HOME | TOP | 目次

死者の復活

NO. 66-67

----

----

1856年2月17日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「義人も悪人も必ず復活する」。――使24:15


 先日、現在の諸教会の悲しい状態について思い返していたとき、私は、使徒時代のことを振り返るように導かれた。そして、現代の説教のどこが使徒たちの説教と異なっているかを考えさせられた。私が注目したのは、彼らの様式が、今の時代にお定まりの、格式張った雄弁術とは大違いだということである。私の見るところ、使徒たちは、説教するときには聖句を取り上げなかった。また1つの主題に限定して語ることをせず、ましてや、一定の礼拝所にこだわることもしなかった。むしろ彼らは、どんな場所にでも立ち、イエス・キリストについて自分の知るところを、その心からあふれるままに宣言していた。しかし私が着目した最大の違いは、彼らの説教の主題である。驚いたことに私は、使徒たちの説教の中心題目が死者の復活であることを発見したのである。思えばこれまで私がしてきたのは、神の恵みの教理を宣べ伝えることであり、無代価の選びを弁護することであり、自分の力を尽くして神の民をみことばの深みへと導くことであった。だが驚いたことに私は、ありうべき姿からすると、ほとんど半分も使徒たちの流儀を踏襲していなかったのである。使徒たちは、説教するときには常にイエスの復活と、その結果としての死者の復活について証ししていた。見たところ、彼らの福音のアルファでありオメガであったのは、イエス・キリストが聖書の示す通りに死なれ、よみがえられたという証言であった[Iコリ15:3-5]。変節したユダの後に別の使徒を選んだとき(使1:22)、彼らは云った。「だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません」。つまり、使徒という職務そのものが、復活の証人となることに等しかったのである。そして彼らはその職務をよく果たした。ペテロが群衆の前に立ったとき、彼は彼らに向かって、「ダビデはキリストの復活についた語ったのです」*、と宣言した[使2:31]。ペテロとヨハネが議会の前に引き出されたとき、彼らが逮捕された最大の原因は、「民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに」指導者たちが困り果てたからであった(使4:2)。その審理の後で彼らが釈放されたときには、こう云われている。「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった」(使4:33)。そして、これこそアテネ人たちの好奇心をかき立てたことであった。パウロが彼らの間で説教していたとき、「彼らは、『彼は外国の神々を伝えているらしい。』と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである」*[使17:]。そしてこれは、アレオパゴスにいた人々を笑いに誘ったことであった。パウロが死者の復活について語ったとき、「ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、『このことについては、またいつか聞くことにしよう。』と言った」[使17:32]。確かにパウロは、パリサイ人とサドカイ人からなる議会の前に立ってこう云ったとき、真実を語っていたのである。「死者の復活のことで、私は……さばかれているのです」[使24:21]。また、それと同じくらい真実なこととして、彼は常にこう主張していた。「もしキリストがよみがえらなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」*[Iコリ15:14、17参照]。だが私たちは、イエスの復活および義人の復活という教理を信じてはいるものの、それをごくまれにしか説教することなく、読みたいとも思っていない。私は、特にこの復活という主題を扱った本を求めていくつか書店を回ってみたが、いかなる種類のものであれ、まだ一冊も買えないでいる。私はオーウェン博士の全集に当たってみた。これは、測り知れぬほど貴重な、天来の知識の宝庫であって、ほとんどあらゆる主題に関して重要な事がらを含んでいる。だが、そこにおいてすら、私に見いだしえたのは、ごく僅かな、復活に関する片言隻句でしかなかった。それは周知の真理とみなされており、それゆえ一度も詳細に論じられたことがなかったのである。この点に関しては、いかなる異端も発生したことがない。発生していたとしたら、それは、あわれみとも云えたであろう。というのも、真理が異端者から異議を唱えられるとき、正統信仰は常に真理のために力強く戦い、講壇は毎日そのことで鳴り響くからである。しかしながら、私の確信するところ、この教理には大きな力がある。そして、もし私がこれを今朝説教するなら、あなたは神がこの使徒的宣教の価値を尊ばれるのを見てとり、回心が起こるであろう。私は今、これを試してみようと思う。私たちに現在は察知できない何かが死者の復活ということの中にあって、人々の心を動かし、彼らを私たちの主なる《救い主》イエス・キリストの福音に服従させないかどうかを、見てみようと思う。

 ほとんどのキリスト者は、死者の復活を信じていない。そう聞くと驚く人もいるかもしれない。だが私は、たといあなたがこの主題に疑いをいだいているとわかっても驚かないであろう。死者の復活は、魂の不滅とは非常に異なるものである。魂の不滅については、キリスト者ならだれでも信じており、その点では、やはりそれを信じている異教徒と同一線上にしかない。魂が不滅であることは自然の光だけで十分にわかるため、このことを疑う不信心者は、異教徒に輪をかけた愚か者である。というのも異教徒は、《啓示》が与えられる前から、そのことを悟っていた。――理性ある人のうちには、かすかな光があって、魂とは永久になくならないほど素晴らしい何かだと教えているのである。しかし、死者の復活は全く異なる教理であって、魂ではなくからだを扱っている。その教えによると、この、私という存在をいま取り囲んでいる現実の肉体が、私とともに生きることになるのである。天国では、「天的な炎の生命の火花」が燃えるだけでなく、私のいのちの香が立ち上る中心を包み込んでいるもの自体が主への聖なるものとなり、永遠に保たれることになるのである。霊は、だれもが公言するように、永遠である。だが、人々の肉体が、かの偉大な日にその墓から現実に立ち上がるだろうことを否定する人の何と多いことか! あなたがたの中の多くの人々は、自分が天国でからだを有することになると信じてはいるが、それが実体のない幻想的なからだになると考え、この血肉のからだのようになると信じてはいない。(すべての肉が同じ肉ではない以上、それらは同じ種類の肉にはならないが、それでも関係ない)。実体と実質を有する肉体、私たちが下界で有しているような肉体になると信じてはいない。そして、あなたがたの中のさらに僅かな人々しか、悪人が地獄で肉体を持つことになると信じてはいない。というのも、近年至る所で広く受け入れられつつある意見によると、地獄に落ちた者たちのからだに明確に影響を及ぼすような苦悶など何もなく、それは比喩的な炎、比喩的な硫黄、比喩的な鎖、比喩的な苦痛とされるからである。しかし、もしあなたがたが自分で告白する通りのキリスト者であるとしたら、あなたはこう信じているはずである。この世に存在したことのある、あらゆる定命の人は、単に魂の不滅によって生きるのみならず、そのからだが再び生きることになり、いま地上を歩んでいる人の器たる肉体そのものが、魂と同じように永遠であり、永久に存在することになる、と。それこそ、キリスト教独特の教理である。異教徒たちは決してそのようなことを推測することも想像することもなかった。それでその結果、パウロが死者の復活について語ったとき、「ある者たちはあざ笑……った」[使17:32]のである。これは、パウロが肉体の復活について語ったと彼らが理解したことを証明している。もし彼が魂の不滅についてしか語っていなかったとしたら、彼らはあざ笑わなかったであろう。魂の不滅のことはすでにプラトンやソクラテスによって宣言され、敬意をもって受け入れられていたからである。

 これから説教しようと思うのは、善人と悪人の双方について、死者の復活はある、ということである。まず最初に考察したいのは、善人の復活であり、第二に、悪人の復活である。

