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有効召命

NO. 73

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1856年4月6日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』」。――ルカ19:5


 私たちは、あなたがたの大部分が、永遠の福音の諸教理についてよく教えを受けているものと堅く信じている。にもかかわらず、若い回心者と会話するたびに絶えず思い起こされるのは、以前教えたことを繰り返すこと、また私たちの聖なるキリスト教信仰の根底にある諸教理を再三再四証明することが、いかに不可欠であるかということである。それゆえ、この有効召命という偉大な教理を学んでから幾星霜を経た愛する方々も、こう信じてくれるであろう。すなわち、今朝、私は非常に単純な説教をするが、この説教は、主を恐れることにおいてまだ幼い人々のために意図されたものであって、彼らがこの、心の中における神の偉大な開始点――聖霊による、人々の有効召命――をよりよく理解するためのものなのだ、と。私は、有効召命の教理の偉大な例証として、ザアカイの例を用いたいと思う。この物語のことは覚えているであろう。ザアカイは、このイエス・キリストという、世間を騒がせ、人々を途方もなく興奮させている素晴らしい人物を見ようという好奇心を起こした。私たちは時として好奇心を非難し、そうした動機から神の家へとやって来ることを罪深いと云うことがある。だが私は、果たしてそこまで云い切っていいかどうか、確信が持てない。この動機は、罪深くはない。確かに美徳ではないにせよ、しばしば好奇心は、恵みにとって最上の味方となってきた。ザカリヤは、この動機に動かされてキリストを見たいと願った。だが、その途上には2つの障害があった。第一に、そこには、すさまじい数の群衆がいたため、彼は《救い主》に近づけなかった。第二に、彼は、ことのほか短躯であったため、人々の頭越しに主を垣間見られる望みは全くなかった。彼は何をしただろうか? 少年たちがしていたようなことをした。――古の時代の少年たちは、疑いもなく現在の少年たちと全く変わることがなく、イエスが通り過ぎるのを眺めようと、木の枝々に腰かけていたに違いないからである。ザアカイは年をとってはいるが、木に飛びつくと、子どもたちの間に腰かける。少年たちは、自分の父親たちがびくびくしている、この厳めしい老取税人を恐れていたので、彼を下に追い落としたり、うるさがらせたりはしない。そこにいる彼を見るがいい。いかにもどかしげに下をのぞき込み、だれがキリストか見ようとしていることか。――というのも、《救い主》は全く派手な見かけをしていなかったからである。彼の前には、銀の儀仗を持つ儀官のような者はひとりも歩いていない。事実、彼の服装は周囲の者たちと全く異ならない。彼は普通の田舎者のような、上から下まで織った上着を着ており、ザアカイはほとんど彼の見分けがつかない。しかしながら、彼がキリストの姿を目にとめるよりも早く、キリストがその目をザアカイに据えておられた。彼はその木の下に立ち、上を見上げて、こう云われる。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。ザアカイが降りて来る。キリストは彼の家に入られる。ザアカイはキリストの弟子となり、天の御国に入る。

 1. まず第一に、有効召命は非常に恵み深い真理である。このことを推察させるであろう事実は、ザアカイが、だれしもこの男だけは救われまいと考えるような人物だった、ということである。彼は悪い町――エリコ――の住人であった。そこは呪いを受けていた町であり[ヨシ6:26]、エリコ出身の者が救われることになるとはだれも思わなかったであろう。エリコ近辺においてこそ、あのたとえ話の人は強盗に襲われて倒れたのである[ルカ10:30]。ザアカイがそうした企てに加わっていたとは思わない。だが、取税人をしていながら、盗人も同然の者らもいないではなかった。私たちは、当時のエリコから回心者が起こるのは、今の聖ジャイルズか、ロンドンの最底辺部といった、最悪の不道徳きわまりない悪の巣窟から回心者が起こるのと同じようなものだと考えてよいであろう。あゝ! 私の兄弟たち。あなたの出身がどこであれ関係ない。あなたが、ロンドン一不潔な通りから出てきていようと、裏町の最悪の貧民窟から出てきていようと、もし有効な恵みがあなたを召しているとしたら、それは有効召命なのである。そこに、場所による違いなど全くない。さらにザアカイは、はなはだしく悪い商売もしていた。そして、おそらく人々からかすめ取っては自分を富ませていたであろう。実際、キリストが彼の家に入られたとき、そこには一斉に、主が罪人である男の客となったというつぶやきが起こった。しかし、私の兄弟たち。恵みには何の分け隔てもない。それは、かたよったことをせず[使10:34]、神はみこころのままに人をお召しになる。そして、神はこの最悪の取税人を、最悪の町で、最悪の商売の中からお召しになった。それに加えて、ザアカイが最も救われそうになかったのは、彼が金持ちだったからである。確かに富者も貧者も歓迎されてはいるし、自分の境遇ゆえに絶望すべき人などいない。だが、召された者の中に、この世の「力ある者が多くはなく」*、「神が、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし」たことも事実である[Iコリ1:26; ヤコ2:5]。しかし、恵みはここでも分け隔てをしない。富めるザアカイが木の上から召されている。彼が降りて来ると、彼は救われる。私は、神が人間を見下ろすことがおできるになることを、そのへりくだりの最も偉大な例の1つだと考えていたが、私はあなたに云いたい。それよりもはるかに大きなへりくだりは、キリストがザアカイを眺めるために見上げなさった、ということである。神がその被造物たちを見下ろされること、――それはあわれみである。だが、キリストがご自分の被造物の1つを見上げなくてはならないほど身をへりくだらせなさるということ、それこそ真のあわれみである。あゝ! あなたがたの中の多くの人々は、自分自身の良いわざという木に登っていた。自分の聖い行ないという枝の上にとまっていた。そして、あわれな被造物の自由意志に信頼するか、世俗的な格言か何かを信じていた。それにもかかわらず、キリストは高慢な罪人たちをさえ見上げて、彼らを呼び降ろされるのである。「降りて来なさい」、と主は云われる。「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。たといザアカイが心のへりくだった人で、道端かキリストの足元に座っている人だったとしても、私たちはキリストのあわれみをあがめたはずである。だが、ここで主は目を上げておられる。キリストは彼を見上げて、降りて来るように命じておられるのである。

