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全教会に対する厳粛な警告

NO. 68

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1856年2月24日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである」。――黙3:4


 私の学殖豊かにして、こよなく敬虔な前任者、ギル博士の意見によると、黙示録で語られている個々の教会は、神の教会が順次経ていく個々の状態を象徴しているという。博士の考えるところの教会は、イエス・キリストがその真中で支配なさるフィラデルフィアの状態、すなわち、愛の状態に至るまで進んで行き、その後、ラオデキヤの状態に陥る。そしてその状況の中で、突如として《人の子》が来臨し、義をもって世界を審き、公正をもって国々の民を審く[詩98:9]というのである。私は、その仮説のすべてにおいて博士と同意見というわけではないし、この7つの教会が、連続して進む歴史上の7つの時期に相当するとも考えていない。だが、サルデスにある教会が、博士の時代の教会に最もふさわしい表象であるという博士の宣言は正しかったと思う。この善良な老博士は云う。「教会が、何にもましてサルデスの状態に似ているような時期が、今をおいてほかに見いだせるだろうか?」 そして博士は、当時の教会が(そして私の確信するところ、これは現在の教会についても、いやまして真実なことだと思うが)、まさしくサルデスにある教会と軌を一にしている個々の詳細を指摘している。私は、サルデスにある教会を1つの象徴として、現時点におけるキリスト教界の悲しい状況と思われるものを示したいと思う。私の第一の点は、大規模な汚れである。――サルデスに、「その衣を汚さなかった」人々は「幾人か」しかいなかった。第二に、特別な保存である。――幾人かの人々は、その衣を汚すことがなかった。そして第三に、独特の報いを有する人々である。――「彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである」。

 I. 《大規模な汚れ》。聖なる使徒ヨハネは、サルデスにある教会についてこう云っている。「神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。『わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる」[黙3:1-4]。

 サルデスにある教会の大規模な汚れの1つとして、彼が最初に持ち出している告発は、彼らが公の信仰告白を大々的に行なっていながら、真摯な信仰をほとんど有していなかったということである。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる」。これは、現代、目を覆わんばかりにはびこっている罪である。私は、病的な気分に身をゆだねようとは思わないし、神の教会について陰鬱な見方をするつもりもない。いつでも寛容な精神を現わしたいと願っているし、できる限り、教会全般について良いことを語りたいと思う。だが、いかなる教役者であれ、己が真実と信ずることを、尻込みして宣言しないようであってはならない。この国のあちこちを行き巡る中で、私はこの結論に達せざるをえなかった。すなわち、教会という教会の中には、おびただしい数の、「生きているとされているが、実は死んでいる」人々がいる、と。キリスト教信仰は当世の流行である。商店主は、どこかの教会に所属していなければ、まともな商いがまずできないであろう。礼拝が行なわれている場所に出席するのは立派なこと、誉れあることとみなされている。それで人々は大挙して信心深げにしているのである。特に、議会すらある程度まで現実にキリスト教信仰を是認している現今では、偽善がいやまさってはびこるであろうこと、形式的な信心がいずこでも真のキリスト教信仰に取って代わることは当然予期されてしかるべきであろう。あなたは、キリスト者であると自称しない人に出会うことはまずないが、だがしかし、骨の髄から徹底して天の御国の良いわざに献身している人に出会うことも、それと同じくらい至難のことである。私たちは何百人もの信仰告白者に出会う。だがそれでも、持っている者とは、ちらほらとしか出会えないことを予期しなくてはならない。国中があっという間にキリスト教化されたように見受けられる。しかし、これは本物だろうか? 真摯だろうか? あゝ! 残念ながらそうではないと思う。一体なぜ信仰告白者たちが他の人々と同じような生き方をしていられるのだろうか? なぜ教会と世の間には、これほど僅かな相違しかないのだろうか? あるいは、何らかの違いがあるとしても、なぜ不敬虔な人を相手にする方が、義人であると公言する人を相手にするよりも安全なことが多いのだろうか? なぜ高らかに信仰を告白している人々が、世俗的な基準に合わせて生き、他の人々と同じ快楽にふけり、同じ生活様式で暮らし、同じ動機から行動し、同じしかたでふるまっていられるのだろうか? 近年は、神の子らが人の子らと密接な関係を結んでいる時代ではないだろうか? また、神が、「わが民よ。彼らの中から出て行くがいい。あなたがたが彼らの疫病にあずかる者となるといけない」、との御声を送ってくださらない限り、これから何か恐ろしいことが起こると恐れてよいではないだろうか? わが国の教会を全体として取り上げてみるがいい。――そこには人数は欠けていないが、いのちが欠けている。さもなければ、なぜ祈祷会の出席率がこれほど悪いのだろうか? 使徒たちによって示された熱心や熱誠はどこにあるのだろうか? 生ける神の御霊はどこにおられるのだろうか? 御霊は離れ去ってしまわれたのだろうか? 多くの聖所の壁には、「イ・カボデ」[栄光は去った]と書かれているのではないだろうか[Iサム4:21-22]? 諸教会にいる人々は、生きているとされているが、実は死んでいる。そこには、その種々の協会があり、組織がある。だが、生きた敬虔さはどこにあるだろうか? 内なる敬神の思いはどこにあるだろうか? 真摯な信仰はどこにあるだろうか? 実際的な敬虔さはどこにあるだろうか? 堅固で、断固たる、清教徒的な信心の思いはどこにあるだろうか? 神に感謝すべきことに、サルデスにもその衣を汚さなかった人々が数名はいる。だが、愛によってさえ私たちには、概して教会が神の御霊を有していると云うことはできない。

