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サラとハガルの比喩

NO. 69

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1856年3月2日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「この女たちは二つの契約です」。――ガラ4:24


 この世の、いかなる2つのものの違いにもまさる大きな違いは、律法と恵みとの間にある違いである。だがしかし奇妙なことに、これらがまるで正反対の、本質的に異なったものであるにもかかわらず、人間の精神の堕落により、また知性が御霊によって祝福されているときですら正しい判断から大きくそらされていることにより、この世の何にもまして困難なのは、律法と恵みとを適切に区別することにほかならない。その違いを知っており、常にそれを――律法と恵みの本質的な違いを――思い起こしている人は、神学の真髄を会得しているのである。福音の主題を微に入り細を穿って理解することから遠くない人とは、律法と恵みの違いを適切に見分けることのできる人なのである。いかなる学問にも、いったん理解してしまえば非常に単純で容易なことだが、取りかかりの時点では恐ろしく敷居が高く、遥かに屹立して見える部分がある。さて、福音を学ぼうと励む際の最初の困難はこのことである。すなわち、律法と恵みの間には、いかなるキリスト者にとっても全く明らかな違いがあり、特に光と教えを受けたキリスト者にとってこのことは明白でありながら、いかに光と教えを受けていても私たちのうちには常に両者を混同しようとする傾向がある。2つは光と闇のように対立している。火と水よりも相容れない。だが人は絶えずその混合物を作り出そうと――多くの場合は無知から、だが時には意図的に――努めるものである。彼らは、神がはっきり引き裂かれたこの2つを混ぜ合わせようとする。

 私たちは今朝あなたがたに、サラとハガルの比喩について、いくつかのことを教えたいと思う。そのことによってあなたが、律法の契約と恵みの契約の違いについて、よりよく理解できるようにするためである。私たちはこの主題の詳細に踏み込むつもりはなく、この聖句が示している何点かの例証だけを示したい。第一に注目してほしいのは、パウロが型として用いているふたりの女――ハガルとサラである。それから注目したいのは、ふたりの子ら――イシュマエルとイサクである。第三のこととして注目したいのは、イサクに対するイシュマエルのふるまいである。そしてしめくくりに注目したいのは、ふたりの異なる結末である。

 I. まず第一に注目したいのは、ふたりの女――ハガルとサラである。彼女たちは2つの契約の型であると云われている。本題に入る前に忘れてならないこととして、その契約とはいかなるものかを告げておこう。ハガルが象徴している第一の契約とは、わざの契約であり、こういうことである。「おゝ、人よ。ここにわたしの律法がある。あなたの側で、それを守ると請け合うなら、わたしは、わたしの側で、それを守ることによってあなたは生きると請け合おう。もしあなたが私の戒めに完璧に、完全に、もれなく、何1つ欠けなく従うと約束するなら、わたしはあなたを天国に連れて行こう。しかし、注意するがいい。もしあなたが戒めに1つでも違反したり、たった一度でも服従に反抗したりするなら、わたしはあなたを永遠に滅ぼすであろう」。これが、ハガル契約である。――シナイで、あらしと、火と、煙とともに提示された契約である。――あるいはむしろ、まず第一にエデンの園で神がこうアダムに云われたときに提示された契約である。「それを食べるその時、――あなたは必ず死ぬ」[創2:17参照]。――彼は、その木から取って食べることがなく、しみなく、罪のない者であり続ける限り、確実に生きることができた。これが《律法》の契約、ハガル契約である。サラ契約は、恵みの契約である。神と人との間で結ばれた契約ではなく、神とキリスト・イエスの間に結ばれた契約であり、こういうことである。「キリスト・イエスの側では、ご自分の民のあらゆる罪の罰を背負い、死に、彼らの負債を払い、彼らの不義をご自分の肩にになうことを請け負われ、御父の側では、御子が死んで罪を償ったすべての者たちが確実に救われること、彼らに悪い心がある以上、ご自分の律法を彼らの心の中にお入れになること、彼らがそれから離れないこと、また、彼らにもろもろの罪があるのを見ても、それを見過ごしにし、永遠に思い出さないことを約束しておられる」。わざの契約は、「人よ。これを行なって生きよ!」、というものであったが、恵みの契約は、「キリストよ、これを行なえ。そうすれば、人よ、あなたは生きる!」、というものである。これらの契約の違いはここにある。一方は人を相手に結ばれ、もう一方はキリストを相手に結ばれた。一方は条件付きの契約で、アダムが立っているかどうかにかかっていたが、もう一方はキリストにとっては条件付きの契約であっても、私たちにとっては全く無条件の契約である。恵みの契約には何の条件もない。あるいは、何か条件があるとしても、この契約がそれを与えてくれる。この契約が信仰を与え、悔い改めを与え、良いわざを与え、救いを与えてくれる。それは、恵みによる無条件の行為である。さらに、私たちがその契約を守り続けるかどうかは、いささかも私たち自身にかかってはいない。その契約は、神によってキリストを相手に結ばれたものであり、署名され、調印され、批准され、そのすべては十分に備えられている[IIサム23:5参照]。

