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魅惑境

NO. 64

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1856年2月3日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう」。――Iテサ5:6


 神の羊の群れが、あれこれと入り組んだ経験の迷路を辿っていく際の霊的導き手として、福音に仕える教役者がなすべき義務は、天国に向かう路のあらゆる曲がり角を指し示すこと、その種々の危険や特権について語ること、そして、格別に危険な立場にあると疑われる者には警告を発することである。さて、《滅亡の都》から《天の都》に至る路には、ことによると、その途上のいかなる場所にもまして危険かもしれない場所が1つある。そこに獅子がうようよいるわけではない。一匹も龍はいない。闇の森があるわけでも、深い落とし穴がやたらに穿たれているわけでもない。だが、路のその場所では、他のどこにもまさって、見かけは巡礼であるような人々が滅ぼされてきたのであって、あの白骨に満ちた《懐疑城》でさえ、これほど多くの殺された人々を示すことはできない。この路のその場所は、《魅惑境》と呼ばれる。かの偉大な地理学者ジョン・バニヤンは、その姿をこのように生き生きと描き出している。

 「そのとき私が夢で見ていると、彼らはある地方に来たが、そこの空気は初めて来た人をひとりでに眠くする傾向があった。ここで有望者は非常に物うくて、たまらぬほど眠くなった。そこで基督者に言うには、私はもう非常に眠くなってきて、ほとんど目をあけていることもできません。ここで横になってちょっと眠ろうではありませんか。

 「基督者 いや決して。眠ったら二度とさめないことになるといけません。

 「有望者 どうしてです、兄弟。睡眠は働く者にとって快いものです。ちょっと眠ったら元気が回復しましょう。

 「基督者 君は覚えていませんか。羊飼の一人が魅惑境を警戒せよと言ったのを。彼がそう言ったのは眠りを警戒せよという意味なのです。『だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう』」*1

 愛する方々。疑いもなく私たちの中には、この平原を通り過ぎつつある多くの者がいるに違いないし、残念ながら、現代の諸教会の大部分は、このような状況にあるのではないかと思う。彼らは、この《魅惑境の》の《あずまや》の中にある腰掛の上に横たわっている。そこには、私たちが彼らの間に見たいと願う活動も熱心もない。ことによると彼らは、特に正統信仰からはずれているわけではないかもしれない。迫害という獅子から襲撃されてはいないであろう。だが、ある意味ではそれよりも悪い。――かの《怠惰のあずまや》の中の不注意者や無鉄砲者のように、横になって眠り込んでいるのである。願わくは神が、そのしもべたちをして、教会をその嗜眠から覚醒させ、そのまどろみから奮い立たせる手段とならせてくださるように。さもないと、信仰告白者たちは眠りに眠ったあげく死に至りかねない。

 今朝、私があなたがたに示したいのは、キリスト者たちが時として陥るこの眠りの状態とはどういう意味か、ということである。第二に私たちは、できれば何らかの考察を用いることで、いま眠っている者たちを寝覚めさせたいと思う。第三に私が注目したいのは、キリスト者たちが最も眠り込みやすくなる種々の時期である。それからしめくくりに、あなたがたにはいくつかの助言をしたい。この《魅惑境》を通り過ぎる際に眠気を感じ、まぶたが重くふさがるのを感ずるとき、いかにして身を処するかということに関する助言である。

 I. 第一に、《キリスト者たちが陥ることのある、この眠りの状態とはいかなるものか》。それは死ではない。キリスト者はかつては死んでいたが、今はキリスト・イエスにあって生きている。また、それゆえ、二度と死ぬことはない。だが、不死のいのちによって生きたものとされた人が死ぬことはないとはいえ、その生きた人が眠ることはありえる。そして、その眠りは、非常に死に近いものであって、私の知っているキリスト者たちの中には、その眠りこけている姿を見て、死人だ――肉的な罪人だと間違えられた人々がいるほどである。さあ、愛する方々。眠った状態にある際のキリスト者がいかなる状況にあるかを、私に描き出させてほしい。

