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良いわざ

NO. 70

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1856年3月16日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「良いわざに熱心な」。――テト2:14


 私たちは今朝、これから語ることによって、あなたがたの中のだれかを律法的な精神に陥らせるだろうと心配してはいない。自分の行ないに信頼するようないかなるものをも避けるようにと、聖霊とともに――と期待するが――何度となく勧めてきた後であれば、私たちがあなたから誤解される心配はないと思う。すなわち、きょう私たちは良いわざについて語ろうとしているが、あなたは、いかなる意味においても、そのことであなたの永遠の救いが押し進められるなどと私たちが思わせたがっていると考えはしないであろう。先々週、私たちはここで、2つの契約――恵みの契約とわざの契約――の違いをあなたに知らせようとした。ぜひ、そのとき私たちが語ったことを思い出してほしい。そして、もし私たちがうっかり律法主義のように思われることを何か口にするとしたら、ぜひこの2つの説教を考え合わせて、私たちが信仰による義認という偉大な真理からさまよい出た部分では、私たちの証言を退けてほしい。

 「良いわざに熱心な」。ある人々は、私たちが高踏的な教理を宣べ伝えるのを聞き、人が恵みのゆえに信仰によって救われること、それが自分自身から出たことではなく、神からの賜物であることを絶え間なく宣言するのを聞くと、私たちには、良いわざについての説教が語れないのだ、キリスト者に向かって聖潔のうちに生きるよう勧める説教が語れないのだ、と思う。よろしい。私たちは、自分が良い説教を語れると云いはしないが、その件については彼らと同じくらい良い説教を語るように努めると云いたい。これから私たちが語ろうとする説教は、彼らのいかなる勧告にも劣らぬくらい神の子らを聖い生き方へと至らせるものとしよう。彼らの勧告は、肉を頼りにし、脅しと、規則と、約束に基づいたものである。彼らはそうしたことで神の子らを説きつけられると期待しているが、これは奴隷たちにとっては十分であるものの、真に生まれた信仰者に働きかけるにはほとんど役に立たない。神の子らは聖い人々である。彼らが世に生まれ出た当の目的、それは、彼らが聖くなることである。そのために彼らは血をもって贖われ、神ご自身の民とさせられたのである。選びにおける神の目的、その御民すべての目的は、彼らが良いわざに熱心な神ご自身の民となるまで、果たされることはない。

 さて、私たちが今朝まず最初に告げたいと思うのは、良いわざの性質である。というのも、多くの事がらは良いわざと呼ばれていながら、実は全くそうではないからである。第二に、良いわざをその根源まで辿ることにしよう。――良いわざはどこから出てくるのか。第三に示したいのは、良いわざが何の役に立つか、ということである。そして、しめくくりに私たちは、努めて私たちの宣べ伝える諸教理、すなわち、無代価の、分け隔てをし、差別する恵みが、それらを信ずる私たちをして「良いわざに熱心な」者とする傾向を有することを証明したい

 I. まず第一に、私たちが答えたいと思う問いは、《良いわざとは何か?》ということである。さて、あえて云うが、ここで良いわざとは何かを告げると、多くの人々を怒らせることになるであろう。というのも、私たちの意見では、良いわざとは世にもまれなものだからである。そして、1つでも良いわざに出くわすことはめったにないと思うからである。私たちは、この「良い」という言葉をその厳密な意味において用いている。多くのわざは、人と人との間では十分に良いものである。だが、きょう私たちはこの「良い」という言葉を、神に関しての、より高い意味で用いている。どこを探しても良いわざはめったに見られず、キリストの教会の境界外には全くない。そのことを私たちはあなたに示せると思う。もし私たちが聖書を正しく読んでいるとすれば、いかなるわざも神から命じられたものでない限り良いものではありえないと思う。このことによって、人々が救いをかちとろるために行なうであろう、いかに多くの部分が切り落とされることか! パリサイ人は、自分ははっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めていると云ったが、神が彼にそのはっか、そのいのんど、そのクミンの十分の一を納めるよう命じたことを証明できただろうか? おそらくできなかったであろう。彼は、自分が一週間の中で何度も断食していると云ったが、神がそのように断食するよう云ったことを証明できただろうか? できないとしたら、彼の断食は何の従順でもなかったのである。もし私が、命ぜられてもいないことを行なうとしたら、私はそれを行なうことにおいて、従ってはいないのである。ということは、人々が、自分のからだを抑制すること、自分の肉を否定すること、このこと、あのこと、別のことを行なうことによって、神の恩顧をかちとれると云っている主張はむなしい。いかなるわざも、神がお命じになっていない限り良いものではない。人は私設救貧院を何棟も何棟も建てるかもしれないが、神の命令とは何の関わりもなしに建てるとしたら、その人はいかなる良いわざも実行してはいないのである。

