煙の中の皮袋
NO. 71
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---- 1856年3月23日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂
「たとい私は煙の中の皮袋のようになっても、あなたのおきてを忘れません」。――詩119:83
「煙の中の皮袋」というたとえは、本来、東洋のものである。それゆえ、その説明は東方に赴いて求めなくてはならない。それを私たちは、『図解聖書』の著者の言葉によって、話をお聞ききの方々、および読者の方々に供したいと思う。「これは疑いもなく子山羊または山羊の皮でできた革袋を指している。アジアの農民は、水気のあるなしを問わず、多くの品物をこうした皮袋に保存している。これらは、保安上の理由から、彼らの粗末な住まいの屋根からぶら下げられるか、壁にかけて吊される。そして、たちまち煙によって真っ黒になってしまう。というのも、こうした農民の住まいには煙突などめったになく、煙が出て行けるのは屋根の開き口か、出入口しかないため、そうした部屋の内部は、火が燃やされると常に濃密な煙で一杯になるからである。また、ペルシヤや、アルメニアや、トルコを冬に旅する間、私たちが毎日のように休みをとったあばら屋の煙臭さは、現実の冷え冷えとした難儀な旅すら息抜きと感じさせるほどのものであった。だが、そうした夜や昼に私たちは、そうした獣皮の袋の黒さをふんだんに眺める機会があった。その独特の黒さは、この種の表面をなす物質が、煙の影響を完全に及ぼされて、その上にふりかかる微細な煤塵の粒子を付着させることによっている。そうした皮袋の中身が液体ではなく、袋一杯にもなっていない場合、これは、しぼんで皺だらけの様相になる。こうした見かけのことをも、その黒さと同じくらい、詩篇作者はほのめかしていたかもしれない。しかし私たちが想像するに、その主要な観念は後者についてであろう。東方において、黒さは、白さにおける楽しげな意味とは反対のことを意味しているからである。ダビデは疑いもなく、このように描写された皮袋が自分の天幕に吊されているのを、その放浪時代に見たことがあったに違いない。また、自分の宮殿にはそうしたものがほとんどなかったにせよ、自分の貧しい民草の掘っ立て小屋の中では、それを目にすることがあったはずである。こういうわけで彼は自分について云うのである。『たとい私は』、困難や患難により、試練や迫害により、『煙の中の皮袋のようになっても、あなたのおきてを忘れません』、と」。
第一に、神の民には、種々の試練がある。――彼らは煙の中に置かれている。第二に、神の民は自分たちの試練を感じている。――彼らは「煙の中の皮袋のようになって」いる。第三に、神の民は、その試練の中にあっても、神のおきてを忘れない。「たとい私は煙の中の皮袋のようになっても、あなたのおきてを忘れません」。
I. 《神の民には、種々の試練がある。》これは、昔ながらの真理であり、永遠の丘[創49:26]と同じくらい古い。試練は契約の中にあり、確かに契約は永遠の山々と同じくらい古いからである。神が御民をお選びになったとき、彼らが試練に遭わない民となることは、決して神の意図されたことではなかった。彼らが選ばれたのは、決して安泰や、安逸や、下界における不断の幸福や、定命の者がこうむる病や痛みからの解放を得るためではなかった。むしろ逆に神は、その契約を結ばれたときに、その契約の鞭をもお定めになった。神は、種々の特権を確認する宣言をお書きになったときに、種々の懲らしめを確認する宣言をもお書きになった。相続権の巻物を私たちにお与えになったときに、私たちが必然的に受け継ぐべきものの一部として種々の鞭をも書き記された。試練は、私たちの相続地の一部である。それは、神の厳粛な聖定において、私たちのために予定されていた。そして、星々が御手によって形造られ、神がその軌道を固定なさったのと同じくらい確実に、私たちの種々の試練は秤で量られている。神はそれらの時と、場所と、激しさと、私たちに及ぼす効果を予定しておられる。善良な人々は決して困難を逃れられると期待してはならない。そうした期待は裏切られるのが落ちである。彼らの先駆者たちのうちだれひとり、それらを逃れた者はいない。
「悲しみの道、その道のみぞ
