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神のみぞ御民の救いなる

NO. 80

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1856年5月18日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「神こそ、わが岩。わが救い」。――詩62:2


 何と高貴な称号であろう。何と崇高で、示唆に富み、圧倒的であろう。「《わが岩》」。これほど天来の香りを放つたとえは、神おひとりにしかあてはめることができない。

 向こうにある岩々を眺めて、その古さに驚嘆するがいい。というのも、その頂から一千もの時代が私たちを眺め下ろしているからである。この巨大都市がまだ土台すら置かれていなかったときに、それらは老いて白髪になっていた。私たち人類がまだ呼吸も始めていなかったときに、それは古いと云われていた。これらは、死せる時代の子らである。畏敬とともに私たちは、こうした年古りた岩々を眺める。これらは自然界の長子のひとりだからである。彼らの胎内には、未知の世界の遺物が発見される。それらについては、賢人たちも推測することはできる。にもかかわらず、神ご自身が、彼ら以前にいかなるものが生息していたかを教えてくださらない限り、確かに知ることはできない。あなたは岩に対して崇敬の念をいだく。というのも、もしそれに口があったとしたら、いかなる物語を話せるかを思い起こすからである。いかなる火と水の働きによって、それが今とっているような形に凝縮されたことか。それと全く同じように私たちの神は、抜きんでて古来からおられたお方である。神の頭と髪の毛は羊毛のように白く、雪のように白い。というのも神は、「年を経た方」[ダニ7:9]であり、私たちは聖書の中で常にこう思い起こすよう教えられているからである。神は、「年々の初めのない」お方である。被造物が存在するはるか前から、「とこしえからとこしえまで」[詩90:2]、神は神であられた。

 「わが岩」! 岩は、それがさらされてきた嵐について、いかなる歴史をあなたに告げるであろう。その根底にある大洋で荒れ狂った暴風雨について、その頂きの上空をかき乱してきた雷について、何を告げるであろう。その間、この岩そのものは、暴風雨にも無傷で、嵐にもまれても動かされることがなかった。私たちの神もそれと同じである。いかに神は確乎不抜に立っておられたことか。――いかに堅固であられたことか。――国々が神を悪しざまに罵り、「地の王たちは相ともに集ま」った[詩2:2]が、関係ない! ただ単にじっと立っているだけで、神は敵の軍隊を撃破なさった。御手を伸ばすことさえせずに! 神は、動かざること岩のごとき威厳とともに波浪を砕き、ご自分の敵の大群を追い散らし、うろたえさせ、潰走させなさった。もう一度この岩を見るがいい。それがいかに堅固な不動の姿で立っているか見るがいい! それは、あちこちへとうろつくことはしなかった。むしろ、永久にしっかりととどまっていた。他の事がらは変わってきた。島々は海の下に沈み、大陸は揺さぶられてきた。だが、見るがいい。この岩は、世界全体のまさに土台ででもあるかのように、また被造物世界が破滅に至り、自然界のたががゆるむまで動かされることがありえないかのように、断固として立っている。神もそれと同じである。いかには神は、ご自分の約束において忠実であられることか! いかにその定めにおいて変わらざることか! いかに確固であられることか! いかに常に一定であられることか!

 この岩は不変であり、いかなる部分もすりへってはいない。向こうにある古い花崗岩の頂は、太陽の中できらめきを放つか、冬の雪という白い顔覆いをつけている。――それは時には、何もつけない、むき出しの頭で神を礼拝してきたし、別の時には雲が顔を覆う翼となり、熾天使のようにその《造り主》をあがめてきた。だが、それそのものは変わることがなかった。冬の霜はそれをむしばむことなく、夏の暑さはそれを溶かすことがなかった。神もそれと同じである。見よ。神はわが岩である。変わることなく、その御国は終わることがない。その本性において変わることがなく、ご自分の尽きざる豊かさにおいて揺らぐことがない。神はご自分を不変に同じに保っておられる。それゆえ、「ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない」[マラ3:6]。さらに、岩を用いる幾多のしかたは、神がいかなるお方であられるかを豊かに示している。あなたは、高い岩山の上に要砦が立っているのを見る。そこには雲すらほとんど達することができず、その切り立った崖は、いかなる攻撃も寄せつけず、敵軍がよじ登ることはできない。攻囲されている者たちは、その高みから彼らを笑うからである。そのように、私たちの神は確かな守りであり、私たちは、神が「私たちの足を巌の上に置き、私たちの歩みを確かにされ」*[詩40:2]るならば、動かされることはない。多くの巨岩は、その高度ゆえに嘆賞をもたらす。というのも、その上から私たちは、世界が小さな地図のように眼下に広がっているのを見てとれるからである。川や、雄大に広がる大河は、さながら翠玉にはめ込まれた銀の筋のように見える。自分の足下にある国々が、「手おけの一しずくのよう」であり、島々は遙か彼方の「細かいちりのよう」であるのがわかる[イザ40:15]。海さえ、強大な巨人の手で支えられた、たらいの水のように見える。力ある神はそのような岩であられる。私たちは神の上に立ち、世界を見下ろし、それをつまらぬものとみなす。私たちはピスガの頂に登っており、その山頂から、この嵐と困難に満ちた世を越えて、かの霊たちの輝かしい国へと疾駆できる。――その国とは、目にも耳にも知られていないが、聖霊によって神の真理が私たちに啓示した世界である。この強大な岩は私たちの隠れ家であり、私たちの高い物見台である。そこから私たちは目に見えないものを見、いまだ享受していない事がらの証拠を得る。しかしながら、わざわざ岩についてすべてのことをあなたがたに告げる必要はないであろう。私たちはそれについて一週間でも説教していられるが、それは今週の間のあなたの瞑想の糧ということにしておこう。「神こそ、わが岩」。何と栄光に富む思想であろう! 何と私は安全で、ゆるぎなく、何とこの事実を喜んでいられることか。私がヨルダンの流れを踏み渡るときも、神は私の岩なのである! 私は滑りやすい土台の上を歩くのではなく、私の足をぐらつかせることのありえないお方の上を踏んで行くのである。そして、私は、死にかけているときもこう歌えるであろう。「主は、わが岩。主には不正がありません」[詩92:15]。