 2. 次に、これは個人的な召しであった。木の上には、ザアカイと同じように少年たちがいたが、召された人物については何の間違いもなかった。それは、「ザアカイ。急いで降りて来なさい」、であった。聖書には、他の召しについても言及されている。「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」[マタ22:14]。さて、あの使徒が、「神は……召した人々をさらに義と認め」[ロマ8:30]、と云ったとき、その念頭にあったのは、有効召命ではない。それは一般的な召命であって、多くの人々が拒絶するものである。否、その後で個人的な特定の召し――私たちをキリスト者とするもの――がやって来ない限り、だれもが拒絶するものである。あなたがたの前ではっきり云っておくが、個人的な召しこそ、あなたを《救い主》へと至らせたものにほかならない。あなたは何らかの説教によって、これは、自分のことを云っているに違いないと感じたことがあるであろう。ことによると、その聖句は、「あなたはエル・ロイ[私をご覧になる神]」[創16:13]、だったかもしれない。また、説教者は、「私を」という言葉を特に強調し、あなたは神の目が自分に据えられていると思った。そして、その説教が終わる前にあなたは、神が数々の書物を開いて自分を罪に定めているのを見たように思った。そしてあなたの心はこう囁いた。「人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか」[エレ23:24]。あなたは、会堂の窓のかまちに腰かけるか、通路でぎゅうぎゅうづめになって立っていたであろう。だが、あなたは、その説教が自分に向かって語られていること、他の人々に向けて語られているのではないことを、厳粛に確信させられた。神はご自分の民を十把一絡げにではなく、ひとりずつお召しになる。「イエスは彼女に言われた。『マリヤ。』彼女は振り向いて、ヘブル語で、『ラボニ(すなわち、先生)。』とイエスに言った」[ヨハ20:16]。イエスは、ペテロとヨハネが湖のほとりで漁をしているのをご覧になって、彼らに云われた。「わたしについて来なさい」[マタ4:18-22]。主は収税所にすわっているマタイをご覧になって、「立って、わたしについて来なさい」*、と云われた[マタ9:9]。そして、マタイはそのようにした。聖霊が人の心の奥底にやって来られるとき、その人の心には神の矢が突き刺さる。それは、その人の兜にかすり傷をつけたり、その人の武具をへこませたりするのではなく、その甲冑の合わせ目を貫き通して、魂の心髄へと達する。愛する方々。あなたは、この個人的な召しを感じたことがあるだろうか? あなたは、「さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」[マコ10:49]、と云う声がしたときのことを覚えているだろうか? あなたが、「私の主。私の神」[ヨハ20:28]、と云ったときのこと、御霊があなたと争っておられたときのこと、そして、あなたがこう云ったときのことを振り返れるだろうか? 「主よ。私はみもとにまいります。あなたが私を呼んでおられるとわかっているからです」。私は、あなたがた全員を永遠に招き続けることもできるが、もし神がだれかひとりの人をお召しになるとしたら、神の個人的なお召しの方が、大群衆に対する私の一般的な召しよりも、ずっと効果があるであろう。