悲しみのなき 国へ続くは」。ヨブに注目するがいい。彼の忍耐のことをあなたがたは聞いている。アブラハムについてよくよく読むがいい。彼には種々の試練があり、そうした試練の下にあって、信仰によってイサクをささげたときに、彼は「信仰者の父」となったのである。あらゆる族長、あらゆる預言者、あらゆる使徒たち、殉教者たちの伝記によく注意してみるがいい。そうすれば、神があわれみの器となさった人々のうち、だれひとり煙の中の皮袋のように吊り下げられなかった者はいないことがわかるであろう。困難の十字架があらゆるあわれみの器に彫り込まれることは、王の尊い器に、その目印として王家のしるしが彫り込まれるのと同じく、古から定められているのである。人は生まれれば確実に苦しみに会う。火花が上に飛ぶように[ヨブ5:7]。そして、新しく生まれた人は、二重の苦しみに生まれつくと思われる。そして、二重の恵みと、二重のあわれみを授けられた人には、二重の苦難と困難がやって来るのである。善良な人々は、その試練を受けなくてはならない。彼らは、煙の中の皮袋のようになることを期待しなくてはならない。
時として、こうした試練は、彼らの状況の貧しさから起こることがある。煙の中に置かれるのは、あばら屋の中にある皮袋であって、王宮にある皮袋ではない。女王の金銀食器は、煙などとは縁もゆかりもない。私たちはウィンザー城で、それがいかに気を遣って守られているかを見たことがある。そこでは試練など全く知られることなく、いかなる手もそれに触れて、それを傷つけるようなことは許されない。そこですら、衛兵たちが十分に注意していなければ、思わぬ盗難に遭うこともあるかもしれない。それでも、それが煙にさらされるとは考えられない。貧しいアラブ人の天幕の中にある皮袋こそ、煙の中にある皮袋である。神の貧しい民もそれと同じである。彼らは自分たちの住まいの中に煙があることを期待しなくてはならない。思えば、富者の家には煙が入り込まないと思うのが当然である。むろん、そうした考えが間違っていることもありえる。だが、確かに私たちは、不格好な煙突をつけ、ぞんざいな建て方をされた家には、より多くの煙があると考えなくてはならない。そのアラブ人の貧しさによってこそ、彼の皮袋は煙の中に置かれているのである。そのようにキリスト者たちは、自分の貧しさによって多くの困難にさらされているのであり、神の民の大部分が貧しい境遇にある限り、それを理由に彼らは、大方の場合は常に患難の中にあるに違いない。私たちは、高い身分にいる神の民をあまり見ることがない。また、神の民の多くは、決して世間的に著名でも傑出してもいない。今よりも幸いな時代が来て、王たちが養育夫となり、女王たちが乳母となるまでは、このことは常に真実であろう。「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし……御国を相続する者とされた」[ヤコ2:5]。貧困にはその特権がある。というのも、キリストは貧困の中で暮らされたからである。だが、それにはその悪があり、その煙があり、その試練がある。あなたがたは時折、いかにして自分の必要が満たされるのかわからなくなる。しばしば食べ物にも着物にも事欠き、不安な心痛に悩まされ、明日の食事がどこからやって来るのか、日ごとの糧をいかにして得られるのかと思い惑う。あなたの貧しさによってこそ、あなたは煙の中の皮袋のように吊り下げられるのである。
しかしながら、神の民の多くは貧しくはない。たとい貧しくあったとしても、貧困は、ある人々が考えるほど彼らにとって大きな困難をもたらしはしない。というのも、神は、貧困の真中にいまして、ご自分の子どもたちを非常に喜ばせ、彼らの心をあばら屋の中でも朗らかにしてくださり、彼らにはそれが王宮かあばら屋か、めったにわからなくなるほどである。しかり。神は彼らの災厄の川面を越えて非常に甘美な音楽を送ってくださり、彼らは自分が渇いた土地にいるのかいないのかがわからないほどになる。
しかし、他の試練もある。そしてここから私たちが指摘したいのは、私たちの試練はしばしば私たちの慰めの結果として起こる、ということである。何が煙をなすのだろうか? 左様。それは火である。アラブ人が手を暖める火こそ、その皮袋をけぶらせ、自分をも煙くするものなのである。いかなる善も、決してそれに悪が伴っていないことはない。これは自然の法則である。川が土地を肥沃なものにしていたらどうなるだろうか? それは時として住民を溺れさせることがある。火が私たちを元気づけるとしたらどうなるだろうか? それはしばしば私たちの住まいを焼失させないだろうか? 太陽が私たちに光を与えるとしたらどうなるだろうか? それは時々その熱で私たちを焼き焦がし、打ちのめさないだろうか? 雨が私たちの食物をもたらし、地の表に花々を咲かせるとしたらどうなるだろうか? それは、同時に若い花々を木々から散らし、多くの病を引き起こさないだろうか? いかなる善といえども全く悪を伴わないものはない。いかなる火も全く煙を有さないものはない。私たちの慰めとなる火には常に試練の煙が伴っている。あなたの家庭の中に有する種々の慰めを例にとってみれば、このことを見いだすであろう。あなたには種々の人間関係がある。よく見てみるがいい。あらゆる人間関係は、試練を生じさせるものである。あなたが何か新鮮な人間関係に入るたびに、何らかの時点で確実に、新しい喜びの源があなたの前に開かれると思えるが、例外なしに悲しみの源も新たに開かれるのである。