 I. 《善人の復活》はある。

 このことについて私が最初に提示したい証拠は、それが最古の時代から聖徒たちの常に変わることなき信仰であった、ということである。アブラハムは死者の復活を信じていた。ヘブル人への手紙11:19ではこう云われている。彼は、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です」。私の見るところ、疑いの余地なくヨセフは復活を信じていた。彼は自分の骨について指図したからである[ヘブ11:22]。確かに、からだが死からよみがえると信じていなかったとしたら、彼は自分の骨についてそれほど細心の注意を払わなかったであろう。族長ヨブは復活を堅く信じていた。あのしばしば繰り返される聖句、ヨブ19:25、26で、彼はこう云っている。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る」。ダビデは疑いの影もなく復活を信じていた。キリストについてこう歌っているからである。「あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません」[詩16:10]。ダニエルは復活を信じていた。彼は云う。「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに」[ダニ12:2]。魂は地のちりの中に眠らない。からだが眠るのである。一二の箇所に目を向けるのは、あなたのためになるであろう。例えば、イザヤ26:19にはこう記されている。「あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は使者の霊を生き返らせます」。これには何の説明もつけ足すまい。この聖句は明々白々である。もうひとりの預言者に語ってもらおう。――ホセア6章1、2節。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ」。これは復活を宣言してはいないが、それでも復活が確立した真理とみなされていなかったとしたら意味のない比喩を用いたことになる。これはパウロによっても、聖徒たちの常に有していた信仰であったとヘブル11:35で宣言されている。「ほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました」。マカベア一族の時代に、堅く信仰に立って、火と、剣と、云い知れようのない苦悶を忍んだすべての聖なる男女は、復活を信じていたし、その復活に鼓舞されて、死をものともせずに、そのからだを焼かれるために引き渡した。それによって、ほむべき復活に達すると信じていたからである。しかし私たちの《救い主》は、最もすぐれたしかたで復活を明らかにされた。主はきっぱりと、またしばしば復活について宣言なさったからである。「このことに驚いてはなりません」、と主は云われた。「墓の中にいる者がみな、神の声を聞いて出て来る時が来ます」*[ヨハ5:28]。「子が死人をさばきへと呼び出し、彼らがその御座の前に立つ時が来ます」*[ヨハ5:25]。実際、主の説教という説教において、死者が復活するというこの堅い信念と、あからさまで明確な宣言は、一貫して、途切れることなく流れていた。私は、使徒たちの著作からの記述であなたがたを煩わせはすまい。そうした記述は彼らの書いたものに満ちている。事実、兄弟たち。この教理は聖書の至る所に見受けられる。私は、私たちがこれほどすぐに自分たちの堅い信仰[コロ2:5]から離れてしまったことに驚くほどである。多くの教会では、聖徒たちの現実のからだがよみがえることはない、特に悪人のからだなど二度と存在することはないと信じられている。だが私たちは、本日の聖句とともにこう主張するものである。「義人も悪人も必ず復活する」、と。

 第二の証拠は、私たちの考えるところ、エノクとエリヤが天に移されたことに見いだされると思う。聖書には、ふたりの人が、そのからだを伴ったまま天国に行ったと記されている。エノクは、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」[創5:24]。また、エリヤは火の戦車に乗って天に連れて行かれた[II列2:11]。両人とも、その灰を墓に残しはしなかった。そのからだを虫に食わせるため残しはしなかった。むしろ、ふたりともその定命の身体のまま(疑いもなく変えられ、栄化された後で)高みに昇っていった。さて、このふたりは、私たちすべてが、それと同じようなしかたでよみがえるという保証であった。2つの輝く霊が肉をまとって天に座っているというのに、私たち残りの者が何もまとっていないということがありえるだろうか? エノクとエリヤだけが天国でそのからだを有する聖徒となるなどということが筋の通ったことだろうか?、そこでは私たちは、魂だけしか持っていないのだろうか?――あわれな魂たち! そこでお前たちは、自分のからだを再び得たいと切望しているというのか。否。私たちの信仰が私たちに告げるところ、無事に天国に行き着いたこのふたりの人[エノクとエリヤ]は、ジョン・バニヤンが云うように、他のだれひとり踏んだことのない橋を通って行ったのであり、かの川を渡渉する必要がなかったが、私たちもかの大水からやがては身を起こすことになろう。私たちの肉体が永遠に腐敗とともにとどまることはないであろう。

 ユダの手紙には尋常ならざる箇所がある。そこでは、御使いのかしらミカエルが、モーセのからだについて悪魔と云い争ったが、「ののしり、さばくようなことは」しなかったと語られている[ユダ9]。さて、これは、御使いたちが聖徒たちの骨の見張りをしているという教理に関わっている。確かに、この箇所によると、モーセのからだは大いなる御使いのかしらによって見張られていたに違いない。悪魔はそのからだに手出しをしようと考えたが、ミカエルはそのことで彼と争ったのである。さて、もしそのからだに何の価値もなかったとしたら、それについて争いなど起こっただろうか? ミカエルは虫の餌にしかならないようなもののために争おうとしただろうか? 天の四方に散らされ、二度と再び、新しく、より神聖なかたちに織り合わされないようなもののために、かの敵と組討ちしようとしただろうか? 否。決してそのようなことはない。ここから私たちが学ぶのは、御使いがあらゆる墓を見張っているということである。私たちが翼ある智天使を大理石に彫刻するとき、それは決して作り事ではない。あらゆる義人の墓石の笠石の上には、智天使たちがその翼を張り伸ばしているのである。左様。そして、どこかの刺草が生い茂る片隅で、「邑(むら)の粗野なる先祖ら眠る」[トマス・グレイ]場所には、御使いが日夜立ち続け、あらゆる骨を見張り、あらゆる原子を守っているのである。そして、復活のとき、そうした骨は、かつて地上で有していた以上の栄光をもって起き上がり、主とともに永遠に住むようになるのである。御使いたちによって、聖徒たちのからだが保護されていることは、彼らが死者の中からよみがえることを証明している。

 だがさらに、すでに起こった復活によって私たちは、すべての聖徒らの復活があるという希望と確信を与えられる。こう記されているのをあなたは思い出さないだろうか? イエスが死者の中からよみがえったときには、墓の中にいた多くの聖徒たちが生き返り、都にはいって多くの人に現われたのである[マタ27:52-53]。あなたがたは、ラザロが死んで三日経っていたにもかかわらず、イエスのことばによって墓から出てきたのを聞いたことがないだろうか? あなたは一度も読んだことがないだろうか? いかにしてヤイロの娘が、「タリタ、クミ」との主のことばによって、死の眠りから目覚めたかを[マコ5:41]。あなたは一度も見たことがないだろうか? ナインの町の門で主が、あのやもめの息子に棺から起き上がるように命じているのを[ルカ7:14]。あなたは忘れてしまっただろうか? 貧しい人々のために衣類を作っていたあのドルカスが、死んだ後で起き上がってペテロを見たことを[使9:36-42]。また、あなたは覚えていないだろうか? 三階から落ちたユテコが、抱き起こしてみるともう死んでいたのに、パウロの祈りによってよみがえらされたことを[使20:9-10]。あるいは、あなたの記憶は思い返さないだろうか? 年老いたエリヤがあの死んだ子どもの上に身をかがめると、その子が息をし、七回くしゃみをして、生き返ったことを[II列4:34-35参照]。あるいは、読んだことがないだろうか? 人々がある人を葬っていたとき、その人が預言者の骨に触れるや否や、よみがえったことを[II列13:21]。これらは復活の保証である。そのごく僅かな見本である。神の御手が復活という宝石でいかに満ちているかを私たちに告げるため、この世にたまたま舞い込んできた宝玉である。神は私たちに、ご自分が死者をよみがえらせることがおできになる証拠として、何人かの人々を復活させてくださった。そして、その後で彼らは、過つことなき証人たちにより、地上で目撃されたのである。

