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キリストの民の性格

NO. 78

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1855年11月22日、木曜夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません」。――ヨハ17:16


 キリストの祈りは、特別の民のためのものであった。主は、万人のためのとりなしをささげているのではないと宣言された。「わたしは彼らのためにお願いします」、と主は云われた。「世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです」[ヨハ17:9]。この美しい祈りを読み通すとき、私たちに思い浮かぶ問いは1つしかない。「彼ら」と述べられているこの人々とはだれだろうか? いかなる個々人がこのような恩顧を与えられているのだろうか? 《救い主》の祈りにあずかり、《救い主》の愛によって認められ、主の尊い胸当ての宝玉に名前を刻まれ、いと高き御座の前でこの《大祭司》によってその性格や状況を口にされているこの人々はだれだろうか? その問いへの答えを返しているのが、本日の聖句の言葉である。キリストが祈っておられる人々は、地上的でない人々である。何かしらこの世を越えた所にいる人々、全くこの世から区別された人々である。「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません」。

 私は本日の聖句を、まず第一に、教理的に扱い、第二に、経験的に扱い、第三に、実際的に扱いたいと思う。

 I. 第一に、私たちは本日の聖句を取り上げて、それを《教理的に》眺めてみよう。

 この聖句の教えるところ、神の民は、キリストがこの世のものではないように、この世のものではない。その眼目は彼らがこの世のものではないことよりも、「キリストがこの世のものでないように、この世のものではない」、ということにある。これは重要な区別である。というのも、ある種の人々は、この世のものではないが、キリスト者でもないことがあるからである。こうした人々として私が言及したいのは、感傷癖のある人々――常にしんみりと感傷的なしかたで泣いたり、呻いたりしている人々――である。こうした人々は、洗練されすぎた精神と、繊細すぎる性格をしているため、通常の仕事に携わることができない。この世に関する物事に携わるなど、むしろ自分たちの霊的な性質を引き下げるものだと考えたがる。ほぼ絶え間なく浪漫や小説の雰囲気の中にひたっている。泣かされるものを読むのが大好きで、絶えず森の近くの小屋に住むか、どこか閑静な洞窟に居住するかして、永遠にジンマーマンの『孤独』を読んでいられたらと思う。というのも、自分たちを「この世のものではない」と感じるからである。事実、彼らはあまりにも華奢なので、このよこしまな世間の荒波には耐え抜けない。彼らは、抜きんでて純粋であるため、私たち粗雑な人間たちが行なっているようなことを行なうのに耐えられない。聞いた話によると、ある若い女性は、自分があまりにも霊的な思いをしているので、働くことなどできないと考えていたという。ひとりの非常に賢明な教役者が彼女に云った。「まさにその通りですな! あなたは、あまりにも霊的な思いをしているので働けないと云われる。たいへん結構。では、あまりにも霊的な思いをしているあなたは、働くようになるまで食事をしないのがよいですな」。この言葉によって彼女は、その大いに霊的な思いから引き戻された。世には、ばかげた種類の感傷癖があり、ある種の人々は自分をその中に引き込んでしまっている。彼らは、自分の頭脳を酔わせるような書物ばかり読みふけり、自分には高遠な運命があるのだとの幻想をいだく。こうした人々は、まことに「この世のものではない」。だが、この世は彼らを必要としないし、彼らがきれいさっぱりいなくなっても、大して惜しみもしないであろう。このような感傷癖を高じさせて「この世のものではない」者となっても、キリスト者では全然ないということがある。というのも、それは、「この世のものではない」というよりも、「キリストがこの世のものでないように、この世のものではない」、ということだからである。また、他の人々は、おなじみの修道僧や、その他のカトリック教会の狂った個々人のように、この世のものではない。彼らは、すさまじいほど善良なので、私たち罪深い被造物とは全く共存できないのである。彼らは私たちから全く区別されなくてはならない。もちろん彼らは、世俗の靴に少しでも近づくような長靴を履いてはならない。むしろ彼らは、名だたるイグナチウス神父のように、二三本の紐でとめる革の履物を履かなくてはならない。彼らが世俗的な外套や胴着を着ると期待することはできない。むしろ彼らは、 御受難会修道士のように、ある種の断ち方をした独特の衣裳をまとわなくてはならない。そして私たちの知っているある人々は、その言葉を口にする際の特殊な口ぶりによって、「この世のものではない」。――それは、普通の言葉つきに彼らが加える甘美で、気取った、滑らかな風味のことである。彼らは、自分たちがあまりにも卓越して清められた者と考えているので、定命の者らが通常使っているようなものを用いるのは、それが何であれ間違っているのであろう。しかしながら、そうした人々が思い出させられるのは、彼らが「この世のものではない」ことは、そうしたあり方とは全く関係がない、ということである。それは、「この世のものではない」というよりも、「キリストがこの世のものでないように、この世のものではない」、ということだからである。

