HOME | TOP | 目次

福音伝道

NO. 76

----

----

1856年4月27日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「こうして 、主のみことばは、この地方全体に広まった」。――使13:49


 私は、この聖句についてだけ語るつもりはない。説教する際に聖句を取り上げるのは昔ながらの習慣であるため、1つの聖句を取り上げはしたが、私は、全体として1つの主題について語りたいと思う。それは、あなたがたの関心の的となるに違いないもの、また、これまで多年にわたり関心を寄せてきたはずのもの、――すなわち、福音伝道という主題である。私たちはこう確信している。世に福音を告げ知らせることは、教会の絶対的な義務であるとともに、卓越した特権であり、あなたがたはみな、この件に関して心を1つにしている、と。私たちは、神が媒介的手段なしにみわざを行なわれるとは思わない。むしろ、この世を回心させるみわざにおいては常に手段を用いてこられた以上、今なお神は同じことをなさっておられるであろうし、いずこにおいても教会が、人々の耳に届く限り、全力を尽くして真理を広めるのはふさわしいことだと考える。私たちは、この点について意見が一致している。一部の教会では意見が分かれているかもしれないが、私たちはそうではない。私たちの信ずる諸教理は、人を無関心と怠惰に導くものだと思われているが、常にこの上もなく実際的なものであることを証ししてきた。福音宣教の父祖たちは、みな神の恵みの諸教理を熱心に愛する人々であったし、私たちの信ずるところ、宣教事業を大いに支持する人々は、もしそれが成功するものだとしたら、常に神の真理を固く、また大胆に保持していながら、それに伴う火と熱心を有し、それを至る所で広めたいと願う人々であるに違いない。しかし、私たちの意見が大きく分かれる1つの点がある。それは、なぜ私たちは、私たちの宣教の働きにおいてこれほど僅かしか成功していないのかという理由についてである。ある人々は、その成功は媒介者に釣り合ったものであって、私たちが今以上に成功することはできなかったのだと云うかもしれない。私は、こうした人々とはほど遠い意見をいだくものであり、彼ら自身、《全能の》神の御前で膝まづいているときに、そう云い表わすだろうとは思わない。私たちは、期待しえたほどには成功していない。いわんや使徒たちほどの成功など見られない。私たちは、パウロやペテロがおさめた成功のようなものに全く欠けており、現代の私たちに先立つ卓越した人々、国々の全土に福音を伝え、何万もの人々を神に立ち返らせた人々のおさめた成功にすら達していない。さて、その理由は何だろうか? ことによると、私たちは目を上に向けて、その理由を神の主権のうちに見いだせると考えるかもしれない。神はその主権によって御霊を差し控え、以前のようにはその恵みを注ぎ出してくださらなかったのだ、と。私は、そのように語る人の正しさを認めるのに決してやぶさかではない。私はあらゆることが《全能の》神によって定められていると信ずるからである。私は、神が私たちの成功のうちのみならず、私たちの敗北のうちにもおられると信ずる。吹き荒れる暴風の中と同様、よどんだ大気の中にもおられると信ずる。大水の中と同様、引き潮の中にもおられると信ずる。しかし、それでも私たちは、その原因を自らのうちに見つめなくてはならない。シオンが陣痛を起こすときには子らを産む[イザ66:8]。シオンが熱心になるとき、神はご自分のみわざに熱心であられる。シオンが祈り深くあるとき、神は彼女を祝福なさる。それゆえ私たちは、自分たちの失敗の原因を無闇に神のみこころのうちに探してはならない。むしろ私たちが見つめなくてはならないのは、私たち自身と使徒時代の人々との違いであり、使徒たちの説教の途方もない結果とくらべた場合、なぜ私たちの成功がこれほど取るに足らないものなのかということでもある。私は、私たちの聖なる信仰が、当時ほどには成功していない理由をいくつか示せると思う。第一のこととして、私たちは使徒的な人々を有していない。第二のこととして、人々は使徒的なしかたで自分の働きに取り組んでいない。第三のこととして、人々を支援する使徒的な教会がない。第四のこととして、私たちは、使徒的な聖霊の影響力を、古の時代に人々が有していた程度には有していない。

 I. 第一に、《近年の私たちは、使徒的な人々をほとんど有していない》。私は、ひとりもいないとは云わない。そうした人々は、ちらほらと点在しているであろう。だが不幸にして、そうした人々の名前は決して聞こえてこない。その人は、世の前に飛び出して来ず、神の真理の説教者として注目されることがない。かつて私たちは一個のウィリアムズを有していた。彼は真の使徒で、自分のいのちを全く惜しまずに島々を巡り歩いた。だがウィリアムズはその報いへと召されてしまっている。私たちは一個のニブを有していた。彼は熾天使のごとき熱心さをもって、自分の《主人》のために辛苦を忍び、抑圧された奴隷を自分の兄弟と呼ぶのを恥じなかった。だが、ニブもまた、その安息に入っている。もうひとりか、ふたり、銘記されるべき尊い名の人々が残ってはいる。私たちは彼らを熱烈に愛し、彼らのための祈りを常に天に立ち上らせるものである。私たちは、自分の祈りの中で常に云う。「神よ、モファットのごとき人々を祝福してください! 熱心に辛苦を忍び、その労苦によって多くの実を結んでいる人々を祝福してください!」 しかし、あなたの周囲を見回すとき、どこでそうした人々を数多く見いだせるだろうか? 彼らはみな善良な人々である。彼らのあら探しをするつもりはない。彼らは私たちよりも優秀である。私たち自身、彼らとくらべれば、縮まって無となってしまう。だが、それでも彼らについて云わなくてはならない。彼らは、その父祖たちにまさっていない。彼らは多くの点であの力強い使徒たちと異なっている。これは彼らでさえ即座に認めるところであると思う。私は宣教師たちだけについて語っているのではなく、教役者たちについても語っている。というのも私は、外国においてと同様、英国においても同じくらい、福音の広まりについて嘆くべき理由、聖霊と火に満たされている人々に欠けていることを惜しむべき理由があると思うからである。