 私たちはここで、岩という思想から離れて、本日の講話の主題に進もうと思う。すなわち、神だけが御民の救いであられる、ということである。

        「神《こそ》、わが岩。わが救い」。

 私たちが注目したいのは、第一に、この偉大な教理、神だけが私たちの救いであられる、ということである。第二に、この偉大な経験、「神こそ、わが岩。わが救い」であることを知って、悟る、ということである。そして第三に、この偉大な義務、それは、あなたにも想像はつくであろうが、唯一、「私たちの岩、私たちの救い」であられるお方に、すべての栄光とすべての誉れを帰し、私たちの全幅の信仰をかける、ということである。

 I. 第一のことは、《この偉大な教理》――すなわち、神「こそ、わが岩。わが救い」だということである。もしだれかが私たちに尋ねて、福音の教役者として、あなたが座右の銘として選びたいものは何ですか、と問うとしたら、私たちはこう答えると思う。「神こそわれらが救いなり」、と。故デナム氏は、自分の肖像画の下隅に、1つの実に見事な聖句を書いておいた。「救いは主のものです」[ヨナ2:9]。さて、これはまさにカルヴァン主義の精髄であり、その実質の要約である。もしだれかがあなたに、カルヴァン主義者とは何ですか、と尋ねるとしたら、あなたはこう答えるであろう。「それは、救いは主のものです、と云う人のことです」、と。私は聖書のどこを探しても、これ以外の教理を見つけることができない。これは聖書の真髄である。「神こそ、わが岩。わが救い」。ここから離れたいかなるものであれ、それは異端となるであろう。何らかの異端を調べてみれば、その本質はここにある。それがこの偉大で、この根本的で、この岩のごとき真理、「神こそ、わが岩。わが救い」、から離れ去っていることにある。ローマの異端とは、イエス・キリストの完璧な功績に何かをつけ足すこと――私たちの義認の補助として、肉のわざを持ち込むこと――でなくて何だろうか? また、アルミニウス主義の異端とは、《贖い主》の完全なみわざに、何かをひそかにつけ足すことでなくて何だろうか? あなたはあらゆる異端が、この試金石のもとに持ち出されるとき、ここで正体を露呈することに気づくであろう。それは、この「神こそ、わが岩。わが救い」から離れ去っているのである。

 さてここで、この教理を詳しく説明してみよう。ここの「救い」という言葉を私は、単に新生や回心ばかりでなく、それ以上のものと理解している。私は、たとい新生しても、その後で契約から落ちて失われかねないような立場に置かれることを救いとはみなさない。川の半ばまでしか達していないようなものを橋と呼ぶことはできない。私が救いと呼ぶことのできる唯一のものは、私に天国への道を歩き通させ、私を完璧に洗いきよめ、栄化された人々の間に私を立たせ、御座の回りで絶えずホサナと歌わせてくれるものである。ならば、救いということで私が理解しているのは――もしそれをいくつかの部分に分けてよければ――、解放されること、生涯を通じて保持され通すこと、支えられること、最後には聖徒たち全員が集められて、イエス・キリストというお方のうちで完成されること、である。

 1. 救いということで私が理解しているのは、私が、生まれついた奴隷の家から解放され、キリストが私たちを解放してくださった自由の中へと移されるとともに、私を「巌の上に置き、私の歩みを確かにされ」[詩40:2]ることである。これを私は、完全に神によるものだと理解している。そして、私がそう結論することは正しいと思う。なぜなら、聖書で私が見いだすのは、人間が死んでいるということだからである。いかにして死人が自分の復活を手助けできるだろうか? 私の見いだすところ、人は全く堕落しており、天来の変化を憎んでいる。ならば、いかにして人は自分自身が憎んでいるような変化をもたらせるだろうか? 私の見いだすところ、人は、新しく生まれるとはいかなることかについて無知であり、ニコデモのように、いかにして人が「もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」[ヨハ3:4]、といった愚かな質問をする。私は、人が自分の理解してもいないことを行なえるとは考えられない。もし人が新しく生まれるとはいかなることか知らないとしたら、その人は自分を新しく生まれさせることはできない。しかり。私の信ずるところ、人は自分の救いの最初のわざにおいて、完全に無力である。人は自分の鎖を砕けない。それは鉄の鎖ではなく、自分自身の肉と血でできた鎖だからである。まず最初に自分自身の心を破らなければ、自分を縛っている枷を砕くことはできない。だが、人はいかにして自分自身の心を破ることができるだろうか? 私は、いかなる鎚を用いれば、自分自身の魂を破ることができるだろうか? あるいは、いかなる火を燃やせば、それを溶かすことができるだろうか? 否。解放は神だけのものである。この教理は絶えず聖書で断言されている。そして、このことを信じない者は、神の真理を受け入れていないのである。解放は、主だけのものである。「救いは主のものです」。