あなたには子どもがいるだろうか? あなたの子どもたちはあなたの喜びである。だが、その子どもたちは、あなたに何らかの煙を引き起こすであろう。なぜなら、あなたは、彼らが「主の教育と訓戒」[エペ6:4]のうちに育たないのではないかと恐れるからである。また、成人した後の彼らがあなたの思いを悲しませることになるかもしれない。――願わくは、彼らがその罪によってあなたの心を砕くことがないように! あなたには富がある。よろしい。富にはその喜びがある。だが、それでも、それはその種々の試練や困難を有していないだろうか? 富者は貧者よりも多くの心労をかかえていないだろうか? 何も持っていない者は安眠できる。盗人は彼を悩まさないからである。だが、あり余るものをかかえた人はしばしば、暴風が吹きつけて自分の築き上げたものを倒さないかとおののく。――激しい嵐が自分の黄金を積んだ船団を難破させないか、――景気の潮が急激に向きを変え、自分の投機を吹き飛ばし、自分の希望を押しつぶすのではないかと身震いする。事実、喜びと悲しみは双生児である。悲しみの血管を流れる血は、喜びの血管にも流れている。というのも、悲しみの血とは何だろうか? 涙ではないだろうか? また、喜びの血とは何だろうか? 私たちは喜びに満たされるとき、泣かないだろうか? あゝ! 確かに私たちは泣く。喜びを表わすのと同じ雫が、悲しみ自身の象徴なのである。私たちは喜んでは泣き、悲しんでは泣く。私たちの火は煙を発し、私たちの慰めがその試練を伴ったものであることを私たちに告げる。キリスト者の方々! あなたには並外れた火がある。他の人々が決して燃やしたことのない火がある。ならば、並外れた煙を受けることを期待するがいい。あなたにはキリストの臨在がある。だが、そのときあなたは、それを失うのではないかと恐れる煙を有するであろう。あなたには神のことばの約束がある。――そこにはその火がある。だが、あなたが神の御霊の照明なしにそれを読むとき、時として煙を有する。あなたには確信の喜びがある。だが、疑いの煙もあって、それがあなたの目に吹きつけられると、ほとんど盲目にさせられてしまう。あなたにはあなたの試練があり、あなたの試練はあなたの慰めから生ずる。多くの慰めを持てば持つほど、あなたの火は大きくなり、多くの悲しみと、多くの煙を有するようになる。
また、福音宣教は、キリスト者の人々がその手を暖める大きな火である。だが、福音宣教には多くの煙が伴っている。いかにしばしばあなたはこの神の家にやって来ては、霊が引き上げられるのを経験したことか! しかし、ことによると、それと同じくらいしばしば、ここへ来ては沈鬱な気分にさせられることがあったかもしれない。あなたの立琴の和弦は、時として、すべてゆるんでしまうことがあった。それで喜びの曲を奏でることができなかった。あなたがここへ来るとキリストがあなたの立琴を調律し、それが「ダビデの立琴のたえなる調べ」*[詩92:3]のように目覚めらめたことがあった。しかし、別の時には、ここに来ても、何か厳粛な、心探られる説教によって、あらゆる喜びが取り除かれてしまうことがあった。先週の聖日には、あなたがたの中のいかに多くの人々が煙の中の皮袋のようであったことか! この講壇、時にはあなたに火を与えるためのものであるこの講壇は、それとともに煙を有するためのものでもある。もしもそこから何の煙も発されないとしたら、これは神の講壇ではないであろう。神がシナイをその講壇とされたとき、シナイは全山が煙にけぶった[出19:18]。あなたはしばしば煙の中の皮袋のようであった。――神ご自身の燃やされた火によって生じた煙、福音の宣教の火によって生じた煙である。
しかしながら、私が思うに、ダビデにはもう1つ考えがあったと思う。このあわれな煙の中の皮袋は、それが黒くなるまでの長い間、そこにあった。そこに立ち上ってきたのは、単に一吹きの煙ではない。その煙は常時立ち上り、常にこのあわれな皮袋を包み込んでいる。これは煙という大気の中で生きている。それと同じように、愛する方々。私たちの中のある者らも、煙の中の皮袋のようにして、何箇月も、あるいは一年中、吊り下がっている。ある困難から抜け出たと思えば、次の困難に転がり込む。1つの山を登り切ったかと思うと、次の山が現われる。あなたにとって天国への道は、すべて上り坂であるように思われる。あなたは、ジョン・バニヤンの短詩が正鵠を射ているように感じられる。――「キリスト者は、長く休まず。ある困難(やま)過ぐるも、他に捕わる」。あなたは常に煙の中にいる。ことによると、あなたは不敬虔な人と相棒にさせられているかもしれない。あるいは、あなたは独特の気質の持ち主で、その気質によって自然と周囲に黒雲や暗闇をまとわせては、常に煙の中にいるかもしれない。よろしい。愛する方々。それがダビデの状態であった。彼は単に時々試練の中にあっただけでなく、まるで試練が日々彼のもとを訪れていたかのように思われた。毎日、その心労が続いた。毎時間、その翼に載っては何らかの新しい患難がやって来るように思われた。その一方で、喜びをもたらすかわりに、一瞬一瞬が幸福の弔鐘を鳴らしては、別の悲嘆を連れて来た。よろしい。もしこれがあなたの状況だとしたら、恐れてはならない。あなたは、そうした試練にあってひとりきりではない。むしろ、ここで口にされていることの真理を見てとるであろう。あなたは煙の中の皮袋のようになっているのである。