 最初のこととして、私たちは使徒的な熱心をいだく人々を有していない。きわめて異様なしかたで、天からの直接的介入によって回心したパウロは、その時点から熱心な人となった。それまで彼は、自分の罪と自分の迫害において常に熱心であった。だが、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」[使9:4]、という天からの声を聞き、使徒という偉大な職務を受け、異邦人に対する選びの器として遣わされた後の彼が現わしたほど深甚な、すさまじいばかりの熱心は、ほとんど思い浮かべることができない。彼は、食べるにも、飲むにも、何をするにしても、すべてを彼の神の栄光のために行なっていた。彼は決して一時も無駄にしなかった。彼の時間は、自分の手で必要なもののために働くか、その手を会堂で、アレオパゴスで、あるいは群衆の注意を引くことのできる至る所で上げるかするために用いられていた。彼の熱心さは、徹底的に真剣なもの、燃えているものであり、彼は、(不幸にして私たちがしているように)自分を小さな範囲に抑えておくことができず、みことばをあらゆる場所で宣べ伝えた。彼にとっては、ピシデヤの使徒であると云い渡されただけでは十分ではなかった。彼はパンフリヤへも行かなくてはならなかった。パンフリヤとピシデヤにおける偉大な説教者であるだけでは十分ではなく、アタリヤにも行かなくてはならなかった[使13:24-25]。そして小アジヤ全域で宣教した後では、船に乗ってギリシヤに行き、そこでも宣教しないではいられなかった。パウロがその夢にマケドニヤの人々を見て、「来て、私たちを助けてください」[使16:9]、と云うのを聞いたのは、一度だけではなかったと私は信ずる。むしろ日夜、彼はその耳におびただしい数の魂からの叫びを聞いていたと思う。「パウロ、パウロ。来て、私たちを助けてください」、と。彼は宣教しないではいられなかった。彼は云う。「もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」[Iコリ9:16; ガラ6:14]。おゝ! もしパウロが説教している姿を見ることができたとしたら、あなたは、一部の教役者たちが説教している場から出て行くようには出て行かなかったであろう。この人は本気で信じてもいないことを語っているのだろう、となかば確信しながら出て行くようなことはなかったであろう。彼の眼差しは、口など使わなくとも説教を語っていた。また彼の口は、決してよそよそしく、堅苦しいしかたで説教するようなことはなく、一語一語が圧倒的な力とともに、その聴衆の心の上に落ちてきた。彼は力をもって説教していた。なぜなら彼は徹底的に真剣だったからである。彼を見るとき、人は確信した。ここにいる人は、自分になすべき務めがあること、それをどうしてもしなくてはならないことを感じており、それをしないままでは自分を抑えておけないのだ、と。彼のような種類の説教者は、講壇の階段を下りてそのまま棺桶に入り、神の前に立って最後の精算をすることになっても全く気に病まないだろうと思われた。彼はそのような説教をしていた。このような人々がどこにいるだろうか? 私は自分でもそのような特権を要求できないと告白する。そして私は、人々の魂に対する真剣な、深い、熱情のこもった切望という点で、この標準に達しているような説教を1つでも聞くことはほとんどない。

 私たちは今、エルサレムを見下ろして涙することができた《救い主》の目のような目を全く有していない。常にこう叫んでいたように思われる、この真剣な、熱情あふれる声のような声をほとんど有していない。「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。「ああ、エルサレム、エルサレム。わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」*[マタ11:28; ルカ13:34]。もし福音の教役者たちが、講義をしたり、その時間のあらかたを文学的活動や政治的活動につぎこんだりするかわりに、その説教の務めにもっと打ち込んでいるとしたら、彼らは神のことばを宣べ伝え、あたかも自分のいのち乞いをするかのようにそれを説教しようとするであろう。あゝ! 私の兄弟たち。そのときには、私たちは大きな成功を期待できよう。だが、私たちが気の抜けたようなしかたで自分の務めに携わっているうちは、また、こうした古の人々を特徴づけていたような熱心さ、真剣さ、固い決意を有していないうちは、それは期待できない。