 さて、この比喩に目を向けてみよう。最初に注目したいのは、新しい恵みの契約の型てあるサラは、アブラハムの元々の妻だった、ということである。彼がハガルについて何を知るよりも前から、サラは彼の妻であった。恵みの契約こそ、結局は元々の契約であった。世の中にはあまり優秀でない神学者たちがおり、このように教えている。すなわち、神は人を正しい者に造り、彼と契約を結ばれた。人は罪を犯した。それで神は、後知恵のようにして、ご自分の民を救うためにキリストとの新しい契約を結ばれたのだ、と。さて、これは完全に間違っている。というのも、キリスト・イエスは世界の基が置かれる前から御民のかしら、代表者として立っておられ、私たちは、父なる神の予知に従い、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた、と云われているからである[エペ1:4; Iペテ1:2参照]。私たちは、堕落するはるか前から、神によって愛されていた。神が私たちを愛されたのは、私たちへの憐憫からではない。むしろ神は、純粋に被造物として考えられた際の御民を愛された。神は、彼らが罪人となったときも彼らを愛された。だが、彼らを愛し始めたときには、彼らを被造物として考えておられた。神は、彼らが罪に陥るのをお許しになった。それは、彼らの罪以前に存在していた、ご自分の豊かな御恵みを明らかに示すためであった[エペ2:7]。神が彼らを愛し、その他の者らの中からお選びになったのは、彼らが堕落した後ではなかった。彼らを愛されたのは、彼らの罪を越えて、彼らの罪の前からであった。神は、私たちがわざの契約によって堕落する前から、恵みの契約を結んでおられた。もしあなたが永遠の昔へとさかのぼり、どちらが先に生まれたのか聞くことができたとしたら、あなたは恵みが律法の前に生まれていたと聞かされるであろう。――恵みが生まれ出たのは、律法が発布されるはるか以前であると聞かされるであろう。私たちの諸道徳の指導原理さえよりも昔からあったもの、それは恵みという偉大な根本的な岩であり、それは予見者たちが律法を説くよりもはるか以前、シナイが煙にけぶるよりもはるかに以前に結ばれた、古の契約の中にあった。アダムがかの園に立つはるか前に、神はご自分の民を永遠のいのちに定め、彼らがイエスを通して救われるようにお定めになったのである。

 次に注目したいのは、サラの方が年長の妻だったにもかかわらず、ハガルが最初の子を生んだ、ということである。そのように最初の人アダムはハガルの子であった。彼は完璧にきよく、しみない者として生まれたが、あの園にいたときの彼はサラの子ではなかった。ハガルが最初の子を持ったのである。彼女はアダムを生み、彼はしばらくの間、わざの契約のもとに生きていた。アダムは園の中で、この原理によって生きた。あえて罪を行なったことが彼の堕落となった。だが、もし彼が罪を行なわなったとしたら、彼は永遠に立つことになったであろう。アダムは、神に従うか従わないかを自分で決める力を完全に有していた。ということは、彼の救いは単純にこの基盤の上にかかっていたのである。「もしあなたがその木の実に触れたなら、あなたは死ぬ。もしあなたがわたしの命令に従い、それに触れなければ、あなたは生きる」。そしてアダムは、完全な者ではあったが、その堕落の後になるまではイシュマエルでしかなく、イサクではなかった。いずれにせよ彼は、恵みの契約において隠れた約束の子ではあったかもしれないが、見たところはハガル人であった。神はほむべきかな。私たちは今はハガルのもとにいない。私たちは、アダムの堕落以来、律法のもとにはいない。今やサラが子どもたちを生み出している。新しい契約は、「私たちの母」[ガラ4:26]である。

 しかし、さらに注目したいのは、ハガルは妻となるべきではなく、決してサラのはしため以外の何者にもなるべきではなかった、ということである。律法は決して人々を救うべきものではなかった。それはただ恵みの契約のはしためとなるためだけのものであった。神がシナイで律法をお引き渡しになったとき、だれかがそれによって救われようとすることなど、全く神のお考えの中にはなかった。神は決して人が律法によって完全に達するなどと考えてはおられなかった。しかし、知っての通り律法は、恵みにとって素晴らしいはしためである。だれが私たちを《救い主》のもとに連れてきたのだろうか? 私たちの耳に鳴り轟く律法ではなかっただろうか? 私たちは、律法に追い立てられなければ、決してキリストのもとに来はしなかったであろう。律法はサラのはしためとして私たちの心をほうきで掃き、埃を舞上げては、私たちに、血を振りかけてこの埃を鎮めてくださいと叫ばせる。律法は、いわばイエス・キリストの犬であり、その羊たちを追いかけて行き、羊飼いのもとに連れて来るのである。律法は不敬虔な人々を恐れさせる稲妻であり、彼らをその誤った道から離れさせ、神を求めさせる。あゝ! もし私たちが律法の正しい用い方を知っているなら、もし私たちがいかに彼女をその分相応の立場につかせ、その女主人に従順にさせておくかを理解しているなら、万事問題はないであろう。しかし、このハガルは常に、サラと同じような女主人になりたがろうとする。そしてサラは決してそれを許そうとせず、彼女につらくあたり、彼女を追い出すに違いない。私たちも同じようにしなくてはならない。そして、私たちが今どきのハガル人につらくあたるとしても、決してだれも私たちに文句をつけてはならない。――時として私たちが、律法の行ないに信頼している人々に対して厳しいことを云うとしてもそうである。私たちはサラを模範として引用するであろう。彼女はハガルにつらくあたったし、私たちもそうするであろう。それは、ハガルを荒野に逃げ出させるということである。私たちは彼女と何の関わりも持ちたくないと思う。だが、まことに尋常ならざることに人々は、いかにハガルが粗野で不細工であっても、サラよりも常にハガルの方をいやまさって愛し、絶えず、「ハガルよ。あなたを私の女主人にします」、と叫びがちで、「否。サラよ。私はあなたの子となります。ハガルは女奴隷にします」、とは云わないのである。神の律法は今いかなるものとなっているだろうか? それはキリスト者の上に立つものではない。――キリスト者の下にあるのである。ある人々は神の律法を、キリスト者たちを恐怖させる鞭のように振りかざし、「もし罪を犯せば、これで罰を受けるぞ」、と云う。そうではない。律法はキリスト者の下にある。それは、キリスト者が歩くべき道であり、その道案内であり、その規則であり、その模範である。「私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にある」[ロマ6:15]。律法は、私たちを導く路であって、私たちを追い立てる鞭ではなく、私たちを行動に駆り立てる霊である。律法は、その分を守っている限り、良いものであり、すぐれたものである。だれもこのはしためが妻ではないからといって難癖をつけるものはいない。またハガルがサラではないからといって蔑む者もいない。もし彼女が自分の職務を忘れさえしなければ、何の問題もなく、彼女の女主人は決して彼女を追い出しはしなかったはずである。私たちは、律法がその正当な立場に置かれている限り、それを会堂から追い出そうとは思っていない。だが、それが女主人として立てられるときには、彼女を除き去るがいい。私たちは律法主義とは何の関わりも持たないであろう。