 それから次の告発は、サルデスにある教会全体には、熱心が欠けていた、ということであった。彼は、「目をさましなさい」、と云う。彼はその教会を眺め、監督たちが眠りこけ、長老たちが眠りこけ、人々が眠りこけているのを見た。彼らは、以前のようには真理に目を配り、それを守るためにともに苦闘し、熱心に戦ってはいなかった。魂の敵と組み打ちすることも、自分たちの《主人》の御国が進展するために労苦することもしていなかった。むしろ使徒が見たのは、眠気と、冷淡さと、無気力さであった。それゆえ彼は云ったのである。「目をさましなさい」、と。おゝ! ヨハネよ。もしあなたが、あなたの墓から起き上がることができたとしたら、そして、その目に御霊による油注ぎを受け、教会がサルデスにある教会のようになっているのが見えたとしたら、あなたは、これは今でも同じだと云うであろう。あゝ! ここには、おびただしい数の冷淡で、計算高いキリスト者たち、信仰告白者たちの大群がいる。だが、熱心な者はどこにいるだろうか? 神の子らの指導者らはどこにいるだろうか? 戦いの日に立つ、あなたの英雄たちはどこにいるだろうか? キリストを得、また、キリストの中にある者と認められるためなら、「自分のいのちを少しも惜しいとは思わない」*[ピリ3:8-9; 使20:24]人々はどこにいるだろうか? 魂への熱烈な愛をいだいている人々はどこにいるだろうか? わが国のどれだけ多くの講壇が、真剣で熱情的な説教者によって占められているだろうか? 悲しいかな! 教会を見てみるがいい。教会は、自分のために、ローマカトリックの真似をした瀟洒な建物を建てている。祭服を身にまとっている。その質朴さから迷い出てしまっている。かつて有していた火といのちを失ってしまっている。わが国の諸会堂に入ると、何もかも趣味よく整えられている。風琴が奏でられるのが聞こえ、聖詩詠唱はいかに鋭い耳の人にも見事に調和して聞こえ、そこには僧服や雅な祭服があり、すべてが荘重で麗々しく、神が敬われていると私たちは思う。だが、おゝ、ホイットフィールドが桶に乗って説教した日々、彼らの講壇がケニングトン広場にあり、彼らの屋根が天空であった日々がもう一度来れば何とよいことか。おゝ、私たちが再び納屋か、地下墓所で説教する時代が来るとしても、そうした場所でかつての人々が有していた神のいのちがありさえすれば、どんなに良いことか。実が失われているとしたら、殻を飾り立てて何になるのか。行って、あなたの父親の墓を白く塗るがいい。だが、それが白く塗られた墓であることはわきまえておくがいい。そこからいのちが失われているからである。あなたの杯や皿の外側を飾り立てるがいい。だが、あなたは神のきよいことばは失ってしまっている。単純で、真剣な、切々と訴える調子で宣べ伝えられるみことばを、あなたがたは失ってしまっている。むしろ人々が教職につくのは一片のパンのためである。彼らは真理の全体を語ることから尻込みするか、それを語っているように見えても、冷たく、無意味で、味気ない言葉によってそうしている。まるで、魂が罪に定められようが救われようがどうでもよく、天国に人々が大勢いようが僅かしかいまいがどうでもよく、キリストがご自分のいのちの激しい苦しみの結末[イザ53:11]を見て満足しようがしまいがどうでもよいかのように思われる。私は激越なことを語っているだろうか? 私はかつてアーヴィングが云ったのと同じように云える。すなわち、もし私が、自分の云っていることを真実だと信じていなかったとしたら、拷問台の上で骨を砕かれるに値する。こうした事がらを口にするのは火刑に相当するであろう、と。だが神が私の証人である。私は努めて偏ることなく判断し、語ろうとしてきた。現今これほど広くはびこっている愛の大合唱により、私は白い目で見られている。だが、そんなことは気にならない。自分の見いだした通りの物事を語ることにしよう。私たちの信ずるところ、教会はその熱心と熱誠を失ってしまった。しかし、人々は私たちのことを何と云っているだろうか? 「おゝ! それは興奮しすぎですよ」。善なる神よ! 興奮していると! 人々が罪に定められつつあるときに、興奮していると! 死に行く魂に向かって宣べ伝えるべき天の使命を有しているときに、《興奮していると!》 魂が失われつつあるときに、説教をしすぎると! なぜひとりの人が一週間の間中、絶え間なく労苦しているのに、他の人々は寝椅子の上でだらだら過ごし、聖日しか説教しないなどということになっているのだろうか? 私は教役者たちの、また諸教会の怠惰さ、無精さ、冷淡さを見ていながら、何も云わずに我慢していられるだろうか? 否! そこには抗議がなされなくてはならない。そして私たちは今その抗議をしているのである。おゝ、神の教会よ。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。目を覚めせ! 目を覚ませ! 死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる[エペ5:14]。