 キリストがこの世と異なっておられたような点において異なっているということ、――これは、際立った目印である。こうしたあわれなしろものたちがしているように、愚にもつかない点で風変わりな者となるのでなはく、神の御子が、人の子が、イエス・キリストが、私たちの栄光に富む《模範》が、それ以外の全人類から際立っておられたような点で異なるということである。そして、思うに、このことを非常に鮮やかに、美しく判然とさせるには、キリストが性質においてこの世のものでなかったこと、職務においてこの世のものでないかったこと、何よりも、そのご性格においてこの世のものでなかったことを考察するべきである。

 1. まず最初に、キリストは性質においてこの世のものではなかった。キリストのどこにこの世的なものがあっただろうか? 1つの見方からすると、主のご性質は天来のものであった。そして、天来のものとして、それは完璧で、きよく、汚れなく、しみないものであって、主は地上的なものや罪に下落することがおできにならなかった。別の意味において、主は人的であられた。そして、処女マリヤから生まれたところの主の人間性は、聖霊によって生じさせられたものであり、それゆえことのほかきよく、その中には世的なものが何1つ宿っていなかった。主は普通の人々とは違っていた。私たちはみな、自分の心に世俗性を帯びて生まれる。いみじくもソロモンは云う。「愚かさは子どもの心につながれている」[箴22:15]。心の中にあるだけでなく、心につながれており、縛りつけられており、取り除くのが困難なのである。そして、これは私たちひとりひとりについて云える。私たちが子どもだったとき、地上的で肉的な性質は私たちの本性につながれていた。しかし、キリストはそうではなかった。主のご性質は世的なものではなかった。それは、他のいかなる人とも本質的に違っていた。主は彼らとともに座し、彼らと語り合われていたが関係ない。その違いに注目してみるがいい! 主は、ひとりのパリサイ人と隣り合って立っておられた。だが、だれもが主はパリサイ人の世界のものではないことを見てとれた。主は、サマリヤ人の女の隣に座り、彼女と非常に自由に会話を交わされたが、主がそのサマリヤ人の女の世界のものでないこと――彼女のような罪人ではないこと――を、だれが見てとれずにいられただろうか? 主は取税人たちと交わり、否、取税人の宴会に座って、取税人や罪人たちと食事をともにしさえしたが、そこでも主が帯びておられた聖いふるまいと独特の挙措によって、人は見てとることができたであろう。主が取税人と入り混じってはいても、彼らの世界のものではないということを。主のご性質の中には、際立って異なるものがあり、世界中のどこを探しても、主の隣りに立たせて、「ほら! 主はこの人の世界のものですよ」、と云えるような者はひとりもいない。しかり。あのヨハネでさえ、主の胸に頭をもたせ、自分の主のおこころの非常に大きな部分にあずかっていたにもかかわらず、完全にはイエスが属しておられた世界のものではなかった。というのも、彼でさえ、一度はそのボアネルゲ[雷の子]的な精神によって、このような意味の言葉を発したからである。「天から火を呼び下ろして、あなたに反対する者らの頭に降らせましょう」[ルカ9:54参照]。――これはキリストが一瞬たりとも耐えられないことであった。そして、それによって主がヨハネの世界すら越えた何かであられることが証明された。

 よろしい。愛する方々。キリスト者である人は、ある意味で、その性質においてすらこの世のものではない。それは彼の腐敗した、堕落した性質においてではなく、彼の新しい性質において、ということである。キリスト者の中には、他のいかなる人とも全く完全に性質の異なったものがある。多くの人々は、キリスト者とこの世の子らとの違いはここにあると考える。すなわち、一方の人は安息日に二度会堂に行くが、別の人は一度しか行かないか、ことによると一度も行かない。一方の人は礼典にあずかるが、別の人はあずからない。一方の人は聖なる事がらに注意を払うが、別の人はほとんどそうしない。しかし、あゝ、愛する方々。それが人をキリスト者にするのではない。キリスト者とこの世の人の違いは単に外的なものではなく、内的なものである。その違いは、行為の違いではなく、性質の違いなのである。