II. ここから私たちは第二の点に移る。《キリスト者である人々は自分たちの試練を感じている。》彼らは煙の中にいる。しかも、煙の中の皮袋のようである。ある種の品物は、煙の中に何日でも吊しておけるし、決して大して変化しない。なぜなら、それらは今では真っ黒になってしまっており、それ以上黒くなりようがなく、今ではしなび果てており、それ以上悪くなりようがないからである。しかし、あわれな革袋は熱の中でしなび、黒くなり、たちまち煙の及ぼした効果を示し始める。それは、石ころのように、無感覚なものではない。たちまち影響を受ける。さて、ある人々の考えによると、恵みによって人は苦しみを感じなくなるという。私はある人々がこうほのめかすのを聞いたことがある。すなわち、殉教者たちは焼き殺されているとき、ほとんど痛みに耐えることがなかったのだ、と。だが、これは間違いである。キリスト者となった人々は石のようではない。煙の中の皮袋のようである。事実、もしそこに何か違いがあるとしたら、キリスト者である人が自分の試練を他の人にまさって痛感するということである。なぜなら、その人はそれらを神にまで辿り、それらが自分の愛する神から来ていることで、より痛切に感じるからである。しかし、それと同時に認めてよいのは、そのことによって、キリスト者の試練がずっと忍びやすくなるということである。なぜなら、その人はそれらが慰めに満ちた義の実を結ばせると信じているからである。犬は自分に投げつけられた石に噛みつくかもしれないが、人は、自分の受けた危害について、石を投げた者を恨むであろう。愚鈍で、愚かで、肉的な不信仰は、試練そのものと争うが、信仰はすぐさま《王座裁判所》に赴き、その神に向かって、「なぜ私と争うのですか」、と問う。しかし、こうした信仰でさえ、その懲らしめの痛みをなくしはしない。信仰は私たちを耐え忍ばせはするが、その試練を取り除きはしない。キリスト者がその感情に身をまかせるのは間違っていない。その《主人》も、ラザロが死んだときには涙を流されたではないだろうか[ヨハ11:35]? 十字架の上にかけられたときには、ことのほか痛切な叫び、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[マタ27:46]、を発されたではないだろうか? 天におられる私たちの父は、決して試練の下にあるときの私たちの悲嘆を取り除くことは望まれなかった。御父は私たちを洪水が達さないところに置くのではなく、私たちに1つの箱船を造ってくださる。私たちはそれに乗って、最終的に水が引いた後で、天のアララテ山に永遠に安住するのである。神は、決して御民をエーリュシオン[ギリシヤ神話で英雄・善人が死後に住む極楽]に連れて行き、痛みの感情をはねかえすような者とすることはなさらない。むしろ、私たちが自分の試練を耐え忍び、苦しみの中でも神への賛美を歌えるようになる恵みを与えてくださる。「私は煙の中の皮袋のようになっても」。私は神が私を打っておられるのを感ずる。
私たちが感じることのない試練は、試練でも何でもない。私は、少し前に裁判にかけられた、珍奇な暴行殴打事件のことを覚えている。たまたま法廷に私の知人がいたからである。それは、非常に異様な事件であった。というのも、その起訴人は、その襲撃が具体的にいかなるものであったか陳述するように求められたとき、奇妙な言葉遣いでこう云った。「あゝ! 判事様。あの男は私にひどい打撃を加えたのです」。「よろしい。だが、彼はあなたのどこを殴ったのだね?」 「そうですね、判事様。実は私を殴りはしませんでした。ほんの少し、かすっただけでした」。むろん判事は、ここにはいかなる暴行も殴打もなかったと云った。なぜなら、現実には何の打撃も加えられなかったからである。そのように、私たちは時々このように云う人々に出会うことがある。「私も、あの試練が私の感情に触らなければ耐えることができたのですが」。もちろん、できたであろう。その場合、それはまるで何の試練でもなかっただろうからである。かりにある人が自分の家と家財が燃えているのを見たとする。だが、もしその人が、自分の劇場の燃えるのを見たシェリダンのようにすることができたとしたら、あなたはそれを試練と呼ぶだろうか? シェリダンは、向かい側の家に行くと、座って酒を飲み、冗談めかしてこう云った。「確かに、だれでも自分の炉辺に座って、自分の手を暖める権利はありますな」。感情こそ、試練を試練とするものである。試練の本質は、私がそれを感じることにある。そして神は、ご自分の試練が感じられることを望んでおられる。神の鞭は麦わらでではなく、真の樺の枝でできている。そして、神の一打ち一打ちは、まさに私たちが痛烈に感ずるところに落ちてくる。神は、私たちの武具の鉄板の部分を打つのではなく、私たちにとって確実に痛撃となる部分を打たれる。
