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神の主権

NO. 77

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1856年5月4日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか」。――マタ20:15


 この主人は、「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか」、と云う。そして、それと全く同じように天と地の神は、今朝あなたに、このように問いかけておられる。「わたしのものをわたしの思うようにしてはいけないという法があるだろうか」、と。神のいかなる属性にもまして、神の子らにとって慰めとなるのは、《神の主権》という教理である。この上もない逆境の下や、苛烈な困難の中にあって、彼らが信じるのは、《主権》が自分たちの患難を定めたのであり、《主権》がそれを支配しており、《主権》がそれらをみな聖めるだろう、ということである。この世の何物よりも神の子どもたちが真剣に戦い守るべき真理は、自分たちの《主人》が被造物全体に支配権を振るっておられるということ――御手のわざすべてに及ぶ神の王権――神の王位と、その王位につくべき神の権利――にほかならない。その一方で、この世の何にもまして世の子らから憎まれてきた教理、何もまして彼らから足蹴にされてきた真理は、この偉大な、途轍もない、だがしかし何にもまして確固たる、無限のエホバの《主権》という教理である。人間は、神がどこにいようとかまいつけないが、その御座の上にあることだけは許さないものである。彼らは、神がその工房にいて、世界を形作り、星々を造ることは許すであろう。神がその施物分配所にいて、ご自分の施し物を分け与え、その賜物を授けることは許すであろう。神が地球を支え、その柱を持ち上げていること、あるいは天の数々の灯りをともすこと、あるいは絶えず揺れ動く大洋の波浪をつかさどることは許すであろう。だが神がその王位に上るとき、その被造物たちは歯ぎしりするのである。私たちが王位についた神について宣告するとき、また、神がご自分のものをご自分の思うようにする権利があると宣告するとき、すなわち、ご自分の被造物に相談することもなく、それらをご自分のよかれと思う通りに処遇する権利があると宣告するとき、私たちは叱責され、口汚く罵られる。そのとき人々は私たちの言葉に耳を貸そうとしない。というのも、御座の上におられる神は、彼らの愛する神ではないからである。彼らは、何が気に入らないといって、神がその王笏を手にし、その冠を頭に戴くことほど気に入らないことはない。しかし、その御座についておられる神こそ私たちが宣べ伝えるのを愛するお方である。その御座についておられる神こそ、私たちが信頼するお方である。その御座についておられる神こそ、今朝私たちが歌ったお方である。そして、その御座についておられる神こそ、私たちがこの講話で語ろうと思っているお方である。しかしながら、私は、神の《主権》の一部分についてのみ深く論じることにしたい。そして、それは、神がその賜物を分配なさる際における《主権》ということである。この点において、私の信ずるところ、神は、ご自分のものをご自分の思うようにする権利を有しておられ、その権利を行使しておられる。

 この講話を始める前に、1つのことだけは揺るがぬ前提としておかなくてはならない。すなわち、すべての祝福は賜物であって、私たちは、決して自分自身では、それらを請求する当然の権利など持ち合わせていない、ということである。そして、このことが認められた上で私たちが努めて示したいと思うのは、それらが神ご自身のものである以上、神には、ご自分のものをご自分の思うようにする権利がある、ということである。――それらを全く差し止めることも――もしそう選ばれるなら、それらをすべて分配することも――ある者らには与え、別の者らには与えないことも――だれにも与えないことも、すべての者に与えることも、ご自分のみこころのまま自由に行なう権利があおりになるということである。「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか」。

 私たちは神の賜物を5つの種別に分けたいと思う。第一に、私たちには、現世的な賜物がある。第二に、救いに至る賜物がある。第三に、栄誉ある賜物がある。第四に、有用な賜物がある。そして第五に、慰めを与える賜物がある。これらすべてについて、私たちはこう云ってよい。「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか」。