 キリスト者が本質的にこの世の人と異なるのは、鳩が鴉と異なり、子羊が獅子と異なるようなものである。その人はその性質においてすら世のものではない。その人をこの世の人にすることはできない。あなたは、その人を好きなようにできるであろう。何か一時的な罪に陥らせることはできよう。だが、この世の人にすることはできない。その人の信仰を後退させることはできよう。だが、その人がかつてそうであったような罪人にすることはできない。その人は、その性質によってこの世のものではないのである。その人は二度生まれた人である。その人の血管には、宇宙の王族の血が流れている。その人は貴族である。天から生まれた子どもである。その人の自由は単に買い取られたものではない。その人は、その新しく生まれた性質によって自らの自由を得ているのである。その人は新しく生まれて、生ける望みを持つようになっている[Iペテ1:3]。その人は、その性質によって世のものではない。本質的に、また全く世とは異なっている。今この会堂にいる人々の中には、考えられないほど互いに全く異なっている人々がいる。この場にいるある人々は聡明で、ある人々は無学である。ある人々は富んでいるが、ある人々は貧しい。だが私は、こうした違いをほのめかしているのではない。そうした違いはみな、この大きな違い――生きているか死んでいるか、霊的か肉的か、キリスト者かこの世の人か――の前には溶け去って無に帰してしまう。そして、おゝ! もしあなたが神の民であるなら、あなたは自分の性質において世のものではない。というのも、あなたがたは「キリストがこの世のものでないように、この世のものではない」*からである。

 2. さらに、あなたは、あなたの職務において世のものではない。キリストの職務は、世の事がらとは全く何の関係もなかった。「それでは、あなたは王なのですか」[ヨハ18:37]? しかり。わたしは王である。だが、わたしの王国はこの世のものではない。「あなたは祭司なのですか?」 しかり。わたしは祭司である。だが、わたしの祭司職はわたしがじきに廃棄するところの祭司職でも、他の人々のそれのように途絶してしまう祭司職でもない。「あなたは教師なのですか?」 しかり。だが、わたしの教理は道徳の教理でも、単に人間関係を扱う地上的な教理でもない。わたしの教理は天から下ってきたものである。それで私たちは云うのである。イエス・キリストは「世のものではない」、と。主は世的なものと呼べるような職務を一切持っていなかったし、これっぽっちも世的な目当てを有しておられなかった。主はご自分への喝采や、ご自分の名声や、ご自分の誉れをお求めにならなかった。主の職務そのものが世のものではなかった。そして、おゝ、信仰者よ! あなたの職務は何だろうか? あなたには何の職務もないのだろうか? 否、ある。それはある! あなたは、あなたの神、主に仕える祭司である。あなたの職務は、祈りと賛美のささげものを日々ささげることである。キリスト者に、その務めを尋ねてみるがいい。「あなたの正式な立場は何ですか? あなたはいかなる職についていますか?」、と云ってみるがいい。左様。もしその人が正確に答えるとしたら、「私は呉服屋です」とか「薬屋です」などといった答えは返さないであろう。否。その人は云うであろう。「私は、私の神に仕える祭司です。私が召されている職務は、地の塩となることです。私は山の上にある町であり、隠すことのできない光です[マタ5:13-16]。それが私の職務です。私の職務は世のものではありません」。あなたの職務が教役者としてのものであれ、執事としてのものであれ、教会員としてのものであれ、あなたは自分の職務において、キリストが世のものでないように、この世のものではない。あなたの務めは世的なものではない。