 2. また、もし私たちが解放され、キリストにあって生かされたとしたら、さらに保持は主だけのものである。もし私が祈り深いとしたら、神が私を祈り深くしてくださっているのである。もし私に種々の恵みがあるとしたら、神が私に恵みを与えておられるのである。もし私に種々の実があるとしたら、神が私に実を与えておられるのである。もし私が首尾一貫した生き方を続けているとしたら、神が私に首尾一貫した生き方を続けさせておられるのである。私は、自分が保持されるためには、最初に神ご自身が私に行なわせてくださること以外は何も行なっていない。私が何を有していようと、私の良い点はみな主だけから出ている。私が罪を犯す点では、それは私自身のものであるが、私が正しい行ないをする点では、それはすべて完全に神のものである。もし私が敵を撃退したとしたら、神の御力が私の腕を力づけたのである。私は敵兵を打ち伏させただろうか? 神の御力が私の剣を研ぎ、その一撃を与える勇気を私に与えたのである。私はみことばを宣べ伝えただろうか? それは私ではなく、私のうちにある恵みである。私は神の前で聖い生き方をしているだろうか? それは私ではなく、私のうちで生きておられるキリストである。私は聖化されているだろうか? 私が自分を聖くしたのではなく、神の聖霊が私を聖めておられるのである。私はこの世に嫌気がさしているだろうか? 私は神の懲らしめによって、そのようにされているのである。私は知識において成長しているだろうか? 大いなる《教え手》が私を教えておられるのである。私は神のうちに、私が必要とするすべてを見いだしているが、私のうちには何も見いださない。「神こそ、わが岩。わが救い」。

 3. そしてまた、支えも絶対に求められる。私たちは、肉体のために摂理における支えが必要であり、魂のために恵みにおける支えが必要である。種々の摂理的なあわれみは完全に主から来ている。確かに雨は天から降って地を潤し、「それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える」[イザ55:10]が、どなたの手から雨は出ており、どなたの指から露の滴はしたたるのだろうか? 確かに太陽は輝き、植物を生長させ、芽生えさせ、花を咲かせ、その熱が木の実を熟させるが、どなたが太陽にその光を与え、どなたがその温暖な暖かさを振りまいているのだろうか? 確かに私が労働し、骨を折り、この額が汗を流し、この両手がくたくたになり、私は寝床に身を投げ出して、そこで休みはするが、私は「自分の引き網にいけにえをささげ」*[ハバ1:16]はしないし、自分が養われているのは私自身の力のおかけだと云いもしない。どなたがこの筋骨を強くしておられるのだろうか? どなたがこの肺を鉄のようにし、どなたかこの神経を鋼鉄のようにしておられるのだろうか? 「神こそ、わが岩。わが救い」。神だけが私の肉体の救いであり、私の魂の救いであられる。私はみことばによって養われているだろうか? そのみことばは、主がそれを私の魂にとって食物とし、私がそれによって養われるのを助けておられなかったとしたら、私にとって何の食物にもならないであろう。私は天から下ってきたマナを糧として生きているだろうか? そのマナとは、受肉したイエス・キリストご自身でなくて何だろうか? その肉と血を私は食べ、飲んでいるのである。どこで私は自分の力をかき集めているのだろうか? 私の救いは主のものである。主がおられなければ、私は何もできない。枝が葡萄の木にとどまっていなければ実を結ぶことができないように、私も主にとどまっていない限り何の実を結ぶこともできない。

 4. それから、もし私たちが3つの思想を1つにするなら、私たちがじきに彼方の神の御座近くに立つときに受けることになる完成も、完全に主のものであろう。私たちの額の上で、綺羅星のように光輝く冠は、私たちの神おひとりによって細工されたものであろう。私は、ある国に行くが、その国の地の田畑は一度も掘り返されたことがないのに、地上の最高の牧場よりも青々としており、これまで地上で見られたいかなる収穫よりも豊穣なのである。私は、人間が建造したいかなる建築物よりも豪奢な建物に行く。それは朽ちるべき建築物ではない。それは、「人の手によらない、天にある永遠の家」[IIコリ5:1]である。私が天国で知る一切のことは、主によって与えられるであろう。そして私がついに主の御前に現われるとき、私は云うであろう。――

   「恵みはいかな 善行(てのわざ)も
   永久(とわ)にわたりて 有終(かざ)るなり。
   天国(あめ)の頂上(たかみ)の 冠石(いし)となり、
   たたえの歌ぞ ふさわしき」。

 II. さてここで、愛する方々。私たちが次に考えたいのは、《この偉大な経験》である。私が思うに、何にもまさる最高の経験は、「神こそ、わが岩。わが救い」であることを知るということである。私たちは教理を強調してきた。だが教理は、私たちの経験において実証されない限り何にもならない。神の教理のほとんどは、実践においてのみ学ぶべきである。――それを世の中に取り出し、それを世の荒波にさらすことによって学ぶべきである。もし私がこの場にいるキリスト者のだれかに向かって、この教理は本当だろうか、と尋ねた場合、もしその人が何か深い経験をしていたとしたら、その人はこう答えるであろう。「本当かですと! ええ、本当ですとも。神の聖書のいかなる言葉も、これほど真実なものはありません。というのも、実際に、救いは神だけのものだからです」。「神こそ、わが岩。わが救い」。しかし、愛する方々。この教理について、決してそこから離れることがないほどに体験的な知識を得るのは至難の業である。「救いは主のもの」であると信ずることは至難の業である。時として私たちは神以外の何かに信頼を置き、神に協力する何かを結び合わせ、神と並び立たせるという罪を犯すことがある。救いが神だけのものであるということを私たちに知らせる経験について、ここでもう少し詳しく語らせてほしい。