 I. さて第一のこととして私たちが注目するのは、《現世的な賜物》である。争う余地のない事実だが、現世的な事がらにおいて、神は万人に同じように与えてはおられない。ご自分のあらゆる被造物に、同じ程度の幸福や、被造世界における同じ立場を分配してはおられない。そこには違いがある。個々の人々の間には、いかなる違いがあることか(というのも私たちは、主として人間について考察するからである)。ある人は、サウルのように、生まれつき他の人から肩1つ頭が抜きんでている。――別の人は一生の間、一個のザアカイ――短躯の人――である。ある人は筋骨たくましい体つきと、美しさを分かち与えられている。別の人はひ弱で、容姿端麗などと呼べる部分を何1つ有していない。私たちは、日の光を一度も目で楽しんだことのない人々、音楽の魅力を一度も耳にしたことのない人々、意味のある、調和した言葉を発するために一度も口を動かしたことのない人々をどれほど多く見いだしていることだろうか? 地を行き巡るとき、あなたは、自分よりも体力や、健康や、からだの作りにおいてすぐれた人々を見いだし、同じ点で自分よりも劣った人々を見いだすであろう。この場にいるある人々は、外面的な風采という点で、自分の同輩たちよりもはるかに恵まれているが、ある人々は相当に見劣りし、肉において誇りとできるものを何も有していない。なぜ神は、ある人には美しさを与え、別の人には全く与えておられないのだろうか? ある人には五感すべてを与え、別の人にはその一部しか与えておられないのだろうか? なぜある人々には、きびきびとした敏感な体質を与えておきながら、他の人々には鈍重で、いうことを聞かないからだを背負わせておられるのだろうか? 私たちは答える。他の人々がいくら勝手なことを云おうと、これ以外の答えはありえない。「そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした」[マタ11:26]。古のパリサイ人はこう問うた。「この人が盲目に生まれついたのは、この人が罪を犯したからですか。その両親ですか」[ヨハ9:2参照]。私たちは、その人が盲目に生まれついたのは、あるいは、他の人々がそれに類する苦悩を身に受けているのは、両親の罪のためでも、子どもの罪のためでもなかったことを知っている。むしろ、神がその人の地上的な恩恵を分け与えることにおいて、みこころのままに行ない、世界に対してこう語っておられるのである。「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか」。

 さらに、精神的な賜物の分与において、いかなる違いが存在しているか注目するがいい。あらゆる人がソクラテスのようではないし、プラトン並みの人などほとんどいない。私たちは、ベーコン級の人物などちらほらとしか見かけず、ごくまれにしかサー・アイザック・ニュートンのような部類の人と会話することはない。一部の人々は卓抜した知性を有しており、それによって神秘を解明し、――大海の深淵を探り、――山々の高さを測り、――日光を精密分析し、星々の重さを量ることができる。他の人々には、底の浅い精神しかない。いくら教育に教育を重ねても、そうした人々を偉大な者とすることはできない。そこにないものを改善することはできない。彼らには天才がなく、あなたが天才を分け与えることもできない。だれしも、人には生まれつき固有の違いがあることを見てとれるであろう。ある人々は、ほとんど教育を受けていないのに、入念に教育された人々をはるかにしのいでいる。ふたりの少年が、同じ学校で、同じ教師によって教育され、同じくらいの勤勉さで勉強に打ち込んだとする。だが、一方はその学友をはるかに凌駕するであろう。これはなぜだろうか? 神が、からだだけでなく知性の上にも、その主権を振るわれたからである。神は私たちを全員同じように作ることはせず、その「賜物」を多種多様になさった。ある人はホイットフィールドのように雄弁だが、別の人は自分の母国語を三言口にするだけでもどもらずにはいられない。人々の間のこうした種々の違いは何によって生まれたのだろうか? 私たちは答える。私たちは、これらをみな、神の《主権》に帰さなくてはならない。神はご自分のものをご自分の思うようになさるのである。

 さらに、この世における人々の状況の違いに注意するがいい。時折、強力な知性は、その手足に奴隷の鎖をまといつかせ、そのむき出しの背中を鞭打たれている人々の中に見いだされることがある。――彼らは黒い肌をしているが、精神においては、彼らの残忍な主人たちよりもはるかに優越している。英国においても、それと同じである。私たちは賢い人々がしばしば貧しく、富んだ人々が少なからず無知で、無分別であるのを見いだす。ある人はこの世に生まれ出るや否や帝王の紫衣をまとわされる。――別の人はむさ苦しい野良着のほか決して着ることはない。ある人は王宮に住み、羽根布団に身を休めるが、別の人は固い寝床しか見いだせず、自分のあばら屋の屋根葺き材料よりもましな布団は決して持っていない。もし私たちがこうしたことの理由を問うとしたら、その答えはやはり、「そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした」、である。そのように、他の種々のしかたにおいても、あなたは人生を過ぎ行く中で、いかに主権が自らを現わしているかに着目するであろう。ある人には、神は長命と一定の健康を与え、一日でも病に伏すとはどういうことかをお知らせにならないのに、別の人はこの世をよろめきながら歩み、ほぼ一足ごとに棺桶に片足を突っ込み、ただ一度の死を恐れながら、千もの死を感じとっている。ある人は、非常な高齢になっても、モーセのように目がかすまず、頭は白髪になるものの、部屋住みの若者だったときと同様自分の足でしっかり立っている。もう一度問うが、この違いはどこから来ているのだろうか? そして、その唯一適切な答えは、それがエホバの《主権》の結果だ、ということである。また、あなたは、ある人々が人生の最盛期に――まさに働き盛りの時期に――命を失うというのに、他の人々は八十歳を越えてもなお生き長らえていることにも気づくであろう。ある人は、物心がつく前に世を去るのに、別の人は生きてるのが重荷になるまで長生きする。私たちは、人生におけるこうしたすべての違いを、神の《主権》という事実にまでさかのぼらざるをえないと思う。神は《支配者》であり《王》である。ご自分のものをご自分の思うようにして当然ではなかろうか。