 3. 第三に、それはせきたてる召しであった。「ザアカイ。急いで降りて来なさい」。罪人は、ただの宣教活動によって召されるときには、「明日にしますよ」、と答える。その人は、心に響く説教を聞くと、「そのうちに神に立ち返ることにしよう」、と云う。涙が頬を流れるが、それは拭い取られる。多少は善が現われるが、それは朝霧のように誘惑の太陽によって散らされてしまう。その人は云う。「私は、これからは真人間になることを堅く誓う。もう一度だけ、私の最愛の罪にふけったら、自分のもろもろの情欲とは縁を切り、神のために断固生きていこう」。あゝ! それは単に教役者の召しでしかなく、何の役にも立たない。地獄は、幾多の良い意図によって舗装されているという。こうした良い意図は、一般召命から生まれる。滅びへの路は、人々が座っている木々の枝々でことごとく覆われている。というのも、人はしばしば枝を引き下げはするが、自分自身が降りてくることはしないからである。病人の家の前に置き藁をしておけば、通りを走る車輪の音はさほど騒々しく響かない。そのように、ある人々は自分の路に悔い改めの約束をまき散らしておき、ずっと容易に、ずっと騒々しい音を立てずに滅びへ向かっていくのである。しかし、神の召しは、明日のための召しではない。「きょう、もし御声を聞くならば……御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試み……た」[ヘブ3:7-9]。神の恵みは常に速達でやって来る。そして、もしあなたが神によって引き寄せられているとしたら、あなたは神を求めて走って行き、もたもたする算段など口にしてはいないであろう。明日――これは時の年鑑には記されていない。明日――これはサタンの暦の中にはあるが、それ以外のどこにもない。明日――これは、そこに座礁して難破した船乗りたちの骨で白くなった岩礁である。それは岸へ向かって小さく輝く、難破させる者の光であって、あわれな船を破滅へと誘っている。明日――それは白痴の杯であって、虹の根元に置かれていると噂されるが、だれも見つけたことのないものである。明日――それはローモンド湖の浮き島であり、だれも見たことのないものである。明日――それは夢である。明日――それは迷妄である。明日、しかり、明日、あなたは自分の目を地獄で開き、苦悶のうちにあるかもしれない。向こうにある時計は、「きょう」、と告げている。あなたの脈拍は、「きょう」、と囁いている。私は自分の心臓が鼓動するたびに、「きょう」、と云うのが聞こえる。万物が、「きょう」、と叫んでいる。そして、聖霊はこれらと声を合わせて云っておられる。「きょう、もし御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない」。罪人たち。あなたは《救い主》を求めたい気分がしているだろうか? いま祈りを囁いているだろうか? 「今をおいて他にない! 私はいま救われなくてはならない」、と云っているだろうか? もしそうなら、それは有効召命だと期待できる。というのも、キリストは、有効召命をお与えになるとき、「ザアカイ。急いで来なさい」、と云われるからである。

 4. 次に、それはへりくだらされる召しである。「ザアカイ。急いで降りて来なさい」。多くの場合、教役者たちが人々を悔い改めに招くとき、その召しは、彼らを高慢にするようなもの、彼らのうぬぼれを高めるようなもの、彼らにこう云わせるようなものである。「私は自分の好きなときに神に向かうことができる。聖霊の影響力などなくとも、私にはそうできるのだ」。彼らは、降りて来るのではなく、向かって行くように召されている。だが神は、常に罪人をへりくだらせなさる。私は、神が私に降りてくるようお告げになったときのことを思い出せるではないだろうか? 私が取らなくてはならなかった最初の足どりの1つは、私の良いわざからただちに降りてくることであった。そして、おゝ! それは何という転落であったことか! それから、私は私自身の自己満足の上に立っていた。そこでキリストは云われた。「降りて来るがいい! わたしはあなたを、あなたの良いわざから引き下ろした。そして今、わたしはあなたをあなたの自己満足から引き下ろすのだ」。よろしい。私はまたしても転落した。そこで私は、もう底に達したに違いないと感じた。だがキリストは云われた。「降りて来よ!」 そして、主は私を引き下げて、私がまだ救済できると感じる点まで引き下ろされた。「降りて来なさい! もっと降りて来なさい」。そして、私は降りて行き、ついに私の希望の木のあらゆる枝を絶望のうちに手放さざるをえないところまで来た。そこで私は云った。「私にはもう何もできません。私は破滅です」。水は私の頭にからみつき、私は日の光から閉ざされ、自分がイスラエルの国から除外されていると思った。「まだ低く降りて来なさい! あなたは、救われるには、まだまだ高慢すぎる」。そのとき私は、自分の腐敗、自分の邪悪さ、自分の汚らわしさを見てとらされた。「降りて来よ」、と神は、救おうとしておられるときには云われる。さて、高慢な罪人たち。高慢なまま木にしがみついていても、何にもならない。キリストはあなたを引き下ろそうとしておられる。おゝ、ごつごつした岩の上で鷲とともに住んでいる者よ。あなたは、その高みから引き下ろされるであろう。恵みによって転落するか、いつの日か復讐によって転落するであろう。神は、「権力ある者を王位から投げ降ろし、へりくだった、柔和な者を高く引き上げる」*[ルカ1:52]。