 真のキリスト者であれば、救いは有効に神だけのものであると告白するであろう。すなわち、「神は、みこころのままに、自分のうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる」*[ピリ2:13]、と云うであろう。自分の過去の人生を振り返るとき、私に見てとれるのは、そのすべての幕開けが神から出たもの、神から有効に発したものだということである。私が太陽に火をともすためにどこかの松明を取り上げたのではなく、太陽が私を照らしたのである。私が自分の霊的生活を始めたのではない。――しかり。私はむしろ、御霊の事がらに反抗して、あがいていた。御霊が私を引き寄せなさったとき、しばらくの間、私は御霊の後を追いかけはしなかった。私のうちには、一切の聖いもの良いものに対する生来の憎悪があった。私をなだめすかしても無駄だった。――警告されても馬耳東風だった。――雷鳴の轟きも軽蔑された。そして、神の愛の囁きについて云えば、それは無価値な、むなしいものでしかないと拒絶された。しかし、私は確かに今は、自分について、また主を知るすべての人々についいて、こう云える。「神こそ私の救いであり、あなたの救いでもある」、と。神こそあなたの心を変えたお方であり、あなたを膝まづかせたお方であった。ならばあなたは、心底からこう云えるであろう。――

   「恵みはわれに 祈りを教え
    恵みにわが目 涙あふるる」。

そして、この瞬間に至って、あなたは云えるであろう。――

   「恵みぞ、われを かくまで保ち
    われをばつゆも 去(ゆ)かせたまわじ」。

 思い出せば私は、主のもとに来つつあったとき、それをすべて自分で行なっていると思っていた。また真剣に主を求めてはいたものの、私は主が私を求めておられるとは全く思ってもいなかった。私も、初信の回心者がこのことを最初から意識しているとは思わない。あるとき、神の家に座っていた私は、たいしてその日の説教について考えていなかった。私に信じられるような話ではなかったからである。だが、この考えに私は打たれた。「いかにしてお前はキリスト者になるに至ったのか?」 私が主を求めたからだ。「しかし、いかにしてお前は主を求めるようになったのか?」 この思いが一瞬にして私の中にひらめいた。――それ以前に何らかの影響力が私の思いに及ぼされて、主を求めさせられなかったとしたら、私が主を求めることはなかったであろう。きっとあなたも、キリスト者になってから何週間も経たないうちに、遅くとも決して何箇月も経たないうちに、こう云うに違いないと思う。「私が変わったのは、完全に神のおかげでしかありません」、と。私は、このことを自分の絶えざる告白としていたいと思う。ある人々が午前中はある福音を説教し、夜には別の福音を説教していることは、私も承知している。――午前中は、聖徒たちを相手にしているからというので、健全な良い福音を説教するが、晩には罪人たちを前にしているからというので、偽りを説教するという人々である。しかし、あるときには真理を説教し、別のときには虚偽を説教する必要など全くない。「主のみことばは完全で、たましいを立ち返らせる」*[詩19:7]。罪人を主のもとに来させるために、みことばに何かを混入する必要などない。むしろ、私の兄弟たち。あなたは、「救いは主のものです」、と告白しなくてはならない。あなたが過去を振り返るとき、あなたはこう云うに違いない。「わが主よ。私が有しているものはみな、あなたがお与えになったものです。私には信仰の翼があるでしょうか? 私はかつて翼のない者でした。私に信仰の目があるでしょうか? 私はかつては盲目の者でした。私は死んでいました。あなたが生かしてくださるまで。私は盲目でした。あなたが私の目を開けてくださるまで。私の心は厭わしい糞土の山でしたが、あなたはそこに真珠を置いてくださいました。もしそこに真珠があるとすればですが。真珠は糞土の産物ではないからです。あなたが私に、私の有するすべてのものを与えてくださったのです」。そして、そのように、もしあなたが現在を眺めるなら、もしあなたの経験が神の子どもの経験であるなら、あなたはすべてを神に帰すであろう。単に過去あなたが有していたものばかりでなく、今あなたが有しているすべてのものを神に帰すであろう。ここにあなたはいる。今朝、あなたの会衆席にいま座っている。私が求めているのはただ、あなたがどこに立っているか、自分で見返すことである。愛する方々。あなたは、天来の恵みがなかったとしたら、今あなたがいるところに自分がいたと思うだろうか? 昨日あなたがいかに強い誘惑に遭ったかだけでも思うがいい。それらは、「あなたを高い地位から突き落とそうとたくらんで」*いた[詩62:4]。ことによると、あなたは時として私が遭うような目に遭ったかもしれない。悪魔は時々私を、罪という断崖絶壁から引きずり落とそうとして、一種の魅力を用いる。それを包み込む甘やかさによって私に危険を忘れさせるのである。だが、まさに彼が私を突き落とそうとする寸前に、私は足元で大きく口を開いた深淵が目に入り、力強い手が突き出されて、こう云うのを聞くのである。「わたしは彼が穴に落ち込むことから守ろう。わたしは、購い代を見いだしている」。あなたは、もし恵みが自分を守っていないとしたら、この太陽が没するまでの間に自分は罪に定められているだろうと感じたことはないだろうか? あなたの心には、恵みによって与えられたものではないような良いものが何かあるだろうか? もし私が、神から来たのではない恵みが自分にあると思うとしたら、私はそれを、敬虔な美徳ではないとして、足で踏みにじるであろう。私はそれを贋金だと思うであろう。というのも、もしそれが栄光の造幣局から出てきていないとしたら、正しいものではありえないはずである。それは本物に酷似しているかもしれないが、確かに神から出ていない限り悪に違いない。キリスト者よ! 過去と現在のすべてについて、あなたはこう云えるではないだろうか? 「神こそ、わが岩。わが救い」。