 しかしながら私たちは、こうした事がらを後に残し、もう一度あなたを聖霊に注目させて、聖徒たちのからだがよみがえるというこの教理を確証しなくてはならない。1つの偉大な証拠が見いだされる章は、コリント人への手紙第一6:13である。「からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです」。ならば、からだは主のものなのである。キリストが死なれたのは私の魂を救うためだけでなく、私のからだをも救うためであった。主は、「失われたものを捜して救うために来た」、と云われている[ルカ19:10 <英欽定訳>]。アダムは、罪を犯したとき、そのからだを失い、その魂をも失った。彼は失われた人となった。全体が失われた人となった。そしてキリストは、ご自分の民を救いにやって来られたとき、彼らのからだと彼らの魂を救うために来られたのである。「からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり」。このからだが主のためであるというのに、それを死がむさぼり食ってよいだろうか? このからだが主のためであるというのに、その粒子を風が吹き飛ばし、二度と互いに仲間を見つけだせないほど遠くへ散らしてしまうというのだろうか? 否。からだは主のためであり、主はからだをご自分のものとされる。「神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます」[Iコリ6:14]。さて、次の節を眺めてほしい。「あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか」。単に魂がキリストの一部である――キリストに結び合わされている――ばかりでなく、からだもそうなのである。この手、この足、この目は、私が神の子どもならば、キリストのからだの一部なのである。私は、私の精神において主と1つであるばかりか、この外的な身体においても主と1つなのである。キリストをその民に縛りつけている黄金の鎖は、からだにも魂にも巻きついているのである。使徒はこう云っていないだろうか? 「『……ふたりは1つの肉となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです」――エペソ5:31、32 <英欽定訳>。そしてキリストの民は、単に霊において主と1つなのではなく、「1つの肉」でもあるのである。人の肉体は、神-人[キリスト]の肉体と結び合わされており、私たちのからだはイエス・キリストのからだの一部なのである。よろしい。頭が生きている間は、からだが死ぬことはありえない。そして、イエスが生きておられる限り、そのからだの部分部分が滅び失せることはありえない。さらに使徒は19節でこう云っている。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」[Iコリ6:19-20]。使徒によると、このからだは、聖霊の宮である。そして、聖霊がからだの中で住んでおられるとき、聖霊はそれをきよめるばかりでなく、それを永遠のものとなさる。聖霊の宮は、聖霊と同じように永遠である。他の宮なら取り壊せようし、その神々を粉砕することもできよう。だが聖霊が死ぬことはありえないし、「主の宮の滅びうべき」こともない。ひとたび聖霊をうちに宿したこのからだが、いつまでも虫の餌になっていてよいだろうか? それが二度と日の目を見ることなく、谷間でひからびた骨[エゼ37:2]のようになっていてよいだろうか? 否。そのひからびた骨は生き返り、そうした聖霊の宮は再び建て直される。たといその宮の足、すなわち支柱が倒れても、――たといその目、すなわち窓が暗くなり、そこから外をのぞいていた者たちがひとりも見えなくなっても、それでも神はこの建造物を再建し、その目に再び光をともし、その支柱を回復し、それを再び美々しく飾ってくださる。しかり。「死ぬものが不死を着、朽ちるものが朽ちないものを着る」*[Iコリ15:54]。

 しかし、私たちが自分の証明のしめくくりとする最高の議論は、キリストが死者の中からよみがえられたということ、そして、まことに主の民もそうなるということである。本日の礼拝の冒頭に読んだ章が決定的に証明しているように、キリストが死者の中からよみがえられた以上、キリストの民もみな復活するに違いない。もし復活がないとしたら、キリストはよみがえらなかったはずである。しかし私は、この証拠を長々と述べはすまい。なぜなら私は、この証拠の力をあなたがたがみな感じているとわかっており、あえて明示する必要はないからである。キリストが死者の中から現実に――血肉をもって――よみがえったように、私たちもよみがえるのである。キリストは、死者の中からよみがえったとき、霊ではなかった。主のからだに触れることはできた。トマスはその手を主のわきにさし入れなかっただろうか? またキリストはこう云われなかっただろうか? 「霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています」[ルカ24:39]。そして、もし私たちがキリストがよみがえられたようによみがえるとしたら――そして、私たちはそうなると教えられているが――、私たちは自分のからだをもってよみがえるはずである。――霊としてではなく、洗練された、実体のない、何からできているのかもわからないようなものとしてではなく、――何か非常に精緻な、融通無碍な実体としてではなく、むしろ、「救いの きみと同じく 御民はすべて よみがえりうべし」。私たちは自分の肉をもってよみがえる。確かに、「すべての肉が同じではな」いが[Iコリ15:39]。私たちは自分のからだをもってよみがえる。確かに、すべてのからだが同じからだではないが。そして私たちは栄光のうちによみがえる。確かにすべての栄光が同じ栄光ではないが。「人間の肉もあり、獣の肉もあり」[Iコリ15:39]、このからだの肉もあり、天のからだの肉もある。下界の魂のためのからだもあれば、天界に上げられた霊のためのからだもある。だがしかし、墓からよみがえるのは同じからだである。――同じというのは、その栄光や、順応するところにおいて同じというのではなく、その個性において同じということである。

 もう1つのことに移る前に私は、この教理からいくつか実際的な思想を引き出しておきたい。

 私の兄弟たち。死者がよみがえるというこの教理には、何と慰められる思想があることか。私たちの中のある者らは、今週、墓の傍らに立ってきた。そして、私の兄弟たちのひとりで、私たちの間で長年その《主人》に仕えてきた人が、その墓所に横たえられた。彼は真理のために勇敢で、労苦において疲れを知らず、義務において自分を否定し、常にその主に従う覚悟ができており(《小羊と御旗学校》のターナー氏による)、その能力を限界までふりしぼり、教会を喜んで助けていた。さて、そこでは多くの涙が流された。あなたは、その涙が何のためであったか、わかっているだろうか? それは一滴たりとも彼の魂のためではなかった。魂の不滅という教理で、私たちに慰めが与えられたわけではない。私たちはそのことをよく知っていたし、彼が天国に昇ったことは完全に確信していた。英国国教会で用いられる埋葬式次第は、この上もなく賢明にも、逝去した信仰者の魂に関して何の慰めも差し出していない。それは今、至福のうちにあるからである。だが、それが私たちを励ますのは、からだに復活が約束されていることを私たちに思い出させることによってである。そして、私が死者について語るとき、それは魂について慰めを与えるためではなく、からだについて慰めを与えるためである。そして、この復活の教理は、埋葬された定命のものに関して、哀悼者を慰めるものなのである。あなたが涙するのは、あなたの父が、兄弟が、妻が、夫が天国に昇ったからではない。――そのことのため涙するのは冷酷な人であろう。あなたがたの中のだれひとりとして、あなたの愛する母親が御座の前にいるからといって涙を流しはしない。だが、あなたが涙するのは、彼女のからだが墓の中にあるからである。あの眼差しがもう二度とあなたに微笑みかけることがありえないからである。あの手があなたを撫でてくれることがないからである。あの甘やかな口が、愛情のこもった、耳に快い声音を響かせることがありえないからである。あなたが涙するのは、からだが冷たくなり、死んで、粘土のようになっているからである。魂のために、あなたは涙しない。しかしここには、あなたのための慰めがある。まさにそのからだが、再びよみがえるのである。あの目は再び無二の輝きできらめくであろう。あの手はもう一度、愛情をこめて持ち上げられるであろう。嘘ではない。私は絵空事を語っているのではない。まぎれもないあの手が、あの実体の手が、あの冷たく、粘土のようになった腕、からだの脇に投げ出され、あなたが持ち上げてもぱたりと落ちるあの腕が、いつの日か立琴を持ち上げるのである。また、今は氷のような、こわばった、あのあわれな指が、天国にある黄金の立琴の響く和弦をかき鳴らすことになるのである。しかり。あなたはあのからだをもう一度見るのである。