 さらに、ハガルは決して自由の女ではなかったし、サラは決して奴隷ではなかった。そのように、愛する方々。わざの契約は決して自由ではなく、彼女の子どもたちのだれひとり自由だった者はいない。わざに信頼する者はみな、決して自由ではなく、たとい良いわざにおいて完璧になりえたとしても、決して自由になることはありえない。たとい彼らに何の罪もないとしても、それでも彼らは奴隷である。というのも私たちは、なすべきすべてのことをなし終えたときも、私たちは神に貸しを作ったわけではなく、なおも神に借りがあり、やはり奴隷のままだからである。たとい私が神の律法をすべて守ったとしても、私には恩顧を受ける何の権利もない。というのも、私は自分の義務を果たしたにすぎず、なおも奴隷のままだからである。律法はこの世で最も厳格な主人であり、賢明な者はだれひとりその奉仕を愛そうとはしないであろう。というのも、あなたがすべてをなしおえた後でも、律法は決してそれゆえに、「ありがとう」、とは云わず、むしろ、「もっとやるがいい。もっとやるがいい!」、と云うからである。律法によって救われようと試みるあわれな罪人は、ひき臼の周りをぐるぐる回る盲目の馬に似ており、決して一歩も先へ進むことなく、絶え間なく鞭で追い立てられるしかない。しかり。速く歩めば歩むほど、働けば働くほど、その分その人は疲れて、それだけ悪い状況となる。人は、徹底した律法主義者であればあるほど、より確実に罪に定められることになる。自分の行ないに信頼している人の場合、聖い人になればなるほど、最後には拒絶され、パリサイ人たちと同じ永遠の末路を辿ることは確実と思ってよい。ハガルは奴隷であった。イシュマエルは、いかに道徳的で善人であっても、奴隷以外の何者でもなく、決してそれ以上の者にはなれなかった。彼が自分の父にささげたあらゆる行ないをもってしても、彼を自由人として生まれた息子にすることはできなかった。サラは決して奴隷ではなかった。彼女は、時にはパロによって囚われ人にされたことがあったかもしれないが、そのときも奴隷ではなかった。時として夫は彼女のことを否んだかもしれないが、それでも彼女は彼の妻であったし、すぐに夫から妻であることを認められ、パロもすぐに彼女を送り返さざるをえなかった。そのように恵みの契約は、いったんは危機に陥ったように見え、その代表者は、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」、と叫んだかもしれない[マタ26:39]。だが、それは決して真の危険ではなかった。また、時として恵みの契約のもとにある人々は、とりことなり、奴隷となるように見えるかもしれないが、それでも彼らは自由なのである。おゝ! 「キリストが、私たちを解放することで得させてくださった自由に、しっかりと立つ」ようになれたなら、どんなによいことか[ガラ5:1 <英欽定訳>]。

 もう1つのことだけ考えよう。ハガルは、その子とともに追放されたが、サラは決して追放されなかった。そのように、わざの契約は契約ではなくなってしまっている。単にそれに信頼する人々が退けられているだけでなく、単にイシュマエルが追放されただけでなく、イシュマエルの母もそうされた。そのように、律法主義者は、単に自分が罪に定められるだけでなく、契約としての律法がやんでいることも知るであろう。というのも、母も子もともに福音によって追い出され、律法に信頼する者たちは神によって追い払われるからである。あなたは、今日だれがアブラハムの妻か問うだろうか? 左様、サラである。彼女は今この瞬間にも、マクペラのほら穴で、その夫のかたわらに横たわっていないだろうか? そこに彼女は横たわっている。たとい今から一千年そこに横たわっているとしても、それでも彼女はアブラハムの妻であり続け、決してハガルが彼の妻となることはできない。おゝ、これはなんと甘やかな考えであろう。古に結ばれたこの契約は、すべてが備えられており、決して、決して取り去られることがないのである。「まことにわが家は、このように神とともにある。とこしえの契約が私に立てられているからだ。このすべては備えられ、また守られる」[IIサム23:5]。あゝ! あなたがた、律法主義者よ。あなたがたが恵みから転落しうる教理を教えているのも無理はない。それはあなたの神学と一貫している。もちろんハガルは追い出されなくてはならず、イシュマエルもそうである。しかし、無代価の完全な救いの契約を宣べ伝える私たちは、イサクが決して追い出されることがなく、サラが決してアブラハムの友であり妻であることをやめることがないのを知っている。あなたがた、ハガル人よ! あなたがた、儀式尊重主義者よ! あなたがた、偽善者よ! あなたがた、形式主義者よ! 最後になってあなたがたが、「どこに私の母はいますか? どこに私の母、律法はいますか?」、と云うとき、それが何の役に立つだろうか? おゝ! 彼女は追い出されており、あなたも彼女とともに永遠の忘却へと向かうことになろう。しかし、キリスト者は最後に、どこに私の母はいますか?、と問うことができ、こう答えられるであろう。「そこに信仰者たちの母、上にあるエルサレム、私たちの母がいます。そして、私たちはそこにはいって、私たちの父、私たちの神とともに住むことになります」、と。