 3. さらにあなたは、あなたの性格において世のものではない。というのも、それこそキリストが世のものでなかった最たる点だからである。そして今、兄弟たち。私は、この主題のこの部分に正しく達そうとすれば、ある程度まで教理から実践へと目を転じなくてはならない。というのも、私は主の民のうち多くの者を叱責しなくてはならないからである。彼らは、主が世のものでないように自分たちが世のものでないことを、十分明らかには示していない。おゝ! 今から主の晩餐台の回りに集まってくる人々の中のいかに多くが、自分の《救い主》とは似ない生き方をしていることか。あなたがたの中のいかに多くが、私たちの教会に加わり、私たちとともに歩んでいながら、あなたの高い召しと告白にふさわしくないことか。周囲の諸教会に注目し、このことを思い起こして目に涙をこみあげさせるがいい。そうした教会の会員の多くについては、「あなたがたは世のものではない」、とは云えない。彼らは世のものなのである。おゝ、私の話を聞いている方々。残念ながら、あなたがたの中の多くの人々は世的で、肉的で、貪欲な者たちではないかと思う。だがしかし、あなたがたは諸教会に加わり、偽善的な告白によって神の民から好感を持たれている。おゝ、あなたがた、白く塗った墓たち! あなたがたは選民さえも騙そうとしている。あなたがたは杯の外側をきよめているが、邪悪きわまりない内側をしている。おゝ、雷鳴のような声があなたの耳にこう語りかけるならどんなによいことか!――「キリストが愛される者は、世のものではない」、と。だが、あなたがたは世のものである。それゆえ、あなたがたは主のものではありえない。あなたがたがそうだと告白しても関係ない。というのも、主を愛する者たちは、あなたのような者ではないからである。イエスのご人格を見るがいい。いかに他のあらゆる人の人格とかけ離れていたことか。――きよく、完璧で、しみがない。それこそ、まさに信仰者の生き方たるべきである。私は、キリスト者がその品行において罪を犯さなくなる可能性があると論じているのではないが、このことだけは主張しなくてはならない。すなわち、恵みによって人は異なる者となり、神の民は他の種類の人々と非常に異なった者になるはずである。神のしもべは、いずこにおいても神のものたる人であろう。薬剤師であるその人は、そうした稼業の人々がやりかねない薬の小細工などを行なえないであろう。雑貨商であるその人は――もし本当にこうしたことが妄想でなく行なわれているとしたら――、紅茶にリンボクの葉を混ぜたり、胡椒に鉛丹の粉を混ぜたりすることはできないであろう。たといその人が他の種類の商売を営んでいるとしても、一瞬たりとも身を落として、「商売の便法」と呼ばれる、ちょっとしたごまかしを行なうようなことはできないであろう。その人にとって、何が「商売」と呼ばれているかはどうでもいい。問題は何が神の律法と呼ばれているかである。その人は自分が世のものではないと感じており、その結果、世の流儀や世の処世術には逆らう。ひとりのクエーカー教徒について、風変わりな話が伝わっている。ある日、彼がテムズ川で水浴していると、ひとりの渡し守が彼に向かってこう叫んだという。「オヤ! そこにクエーカーがいるぞ」。「どうして私がクエーカーだとわかったんです?」 「あんたは流れに逆らって泳いどるからな。それがクエーカーの衆の決まってするこった」。これこそキリスト者が常に行なうべきことである。――流れに逆らって泳ぐ。主の民は、世俗性にどっぷり浸かった他の人々と行をともにすべきではない。彼らの性格は目に見えて異なっているべきである。あなたは、あなたの同輩たちによって何の困難もなく見分けられ、「こういう奴がキリスト者なんだよ」、と云われることができるような者たるべきである。あゝ! 愛する方々。たとい御使いガブリエルそのひとが天から世に遣わされ、悪人から義人を抜き出すように命じられたとしても、あなたがたの中のある人々がキリスト者かどうか見きわめることは、彼でさえ迷うであろう。それは、神だけがおできになることである。というのも、世俗的なキリスト教信仰のはびこる今の時代には、両者は非常に似通っているからである。神の子らと人の娘たちが入り混じった時代は、世にとって悪い時代であった[創6:1-2]。そして、キリスト者と世の子らが混ざり合っていて、双方の区別がつかないほどになっている今も悪い時代である。願わくは、その結果私たちをむさぼり食らおうとしている劫火の日から、神が私たちを救い出してくださるように! しかし、おゝ、愛する方々! キリスト者は常に世とは異なっているであろう。これは偉大な教理であり、過去の何世紀にもわたって真実であったと同様、来たるべき代々においても真実なこととなるであろう。歴史を振り返ると、この教訓が記されている。「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません」。私たちは、彼らがローマの地下墓所へ追いやられているのを見る。山しゃこのように狩り立てられているのを見る。また、歴史上のいずこにおいても、神のしもべたちが見いだされるところ、彼らはその明確な、一定不変の性格によって見分けがつく。――彼らは世のものではなかった。聖なる民、身を引き離している民、種々の民族とは全く区別された民であった。そして、もしこの時代には何の異なる民もおらず、他の人々とは違う民がだれひとり見つからないとしたら、キリスト者などひとりもいないのである。というのも、キリスト者たちは常に世とは異なっているからである。彼らは、キリストが世のものでないように、世のものではない。これが教理である。