 5. 次に、これは愛情のこもった召しである。「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。群衆の顔色がいかに変わったかは容易に想像がつく! 彼らはキリストが万人にまして聖にして善なるお方であると考えており、今にも王にまつりあげようとしていた。しかし、その主が云うのである。「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。そこには、ザアカイの家の中に入ったことのある貧しいユダヤ人がひとりいた。彼は、田舎の村々で、判事の前に引き出された人々が云うように「取っちめられた」。そして、それがいかなる種類の家かを思い出した。いかに自分がそこに連れ込まれたかを思い出した。彼がその家に対していだく思いは、いったん蜘蛛の巣にとらえられた蝿が、そこから逃げ出した後でその蜘蛛の巣をどう思うかに似たものであった。もうひとりの人もいる。それは、自分のほぼ全財産を差し押さえられたことのある人間である。そして、そこに入っていくなどということは、彼にとっては獅子の穴に歩み入ることと変わらなかった。「何と!」、と彼らは云った。「この聖なる人が、あのようなねぐらに入っていこうというのか? 私たち、みじめな貧乏人が盗まれ、ひどい目に遭わされたあんな場所へ? キリストが木の上にいるあいつに話しかけただけでも十分に悪いのに、あいつの家に入っていくだなんて!」 彼らはみな、主が「罪人のところに行って客となられ」ることに対してつぶやいた。よろしい。私には、主の弟子たちの何人かが考えていたことがわかる。彼らはそれを非常に軽率なことだと考えた。それは、主の評判を傷つけ、人々の感情を逆なでにすることであった。彼らは思った。主が、ニコデモのように、夜にこの男に会いに行き、だれからも見られないときに引見するのはよい。だが、公然とこのような男を認めるのは、何にもまして軽率なふるまいである、と。しかし、なぜキリストはこのようなことをなさったのだろうか? それは、主がザアカイに愛情のこもった召しを与えたいと願われたからである。「わたしは、行ってあなたの家の戸口に立ったり、あなたの家の窓からのぞくのではなく、あなたの家に入っていくであろう。――やもめたちの叫びがあなたの耳に入ったのと同じ家、あなたがそれに一顧もしなかったのと同じ家へ。わたしはあなたの居間に入っていくであろう。孤児たちの泣き声によっても、決してあなたが同情心を動かさなかったのと同じ居間へ。わたしはそこへ行くであろう。あなたが飢えた獅子のように自分のえじきをむさぼり食ったその場所へ。わたしはそこに行くであろう。あなたが自分の家に汚名を着せ、それを恥ずべきものとしたその場所へ。わたしはその場所へ行くであろう。あなたによって搾取された人々からしぼりだされた泣き声が、天高く上がった所へ。わたしはあなたの家に入り、あなたに祝福を与えるであろう」。おゝ! そこには何という愛情があったことか! あわれな罪人よ。私の《主人》は非常に愛情深い《主人》である。彼はあなたの家に入ってくださる。あなたは、いかなる種類の家を持っているだろうか? あなたの泥酔によってみじめなものとした家――あなたの不潔によって汚した家――あなたの呪いと悪罵によって汚した家――あなたが自分でも足を洗いたいと思っているような悪い商売に携わっている家。キリストは云われる。「わたしは、あなたの家に入るであろう」。そして、私がいま知っているいくつかの家は、かつては罪の巣窟であったが、キリストが毎朝来てくださっている。かつては、いさかいや喧嘩に明け暮れていた夫婦が、ともに膝をかがめて祈っている。キリストは、働き人が食事の時に帰ってくる正餐の時もそこへ来てくださる。私の話を聞いている方々の中には、一時間も自分の食事のために帰って来られない人々がいるが、彼らも一言祈り、聖書を読むことはできているに違いない。キリストは彼らのもとにやって来られる。みだらな歌とくだらない絵で壁が飾り立てられていた中で、あるところにはキリスト教の暦があり、整理だんすの中には一冊の聖書があり、彼らが家族で一間に住んでいるとしても、もし御使いが中に入ってきて、神が、「あなたはあの家の中で何を見たか」、と云われるならば、御使いは云うであろう。「私は良い家具を見ました。というのも、その中には聖書があるからです。そこここに信仰書がありました。卑猥な絵は引き下ろされて焼かれていました。男の戸棚には、もはや骨牌は入っていません。キリストが彼の家に入って来ておられました」。おゝ! 私たちが、ローマ人たちと同じように、自分の家の神を有しているとは何という祝福であろう! 私たちの神は、家の神である。神は来て、御民とともに住んでくださる。神はヤコブの天幕を愛される。さて、あわれな、薄汚い罪人よ。ロンドンで最も不潔な界隈に住んでいる者よ。もしそのような人がこの場にいるとしたら、イエスはあなたに云っておられる。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。