 ヨハネがサルデスに対して持ち出している第三の告発は、彼らが、「死にかけているほかの人たちを力づけ」ていなかったことにあった。私はこれが、あわれな、か弱い聖徒たちを指していると受け取りたい。彼らは、神の真の子らであって、こうした人々の真中で悲しみ、嘆き、呻いていた。サルデスの状況ゆえの悲しみに押しつぶされそうになり、今にも「死にかけて」いた。では、教会はいま何をしているだろうか? 羊飼いたちは、傷つき、病み、衰えている者たちを探しに行っているだろうか? 子羊をふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導いているだろうか? あわれな苦悩する良心に気を配ったり、自分が罪過と罪の中に死んでいることを痛感している者たちに語りかけたりしているだろうか? しかり。だが、どのようなしかたで語っているだろうか? 彼らは、相手ができもしないような事がらを告げる。――不可能な義務を果たすように云う。――「死にかけているほかの人たちを力づけ」ることなど全くしない。近頃では、真に新しく生まれた神の子らは、何とはなはだしい軽蔑をもって遇されていることか! 彼らは変わり者と呼ばれ、無律法主義者であると嘲弄され、奇人変人だと叱責される。神のことばを人間の空想に引き下げる通例のしかたに従わないので、高踏的な教理の人間だと叱りつけられる。頑迷の徒、偏狭な人間だと呼ばれ、その信条は無味乾燥で、非情で、がさつで、過酷なカルヴァン主義だと決めつけられる。神の福音が非情で、がさつで、過酷だと呼ばれているのである! 私たちの父祖たちが命を捨てても守り抜いた事がらが、今では恥ずべきことと呼ばれているのである! 注意してみるがいい。果たして真理のことで目立った立場を取る人が、忌み嫌われ、愚弄されないかどうかを。もしあなたがある村に行き、そこで多大な悪影響を及ぼしているというあわれな人々のことを聞くとしたら、その人々こそ福音について最もよく理解している人々ではないだろうか? 行って、その教役者に、彼が最も嫌いな人々はだれか尋ねてみるがいい。彼は云うであろう。「この土地には、始末に負えないほど多くの無律法主義者がおりますわい」。それはいかなる人々のことだろうか? 真理を愛する人々、真理の全体を愛する人々、まぎれもない真理だけを愛する人々、そして真理をいだこうとする人々、また、それゆえに始末に負えない無律法主義者の一団だと呼ばれている人々である。あゝ! 私たちはかつて有していたものを失ってしまった。今の私たちは、「死にかけているほかの人たちを力づけ」ていない。彼らはしかるべきほど面倒を見られておらず、愛されておらず、養われていない。地の塩は、今やあらゆるもののかす[Iコリ4:13]となっている。神が愛された人々、敬虔さにおいて高い位置に達した人々――こうした人々こそ、バアルに膝を屈そうとしない者たちであり、それゆえ、迫害と中傷との燃える炉に投げ入れられる者たちなのである。おゝ、サルデスよ! サルデスよ! 私はあなたをいま見ている。あなたは、あなたの衣を汚してしまった。神に感謝すべきかな。ごく僅かばかりの人々は、悪を行なう大勢に流されずに、「白い衣を着て歩む」*。「彼らはそれにふさわしい者だからである」。