 私たちは、この点から次に移りたいと思う。――だが、そうする前に、ほんのしばし立ち止まり、この点を活用しなくてはならない。おゝ、堂々たる体格と、美しいからだに恵まれている人よ。そのことを自慢してはならない。というのも、あなたの賜物は神から来ているからである。おゝ、誇ってはならない。というのも、もしあなたが誇るなら、あなたは一瞬にして美しくなくなるからである。花々は自らの美しさを誇らず、鳥たちは自らの羽飾りについてさえずらない。あなたがた、美の娘たち。うぬぼれてはならない。麗しさの息子たち。思い上がってはならない。そして、おゝ、あなたがた、力と知性の持ち主たち。覚えておくがいい。あなたが持っているものはみな、《主権》の主によって授けられているのだということを。主は創造なさったし、滅ぼすことがおできになる。強大な知性と、埒もない痴愚との間には、さほど大きな隔たりがあるわけではない。――深遠な思考は、狂気にほとんど等しい。あなたの頭脳が、いついかなるときに打たれて、それ以後のあなたが狂人として生きることになるかはわからない。あなたのわきまえ知るすべてのことにおいて、自分を誇ってはならない。というのも、あなたの有しているごく小さな知識でさえ、あなたに与えられたものだからである。それゆえ、私は云う。限度を越えて思い上がってはならない。むしろ神があなたに与えておられるものを神のために用いるがいい。というのも、それは王からの賜物であって、あなたはそれを放り出しておくべきではないからである。しかし、もし《主権》の主があなたに、たった1つしかタラントを与えておられないとしたら、それを風呂敷に包んでおいてはならない。むしろ、それをよく使うがいい。そうすれば、主はあなたにさらに多くを与えてくださるかもしれない。あなたが他者にまして有していることで神をほめたたえるがいい。また、神があなたに他者よりも少なく与えておられることで神に感謝するがいい。というのも、あなたは自分の肩に担うべきものがより少なく、あなたの荷はより軽く、あなたがさらに良き地へと旅していく間に、嘆かなくてはならない理由はより少ないからである。ならば、たといあなたが同輩たちよりも少なくしか所有していないとしても、神をほめたたえるがいい。そして、与えるのと同じくらい差し控えることにおいても、神のいつくしみを見てとるがいい。

 II. おそらくここまでのところは、ほとんどの人が首肯するであろう。だが、第二の点、《救いに至る賜物》ということでは、多数の人々が、私たちの教理を受け入れられずに離れていくであろう。《神の主権》に関するこの真理を人の救いにあてはめるとき、私たちが見いだすのは、人々が立ち上がっては、神の予定によって損害を与えられていると考える、あわれな同胞たちを擁護しようとする姿である。しかし、私は今まで一度も人々が悪魔のために立ち上がったのを聞いたことがない。だがしかし、もし神の被造物の中で、神のお取り扱いについて不平を云う権利がある者が何かあるとしたら、それは堕落した御使いたちであろうと思う。自分たちの罪のために、彼らはたちまち天から放り出された。彼らに対して何かあわれみの使信が送られたとは一言も記されていない。ひとたび追放されたら、彼らの破滅は定まってしまったのである。一方、人間は執行猶予され、救拯が彼らの世界に送られ、彼らの多数が永遠のいのちへと選ばれた。なぜ、もう一方と同じように、この場合においても《主権》に異議を唱えないのか。私たちが、神はある人々を人類の中から選んでおられたと云うと、神がこのことをなさる権利は否定される。しかし私は尋ねたい。なぜ同じように、神が人間を選び、堕落した御使いたちを選ばなかったという事実について、あるいは、そのような選択をなした神の正しさについて、云い争わないのか。もし救いが権利の問題だとしたら、確かに御使いたちも、人間と同じだけあわれみを請求する権利があった。彼らは同等以上の威光の中に座していなかっただろうか? 彼らの罪がより大きかったのだろうか? そうは思わない。アダムの罪は、我意むき出しの、弁解の余地ないものであって、彼が犯したほど大きな罪は考えつけない。また、天を放逐された御使いたちの方が、回復された暁には、その《造り主》にとって、私たちよりもずっと有用ではなかっただろうか? 私たちがこの件に関する判定者だったとしたら、私たちは御使いたちを放免し、人間たちは放免しなかったであろう。ならば、《神の主権》を賞賛し、愛するがいい。神は、御使いたちが粉微塵に砕かれた一方で、私たちの主イエス・キリストの功績を通して、選ばれた数の人々を人間の種族の中から引き起こし、君主たちの間に列させたのである。