 それから、さらに私は、現代の私たちには、パウロのように自分の信仰について説教できる人々がいないと思う。パウロは何をしただろうか? 彼はピリピに行った。ひとりでもそこに知り合いがいたのだろうか? ひとりもいなかった。彼には自分の《主人》の真理があり、彼はその力を信じていた。彼は供回りなど引き連れず、華やかさも、けばけばしさも、行列も伴っていなかった。内側に柔らかな詰め物をした講壇に上り、お上品な会衆に語りかけるようなことはしなかった。むしろ町通りを歩いては、人々に宣べ伝え始めた。彼はコリントにも、アテネにも単身で赴き、ほむべき神の福音を徒手空拳で人々に告げた。なぜか? 彼は福音を信じており、福音が魂を救い、並みいる偶像をその王座から叩き落とすであろうことを信じていたからである。彼は福音の力に一片の疑いもいだいていなかった。だが近頃は、私の兄弟たち。私たちは自分の宣べ伝えている福音を信頼していない。いかに多くの人々が、福音を宣べ伝えていながら、それでは魂が救われないと考え、それがために、自分自身の考えをつけ足していることか。彼らの考えるところ、そうすることで人々はキリストにかちとられるというのである! 私たちの知っているある人々は、カルヴァン主義の諸教理を信じていながら、朝にはカルヴァン主義を説教し、晩にはアルミニウス主義を説教している。彼らは、神の福音が罪人たちを回心させないのではないかと思っているため、お手製の福音を編み出そうとするのである。自分の福音が人々の魂を救えると信じていないような者は、福音を全然信じていないのだと私は云いたい。もし神の真理が人々の魂を救わないのであれば、人間の虚偽がそうすることはできない。もし神の真理が人々を悔い改めに立ち返らせないとしたら、確かにこの世の中にそうできるものは皆無である。私たちは、福音が力強いものであると信ずるときにこそ、その力強さを目にするのである。私がこの講壇に立って、「私は、自分の宣べ伝えていることが真実であると知っている」、と云うと、この世は私を自己中心主義者だと云う。「あの青二才は独善的だ」、と。左様。そして、その青二才はそれを本気で信じているのである。それを誇りとしているのである。それを自分の取っておきの称号としているのである。というのも彼は、自分の説教していることを、この上もなく確かに信じているからである。私が心細げな足どりで講壇に立ち、自分があまり確信してもいないようなことを教えたり、罪人をたぶん救うだろうとは思うが、完全にはそう云い切れないようなことを教えたりするようなことは、決してあってはならない。人が自分の諸教理に信頼を置いているときこそ、そうした教理は勝ちをおさめる。というのも、信頼こそ勝利を獲得するものだからである。軍旗をつかみ、それを高く掲げる勇気を持つ者は、後につき従う者たちを確実に見いだすであろう。「私は知っている」、と云い、それを自分の《主人》の名によって大胆に、何の理屈もこねずに主張する者は、じきに自分の云うことに耳を傾ける人々を見いだし、人々は云うであろう。「この人は権威をもって語っており、律法学者やパリサイ人たちのようには語っていない」、と。これこそ私たちが成功していない1つの理由である。私たちは福音を信頼していないのである。私たちは教育のある人々をインドに遣わしては、バラモンを論破させようとしている。ばかばかしい! バラモンたちには好き勝手なことを云わせておくがいい。どこに私たちが彼らと議論すべき筋合いがあるだろうか? 「おゝ、ですが彼らは非常に知的で、非常に賢いのです」。それが私たちに何の関係があるのか。私たちは、彼らとの対決の際に、賢くなることを求めるべきではない。彼らの形而上学的な過誤と戦うのは、この世の人々にまかせておくがいい。私たちは単にこう云わなくてはならない。「これが真理である。これを信じる者は救われるが、これを否定する者は罪に定められるのだ」、と。私たちは、天来の権威的な証しという高い土地から降りる権利を有していない。そして、その土地を保ち、しかるべく天来の帯を巻いて出て行く――真理かもしれないものを宣べ伝えるのではなく、神が最も確実に啓示されたことを主張する――のでない限り、私たちが成功する見込みはないであろう。私たちには、自分たちの福音に対するより深い信頼が必要である。自分たちが宣べ伝えていることについて全く確信することが必要である。兄弟たち。私たちには父祖たちの信頼が欠けていると思う。私自身、信仰という点では、あわれな洟垂れ小僧であると感じる。左様。時として私は何でも信じられるような気がするが、ちょっとした困難が目の前に現われると、臆病になり、恐れる。私が心に不信仰をいだきながら説教するとき、私は不首尾な説教をしているのである。だが私が信仰をもって説教し、こう云えるとき――すなわち、「私は、私の神が語られたと知っている。同時に、神は私が語るべきことをお与えになる。そして私は、人の評価など頓着せずに、自分が真実と信ずることを説教するのだ」、と云えるとき――、そのとき神は信仰をご自分のものと認め、それにご自身の冠を戴かせてくださるのである。

 さらに私たちは、十分な自己否定を有していない。これも、私たちが勢いよく成長していない1つの理由である。私は、みことばを宣べ伝えようとして故国を離れ、嵐の吹きつのる大海原を越えていった立派な兄弟たちの自己否定を何1つけなすつもりはない。私たちは、彼らが栄誉を受けてしかるべき人々であるとみなすものである。だがそれでも私は問いたい。使徒たちのような自己否定は、今日どこにあるだろうか? 思うに、近年、教会がこうむった中でも最大の不名誉の1つは、先のアイルランド宣教である。人々はアイルランドに出かけて行った。だが、君子危うきに近寄らずとばかりに、この勇敢で大胆な人々は英国に舞い戻ってきた。それが、この件について私たちの云えるすべてである。なぜ彼らはもう一度出かけて行かないのだろうか? 左様、彼らはアイルランド人が彼らを「野次り立てた」という。さて、パウロが、その懐中から顕微鏡を取り出し、このようなことを云う小男を眺めている姿が見えるような気がしないだろうか? 「私はもうあそこへ行って説教することはしない。アイルランド人は私を野次ったのだから」。「何と!」、と彼は云う。「これが説教者なのか?――確かにこれは、何と小粒な教役者に違いないことか!」 「おゝ! ですが、彼らは私たちに石を投げつけたのです。あなたは彼らが私たちをどんなにひどい目に合わせたかご存じないのです!」 それをそのまま使徒パウロに告げてみるがいい。確かに恥ずかしくてそのようなことはできまい。「おゝ! ですが、ある場所では警察が邪魔をして、私たちの活動は暴動を引き起こすことでしかないと云ったのです」。これに対してパウロなら何と云っただろうか? 警察が邪魔をしたと! 私は、政府について頓着する権利が私たちにあるなど初めて知った。私たちの務めはみことばを宣べ伝えることであり、もし私たちがさらし台でさらしものにならなくてはならないとしたら、そこに横たわるのである。最終的にそれは何の害にもならないであろう。「おゝ! ですが彼らは、私たちの何人かを殺していたことでしょう」。まさにそこである。キリストを得るためなら、いのちなど少しも惜しいと思わなかったあの熱心はどこにあるのだろうか? 思うに、私たちの教役者たちの何人かが殺されていたとしたら、キリスト教は勢いよく成長していたことであろう。そのことで私たちがいかに嘆こうとも、また、私自身だれにも負けずに嘆くとしても、私は云いたい。彼らのうち十二、三人が殺害されることなど、炉辺や家庭を戦いとろうという戦闘に勝つために、私たちの人々が何百人単位で虐殺されることにくらべれば、大きな嘆きではないであろう。私は、このように聖なる戦闘において自分の血を流すとあれば、それが最も有益に流されたものとみなすであろう。かつて福音は、いかにして勢いよく成長したのだろうか? 福音のためにいのちを投げ出した人々がいたのではなかっただろうか? そして、他の人々が彼らの屍を踏み越えて勝利へと行軍していったのではないだろうか? それは今も同じではないだろうか? もし私たちが殺されるのを恐れるがために後退してよいとしたら、福音がいつ全世界に広まることになるかは天のみぞ知るであろう。――私たちは知らない。他の宣教師たちはどうしてきただろうか? 彼らは、凄惨きわまりない形の死をものともせずに、無数の危険の中でみことばを宣べ伝えてきたではないだろうか? 私の兄弟たち。もう一度云うが、私たちは決して難癖をつけているのではない。私たち自身、同じしかたで過ちを犯すかもしれない。だが、私たちは確実にこうした点においてパウロと似てはいない。彼がある場所に行くと、人々は彼を石打ちにし、死んだものと思った彼を引きずり出した。彼は云っただろうか? 「もう二度と私は自分をひどい目に遭わせるような所へは行くまい」、と。否。彼はこう云っている。「私は……ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります」[IIコリ11:24-25]。確かに私たちは使徒たちの自己否定を有していない。私たちは、実戦経験のない軍人にすぎず、ハイドパークあたりで威を張るしかない戦士である。私は、自宅に戻って自分が何と快適で幸せかを考えるとき、自分に向かってこう云う。「私は何と僅かしか私の《主人》のために行なっていないことか! 私は、主の真理のために自分を否定できず、そのみことばを宣べ伝えつつどこにでも行けないのを恥と思う」、と。私があわれみの目で眺めるのは、「そんなにしばしば説教してはいけません。早死にすることになりますよ」、と云うような人々である。おゝ、私の神よ! このようなことに対して、パウロなら何と云ったであろうか? 「からだをいといなさい。あなたは無謀ですよ。熱狂的ですよ」。私は、自分とこうした古の人々のひとりをくらべるとき、こう云う。「おゝ、キリスト者であると自称しながら、私たちの信仰のわざと愛の労苦を止めようとするような人々を見いだすとは! それも、神のことばを宣べ伝えることによって、いやまさって強くなるはずの『からだ』を思いやるということだけで」。