 さらに、いかなることも、それが良い動機によってなされない限り良いわざではない。そして、この世で良い動機と呼ばれうるものはただ1つ、神のご栄光だけである。自分を救うことを目当てに良いわざを行なう人は、良い動機からそうしているのではない。その動機が利己的だからである。また同胞の尊敬をかちえたり、社会の福祉のためにそれらを行なう人は、人間的には賞賛すべき動機を有してはいる。だが結局それも劣った動機である。――私たちの目当ては何だろうか? それが私たちの同胞たる被造物の益のためだというなら、私たちの同胞たる被造物から報いを受けるがいい。だが、それは神とは何の関係もないことである。わざが良いものとなるのは唯一、それを行なう人が神の栄光を目当てとしている場合であり、それを目当てとするには唯一、神がその人にご自分の栄光とはいかなるものかをお教えになり、その人が神の天来のみこころに自分を服従させている場合のみである。そのとき、その人は、あらゆることにおいて《いと高き方》に目を注ぎ、そのご栄光と誉れを世で押し進めるために働くのである。そして愛する方々。たとい私たちのわざが最高の動機によってなされているときでさえ、それが良いわざとなるには、信仰によってなされていなくてはならない。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」[ヘブ11:6]。カインのように、私たちは祭壇を築き、地の初物をその上に載せるかもしれない。それ自体としては受け入れられる犠牲のように見えるかもしれない。だが、そこに信仰という塩が欠けているとしたら、それはそこにいつまでも載せられたままになるであろう。――神によって受け入れられることはないであろう。信仰がなくては、神に喜ばれることはできないからである。全生涯を通じて、その同胞のために健康も力も費やしてきた人がいるとする。自らの受けている信任を完全に果たしている公僕がだれかいるとする。その人は夜も昼も労苦し、身をすり減らすまでになっている。英国は各人がその義務を果たすことを期待しているとその人は信じ、そうしたいと願っているからである。そうした人を私のもとに連れて来て、その愛すべきわざのすべてを示してみるがいい。最も豊かな博愛の行ない、まるで惜しみない気前のよさを見せてみるがいい。その人が常に、一貫した動機によって、祖国のために労苦していると私に告げてみるがいい。だがそれでも、もしその人がこの質問、「あなたは神の御子を信じていますか?」、に答えることができないとしたら、私は誠心誠意をもって告げざるをえないであろう。あなたは、神に関する限りは、これまでの一生の間、何1つ良いわざを行なってきてはいない、と。

 さらに、私たちが神を信ずる信仰を有し、最上の動機をもって私たちのすべてのわざを行なっているときでさえ、キリストの血がその上に注がれていない限り、何1つ良いわざを行なっていることにはならない。私たちの人生の中で今まで行なってきたすべてのことを振り返ってみるとき、私たちは1つでも、キリストの血が塗られていないままで良いものだと云えるようなものを見いだせるだろうか? そこには何か良いものがあるとしよう。御霊がそれを私たちの魂の中に作り出されたからである。だが、そこには悪い部分も多々伴っている。私たちの最上の行為でさえ、それらのうちにあるもろもろの罪や不完全さによって、ぞっとするほど駄目にされ、傷つけられ、損なわれているからである。私たちが、あえてそれらを良いと呼べるのは唯一、イエス・キリストがそれらにご自身の血をふり注ぎ、その汚点を取り除いてくださったときだけである。おゝ、いかにしばしば私は自分自身に向かってこう考えたことか。「さあ、私は労苦して神のことばを説教してきた。私は、いかなる時にも、友人の前でも敵の前でも、手を抜かなかったし、神のご計画の全体を宣言することを避けなかったはずだ!」 だがしかし、愛する方々。こうした説教のいかに多くが何の良いわざでもなかったことか。なぜなら、そのとき私は自分の《主人》の誉れに目を向けていなかったか、それらは信仰と混ぜ合わされておらず、私が意気阻喪し、消沈し、みじめな気分で説教していたからである。あるいは、ことによると私は、魂をかちとろうとする際にすら、何か天性的な目的を有していたかもしれない。というのも、私がしばしば恐れてきたように、魂が回心させられるのを見て喜んでいるときでさえ、私たちには何か邪悪な動機、例えば、自分に誉れを与えて、「見よ。あの人によって何と多くの魂が神のもとに至らされたことか!」、と世間に云わせたい、というような動機がありえるからである。また、教会が聖なるわざを行なうことに協力するときでさえ、あなたはそこに何か利己的なものがもぐりこんでいることに気づいたことがないだろうか?――自分の教会を高く上げ、その教会員の栄光を現わし、自分たちを力ある者にしたい、というような。愛する方々。私は確信しているが、もしあなたが、じっくりと腰を据えて、あなたの良いわざをばらばらにしてみるとしたら、あなたはそこに多くの悪い縫い目を見いだし、すべてを解きほぐして、初めからすべてやり直しにすべきだと思うであろう。それらには、あまりにも多くのしみや、よごれがつきまとっているため、それらを少しでも良いものにするには、キリストの血でざぶざぶと洗う必要があるのである。