 さらに《神の主権》について指摘したいのは、神はイスラエル民族を選んだが、異邦人たちをきわめて長い間、暗黒の中に放置されたということである。なぜイスラエルは教えを受けて救われたのに、アラムは偶像礼拝の中で滅びるにまかされたのだろうか? 一方の民族の方が、もう一方よりも、その発祥において純粋で、その性格において善良だったのだろうか? イスラエル人も、何千回となく偽りの神々を取り入れて、真の神の怒りと嫌悪を引き起こさなかっただろうか? ならばなぜ彼らがその同胞たちにまさって恩顧を受けたのだろうか? なぜ天の太陽が彼らを照らしている一方で周囲の全民族が暗黒の中に置かれ、無数の人々が地獄に沈んで行きつつあったのだろうか? なぜか? 私たちに与えられうる唯一の答えは、神が《主権者》であり、「神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされる」[ロマ9:18]、ということしかない。

 さてそのように、なぜ神は、ご自分のことばを私たちに送る一方で、おびただしい数の人々になおもみことばを持たせずにおられるのだろうか? なぜ私たちすべてには、安息日ごとに神の幕屋にやって来て、イエスに仕える教役者の声に耳を傾ける特権が与えられているのに、他の国々はその訪れを得ていないのだろうか? 神は、この国でと同じように、そうした場所でも暗闇に光を輝かせることができたはずではないだろうか? それをお望みになれば、光のような速度で使者たちを遣わし、その福音を全地で宣言させることができたはずではないだろうか? それを神がなさっていないのを知っている以上、私たちは柔順にこうべを垂れ、ご自分のものをご自分の思うようにする神の権利を告白するものである。