 II. さて、これから私たちは《ふたりの子ら》を眺めてみよう。ふたりの女は2つの契約の型であったが、このふたりの子らはそれぞれの契約のもとで生きる者たちの型である。イサクが象徴しているのは、見るところによってではなく、信仰によって歩む人々[IIコリ5:7]、恵みによって救われることを希望している人々である。イシュマエルが象徴しているのは、わざによって生き、自分自身の良いわざによって救われることを希望している人々である。この二者をよく眺めてみよう。

 第一に、イシュマエルは年長であった。そのように、愛する方々。律法主義者は、キリスト者よりもずっと年上である。もし私が今日律法主義者だったとしたら、私はキリスト者としての私よりも十五年から十六年は年長だったであろう。私たちはみな律法主義者として生まれつくからである。アルミニウス主義者たちについて、ホイットフィールドはこう云っている。「私たちはみなアルミニウス主義者として生まれる」。恵みこそ私たちをカルヴァン主義者に変えるものであり、恵みこそ私たちをキリスト者にするものであり、恵みこそ私たちを自由にし、自分がキリスト・イエスのうちに立っていることを知らせてくれるものである。ならば、律法主義者がイサクよりも理屈を云う力があるのは当然と思わなくてはならない。また、ふたりの男の子が取っ組み合いをすれば、もちろん普通はイサクが負かされる。イシュマエルの方が体が大きいからである。また、イシュマエルの方がはるかに大声で騒ぎ立てることも当然としなくてはならない。彼は野生のろばのような人であり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らうが[創16:12]、イサクは平和を好む子だからである。彼は常に母親の味方をし、自分が馬鹿にされるときには、母親のもとに行ってイシュマエルが自分を馬鹿にしたと告げることができるが、彼にできるのはせいぜいその程度で、彼に大した力はない。それと同じことが今日も見られる。イシュマエル人たちの方が普通は力があり、私たちが彼らと議論をすると、彼らは私たちを手ひどく負かすことができる。事実、彼らが自慢し、得意にしているのは、イサクたちに大した議論の力がなく、――大した論理の力がないということである。どのイサクもこうしたことを望んではいない。彼の方が約束による子であり、約束と論理はなかなか並び立たないからである。彼の論理は彼の信仰であり、彼の修辞は彼の真剣さである。人間的なしかたにのっとって議論しているときには、決して福音が優勢になるとは期待してはならない。通常は、負かされるものと思っておくがいい。もしあなたが律法主義者と会話を交わし、彼があなたを云い負かすとしたら、こう云うがいい。「あゝ! 私はこれを予期していた。これは私がイサクであることを示している。イシュマエルはイサクに打ち勝つに決まっているからだ。私はそれを少しも残念には思わない。あなたはの父と母は人生の盛期にあり、力強かったのだ。そして、あなたが私に勝つのは当然だったのだ。私の父と母は全く老年にあったのだから」。

 しかし、このふたりの子どもの外面的な様子における違いはどこにあっただろうか? 儀式上、ふたりには何の違いなかった。というのも、彼らはふたりとも割礼を受けていたからである。外的で目に見えるしるしに関しては何の区別もなかった。そのように、私の愛する兄弟たち。しばしばイシュマエルとイサクの間、律法主義者とキリスト者の間には、外的な諸儀式の件において何の違いもない。律法主義者は聖礼典にあずかるし、バプテスマも受けている。そうしなかったとしたら、死ぬのを恐れるであろう。また、私は性格について大きな違いがあるとも信じていない。イシュマエルは、ほとんどイサクと同じくらい善良で立派な人であった。聖書の中には、彼を悪く云うようなことが何も書かれていない。実際、私は彼が特に善良な男の子であったと信ずるように、ある事実によって導かれている。神が祝福をお与えになったとき、神は、「イサクとともに祝福はある」、と云われた。アブラハムは云った。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように」[創17:18]。彼はイシュマエルのために神に叫び求めた。疑いもなく彼は、その子の性向ゆえにその子を愛していたのである。神は云われた。しかり。私はイシュマエルにこれこれの祝福を与えよう。彼から王たちが出て来るようになり、彼は現世的な祝福を手に入れるであろう。だが、神はアブラハムの祈りによってさえ、わきへそらされようとはなさらなかった。そして、サラが、明らかに激しい怒りをもってハガルを家から追い出した日には、こう記されている。「このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ」[創21:11]。そして私としては、アブラハムの愛着が愚かなものだったとは思わない。イシュマエルの性格の中には、あなたが非常に愛する特徴が1つある。アブラハムが死んだとき、彼はイシュマエルには杖一本、石ころ一個も残さなかった。というのも、彼はそれ以前に彼の相続財産を分けてやり、彼を遠くに去らせたからである。それでも彼は父の葬儀にやって来た。というのも、彼の子らイシュマエルとイサクが彼をマクペラに葬ったと記されているからである[創25:9]。ということは、このふたりの性格にはほとんど違いがなかったように思われる。そのように、愛する方々。律法主義者とキリスト者の間には、外的な歩みについてはほとんど違いがないのである。彼らはふたりとも、目に見える、アブラハムの子らである。それは生き方の区別ではない。というのも、神はイシュマエルがイサクと同じくらい善良な者になるようにされたからである。それは、何らかの区別を生み出すのは人の善良さではなく、神が「自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」ことを示すためであった[ロマ9:15]。