 II. しかし、今からこの聖句を《経験的に》扱うことにしよう。

 愛する方々。あなたはこの真理を感じているだろうか? これが私たちの魂に強く迫ってくるあまり、自分のものと感じられるほどになっているだろうか? 「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません」。私たちはこれまで、自分が世のものではないと感じたことがあるだろうか? ことによると、今晩、会衆席に座って、このように云っている信仰者がいるかもしれない。「あゝ、先生。私は自分が世のものでないと感じているなんて云えません。私は自分の店から出てきたばかりで、俗塵がまだまつわりついています」。別の人は云う。「私は困難の中にあり、非常に思い悩んでいます。――私は自分が世と違っているとは感じられません。残念ですが自分は世のものなのではないかと思います」。しかし、愛する方々。私たちは、今この瞬間に神の子どもたる斑点が見分けられないからといって、性急に自分を判断してはならない。こう云わせてほしい。ある人の地金がいかなるものであるかを見きわめるには、常に、それを試す特定の時がなくてはならない。ふたりの人が歩いている。彼らが進む路の一部は隣り合っている。どちらの人が右に行き、どちらの人が左に行くか、どうすればわかるだろうか? 左様。彼らが道の分かれ目に来たときである。さて、今晩は道の分かれ目ではない。あなたはこの場で世的な人々とともに座っているからである。だが、別のときには私たちは区別できるであろう。

 キリスト者が自分は世のものではないと感じることになる、いくつかの分かれ目を告げさせてほしい。1つは、その人が非常に深刻な困難に陥るときである。私の堅く信じ主張するところ、私たちがいかなるときにもまして地上的でないと感じるのは、困難に落ち込んだときにほかならない。あゝ! 何らかの人間的な慰めが拭い去られたとき、何らかの尊い祝福が、茎から折り取られた美しい百合のように見るまにしぼんでいくとき、何らかのあわれみが、夜の間のヨナのとうごまのように枯らされたとき[ヨナ4:7]、――そのときこそキリスト者が、「私は世のものではない」、と感じるときであろう。その人の外套はむしり取られ、寒風がからだを吹き抜けていくようにすら思われる。そのとき、その人は云う。「私は、父祖たちと同じく、この世では旅人です。主よ。あなたは代々にわたって私の住まいです[詩90:1]」。時としてあなたは深い悲しみに襲われる。それゆえに神は感謝すべきかな! それらは、人を試す時である。炉が熱くなるときこそ、黄金が最もよく試されるのである。あなたはそのようなとき、自分が世のものでないと感じたことがあるだろうか? それとも、へなへなと座り込み、「おゝ! なぜ私がこんな目に遭わなくちゃならないんだ」、と云っただろうか? その下で腰砕けになってしまっただろうか? その前に打ちひしがれ、それに押しつぶされたまま、自分の《造り主》を呪っていただろうか? それとも、あなたの霊は、その重荷の下ですら、戦場で完全に手足を脱臼し、四肢をことごとく切断されながらも、できる限り真っ直ぐに身を起こし、戦場を見渡しては友軍が近づきつつあるかどうかを見ようとしている人のようだっただろうか? 身を起こして神に向かっていただろうか? あなたはそうしていただろうか? それとも、抑鬱と絶望の中に横たわっているだけだったろうか。もしあなたがそうしていたとしたら、あなたは全くキリスト者ではないと私は思う。だがもしそこに身を起こすことがあったなら、それは人を試す時だったのであり、それはあなたが「世のものではない」ことを証明したのである。なぜなら、あなたは患難を制することができたからである。それを足で踏みにじり、こう云うことができたからである。――

   「被造(つくられ)し川 みな干(かわ)くとき
    御いつくしみぞ つゆ変わらざる。
    かく我がのぞみ 満ち足りてあり
    高き御名をば 誇り歌わん」。