 神が教会に対して持ち出されたもう1つの告発は、彼らが自分の聞いたことについて無頓着だったということである。こう云われる。「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい」[黙3:3]。たとい私が他の点については間違っていようと、このことだけははっきりしている。この時代の罪は、教理の不純さと、信仰のしまりなさである。さて、知っての通り、あなたが日曜ごとに聞かされるのは、何を信ずるかなどに意味はない、教理など大して重要ではない、神の恵みの諸教理について云えば、それはどちらかと云えば危険なものであり、詮索などしない方がよい、それらは司祭たちにとっては非常によいものだが、あなたがた一般大衆には理解できないものだ、ということである。このようにして彼らは、福音の一部を用心深く除外し、押し隠しているのである。だが、悪魔の新設詭弁学校上がりの彼らは、いかにして特定バプテストと自称しながら一般的な諸教理を説くか、いかにしてカルヴァン主義者と自称しながらアルミニウス主義を説くかを熟知しており、人々に向かって、自分が忌まわしい異端を説こうが、神の真理を説こうがどうでもよいことだと告げている。では、会衆は何と云っているだろうか? 「でもまあ、先生は頭のいい方ですから、一番良くご存知ですよ」。このようにしてあなたは、最悪の宗教的事大主義へと逆戻りしつつあるのである。長老は大挙して司祭となり、教役者は多くの場所で司祭となっている。なぜなら、人々が自分で物事を調べようとせず、自分で神の真理を把握しようと努力しないからである。至る所で、われわれには何の問題もないと公言されている。たといある人が、神は世界の基の置かれる前から御民を愛されたと云い、別の人がそうではなかったと云おうと、――たといある人が、神は変わることがありえるし、御民に背を向けてしまうと云い、別の人が、神は彼らを最後まで堅く守られると云おうと、――たといある人が、キリストの血は、それが流されたすべての人々にとって有効であると云い、別の人が、それはキリストがお死になった人々のうち大勢の者にとっては効力がないのだと云おうと、――たといある人が、律法の行ないはある程度まで必要だ、あるいは、いずれにせよわれわれは持っているものを向上させるべく努力しなくてはならないのだ、そうすればより多くのものが得られるのだと云おうと、別の人が、「私たちは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」*[エペ2:8]、と云おうと、――それでも両者ともに正しいのである。これは新時代である。虚偽と真理が口づけを交わしあえるのである! これは新しい時勢である。火と水が仲良くしていられるのである! これは素晴らしい時勢である。地獄と天国が連合し、虚偽と過誤が手に手を取り合うのである。「われわれはみな兄弟なのです」、と今は叫ばれている。私たちが非常に異なる一族同士であろうと関係ない。あゝ! 今や、真理のことなど、偏狭頑迷の徒(と呼ばれる者たち)以外のだれがこだわるだろうか。選び――何と忌まわしいことか! 予定――何と恐ろしいことか! 最終的堅忍――何とひどいことか! だが、清教徒たちの著作の頁に目を向けてみれば、こうした真理が毎日説教されていたことがわかるであろう。教父たちに目を向けてみるがいい。アウグスティヌスを読むがいい。こうした事がらのためにこそ、彼が血を流し、死をも賭したことがわかるであろう。聖書を読むがいい。もしもそのあらゆる頁にこうしたことが満ちていないとしたら、私は――また神のいかなる子らも――それを正しく読んでこなかったのである。左様。教理のしまりなさは、現今の大きな過ちである。私たちはそれに厳粛に抗議する。あなたは私が全く何でもないことについて騒ぎ立てていると思うかもしれない。あゝ! 否。私の不安な霊は次の世代を見ている。――それは、いかなるものとなるであろうか。この世代は――アルミニウス主義である。次には何だろうか? ペラギウス主義である。では、その次は何だろうか? カトリック教である。では、その次は? あなたの推測にまかせよう。過誤の路は常に下り坂である。私たちは、誤った方向に一歩踏み出してしまった。どこで私たちが立ち止まることになるかは、だれにもわからない。もしも過去の時代に剛毅な人々がいなかったとしたら、今でさえ主は私たちに残りの者を残されなかったであろう。あらゆる恵みは死に絶えていたに違いなく、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう[イザ1:9]。おゝ、生ける神の教会よ。目を覚ませ! 目を覚ませ。再び真理をあなたの軍旗に大書するがいい。真理をあなたの剣に刻印するがいい。そして、神のため、みことばのために突撃するがいい。あなたがた、真理の騎士たち。突撃せよ! 容赦なく切り殺せ。過誤をあなたの面前で死なせよ。真理が、真理だけが、全世界を統べる王となるまで!