 では、何がその区別だっただろうか? パウロが私たちに告げているところ、最初の者はによって生まれたが、第二の者は御霊によって生まれた[ガラ4:29]。最初の者は天性の子だったが、もうひとりの者は霊的な子だった。律法主義者に尋ねてみるがいい。「あなたは良いわざを行なっています。自分は悔い改めたと云っています。律法を守っていますし、悔い改める必要はありません。さて、あなたは自分の力をどこから得たのですか?」 ことによると彼は、「恵みです」、と云うかもしれない。だが、もしあなたがそれはどういう意味かと尋ねると、彼は、自分は恵みを用いたのだと云う。彼には恵みがあったが、それを用いたのである。では違いは、あなたは自分の恵みを用いたが、他の人々はそれを用いなかったということである。しかり。よろしい。では、それはあなた自身のなしたことである。あなたはそれを恵みと呼ぶかもしれないし、辛子と呼ぶかもしれないが、それは恵みでも何でもない。というのも、あなたによれば、違いを生んだのはあなたが用いたことにあったからである。しかし、あわれなイサクに、いかにして彼が律法を守ってきたか尋ねてみるがいい。彼は何と云うだろうか? 実際、ひどいものです。イサク君、きみは罪人なのかい? 「おゝ! そうです。とてもひどい罪人です。私は何度となく父に反逆してきました。しばしば父から離れてさまよいました」。では、きみはイシュマエル君と同じくらい全く善人だとは思っていないのかい? 「ええ」。しかし、それでも、きみと彼との間には違いがあるね。何がその違いを生じさせたのだろう? 「それは、恵みが私を違った者にしたのです」。なぜイシュマエル君はイサクになっていないのだろうか? イシュマエル君はイサク君になれただろうか? 「いいえ」、とイサクは云う。「神こそ、最初から最後まで、私を異なる者にしてくださったお方なのです。神は、私が生まれる前から私を約束の子としてくださいました。そして神は私をそのようなものであり続けてくださるに違いありません」。

   「恵みはいかな 善行(てのわざ)も
   永久(とわ)にわたりて 有終(かざ)るなり。
   天国(あめ)の頂上(たかみ)の 冠石(いし)となり、
   たたえの歌ぞ ふさわしき」。

実はイサクは、ずっと多くの良いわざを行なっている。彼はイシュマエルに劣ってはいない。回心すると彼は、律法主義者がその主人に対して行なうよりもはるかに多くの奉仕を、可能な限り自分の父に対してささげようとする。だが、それでも疑いもなく、もしあなたが両者の話を聞いたとしたら、イサクが自分はあわれでみじめな罪人であると云うのを聞くであろうし、その一方でイシュマエルが自分のことを非常に立派なパリサイ的な紳士であると云い立てるのを聞くであろう。しかしながら、その違いはわざにあるのではなく、動機にある。生き方にあるのではなく、生き方を支える手段にある。――彼らが行なうことというよりは、彼らがそれを行なうしかたにある。ならば、ここにこそあなたがたの中のある人々の違いがあるのである。あなたがた律法主義者がキリスト者たちよりも悪い生活をしているというのではない。あなたはしばしばずっと良い生き方をしている。だがしかし、あなたは失われるであろう。あなたはそれが不公平だと文句を云うだろうか? 絶対にそんなことはない。神は人々が信仰によって救われなくてはならないと云っておられる。そしてもしあなたが、「いいや、私はわざによって救われることにする」、と云うなら、試してみてもいいが、あなたは永遠に失われるであろう。それはあたかもあなたにひとりの召使いがいて、あなたがこう云うようなものである。「ジョン、馬屋に行ってこれこれのことをしてくれ」。だが彼は出て行ってそれと逆のことを行なってから、こう云う。「旦那様、私は非常に見事な働きをしました」。「そうだな」、とあなたは云う。「だが、それは私がお前に云いつけたこととは違うよ」。それと同じように、神はあなたに向かって、良いわざによってあなたの救いを達成するよう告げてはおられない。むしろこう云っておられる。「恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」[ピリ2:14]。それで、あなたがあなたの良いわざを手に持って神の前に出て行くとき、神は云われるであろう。「わたしはあなたに、一度もそのようなことをするよう告げたことはない。わたしは、主イエス・キリストを信ぜよ、そしてバプテスマを受けよ、そうすればあなたは救われる、と云ったのだ」。「あゝ!」、とあなたは云う。「私はもう1つの道の方がずっと良い道だと考えたのです」。方々。あなたは自分の考えのために失われるであろう。「なぜ義を追い求めなかった異邦人が義を得た」*のに、義を追い求めたイスラエルはそれに到達しなかったのだろうか? それは、「信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです」[ロマ9:30-32参照]。