 6. さらに、それは愛情のこもった召しであるばかりか、永続的な召しであった。「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。一般召命は、「きょう、わたしは、あなたの家の1つの戸口から歩み入り、別の戸口から出ていこう」、というようなものである。福音によってすべての人に与えられる一般召命は、一時的には働きを及ぼすが、それで何もかも終わってしまう。だが、救いに至る召しは、永続的な召しである。キリストがお語りになるとき、主は決して、「急ぎなさい。ザアカイ。降りて来なさい。わたしは、あなたの家にしばし立ち寄ろうとしているから」、とは云わず、むしろ、こう云われるのである。「わたしはあなたの家に泊まることにしてある。行って、あなたともに腰を下ろし、飲み食いしようとしている。わたしは行って、あなたとともに食事をしようとしている。きょう、わたしはあなたの家に泊まることにしてある」、と。「あゝ!」、とある人は云う。「あなたは、私が何度心に感動を受けたかご存じないのです。私はしばしば、厳粛な確信を立て続けに受けました。そして、自分が本当に救われたものと考えました。ですが、それはみな次第に弱まり消えていったのです。夢を見ていて目覚めると、それまで見ていた夢が消え失せてしまうのと全く同じように」。あゝ! だが、あわれな魂よ。絶望してはならない。あなたは、《全能の》恵みがあなたの内側で争っており、きょう悔い改めよ、と命じているのを感じないだろうか? もし感じているなら、それは永続的な召しであろう。もしあなたの魂の中で働いているのがイエスであられるなら、主はやって来て、あなたの心の中に滞在し、あなたをご自分のものとして永遠に聖別なさるであろう。主は云われる。「わたしは来て、あなたとともにとどまろう。永遠にそうしよう。わたしは来て、こう云おう。

    ここに われ来て 安住(やすみ)の地とせん。
    もはや出入りを われはするまじ。
    もはや客人(まろうど)、他人(よそびと)ならず、
    むしろこの家の 主人(あるじ)とならん」。

「おゝ!」、とあなたは云う。「それこそ私の望みです。私は永続的な召しを、いつまでも残るものを欲しています。じきに色が落ちるようなキリスト教信仰などほしくありません。色あせしないキリスト教信仰がほしいのです」。よろしい。これこそキリストがお与えになる類の召しである。主に仕える教役者たちには、それを与えることができない。だがキリストがお語りになるときには、力をもって語られ、こう云われる。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。

 7. しかしながら、私が忘れてはならないことが1つある。それは、これが必然的な召しだということである。もう一度これを読んでみるがいい。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。これは、主にとって、してもしなくともよいことではなかった。むしろ、必然的な召しであった。罪人の救いは、神にとって、雨が二度と地を水没させないというご契約を果たされるのと同じくらい、必然的なことであった。血で買われた、ひとりひとりの神の子どもの救いは、3つの理由から必然的なことである。それが必然的なのは、それが神のご目的だからである。神の子どもが救われるのは必然なのである。一部の神学者たちは、この「〜することにしてある」という言葉に強調を置くのは非常な誤りだと考えている。特に、「サマリヤを通って行かなければならなかった」[ヨハ4:4]、という、同じ言葉[must]が用いられている箇所においてそうである。彼らは云う。「なぜイエスがサマリヤを通って行かなければならなかったかといえば、それは他に行くべき道がなかったからである。それゆえ、いやでもその道を通るしかなかったのである」。私たちは答える。しかり。紳士諸兄、それは疑いもないことである。だが、そのとき、そこには別の道もありえたであろう。摂理は、主がサマリヤを通っていかざるをえなくし、サマリヤが主の選ばれた道筋の途中にあるようにしたのである。それで、結局あなたがたは何も云っていないのである。主は、「サマリヤを通って行かなければならなかった」。摂理によって、人はその路の真中にサマリヤを建設したのであり、恵みに強いられて《救い主》はその方向へと動かされたのである。それは決して、「降りて来なさい。ザアカイ。わたしは、あなたの家に泊まってもよいから」、ではなく、「泊まることにしてあるから」であった。《救い主》は強い必然性を感じておられた。さながら人が死ぬことになっているのと同じように、また厳然たる必然をもって日中は太陽が、夜は月が光を与えることになっているのと全く同じように、血で買われた神のひとりひとりの子どもが救われるのは必然なのである。「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。そして、おゝ! 主がここに至られ、主がそれを行なわなくてはならず、それを望まれるとしたら、あわれな罪人にとってこれはいかなることであろう! 他のときなら私たちはこう問うてもよいであろう。「私は彼を中に入れてもよいだろうか? 見知らぬ人が戸の外にいるのだ。いま彼は戸を叩いている。以前にも叩いたことがあった。彼を中に入れてもよいだろうか?」 しかし、今回は、「わたしはあなたの家に泊まることにしてある」のである。そこには、戸を叩くことなどない。その戸は木っ端微塵に粉砕される! そして主が歩み入って来られる。「わたしはそうすることにしてある。わたしは何としてもそうするし、そうするであろう。わたしは、あなたが自分の邪悪さ、自分の不信仰を守ろうとすることなど意に介さない。わたしは中に入ることにしてあるし、そうするであろう。わたしは、あなたの家に 泊まることにしてある」。「あゝ!」、とある人は云う。「私は、神が私を、あなたが信じているように信じさせたり、キリスト者にしたりするとは全然信じられません」。あゝ! だがもし主が、「きょうは、あなたの家に泊まることにしてある」、とお語りになりさえすれば、あなたのうちにはいかなる抵抗もないであろう。あなたがたの中のある人々は、自分が勿体ぶった口調のメソジストになるなどという考えをあざ笑っている。「何ですと、先生! あなたは、私があなたの信心深い信徒たちのひとりになるとでも思っているのですか?」 否。愛する方々。私はそう思っているのではない。それを確実に知っているのである。もし神が、「わたしは、そうすることにしてある」、と云われるならば、それに逆らうことはありえない。神が、「そうしてある」、と云われるならば、そうならざるをえない。