 しかし、私はある人が囁いているのが聞こえる。「あなたは、少しは情状酌量すべきですよ」。私の愛する方々。私はあらゆる事情を斟酌している。私は、こうした兄弟たちを責めているのではない。彼らは善良な性質の人々である。私たちは、「みな高貴な人たち」である。だが私は、ただこのことだけを云いたい。パウロとくらべて私たちは、無以下であり、つまらぬ者である。ちっぽけな、取るに足らない、小人国の生き物であり、あの古の巨人たちとは、とうていくらべものにならない。

 ことによると、私の話を聞いている方々のひとりは、こうほのめかすかもしれない。これだけが唯一の原因ではない、と。そしてその人は指摘する。「もう少し大目に見るべきだと思います。現在の教役者たちは、奇蹟を行なえないのですから」。よろしい。私はそのことも考えに入れておいたし、確かにこれは不利益である。だが私はそれを、さほど大きなものだとは見なさない。というのも、そうだとしたら、神はそのような不利益が存在するのをお許しにならなかったであろうからである。神はそうした賜物を教会の揺籃期にお与えになったが、今の教会は、もはやそれを必要としていない。奇蹟を過大評価しては間違いである。その1つは何だろうか? 使徒たちがどこへ行こうと、彼らはその民族の言語で語ることができた。よろしい。当時、パウロは、ここからヒンドスタンに歩いて行く必要があったであろう。私たちはヒンドスタン語を学ぶことができるし、現在供されている交通手段によって、非常に短時間で同地に行くことができる。また奇蹟が行なわれることは、人々の間に福音を知らせるために必要であった。そのことによって、あらゆる人が福音を語り草にしたであろう。だが今は、私たちを助ける印刷機がある。私がきょう語ることは、六箇月以内にアレゲーニー山脈を越えたところで読まれるであろう。他の教役者たちも、それと同じである。彼らが口にしたり行なったりすることは、たちまち増刷され、至る所で配布される。それで彼らは、自分のことを知らせる便益を有しており、それはさほど奇蹟の力に劣ってはいない。さらに、私たちには使徒たちに大きくまさる点がある。彼らは、どこへ行こうと迫害され、時には処刑されることもあった。だが今は、時たま宣教師が虐殺されるのを聞くこともあるが、そうしたことは、ごくまれにしか起こらない。いずこであれ英国人が殺戮されれば、たちまち艦隊が派遣され、その犯罪が膺懲されるであろう。世界のいずこであれ、英国人は尊重される。英国人は、偉大なカエサルの刻印を身に帯びており、真の国際人――世界市民なのである。このことは、あのあわれな、蔑まれていたユダヤ人たちについては云えなかった。パウロに対しては何がしかの敬意が払われていたかもしれない。彼はローマ市民だったからである。だが、その他の使徒たちにはいかなる敬意も払われていなかった。いま私たちが処刑されれば、途方もない騒動になる。アイルランドで宣教師が二三人殺されれば、国中が大騒ぎになり、政府が介入せざるをえなくなるであろう。国の番兵が武器を持って立ち上がり、それから私たちは武装警官隊に囲まれて説教することができるであろう。そのようにして、同国を行き巡り、司祭たちを怒らせ、反キリストを驚かせ、迷信をその巣窟へ永遠に追いやることであろう。