 そして今、愛する方々。あなたは自分に何か良いわざがあると思っているだろうか? 「おゝ!」、とあなたは云う。「残念ながら私には大してないような気がします。――いいえ。私は自分が良いわざを有していないことを知っています。ですが、神の愛に感謝すべきかな。キリストにおいて私の人格を受け入れてくださったお方は、キリストを通して私のわざをも受け入れてくださいます。またキリストにおいて私を祝福し、私が選ばれた器になれるようにしてくださったお方は、ご自分でその器の中に注ぎ入れられたものを受け入れておられます。それは、『神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです』[エペ1:6]」。

 さて今、あなたがた、道徳家たち。自分は義人だと自ら信頼している方々。もし私が語ってきたことが真実だとしたら、あなたのすべての聖さはどうなるだろうか? あなたは、「私は愛のある人間だ」、と云っている。では、そう思っているがいい! 行って、あなたの同胞たちにそう訴えるがいい。そして、あなたの愛について彼らから報いを受けるがいい。あなたは云う。「左様。だが、私は裏表のない、道徳的な人間だ。わが国の面目を高めている人間だ。もしだれもが私がしているように行動するとしたら、それはこの世とこの世代にとって何とよいことか!」 もちろん、あなたはあなたの世代に仕えている。ならば、その請求書を送って、あなたの世代から報いを受けるがいい。私はあなたに告げる。あなたの努力は無駄骨折りであり、あなたは風を蒔いているにすぎず、間違いなくつむじ風を刈り取ることになるであろう[ホセ8:7]。神はあなたから何の恩義もこうむっていない。あなたは神の誉れのために生きてきたのではない。あなたは正直になれば告白せざるをえないであろう。あなたが行なってきた行為の1つとして、神をお喜ばせしたいと願って行なったものはない、と。あなたが労苦してきたのは、自分を喜ばせるためであった。――それが、あなたの有していた最高の動機であった。あなたは善人になれば天国に行くだろうし、悪人になれば地獄に行くに違いないと感じた。あなたは徹頭徹尾、利己的であった。あなたの勘定書を合計し、自分で納得するがいい。神はあなたに何の借りもない。あなたは神のために何も行なってきていない。そして、たとい行なってきたとしても、内心で考えてみるがいい。あなたが神の戒めをあれほど多く破ってきたこと、あれほど頻繁に全力を傾けてあなたの《造り主》を、できるものなら傷つけようとしてきたこと、そのためあなたの掛け勘定などあっさり抹消されてしまうということを。また、あなたの良いわざについて云えば、それが何だろうか? それらはどこにあるだろうか? あゝ! それは絵空事であり虚構であり、与太話であり夢である。罪人の内側に良いわざ? そのようなものはない。いみじくもアウグスティヌスは云う。「罪人のうちにおける、いわゆる良いわざとは、鮮やかな罪にほかならない」。これは、キリストから離れている最上の人の最善のわざについても同じである。それらは鮮やかな罪――うわべを飾られた罪でしかない。愛する方々。願わくは神があなたの良いわざについて、あなたを赦してくださるように! もしあなたがキリストから離れているとしたら、あなたには、あなたの悪いわざと同じくらいあなたの良いわざについても赦していただく大きな必要がある。というのも、私が思うに、それらがふるい分けられることになるしたら、どちらとも同じように悪となるからである。