 そして今、未来に目を向けてみるがいい。方々! いかに数多くの敵があなたにあるか考えるがいい。あなたは、いかに多くの川を越えなくてはならず、いかに多くの山々を登らなくてはならず、いかに多くの龍と戦わなくてはならず、いかに多くの獅子の牙を逃れなくてはならず、いかに多くの火をくぐり抜けなくてはならず、いかに多くの大水を渡らなくてはならないことか。あなたはどう考えているのか? あなたの救いは神以外の何かによるものでありえるだろうか? おゝ! もし私が、あの永遠の腕によりかかることができないとしたら、私は叫ぶであろう。「死よ! 私をどこかへ投げ飛ばしてしまうがいい。この世の外のどこへでも」、と。もし私がその唯一の希望、その唯一の見込みを有していなかったとしたら、私を被造世界の一万尋もの底深くへ埋没させ、私という存在を忘れ去らせるがいい! おゝ! 私を遠ざけよ。もし私がこの旅の間中、神を助け手として有していなければ、私はみじめだからである。あなたは、あなたの神なしに、あなたの敵の1つとでも戦うに足るだけ強いだろうか? 私はそうは思わない。小さな頭の弱い女中ひとりでもペテロを打ち倒せたのである。もし神があなたを守っておられなければ、あなたをも打ち倒すであろう。私はあなたに懇願する。このことを覚えておくがいい。私は、あなたがこのことを過去の経験によって知っていることを望む。だが、あなたがどこへ行こうと、このことを未来においても思い出すがいい。「救いは主のものです」。自分の心を見つめていてはならない。自分が何か推薦するに足るものを有しているかどうか吟味していてはならない。むしろ、「救いは主のもの」であることを覚えておくがいい。「神こそ、わが岩。わが救い」。

 有効に、それはみな神から出てくる。そして、確かに私たちは、功績によって、と云い足さなくてはならない。私たちは救いが全く神から出ていることを経験してきた。私に何の功績があるだろうか? もし私が自分の持っているものすべてをかき集め、それからあなたのもとに行って、あなたが持っているものすべてを乞い求めるとしても、私はあなたがた全員の間で一銭も価値あるものを集められまい。私たちは、一部のカトリック教徒が、その善行と悪行との秤において、自分は善行の方に傾いていると云ったと聞いている。そして、それゆえ彼は天国に行ったのだ、と。しかし、ここには、そのような類のものは何1つない。私は多くの人々を見てきた。多くの種類のキリスト者たち、また多くの風変わりなキリスト者たちを見てきたが、ぎりぎりまで追いつめられたときに、自分自身の功績を何か有していると云うような人には、今までひとりも出会ったことがない。私たちは、完全な人々について聞いてきたし、完全に馬鹿な人々についても聞いてきたが、両者の人格は完全に似通ったものだと思う。私たちに、私たち自身の功績が何かあるだろうか? 確かに、私たちが神から教えられているとしたら、私たちにそのようなものはないに違いない。かつては私たちも、自分にそのようなものがあると考えていた。だが、ある晩、私たちの家に《罪の確信》と呼ばれる人がやって来て、私たちの誇りとするものを持ち去って行った。あゝ! 私たちはなおも卑しい者である。私は、クーパーがこう云ったとき、完全に正しかったかどうか疑問に思う。――

   「われを汝れへと 連れ来たり
    わが愚かさを 根絶(た)ちし時より、
    われは頼らず 御腕のほかに――
    わが望めるは 天(あま)つ義のみぞ!」

私は彼が間違っていたと思う。ほとんどのキリスト者は、時として自我を頼りにすることがあるからである。だが私たちは、救いを功績ということから考えるとき、「救いは主のものです」、と認めざるをえない。

 私の愛する方々。あなたは、このことをあなた自身の心の中で経験したことがあるだろうか? あなたはそれに、「アーメン」、と云えるだろうか? あなたは、「私は、神が私の助け手であると知っています」、と云えるだろうか? あなたがたの中のほとんどの人々は、そう云えるだろうと思いたい。だが、あなたがこのことを最も良く云えるのは、神があなたがたを教えておられる場合に、あなたが次第次第にそう云えるようになっていくときであろう。私たちは、キリスト者生活を始めるとき、そのことを信じているが、後になると、それを知るようになる。そして、長く生きれば生きるほど、それが真実であることに気づく。――「人間に信頼し、肉を自分の腕とする者はのろわれよ。主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように」*[エレ17:5、7]。事実、キリスト者経験の絶頂は、自我や人間に対するあらゆる信頼から解放され、全く、単純に、イエス・キリストに頼るように至らされることである。私は云う。キリスト者よ。あなたの最も高く、最も高貴な経験は、あなたの腐敗について呻くことではなく、あなたのさまよいについて泣くことでもなく、こう云うことである。――

   「われ罪、煩労(まどい)、苦悩(なやみ)持つとも
    御霊はわれを 去(ゆ)かせたまわじ」。

「信じます。不信仰な私をお助けください」[マコ9:24]。私が好きなのは、ルターのこの言葉である。「私は、キリストが抜き身の剣を手にしていても、その御腕の中に駆けて行くであろう」。これは、いちかばちかの信じ方だと云われるが、ある老神学者が云うように、いちかばちかの信じ方などというものはない。私たちはキリストに何かをいちかばちかで賭けることなどありえない。そこには、いちかばちかの賭けなど何もない。運まかせの部分などこれっぽっちもない。私たちが、嵐の最中でキリストのもとに行き、「おゝ! イエスよ。私はあなたの血で覆われていると信じます」、と云うとき、また、私たちが自分は全く襤褸をまとっている者でしかないと感じられても、「主よ。私はキリスト・イエスによって、襤褸だらけの者ではあっても、完全に罪赦されていると信じます」、と云えるとき、それは聖なる、天的な経験である。聖徒の信仰は、聖徒として信ずるときには小さな信仰であるが、罪人の信仰は、罪人として信ずるときも真の信仰なのである。信仰――罪なき存在の信仰ではなく、罪深い者の信仰――、それは神を喜びとする信仰である。ならば、キリスト者よ。行くがいい。これがあなたの経験となるように願い、日々このことを学ぶがいい。「神こそ、わが岩。わが救い」。