 しかし、ここで私は鞭を振り上げ、さらにもう一打ちしなくてはならない。どれでもいいから教界内の好きな派を眺めてみるがいい。私の属している派でもよい。そして、果たしてそれらが自らの衣を汚していないかどうか、私に尋ねさせてほしい。英国国教会を眺めてみるがいい。その信仰箇条は、ほとんどの点において純粋で正しい。だが、その衣がいかに汚れているか見るがいい。それは神のかわりに女王をその首長とし、国家に拝礼し、己の前に据えられた金の子牛を礼拝している。その忌みきらうべきわざを眺めるがいい。その兼職兼領を、その無為徒食の主教たちを見るがいい。その在郷の不敬虔な聖職者たちが罪のうちに生活しているのを見るがいい。自分の教会がその衣を汚してしまっていることを知らない国教徒は、当然のことながら、自分の母なる教会をひいき目で見ている。だが、真実を語れないというのではひいきのひき倒しである。しかし、善良な国教徒たちは自ら泣いている。私の語っていることが真実だからである。それでは、ジョン・ウェスレーの団体を眺めてみるがいい。彼らはその衣を汚していないだろうか? 見るがいい。いかに彼らが最近、北米の奴隷たちについて、類例もないほど呪わしい独善的な主張をしていることか。いかに彼らが分裂していることか。いかに彼らも結局は、少なくともその告白するところ、神の真理を握ってはおらず、教理において不完全であることか。独立派であれ、バプテスト派であれ、他のどの派であれ、――彼らはみな何らかのしかたでその衣を汚していないだろうか? 周囲の諸教会を眺めわたして、見るがいい。いかに彼らが、決して対象とすべきでない者らにバプテスマを授け、聖なる教会の儀式を単に自分たちの赤子たちを養うパン切れにすることによって、自らの衣を汚していることか。また、見るがいい。いかに彼らがキリストの栄誉を取り去っていることか。子どもたちのために意図された食物を取り上げて、それを不敬虔な者らに投げ与えていることか。私たち自身の教派を眺めてみるがいい。見るがいい。いかにそれが福音の主要な諸真理を店晒しにしていることか。このことの証拠として、私は関係教会の何百もの講壇を指し示すであろう。おゝ、神の教会よ! 私は荒野で叫ぶ声にすぎないが、それでも叫ばなくてはならない。「明けの明星よ[イザ14:12]。どうしてあなたは天から落ちたのか。どうして落ちたのか!」 「あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい」。もし、目を覚まさなければ、あなたの《主人》は盗人のように来る。あなたには、主がいつあなたのところに来るか、決してわからない。