   「生来(うまれつき)しの 罪により
    肉はちりをば 見ざるえじ。
    されど救いの きみと同じく
    御民はすべて よみがえりうべし」。

これはあなたの涙を取り除かないだろうか? 「死んだのではない。眠っているのです」[ルカ8:52]。その人は失われたのではなく、「収穫時に稔るべく蒔かれし種」なのである。そのからだは、しばらくの間、香料の中で浴しつつ休んで、その主の抱擁にふさわしくなるのを待っているのである。

 そして、肉体において苦しみを受けているあなたがた、苦しむ人々よ。ここにはあなたにとっての慰めもある。あなたがたの中のある人々は、様々な痛みを嘗めている殉教者のようなものである。――腰痛、痛風、リウマチ、その他、肉体が受け継がなくてはならないありとあらゆる種類の悲しい苦痛に痛めつけられている。あなたが何らかの苦しみに苛まれずにすむ日はほとんどない。そして、もしあなたが愚かにも年中自分を治癒させようとしているとしたら、常に自宅に医者を呼びつけていることになろう。だが、ここにはあなたのための慰めがある。そのあわれな、病弱の身体は、それが受けた苦しみのすべてについて報われることになる。あゝ! あわれな黒人奴隷よ。あなたが背中に受けたあらゆる焼き印は、天国では栄誉の徽章となるであろう。あゝ! あわれな殉教者よ。あなたの骨が炎の中でパチパチはぜたあらゆる音は、栄光の中であなたにほめ歌をもたらすであろう。あなたのあらゆる苦しみは、そこであなたが経験する幸福によって十分報われるであろう。あなたの身体で苦しみを受けるのを恐れてはならない。なぜなら、あなたの身体はいつの日かあなたの楽しみにあずかることになるからである。あらゆる神経が歓喜に高鳴り、あらゆる筋肉が至福に踊る。あなたの目は永遠の火にきらめき、あなたの心臓は不滅の祝福に脈打ち、搏動する。あなたの身体は至福の通り道となる。今はしばしば苦汁の杯であるからだは、蜂蜜の器となるであろう。しばしば苦い胆汁がしたたる蜂の巣となっているこのからだは、あなたへの祝福が満ちた蜜蜂の巣となる。ならば、あなたがた、苦しむ人々。寝床の上で倦み疲れ、衰えつつある人々よ。自らを慰めるがいい。恐れてはならない。あなたのからだは生き返るのである。

 しかし私は、この聖句から、認知の教理に関して、教えの言葉を引き出したいと思う。多くの人々は、果たして自分が天国で友人たちを見分けられるかどうかについて頭を悩ませてきた。よろしい。さて、もしからだが死からよみがえるとしたら、私はなぜ彼らを見分けられないかわからない。私は、自分の兄弟たちの何人かなら、その霊だけででも見分けられると思う。私は彼らの性格をよく知っており、イエスに関してともに何度も語り合ってきた。また、彼らの性格の最も顕著な部分を熟知している。しかし、私は彼らのからだをも目にするであろう。私は常に、それが、老ジョン・ライランドの細君が尋ねた問いに対する決定打であると考えていた。彼女は夫に云った。「あなたは天国で私を見分けられると思う?」 「何だって?」、と彼は云った。「この世で私はお前のことを知っているんだよ。だのにお前は、天国に行ったとき私が地上にいるときより馬鹿になると思うのかい?」 この問題に議論の余地はない。私たちは、からだをもって天国で暮らすことになる。そして、それが事を決する。私たちは、互いに見分け合うであろう。これは、厳然たる事実として受け取ってよい。ただの空想ではない。

 しかし今、一言だけ警告の言葉を述べて、この主題のこの部分を終わることにしよう。もしあなたのからだが天国に住むようになるとしたら、私はあなたがそれに気を遣うよう切に願う。これは、何を食べるか、何を飲むか、また何を着るか、といったことに気を遣えというのではない[マタ6:31]。むしろ、自分のからだが罪に汚染されないように気を遣ってほしいということである。もしもこの喉が永遠に栄光の歌を唱うことになるのだとしたら、情欲の言葉がそれを汚さないようにするがいい。もしもこの目が王の麗しい姿を見ることになるのだとしたら、こう祈るようにするがいい。「むなしいものを見ないように私の目をそらせ……てください」[詩119:37]。もしもこの手が棕櫚の枝を掲げることになるのだとしたら、おゝ、それが賄賂を握らないようにするがいい。悪を追い求めないようにするがいい。もしもこの足があの黄金の通りを歩くことになるのだとしたら、それを悪へ走るに速いものとしないようにするがいい。もしもこの舌が永遠に、主の語られたこと行なわれたことのすべてについて語ることになるのだとしたら、あゝ! それが軽薄で浮ついたことを語らないようにするがいい。もしもこの心臓が永遠に至福で搏動することになるのだとしたら、私はあなたに切に願う。それを異国人に与えないでほしい。それが悪を求めてさまよわないようにしてほしい。もしこのからだが永遠に生きるのだとしたら、私たちはいかにこれに気を遣うべきであろう。というのも、私たちのからだは聖霊の宮であり、それは主イエスのからだの一部だからである。

 さて、あなたはこの教理を信じるだろうか? 信じないだろうか? 信じないとしたら、あなたは真理から放逐されているのである。これは福音の真理である。そして、もしあなたがこれを信じないとしたら、あなたはまだ福音を受け入れていないのである。「もし、死者がよみがえらないのなら……あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」[Iコリ15:16-17]。

 II. しかし、ここで私たちは、《悪人の復活》に話を転ずることにしよう。悪人もよみがえるのだろうか? これは論争されている点である。私は今、いくつか厳しいことを云わなくてはならない。あなたを長々とひきとめることになるかもしれないが、それにもかかわらず、ぜひとも私の話に耳を傾けてほしい。しかり。悪人はよみがえるのである。