だがさらに、感じられない試練は、役に立たない試練である。もしも傷が青痣にならないとしたら、その魂は良くなっていないのである。もしそこに全く泣き叫ぶことがないとしたら、私たちの堕落した性質が空にされることは全くないであろう。私たちが感ずる度合に応じて、私たちは益を受ける。だが感じられない試練は、聖められていない試練に違いない。それに遭っても全く何も感じられないような試練は、私たちにとって祝福にはなりえない。なぜなら私たちは、神の聖霊のお働きの下で、それを感じることによってのみ祝福されるからである。キリスト者の方々! 自分が煙の中の皮袋のようであるからといって、患難の下で傷つきやすいからといって、赤面してはならない。というのも、あなたはそうなるべきだからである。自分の夫が死んだからといって、わが子が死んだからといって、自分の財産を失なったからといって、それをそんなに感ずるべきではない、と他の人々に云わせてはならない。神が困難を送られたのは、あなたがそれを感じるためであり(それが、度を越したり、神につぶやくようになったりしては別だが)、むしろあなたがその鞭を感じて、それに口づけするためである。それが忍耐である。それを感じないときではなく、感じるときにこう云うがいい。「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望む」*、と[ヨブ13:15]。「たとい私は煙の中の皮袋のようになっても」。
さて、皮袋は煙の中にあるとき、非常に黒くなる。キリスト者もそれと同じく、試練という煙の中にあるとき、あるいは福音の宣教という煙の中にあるとき、あるいは迫害の煙の中にあるとき、自分自身の評価では非常に黒くなる。万事順調であるとき、いかに私たちが輝かしくなるかは驚嘆すべきほどである。だが、それと同じくらい驚嘆すべきなのは、ちょっとした艱難が私たちのもとにやって来るとき、いかに私たちが黒くなってしまうかである。何の煙もない間、私たちは自分のことを申し分のない者と思う。だが、煙がやって来ると、私たちの心のどす黒さはあばき出される。試練は私たちの正体を告げる。それは地面を掘り起こし、私たちの地金をむき出しにする。雑草の一部を表に出す。それは良いことである。私たちに自分の黒さを知らせてくれるからである。
煙の中に吊り下げられた皮袋は、非常に役に立たないものにもなる。私たちもそれと同じく、つらい福音宣教や、つらい摂理の下にあるときには、自分が非常に役立たずの、全く無益なもの、煙の中に吊り下げられた皮袋のように感じる。中身のすべてが煙くなり、もうだれもそこから飲めなくなったように感じる。自分がだれにとっても役立たずのもの――あわれで無益な存在であるように感じる。喜びの中にあるとき、私たちは誉れある存在である。《創造主》も自分なしではほとんど何もできないだろうと思う。だが困難の中にあるとき、私たちはこう感じる。「私は虫けらです。人間ではありません」[詩22:6]。――何の役にも立ちません、私を死なせてください、私は黒いばかりか役立たずになりました、「煙の中の皮袋」になりました、と。
さらにまた、煙の中の皮袋は、からっぽの皮袋である。からっぽでなかったとしたら、煙の中に吊り下げられはしなかったであろう。そして、非常にしばしば試練のもとにあるとき、いかに私たちがからっぽになってしまうことか。喜びの中にあるとき私たちは満々に満ちている。だが煙と熱はたちまち私たちから、あらゆる湿り気を奪い去り、からからにしてしまう。私たちのすべての希望は去ってしまい、私たちのすべての力は離れ去り、そのとき私たちは自分がからっぽの罪人であると感じ、満ち満ちたキリストによって救われたいと願う。私たちは煙の中の皮袋のようである。
私が描写してきた事がらの中に、あなたの性格にあてはまるものがあっただろうか? たぶんあなたがたの中のある人々は、煙の中の皮袋のようであろう。あなたは自分の試練を感じている。あなたには柔らかく、繊細な心があり、《全能者》の矢が深々と突き刺さっている。あなたは海草の切れ端のように、あらゆる天候の変化に影響される。吊り下げられても全く変わらない一片の岩石とは違う。あなたは影響を受けることがありえるし、それは全く正しい。あなたは「煙の中の皮袋のよう」である。
III. さて、愛する方々。第三のほむべき思想は、《キリスト者は、たとい困難があり、その困難を感じてはいても、その困難の中で神のおきてを忘れることはない》、ということである。