 しかし、もう1つの試す時は順境である。おゝ! 神の民のある者らは、逆境よりも順境によって大いに試されてきた。2つの試練のうち、霊的な人にとって逆境の試練よりも過酷なのは、順境の試練である。「るつぼは銀のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる」*[箴27:21]。順境にあるのは恐ろしいことである。あなたは、自分の困難の中にあって自分を助けてくださるように神に祈る必要があるだけでなく、自分の祝福の中にあって自分を助けてくださるように神に祈らなくてはならない。ホイットフィールド氏は、あるとき、ひとりの青年のために嘆願したことがあった。それは、――しばし待て。あなたはそれが、父親をなくしたか、財産を失った青年のためのものだと思うであろう。否! 「ある青年のためにぜひ会衆は祈っていただきたい。彼はこのたび莫大な資産を相続することになり、そのような富の中で自分をへりくだらせておくべき大きな恵みの必要を感じているのである」。それこそ、ささげられるべき類の祈りである。順境に耐えるのは難しい。ことによると、あなたは今、キリスト者としてさえ、世的な楽しみに酔いしれたようになっているかもしれない。何もかも、あなたにとっては順風満帆である。あなたは愛し、愛されている。仕事は順調である。心は楽しみ、目は輝いている。あなたは幸いな魂と、喜ばしい顔つきをもって地を歩んでいる。あなたは幸福な人である。というのも、世的な事がらにおいてさえ、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道」[Iテモ6:6]であるのを見いだしているからである。だがあなたは、こう感じたことがあるだろうか。――

   「こは決して 満ち足らわせじ。
    キリストなくば われは死ぬのみ」。

あなたは、こうした種々の慰めが、木の葉でしかなく、実ではないこと、いくら葉を食べても生きてはいけないことを感じただろうか? それらが結局は、豆かすでしかないと感じただろうか? それとも、腰を落ち着けて、こう云っていただろうか? 「さあ、たましいよ。安心せよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。食べて、飲んで、楽しめ」*[ルカ12:19]。もしあなたが、あの愚かな金持ちの真似をしていたとしたら、あなたは世のものだったのである。だが、もしあなたの霊が自分の順境を越えて上に上り、なおも神のそば近くに生きていたなら、あなたは自分が神の子どもであることを証明したのである。あなたは世のものではなかったからである。順境と逆境の双方とも、人を試す点である。

 また、あなたは自分を孤独において、また人交わりにおいて試すことができよう。孤独においてあなたは、自分が世のものかどうかわかるであろう。私は腰をおろし、窓を押し上げては星々を眺め、それらが天から見下ろす神の目であるかのように思う! そして、おゝ! 時として天を考えるのは栄光に富むことと思われないだろうか? あなたは、こう云えないだろうか? 「あゝ! この星々を越えたところには、人の手によらない、私の家[IIコリ5:1]があるのだ。この星々は栄光へ続く路の一里塚であり、私はじきに光輝く道を踏みしめることになるか、熾天使たちによってそれらを越えて運ばれて行き、そこに達するのだ!」 あなたは孤独の中で、自分が世のものでないと感じたことがあるだろうか? 人交わりの中でも同じである。あゝ! 愛する方々。嘘ではない。人交わりは、キリスト者にとって最高の試験である。あなたが、ある夜会に招かれたとする。おびただしい数の娯楽が供される。それらは、厳密には罪深いものではないが、確かに敬神の娯楽とは云えないものである。あなたは他の人々とともに、そこに座っている。埒もないおしゃべりが延々と続き、それに抗議すれば清教徒的だと思われるであろう。そして、すべては非常に愉快に進んで行き、友人たちは非常に感じが良いにもかかわらず、――あなたはこう云いたくならなかっただろうか? 「あゝ! これは私にとって何にもならない。私はむしろ祈祷会に出ていたい。おんぼろの牛小屋で神の民とともにいられるとしたら、そこで六人の老女とともにいる方が、小綺麗な部屋で珍味佳肴に囲まれながら、イエスとともにいないよりもずっといい。神の恵みによって私は、こうした場所をみな、可能な限り避けることにしよう」。これは良い試験である。あなたはこのようにして、自分が世のものではないことを試せるであろう。そして、今は語る時間がないが、これは他にも数多くのしかたで試すことができる。あなたはこうしたことを経験的に感じたことがあるだろうか? そしてこう云えるだろうか? 「私は、私が世のものではないことを知っています。私はそれを見てとっています。経験しています」。私は、教理についてなど聞きたくない。私には、教理を粉に挽いて経験にしたものを告げてほしい。教理は良いものである。だが、経験はそれにまさっている。経験的な教理こそ、私たちを慰め、私たちの徳を建てる真の教理である。

