……いましょう」[Iテサ5:6]。そうしたければ、噴火口の上で眠るのもよいし、砲口の前で枕を高くして眠っていてもよい。そうしたければ、地震の最中に眠るのも、疫病の隔離病院の中で眠るのもよい。だが私は切に願う。あなたに邪悪な心があるうちは眠ってはならない。あなたの心を見張るがいい。あなたには非常に良いものと思えるかもしれないが、恵みが妨げない限り、それはあなたの破滅の原因となるであろう。日々目を覚ましているがいい。不断に目を覚まして、罪を犯さないように自分を守るがいい。

 何にもまして、私の愛する兄弟たち。もし私たちの心が、本当に今なおよこしまさに満ちているとしたら、私たちはなおも神を信ずる信仰を表わすべきである。もし私が最初に道に踏み出すときに、途上の困難さゆえに私の神を信頼しなくてはならないとしたら、そうした困難さが減少していない場合、私は以前と全く同じくらい神に信頼すべきである。おゝ! 愛する方々。あなたの心を神に明け渡すがいい。うぬぼれてはならない。うぬぼれはサタンの網であり、それで彼は、あわれで愚かな魚を捕まえるように人々をとらえて滅ぼしてしまう。うぬぼれてはならない。自分を無と考えるがいい。あなたがたは無だからである。神の助けによって生きるがいい。キリストにあって強くなる道は、あなた自身にあって弱くなることである。神がいかなる力を人間の心に注ぎ入れる前にも、人間の力がことごとく注ぎ出されなくてはならない。ならば、日々神の恵みに頼る生活を送るがいい。自立した紳士ででもあるかのように、偉ぶっていてはならない。何もかも自分でできるかのように、あなたに関することを始めてはならない。むしろ常に神に頼りつつ生きるがいい。あなたが神に信頼すべき必要は、今も以前と全く変わっていない。というのも、よく聞くがいい。最初あなたは、キリストから離れていたために罪に定められることになっていたが、今のあなたも、キリストがあなたを守っておらず、キリストから離れているとしたら罪に定められるからである。以前有していたのと同じ邪悪な性質を今も有しているからである。

 愛する方々。もう一言だけあなたがたに云うことがある。聖徒たちにではなく、不敬虔な人々に対して、励ましの言葉を一言云いたい。罪人よ、あわれな、失われた罪人よ! あなたは自分のようによこしまな者は神のもとに行くことができないと思っている。さあ、私に云わせてほしい。この場には、同じようによこしまでない聖徒はひとりもいないのである。もしヨブが、イザヤが、パウロがみな、「私はよこしまな者です」、と云わざるをえなかったとしたら、おゝ、あわれな罪人よ。あなたは、この告白に自分も口をそろえて、「私はよこしまな者です」、と云うのを恥じるだろうか? もし私が今晩、寝床のかたわらで膝まづき、祈りのうちに神のもとに出るとしたら、私は罪人として、よこしまで罪に満ちた罪人として、神のもとに行かざるをえないであろう。私の兄弟たる罪人よ! あなたは、それよりもましな告白を持ちたいのだろうか? あなたは、もっとましな者になりたいのだろうか。左様。聖徒たちすら、自分自身では全然ましな者ではないのである。もし天来の恵みが信仰者のうちにある罪を撲滅していないとしたら、なぜあなたは自分でそうしたいなどと考えるのだろうか? また、もし神が、今なおよこしまなままの御民を愛しておられるとしたら、あなたは自分のようなよこしまな者を神は愛すことがおできにならないと考えるだろうか? 否。よこしまな罪人よ。イエスのもとに来るがいい! よこしまな者の中でも最もよこしまな者よ! イエスを信ずるがいい。あなたがた、世間の社会から見捨てられた者よ。あなたがた、街路の屑であり、かすである者よ。私はイエスのもとに来るよう命ずる。キリストは、ご自分を信ずるようあなたに命じておられる。

   「義の人ならず、義の人ならず、
    罪人をこそ、イエスは救えり」。

いま来て、云うがいい。「主よ。私はよこしまな者です。私に信仰を与えてください。キリストは罪人のために死なれました。私は罪人です。主イエスよ。あなたの血を私にふり注いでください」、と。私は神からのことばとしてあなたに告げる。罪人よ。もしあなたがあなたの罪を告白するなら、あなたは赦しを見いだすであろう。もし今あなたが心底から、「私はよこしまな者です。私を洗ってください」、と云うなら、あなたは、いま洗われるであろう。もし聖霊があなたをして、心から今こう云えるようにしてくださるとしたら、――「主よ。私は罪深い者です。

   『ありのままの我にて 誇れるもの何もなきまま
    ただわがため 汝が血の流されしゆえ
    また汝の われに来よと命じ給うがゆえ
    おゝ、神の子羊よ われは行かん』」――、

あなたは、あなたのすべての罪を赦された者として、この場を出て行くであろう。この場に来たときは、人として犯しうるあらゆる罪が頭上にのしかかっていたが、出て行くときには、生まれたばかりの赤子のように、否、それ以上に罪なき者となっているであろう。この場に来たときのあなたは罪にまみれていたが、出て行くときには、――義と認められることに関する限り――御使いのように純白で、神ご自身のようにきよらかな義の衣をまとっているであろう。というのも、「今は」、よく聞くがいい。「今は恵みの時」だからである[IIコリ6:2]。もしあなたが、不敬虔な者を義と認めてくださる方[ロマ4:5]を信ずるならそうである。おゝ! 願わくは聖霊があなたに信仰を与えてくださり、今あなたが救われるように! そのときあなたは永遠に救われるからである! 願わくは神が、その御名ゆえに、この不十分な講話に祝福を加えてくださるように!

 

内住の罪[了]

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