 しかし、この教理をより一層強く論じさせてほしい。神がその《主権》を現わしておられるこの事実を見るがいい。すなわち、同じ教役者の話を聞き、同じ真理に耳を傾けている、同じ会衆の中でも、ある者は取られ、別の者は残されるのである。私の話を聞いている人々の中で、なぜあそこの会衆席に座っているひとりの女性と、その隣に座っているその妹とでは、説教の及ぼす効果がそれぞれ異なるのだろうか? 彼女たちは同じ膝の上であやされ、同じ揺りかごの中でゆすられ、同じ保護者の下で教育され、同じ教役者の話を、同じくらい注意して聞いている。――なぜその一方は救われ、もう一方は残されるのだろうか? むろん罪に定められる人に何らかの弁解を編み出してやる気持ちは全くない。そのような弁解の種は何1つない。だが、それと同時に私たちは、神から栄光を取り去ろうとも決して思っていない。私たちは、《神》がその違いを生じさせておられるのだと主張する。――救われた方の姉は、自分に感謝するのではなく神に感謝しなくてはならないであろう。また、酒に溺れているふたりの人がいるとする。彼らに語りかけた数語は、その一方の心を刺し貫くが、もう一方は無感動なまま座っているであろう。ふたりが、気質においても教育においても、あらゆる点で全く同一であっても関係ない。その理由は何だろうか? あなたは、ことによると、答えるであろう。一方は福音の使信を受け入れ、もう一方は拒絶するからだ、と。しかし、あなたはこの問いに立ち戻らざるをえないではないだろうか? だれが一方の人を受け入れさせ、だれが他の人を拒絶させたのだろうか。たぶんあなたは云うであろう。その人が自分で自分を違う者にしたのだ、と。だが、あなたは自分の良心の中でこう認めざるをえないであろう。神だけに、この力は属しているのだ、と。しかし、この教理を嫌う人々は、それにもかかわらず私たちに逆らい立って云うであろう。いかにして神は、ご自分の家族の中の者たち同士の間でそのようなえこひいきをして正しくありえようか、と。かりに、ある父親に何人かの子どもたちがいるとして、そのひとりだけを猫可愛がりして、残りはみじめなまま放っておくとしたら、――私たちは彼が非常に無慈悲で残酷な父親だと云わないだろうか? 私は、それはそうだと答える。しかし、その2つの事例は同じではない。あなたが相手にしているのは父親ではなく、裁判官なのである。あなたは、すべての人は神の子どもたちだと云う。私は、あなたにそれを証明するよう要求するものである。私は自分の聖書のどこにもそのようなことを読んだことがない。私は、新生するまでは、「天にましますわれらの父よ」、などと大それたことは云えない。私は、自分が神と1つであること、またキリストとの共同相続人であることを知るまでは、神が私にとって父であられても喜ぶことはできない。回心してもいない人間として、私は神が父であられるなどとあえて主張することはしない。これは父と子ではない。――というのも、子どもなら父親に要求する権利があるからである。――むしろ、これは《王》と家臣である。また、そこまで高い関係ですらない。《家臣》と《王》の間にも、何かを要求する資格はあるからである。一個の被造物――罪深い被造物――には、神に何を要求する権利もありえない。というのも、それは恵みによる救いではなく、行ないによる救いとなるだろうからである。もし人々が功績によって救いを得ることができるとしたら、彼らを救うというのは、ただ負債を支払うことでしかなく、神は彼らに、当然与えるべきもののほか何も与えないことになる。しかし私たちは、いやしくも恵みが恵みであるためには、分け隔てをするものでなくてはならない、と主張する。おゝ、だがある人は云う。「神はあらゆる人に、益とさせる恵みをある程度与えられる」、と書かれているではないか、と。だが、たといあなたがその素晴らしい引用文を何度私の頭に浴びせかけても、私は何の痛痒も感じない。というのも、それは全く聖書からの引用ではないからである。アルミニウス主義版の聖書にそのようなものがあるとしたら別だが、それと似た唯一の箇所[Iコリ12:7]は、聖徒たちの霊的賜物だけに限定して言及しているからである。しかし私は云う。あなたがたの仮定を認め、益とさせるための恵みが、ある程度はあらゆる人に与えられているとしても、それでも、神は、ある人々には、それを益とできるような特定の恵みをある程度与えておられたのである。というのも、私の差し出している、益となる恵みということで、あなたは何を意味しているのだろうか? 私は、ある人が恵みを用いることにおいて向上することは理解できるが、人間の力によって向上させられたり、利用されたりするような恵みなど理解できない。恵みは、私が用いるものではない。私を用いるものなのである。しかし、人々は時として恵みのことを、まるで自分たちが利用できる何かでもあるかのように語り、自分たちに力を及ぼす影響力ではないかのように語ることがある。恵みは私が向上させる何かではなく、私を向上させ、私を使役し、私の上に働きを及ぼす何かである。人々が、普遍的恵みについていかに勝手なことを語ろうと、それはみなたわごとである。そのようなものはないし、ありえない。彼らが普遍的な祝福の数々について語るのは正しいかもしれない。なぜなら、私たちは、神からの天性の賜物が、多かれ少なかれ、至る所にまき散らされているのを見ており、人々はそれを受け入れるか、拒絶するかであろうからである。しかしながら、恵みについてはそれとは違う。人々は神の恵みを取り、それを使って、自分で自分を暗闇から光に立ち返らせることはできない。決して光が暗闇のところにやって来て、私を用いよ、と云うようなことはない。むしろ光は、やって来ては暗闇を追い払う。決していのちは死人のところにやって来て、私を用いよ、そしていのちに回復させられよ、などとは云わない。むしろ、それは、それ自身の力をもってやって来て、いのちに回復させるのである。霊的影響力は、ひからびた骨々のところにやって来て、この力を用いて、肉を身にまとえ、などとは云わない。むしろそれは、やって来ては、その骨々に肉をまとわせて、みわざが完成するのである。恵みは、やって来ては、ある影響力を私たちの上に行使する何かである。

   「ただ神の 主権(たか)き御意志(こころ)ぞ
    われらをば 恵みの世継ぎに創造(つくり)かえ、
    御子のかたちに 生まれさせ
    新たに被造(うまれ)し 種族(たみ)となさん」。

そして私たちは、この教理に向かって歯ぎしりする、あなたがたの中のすべての人々に云うが、あなたは知ってか知らずか、自分の心の中に、神への敵意をあふれんばかりにいだいているのである。というのも、あなたがこの教理を知るよう至らされるまでは、あなたの中には、自分でも知らない何かがあるからである。その何かによってあなたは、絶対の神、無制約の神、何の枷もはめられていない神、不変の神、自由意志を持っておられる神といった観念に対して反対しているのである。こうしてあなたは、被造物は自由意志を所有していると証明することを著しく好みながら、神にはそれを認めないのである。私はこう確信している。もし健全な精神状態になりたければ、神の《主権》を信じなくてはならない、と。「救いは主のみ与え給わん」。ならば、すべての栄光をその聖なる御名にささげるがいい。このお方にこそ、あらゆる栄光は属しているのである。