 このことを証明する逸話を1つ告げることにしよう。「ひとりの父親が、息子を大学に送り出そうとしていた。だが、わが子がさらされることになるだろう影響力を知っていた彼は、愛する子の霊的な、永遠の幸福について、深い憂慮を持たざるをえないでいた。自分が努めて息子の精神にしみ込ませてきたキリスト教信仰の原則が荒々しく攻撃されるだろうことを恐れつつ、だが生きていて力あるみことばの効力に信頼しながら、彼は息子には知らせずに、一冊の立派な聖書を購入し、それをわが子の旅行鞄の底に置いておいた。その青年は大学生としての生活を始めた。敬神の教育による抑制は、すぐに抜け落ち、彼は思弁から疑いへ、疑いからキリスト教信仰の真実さの否定へと進んでいった。彼が自分では、もはや父親よりも賢くなったと思いみなすようになった頃のある日、自分の旅行鞄をひっかき回していた彼は、非常に驚かされも憤りもしたことに、かの聖なる預かり物を見いだした。彼はそれを引っ張り出し、これをどうしてくれようかと考え込んだ末に、ひげそりの最中に剃刀をぬぐう紙屑として使おうと決心した。その結果、ひげそりをするたびに彼は、この聖なる本の頁を一枚か二枚破って使い、ほとんど全頁の半分ほどが損なわれるに至った。しかし、彼が聖なる書に対してこの狼藉を働いている間にも、時たま聖句の1つが彼の目に入り、さかとげのある矢のように彼の心に突き刺さっていった。ついに彼はある説教を聞き、それが彼に自分自身の人格を、また自分が神の御怒りにさらされていることを明らかに示し、彼の思いには、その直前に破り取った、かの神聖な、しかし侮辱された書物の頁から受けた印象が深々と打ち込まれたのである。もしも世界中の富を持っていたとして、それで自分のしてきたことをなかったことにできるとしたら、彼はそれを惜しげもなくみな与えたであろう。結局、彼は十字架の根元で赦しを見いだした。かの聖なる書物の破られた頁が彼の魂に癒しをもたらした。というのも、それらが彼を導いて、神のあわれみの上にある安息、罪人のかしらにも十分な安息へと至らせたからである」。私はあなたに云う。冒涜の言葉で大気を汚しながら通りを歩く堕落漢であれ、サタンそのひととほとんど変わらないほど悪がしみついた無頼漢であれ、もし光の子だとしたら、あわれみが届かないような者はひとりとしていない。そしてもし神が、「きょうは、あなたの家に泊まることにしてある」、と云われるなら、神は確実にそうなさるであろう。話をお聞きの愛する方々。あなたは今この瞬間に、あなたの思いの中に、こういう感じがしていないだろうか? 今まで自分は長い間、福音に逆らって自分の立場を守ってきたが、きょうはもはや持ちこたえられない、と。あなたは、1つの強い手にがっちりとつかまれているのを感じていないだろうか? 1つの声がこう云っているのが聞こえないだろうか? 「罪人よ。わたしはあなたの家に泊まることにしてある。あなたはしばしばわたしを嘲ってきた。しばしばわたしを笑ってきた。しばしばあわれみの顔につばきを吐きかけてきた。しばしばわたしを冒涜してきた。だが、罪人よ。わたしはあなたの家に泊まることにしてある。あなたは昨日は宣教師の前で扉をぴしゃりと閉じた。小冊子を燃やした。教役者を笑った。神の家を呪った。安息日を破った。だが、罪人よ。わたしはあなたの家に泊まることにしてあるし、必ずやそうするであろう」。「何ですと、主よ!」、とあなたは云う。「私の家にお泊まりになるですって! だってそれは、至る所不義で覆われているのですよ。私の家にお泊まりになる! だってそこにあるどの椅子や卓子も私に不利になることを叫ぶのですよ。私の家にお泊まりになる! だって、その梁も桁も床もみな立ち上がり、私があなたの衣のふさに口づけする値打ちもない人間であることをあなたに告げるのですよ。何と、主よ! 私の家にお泊まりになる!」 「しかり」、と神は云われる。「わたしは、そうすることにしてある。そこには強い必然があるのだ。私の強大な愛がわたしを強いているのだ。そして、あなたがわたしにそうさせようとさせまいと、わたしはあなたにそう望ませようと決意しているのだ。そしてあなたはわたしを中へ入れることになるであろう」。これはあなたを驚かせないだろうか? あわれな、震えおののく者よ。――あわれみの日は過ぎ去ったと考えていた者よ。あなたの破滅の鐘が、あなたの死を告げる鐘を鳴らしてしまったと考えていた者よ。おゝ! これはあなたを驚かせないだろうか? キリストは、ご自分のもとに来るようあなたに求めているばかりでなく、ご自分でご自分をあなたの食卓に招待し、それどころか、あなたが主を押しのけるときでさえ、優しくこう云ってくださるのである。「わたしは、そうすることにしてあるのだ。わたしは中へ入るであろう」。キリストがひとりの罪人を追い求め、ひとりの罪人を求めて泣き、ひとりの罪人に向かってどうか救わせてくれと懇願している様子だけを思い描くがいい。そして、それこそまさに、イエスがその選ばれた者たちになさっておられることである。罪人は主から逃げ出して行くが、無代価の恵みはその罪人を追いかけて、こう云う。「罪人よ。キリストのもとに来るがいい」。そして、もし私たちの心が閉ざされていたなら、キリストはその御手を戸口に差し入れてくださる。そして、もし私たちが起き上がらず、冷たく主をはねつけるならば、主は云われる。「わたしは、そうすることにしてある。わたしは中に入るであろう」。主は私たちのために泣き続け、ついにその涙が私たちをかちとる。主は私たちを求めて泣き続け、ついにその涙が勝利をおさめる。そして、とうとう、主ご自身のお定めになった時に、主は私たちの心に入り、そこにお住まいになる。「あなたの家に泊まることにしてある」、とイエスは云われた。