 第一の証拠は、コリント人への手紙第二5:10に示されている。「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです」。さて、私たちがみな現われることになっている以上、悪人も現われるに違いない。そして彼らは、肉体にあってした行為の報いを受け取るであろう。からだが罪を犯した以上、からだが罰を受けるのは、至極当然のことである。魂を罰してからだを罰さないのは不公正であろう。というのも、からだは魂と全く同じくらい罪に関わっているからである。しかし、今ではどこへ行こうと、こう云われているのが聞こえる。「古い時代の教役者たちは、地獄には私たちのからだを焼く火がある、とさんざん云っていた。だがそうではない。それは比喩的な火であり、空想上の火である」、と。あゝ! そうではない。あなたがたは、あなたの肉体にあってした行為の報いを受ける。あなたの魂は罰されるが、あなたのからだも同じように罰される。官能にとらわれた、悪魔めいたあなたがたは、自分の魂が罰されることなど気にもかけない。自分の魂のことなど何も考えていないからである。だが、もし私があなたに、肉体の罰について告げるとしたら、あなたははるかに真剣に考えるであろう。キリストは、魂が罰を受けるとお語りになることもあった。だが、はるかに頻繁に、からだが苛まれると述べて、その聴衆たちの心に迫られた。というのも、主は彼らが官能にとらわれた、悪魔めいた者であると知っておられ、からだに影響を及ぼさないようなものは、これっぽっちも彼らの心を感化しないとご存じだったからである。「私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになる」。

 しかし、これはこの教理を証明する唯一の聖句ではない。私は、さらによい聖句を示そうと思う。――マタイ5:29である。「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです」。――「全体」ではなく、「からだ全体」である。方々。これは、あなたの魂が地獄に落ちると云っているのではない。――そのことなら、何度となく確証されている。――むしろ、これは明々白々に、あなたのからだが地獄に落ちると宣言しているのである。今、そこの通路に立っているのと同じからだが、今、そこの会衆席に座っているのと同じからだが、もしキリストから離れたまま死ぬとしたら、地獄の火焔の中で永遠に焼かれることになるのである。これは人間の空想ではなく、真理である。あなたの現実の肉と血が、その骨そのものが、苦しむのである。「からだ全体ゲヘナに投げ込まれる」のである。

 しかし、この証拠でも足りないということがないように、同じ福音書に記された、もう1つの証拠を聞くがいい。――10章28節である。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。ゲヘナ[地獄]は、魂のためばかりでなく、からだのための場所でもある。先に述べたように、キリストは、地獄について、悪人の失われた状態について語るときにはいつでも常に、彼らのからだについて語っておられる。主が彼らの魂について語っておられる場合はほとんどない。主は云われる。「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく」[マコ9:48]。これは肉体的な苦しみの様子である。――このうじは、魂そのものの内部の癌のように、永遠に心の内奥を苛むのである。主は、「消えることのない火」*について語っておられる[マコ9:48]。さて、これは比喩的な火であるなどと云い出さないでほしい。だれがそんなことを信じるだろうか? もしもだれかが、私の頭に比喩的な一発をお見舞いするぞと脅しても、私はそんなものを歯牙にもかけまい。そんなものなら何発くらっても平気の平左である。そして、悪人は何と云うだろうか? 「俺たちゃあ、比喩的な火なんざ屁とも思わねえ」。しかし、方々。これは現実のものである。――しかり。あなた自身と同じくらい現実のものである。地獄にある火は、あなたがいま有している現実のからだと同じくらい現実のものである。――1つのことを除いて、この地上にある火と全く同じ火である。――その1つのこととは、それがあなたをいくら苦しめても消えることがないということにほかならない。あなたは灼熱した火の中に置かれた石綿を見たことがあるであろう。だが、それを取り出してみると、それは全く燃え尽きていない。そのように神は、あなたのからだが燃え尽きることなく、永遠に焼かれ続けるように備えられるであろう。それは、あなたが考えるのとは違って、比喩的な火の中に入れられるのではなく、本物の火焔の中に入れられる。私たちの《救い主》が、からだも魂も地獄に投げ込むと語ったとき、それは絵空事を意味しておられたのだろうか? もしそこに何のからだもないとしたら、穴が何の役に立つだろう? もし何のからだもないとしたら、火や、鎖がなぜあるのだろう? 火が魂に触れることができるだろうか? 穴が霊を閉じこめておけるだろうか? 鎖で魂をつなぎとめられるだろうか? 否。穴や火や鎖はからだのためのものであり、からだはそこにあるのである。あなたがちりの中で眠りにつくのは、ほんの僅かの間にすぎない。

 あなたが死ぬとき、あなたの魂はそれだけで苦悶を受けるであろう。――それは、魂のための地獄であろう。――だが、最後の審判の日、あなたのからだはあなたの魂と一緒になり、そのときあなたは双子の地獄を有するであろう。からだと魂が一緒になり、それぞれが苦痛をなみなみと満たした地獄を。あなたの魂は、その内奥の毛穴から血の汗を流し、あなたのからだは、頭の天辺から足の先まで激痛に苦しむであろう。良心も、判断力も、記憶も、みな苦悶させられるが、それだけではない。――あなたの頭は激しい苦痛に苛まれ、あなたの目は血と災いの光景に飛び出さんばかりとなり、あなたの耳はつんざかれるであろう。

   「陰鬱(くら)き呻き、虚ろな嘆き、
    責苦(くる)しめらるる 幽鬼の悲鳴」に。

あなたの心臓は熱を帯びて動悸する。あなたの脈は、苦悩のあまり早鐘のように打つ。あなたの四肢は火刑に処せられた殉教者のように割れ裂けるが、それでも焼き尽くされない。あなた自身は、煮えたぎる油の器に入れられて激痛を感じるが、全く滅ぼされることなくそこから出てくる。あなたのすべての血管は、焼きつくような苦痛が疾駆する走路となる。すべての神経は悪魔が《云い知れぬ地獄の哀歌》という、その魔の調べを奏でる和弦となる。あなたの魂は未来永劫に痛み続け、あなたのからだは、あなたの魂と足並みそろえてわななき続ける。絵空事だと! 方々。もう一度云うが、これらは決して絵空事ではなく、神かけて徹底した厳然たる真実である。神が真実であり、この聖書が真実であるとしたら、私が語ってきたことは真実であり、あなたもいつの日かその真実を見いだすことになるであろう。

 しかし、いま私は、一二の点について不敬虔な人々と論じ合わなくてはならない。最初に私が論じ合いたい相手は、自分の美しいからだを非常に誇りとし、麗々しい装身具で身を飾り、美しく着飾っている人々である。あなたがたの中のある人々は、祈る時間など全くないのに、化粧のための時間はふんだんに有している。祈祷会に来る時間など全くないのに、髪の毛をくしけずる時間は永遠にでも有している。膝をかがめて祈りをささげる時間など全くないのに、自分の見かけを整え、美しく見せるための時間はいくらでもある。あゝ! お上品な婦人よ。自分の顔に見栄えのよい化粧を施すことに気を遣っているあなたは、古のある人が、その頭蓋骨を掲げ持って云った言葉を思い出すがいい。