 II. さてそれでは、第二に、《良いわざはどこから出てくるのか?》

 古い格言に、天性は、それを越えて高く上ることは決してできないという。山の頂上から発した川は、その水源と同じ高さまで上ることはあるだろうが、何か特別な圧力をかけられない限り、決して水源以上の高さに上ることはないであろう。人間性もそれと同じである。聖書によると、それははなはだしく邪悪である。良いわざが邪悪な性質から出てくることは期待できない。苦い泉に、甘い水を湧き上がらせることができるだろうか? 健全な実をならせる健全な木から毒が滲み出すことがないのと同じく、毒性の木から健全な実がなることもありえない。邪悪な性質のうちに良いわざを探そうとしてはならない。それは、ゴモラの葡萄の木にソレクの葡萄を探そうとすべきでないのと変わらない。私たちは、天性から良いわざが出てくるのを期待することはできない。まことに、生まれながらの人から良いわざが出てくることがあると考えるのは無駄であり、むなしいことである。「それでは、どこからそれは出てくるのか?」、とあなたは尋ねるであろう。答えよう。良いわざの出所は、神の御霊によって生じさせられた、真の回心である。私たちが回心するまで、私たちには良いものの影すらつきまとっていない。世の目には、私たちは立派で尊敬すべき者と見えるかもしれないが、神の御目には、毛ほどもそのような者ではない。もし私たちが、他人の顔をのぞき込むようにして、自分の心の内側をのぞき込むことができるとしたら、私たちの心が変えられていないうちに良いわざをなすことができるなどという妄想を魂から叩き出すようなものを、いくらでも見いだすであろう。私たちの食卓に出されて、口に入れさえする多くの物は、顕微鏡の下にかざして眺めてみれば、触れることさえ恐ろしくなるようなしろものである。というのも、その中には、ありとあらゆる種類の忌まわしい生き物が這い回り、のたくっているからである。――そうしたことを私たちは決して思い浮かべもしない! そして、人間性もそれと同じである。いったん人間の心が聖書という顕微鏡の下にかざされ、それを私たちが霊的な目で眺めさえすれば、私たちはそれがあまにりも邪悪で不潔なものであるあまり、こう確信するはずである。すなわち、新しい心と正しい霊を有するまで私たちは、義とされていない、未回心の人のうちに良いわざを見いだすなど、大海原の真中に燃える火が見られると期待するのと同じくらい不可能なことだ、と。この2つのことは調和しないであろう。私たちの良いわざは、もしそれがあるとしたら、真の回心から湧き出すものである。さらにそれだけでなく、それらは回心の時点から死の時まで、不断に私たちの上に及ぼされる霊的影響力から湧き出すものでもある。あゝ! キリスト者よ。あなたは、もし日々清新な影響を受けていないとしたら、いかなる良いわざを有することもないであろう。あなたは、最初の時に、今日の実を結ばせるのに足る恵みを与えられることはないであろう。これは、私たちの心に木を植えるようなものではない。木ならば、自然とひとりでに実をならせるものである。だがその樹液はイエス・キリストという根からやって来る。私たちは自分自身が木なのではなく、生きた葡萄の木にくっついた枝なのである。良いわざよ。私はあなたがどこから来たか知っている! あなたがたは恵みの川から流れ下ってくるのである。そして、もし私がその恵みの川を常に流れさせていなければ、私は決して良いわざが私のもとにやって来るのを見いださないであろう。被造物から良いわざが出る? 不可能である! 良いわざは神の賜物、神のえり抜きの真珠であって、神がその恵みとともに送ってくださるものなのである。

 またやはり、私たちが思うに、良いわざはキリストとの結合から発するものである。私たちの信ずるところ、人は自分がキリストと1つであると知り、それを感ずるようになればなるほど、聖くなるであろう。キリストとキリスト者が1つになるという事実そのものによってキリスト者はキリストに似た者とされる。なぜあるキリスト者の性格がキリストの性格に似ているのだろうか? 理由は1つしかない。その人が主イエス・キリストに結びつき、結合しているからである。なぜあの枝は葡萄の実を結ぶのだろうか? 理由は1つ、それが葡萄の木に接ぎ木されており、それゆえにその幹の性質にあずかっているためである。そのように、キリスト者よ。あなたが神のための実を結ぶことのできる唯一の道は、キリストに接ぎ木され、キリストに結び合わされることである。あなたがた、キリストと常時交わりを保つこともせずに聖潔のうちを歩めると考えているキリスト者は、とんでもない間違いを犯している。聖くなりたければ、イエスのそば近くで生きなくてはならない。良いわざは、そこからしか生じない。こういうわけで、私たちは、わざに信頼するようないかなることをも遠ざけるべき、最も強力な理由を引き出すのである。というのも、わざが神の賜物でしかない以上、義とされていない、未回心の、不敬虔な人が、自分ひとりでそのような良いわざを1つでも生み出せるなどということが、いかに完全に不可能となることか。そして、もしそうしたわざが神の賜物であるとしたら、何と僅かな功績しかそれらの中にはありえないことか。

 III. 私たちはこのようにして、良いわざをその出所と源泉まで辿ってみた。ではここで、第三の点に移ろう。すなわち、《良いわざが何の役に立つか?》

 私は、どちらかというと無律法主義者と呼ばれるのを好むものである。なぜかというと、この用語は普通、真理を非常に堅く保ち、それを手放さない人々についてあてはめられているからである。しかし、私は無律法主義者となることを好むべきではない。私たちは神の律法に反抗する者ではない。私たちの信ずるところ、律法はもはや救いの契約として私たちを縛ってはいないが、神の律法に反抗するようなことは一言も云うつもりはない。「律法は聖なるものであり、私たちは罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」*[ロマ7:12、14]。いかなる人も、私たちを真実の意味で無律法主義者であると非難することは許されない。私たちは現に無律法主義者とは争っている。だが、律法は人を縛るものではないと云いながら、全力をあげてそれを守ろうと努めている、一部のあわれな矛盾した魂と争いはしない! 彼らは決して大きな害悪を及ぼさない。むしろ、いのちの契約としての律法と、私たちがいのちを獲得すべき方向との区別を徐々に学んでいくであろう。