 8. さて最後に、この召しは有効な召しである。というのも、私たちはそれがもたらした実を見てとるからである。ザアカイの戸口は開かれた。彼の食卓は並べられた。彼の心は気前が良かった。彼の手は洗われた。彼の良心からは荷が降ろされた。彼の魂は喜ばしかった。「ご覧ください。主よ」、と彼は云っている。「私の財産の半分を貧しい人たちに施します。たぶん私の財産の半分は彼らから盗み取ったものでしょう。――いま私はそれを返します」。「また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」[ルカ19:8]。――こうして彼の財産の残りもなくなってしまう。あゝ! ザアカイよ。あなたは今晩床につくときには、今朝あなたが起き出したときよりも途方もなく貧しくなっているであろう。――だが、無限に富んだ者ともなっているであろう。――この世の持ち物ということでいえば、あなたが最初にあのいちじく桑の木に登ったときにくらべれば、非常に貧しく、素寒貧となっているが、天の宝においては富んでいるであろう。――無限に富んでいるであろう。罪人よ。神があなたを召しておられるかどうかはこのことでわかる。もし神がお召しになっておられるとしたら、それは効力を有する召しである。――あなたが聞き流して忘れてしまうような召しではなく、良いわざを生み出す召しである。もし神があなたを今朝召しておられるとしたら、酒に満ちたその杯は下ろされ、あなたの祈りが上るであろう。もし神があなたを今朝召しておられるとしたら、きょう、あなたの店の鎧戸は1つが閉められているのではなく、すべてが閉められ、あなたはこう貼り紙をするであろう。「この家は安息日には閉ざされます。その日には二度と開けることはありません」。明日には、これこれの世俗的な娯楽があるであろう。だが、もし神があなたを召しておられるとしたら、あなたは出かけて行かないであろう。そして、あなたがだれかから盗んだことがある場合(そして、この場に盗人がいないなどと、だれが云えるだろうか?)、もし神があなたを召しておられるとしたら、あなたが盗んだものを返すことがなされるであろう。あなたは自分の持てるすべてのものを捨て去り、心を尽くして神に従えるようにするであろう。私たちは、ある人が自分の生き方の過ちを捨て去るまでは、その人が回心したとは信じない。実際的に、キリストご自身がその人の良心の主人となり、キリストの律法がその人の喜びとなったことがその人に悟られるまでは信じない。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。そこで彼は急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。「ところがザアカイは立って、主に言った。『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。』イエスは、彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。』」。