 III. そして今、第三のこととして、私たちが語りたいのは《この偉大な義務》である。私たちには、偉大な経験があった。ここで私たちは、偉大な義務を有さなくてはならない。

 その偉大な義務とは――もし神だけが私たちの岩であり、それを私たちが知っているとしたら、私たちには、自分のあらゆる信頼を神に置き、自分のあらゆる愛を神にささげ、自分のあらゆる希望を神にかけ、自分の人生のすべてを神のために費やし、自分の全存在を神にささげるべき義務があるではないだろうか? もし神が私の有するすべてであるとしたら、確かに私の有するすべては神のものであるに違いない。もし神だけが私の希望だとしたら、確かに私は私の希望のすべてを神にかけるに違いない。もし神の愛だけが救うとしたら、確かに神は私の愛だけを有するはずである。さあ、キリスト者よ。しばらくの間、あなたに語りかけさせてほしい。私はあなたに警告したい。ふたりの神、ふたりのキリスト、ふたりの友、ふたりの夫、ふたりの偉大な父を有していてはならない。2つの泉、2つの川、2つの太陽、2つの天国を持つのではなく、ただ1つだけを持つがいい。私は今あなたに命じたい。神があらゆる救いをご自分のうちに置いておられる以上、あなた自身のすべてを神のもとに携えて来るがいい。さあ、あなたに語らせてほしい!

 第一のこととして、キリスト者よ。決して何物もキリストにつけ加えてはならない。あなたは主が与えてくださる新しい衣に、襤褸布を縫いつけようというのだろうか? 新しい葡萄酒を古い皮袋に入れようというのだろうか? キリストと自我を一緒にしようというのだろうか? 象と蟻に同じくびきをかけた方がましであろう。それらは決して一緒に耕せるものではない。何と! あなたは御使いのかしらを虫けらと同じ馬具で繋ぎ、彼らがあなたを天へ引っ張っていくと期待しようというのだろうか? 何とちぐはぐなことか! 何と愚かなことか! 何と! あなた自身とキリストであると? 確かに、そのようなことを思うとき、キリストは微笑まれるであろう。否。泣かれるであろう! キリストと人間を一緒にすると? 《キリストと、共同する何かであると?》 否。そのようなものは決してあってはならない。そのような類のものを主は決してお持ちにならない。主がすべてでなくてはならない。何か他のものを主とともにしようとすることが、何とちぐはぐなことか注目するがいい。また、それが何と間違ったことか注意するがいい。キリストは決して何かがご自分と同列に置かれることに我慢されないであろう。主は、ご自分以外の何かを愛する者たちを姦淫を犯す者、不品行の者とお呼びになる。主は、あなたの全心がご自分に信頼を置き、あなたの全魂がご自分を愛し、あなたの全人生がご自分に誉れを与えることを望んでおられる。主は、あなたがあらゆる鍵を主の帯にぶらさげるまで、あなたの家にはおいでにならないであろう。ただ1つの鍵すら、あなたのものとして取っておくことをお許しにならないであろう。主は、あなたが屋根裏部屋も、客間も、居間も、地下室も主に与えるまで、おいでにならないであろう。主はあなたにこう歌わせなさるであろう。――

   「わがすべてをば 主にささげずば
    こはわが義務(つとめ) ならざるや、
    われの、わが神 熱心(あつ)く愛して
    残りなくみな 神に献(ささ)ぐは」。

キリスト者よ。注意するがいい。いかなるものをも神にささげないでおくことは罪なのである。

 さらに、そのようにするとき、キリストは非常に悲しまれる。確かにあなたは、ご自分の血をあなたのために流されたお方を悲しませたいとは思わないに違いない。確かに、この場にいる神の子どもたちのひとりとして、そのほむべき《長兄》を悩ませたいとは思わないに違いない。血で贖われた魂のうち1つとして、私たちの最も愛するお方の甘やかな、ほむべき眼差しが涙で濡れるのを見たいと思うようなことはありえない。私はあなたがたがあなたの主を悲しませたくはないと知っている。そうであろう? しかし私はあなたに告げる。もしあなたが主以外の何かを愛するとしたら、あなたは主の高貴な霊を苦しめるのである。というのも、主はあなたをことのほか好んでいるので、あなたの愛を嫉妬なさるからである。主の御父については、「ねたむ神」であられると云われている[出20:5; 34:14; 申4:24他]。そして、あなたが相手にしているのは、ねたむキリストなのである。それゆえ、いくさ車を信頼することも、馬を支えにすることもせずに、こう云うがいい。「神こそ、わが岩。わが救い」。

 さらに、注目するよう願いたいのは、なぜあなたが他の何者をも見るべきではないかという理由の1つである。あなたが他の何かを見ていると、あなたにはキリストがあまりよく見えない。「おゝ!」、とあなたは云う。「私は、種々のあわれみを有しておられるキリストが見えます」。だが、そのときあなたは、じかに主を見ているかのように、よくキリストを見ることはできない。いかなる人も同時に2つのものを見たり、その両方をはっきり見ることはできない。あなたは世に目くばせすることも、キリストに目くばせすることもできるであろう。だが、キリストだけを完全に見、キリストに注視していながら、半分は世を見ていることはできない。私は切に願う。キリスト者よ。そうしようとしてはならない。もしあなたが世を見ているとしたら、それはあなたの目の中にあるきずとなるであろう。主以外の何かを頼りとするとしたら、2つの椅子の間であなたは地面に落ちるであろう。それも、すさまじい転落となるであろう。それゆえ、キリスト者よ。ただ主だけを見つめるがいい。「神こそ、わが岩。わが救い」。