 III. さてここから第三のことに移り、神がしばしばその教会の中で際立たせなさる、《栄誉ある賜物》の違いに注意してみよう。神ご自身の子どもたちの間にも――彼らが神の子どもとなっているときに――違いはつけられている。私が何のことを云っているか、注意するがいい。ある者は、知識という栄誉ある賜物を有しているが、別の者はほとんど少ししか物を知らない。折にふれ私は、ひと月でも語り合っていられるような、愛するキリスト者の兄弟に出会うことがある。その人から私は、毎日でも何か1つ学ぶことがあるであろう。その人は深い経験を有している。――神の深みをのぞき込んだことがある。――その人の全生涯は、どこにいようと不断の学びであった。その人は、単に書物からだけでなく、人々から、神から、自分自身の心から、幾多の思想を収集してきたように思える。その人はキリスト者経験のあらゆる紆余曲折をわきまえている。人知をはるかに越えたキリストの愛の高さ、深さ、長さ、広さ[エペ3:18-19]を理解している。その人は、広大な観念、恵みの体系の詳細な知識を会得しており、主がご自分の民に対してなさるお取り扱いの正しさを証明することができる。

 それからあなたは別の人に出会う。多くの困難を経てきてはいるが、その人はキリスト者経験の深い知識を全く有していない。その人は、自分のあらゆる困難から、何1つ秘訣を学びとらなかった。その人は、1つの困難をもがき逃れては別の困難に陥ることの連続だが、決して立ち止まって、その泥沼の中に横たわっている宝石の1つもつまみあげたことがない。――決して自分の患難の中に横たわる尊い宝石を発見しようと努めたことがない。その人は、この世に最初に生まれ出たときよりも、《救い主》の愛の高さと深さについて、ほぼ全く知識を増していない。あなたは、こうした人といくら会話しても、何もその人から得ることはないであろう。もしあなたが、それはなぜかと問うならば、私は答えよう。神の《主権》によって、ある者には知識が与えられ、他の者には与えられないのだ、と。先日私は、ひとりの老キリスト者と道を歩いていた。彼は私に、いかに自分が私の牧会活動によって益を得たかを話してくれた。この世の何にもまして私がへりくだらされるのは、向こうにいる老人が、恵みにおいてはほんの赤子にすぎない者から神の事がらにおける経験を引き出し、主の道における教えを受けている、ということである。しかし、私はこう予期している。もし私が命長らえるとしたら、自分が老人になったときには、恵みにおいては赤子であるだれかが私を教えてくれるであろう、と。神は時として老人の口を閉ざし、子どもの口を開かれる。なぜ私たちは、いくつかの点では私たちよりもはるかに教える能力に富む、何百人もの人々に対して教師となっているのだろうか? 私たちに見いだしうる唯一の答えは、《神の主権》にある。そして私たちは、その前に額づかなくてはならない。というのも、神にはご自分のものをご自分の思うようにする権利があるではないだろうか? 知識の賜物を有している人々をねたましく思うかわりに私たちは、もしできるならば同じ賜物を獲得するよう求めるべきである。座り込んでは、自分にもっと知識がないと不平を云うかわりに、思い出すべきである。足は頭に向かって、また頭は足に向かって、「私はあなたを必要としない」、と云うことはできない、と[Iコリ12:21]。というのも、神はみこころに従って私たちにタラントを与えておられるからである。

 また、栄誉ある種々の賜物について語る中で、このことにも注意するがいい。知識だけでなく、職務もまた栄誉ある賜物である。人間にとって何よりの栄誉となるのは、執事、あるいは教役者の職務である。私たちは、自分自身を重んじようとは思わないが、自分の職務は重んじている[ロマ11:13]。私の信ずるところ、人を何よりも尊くするのは、キリスト教会内の役職に任命されることである。私は、ロンドン市長になるよりも、ある教会の一執事となりたいと思う。キリストに仕える教役者となるのは、私のみなすところ、この世が授けることのできる何物よりも無限に高貴な栄誉である。私の講壇は、私にとって、玉座よりも望ましいものであり、私たちの会衆は、これ以上ない大帝国である。永遠の重要性ということにかけては、地上のいかなる帝国も、その帝国の前ではしぼんでなくなってしまう。なぜ神はある人に対して、聖霊による特別な召しを与え、教役者とし、他の人のことは見過ごされるのだろうか? そこには、ずっと才能があるかもしれないもうひとりの人がいる。だが、私たちは、その人を講壇に立たせるようなことはしない。なぜなら、その人は特別な召しを受けていないからである。執事職も、それと同じである。もしかすると、ある人々からすると最もその職務に適していると思われる人が見過ごされ、別の人が選ばれる。そうした職務への任命のうちに、神の《主権》は明らかに示されている。――ダビデを王座につけ、モーセを荒野のイスラエル人の指導者とし、ダニエルを君主たちの間に立たせるべく選び、パウロを異邦人への教役者とし、ペテロを割礼ある者らへの使徒とする。そして、あなたがた、こうした栄誉ある賜物を得ていない人々は、この《主人》の問いに含まれている偉大な真理を学ばなくてはならない。「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか」。