 II. 第二のこととして、《私たちは、使徒的なしかたで自分たちの働きに取り組んでいない》。どういうことか? 左様。まず最初に、多くの場合、教役者や宣教師たちはあまり十分に説教をしていない、という不満がある。彼らは腰を下ろしては解釈し、学校を設立し、あれや、これや、他の何かを行なっている。私たちはこのことに何もけちをつけるものではないが、これは彼らが専心すべき働きではない。彼らの務めは説教することであり、もし彼らがより多く説教するならば、より大きな成功が望めるであろう。チェンバレン宣教師は一度ある場所で説教した。そして、その後何年も経ってから、その一回の説教によって生まれた弟子たちがそこで見いだされたのである。ウィリアムズはどこへ行こうと説教した。そして神は彼を祝福された。モファットはどこへ行こうと説教した。そして彼の働きは神によって認められた。さて私たちには私たちの諸教会があり、私たちの印刷機があり、それらのために多額の金銭が費やされている。これは良いことである。だが、最も大切な善を行なってはいない。私たちは神が定められた手段を用いておらず、それゆえ勢いよく成長することが期待できない。ある人々は、近頃の英国ではあまりにも説教が行なわれすぎると云う。よろしい。時代の傾向は説教をけなすことにある。だが、「宣教のことばの愚かさ」[Iコリ1:21]こそ、この世を変えるべきものである。人は、「説教を少なくすれば、その分多く学びができる」、と云うべきではない。学びは、一定の教会に赴任していれば、それなりに十分行なう必要があるが、使徒たちは、私の理解するところ、何の学びも必要とせずに、立ち上がってはキリスト教信仰の単純にして枢要な真理をはっきりと述べた、それは、1つの聖句を取り上げるのではなく、真理の目録すべてを1つ1つ説き明かしていった。そのように、巡回伝道の働きにおいて私たちは、1つの主題を詳細に論ずるべきではないと思う。そのようにすると学びが必要になるからである。だが、どこへ行こうと、真理をすべて分け与えるならば、それが有益であることに気づくであろう。このようにして私たちは、常に、手渡すべき言葉と、いつなりとも人々を教えるべき真理を見いだすはずである。

 次になされつつある大きな間違いと思われるのは、私たちの宣教の天来の性格を確言することをせず、真理に堅く立つことをしないことである。真理は、人間によって証明されるべきものではなく、信じられるべきものとすべきである。また、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]、と常に提示し続けないという間違いもある。私がしばしば嘆かされるのは、私たちの宣教師たちがバラモンたちと議論をしたという記事を読むときである。時には、その宣教師は自分の癇癪を抑えたのでバラモンを打ち負かした、それで福音はその議論によって非常な栄誉を獲得した、と云われることがある。だが私は、福音がその論争によって引き下げられたと取るものである。その宣教師はこう云うべきであると思う。「私がやって来たのは、天と地の《唯一の》神が云われたことをあなたがたに伝えるためです。そして、それをあなたがたに告知する前に云っておきます。あなたがそれを信ずるならば、あなたは救われます。また信じなければ、罪に定められます。私があなたに告げに来たのは、神の御子イエス・キリストが人となり、あわれで無価値な人間のために死なれたということ、またその仲保と、死と、苦しみによって、神の民が解放されるということです。さて、もしあなたが私に耳を傾けるとしたら、あなたは神のことばを聞くことでしょう。もしそうしないなら、私はあなたがたに対する証言として、足のちりを払い落として、どこか他の場所へ行きます」、と。あらゆる詐欺行為の歴史を見るがいい。それが私たちに示しているのは、権威を主張すれば、その分だけ着実に大きな地歩を占める、ということである。いかにしてマホメットは、あの時代にあれほど強大な宗教を樹立できたのだろうか? 彼はひとりきりだった。そして市場に行って、「私は天からの啓示を受けた」、と云った。それは嘘だったが、彼は人々を説得してそれを信じさせた。彼は云った。「私は天からの啓示を受けた」。人々は彼の顔を見た。彼らは、自分の云っていることを信じきった真剣な顔つきで彼らを見つめている人物を見た。そして、彼らの中の五、六人が彼に加わった。彼は、自分の云ったことを証明しただろうか? 否である。彼は云った。「あなたは、私の云うことを信じなくてはならない。さもないと、あなたのためには何のパラダイスもないのだ」。そうした類の事がらには力があり、彼がどこに行こうと、彼の言明は信じられた。証明を根拠にしてではなく、アラーから出ていると彼が宣言した、彼の権威を根拠にして信じられた。彼がその詐欺を最初に告げ知らせてから一世紀のうちに、一千もの軍刀が一千もの鞘から閃き放たれ、彼の言葉はアフリカ、トルコ、アジヤ、そしてスペインにおいてさえ告げ知らされた。この男は権威があると主張した。――彼は天来の権威があると主張した。それゆえ彼には力があった。また、モルモン教の躍進を取り上げてみるがいい。その力はどこにあったのだろうか? ただ、このこと――天からの力という主張である。その主張がなされるや、人々はそれを信じ、今や彼らは、地上の居住可能な地域のほとんどあらゆる国に宣教師を遣わしており、モルモン経は多くの言語に翻訳されている。これほど見え透いた迷妄、これほど不細工な偽作、これほどあからさまな虚偽は決してありえないのに、この単純な権威の主張が、それに力を帯びさせる手段となってきたのである。さて、私の兄弟たち。私たちには力がある。私たちこそ、神に仕える教役者であり、私たちは神の真理を宣べ伝えている。天と地の偉大な《審き主》が私たちに真理を告げてくださったのである。では、私たちは、ちりの上の虫けらと議論をするようなことと何の関わりがあるだろうか? なぜ私たちが彼らを恐れおののくべきだろうか? 立ち上がって云おうではないか。「私たちは生ける神のしもべであり、私たちは神が私たちに告げてくださったことをあなたがたに告げます。そして、あなたに警告します。もしあなたが私たちの証言を拒絶するなら、審きの日にはツロやシドンの方があなたよりもましでしょう」、と。たとい人々がそれを退けるとしても、私たちは自分の務めを行なったのである。私たちは、人々を信じさせることとは無関係である。私たちの務めは、あらゆるところでキリストを証しし、福音をあらゆる人々に宣べ伝え、告げ知らせることである。