 まず、眠りとは無感覚の状態であり、神の最良の子らでさえしばしば陥る状態である。ある人が眠っているとき、その人には感覚がなくなる。世界は運行しているが、その人はそれについて何1つわからない。見張り人がその人の窓の下で呼び声を上げるが、その人はそれでも眠り続ける。火事が近隣の通りで起こり、隣人の家が灰燼に帰すが、その人は眠っていて、そのことを知らないままである。家人の誰かれが病気になっても、その人は目を覚まさない。家族が死ぬかもしれないが、そのために涙を流しはしない。その町の街路では革命が荒れ狂うかもしれない。国王が王冠を失うかもしれない。しかし眠っている人は政治の動乱にあずからない。その人の近くで火山が爆発し、差し迫った危険があるかもしれない。だがその人は逃げようとしない。熟睡しきっていて、無感覚である。風が吹きすさび、雷が天空に轟き、稲妻が窓辺に閃くが、その人はそうしたことを気にもとめずに眠り続けることができ、それらすべてを感じることもない。甘美きまわりない音楽が街路を流れても、夢の中でしかその甘美さを聞くことはない。恐ろしい泣き声が耳元を襲うが、眠りが耳にまどろみという封蝋で栓をしており、それも聞こえない。世界が真っ二つに引き裂かれ、万物の元素が崩壊しても、眠っていさえすれば、それを感ずることはない。キリスト者よ。あなたの状況を見てみるがいい。時としてあなたは無感覚な状況に至ったことはないだろうか? あなたは感じられたらと願った。だが、あなたに感じられたのは、自分に感覚がないという痛みでしかなかった。祈ることができたらと願った。祈りたい気持ちがないわけではなかったが、祈りの感覚が全く何もしなかったからであった。あなたはかつて吐息をつけた。今は吐息をつけるとしたら世界と引き替えにしてもかまわないと思う。以前は呻き声を上げたものだった。今は、呻き声1つの値段は、黄金の星に値すると思う。歌について云えば、歌うことは歌えても、心がそれについて行かない。神の家に行くが、「祭りを祝う群集」[詩42:4]が大波のような歌によって、天にも届けとその音楽を発しているとき、耳ではそれを聞いても、心はその音色に踊ることをしない。祈りは神の御座に上る夕べのいけにえのように厳粛に立ち上る。かつてはあなたも祈ることができた。だが今のあなたは、肉体は神の家の中にいるが、心はそこにない。あなたは、自分という存在のさなぎを連れて来ているが、その中身は飛び立ってしまっているように感じる。それは死んだ、生気のない抜け殻にすぎない。あなたは形式尊重主義者のようになってしまっている。以前は説教の中にあった香気や油注ぎが感じられない。あなたの教役者が変わったのでないことはわかる。変わったのはあなた自身である。賛美歌や祈りは全く同じだが、あなたがまどろみの状態に陥っているのである。かつては、人が罪に定められることを思うと、魂の底から涙にくれたものだったが、今は地獄の瀬戸際に座って、その呻き声を聞いても無感動にしていられる。かつては罪人をその誤った生き方から連れ戻すことを思っただけで、いきなり真夜中に寝床から起き上がり、戸外の冷気の中に飛び出しては、罪人をそのもろもろの罪から救い出す手助けをしようとするものだった。今は、滅びゆく群衆について語られても、耳にたこができるほど聞いた話にしか思えない。罪という大洪水によって何万もの人々が滅亡の断崖へ向かってなぎ払われていると告げられても、あなたは遺憾の意を表わし、献金をささげはするが、心がこもってはいない。あなたは、自分が無感覚であると告白せざるをえない。――完全に無感覚ではないが、相当に悪化している。あなたは目覚めていたいと思うが、自分がこうした眠った状態にあるのを感じて呻く。