 III. さて最後に、私たちは手短にこれを《実際に》適用しなくてはならない。「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません」。そして、方々。まず最初に、このことをあなたがた、世のものである人々に適用させてほしい。あなたの処世術、あなたの習慣、あなたの行動、あなたの感情、あなたのすべては、世的で、肉的なものである。よく聞くがいい。ことによると、あなたは何らかの信仰を告白しているかもしれない。ならば聞くがいい。あなたがキリスト教信仰について誇っていることは、幻のようにむなしく、太陽が昇るときには消滅してしまう。それは、墓場で眠る幽霊が、鶏の鳴き声で失せ去るのと変わらない。あなたは、自分の身を飾っている、その信仰の告白に何がしかの喜びをいだいている。あなたはキリスト教信仰の告白を外套のように持ち運び、それを自分の商売を行なう際の隠れ蓑にし、世間の栄誉をつかまえるための網にしているが、しかしあなたは他の人々と同じように世的なのである。ならば私はあなたに告げる。あなた自身と世俗の人々の間に何の違いもないとしたら、世俗の人々の末路があなたの末路となる、と。もしあなたに目がつけられ、見張られているとしたら、あなたの隣に住む商売人はあなたと同じように行動し、あなたはその人と同じように行動しているであろう。あなたと世との間には何の違いもない。ならば、聞くがいい。これは神の厳粛な真理である。あなたは決して神のものではない。もしあなたが世の残りの部分と同じような者なら、あなたは世のものなのである。あなたは山羊であり、山羊とともに呪われるであろう。というのも、羊は常に、その見かけによって山羊とは区別できるからである。おゝ、あなたがた、世のものである世俗の人たち。あなたがた、肉的な信仰告白者たち。あなたがた、私たちの教会に群れをなしてやって来ては礼拝所を一杯にしている人たち。これが神の真理である! 厳粛に云わせてほしい。もし私がこれをしかるべきしかたで語るとしたら、それは血涙にむせびながらということになるであろう。あなたがたは、いかなる信仰告白をしていようと、「苦い胆汁……の中にいる」のである。いかに誇っていようと、「不義のきずなの中にいる」のである[使8:23]。というのも、あなたがたは他の人々のようにふるまっており、他の人々が行くところに行くことになるからである。そしてあなたは、いかに名うての地獄の世継ぎとも変わらない最期を迎えるであろう。かつて、ある非国教会の教役者について語られていた古い話がある。昔の習慣では、教役者は旅篭に泊まっても宿賃や食費を払う必要がなく、方々を巡回して説教する際には、いかなる乗物代も徴収されなかった。しかし、あるとき、ひとりの教役者が、とある旅篭に泊まり、床についた。亭主が耳をすませたところ、祈る声は全く聞こえてこなかった。そこで翌朝、彼が下りてくると亭主は請求書を差し出した。「おゝ! 私は宿代を払いませんよ。私は教役者ですからな」。「あゝ!」、と亭主は云った。「お前さんはゆうべ、罪人みてえに寝床に入りましたな。ならば、お前さんは今朝、罪人みてえに金を払うってわけですよ。逃しやしませんぜ」。さて、私が思うに、これこそ、あなたがたの中のある人々が神の法廷に出るときに起こることであろう。あなたはキリスト者のようなふりをしていたが、罪人のような行ないをしてきた。だから罪人のような目にも遭うのである。あなたの行動は正しいものではなかった。それらは神からかけ離れていた。そしてあなたは、あなたと同じ人格をした人々の受ける分を受け取ることになるのである。「思い違いをしてはいけません」。人は簡単に思い違いをしてしまうが、「神は侮られるような方ではありません」。私たちは、教役者であれ教会員であれ、しばしば侮られるが、関係ない。「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」[ガラ6:7]。