   「彼女に告げよ。汝が顔 一吋も 厚塗りすれど
    最後(はて)はかくなる 顔色にならん、と」。

また、それだけではない。その美しい顔は悪鬼どもの鈎爪で切り裂かれ、その美しいからだは苦悶の媒介にしかならなくなる。あゝ! 高慢な紳士たち。あなたがりゅうとした服装をするのは、うじのためであり、香油をつけるのは墓の中をはいずる生き物たちのためである。それより悪いことに、あなたは髪粉をつけたまま地獄に行く。――地獄落ちした紳士となる。美々しい衣装を着たまま穴に下るがいい。閣下。そこに行って、自分が他の者らよりも全然すぐれていないのを見いだすがいい。違いといえば、あなたの苦悶がより激しく、あなたが火焔により深く沈むことくらいである。左様。人々の魂を救うためになすべきことがこれほど多くあり、そのための時間がごく僅かしかないというとき、まるでどうでもよいことのために、これほど多くの時間を下界で費やすというのはふさわしくない。おゝ、神よ。私たちの神よ。人々を救い出し給え。自らのからだを満腹させ、飽食させ、ただ虐殺されるだけのために肥え太らせること、また、ただ火焔の中でむさぼり食われんがために養うことから救い出し給え。

 また、もう一言、云わせてほしい。あなたがた、自分の種々の情欲を満足させている人々。――あなたは、自分が下界で満たしている情欲が、地獄にもあるのを知っているだろうか? この地上で有しているのと同じ種々の情欲を、あなたが地獄でも有することになるのを知っているだろうか? 放蕩者は、逸り立ってその欲するものに身をふけらせる。――その人は地獄でも同じようにできるだろうか? 自分の情欲を満足させる場所、自分の汚れた欲望にふけることのできる場所を見いだせるだろうか? 酔いどれは、地上では、自分を酔わせる破滅的な一杯を喉に流し込める。だが、地獄のどこに、飲むべき飲料を見いだせるだろうか? 彼の酒浸りの性根は、地上でと同じくらい熱く彼を焼いているというのに! 左様。その焼き焦げた舌を冷やすだけの水一滴すら、どこで見つけられるだろうか? この世で大食を愛する人は、地獄でも大食らいであろう。だが、その人を満足させるような食物がどこにあるだろうか? その指を上げても、パンの塊が遠ざかっていくのを見るだけ、果実はつかもうとしてもするりと逃げていくだけだというときに。おゝ! あれこれの情動を持ちながら、それを満足させることができない! 酔いどれを独房に閉じ込めて、飲み物を何も与えない! 彼は飲料を手に入れようと壁に体当たりするだろうが、全く何も与えられない。おゝ、酔いどれよ。あなたは地獄でどうするのだろうか? ひりつく喉の渇きを有しながら、火焔のほか何も呑み下すものはなく、それがあなたの災厄をいや増させるだけだというのに。また、おゝ、放蕩者よ。あなたは何をしようとするだろうか? なおも他人を誘惑したいと望みながら、自分とともに罪を犯す者がだれひとりいないというときに。私は、歯に衣着せない喋り方をしているだろうか? キリストもそうなされなかっただろうか? もし人々が罪を犯そうとするなら、彼らは自分たちを叱責するのを恥じない人々を見いだすはずである。あゝ! 地獄でからだを有し、そのあらゆる情欲を有していながら、それらを満足させることができない! その地獄はいかに恐ろしいものか!

 しかし、さらに私の言葉を聞くがいい。おゝ! あわれな罪人よ。もしもあなたが宗教審問官の巣に入っていくのを見るとしたら、私は、その入口に足を踏み入れる前に止まってくれとあなたに懇願するではないだろうか? そして今、私は本当の事がらについてあなたに語っているのである。もし私が今朝、舞台の上に立っていて、こうした事がらを空想上のこととして演じているとしたら、私はあなたがたを泣かせることであろう。敬虔な人々は、かくも大勢の人々が断罪されることを思って泣くであろうし、不敬虔な人々は、自分たちが断罪されることを思って泣くであろう。しかし、本当のことについて私が語るとき、それらは空想の事がらの半分もあなたの心を動かさない。そしてあなたがたは、この礼拝が始まる前と全く同じように座っている。だが、聞くがいい。もう一度私は神の真理を断言しよう。罪人よ。私はあなたに云う。いま情欲を見つめているその目は、あなたを悩ませ、苦悶させる災いを眺めることになる。今あなたが冒涜の歌を聴くために貸しているその耳は、地獄に堕ちた者だけが知っている嘆きと、呻きと、恐ろしい声音を聞くことになる。あなたが酒を注ぎ込んでいるその喉は、火で満たされることになる。あなたのその唇と腕は、すべてが一度に責め苛まれるであろう。左様。もしあなたが頭痛になれば、急いでかかりつけの医者に行くであろう。だが、あなたの頭が、心臓が、手が、足が、みな一時に痛む時、あなたはどうするだろうか? もしあなたが血管にだけ痛みを感ずるとしたら、あなたはそれを治せるような薬を探そうとするであろう。だが、痛風と、感冒と、眩暈と、その他のあらゆる邪悪なものが一度にあなたのからだに襲いかかるとしたら、あなたはどうするだろうか? ありとあらゆる種類の病によってわが身が厭わしいものとなり、癩にかかり、麻痺し、黒ずみ、腐り、骨が痛み、骨髄がわななき、四肢のすべてが苦痛で満たされるとき、あなたはどうしようというのだろうか? あなたのからだは、悪霊どもの宮となり、悲嘆の通り道となる。だのにあなたは、盲滅法に突き進もうというのだろうか? あなたがたの中の多くの人々は、雄牛が屠殺人のもとへ行くように、羊が肉屋の短刀を舐めるようにしている。方々。あなたがたは、あなたがたの中の多くの人々は、キリストから離れて生きている。あなたは自分を義とし、不敬虔に生きている。あなたがたの中のだれかは、きょうの午後、一日の快楽を味わいに行くであろう。別の人はひそかに不品行を行なうであろう。別の人は自分の隣人を騙すであろう。別の人は、折にふれて神を呪うであろう。別の人はこの会堂に来るが、陰では酔っ払っているであろう。別の人は敬虔さについてぺらぺら喋り立てるが、神はその人がみじめな偽善者であることを知っておられる。あなたがたは、自分の《造り主》の前に立つ日にどうしようというのか? あなたの教役者が今あなたを厳しく叱責することなど大したことではない。人間の判断で審かれることなど小さなことである。神が、あなたに向かって、非難ではなく断罪を大喝なさるとき、あなたがたはどうしようというのか? 「のろわれた者ども。離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ」*[マタ25:41]。あゝ! あなたがた、官能にとらわれた人々。あなたの魂が味わう苦悶について私がいくら語っても、決してあなたの心を動かさないであろうことはわかっていた。いま私は、あなたの心を動かしているだろうか? あゝ、否! あなたがたの中の多くの人々は、外へ出て行って笑い、私を「地獄火の牧師」と呼ぶであろう。以前そう呼ばれたのを私は覚えている。よろしい。行くがいい。だが、もしかすると、いつの日かあなたは、天国にその地獄火の説教者を見ることになるかもしれず、あなたがた自身は放り出されるであろう。そして、そこから叱責のまなざしで見下ろしながら、私はあなたがたに思い起こさせることになるかもしれない。あなたがこの言葉を耳にしながら、それに耳を傾けようとしなかったことを。あゝ! 方々。この言葉を耳にするのは軽いことである。だが、それを身にしみて感ずるのは非常につらいこととなるであろう。あなたは今、無感動に私の言葉を聞いている。だが、死があなたをつかみ、あなたの虚偽が火の中で焼け焦げていくとき、それはずっとつらいことであろう。今あなたはキリストを蔑んでいる。だが、そのときキリストを蔑もうとはしないであろう。今あなたがたは自分の安息日を無駄に費やしている。だが、そのときあなたがたは、地獄の中で一日でも安息日が過ごせるとしたら、一千もの世界を投げ出しても惜しまないであろう。今あなたがたは嘲り、あざ笑っている。だが、そのときには全く何の嘲りも、あざ笑いもないであろう。あなたは悲鳴を上げ、咆哮し、あわれみを求めて呻いているであろう。だが、――