 さらにまた、眠っている人は種々の幻影に支配される。私たちが眠っているとき、判断力は私たちから離れ去り、私たちの脳内では空想が乱痴気騒ぎを始める。私たちが眠っているとき、種々の夢が立ち起こっては、頭の中で奇妙な事がらを形作る。嵐の海淵に放り投げられることもあれば、たちまち王宮で酒盛りをする。金銀を川辺の玉砂利であるかのように集めては、たちまち吹きさらしの中で震える、素裸の貧乏人になる。こうした幻影が何と私たちを惑わすことか! 乞食は夢の中では富の神プルートスよりも裕福になり、金持ちは夢の中ではラザロのように貧しくなる。病人は健康になり、健康な人はその手足を失ったり死んだりする。しかり。夢は私たちを地獄に下らせたり、天国に連れて行くことすらする。キリスト者よ。もしあなたが眠りがちな人々のひとりだとしたら、あなたは種々の幻影に支配されているのである。それまで一度もいだいたことがないような奇妙な想念があなたのもとにやって来る。時としてあなたは神がいるかどうか疑い、あるいは、あなた自身が存在するかどうかを疑う。福音が真実でなかったらどうかと震え、かつては決然と握りしめた古の教理をほとんど手放したくなるような気持ちになる。邪悪な異説があなたを襲う。あなたは、あなたを買い取ってくださった主が神の御子ではなかったのだと考える。悪魔はあなたに向かって、あなたは主のものでは全くないと告げ、あなたは自分が契約の愛から投げ捨てられているのだと夢想する。あなたはこう叫ぶ。

   「願うれど よく歌いえず
    願うれど よく祈りえじ」。

そしてあなたは、自分が主のものであるかないかが全く疑わしいことであるかのように感じる。あるいは、ことによると、あなたの夢はもっと明るいもので、自分が何か偉大で、強大な傑物、天から特に気に入られている者であるかのように夢見る。高慢があなたを高ぶらせる。あなたは自分が富んでいて、乏しいものは何もないと夢想するが、実は裸で、貧しくて、哀れな者である。おゝ、キリスト者よ。これが、あなたの状態だろうか? もしそうなら、神があなたをそこから目覚めさせてくださるように!

 さらに、眠りは無活動の状態である。眠っている者が日ごとの糧を稼ぐことは決してない。自分の寝椅子の上で大の字になっている人は本を書くことも、地面を耕すことも、海面を切って進むことも、他のいかなることもしない。その両手はだらりと下がり、その脈は打っており、そこにいのちはあるが、活動ということでは、死んだも同然である。おゝ、愛する方々。ここには、あなたがたの中の多くの人々の状態がある。いかに多くのキリスト者たちが何の活動もしないでいることか! かつては《日曜学校》で子どもたちを教えることが彼らの喜びだったが、今は手を引いている。かつては早天祈祷会に出席していたが、今はそうではない。かつてはたきぎを割る者、水を汲む者であったが、悲しいかな、今は眠り込んでいる。私は、起こるかもしれないことを語っているのだろうか? それは、ほとんど至る所で真実すぎることとなっていないだろうか? 諸教会は眠り込んではいないだろうか? 説教のできる教役者がどこにいるだろうか? 自分の草稿を読み上げる人々、随想を語る人々はいる。だが、それが説教だろうか? 二十分間、聴衆を面白がらせることのできる人々はいる。それが説教だろうか? 自分の心をむき出しにして説教する人々、自分の魂を一言一言にこめて語る人々はどこにいるだろうか? それを口先だけの言葉とはせず、天の召しとし、自らの肉体の息吹とし、自らの骨の髄とし、自らの霊の喜びとしている人々がどこにいるだろうか? ホイットフィールドたちやウェスレーたちは今どこにいるだろうか? 彼らは去って、去って、去ってしまったのではなかろうか? 毎日三度説教し、どこででも恐れなくキリストの測りがたい富[エペ3:8]を説教していたロウランド・ヒルのごとき人物たちは今どこにいるだろうか? 兄弟たち。教会は眠り込んでいる。単に講壇が、歩哨の熟睡する番小屋となっているだけでなく、会衆も影響されている。いかに祈祷会は、ほとんど至る所でないがしろにされていることか! 私たち自身の教会は、ほとんど暗い暗い海の真ん中にあるちっぽけな孤島のようなものである。不協和と混乱の大海の深淵にある輝く一個の真珠のようなものである。近隣の諸教会を眺めてみるがいい。その礼拝室に足を踏み入れて、期待していたよりもずっと少人数の群れが牧師を取り囲み、どんよりとした重い心をしているのを見るがいい。兄弟たちが次々と、この五十年間暗記してきたような、ものうげで単調な祈りをもらしていくのを聞くがいい。そして外に出て来て云うがいい。「祈りの霊はどこにあるのか、礼拝のいのちはどこにあるのか?」 それはほとんど絶滅してはいないだろうか? わが国の諸教会は「その高き境遇から転落して、転落して、転落し去って」はいないだろうか? 願わくは神が彼らを覚醒させ、より熱心で祈りに満ちた人々を彼らに遣わしてくださるように。