 さて今、私たちはこのことを警告の形にして、この場にいる神の真の子どもたちに適用したいと思う。私は云いたい。私の兄弟キリスト者たち。あなたは世のものではない。私はあなたに厳しいことを語るつもりはない。あなたは私の兄弟だからである。またあなたに語る中で、私は自分自身に対しても語るものである。私も、あなたと同じ咎があるからである。兄弟よ。私たちはしばしば、あまりも世に似すぎてはいないだろうか? 私たちは時として自分の生活の中で、世と同じようなことを語りすぎていないだろうか? さあ、私自身に自問させてほしい。私はあまりにも多くの下らない言葉を発していないだろうか? 左様。私はそうしている。また、私は時として、しかるべきほど世と異なっていないがために、敵に冒涜の機会を与えていないだろうか? さあ、兄弟よ。ともに私たちの罪を告白しようではないか。私たちはあまりにも世的ではなかっただろうか? あゝ! その通りであった。おゝ! この厳粛な思いを心によぎらせよう。かりに、最後の最後になって、私たちが主のものでなかったとしたら! というのも、「あなたがたは世のものではない」*[ヨハ15:19]、と書かれているからである。おゝ、神よ! もし私たちが正しくないとしたら、私たちを正しくし給え。私たちが少しは正しい部分においては、より一層正しくし給え。そして、私たちが間違っている部分においては、私たちの行ないを改めさせ給え! 1つの話をさせてほしい。これは、私が先週の火曜日の朝に語った話だが、もう一度語られる値打ちのあることである。私たちの中の多くの者らは、自分たちの会話において、あまりにも軽佻浮薄であるという大きな悪がある。かつて非常に尋常らざることが起こったことがある。ひとりの教役者が、ある田舎の村で、非常に真剣に、また非常に熱烈に説教していた。彼の会衆の真中には、その説教の下にあって、深い罪意識に打たれていた青年がいた。それゆえ彼は、その教役者が会堂を出て行くとき、一緒に帰りたいと願って、ついて行った。彼らは、ある友人の家まで歩いて行った。その途中、この教役者はあれこれ話をしたが、自分が説教した主題についてだけは一言も口にしなかった。彼はそれを非常に真剣に、目に涙を浮かべさえして説教したのだが関係なかった。青年は心の中で思った。「おゝ! ぼくの心を打ち明けて、彼に話すことができさえしたら。だが、できない。彼は今は講壇で自分が語ったことについて何も話していないのだもの」。彼らがその晩、夕食についたとき、その会話はしかるべきものからはほど遠かった。そして教役者はありとあらゆる種類の冗談や冗句にふけっていた。青年は、その家に入っていくときには、目に涙をためながら、罪人が感ずるようなことを感じていた。だが、そうした会話の後で家の外に出るや否や、足を踏みならして云った。「何から何まで嘘っぱちだ。あの男は天使のように説教したが、今は悪魔のように喋っている」。何年か後に、この青年は病気に罹って、この同じ教役者を呼んで来させた。教役者は彼のことを覚えていなかった。「あなたは、これこれの村で説教したのを覚えていますか?」、と青年は尋ねた。「覚えてますよ」。「あなたの聖句は、ぼくの心に深く突き刺さりました」。「神に感謝します」、と教役者は云った。「神に感謝するのは早すぎますよ」、と青年は云った。「あなたは、後でその晩、自分が何を喋ったかわかっていますか、ぼくがあなたと一緒に夕食を取りに行ったときに。先生。ぼくは地獄に堕ちます! そして、神の御座の前で、自分を地獄に落とした張本人としてあなたを告発してやります。あの夜、ぼくは自分の罪を感じていました。でも、あなたのせいで、ぼくの感じていたことは何もかも散り散りになってしまいました」。兄弟よ。これは厳粛な思想であり、私たちがいかに舌にくつわを掛けるべきか、――厳粛な礼拝と真剣な説教の後で、いかに軽薄さを示さないようにすべきか――を、特に軽妙な性格をした者たちに教えるものである。おゝ! 私たちは、キリストが世のものでないように、世のものではない者となるべく用心しようではないか。

 そしてキリスト者よ。最後に、実際的なこととして、このことであなたを慰めさせてほしい。あなたが世のものでないのは、あなたの家が天にあるからである。しばらく地上にとどまることに満足しているがいい。あなたは世のものではなく、あなた自身の輝かしい相続の地へと、じきに上って行くからである。旅をしている人は、旅篭に入る。それは、かなり居心地の悪い場所である。「よろしい」、と彼は云う。「私は、何晩もここに泊まっていなくていいのだ。ここでは今晩眠るだけでいい。明日の午前中にはわが家にいるのだ。ならば、ちょっと居心地が悪い宿に一晩泊まるくらいのことは気にすまい」。そのように、キリスト者よ。この世は決して大して居心地の良い所ではない。だが、思い出すがいい。あなたは世のものではない。この世は旅篭のようなものである。あなたはただ、ここに短期間泊まっているにすぎない。ちょっとした不便さは我慢するがいい。なぜならあなたは、キリストが世のものでないように、世のものではないからである。そしてまもなく、あなたは、空の彼方であなたの御父の家に集められるであろう。そして、そこであなたは、新しい天と新しい地が、「世のものではない」者たちのために備えられていることを見いだすであろう。

 

キリストの民の性格[了]

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