神のおきてとは何だろうか? 神は二種類のおきてを持っておられ、それを永遠の真鍮板に彫り刻んでおられる。その第一は、そのご命令というおきてであり、それらについてこう云っておられる。「この天地は滅び去ります。しかし、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません」*[マタ5:18; 24:35]。こうしたおきては、メディヤとペルシヤのおきて[ダニ6:8]のようであって、すべての人を縛っている。神の戒めは軽く、そのくびきは負いやすい[マタ11:30]。だが、それらは、いかなる人もその肩から振り捨てることが許されないものである。あらゆる人がキリストの命令を実行しなくてはならず、キリストによって救われたいと願うあらゆる人は、自分の十字架を負って、日々キリストについて行かなくてはならない[ルカ9:23]。よろしい。詩篇作者はこう云ったのである。「試練の最中にあっても、私はあなたのおきてからそれませんでした。あなたの戒めを破ろうとはしませんでした。いかなる点でも、清廉という厳格な路から踏み迷いませんでした。そして、いかなる迫害の最中にあっても、私は真っ直ぐに進み、一度も神のおきてや戒めを忘れることがありませんでした」、と。そして、さらにもう1つ、同じくらい堅固な約束のおきてがある。これらはともに、それを発された神と同じくらい不滅のものである。ダビデはこれらを忘れなかった。これらについてこう云っているからである。「あなたのおきては、私の旅の家では、私の歌となりました」[詩119:54]。もし彼がおきてを忘れていたとしたら、このように歌うことはできなかったであろう。
なぜダビデはなおも神のおきてを堅く保っていたのだろうか? まず第一に、ダビデは、火の中の皮袋ではなかった。さもなければ、それを忘れていたであろう。私たちの試練は煙ではあるが、火ではない。それらは非常に不快なものだが、私たちを焼き尽くしはしない。聖書の別の箇所では、私たちの試練が火にたとえられているであろう。だが、それはここでは適切ではない。皮袋が火中にあったとしたら、たちまち燃え尽きるであろう。しかし、キリスト者はこう云うことができる。「確かに、私のまわりは煙だらけだが、私の敬神の思いを燃え尽くすものは何もない。煙は私の証拠をかすませるかもしれないが、それを焼き尽くすことはできない。それは私の目にも、鼻にも、いかなる感覚にも、厭わしいものとなりえるし、実際そうなるであろうが、私の手足を焼くことはできない。それは私の息を詰まらせ、天の清浄な空気を吸うことを妨げるかもしれないが、私の肺を焼き尽くしたり、いのちに関わる器官を焼くことはできない」、と。あゝ! 何とありがたいことか。おゝ、キリスト者よ。あなたの試練の中には、火よりも煙の方が多いのである。ならば、困難の中にあるとき、あなたがあなたの神を忘れるべき理由などない。そうした困難には、あなたを神から遠ざけようとする傾向があるかもしれないが、大波のように、それらはしばしば、あわれな失われた帆船の破片である流木を、神の愛という浜辺に流れ着かせるのである。また、その帆柱は、海面に浮かんで、どこへなりとも流されていってよいはずなのに、しばしば岸辺に打ち上げられては、もう一度、新たに役立つものとされるのである。キリスト者よ。あなたもそれと同じように、あなたの困難という波によって岸へと運ばれて行くのであって、遠く流し去られはしない。「私は……あなたのおきてを忘れません」。
ダビデが煙の中にあっても神のおきてを忘れなかった、もう1つの理由は、イエス・キリストが煙の中で彼とともにおられ、そのおきても煙の中で彼とともにあったからである。神のおきては、神の民と同じように火の中にある。約束も戒めも炉の中にある。たとい私が煙の中の皮袋のように吊り下がっているとしても、私は自分のそばに、神の命令が煤塵と煙まみれになって、同じ危険にさらされているのを見るのである。かりに私が迫害されるとする。そのとき、人々が私を迫害しているのではなく、私の《主人》の真理を迫害しているのだと知るのは快いことである。奇異なことに、私に向かって射かけられてきた、あらゆる毒矢に関して云えば、それらは通常、私の身体の中でも、最も傷つきにくい部位に当たってきた。なぜなら、それらが通常当たるのは、私がだれか他の人から引用した何かか、聖書から証明した何かだからである。彼らはいくらでも続けるがいい。イエス・キリストが私たちと同じように煙の中におられると考えるのは甘やかなことである。また、そこに炎があればあるほど、私たちは、自分の《主人》が煙の中で私たちとともにおられることを、よりはっきり見てとるであろう。
「御命令(みむね)によりて いずくへ行くも
悲しみぞ わが 常時(つね)の道連れ、
見捨てざる友。
わが苦難(いたみ)にて 見よ、汝がほまれ
いや増すならば われ満足(よろこ)ばん――