 よろしい。私たちは実際、良いわざを愛している。あなたは、それが何の役に立つのか、と尋ねるだろうか? 答えよう。第一に、良いわざは恵みの証拠として有益である。無律法主義者は云う。――しかし、私に証拠は必要ない、私は証拠などなくとも生きられる、と。これは筋の通らない話である。あなたは、あそこの時計が見えるだろうか? あれは、いま何時かを示す証拠である。時刻は、あの証拠がなくとも、正確に同じであろう。それでも、私たちはあの時計が非常に役に立っていると思う。それで私たちは云うのである。良いわざは、魂のうちにおける霊的いのちの最上の証拠である、と。こう書かれていないだろうか? 「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです」[Iヨハ3:14]。兄弟を愛することは、良いわざである。また、「人がわたしにとどまっているなら、そういう人は実を結びます」*[ヨハ15:5]。義の実は良いわざであり、それらは私たちがキリストにとどまっている証拠である。もし私が日々罪の中に生きているとしたら、私は自分が神の子どもであると結論すべきいかなる権利があるだろうか? ある人がこの会堂にやって来たとする。そして、その人は、福音を聞いているうちに、こう叫ぶ。「何と甘美な真理だろう! 何と天的な教理だろう!」 だが、その人がこの場所を出て行くとき、あなたは彼が居酒屋を次々と渡り歩いては、酔っ払っていくのを目にするかもしれない。この人に、自分が天国の相続人であると考える権利があるだろうか? 神の家に来て、「よくこされたぶどう酒」[イザ25:6]を飲んだ後で、出て行って、酒の杯と、不敬虔な人々との寄り集まりを楽しむという人は、自分が天来の恵みにあずかる者であるという何の証拠も示していない。その人は、「私は良いわざを好まない」、と云う。もちろんそうであろう。「私は、良いわざでは救われないことを知っている」。この点は、確かにその通りである。人には、救いをかちとれるような良いわざが何1つないからである。自分を神の子どもであると信ずる多くの人々は、即座にこう云うであろう。

   「わが手にもてる もの何もなし
    ただ汝が十字架に われはすがらん」。

なぜなら彼らは、証拠となるような良いわざは何もなくとも、自分には信仰があると思っているからである。あゝ、方々! あなたには信仰がある。そして、そこには、全くあなたと同じくらい尊敬されるべき、信仰を持っている紳士がもうひとりいる。私は、あなたに今朝はその人の名前を告げまい。だが、その人はあなたよりもましな人である。というのも、あなたが、いかに力強い訴えをも柳に風と受け流している間も、その人は、「信じて、身震いして」いる、と記されているからである[ヤコ2:19]。しかり。あなたがた、自分が神の子らであると考えていながら、罪の中に生きている人たち。あなたは、途方もなく恐ろしい誤りに陥っている。この世のいかなる迷妄にもまして恐るべき迷妄は、パリサイ人の迷妄を除けば、罪と恵みがともに支配できると考えている人の迷妄である。キリスト者は心に幾多の罪を有しており、それを呻き、嘆きはするが、自分の外的な生き方については守られており、悪い者は彼に手を触れることができない[Iヨハ5:18]。主は彼をみつばさのかげで守っておられ、いくつかの失敗を除き、彼が道からそれることをお許しにならない。わざは私たちの信仰の証拠である。信仰によって私たちの魂は神の前に義と認められる。わざによって私たちの信仰は私たち自身と同胞の人々の前に義と認められる。

 第二に、私たちが思うに、良いわざは、私たちが信じていることの真実さを他の人々に対して証しし、証言する。あらゆるキリスト者は、世の中で説教者となるべく使わされている。そして、神がお造りになった他のあらゆる被造物と全く同じように、キリスト者は常にその主について宣べ伝えているものである。全世界は神を宣べ伝えていないだろうか? 星々は、輝きながら天から見下ろして、神はおられると語っていないだろうか? 風はその轟々たる吠え声によって、神の御名を賛美していないだろうか? さざ波は、それを浜辺に呟き、嵐の中で轟かせていないだろうか? 大水や原野は、天空や平原は、山々や谷間は、小川や河川は、みな神のために語っていないだろうか? 間違いなくそうしている。では、新しく生まれた被造物――キリストにあって新しく造られた者[IIコリ5:17]――は、どこへ行こうとイエス・キリストを宣べ伝えなくてはならない。これが良いわざの効用である。その人は、必ずしもその口を用いるばかりではなく、その生き方を通して宣べ伝えるのである。良いわざが何の役に立つかというと、それらがキリスト者の説教となるということである。説教とは、ある人が云うことではなく、行なうことである。実行しているあなたは説教しているのである。説教と実行ではなく、実行が説教なのである。口先で語られた説教はすぐに忘れられるが、自分の生き方で説教したことは決して忘れられることがない。もし私たちが世界に向かって説教したければ、忠実な実践と聖い生き方にまさるものはない。キリスト教がなぜ今以上に力強く前進しないかというと、その理由はこれに尽きる。――信仰告白者たちが大部分においてキリスト教信仰と一致しておらず、教会に加入する者たちの多くが教会の外にいる人々にまさる敬虔さを全く有していないからである。私が日曜日に語っている説教と、あなたがたの中のある人々がその生き方の大部分で説教していることとが、これほど矛盾している以上、人は外へ出ていってこう云いたがるであろう。「あの人がもう少し首尾一貫したことを云えるようになるまで、ここには来ないことにしよう」、と。ある人々の場合、会堂で祈りをささげているときと、店先にいるときでは、声の調子すら異なっている。それが同一人だとは到底信じられないほどである。そうした裏表のある言動を除き去るがいい! 信仰告白者たち。あなたの裏表ある態度があなたの証拠を拭い去らないように用心するがいい。あなたがたの中のある人々は、裏表のある態度ではなく、この上もなく恐るべき一貫した態度を明らかに示しているということがないようにするがいい。罪と不義の中に生きているために、内なる偽善と一貫するということがないようにするがいい。