 もう1つある。眠っている人は危うい状態にある。殺す者は眠っている人に打ちかかる。真夜中の泥棒は、のんきに枕して寝ている者の家から略奪する。ヤエルは眠っているシセラを殺す[士4:21]。アブネルは、サウルの枕元から槍を持ち去る[Iサム26:12]。眠っていたユテコは三階から下に落ち、抱き起こしてみると、もう死んでいる[使20:9]。眠っているサムソンは髪の毛の房を剃り落とされ、ペリシテ人に襲われる[士16:19-20]。眠っている人々は常に危険にさらされている。彼らは敵の攻撃を撃退することも、別の敵を攻撃することもできない。キリスト者よ。もしあなたが眠っているとしたら、あなたは危険である。あなたのいのちが奪い取られないことは私も知っている。それはキリストとともに神のうちに隠されている[コロ3:3]。しかし、おゝ! あなたは枕元の槍を失うかもしれない。あなたの信仰のあらかたを失うかもしれない。そして、あなたの唇を湿らせる水差しが、うろつく盗人によって盗まれるかもしれない。おゝ! あなたは自分の危険をほとんどわかっていない。今でさえ、かの黒い翼の御使いがその槍を手に取り、あなたの頭のところに立って、イエスに向かって(ダビデに向かって)云っているのである。「私に彼を殺させてください。一度で片をつけます」。(ダビデは云う)私たちのイエスは囁かれる。「彼を殺してはならない。彼の槍と水差しを取るがいい。だが殺してはならない」。しかし、おゝ! 眠っている者よ。目を覚ますがいい! あなたが、いま危うく横たわっている所から身を起こすがいい。これは、天と地をはしごがつなぎ、御使いたちが上り下りしていたのを見たヤコブの眠りのようなものではない。むしろ、はしごが地獄から持ち上げられ、悪霊どもが穴から駆け上っては、あなたの霊を苦しめている眠りである。

 II. ここから第二の点に移る。《眠たげなキリスト者たちを目覚めさせるいくつかの考察》である。私は、これまで眠たげな会衆を前にしたことが一度だけある。彼らは昼食を食べ過ぎて、午後に会堂にやって来たときには、非常に眠そうだったのである。それで私は、彼らの目を覚まさせるために古い便法を試してみた。私は声の限りに叫んだのである。「火事だ! 火事だ! 火事だ!」 座席から飛び上がった彼らの何人かが、どこが燃えているんです、と聞いたとき、私は彼らに告げた。あなたがたのように眠たげな罪人たちを待っている地獄の中が燃えているのだ、と。そのように、愛する方々。私は今朝も、「火事だ! 火事だ!」、と叫んで眠たげなキリスト者たちを目覚めさせることもできよう。だが、それは偽りの叫びとなるであろう。なぜなら、地獄の火は決してキリスト者のために燃やされているのではなく、キリスト者は決して地獄の火を思っておののく必要はないからである。いかに小さな羊の救いにも神の栄誉がかかっており、その羊が眠っていようが目覚めていようが、それは最終的な救いに関する限り完璧に安全である。キリスト者をかき起こす理由にはもっと良いものがいくつもあり、私はそのうちごく僅かを用いることにしよう。