悲しみ、常に われとともなれ!われいささかも なげくことなし
主に追従(つき)し悲嘆(もの)、われに追従(つ)くとも。
よしその踏む地
たちまちいばら 生えいだすとも
われ、そを愛し、甘きを抽出(うけ)ん、
われの忍びし すべての災厄(まが)より」。ダビデがおきてを忘れなかったもう1つの理由は、そうしたおきてが、煙の入り込まない魂の中にあったからである。煙は皮袋の内部には入り込まない。外部に影響を及ぼすにすぎない。神の子らもそれと同じである。煙は彼らの心には入り込まない。キリストがそこにおられ、恵みがそこにある。そしてキリストと恵みは、どちらも煙によって影響されない。来るがいい。もうもうたる煙よ! 渦を巻いて立ち上り、私を包むがいい! それでも私は《釘》なるキリスト・イエスにかかり続けるであろう。――かの確かな《釘》なるお方は、決してその場所から動かされることがありえない。――そして私は、「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」[IIコリ4:16]、と感ずるであろう。また、おきてがそこにあるので、私はそれらを忘れない。「たとい私は煙の中の皮袋のようになっても、あなたのおきてを忘れません」。
ダビデと声を合わせて同じことを云える人々に対して、一言慰めの言葉を云わせてほしい。もしあなたが迫害されていながら、なおも神のことばを堅く守っているとしたら、――もしあなたが苦しみに遭いながら、私たちの主であり《主人》である方の知識にとどまっているとしたら、あなたには、自分がキリスト者であると信ずべきあらゆる理由がある。もしも試練と困難の下にあっても、安楽にしていたときと全く同じままであるとしたら、あなたは自分が神の子どもであると希望してよい。そればかりか、それを堅く信じて、確信してよい。しかしながら、あなたがたの中のある人々は、約束に満ちた説教を聞くときには、キリスト者に酷似している。私が、いたんだ葦について説教するとき、あるいは、「すべて、疲れた人……は、わたしのところに来なさい」[マタ11:28]との招きをもってあなたがたに語りかけるときにはそうである。だが、私があなたに煙い説教を語るとき、――あなたが耐えられないような説教を語るとき、――そのとき、もしもあなたがこう云えるとしたら、――私は罪あり、弱く、無力な者かもしれませんが、それでも御腕に身を投げかけます、私が罪深いことはわかっていますし、疑いをいだくべき深刻な理由もありますが、それでもなおも、
「そこに、揺るがず われ安らわん、
かくも卑しき この身死ぬまで」。たとい貧しく、弱く、無力な者ではあっても、私には豊かな《全能の友》があることを知っています、と云えるとしたら、――もしあなたが多少の煙に耐えることができるとしたら、あなたは、自分が神の子どもであると信じてよいであろう。しかし、私たちの知っている人々の中には夢見がちな者がいて、ほんの一吹きの煙にも衝撃を受け、それに耐えることができず、たちまち外に出て行く。それは船乗りが船倉に煙をたきこめ出すや否や飛び出してくる鼠たちも同然である。だが、もしあなたが煙の中でも生きており、「私はそれを感じていますが、耐えることができます」、と云えるとしたら、――もしあなたが煙い説教をもがまんでき、煙い試練をも忍ぶことができ、煙い迫害の下にあっても神に堅く結びつき続けることができるとしたら、あなたは、確かに神の子どもであると信ずべき理由がある。晴れの日しか飛べない鳥たち! あなたは何の役にも立たない。荒天の日にも飛べる海燕こそ、神のお気に入りである。神が愛されるのは、嵐の中でも泳げる鳥たちである。嵐の中でも活動でき、稲妻の光を友とする鷲のように風をその戦車とし、めらめらと燃える火焔に乗ることのできる者たちである。もしもあなたが、激戦の最中に、強力な敵のだれかによって自分の兜を傷つけられても、頭を高く上げ、「私は、自分の信じて来た方をよく知っている」*、と云うことができ[IIテモ1:12]、持ち場を離れないとしたら、あなたはまことに天の子どもである。というのも、志操堅固と、不屈と、堅忍不抜は、十字架につく英雄の、また主につく無敵の戦士たちの真の目印だからである。嵐を前にして逃げ出すような艦隊は、決して無敵の軍艦ではない。ある砦が難攻不落だと聞かされて攻撃をしかけないような者は、決して勇敢な戦士ではない。だが、勇敢な者は、自艦を砲門の前にさらし、座礁する間際まで前進して、命知らずの豪胆さによって、敵に向かって片舷斉射に次ぐ片舷斉射を浴びせかける。煙と嵐の中で、戦闘の叫喚と怒号の中で、冷静に命令を下すことができる者、各人がその義務を果たすのを期待されていることを知りながら、勇壮に戦うことのできる者、そうした者こそ勇敢な司令官であり、真の兵士であり、その主人から栄光の冠を受ける者である。おゝ、キリスト者よ! 煙の中でもあなたの《主人》にしがみつき、試練の中でもあなたの主を固守するがいい。そうすればあなたは、あなたの患難によって精錬されるであろう。しかり。この上もなく豊かな者となり、桁外れの益を得るであろう。