   「いかな恩赦令(ゆるし)も 下ることなし
    我らが急ぐ 冷えし墓には。
    ただ暗闇(やみ)と、死と、永き絶望、
    永久(とわ)に沈黙(しずけ)く かの地を統(おさ)めん」。

おゝ、話を聞いている方々! 必ず来る御怒り! 必ずくる御怒り! 必ずくる御怒り。あなたがたの中のだれが、むさぼり食らう火の中に住んでいられるだろうか? あなたがたの中のだれが、永遠の劫火の中にいられるだろうか? あなたはいられるだろうか? そこの方。あなたはいられるだろうか? あなたは永遠にその火焔の中にとどまっていられるだろうか? 「おゝ、いいえ」、とあなたは云う。「救われるために、私は何ができるでしょうか?」 キリストが云われることを聞くがいい。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます」*[使16:31]。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる』」[イザ1:18]。


《講解》

Iコリント15

----

 使徒たちの時代、復活などないと考える人々がいた。パウロは力を尽くしてこうした考えに反駁し、死者からの復活があるとコリント人たちに教えている。1節から11節までで、彼はイエス・キリストの復活を証明し、この土台に立って義人の復活という教理を立証している。

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
「また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」

 さて、使徒が、「私は今、あなたがたに福音を知らせましょう」、と云うとき、私たちは、立て板に水のごとく滔々と教理を聞かされるのだなと思う。だが、そうする代わりに彼は、単純に私たちにイエスの復活について告げている。というのも、それこそ福音の真髄そのものであり、その土台だからである。――イエス・キリストは、聖書の示す通り、死んで、三日目によみがえったのである。

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、」
「また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、」

 これこそ福音のすべてである。このことを完全に理解した人は、第一の原理を理解したのである。その人は正しい一歩を踏み出した。私たちが真理を学びたければ、これがその出発点である。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」。

「また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」

 イエス・キリストが死者の中から復活したことは、記録に残された中でも、最も確実に証明された事実の1つである。それを目にした証人はあまりにも多く、人間の証言の真実性を少しでも受け入れる限り、私たちはイエスが死者の中からよみがえったことを到底疑うことはできない。彼らは思い違いをしていたのだ、と不信心者たちが云うのは実に容易なことだが、同じくらい愚かなことである。というのも、彼らがひとり残らず、死んだと知っていた人物が後で生きているのを見たと云うほど、はっきり思い違いをすることなどありえなかったからである。確かに、彼ら全員がしめし合わせて、こうしたペテンをでっちあげたはずはない。そんなことがあったとしたら、そこには記録に残された限り最も途方もないことが起こったことになる。彼らはひとりとして口を割らず、この一団の集団は最後まで仲間を裏切らなかったのである。私たちは、これほど多数の悪党が永遠に口裏を合わせ続けたなどということは、全く不可能であると思う。こうした人々は、そうすることによって何の利得も得なかった。まさにこの事実を確言することによって彼らは、身を迫害にさらすことになった。彼らは、この事実のために死ぬ覚悟があったし、現実に死んでいった。五百人から一千人の人々が、別々の場所でキリストを目にし、自分はキリストを見た、キリストは死者の中からよみがえったのだ、と宣言した。彼が死んだ事実はそれ以前に立証されていた。ならばいかにして、だれかキリスト教信仰は真実ではないなどとあえて云うだろうか? キリストが死んで、死者の中からよみがえったことを私たちは確実に知っているというのに。また、それを知った上で、だれがこの《救い主》の神性を否定するだろうか? 彼が救うに力強い者[イザ63:1]でないなどと云う者がどこにいるだろうか? 私たちの信仰には堅固な基盤がある。というのも、それは、こうしたすべての証人たちの上で安んじており、さらに確かな聖霊の証言が私たちの心の中で証ししているからである。「そして、最後に」、と使徒は云う。「月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者で……す」。私たちは、パウロが、「私は使徒の中では最も大いなる者です」、と云ったとしても高慢だとは思わなかったであろう。というのも、彼はその著作によって聖書の最大の部分を占めており、使徒たち全員を合わせたよりもずっと多くの人々に宣べ伝えていたからである。その熱烈な労苦においてパウロをしのぐ者などいなかった。その近くに迫る者すらいなかった。だが、彼は云うのである。

「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」

 彼は、神が自分にお与えになった種々のあわれみを眺めるとき常に、自分がいかに僅かな報いにしか値していないかを思い起こした。そして、自分が説教しているのを見いだしたとき、おゝ! いかなる哀感をこめて彼は不敬虔な者らに宣べ伝えたことか。というのも、彼は常にこうしめくくることができたからである。――「しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じ……る人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです」[Iテモ1:16]。この場には迫害者がいるだろうか? その人は、自分の罪が最も憎むべき罪であること、他のいかなる人にもまさる地獄の深みへと自分を沈み込ませる罪であることを知るがいい。だが、そうした人にさえ、あわれみはあり、豊かな赦しがある。というのも、パウロは、自分が神の教会を迫害したにもかかわらず、あわれみを受けたと云っているからである。

「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
「そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。」

 「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました」。それは、私たちの中のほとんどの者が達しうるきわみに近い境地である。「神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました」。そこで、彼は自分を抑えている。「しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」。私たちは常に、自分の良い行ないを自分自身に帰さないように用心すべきである。ひとたび私たちが自分自身の頭に冠を載せたなら、私たちはたちまち頭が重たくなり難儀をこうむることになるであろう。だが、その冠をすべてキリストの頭に載せるとき、キリストは私たちがキリストを尊ぶならば、私たちを尊んでくださる。

 このようにキリストの復活を証明した上で、彼は語を継いで云う。

「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
「もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
「それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
「もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」

 ことによると、あなたは、一見しただけでは、キリストの復活とその民全員の復活との間に分かちがたい結びつきがあることに心打たれないかもしれない。この議論の精粋を見てとらないかもしれない。使徒は云う。「もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったであろう。だが、もしキリストがよみがえったのなら、あらゆる死者はよみがえるであろう」。あなたは、それがいかにしてかわかるだろうか? 左様。キリストと人間性は今や堅く結びついているため、キリストが行なわれたことは、その民全体の代表者として行なわれたのである。アダムが罪を犯したとき、世界が罪を犯し、世界は死んだ。「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされる」[Iコリ15:22]。キリストは、その民の代表としてでなくてはよみがえることができなかった。そして、「もしキリストがよみがえったとしたら」、とパウロは云う。「その民はよみがえるであろう。だが、もしキリストがよみがえらなかったならば、私たちはよみがえらないであろう。なぜなら、私たちはキリストと一体だからである。そして、もし私たちがよみがえらないとしたら、キリストはよみがえらなかったのである。私たちはキリストと一体だからである」。ここに、断ち切れない結びつきがあるのを見てとるがいい。――もしキリストがよみがえったとしたら、死者もよみがえらざるをえない。これにより、もう1つの議論がもたらされる。

「そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。」

 あなたはこうした思想をどう思うだろうか?