 もう1つ別の栄誉ある賜物がある。ことばの賜物である。雄弁は、他のあらゆるものにまして、人々に対する力がある。もしある人が大群衆に及ぼす力を欲しているとしたら、その人は彼らの心に触れ、彼らの耳をつなぎとめることを求めなくてはならない。一部の人々は、なみなみと知識を満たした器のようでありながら、それを世に対して発散するすべを全く有していない。彼らは学問のあらゆる宝石に富んでいながら、それを雄弁という黄金の指輪に嵌めるしかたを知らない。えり抜きの花々を集めることはできるが、それをつづり合わせて、甘やかな花輪とし、賞賛する者の目の前に差し出すすべを知らない。これはなぜだろうか? やはり私たちは云う。神の《主権》が、この栄誉ある賜物の分配においても示されているのである。おゝ、キリスト者たる人よ。ここで学ぶがいい。もしあなたに賜物があるとしたら、その栄誉を《救い主》の足下に投げ出すということを。また、もしそれを所有していないとしたら、不平を云わないようにするということを。神は、その恩顧を差し止めるときも、分け与えるときも、等しくいつくしみ深いお方であることを思い出すがいい。もし、あなたがたの中のだれかが高く上げられるとしたら、その人は高ぶらないようにするがいい。もしだれかが卑しい立場にあるとしたら、その人を蔑んではならない。というのも、神はあらゆる器に、ご自分の量られた恵みを与えられるからである。あなたの量りに応じて神に仕え、みこころのままにふるまわれる《天の王》をあがめるがいい。

 IV. 第四のこととして私たちが注意したいのは、《有用さ》という賜物である。私はしばしば、用いられていないからといって兄弟の教役者たちを非難するという間違いを犯してきた。私は、あなたがたは熱心になりさえすれば、私と同じくらい用いられることができたはずだと云ってきた。しかし、確かに、世の中にはもっと熱心で、もっと大きな実をもたらしている人がいれば、同じくらい不断に労苦していながら、はるかに少ない実しかもたらしていない人もいるに違いない。それゆえ、私の非難を撤回させてほしい。そして、そのかわりに、有用さという賜物は神の《主権》の結果であると主張させてほしい。私たちは全力をあげて労苦するかもしれないが、神だけが私たちを用いられる者とすることができる。私たちは、風が吹くときには、あらゆる帆布を張ることができるが、私たちが風を吹かせることはできない。

 また神の《主権》は、教役者の賜物の多様さのうちにも見てとれる。ある教役者のもとに行くと、良い食物で満腹させられる。だが別の教役者は、鼠一匹すら養えないようなものしか有していない。その人はやたらと叱責はするが、神の子どもの欲する食物は全く差し出さない。別の人は神の子どもを慰めることはできるが、信仰後退者を叱責できない。その人は、時として必要とされる、真剣な痛打を加えるのに十分な精神的強さを有していない。だが何がその理由なのか? 神の《主権》である。ある人は大槌を振り回すことはできるが、砕かれた心を癒すことはできない。そうしようとしても、象が針に糸を通そうとするようなものであろう。そのような人は叱責することはできる。だが、痛んだ良心に油と葡萄酒を塗ってやることはできない。なぜか? 神がその賜物を与えておられないからである。また別の人は常に体験的な神学を説教している。そして、ごくまれにしか教理に触れることがない。別の人は教理ばかりで、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方[Iコリ2:2]について多くを説教することができない。別の人は常にイエスを――ほむべきイエスを――宣べ伝える。例えばホーカー派の人々である。そして多くの人は云う。おゝ! あの人たちは、あまり体験に即した教えをしてはくれない。神の子どもたちを悩ませる腐敗の深い経験に分け入ってはくれない、と。しかし、私たちはこうした人々をこのことゆえに非難するものではない。あなたは、ある人が、あるときは生きた水の流れをほとばしり出させるのに、別のときには全く無味乾燥きわまりないことに気がつくであろう。ある安息日には、その説教によって清新にされて会堂を出るが、次の安息日には何の善も得られない。こうしたすべてには《神の主権》があり、私たちはそれを認めて、あがめることを学ばなくてはならない。私は先週、ある折に大群衆に向かって説教していた。そして、その説教のある部分で、人々は非常に大きく感動していた。私は神の力がそこにあるのを感じた。あるあわれな人など、罪に対する神の御怒りのゆえに、身も世もなく悲鳴を上げた。だが、別のときには、同じ言葉が口にされ、教役者の心の願いも全く同じであったにもかかわらず、何の効果も生み出されなかったのである。私は云う。私たちは、こうしたすべての場合を《神の主権》によるものとしなくてはならない。私たちは、あらゆることに神の御手を認めるべきである。しかし、現在は、いまだかつて地上を踏みしめていた中でも最も不敬虔な世代であると、まことに私はそう信ずる。私たちの父祖たちの時代には、にわか雨があるたびに、神がそれを降らせなさったのだと宣言されたものである。そして彼らは雨のために祈り、日光のために祈り、収穫のために祈っていた。乾草堆が燃えたときも、飢饉が土地を荒廃させたときも、私たちの父祖たちは、主がそうなさったのだと云った。しかし、今や私たちの哲学者たちがあらゆることを説明しようとし、あらゆる現象を第二原因のせいにしようとしている。しかし、兄弟たち。私たちはあらゆる物事の起源と方向づけを主に、主だけに帰すようにしようではないか。