しかしながら、この場にいる一部の人々は、自分の煙を消滅させることができる。私の会衆の中のある人々は、何か試練があると、自分でそれを十分乗り切ることができる。彼らは云う。「よろしい。私はかまわない。あなたがたは、悲しい間抜け者の集団のように見える。あなたは何に対しても過敏すぎる。だが私は、何がふりかかろうと、それらは私から転がり落ちてしまう。それで私は、そうしたことにかまいつけないのだ」。しかり。私もそれを否定はすまい。だが、やがて来たるべき時には、あなたも、あなたが幼少の頃に読むのを常としていた小さな物語の真実さを悟ることになるであろう。すなわち、物事にかまいつけない者は非常に悲惨な末路を迎える、ということである。こうした人々は、煙の中の皮袋ではなく、その上に吊り下げられた木切れのようである。だが、彼らは、そこには煙だけでない何かがあることに、だんだんと気づくであろう。彼らは煙だけではなく火がある場所に行き着くであろう。そして、たとい彼らがこの世の困難という煙には耐えられるとしても、その穴の中で、言葉に尽くせないようなしかたで燃えさかる永遠の火焔に耐えるのは、想像していたほど容易ではないことに気づくであろう。その火は消えることがなく、そのうじは尽きることがない[マコ9:48]。おゝ! かたくなな罪人よ。あなたがいま有している悲しみなど、軍隊の前に出ている斥候のようなものである。神の復讐を行なう全軍の道備えをする、軽装備の小隊である。だが、全軍が来るとき、あなたはその軍靴で踏みにじられるであろう。あなたの人生の歩道には、一滴か二滴の災厄が落ちてきたことがある。あなたはそれを笑い飛ばしている。あゝ! だが、それらは、神が天からあなたの魂めがけて永劫にわたって浴びせかける、火と硫黄の土砂降りの先駆けなのである。だがしかし、あなたは私たち、あわれなキリスト者を、私たちの種々の困難や苦しみゆえに、あわれんでいるかもしれない。私たちをあわれむと? あゝ! だが、私たちの軽い患難は、ほんのつかの間のものであり、それは私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすのである[IIコリ4:17]。あなたのあわれみは引っ込めて、自分のために取っておくがいい。というのも、あなたの軽い喜びは、ほんのつかの間のものであり、あなたのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の苦悶をもたらすからである。あなたの軽い幸福は、永劫の、言葉に尽くせないような苦悩、幸いにも私たちは逃れることになる苦悩を生み出すからである。あなたの太陽はすぐに沈み、その日没とともにあなたの夜がやって来るであろう。そして、あなたの夜がやって来るとき、それは永遠の夜、二度と光を見る希望のない夜であろう。話を聞いている方々。願わくは神が、あなたの太陽が沈む前にあなたに恵みを与えてくださるように。あなたは、救われるためには何をしなくてはならないか尋ねているだろうか? やはり返されるのは、古からのあの答えである。「主イエスを信じて、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたも救われます」[マコ16:16; 使16:31]。もしあなたが罪人でないというなら、私にはあなたのためのいかなる救いもない。もしあなたがパリサイ人であって、自分の罪がわからないというなら、私にはあなたに宣べ伝えるべきいかなるキリストもない。一部の人々とは違い、私にはあなたに差し出すべきいかなる天国もない。だがもしあなたが罪人だとしたら、まごうことなき罪人だとしたら、真の罪人であって、にせの罪人でないとしたら、私はあなたにこう云える。「キリスト・イエスは、罪人を、そのかしらすら救うためにこの世に来られた」*のだ、と[Iテモ1:15]。もしあなたがキリストを信ずるなら、あなたがこの祈りの家から出て行くときには、免罪され、無罪を云い渡され、罪のない者となっている。赦され、赦罪され、洗われ、しみなく、《愛する方》に受け入れられた者となっている。あなたが生きている限り、その恩赦状の効力はあなたたともにある。また、あなたが死ぬときも、あなたは何をする必要もなく、ただそれをパラダイスの門で見せるだけで、中に入ることができる。そしてその後、それは、いやまして高貴で、いやまして甘美な歌において、あなたの賛美の土台をなすであろう。その一方で、天国の聖歌隊は歌うであろう。《永遠者》の賛美が全宇宙の賛詠となるであろう。願わくは神があなたを祝福されんことを! アーメン。
煙の中の皮袋[了]
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