 III. さて、私は手短に一言二言、《イサクに対するイシュマエルのふるまい》について述べることにしよう。イシュマエルはイサクをからかったと記されている[創21:9]。親愛なるハガルの息子諸君。あなたがたの中のある人々は、この教理を聞いたとき、ことのほか苛立たしく感じたことはないだろうか? あなたは云った。「これはひどい話だ。何と忌まわしいことか。これは全く不公平だ。たといどんなに善良な人間であっても、約束の子でなければ、救われることができないというのか。何とむごいことか。これは不道徳な教理だ。これは、途方もない害悪をなすものだ。こんな教えを黙って聞いてはおれない」。もちろんそうである! これはあなたがイシュマエルのひとりであることを示している。もちろんイシュマエルはイサクをからかうものであって、私たちにはそれ以上の説明は必要ない。神の主権が純粋に宣べ伝えられ、肉の子でなく約束の子こそ相続人であると主張されるところでは、常にそれについて肉の子がやいのやいの云うものである。イシュマエルはイサクに何と云っただろうか? 「これは、お前には何の関係もないじゃないか。ぼくがうちの長男じゃないか。お前さえいなければ、ぼくが全財産を自分のものにしていたはずなんだ。お前がぼくより上だっていうのか?」 これが律法主義者の云い草である。「神は万人の父ではないだろうか。私たちはみな神の子どもたちではないだろうか。神は何の分け隔てもすべきではない」。イシュマエルは云った。「ぼくは、お前と同じくらいいい子じゃないか。ぼくだって父さんにちゃんと従っているじゃないか。お前について云えば、お前がお前の母さんのお気に入りだってことはお前もわかってるが、ぼくの母さんはお前の母さんと同じくらいいい母さんなんだぞ」。それで彼は、イサクをいじめたり、からかったりしたのである。これこそ、あなたがたアルミニウス主義者が無代価の救いについてしていることである。律法主義者は云う。「私には合点がいかない。私には理解できないし、理解しようとも思わない。もしわれわれがどちらとも等しい性格をしているとしたら、一方が失われて、もう一方が救われるというのは公正であるはずがない」。そして、そのようにして彼は無代価の恵みをからかうのである。あなたは、無代価の恵みをあからさまに宣べ伝えすぎない限りは、非常に仲良くやって行けるかもしれないが、もしこうした事がらを、たといそれが群衆にとって不快なことであっても、あえて口にするとしたら、人々は何と云うだろうか? 彼らはそれらを「人気取りのための餌」と呼ぶ。(『自由人』と呼ばれる新聞を見ればそれがわかる)。しかしながら、そうした餌に食いつく魚はまずいない。ほとんどの人々は云う。「私は奴を憎む。奴には我慢がならない。奴は愛がなさすぎる」、と。だのにあなたは、私たちがこうしたことを説教するのは人気取りのためだと云う! 左様。これは、あからさまにわかるように、白々しい嘘っぱちである。人々は常にこれを憎むものであり、イエスがこれをお教えになったときにしたのと全く同じように歯ぎしりするのである。主は云われた。イスラエルにもやもめは多くいたが、かの預言者[エリヤ]はだれのところにも遣わされず、サレプタにいたやもめ女にだけ遣わされた。また、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、はるか遠くシリヤからやって来た人[ナアマン]だけがきよめられた、と[ルカ4:25-27]。この説教によって私たちの《救い主》はたいへんな人気を博した。人々は主に向かって歯ぎしりした。そして主は、その時に博した人気によって、断崖の上から投げ落とされるところであった。記されているところ、そこから、彼らは主をまっさかさまに投げ落とそうとしたのである。だが主は彼らの中を通り抜け、逃れられた。何と! 人の高慢をへりくだらせ、人の立場を打ち砕き、人をあわれな罪人として神にへつらわせることが人気を取ると! 否。これは人々が御使いに生まれ、あらゆる人が主を愛する時が来るまで、決して人気を博することはないであろう。そして、そうした時がまだ来ていないことは確かである。

 IV. しかし、ここで問わなくてはならないのは、《このふたりの子がどうなったか》である。

 最初に、イサクは相続財産のすべてを得たが、イシュマエルは何1つ受けなかった。イシュマエルが貧乏人になったというのではない。彼は多くの贈り物を与えられ、非常に富裕になり、この世では有力者となった。だが、彼は何の霊的な相続財産も受けなかった。そのように律法主義者は、その律法遵守の報いとして多くの祝福を得るであろう。彼は尊敬され、敬意を払われるであろう。キリストは云われる。「まことに、パリサイ人たちはすでに自分の報いを受け取っているのです」*[マタ6:5、16]。神は、いかなる者からもその報いを奪い取りはしない。人は、小細工をして得ようとするものをみな自分のものとするものである。神は、人々に負っている負債をみな支払われるし、それよりもはるかに多くを支払ってくださる。神の律法を守る者たちは、この世においてすら、大きな恩顧を受け取るであろう。神の戒めに従うことによって彼らは、不徳義な人々のようには自分のからだに害を受けることがないし、自分の評判を保つことになる。――従順はこの世で善を施す。しかし、それきりイシュマエルは相続財産を何も得なかった。それで、あなたがた、あわれな律法主義者よ。もしあなたが自分のわざか、神の無代価の主権的な恵み以外の何物かにより頼んで、悪魔から解放されようとしているとしたら、あなたはカナンに足の踏み場すら受けることがなく、神がヤコブの子らにその相続地を割り当てるかの大いなる日には、あなたのためのものはひとかけらもないであろう。しかし、もしあなたがあわれなイサクのひとり、あわれな、有罪の、震えている罪人であるとしたら、――また、もしあなたがこう云うとしたら、すなわち、「イシュマエルは、その一握りのものを有すれど、