 V. 最後に、神の《慰めを与える賜物》である。おゝ、神の家の儀式の中で、また益を与える牧会活動において、私たちの中のある者らは、いかに慰めを与える賜物を楽しんでいることか。しかし、いかに多くの教会が、そうした類の牧会活動を有していないことか。だが、なぜ私たちはそれを有しているのだろうか? 神が違いを生じさせておられるからである。この場にいるある人々には強い信仰があり、不可能事を前にしても笑うことができる。私たちは、いかなる悪天候の中でも――時化のときも凪のときも同じように――笑える。しかし、弱い信仰しかない他の人々は、あらゆる藁しべを踏み越えるたびに倒れる危険がある。ある人は憂鬱な気質をもって生まれ、凪のときにすら嵐が起ころうとしてるのを見てとる。その一方で、別の人は朗らかで、いかにどす黒い雲にも銀色の縁取りがあるのを見てとり、幸せにしていられる。しかし、なぜそうなるのだろうか? 神から出た、慰めを与える賜物のゆえである。そればかりでなく、私たち自身が時に応じて変化することに注目するがいい。ある時期の私たちは、天との祝された交流を有しており、幕の内側をのぞくことが許される。――だが、じきにこうした喜ばしい楽しみは過ぎ去る。しかし、私たちはだからといって不平を云うだろうか? 神はご自分のものをご自分の思うようにしてよいではないだろうか? ご自分の与えたものを取り戻してよいではないだろうか? 私たちの所有する慰めは、私たちのものとなる前は神のものだったのである。

   「よし汝れすべて 取らせ給えど
    なお我れ云わじ 逆らい言(ごと)を。
    それらわが手に わたる前には
    ことごとく汝が ものなれば」。

いかなる御霊の喜びも、――いかにすぐれて祝福された望みも、――いかなる強い信仰も、――いかなる燃える願いも、いかなる親密なキリストとの交わりも、神の賜物でないものはなく、神に帰すことのできないものはない。私が暗黒の中にあり、失意に苦しむときも、私は上を見上げて、神は夜にもほめ歌を与え給う、と云う[ヨブ35:10]。また私が喜びを覚えるとき、私は、私の山は世々限りなく保たれる、と云うであろう[詩111:8]。主は《主権》のエホバであられる。それゆえ、私はその足下にひれ伏し、もし私が滅びるとしたら、そこで滅びるであろう。

 しかし、云わせてほしい。兄弟たち。この《神の主権》の教理は、あなたを怠惰のうちに座り込ませるどころか、神にあって私が希望するところ、あなたがたをへりくだらせ、あなたがたにこう云わせるよう仕向ける傾向があるのである。「私は、あなたのすべてのあわれみの、最も小さなものを受けるにも値しません。あなたには、思い通りに私に対して行なわれる権利があるのを私は感じています。もしあなたが、この私、無力な虫けらを押しつぶすとしても、あなたの名誉は汚されません。また私には、私に同情してくださいとあなたに求める何の権利もありません。ただ、あなたのあわれみを欲していますと申し上げるだけです。主よ。あなたのお心1つで、あなたは赦すことがおできになります。そして、あなたの恵みをこれほど欲している者はいません。私はからっぽですから、天のパンで満たしてください。私は裸ですから、あなたの衣を着せてください。私は死んでいますから、いのちを与えてください」。もしあなたが、あなたの魂を尽くし、思いを尽くして、このように強く訴え続けるならば、エホバは《主権者》ではあられるものの、その王笏を伸ばして、救ってくださる。そしてあなたは生きて、神を礼拝することになるであろう。聖なる飾り物を着けて、神の恵み深い主権を愛し、あがめることになるであろう。聖書は宣言している。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。キリストだけを信じて、父、子、聖霊の名によって水のバプテスマを受ける者は、救われる。だが、キリストを拒絶し、キリストを信じない者は罪に定められる。それが《主権》の定めであり、天の宣言である。――その前にこうべを垂れ、それを認め、それに従うがいい。そのとき、神はあなたを祝福される。

 

神の主権[了]

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