 ではまず最初に、おゝ、キリスト者よ。あなたの眠りから目覚めるがいい。なぜなら、あなたの主がやって来つつあるからである。それこそ、この聖句で用いられている大きな理由である。使徒は云う。「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです」[Iテサ5:5]。「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです」[2節]。「兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません」[4節]。おゝ、キリスト者よ。あなたは、あなたの主が来つつあることを知っているだろうか? あなたが思いもよらなかったような時に、カルバリの上で吊されて震えていた人は、栄光に包まれて下って来られる。「かつては茨の冠をかぶらされた頭」は、すぐに、燦然と輝く宝石をちりばめた王冠を戴かされるであろう。主は天の雲に乗って、その教会のもとにやって来られる。あなたは、あなたの主が来られたときに、眠っていたいと思うだろうか? あの、花婿が来るのが遅れたためにまどろみ、眠っていた、愚かな娘たちのようになりたいだろうか、それとも、賢い娘たちのようになりたいだろうか? もし私たちの《主人》が今朝現われることになるとしたら、私たちのうち半数は、主にお会いするのが恐ろしく思うような状態にあるのではないだろうか? 左様。あなたも知る通り、友人があなたの家を訪問するとき、それがどこかの大人物だったとしたら、そこにはいかなる掃き掃除、拭き掃除がなされることか。部屋の四隅からは残らずくもの巣が取り除かれ、絨毯という絨毯が逆さにされる。そして、その人の来訪に備えて家中がピカピカに磨き上げられる。何と! だというのにあなたは、明日あなたの主が到着するかもしれないというのに、あなたの家を埃まみれにしておき、怠慢の蜘蛛があなたの家の四隅という四隅に怠惰のくもの巣をかけておくにまかせようというのだろうか? また、もし私たちが女王に拝謁することになったとしたら、その衣装はいかなるものとなるだろうか? いかに人々は、すべてを正しく着付けて、しかるべき宮中服を身にまとうように気を配ることか! 主のしもべよ。あなたはやがて麗しい姿の王の前に立ち、その王とじきに地上でまみえることになっているのを知らないのだろうか? 何と、あなたがたは主が来られるときに、眠っていようというのだろうか? 主は、扉を叩かれるとき、こういう答えを受けるだろうか? 「この御仁は眠っています。彼はあなたのおいでを期待していなかったのです」。おゝ、否。自分の主のおいでを見張っている人々のようになり、主が来られたときには、用意のできた姿をお見せできるようにするがいい。あゝ! あなたがた、劇場だの舞踏会だのに集っている肉的な信仰告白者たち。あなたはキリストが来られたとき、踊りの真っ最中にいるあなたを見いだしてほしいのだろうか? 歌劇を前にしているあなたを見てほしいのだろうか? あゝ! あなたがた、肉的な商人たち。あなたがたは人を騙し、その後でも祈ることができる。あなたがたは、自分が人を騙しているところをキリストに見てほしいのだろうか? あなたがたは、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをする。あなたは主があなたの長い祈りの最中にやって来られることを気にかけはしないであろう。だが、主は、その貧しいやもめたちの家があなたののどの中でひっかかっているところにやって来られるであろう。あなたが、貧しく抑圧された人々の土地を飲み下し、あなたが労働者から騙しとった賃金をあなたのかくしに突っ込んでいるとき、そのとき主はやって来られる。そして主は、あなたのような者に何と恐ろしいお方となられることか! 聞いた話だが、ある水夫は、自分の船が沈みつつあるときに、船室に飛び込んでは黄金の鞄を盗み出し、そんなものをつけていては泳げないぞと警告されたにもかかわらず、それを腰にくくりつけたまま海に身を躍らせたという。波間に沈んだ彼は二度と浮かんでこなかった。だが私が心配なのは、ここに自分の金銭の使い道が分からない金持ちが何人かいないかということである。そうした人々は、自分の黄金に息を詰まらされ、首に石臼をぶらさげたようにして、地獄へ沈んでいくであろう。おゝ、キリスト者よ。あなたはそのようなことにはなるまいが、あなたのまどろみから目を覚ますがいい。あなたの主が来ているのだから。