    わが手にもてる もの何もなし
    ただ汝が十字架に われはすがらん」。

もしあなたが今朝このように云っているとしたら、――

   「われは 無の無なれども
    イエス・キリスト すべてのすべて」、

もしあなたが肉の行ないすべてと縁を切り、「私は罪人のかしらですが、約束の子であり、イエスは私のために死んでくださいました」、と告白するとしたら、あなたは相続財産を受ける。そして、この世でいかにイシュマエルたちからからかわれても、それを奪われることはない。ハガルの子らによってそれが減ることはない。あなたは時として売り飛ばされ、エジプトに連れて行かれるかもしれないが[創37:28]、神はご自分のヨセフたち、ご自分のイサクたちを連れ戻されるであろう。そして、その後あなたは栄光へと引き上げられ、キリストの右の座に着くであろう。あゝ! 私はしばしば、外見上は善良な人々が地獄でいかに周章狼狽することかを考えてきた。「主よ」、とある人はそこへ行くなり云う。「私があの厭わしい土牢へ行かなくてはならないのですか? 私は聖日を守っていたではないでしょうか? 私は厳格な安息日厳守主義者だったではないでしょうか? 私は一生の間、一度も御名にかけて呪ったり悪態をついたことがありません。私があそこへ行くのですか? 私は全財産の十分の一を払ってきました。だのにあそこに閉じこめられなくてはならないのですか? 私は洗礼を受けました。主の晩餐にあずかりました。私は人としてできる限り善良な者でした。確かに私はキリストを信じはしませんでした。ですが私は自分がキリストを必要としているとは思わなかったのです。私は自分が十分善良で、十分立派な者だと思ったのです。だのに私はあそこに閉じこめられなくてはならないのですか?」 その通りである! そして、罪に定められた者たちの中でもあなたは、ひときわ抜きんでた者となるであろう。すなわち、あなたは何にもましてキリストを蔑んだ者となるであろう。他の者らは、決して反キリストを打ち立てはしなかった。彼らは罪を追い求めた。そしてあなたも、それなりに罪を追い求めたが、あなたは自分の罪に、この罪という罪の中でも最も憎むべき罪を加えたのである。すなわち、あなたは自分を反キリストとして打ち立て、あなた自身の思い描いた善良さを伏し拝み、礼拝してきたのである。そのとき神は前に進み出てこの律法主義者に告げるであろう。「これこれの日に、わたしはお前がわたしの主権をののしるのを聞いた。お前は、わたしがわたしの民を救い、わたしの恩顧をわたしの心のままに分け与えるのは不公平だと云っていた。お前は、お前の《創造主》の正義を非難した。それゆえ、お前は余すところなく正義を受けるのだ」。その人は、差引勘定では自分が大きな貸しを有していると思っていたが、それがほんのちっぽけな義務の切れ端でしかないないことを見いだす。だが、そのとき神は、その人のもろもろの罪を記した巨大な巻き物を取り上げなさる。そして、その末尾にはこう記されている。「神もなく、望みもなく、イスラエルの国から除外された他国人」*[エペ2:12]と! そのときこのあわれな人が見てとるのは、自分の小さな宝が半銭の値打ちもないこと、また、神の膨大な請求書が百億タラントもの額にのぼっているということである。それで彼は、すさまじい咆哮と、絶望的な悲鳴をあげては、自分を救ってくれると期待していた、功績という手持ちの紙幣を数枚かかえて逃げ出す。そしてこう叫ぶ。「私は失われている! 私のいかなる良いわざをもってしても失われている! 私の良いわざは砂粒だが、私の罪は山々なのだ。私には信仰がないので、私のあらゆる義は、白く塗った偽善だったのだ」。