 II. しかし、ここから私たちが手がけていくのは、はるかに容易な務めである。それは、私たちが自分の義務と考えるものを避けたいがためではない。たとえそれが、今この場にいる多くの人々の感情を害することになっても関係ない。むしろそれは、私たちが、もしできることなら常に褒め言葉を語るのを喜ぶからである。「しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる」。ここに見られるのは、《特別な保存》である。注目するがいい。「幾人かいる」。ほんの幾人かである。ある人々が考えるほど僅かではないにせよ、他の人々が想像するほど多くもない! 信仰告白者の大群にくらべれば少数である。神の真の子らにくらべてさえ少数である。神の子らの多くはその衣を汚してしまったからである。彼らはほんの少数であったが、その少数がサルデスにさえいた。この「幾人か」をすら有さないほど腐敗した教会は地上に1つもない。あなたがた、常に自分の教派のために大いに戦っている人よ。あなたは他の教派をサルデスだと考えている。だが、サルデスにすら幾人かはいるのである。たといその教派が全プロテスタント教派中、最悪のものだったとしても、サルデスには幾人かがいる。そして、もしかすると、それが私たちの教派についてせいぜい云えることかもしれない。それで、私たちは彼らをみな同じように扱うことにしよう。サルデスには幾人かがいる。――そこに注目するがいい。あなたがフィラデルフィアと考えるもの、あなた自身の祝された教会にではなく、サルデスにいる。――そこに幾人かがいるのである。異端と虚偽の教理があるところ、儀式や典礼について多くの過ちがあるところ、そこにも幾人かはいる。そして、人々が国家にへつらっているところにすら、幾人かはいる。――左様。立派な少数、私たちの愛する少数、私たちが交わりを持てる人々がいるのである。このことによって私たちは、その団体全体に対しては厳しく当たらされるが、至る所にいる神の愛する民すべてに対しては愛にあふれる者とさせられる。サルデスにすら、幾人かはいるのである。よろしい。私は、サルデスに住んでいる兄弟と出会うときには、彼がその幾人かのひとりであることを期待しよう。そしてあなたも、そのような人と会うときには、こう云ってほしい。「あゝ! よろしい。私は私の兄弟が悪い教会からやって来たことを知っている。だが、サルデスにも幾人かはいる。そして、おそらく彼もそのひとりであろう」、と。それこそ、神が愛される種類の愛である。サルデスには何の問題もないと云うような普遍的な愛ではなく、サルデスの幾人かは真摯であると云うような愛である。私たちは今朝、神の前に立ってこう云った老エリヤのように立っている。「ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています」[I列19:14]。しかし、神はこう囁かれる。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある」[ロマ11:4]。元気を出すがいい。キリスト者よ。サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。――それを忘れてはならない。元気を出すがいい。まだすべてが腐り果てたわけではない。中心には、まだ健全さが残っている。「恵みの選びによって残された者」がいる[ロマ11:5]。そこには「塩」があり、自分の衣をある程度まで汚してしまった多くの人々も、その塩のゆえに救われるであろう。彼らは、この幾人かと同じように天国に入るであろう。だが、この幾人かには、特別の栄誉と、特別の祝福があるであろう。ならば元気を出すがいい。そして、密室に入って教会の悲しい状態について嘆くときには、あの善良な老婦人がその密室で呻き、泣いているのを聞くように思うがいい。あの教役者が忠実にみことばを取り次いでいるのを聞くように思うがいい。あの勇敢な執事が神の真理のために立っているのを見るように思うがいい。あの青年が誘惑のさなかで力強く立っているのを見るように思うがいい。こうしたサルデスにいる幾人かについて考えるがいい。そうすれば励まされるであろう。落胆しきってはならない。幾人かの英雄たちは、戦いの日に後ろを見せなかった。幾人かの勇士たちは、今も真理のために戦っている。勇気づけられるがいい。サルデスには幾人かがいる。しかし、注意するがいい。というのも、もしかするとあなたは、その幾人かのひとりではないかもしれない。そこにいるのがほんの幾人かでしかない以上、心を大いに探りきわめるべきである。自分の衣に目をやって、それが汚れていないかどうか見るがいい。汚れていなければ、私たちは白い衣を着て歩くであろう。私たちはイエスによってふさわしい者となっているからである。活発であるがいい。祈り深くあるがいい。みわざを行なう働き人が少なければ少ないほど、あなたが活発になるべき大きな理由がある。これほど少数しかいないのだから、時が良くても悪くてもしっかりやるがいい[IIテモ4:2]。おゝ! もし私たちが背後に何百人も擁しているとしたら、「彼らに働いてもらおう」、と云ってもよいであろう。しかし私たちがほんの少数の人々としかともに立っていないとしたら、その少数のひとりひとりがいかに、そここに突進して回るべきことか! ある町が包囲されているとする。そこには住民がたくさん住んでいる。その半数は眠り、残りの者らが城壁を見張るという形で、彼らは各人の負担を軽減している。別の町には守り手がほんの少数しかいない。見るがいい。いかにその戦士が、まずあの破れ目に突進しては敵を背走させ、次には別の場所にその力を注ぐことか。ある稜堡が襲撃されれば、彼はそこにいる。次には裏門が攻撃される。――やはり彼は手兵を率いてそこにいる。彼はここにも、そこにも、どこにでもいる。なぜなら彼は、自分の回りに集まることのできる者が、ほんの一握りしかいないと感じているからである。勇気を出すがいい。元気を出すがいい。いかに熾烈な活動にも自らを奮い立たせるがいい。というのも、まことに、自分の衣を汚さなかった者は、サルデスには少数しかいないからである。何にもまして、祈り深くあるがいい。あなたの熱心な叫びを神にぶつけるがいい。神が忠実な者らの数を増やし、堅く立とうとする選びの民の人数を増加させ、七倍も熱くした炉の中で教会をきよめ、かの三分の一[ゼカ13:9]を火の中に入れてくださるように、と。多くの純金がもはや曇ってはいない日、栄光が再びシオンに戻って来る日が来るように、神に叫び求めるがいい。神に懇願するがいい。暗雲を取り除き、「さわれるほどの闇」*[出10:21]を除去してくださるように。今までの倍も祈り深くなるがいい。というのも、サルデスには、その衣を汚さなかった者がほんの幾人かしかいないからである。

 III. ここから第三の点に移るが、それは《独特の報い》である。「彼らは白い衣を着て歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである」*。注意深い読者は気づいたであろうが、たった今この箇所を引用した際に、私はこの箇所の中で最も甘やかな言葉を1つ省略した。ここには、こう記されている。「彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである」。これこそ、この栄誉の真髄である。もしその残りの部分が黄金だとしたら、これは宝石である。「彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む」。すなわち、地上におけるキリストとの交わりは、自分の衣を汚さなかった者たちにとって特別の報奨となる、ということである。さて、私はもう一度、非常に厳しいことを云わなくてはならない。だが、真実のことである。どこでもいいから好きな人々の集団に行ってみるがいい。あなたはそこで、キリストとの交わりを保っている多くの人と出会うだろうか? たとい彼らが信心深い人々、廉直な人々だったとしても、キリストとの交わりを保っていますかと尋ねられたとき、あなたが何のことを云っているのか理解できるだろうか? あなたがそうした人々に、キリストとの交わりを保っている人々が好んで読むはずの、甘やかな霊的書物を与えても、彼らは云うであろう。この本はちんぷんかんぷんだ、好きになれない、と。彼らに尋ねてみるがいい。一時間でもキリストについて瞑想していられるかどうか、一度でも天国に昇って、その頭を《救い主》のみ胸にもたせかけたことがあるかどうか、一度でも安息に入り、カナンに足を踏み入れるとはどういうことかわかったことがあるかどうか、神がいかにして私たちをともによみがえらせ、キリスト・イエスにあって、私たちをともに天の所に座らせてくださったか[エペ2:6]を理解しているかどうか、このようにしばしば云うことができるかどうかを。