 しかし、聖書の中には、もし通常の翻訳が正しいとしたら、私が述べてきたことに反するように見える箇所が1つある。――それは、パウロが、「ツラノの講堂で論じた」、という箇所である[使19:9]。しかし、これは「ツラノの講堂で対話した」と訳した方がよい。アルバート・バーンズは云う。「『論じた』、というのは幸いな翻訳ではない」。というのも、その言葉は、そのような観念を全く伝えていないからである。イエスが宣教していたときには、「対話していた」。ある人がやって来て、「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」[ルカ10:25]、と云ったとき、主は彼と「対話された」。別の者が主に向かって、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」[ルカ12:13]、と云ったとき、キリストは彼と議論するのではなく、「対話した」。主の通常のなさり方は人々に語りかけることであったが、めったに人々と議論することはなかった。私たちは、キリストを宣べ伝えることだけしようとするなら、キリスト教を弁護するために書かれた本をすべて捨ててよいであろう。もし私たちが、前哨地点を防備するかわりに、「そこは神が引き受けてくださる」、と云って、ただちに敵めがけて打って出るとしたら、それでよい。そのとき、神の聖霊によって、私たちは破竹の勢いで勝ち進むはずである。おゝ、神の教会よ! 自分は無敵だと信ずるがいい。そのとき、あなたは無敵となる。だが、恐れおののき続けていれば、あなたは負かされてしまう。あなたの頭を上げて云うがいい。「私は神の娘です。キリストの花嫁です」、と。立ち止まってそれを証明しようとしてはならない。そう確言するがいい。国中を行進するがいい。そうすれば王も君主たちもあなたの前にこうべを垂れるであろう。なぜなら、あなたは自分の古の武勇を身につけ、あなたの古の栄光を帯びたからである。

 私がここでもう1つ言及しておきたいのは、私たちが働きを行なうやり方である。残念ながら、私たちは、巡回という天来の方法を十分有していないと思う。パウロは偉大な巡回伝道者であった。彼がある場所で宣べ伝えると、十二人の回心者がそこに起こった。彼はすぐさま教会を作った。五百人集まるまで待っていたりしなかった。むしろ十二人いれば、彼は別の場所へ出かけていった。ひとりの聖い婦人が彼を家へ連れて行った。彼女には息子と娘があった。彼らは救われてバプテスマを受けた。――そこに別の教会ができた。それから彼は旅を続けた。彼がどこへ行こうと人々は信じてバプテスマを受けた。どこで彼が信ずる一家族に出会おうと、彼または彼の同行者は全家族にバプテスマを授け、先に進んで行き、常に教会を形成し、その上に立つ長老たちを任命していった。近年の私たちは、ある場所に行っては腰を落ち着け、そこを持ち場として、その回りでちびちびと働き、これが成功する道だと考える。否、否! 大陸を荒らし回るがいい。大きなことを試みるがいい。そうすれば、大きなことがなされるであろう。しかし、彼らは云う。もし人がある場所を通り過ぎるだけだと、それは夏のにわか雨のように忘れ去られ、すべてに湿り気を与えはしても、何も満足させないであろう、と。しかり。だが、あなたは神の選びの民がそこにどのくらい多くいるかわからないのである。あなたが1つの場所に立ち止まる権利はない。一直線につき進むがいい。神の選民はどこにでもいる。私は、この英国という国を巡回して歩けないとしたら抗議する。私は説教することに耐えられまい。もし私が常にここで説教しているとしたら、あなたがたの中の多くの方々は福音によってかたくなになるであろう。私は、ここでも、あそこでも、いかなるところでも、あちこち巡り歩くことを愛している。私の最も高い野心は、全国を渡り歩きながら、1つの場所に本拠地を置いておくことである。私は、巡回伝道は神の大いなるご計画であると主張する。一箇所にとどまる教役者や牧師たちもいるべきだが、使徒たちに似ている者らは、いま行なっているよりもいやまさって巡回すべきである。

 III. しかし私が云わなくてはならない第三のことがあり、それは、私たちの中のある者らを痛打するであろう。すなわち、《私たちは使徒的な教会を有していない》。おゝ! もし使徒的な教会を見たことがあったとしたら、それは私たちのいずれかの教会と何と異なったものに見えたであろう! ほとんど私は、光と闇ほども違うと云いたくなる。夏の日照りで干上がった小川の河床と、常に滔々と流れ、常に満々と水を満たし、常に深く澄みわたり、常に海へ流れ込んでいる大河ほども違うと云いたくなる。さて、彼らとくらべるとき、私たちの祈り深さはどこにあるだろうか? この場所でも、私たちは祈りの力のいくばくかは知っていると思うが、私たちは、彼らが祈っていたように祈っているとは思わない。彼らは、「家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し」ていた[使2:46-47]。概して教会の中には、ひとりとして生ぬるい者などいなかった。彼らは自分の魂を全く神にささげていた。そして、アナニヤとサッピラが代金を分割したとき、彼らは彼らの罪ゆえに打たれて死んだ。おゝ! もし私たちが彼らのしていたように深く、また真剣に祈るとしたら、私たちは大きな成功を手に入れるはずである。私たちがこの場所で得たと云えるいくばくかの成功は、全く神の下にあって、あなたがたの祈りによるものであった。そして私はどこへ行こうと、私には祈っている教会員たちがいると誇ってきた。他の教役者たちにも、祈っている教会員を有させるがいい。宣教師たちには、教会からのできるだけ多くの祈りを有させるがいい。そして、他の条件が等しければ、神は彼らを祝してくださり、そこでは今まで以上にキリスト教が大きく勢いよく成長するであろう。