 第三のこととして、良いわざは、キリスト者を飾るものとして役に立つ。あなたがたはみな、婦人がいかに身を飾るべきかを記した聖書箇所を覚えているであろう。「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい」[Iペテ3:3-4]。良いわざという飾り、私たちが天国に入るときに身につけていたいと希望する飾りは、イエス・キリストの血と義である。だが、下界におけるキリスト者の飾りは、その聖潔、その敬神の念、その裏表のなさである。もしある人々に、もうほんの少しの敬神の思いがあれば、彼らはあれほどけばけばしい衣装を必要とはしないであろう。もし彼らにもうほんの少し敬虔さがあって、それを身の飾りとしていたとしたら、彼らは常にわが身を飾り立てている必要など全くなかったであろう。婦人がつけることのできる最上の耳飾りは、一心にみことばを聞くという耳飾りである。私たちの指にはめることのできる最上の指輪は、放蕩息子が引き戻されるときに、父親が彼の指にはめてくれる指輪である。そして私たちが着ることのできる最上の衣服は、聖霊によって仕立てられた、裏表のないふるまいという衣である。しかし驚愕させられることに、多くの人々は、このあわれなからだを飾り立てようとしてさんざん苦労しているそばで、自分の魂を飾るものをほとんど有していない。彼らは魂の手入れを忘れているのである。おゝ! しかり。彼らは年中、つけ忘れてきたかもしれない、もう一本の留め針だけのために会堂に遅刻してくる。彼らがここに着くのは、礼拝が始まりつつあるときである。もちろん彼らは、身につけるものがあまりにも多いために、時間通りにやって来ることが期待できないのである。また、ある種のキリスト者たちは、神がみことばの中に記しておられる、これまでずっとそうであったのと同じく今の時代にも真実であるこのことを忘れている。すなわち、キリスト者の婦人は、慎み深さでわが身を飾るべきだということである。ことによると、ウェスレーの規則に立ち戻るのは、良いことかもしれない。彼は、私たちが衣服においても世から出て行くように求め、クエーカー教徒たちのように質素でこざっぱりした服を着るように規定したのである。悲しいかな! 彼らは悲しいくらい、その原初の素朴さから離れてしまってはいるが。私は時々、ほんの少し、いわゆる福音の高い事がらから離れざるをえない。というのも、実際、神の子らは今や、悪魔の子らとその外的な衣服では見分けがつかなくなっているが、実はそうした見分けはつくべきだからである。両者の間には、ある程度の区別があるべきである。そして、たといキリスト教信仰が身分や衣装の区別を許しているにせよ、聖書の中のあらゆるものは、私たちが着飾ることや、自分の衣服の素晴らしさのゆえに高ぶることに反対を叫んでいる。ある人は、「そんなことは放っておいてください!」、と云うであろう。もちろん、あなたがそう云うのは、それがわが身にあてはまるからであろう。しかし、私たちは聖書の中にあると信ずるものを何1つ放っておきはすまい。そして私は、いかなる人の魂をも手ぬるく扱おうとは思わない一方で、あらゆる人の良心に対して、また自分自身に対して誠実を尽くそうとする場合には、教会の中に吹き出した悪と見られるものについて常に語らなくてはならない。私たちは常に細心の注意を払って、あらゆることにおいて、できる限り書かれたみことばに近くあるようにすべきである。もしあなたが飾りをほしければ、ここにそれがある。ここには、ありとあらゆる種類の宝石があり、指輪があり、衣装がある。方々。あなたがたは、御使いと同じくらい光輝くほど着飾ることでできるのである。いかにすればそうできるだろうか? 慈愛の心で身を飾り、聖徒たちへの愛により、正直さと誠実さにより、廉直さにより、敬虔さにより、兄弟愛により、博愛により身を飾ることである。こうした装身具は、御使いたちでさえ賞賛し、この世すら賞賛するであろう。というのも、人々は、聖い生活と敬虔な生き方という宝石で着飾った者たちを賞賛せざるをえないからである。兄弟たち。私は切に願う。「あらゆることで、私たちの救い主である神の教えを飾るように」[テト2:10]するがいい。