   「甘美(あま)きに満ちて われは歌わん。
    汝が愛みなぎる、わが魂(たま)奪いて。
    わが神、王にて、われはゆるがじ
    尽きることなき 永久(とわ)の栄光(さかえ)に」。

そう彼らに尋ねると、彼らは云うであろう。「何のことか全然わかりません」、と。さて、その理由は私の説教の最初の部分にある。――彼らはその衣を汚してしまった。それゆえキリストは彼らとともに歩もうとなさらないのである。主は云われる。「彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む」。真理を堅く守る者、時代に蔓延する罪から逃れていようと気を配る者、「彼らは」、と主は云われる。「わたしとともに歩み、わたしとの絶えざる交わりを持つ。わたしは彼らに、わたしが彼らの骨の骨、肉の肉であることを示すであろう。わたしは彼らを酒宴の席に伴うであろう。彼らの上に翻るわたしの旗じるしは愛である[雅2:4]。彼らは、よくこされたぶどう酒を飲む。彼らには主の秘密が明かされる。彼らは真にわたしを恐れる民だからである。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む」。おゝ、キリスト者よ! もしあなたがキリストとの交わりを持ちたいと願うなら、それをかちとる特別の道は、この教会がしてきたように、あなたの衣を汚さないことによってである。

 しかし、私たちはこの箇所の残りの部分も説き明かさなくてはならない。「彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである」。ひとりの善良な老著述家によると、これはある事実を指し示しているという。すなわち、ラビたちは、自分の家系を何の不備もなしに辿ることのできた者たちには、白い衣を着て歩くことを許したが、もしその紋章に傷があり、自分の生まれをアブラハムまで辿ることができなかった場合、そうした人々は特定の日に白い衣を着ることが許されなかったのである。よろしい。この著者の考えによると、この箇所の意味は、自分の衣を汚さなかった人々が、子とされたことを証明できるようになり、確実に神の子らである者として白い衣を着て歩けるようになることにあるのである。私たちは、もし自分が神の民であると確信したければ、自分の着衣に何のよごれもないように気遣わなくてはならない。というのも、この地上の泥によってついた汚点は、こう叫び声をあげるからである。「もしかすると、お前は神の子どもではないかもしれない」。罪ほど疑いを生み出すものはない。罪は私たちの苦悩の生みの母である。罪に覆われている者が、完全な確信を楽しめると期待してはならない。だが、自分の神の近くに生きている者、またその衣に世のしみをつけないようにしている者――そのような者は、白い衣を着て歩み、自分が子とされていると知っていられるであろう。

 しかし、おもに私たちは、これが義認を指していると理解すべきである。「彼らは白い衣を着て歩む」*。すなわち彼らは、信仰によって自分が義と認められていることを常に感じていられるのである。彼らは、キリストの義が自分に転嫁されたことを理解し、自分の有しているもののことがわかっている。

   「わが身の衣(ころも)ぞ 比類(たぐい)なき
    世の王侯(きみ)まとう 召物(もの)に凌駕(まさり)て」。

彼らは自分が洗われて雪よりも白くされ、きよめられて羊の毛のように浄化されたことを理解している。

 さらに、これは喜びと楽しみを指している。というのも、白い衣はユダヤ人の間で祭日の衣裳だったからである。自分の衣を汚さなかった人々は、その顔を常に輝かせている。彼らは、ソロモンがこう云ったときの気持ちがわかる。「さあ、喜んであなたのパンを食べ、愉快にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでにあなたの行ないを喜んでおられる」[伝9:7]。神に喜ばれている者は、御父に受け入れられているため、白い衣――喜びと楽しみの衣を身にまとう。なぜかくも多くの疑い、かくも多くの苦悩、惨めさ、嘆きがあるのだろうか? それは教会がその衣を汚してしまったからである。彼らがこの地上で白い衣を着て歩んでいないのは、それにふさわしくない者だからである。

 そして最後に、これは神の御座の前で白い衣を着て歩むことを指している。地上で自分の衣を汚さなかった人々は、間違いなく確実に、天上で白い衣を着て歩むことになる。そこでは、白い衣をまとった大群衆が、いと高きお方に永遠のハレルヤを歌っているのである。もしあなたが自分の衣を汚さなかったならば、「私は、自分の信じて来た方をよく知って」います[IIテモ1:12]、と云うことができ、「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です」[IIコリ5:1]、と叫ぶことができるであろう。それは、私の行ないによるものでも、功績によるものでもなく、恵みによる報いである。もし思いを越えた喜び、夢にも見ることのできない幸福、想像をも越えた至福、願望すら到達できない祝福があるとしたら、あなたはそれらをみなそこで得ることになる。あなたは白い衣を着て歩む。それにふさわしい者だからである。キリストはあなたにこう云われる。「よくやった。良い忠実なしもべだ。主人の喜びをともに喜んでくれ」*[マタ25:21]。