 私たちは、使徒的な様式の気前のよさがない。使徒たちの時代には、彼らはその全財産をささげた。そのとき、それは彼らに要求されたのではないし、今もそうされてはいない。だれもそのようなことを求めようなどと考えてはいない。それでも、私たちはもう一方の極端に走ってしまっており、多くの人々は全く何もささげていない。何千何万もの富を有する人々は、何不自由なく暮らしているにもかかわらず、年がら年中自分の家族のことばかり考えており、彼らの隣に座っている女中の少女と同じくらいのものしかささげていない。よく云われることだが、キリスト教会の教会員たちは、自分たちの富に比例したささげものをしていない。私たちが献金するのは、それがお上品な、体裁の良いことだからである。私たちの中の大多数の人々は、神の御国の進展を愛するがゆえに献金していると思いたい。だが、私たちの中の多くの者らはこう云う。「あそこに貧しい煉瓦職人がいる。一週間ずっと働いて、ようやく妻子を養うに足るだけのものを稼いでいる。彼は1シリング[1/20ポンド]をささげるであろう。さて私は一週間で何十ポンドも得ている。――私は富んでいる。――どのくらいささげようか。そうだ、半クラウン[2シリング6ペンス]献金することにしよう」。別の人は云う。「私は今朝は十シリング献金しよう」。さて、もし彼らが自分たちの富を彼とくらべて量ったなら、彼らは見てとるであろう。彼がぎりぎり必要な生活費を越えて残されたすべてをささげているのに、彼らは比較的全く何もささげていないということを。私の兄弟たち。私たちは半ばキリスト者ではない。それこそ私たちが半分も成功を得ていない理由である。私たちはキリスト教化されている。だが私は、私たちが徹底的にそうなっているかどうかを問いたい。神の御霊は、この古の時代のいのちと、火と、魂を与えるほどには、私たちのうちに入っておられない。

 IV. しかし最後に、ここまで云われた他の事がらの結果として、また、ことによると、部分的にはそれらの原因として、《私たちは、使徒たちに伴っていたほどには聖霊を有していない》。私は、神がお望みになりさえすれば、なぜ今朝、私が立って説教するときに、それがこの場にいるあらゆる魂の回心をもたらす手段となっていけないのか、いかなる理由も考えつけない。もし御霊なる神が注ぎ出されるとしたら、私が明日ある説教を語って、それがそれを耳にしたすべての人々の救いの手段となっていけない理由は何1つ見てとれない。みことばは、御霊なる神がそれを適用してくださる程度に応じて、人々を救うことができる。そして私は、今は数人ずつちらほらと回心者がやって来るとしても、なぜ時には何百人、何千人もの人々が神のもとに立ち返ってはいけないか、その理由を見てとれない。神は、十人の人にとっての祝福となさった同じ説教を、お望みになりさえすれば、百人の人にとっての祝福とすることがおできになる。キリストがやって来られて、御国をご自分のものとしてお取りになり始める終わりの時代には、神に仕えるあらゆる教役者が、ペンテコステの日のペテロのような成功をおさめるようになると私は知っている。確かに聖霊はみことばを成功させることがおできになるし、私たちが勢いよく成長しない理由は、かつてのようには聖霊が力と活力をもって私たちに伴っておられないからである。私の兄弟たち。もし私たちの牧会活動の上に聖霊がとどまっておられさえするなら、私たちのタラントのことなど、非常に僅かな意味しか持たないであろう。人々は貧しく、教育がなく、彼らの言葉は途切れ途切れの、「てにをは」も怪しいものかもしれない。そこには、ホールばりの洗練された句読点や、チャーマズのごとき雷鳴は何1つないかもしれない。だが、もし彼らに御霊の大能の力が伴っているとしたら、いかに卑しい伝道者といえども、最も威風を払う神学者や、最も雄弁な説教者よりもずっと大きな成功をおさめるであろう。タラントではなく、並外れた恵みこそ勝利を得るものである。並外れた知能ではなく、並外れた霊的力である。知能によって会堂は一杯になるかもしれないが、霊的力によって《教会》は一杯になる。知能によって会衆は集まるかもしれないが、霊的力によって魂は救われるであろう。私たちには霊的力が必要である。おゝ! 私たちの知っているある人々は、タラントにかけては私たちが無に縮んでしまうほどの持ち主であるが、何の霊的力も有しておらず、彼らが語るとき、聖霊は彼らとともにおられない。だが、私たちの知っている別の人々は、純真な心の立派な人々で、田舎訛りの言葉で、在郷の教会に立って説教してはいるが、神の御霊があらゆる言葉に力をまとわせておられ、人々の心は砕かれ、魂は救われ、罪人たちは新しく生まれさせられている。生ける神の御霊よ! 私たちにはあなたが必要です。あなたこそいのちであり、魂です。あなたは、あなたの民の成功の源であり、あなたなしには彼らは何も行なえませんが、あなたがおられれば何でもできるのです。