 さて、一二の教訓である。高慢な者に対する教訓。高慢な心の人々。降りて来るがいい。降りて来るがいい! あわれみは谷間を流れるが、山頂へは行かない。高ぶった心の人々。降りて来るがいい。降りて来るがいい! 主は、そびえ立つ都を下して地に倒し[イザ26:5]、それから建て直される。さらに、あわれな意気阻喪した魂に対する教訓。私は今朝、神の家にあなたが来ていることを嬉しく思う。それは良いしるしである。あなたが何のために来たか、私にとってはどうでもよい。あなたは、ここでは奇妙な種類の男が説教していると聞き込んできたのかもしれない。それは気にしなくてよい。あなたがたはみな、その男と同じくらい奇妙なのである。奇妙な人間がいなくては、他の奇妙な人間たちを引き寄せることができないのである。さて、この場には非常に大勢の人々がいる。そして、もしこういう比喩を用いてよければ、私はあなたがたを、そこここに鉄粉の入り交じった巨大な灰の山にたとえたいと思う。さて私の説教は、もし天来の恵みを伴っているとしたら、一種の磁石となるであろう。それは灰の方は全然引きつけないであろう。――灰は、元通りの場所にとどまったままであろう。――だが、それは鉄粉を引き寄せるであろう。この場には、そこにザアカイがひとりいる。あそこにはマリヤがひとりいる。ヨハネがそこにいる。サラが、ウィリアムが、トマスが――神の選ばれた者たちが――そこここにいる。彼らは、灰の集まりの中にいる鉄粉であり、私の福音、ほむべき神の福音は、1つの大きな磁石のように、彼らをその山の中から引き寄せるのである。さあ彼らがやって来る。さあやって来る。なぜか? 福音と彼らの心との間には、1つの磁力があったからである。あゝ! あわれな罪人よ。イエスのもとに来るがいい。その愛を信じ、そのあわれみに信頼するがいい。もしあなたに来たいという願いがあるなら、もしあなたが灰を押しのけてキリストのもとに行こうとしつつあるなら、それはキリストがあなたを召しておられるからである。おゝ! あなたがた、自分が罪人であると知っているすべての人々、――男も女も子どもも――、しかり、あなたがた小さな子どもたち(というのも、神はあなたがたの中の何人かを私の報酬として与えておられるからである)、あなたは、自分を罪人だと感じているだろうか? ならば、イエスを信じて救われるがいい。あなたは、あなたがたの中の多くは、好奇心からこの場にやって来た。おゝ! それは、あなたが出会って、救われるためであった。私は、あなたが地獄の火の中に沈んでいきはしないかと思って悩み苦しんでいる。おゝ! キリストがあなたに語りかけている間に、キリストに聞くがいい。キリストは今朝、「降りて来なさい」、と云っておられる。家に帰って、神の御前でへりくだるがいい。行って、自分が神に背いて犯してきた不義を告白するがいい。家に帰って、自分がみじめな者であること、主権の恵みがなければ破滅するしかない者であることを神にお告げするがいい。そして、それから神の方を見るがいい。というのも、神が最初にあなたの方をご覧になられたことは確実と思ってよいからである。あなたは云う。「おゝ、先生! 私は救われたいという願いが十分にあります。ですが、神がそう望んでおられないのではないかと心配なのです」。やめよ! やめよ! もはやそう云ってはならない! あなたは、それが部分的な――全面的ではないが――冒涜であることがわからないのだろうか? キリストがあなたの方をご覧にならなかったとしたら、あなたがキリストの方を見ることはできない。もしあなたが救われたいと願っているとしたら、キリストがあなたにその願いを与えられたのである。主イエス・キリストを信じて、バプテスマを受けるがいい。そうすればあなたは救われるであろう。私は聖霊があなたを召しておられると信頼している。そこにいる青年よ。その窓に腰かけている青年よ。急ぐがいい! 降りて来るがいい! そこの会衆席に座っている老人よ。降りて来るがいい。向こう側の通路にいる商売人よ。急ぐがいい。まだキリストを知らない婦人と若者よ。おゝ、願わくは主があなたをご覧になられるように。老いた祖母よ。この恵み深い召しを聞くがいい。そして、幼子よ。キリストはあなたのことをご覧になっておられるかもしれない。――私は、ご覧になっておられると信ずる。――そしてあなたにこう云っておられる。「急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」、と。

 

有効召命[了]

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