 さらに注目するがいい。キリスト者よ。私はあなたに命ずるが、決して他の何物もキリストと同列に置いてはならない。というのも、あなたがそうするならば、確実に、あなたは、そのために鞭打ちを受けるからである。神の子どものひとりが、その主への反逆者のひとりをかくまっていて、非難されずにすまされることはない。神は、私たちみなに向かって捜索令状を送りつけおられる。そして、あなたは主がその役人たちに何を捜せと告げておられるか知っているだろうか? 神は彼らに、私たちのすべての愛人、私たちのすべての宝、私たちのすべての助け手を捜せと告げておられる。神は、私たちの罪としての罪よりも、ご自分の御座の簒奪者ととしての私たちの罪、あるいは私たちの美徳の方を気にかけておられる。私はあなたに云う。この世にある何物にあなたが心をかけようとも、それは必ずハマンの絞首台よりも高い絞首台でつるされることになる。もしあなたがキリスト以外の何かを愛するなら、主はそれにその罪の償いをさせなさるであろう。もしあなたがキリストよりも自分の家を愛するとしたら、主はそれをあなたにとって牢獄とするであろう。もしあなたがキリストよりもあなたの子どもを愛するとしたら、キリストはその子を、あなたの胸の中であなたに噛みつく毒蛇とするであろう。もしあなたがキリストよりもあなたの日々の糧を愛するとしたら、主は、あなたが完全に主に頼って生きるようになるまで、あなたの口の中であなたの飲み物を苦くし、あなたの食物を砂利石とするであろう。あなたが有する何物といえども、それをあなたが主よりも愛するとしたら、主がそれを鞭とできないことはない。そして、もしあなたがそれを、あなたのキリストを盗ませる何かとするしたら、絶対に主はそうなさるであろう。

 そして、もうひとたび注意するがいい。もしあなたが神ならざる何かを見つめるとしたら、あなたはすぐに罪に陥るであろう。キリスト以外の何かに目を注ぎ続けた人のうち、正道を踏み外さなかった者はひとりとしていない。船乗りが北極星によって舵を取ろうとするなら、北へ行くであろう。だが、もし彼が時には北極星によって、時には別の星座によって舵を取るなら、彼がどこへ行くかは全くわからない。もしあなたがあなたの目を完全にキリストに注いでいないとしたら、あなたはすぐに道を誤るであろう。もしあなたが、あなたの力の秘密を――すなわち、キリストに対するあなたの信頼――を打ち明けるなら、またもしあなたがこの世のデリラといちゃつき、キリストよりもあなた自身を愛するならば、ペリシテ人たちがあなたに襲いかかり、あなたの頭髪を刈り込み、あなたをとらえて石臼を引かせるであろう。それは、あなたの髪の毛が再び伸びて、《救い主》への全き信頼へとあなたを引き戻すことによって、神があなたを救い出してくださるまで続くであろう。ならば、あなたの目をイエスに据えておくがいい。というのも、もしあなたが主から目をそらすなら、あなたの状態は何と悪くなるであろう! 私はあなたに命ずる。キリスト者よ。あなたの種々の恵みに用心するがいい。あなたの美徳に用心するがいい。あなたの経験に用心するがいい。あなたの祈りに用心するがいい。あなたの希望に用心するがいい。あなたの謙遜に用心するがいい。あなたの恵みのうち1つとして、あなたがなすがままにまかされた場合、あなたを罪に定めずにおかないものはない。《古い書物》は云っている。ある女が夫を得て、夫は彼女にいくつかの優美な指輪を与え、彼女はそれを自分の指にはめた。だがもし彼女が愚かにも自分の夫よりも指輪の方を愛するとしたら、もし彼女が宝石ばかり気にして、それを与えた夫のことを忘れるとしたら、いかに夫は怒ることか。また、いかに彼女は愚か者となることか! キリスト者よ! 私はあなたに警告する。あなたの種々の恵みに用心するがいい。というのも、それらは、あなたのもろもろの罪よりもあなたにとって危険なものとなりかねないからである。私はこの世にあるあらゆるものについてあなたに警告する。というのも、あらゆるものにこうした傾向があり、特に高い境遇がそうだからである。もし私たちが快適に生計を立てているとしたら、まず間違いなく私たちは、それほど神に向かわなくなるであろう。あゝ! キリスト者よ。遊んで暮らせるような財産があるときには、あなたの金銭に気をつけるがいい。あなたの金銀に用心するがいい。それは、あなたとあなたの神の間に割り込むとき、あなたを呪うものとなるであろう。常に雲からあなたの目を離さず、雨ばかり見ていないようにするがいい。――川から目を離さず、川の上に浮かぶ船ばかり見ていないようにするがいい。陽光ではなく太陽を見るがいい。あなたの種々のあわれみを神に帰し、いつもこう云っているがいい。「神こそ、わが岩。わが救い」。