 このようにして私は、私たちの部分的な不成功の原因と思われるものをあなたがたに示そうとしてきた。そして今、キリストと、キリストの聖霊にかわって、誠心誠意あなたがたに訴えさせてほしい。どうか自分を奮い立たせて、キリストの真理を広めるためのいやまさる努力と、キリストの御国が来て、みこころが天で行なわれるごとく地でもなされるようにとの、さらに真剣な祈りへと向かってほしい。あゝ! 愛する方々。もし私があなたがたに、今も外の暗闇の中を歩んでいる何万もの霊を示すことができるとしたら、もし私があなたがたを地獄の陰惨な穴ぐらに連れて行き、言葉に尽くせない苦悶にあえぐ無数の異教徒たち、みことばを聞くことなく、だが己れの罪のために正当に断罪された者らの魂を示すことができるとしたら、あなたは自らにこう問いかけることができるであろう。「私は、この不幸な無数の人々を救うために何かしてきただろうか? 彼らは罪に定められている。では私は、彼らの血について全く責任がないと云えるだろうか?」 おゝ! あわれみの神よ。もしこの垂れ幕が、私の同胞たちの血の責任に染まっていないとしたら、私は天におられるあなたを永遠にほめたたえるべき理由があるでしょう。おゝ! キリストの教会よ! あなたは、この件で自分が全く何の責任も負っていないかどうか自問すべき大きな理由がある。あなたがた、神の子どもたち。あなたは、あまりにもしばしば、「私は、自分の兄弟の番人なのでしょうか」*、と云っている[創4:9]。あなたがたは、あまりにもカインに似すぎている。あなたがたは、果たして神があなたの同胞の血の責任をあなたの手に問わないかどうか自分に問うていない。おゝ! いみじくもこう云われている。「見張り人が彼らに警告しなければ、彼らは滅びるが、神はその血の責任を見張り人に問う」*[エゼ33:6]。あゝ! 私たちの中には、異教徒に宣教する人々がより多くいるべきである。だがしかし、ことによると、私たちは怠惰のために、ほとんど、あるいは何も行なっていないかもしれない。あなたがたの中の多くの人々は、しかり、あなたがた全員は、今しているよりもはるかに多くのことを、伝道的な目的のために、またキリストの福音を広めるためになすべきである。おゝ! あなたの心にこの問いを突きつけてみるがいい。私は、断罪された霊と地獄で出会うとしたら、こう云えるだろうか? 「罪人よ、私はあなたのために自分にできることはすべて行なった」、と。残念ながら、ある人々はこう云わざるをえないのではないかと思う。「いいえ、私はそうしてきませんでした。確かに私はもっと行なうことができたはずでした。たとい成功しなくとも、もっと労することができたはずでした。でも、私はそれをしてきませんでした」。あゝ、私の愛する方々。私の信ずるところ、私たちの中のある者らは、果たして自分がキリスト教信仰を本当に信じているかどうかを疑うべき大きな理由がある。ある不信心者があるときひとりのキリスト者に出会って、こう云った。「私は、あなたがあなたの宗教を信じていないのを知っていますよ」。「なぜです?」、とキリスト者は尋ねた。「なぜって、何年もの間、あなたは、仕事場へ通う私の前を通り過ぎてきました。あなたは、人間の霊が投げ込まれる地獄があると信じているのではありませんか?」 「ええ、信じています」、とキリスト者は云った。「ならば、あなたは、私がキリストを信じない限り、そこに送られるしかないと信じているのですね?」 「ええ」。「あなたは信じてなどいませんよ。なぜなら、もし信じているとしたら、私の前を毎日通り過ぎながら、地獄について一言も私に告げず、警告もしなかったあなたは、人間のくずに違いありませんからね」。私は、この件においてまことに咎を負っているキリスト者が何人かはいるだろうと思う。神は彼らを赦してくださる。キリストの血は、それすら洗い流すことができる。だが、彼らには咎がある。あなたは今まで、一個の魂の途方もない価値について考えたことがあるだろうか。私の話を聞いている方々。かりにひとりの未信者がシベリヤにいて、それ以外の全世界が救われている場合、もし神が私たちの思いを動かしてくださるなら、英国中の全住人がそのひとりの魂を求めて出かけて行くべき価値があるであろう。あなたは今まで1つの魂の価値について考えたことがあるだろうか? あゝ! あなたがたは地獄の呻き声や悲鳴を聞いたことがない。あなたがたは、栄化された者たちの力強い歌やホサナを聞いたことがない。あなたがたは、永遠について何の観念も有していない。さもなければ、あなたがたは1つの魂の価値を知っていたはずである。あなたがた、罪の確信によって砕かれ、御霊によってへりくだらされ、契約のイエスを通してあわれみを叫び求めるよう導かれている人々。あなたがたは、1つの魂にいかなる価値があるか多少は知っている。だが、私の話を聞いている多くの方々は、そうではない。もし私たちの関わっていることがいかに尊いことであるか知っていたとしたら、私たちはぞんざいに説教したり、冷淡に祈ったりすることができるだろうか? 否。確かに私たちは、神が罪人を救ってくださるように、二重に真剣になるべきである。確かに現在のようなありさまが長く続くことがあってはならない。私たちは、ほとんど全く何も行なっていない。キリスト教は退潮にある。人々は、それが決して大してよくならないだろうと考えている。今の時代に驚異をもたらすことはまるで不可能だと思っている。だが私たちは、ルターというひとりの人物が説教する前のローマカトリック教国よりも悪い状況に陥っているだろうか? ならば神は、今も一個のルターを見つけ出すことがおできになる。私たちは、ホイットフィールドが説教を始めた頃よりも、大して悪い状態にあるわけではない。だがしかし、神はそのホイットフィールドたちを今も見つけ出すことがおできになる。彼らが成功したようには私たちは成功できないと考えるのは迷妄である。御霊によって神が私たちを助けてくださるならば、私たちは少なくともこれよりは大きな物事を見ることになるであろう。私たちは、神の教会が勢いよく成長するのを見るまでは、決して教会を休ませないであろう。むしろ、時代の冷淡さと無気力さに対して、真剣な、心からの抗議を申し立てるであろう。そして、この私たちの舌が口の中で動く限りは、諸教会の中で猖獗をきわめている締まりなさと偽りの教理に対して抗議し続けるであろう。そのとき、かの幸いな二重の改革――教理と御霊における改革――がともにもたらされるであろう。そのとき神は私たちが何と云うかご存じである。「雲のように飛び、巣に帰る鳩のように飛んでくる者は、だれか」[イザ60:8]。そして、まもなくキリストの大音声が聞こえるであろう。キリストご自身が天から下って来られるであろう。そして私たちは次のように語られ、歌われるのを聞くであろう。「ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ! 万物の支配者である、われらの神である主は王となられた」*[黙19:6]。

 

福音伝道[了]

HOME | TOP | 目次