 さて、さらにまた、イシュマエルは追い払われたが、イサクは家の中にとどめられた。そのように、あなたがたの中のある人々は、かの探りきわめる日が神の教会を試しにやって来るとき、たといそれまで他の人々と同じように教会の中で生きてきたとしても、たとい信仰告白の仮面をかぶっていたとしても、それが役に立たないことを見いだすであろう。あなたは、あの兄息子のように、あわれな放蕩息子が教会に入ってくると常に、こう云っていた。「遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか」[ルカ15:30]。あゝ! ねたみにかられた律法主義者よ。あなたは最後には家から放逐されるであろう。律法主義者よ。形式主義者よ。私はあなたに告げる。あなたとキリストとの関わりは、異教徒たちとキリストとの関わりと同じ程度でしかない。たといあなたがキリスト教式の洗礼を受けているとしても、たといあなたがキリスト教の聖餐卓につくとしても、たといあなたがキリスト教の説教を聞くとしても、あなたは、このことについては、カトリック教徒かイスラム教徒と同じくらい何の関係もないし、それにあずかることもできない。単純に神の恵みに信頼し、約束による相続人となっている者以外はみな同じである。ほんの少しでも自分のわざに信頼する者はだれであれ、そのほんの少しの信頼によって魂が滅ぼされることに気づくであろう。天性が紡ぎ出すものはみな、解きほぐされなくてはならない。わざによって建造された船は、その竜骨を真二つにへし折られなくてはならない。魂は、単純に、また全く神の契約に信頼しなくてはならない。さもなければ、その魂は失われるのである。律法主義者よ。あなたはわざによって救われようと希望している。では、来るがいい。私はあなたを敬意とともに遇するであろう。私はあなたが酔いどれであったとか、悪態をつく者であったと非難しはすまい。だが、あなたにこう尋ねたい。あなたは、自分のわざによって救われるようとする者が、完璧な完全さを必要としていることに気づいているだろうか? 神は律法の全体を守ることを要求しておられる。もしあなたの持っている器に亀裂が入っているとしたら、それがいかにささいな亀裂であっても、それは完全な器ではない。あなたは全生涯の間、1つも罪を犯したことがないだろうか? あなたは今まで一度も悪い思いをいだいたことがないだろうか? 一度も悪い想像にふけったことがないだろうか? さあ、方々。私はあなたが、その子山羊皮の白手袋に情欲や肉欲といった汚点をつけたことがあるとは思わない。あるいは、それほど上品な言葉遣いをするあなたの洗練された口が、悪罵やみだらな言葉を発するほど下落したことがあるとは思わない。私は、あなたがこれまで卑猥な唄を歌ったことがあるなどと想像しはすまい。そのようなことは論外であると考えるであろう。――だが、あなたは一度として罪を犯したことがないだろうか? 「いいえ」、とあなたは云う。ならば、このことに注意するがいい。「罪を犯した者は、その者が死ぬ」[エゼ18:4]。私があなたに云いたいことはこれに尽きている。しかし、たといあなたがこれまで罪を犯したことを否定するとしても、あなたは、将来1つでも罪を犯さないかどうか知っているだろうか?――たといあなたが七十年間、完璧な人生を送るとしても、その七十年の最後に1つでも罪を犯すとしたら、あなたのすべての従順は水泡に帰すのである。というのも、「一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです」[ヤコ2:10]。「先生」、とあなたは云う。「その話の前提が間違っていますよ。なぜって、私もいくらか良いわざをすべきだとは信じていますが、イエス・キリストが非常にあわれみ深いお方であると信じているからです。そして、たとい私が厳密に完璧ではないにせよ、私は真摯です。そして真摯な従順さは、完璧な従順のかわりとして受け入れられるだろうと思います」。思いますと! では聞きたいが、真摯な従順とは何だろうか? 私の知っていたある人は、一週間に一度酔っぱらうことにしていた。彼は非常に真摯であり、日曜日に素面でありさえすれば、自分が何も間違ったことなどしていないと思っていた。多くの人々は、自分で真摯な従順と呼ぶものを有している。たが、それは常に不義を許容する多少の余地を残したものである。しかし、そこであなたは云う。「私はそれほど大きな余地は取っていません。私が許しているのは、ほんの小さな罪だけです」。愛する方々。あなたは、あなたの真摯な従順について全く思い違いをしている。というのも、もしこれが神の要求しておられることだとしたら、何百人もの極悪の性格をした人々が、あなたと同じくらい真摯であることになる。しかし、私はあなたが真摯であるとは信じない。もしあなたが真摯であったとしたら、あなたは神がこう云っておられることに従おうとするはずである。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31]。あなたの真摯な従順は、私には真摯な迷妄であると思える。そして、あなたもその通りであることに気づくであろう。「おゝ」、とあなたは云う。「私は、私たちがすべてをなし終えた後で、イエス・キリストのもとに行かなくてはならず、こう云わなくてはならないことを信じています。『主よ。ここには非常に大きな欠けがあります。それを補ってくださいませんか?』、と」。聞いた話だが、かつては、魔女たちの体重を教区聖書の重さとくらべて、もし彼女らの方が重いとわかったら、無罪であると宣言されていたという。だが、魔女と聖書を同じ秤皿に載せるというのは、まるで新しい考えである。左様。キリストは、あなたのような、うぬぼれきった愚か者と一緒の秤皿にはお乗りにならないであろう。あなたはキリストに、目方の不足を補う足しになってもらおうとしている。主はその賛辞については大いにあなたに感謝するであろうが、そのような卑しい奉仕を受け入れはしないであろう。「おゝ」、あなたは云う。「キリストは、救いということで私を補助してくださるに違いありません」。しかり。私はそれがあなたを喜ばせるであろうことがわかる。だが、キリストは非常に異なる種類の《救い主》である。キリストは、何かを行なう際には、それをすべて行なうという性向を持っておられる。主が世界をお造りになったとき、主は御使いガブリエルに向かって、溶融した物質をその翼で冷ますように頼んだりせず、それを全くご自分ひとりで行なわれた。救いにおいても同じである。主は云われる。「わたしは、わたしの栄光を他の者に与えはしない」*[イザ42:8]。そして、私はぜひあなたに思い出してほしい。あなたがキリストのもとに行くと公言しながら、しかし救いにおいて多少の割り前を自分のものとすると云うとき、思い出してほしい。聖書の中には、あなたにうってつけの箇所がある。それを、好きなときに噛みしめてみてほしい。「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります」[ロマ11:6]。というのも、もしあなたがこの2つを混ぜ合わせるとしたら、あなたはその双方を駄目にしてしまうからである。方々。家に帰って、火と水を混ぜ合わせようとしてみるがいい。自分の家の中に獅子と子羊の両方を飼おうと努力してみるがいい。そして、もしあなたがこうしたことに成功したとしたら、私に告げてほしい。自分は、わざと恵みを一致させることができた、と。だが私はあなたに云うであろう。それでもあなたは私に嘘をついているのだ。その2つはあまりにも本質的に対立しているため、そのようななことはできないのだ、と。あなたがたの中のだれであれ、そのすべての良いわざを投げ捨てて、イエスのもとに、このように「何も、何も、《何も》」持たずにやって来ようとするならば、

    わが手にもてる もの何もなし
    ただ汝が十字架に われはすがらん。

そう云ってやって来るならば、キリストは十分に良いわざをお与えになり、その御霊はその人の内側で働いて、主のみこころのままに志を立てさせ、事を行なわせ、あなたを聖く完全な者としてくださるであろう。だが、もしあなたがキリストの前に聖潔を得ようと努力しているとしたら、あなたは本末転倒の始め方をしているのである。根を有する前から花を求めているのである。そして、その愚かしさのゆえに痛い目に遭うのである。イシュマエルたち。いま主の前でおののくがいい。そして、それ以外の人々がイサクたちだとしたら、常に覚えておくがいい。自分が約束の子なのだということを。しっかりと立つがいい。奴隷のくびきを負わせられてはならない[ガラ5:1]。あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからである[ロマ6:14]。

 

サラとハガルの比喩[了]

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