 最後に、私はあなたにもう一度命ずる。あなたの目を全く神に注ぎ、あなたの自我の中にある何物にも注がないようにするがいい。なぜなら、あなたが今あるところのもの、あなたがかつてあったところのものは、あなたがキリストから離れているとしたら、あわれな断罪された罪人でしかないからである! 私は先日、説教の丸々前半を教役者として語っていた。突然、私は、自分があわれな罪人であると思った。そして、そのとき、いかに異なったしかたで私は語り始めたことか! 私が語ったことのある最上の説教は、いずれも私が、教役者としての立場からではなく、ひとりのあわれな罪人が罪人たちに向かって説教した際のものである。私は、教役者にとって、結局自分もあわれな罪人でしかないのだと思い起こすことにまさるものはないと思う。孔雀は、見事な羽根を持っているにもかかわらず、その黒い足を恥じていると云われる。確かに私たちは、自分の黒い足を恥じるべきだと思う。私たちの羽根が時として華やかに見えることはあるかもしれないが、私たちは、もし恵みが私たちを助けていないとしたら、自分がいかなる者であるかを考えるべきである。おゝ! キリスト者よ。キリストに目を注ぎ続けるがいい。というのも、キリストを離れては、あなたは地獄で罪に定められている者に何らまさるところはないからである。かの穴の中にいるいかなる悪霊といえども、もしあなたがキリストから離れているとしたら、あなたを赤面させずにはおかないであろう。おゝ、あなたが謙遜になるとしたらどんなによいことか! 自分の中にいかによこしまな心があるか思い出すがいい。あなたには恵みがある。――神はあなたを愛しておられる。だが、思い出すがいい。あなたの心の中には、今なお不潔な癌があるのである。神はあなたの罪の大きな部分を取り除かれたが、なおも腐敗は残っている。私たちは、古い人がある程度は窒息させられたと感じ、その火がある程度は聖霊の影響力という甘やかな水で弱められていると感じてはいるが、もし神がそれを抑えつけておられないとしたら、それは以前にまして燃えさかるであろう。ならば、自分自身を誇らないようにしようではないか。奴隷が自分の家系を誇る必要はない。その手には焼き印が押されている。高慢よ去れ! 取り除かれよ! ただイエス・キリストの上だけに、全く安らおうではないか。

 さて、一言だけ不敬虔な人々に云わせてほしい。――あなたがた、キリストを知らない人たち。あなたは、私があなたに語ってきたことを聞いた。救いはキリストだけのものであると聞いた。それはあなたにとって良い教理だろうか? というのも、あなたは何も得ていないからである。そうではないか? あなたは、あわれで、失われた、破滅した罪人である。ならば、これを聞くがいい。罪人よ。あなたは何も持っていない。そして、何を持たなくともよい。キリストがすべてを持っておられるからである。「おゝ!」、とあなたは云う。「私は奴隷です」。あゝ! だが、キリストは救拯を有しておられる。「いいえ」、とあなたは云う。「私は真っ黒な罪人です」。左様。だが、キリストはあなたを洗って白くする浴槽を有しておられる。あなたは云うだろうか? 「私は、らい病人のようなものです」、と。しかり。だが、かの良き《医者》はあなたのらい病を取り除くことがおできになる。あなたは云うだろうか? 「私は罪に定められています」、と。左様。だが、あなたがキリストを信じさえするなら、キリストは、署名され、捺印された無罪放免証書を持っておられる。あなたは云うだろうか? 「ですが、私は死んでいます」、と。左様。だがキリストにはいのちがあり、あなたにいのちを与えることがおできになる。あなたは、あなた自身のものは何1つ求められない。――ただ、キリストにより頼みさえすればよい。では、この場にいる男性、女性、子どもたちの中で、私の後について、心から厳粛にこう云える者がいるだろうか。「私はキリストを私の《救い主》とします。私自身の力や功績などには何も頼りません。私は自分の罪を見ていますが、キリストが私の罪よりも高くあられるのを見ています。私は自分の罪過を見ていますが、キリストは私の罪過よりも力強くあられることを信じます」。――私は云う。もしあなたがたの中のだれかがそう云えるとしたら、あなたはこの場を喜びながら離れて行くことができる。というのも、あなたは天の御国の相続人となっているからである。

 私は、私たちの教会集会で物語られた、1つの珍しい物語をあなたがたに告げなくてはならない。なぜなら、この場には、それによって救いの道を理解できるであろう何人かの非常にあわれな人々がいるかもしれないからである。友人たちのある人が、教会に加入しようとしていた人と面会することになっていた。そこで彼は相手に云った。「もしひとりのあわれな罪人がやって来て、救いの道についてあなたに尋ねたとしたら、あなたは何と云うでしょう? それを私に話してもらえませんか」。「ええと」、と彼は答えた。「わかりません。――私があなたに云えることはほとんどないと思います。ですが、たまたま、それと似たようなことが実際に昨日起こったのです。ひとりの貧しい女が私の店に入ってきました。それで私は彼女に救いの道を話したのです。ですが、それは実にお粗末な話し方でしたので、あなたにはお話したくありません」。「おゝ、とんでもない。云ってください。ぜひともおうかがいしたいものです」。「わかりました。彼女は、貧しい女で、年がら年中、自分の持ち物を質に入れては、だんだんと受け出していくということをしている人でした。私は彼女に説明するのに、これよりうまいしかたは思いつきませんでした。――『さあ、ご覧なさい。あなたの魂は、悪魔の質草になってます。キリストは、その質受けのお金を払ってくださいました。あなたは、信仰を自分の質札と考えられるでしょう。それを出しさえすれば、あなたの魂を質受けしてくることができるのですよ』」。さて、これは、この女に救いの知識を分け与えるための、最も単純で、だが、この上もなくすぐれたしかたであった。確かに私たちの魂は、《全能者》の復讐の質草となっていた。私たちは貧しく、その質受けの金銭を支払うことはできなかった。だがキリストがやって来られて、そのすべてを支払ってくださった。そして、信仰は、私たちが自分の魂を質物から受け出してくるために用いる質札なのである。私たちは、ほんの1ペニーも自分から出す必要はない。私たちは、ただこう云うだけでよい。「さあ、主よ。私はイエス・キリストを信じます。私は私の魂を贖うために一文も持ってきませんでした。というのも、ここに質札があって、その金銭はとっくの昔に払われているからです。ここに、あなたのことばが記されています。『御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます』[Iヨハ1:7]」。もしあなたが、その質札を取り出すなら、あなたはあなたの魂を質屋から受け出すであろう。そして、云うであろう。「われ赦されたり、われ赦されたり。われは恵みの奇蹟なり」、と。願わくは神が、私の愛するあなたがたを祝福してくださるように。キリストのゆえに。

 

神のみぞ御民の救いなる[了]

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