 しかし、教会の中で生きてはいても、教会のものでなく、生きているとされているが、実は死んでいる人々は、どうなるだろうか? ただの信仰告白者で、持っている者でない人々は、どうなるだろうか? 単にうわべは信心深げだが、内側では苦い胆汁[使8:23]のうちにある人々は、どうなるだろうか? 私たちは、善良なるカルヴァンがかつてそうしたようにこう答えよう。「彼らは暗黒のうちを歩む。彼らはふさわしくない者だからである」。彼らは暗黒のうちを歩む。――神による破滅という暗黒の中を歩む。彼らは暗黒のうちを歩む。――望みなき絶望という暗黒の中を歩む。彼らは暗黒のうちを歩む。――無比の苦悶という暗黒の中を歩む。彼らは暗黒のうちを歩む。――罪に定められるという暗黒の中を歩む。彼らは永遠に暗黒のうちを歩む。ふさわしくない者であることが明らかになったからである。おゝ、信仰告白者よ。自分を探ってみるがいい。おゝ、教役者よ。あなたがた自身を探ってみるがいい。おゝ、あなたがた、今キリスト教信仰を告白している人々。自分の心に手を差し入れ、自分の魂を探ってみるがいい。あなたは1つの思いを前にして生きている。――神を試している。おゝ! あなた自身の思いを試し、あなた自身の心を試すがいい。私が懇願しているのは、半分も重要でないことのためではない。倍増しで重要なことのためである。私は切に願う。ぜひあなた自身の魂を吟味し、追及してほしい。そして、あなたがたが途上にあるかどうか見てとってほしい。というのも、もしあなたが最後になって、自分は教会の中にはいたが、教会のものではなかったことを見いだすとしたら、また、キリスト教信仰を告白してはいたが、それを自分の偽善の隠れ蓑にしていたにすぎないことを見いだすとしたら、――もしあなたが地上では主の宮に足を踏み入れていながら、天上では閉め出されるとしたら、あなたにとってそれは都合の悪いことになるからである。覚えておくがいい。信仰告白の頂が高ければ高いほど、そこから破滅への転落はすさまじいものとなる。乞食になった国王、追放された王侯、冠を失った皇帝たちは、常に哀れみの的である。信仰告白者よ。あなたは、自分の衣が脱がされるとき、自分のことをどう思うだろうか? あなたの告白という冠が頭から取り去られ、同等に邪悪な人々からの罵声や、冒涜者からの蔑みや、だれであれ、あなたのような偽善者ではなかった者らの嘲り声の中に立っているとき、どう思うだろうか? 彼らはあなたに叫び立てるであろう。「お前も、俺たちみてえな者になったのか? 信仰告白者さん。お高くとまった旦那。お前も俺たちの仲間になったのか?」 あなたは、あなたの罪深い頭を破滅の暗い穴に隠すであろう。だが、何をしても無駄である。あなたは決して、あなたを迎える罵り声を避けることができない。「何と! お前もかよ!」 以前あなたから酒をやめるよう云われた酔いどれが云うであろう。「お前も、俺たちみてえな者になったのかよ?」 また、あなたが軽蔑していた娼婦、あなたから警告されたことのある放埒な若者が、あなたの顔を真正面から見て云うであろう。「何とまあ! お前さんが! キリスト教の話をしてたお前さんが。何とめでてえ奴じゃねえか! お前も、俺たちみてえな者になったのかよ?」 おゝ! 私は彼らが地獄で云っているのが聞こえる気がする。「ここには牧師がいらあ。ここへ来いよ。ここには執事がいらあ。教会員がいらあ。聖餐式の葡萄酒を飲んでた旦那がいらあ。洗礼の水を服にかけてた旦那がいらあ」、と。あゝ! 用心するがいい。サルデスには、白い衣を着て歩むことになる人々がほんの幾人かしかいなかった。その幾人かのひとりになるようにするがいい。願わくは神が、あなたに恵みを与えてくださり、その日あなたが、地獄に落ちる者になるのではなく、主に受け入れられる者となれるように! 願わくは神が、あわれみを与えてくださり、主がもみがらと麦をお分けになるときには、あなたが良い麦であるようになり、消えることのない火の中へと掃き出されることがないように! あわれみの主が、ご自身の警告を祝してくださり、私たちの祈りを聞いてくださるように。キリストのゆえに。アーメン。

 

全教会に対する厳粛な警告[了]

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