 IV. このようにして私は、良いわざが何の役に立つかを語り終えたことになる。さて、もうしばしの時間、あなたに告げたいこと、それは私たちがこの場所で告白し、宣べ伝えているキリスト教信仰は、《神の子どものうちに良いわざを生み出すはずだ》、ということである。

 ある人々によると、カルヴァン主義と呼ばれているもの、すなわち、真の福音の別名は、人々を罪に導くものだという。さて、私たちはそれに反駁するため、ただこのことを彼らに思い起こさせようと思う。すなわち、この世で最も聖い人々は、私たちのいだく教理を告白する人々だった、ということである。もしあなたが、あの暗黒時代、だれが世界を照らす偉大な道徳的光であったかと問うならば、その答えは、アタナシオスや、アンブロシウスや、クリュソストモスといった人々になるであろう。それから、さらに後代に下ると、ウィクリフや、プラハのヒエローニュムスや、カルヴァンとなるであろう。そして、こうした人々はひとり残らず私たちが宣言するのを愛しているのと同じ諸教理をいだいていた。そして、このことだけ思い出させてほしい。この世界のいかなる人々にもましてすぐれていたのは清教徒たちだったが、彼らはひとり残らず私たちが愛しているのと同じ真理を堅く守っていた。私は先日、たまたまある本の中に、私にとっては非常に喜ばしい文章を見いだしたので、あなたがたに読んで聞かせようと考えた。その著者はこう云っている。「清教徒たちは、国中で最も断固たるプロテスタント教徒であり、熱心なカルヴァン主義者であり、暖かく愛情のこもった説教者たちであった。彼らはこの国の中で最も敬虔で、敬神の思いに満ちた人々、密室の中でも、公にも、その家庭内においても祈りの人々であった。彼らの献身のしかたは熱烈で厳粛なものであり、《天来の》御霊の助けにより頼んでいた。彼らには、神の聖なる御名への深甚な畏敬の念があり、冒涜的な悪罵のみならず、愚劣な話やあざけりにも徹底的に敵対していた。彼らは主日を厳格に守り、そのすべてを公の、また個人的な献身と愛の行為に費やした。当時、清教徒のまぎれもないしるしとなっていたのは、彼らが一日に二度、聖書を小脇にかかえて教会に行く姿であった。そして、他の人々が聖日の晩には演劇や幕間狂言、お祭り騒ぎ、原野の散策、あるいは柱球戯や剣術などといった気散じに打ち興じている間、こうした人々は家族とともに聖書を読むこと、詩篇を歌うこと、説教を繰り返すこと、わが子に教理問答を施すこと、そして祈りに携わっていた。また、これは単に主日だけのことではなく、平日の彼らには家庭礼拝の時間があった。彼らは、あらゆる過度の飲食、服装、正当な気晴らしについて警戒し、倹約家で、勤勉で、取引においては正確で、いかなる人々にも、その正当な分け前を与えようと熱心であった」。これは清教徒の真実さと福音の力に対する高貴な証言である。しかし、この本の別の箇所には、あなたがたを喜ばせると思う箇所もある。ひとりの学識ある無信心者が、現代のカルヴァン主義者とヤンセン主義者について、こう云っている。すなわち、「彼らは、その敵対者たちにくらべると、決して少なからぬ程度において、ことのほか厳格で、尊敬されるべき数々の美徳においてすぐれている。彼らは、その時代にとって栄誉であり、後に続くあらゆる時代にとって、見習うべき最上の模範である」。無信心者がこのように語っていることだけでも考えてみるがいい。こう云ったのは不信心者だったと思う。「良いわざについて聞きたければ、アルミニウス主義者のところに行け。だが、それが実行されるのを見たければ、カルヴァン主義者たちのところに行け」。そして、ユニテリアン派であるプリーストリ博士ですらこのことを認めている。「恵みの諸教理をいだいている人々は、あからさまにこの世に従う部分があまりなく、自分の追従者たちにまさって、真のキリスト教信仰の原則をより多く有している。また、キリスト教信仰の原理によると、他の人々よりも多くを神に帰す人々、僅かしか人に帰さない人々には、隔絶した高さの敬神の念がある」。