「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」

 というのも、彼らはその当時迫害を受けつつあり、野獣の前に投げ出され、獄に閉じこめられていたからである。では、もし現世がすべてだったとしたら、キリスト教信仰のどこに値打ちがあるだろうか? それは、単に人間を哀れにするだけであろう。

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」

 アルミニウス主義者は、この箇所を曲解して、これこそ万人がキリストを通して恵みを受ける証明だと云うが、それは何の役にも立たない。この箇所は全くそうしたことを云っていない。それは単に「死ぬ」と「生きる」と云っているにすぎない。あらゆる人が復活のときには生き返るのである。

「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
「キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
「最後の敵である死も滅ぼされます。」

 ここには、大いなる証拠が輝きわたっている。――もし死が滅ぼされるとしたら、そこには復活がなくてはならない。というのも、聖徒たちの骨そのものがこの敵の要塞から解放されない限り、死が滅ぼされることはありえないからである。

「『彼は万物をその足の下に従わせた。』からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。
「しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」

 イエス・キリストがその国を神に、すなわち、その御父にお渡しになると読むとき私たちは、キリストがそれゆえに神でなくなるとか、《王》でなくなると考えるべきではない。こう理解するがいい。父なる神は、《人-神》としての御子に仲保的な王国をお与えになった。だが御父は、キリストにその王国をお与えになったときも、全く変わることなく神であられた。それはキリストが、《人-神なる仲保者》としてお受けになる、キリストご自身の特別の王国であり、父なる神はそれをキリストにお与えになることで、いかなる栄光も失われなかった。キリストがその《仲保者》としての目的をことごとく成就なさるとき、キリストがご自分の選民すべての救いを完成されるとき、キリストはご自分の仲保的な王国の冠を神の足下に置き、《人-仲保者》として、ご自分も偉大なるエホバ、《三一の神》に服されるであろう。そのときには、もはや何の《仲保者》もいなくなるであろう。いかなる仲立ちの必要もなくなるからである。むしろ私たちはみな1つに集められ、地上にあるもの、天にあるものすら集められ、――キリスト・イエスにおいて1つとなるであろう。それは職務の破壊であって、ご人格の破壊でも、栄誉の破壊でもない。それは、キリストの職権能力をわきに置くことであって、その栄光にも誉れにも何ら減ずるところはない。

「もしこうでなかったら、死者のゆえにバプテスマを受ける人たちは、何のためにそうするのですか。もし、死者は決してよみがえらないのなら、なぜその人たちは、死者のゆえにバプテスマを受けるのですか。」

 この聖句には、三十から四十もの説明が寄せられている。ドッドリジや非常に多くの人々の考えによると、当時はある殉教者が死ぬと、別の人が進み出てその人の役職を占めて、そのようにして、「死者のゆえにバプテスマを受ける」習慣があったことを指しているという。だが、私が最も好ましく思う意味は、こうである。余命いくばくもないことが確実だという場合にバプテスマを受ける人々はどうしようというのか。バプテスマの後でたちまち死に連れ去られてしまうような人々――死の直前にバプテスマを受ける人々はどうしようというのか? というのも、だれかがバプテスマを受けるや否や死に連れ去ろうと、ローマ人たちがその人を見張っているだろうからである。このようにして、彼らの多くがバプテスマを受けたのは、あたかもその埋葬のために洗われ、自らを墓にささげるかのようにしてであった。彼らは前に進み出て云った。「おゝ、主よ。私は身をささげてあなたに仕えます。――この下界であなたに仕えるのではありません。かの敵はそれを私に許さないでしょうから。ですが、死ぬことになっている以上、私はバプテスマを受けて、そうしたすべてをものともしないでしょう。私は、死そのもののためにさえもバプテスマを受けましょう」。よろしい。死ぬことが確実にわかっていながらバプテスマを受ける者たちは、もし死者がよみがえらないとしたら、どうしようというのか。「なぜその人たちは、死者のゆえにバプテスマを受けるのですか」。

「また、なぜ私たちもいつも危険にさらされているのでしょうか。
「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。
「もし、私が人間的な動機から、エペソで獣と戦ったのなら、何の益があるでしょう。もし、死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。』ということになるのです。」

 これはパウロが実際にエペソで獣と戦ったということではないが、他の非常に多くの人々がそうした。キリスト者たちに短剣を渡した上で、獅子たちの前に突き出し、命をかけて戦わせるということは普通に行なわれていた。そして、時として神に強められた彼らは男らしく戦い、生き残ることがあった。しかし、パウロは云う。「もし私がエペソで獣と戦ったとしても、死者がよみがえらないのだとしたら、私にとってそれが何になるだろうか?」 私は自分の信仰など打ち捨てた方がましだったであろう。そうすれば私は横になって、安らかにしていられたであろう。「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」。おゝ、異教徒の詩人を引用するとは、何とパウロのよこしまなことか! 何と恥ずべきことか。もし私がある詩句を暗唱し、それがシェイクスピアか他の俗的な著者の書いたもののように見えると、何とけしからんことか!とあなたがたは云う。しかし私は、どこに見いだそうと、良いものを好んでいる。私はしばしば悪魔の言葉を引用してきたし、あえて云えば悪魔の民の言葉をも引用しようと思う。パウロはこの一句をメナンドロスから引用しており、他の異教徒の詩人から引用していた。彼らは近代の詩人たちが書いたよりも、はるかに俗悪なことを書いていた。だが、たとい私たちの中のだれかが、読まなければよかったような本の内容で私たちの頭を一杯にしていたとしても、もしそこに、神への奉仕のために用いられるような、えり抜きの宝石が何かあるとしたら、神の御助けによって、私たちはそれを用いるであろう。

「思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。
「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。」

 この後に続く部分をあなたがたは家に帰ってから読めるであろう。これは非常に美しく、大きくうねる詩歌のようである。ここには、ミルトンの『失楽園』よりも豊かな音楽がある。私たちはしめくくりに、最後の数節を読むことにしたい。

「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。」
「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」

 キリストがやって来られる。そして、キリストは、何人かの者が地上で生きているのを見いだすであろう。そして生き残っていたこの人々は死なないであろう。パウロは《再臨》のことで胸が一杯になり、「私たちはみなが眠ってしまうのではなく」、と云っている。彼は自分がこの手紙を書いている間にも、キリストがやって来られるかもわからないと思っていた。そして私たちも、熱心にキリストを待ち望んでいるあまり、こう云わざるをえない。「私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」。

「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。
「『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』
「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」

 何とも残念なことに、時として私たちが葬儀に参列するとき、この壮大な聖書箇所が礼拝堂付きの司祭によって、何の気もなく、魂も、いのちもなく読み上げられるのを聞くことがある。――その式をさっさと切り上げれば切り上げるほど、彼にとっては都合がいいのである。おゝ、このように高貴な言葉が、それについて何も知らない人々によって、かくもぶちこわしにされるとは!

「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

----


最新刊。定価2ペンス。『来なさい。子たちよ』。1856年2月20日、水曜午後、西ケント日曜学校連盟において、C・H・スポルジョン師が日曜学校の教師たちに対して行なった説教。

 

HOME | TOP | 目次