 そして、まさに今、ユニテリアン派が彼らの偉大な人々――あまりにも偉大なために、今日まで私たちが一度もその名を聞いたことがなかったような人々――をみな持ち出して、ロンドンで彼らにできる限りのことを行なっては、人々をユニテリアン信仰に引き入れようと努力しつつあるとき、私たちはただこの事実を彼らに告げたいと思う。プリーストリ博士によると、ユニテリアン信仰の冷静さこそ、宗教的な教理について彼らをより冷淡にしているものであり――彼らの諸会堂の出席人数が相当に少ない事実を説明するものであるという。すなわち、ユニテリアン派の人々は、自分たちの信仰の諸教理に非常に薄い愛着しか有していないのである、と。何というあわれみであろう! というのも、もし彼らがそれらを引き続きいだいているとしたら、彼らは必然的に失われてしまうであろう。キリストの神性を否定する人は確実に失われるはずである。彼らが自分をキリスト者であると語っていてもむなしい。自分は聖なる御使いであると語った方がましである。私たちの諸教理の聖なる傾向についてあなたに与えることのできる最良の証拠は、この偉大な事実である。すなわち、――あらゆる時代において、恵みの諸教理をいだいていた人々は、その生き方の中に、聖なる歩みと生活を明示してきたのである。

 しかし、もう一度だけ云う。この諸教理を急ぎ足でざっと眺めながら、私たちは問いたい。私たちの宣べ伝えている数々の真理にまさって、人々を聖くしがちなものが何かあるだろうか? 私たちはあなたに教えていないだろうか? 神がご自分のものになるよう選んでおられる民は、聖くならなくてはならない、と。これは、聖ならざる教理だろうか? 私たちはあなたに告げていないだろうか? 神がご自分のために選ばれた民は、聖なる生き方によって、神へ賛美をこの世で明らかに示すべきである、と。これは、聖ならざる教理だろうか? また、私たちがあなたがたに告げてきたのは、聖霊は新しい心と、正しい霊を与えてくださり、あなたには自分でできる以上の何かが要求されているということである。神があなたに期待しておられるような良い事がらをあなたは行なうことができず、それゆえ御霊なる神があなたを革新させなくてはならない。あなたはこれを、聖ならざる教理と呼ぶだろうか? 人々が生まれながらに邪悪で、更新の恵みを必要としているという教理は聖ならざるものだろうか? また、真の聖徒たちが確実に最後まで持ちこたえることになるという教理は、聖ならざるものだろうか? 私としては、こうした教理に反対する教理の方が、この世で最も聖ならざるものだという気がする。信ずる者だけがキリストの血の恩恵にあずかっているという教理は聖ならざるものだろうか? 私の宣べ伝えている教理、すなわち、キリストが贖われたのは、聖霊によって至らされる聖潔の中に生きる人々だけだという教理は、聖ならざるものだろうか? そうではないと思う。私たちは、好んで私たちの諸教理に反対の声をあげるすべての人に求めたい。こうした教理の中に1つでも、聖ならざる傾向を有するものがあることを証明できるなら証明してみるがいい、と。良いわざを主張していないと私たちを非難すると? ここへ来て、私たちの教会の中に入ろうとしてみるがいい。そうすれば、あなたが間違っているという証拠はすぐ明らかになるであろう。左様。たといあなたが一千ポンドを積み上げようと、あなたが聖い人だと思えない限り私たちは決してあなたを教会員にはしないであろう。もしあなたに良いわざがないとしたら、私たちがあなたを受け入れるまでには長い時間がかかるであろう。そして、たといあなたが私たちの教会に忍び込んだとしても、あなたが罪と不義の中に生活しているとしたら、一週間で追い出されるであろう。あなたの生き方はすぐに牧師と執事たちに報告されるからである。そしてあなたは、私たちが良いわざの必要を主張しているかどうかを見いだすであろう。もしあなたが日常的に良いわざを現わしていないとしたら、私たちはあなたを私たちの間から追い払い、実を結ばない暗闇のわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出すであろう[エペ5:11]。私たちの教会秩序は、こうした中傷に対する最上の反駁である。

 では、これ以上何が云えるだろうか? 私たちは、私たちの主張する点をすべての正直で裏表のない人々に対して証明したと期待したい。あなたがた、偽善者たち。私たちはただあなたを、あなたの耳に鳴り響くこの明瞭な警告とともに送り出そう。「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」[ロマ8:9]。あなたがたは、キリストのように生きていない限り、最後にキリストとともにいることはない。あなたの霊がこの世で聖められていないとしたら、あなたが神の御座の前に来たとき、神があなたを聖めてくださることはない。しかし、あなたがた、自分の聖さを何も持たず、良いわざなど何1つ有していない、あわれな罪人たち。私は、あなたが何も有していないことを知っている。あなたが神の子どもではないからである。あなたは、自分に何もないと感じているだろうか? ならば来るがいい。そうすればキリストがあなたに与えてくださるであろう。ご自身を与えてくださるであろう。もしあなたが主イエスを信ずるならば、主はあなたをあなたのすべての罪から洗いきよめ、あなたに新しい心を与えてくださる。そして、それからあなたの人生は聖いものとなり、あなたのふるまいは裏表のないものとなる。主はあなたを最後まで守ってくださり、あなたは確実に救われることになる。願わくは神が、罪の中に生きているそうしたすべてに人に対して、この証言を祝してくださり、彼らが正しい者へと変えられていくように。キリストのゆえに! アーメン。

 

良いわざ[了]

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