 だがさらに、キリスト者よ。あなたは情け深く、人々の魂を愛している。そして私はあなたに向かって、あなたの心に触れるであろうことを語りたいと思う。あなたは、多くの魂が滅びつつあるときに眠っているのだろうか? この場にいるひとりの兄弟は、少し前に、燃え上がる家の中に飛び込んでいって、そこからひとりの人を救い出した。それから自分の妻のもとに帰っていったが、彼女は彼に何と云っただろうか? 「もう一度そこに戻ってらっしゃい。そして、別の人を助けられないか見てらっしゃい。全員が助かるまでは休まないようにしましょう」。これこそキリスト者たる人が云うであろうことだと思う。「もし私がひとりの魂を救う手段となったとしたら、もうひとり救うまで休みはしないぞ」。おゝ、あなたは今まで、いかに多くの魂が一時間ごとに地獄に沈んでいくか考えたことがあるだろうか? あなたは、向こうにある時計がチクタク云うたびに1つの魂の死を告げる鐘が鳴らされているのだという思いに打たれたことがあるだろうか? あなたは自分の無数の同胞たちがいま地獄にいること、また、さらに無数に多くの人々がそこへ殺到しつつあることを一度も思ったことがないだろうか? だのに、あなたは眠っているのだろうか? 何と! 医者よ。あなたは人々が死につつあるときに眠ろうとするだろうか? 船乗りよ。あなたは船が沖で難破し、救命艇が漕ぎ手を待っているときに眠ろうとするだろうか? キリスト者よ。あなたは魂が失われつつあるときにぐずぐすしようとするだろうか? 私もあなたが彼らを救えるとは云わない。――それは神にしかできない。――だが、あなたはその器となれる。そしてあなたは、天におけるあなたの冠にもう1つ宝石をかちとる機会を見逃そうというのだろうか? その働きがなされつつある間、あなたは眠りたいというのだろうか? アジンコートの戦いにおいて、英国王の発した言葉は至言である。「いざ行きて、勝利を得よ」。

   「そして今ごろ英国で、寝床についた貴族らは、
    やがてここに居らざるを、呪いと見るに違いない。
    そして男を下げたと思うであろう。栄えあるこの日、
    われらとともに戦いし 者の語るを聞く折に」*2

そして私が思うに、魂が救われつつあるときに寝床についているキリスト者たちは、自分がここにいなかったことを呪いと見るであろう。眠たげなキリスト者よ。あなたの耳に叫ばせてほしい。――あなたは魂が失われつつある間も眠っている。――人々が罪に定められつつある間も眠っている。――地獄に人が植民されつつある間も眠っている。――キリストがその栄誉を汚されている間も眠っている。――悪魔があなたの寝ぼけた顔を見てにたにた笑っている間も眠っている。――悪霊どもがあなたの眠りこけた抜け殻の回りで踊り狂い、キリスト者が眠っているぞと地獄で云い交わしている間も眠っている。あなたは決して眠りこけた悪魔を捕えることはないであろう。悪魔が、眠りこけたあなたを捕えないようにするがいい。目を覚まして、慎み深くしているがいい。そうすれば、あなたがたは常に自分の義務を果たしていられるであろう。

 この主題は大きなものだが、他のことを考察する時間はもうなくなってしまった。だが私は、「ほかの人々のように眠っていないで」ということで、眠っている犬を打ち叩く棒を何本でも造作なく見つけられるであろう。

 III. さて、こう尋ねられるかもしれない。《キリスト者は、いつ最も眠りに陥りやすくなるのか》、と。

 最初の答えとして、キリスト者が最も眠りがちになるのは、その現世的な環境が申し分のないものになるときである。自分の家が実に快適な住まいとなるとき、あなたはことのほか眠りがちになるであろう。寝床の中に茨の枝があるとき、眠りに落ちる危険はほとんどない。すべてが心地よくなるとき、何にもましてありそうなことは、あなたがこう云うことができる。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」[ルカ12:19]。あなたがたの中のある人々に尋ねさせてほしい。あなたがぎりぎりの状況に置かれ、一瞬ごとに摂理により頼まざるをえず、恵みの御座に持ち出さなくてはならない問題がいくつもあったとき、あなたは、今の自分よりもずっと目覚めていたではないだろうか? 途切れない流れで水車を回している粉屋は眠りに行くものだが、激しく吹いたり、そよいだりの風を見守っている者は眠ることがない。ことによると、一陣の突風が帆布を引き裂くか、それらを膨らませるほどの風が全くなくなるかもしれないからである。昼間に働いて生活している人は、昼間にはめったに眠らず、夜に眠る。――愛する者の眠りである。容易な路は私たちをまどろませがちである。嵐の中で眠る者はまずいない。多くの人は凪の夜に眠る。実際、「眼くらむ高い檣の上、逆巻く浪の天を衝く」中で、自分の目をふさぐことのできる舟子(ふなこ)は勇敢である*3。だが、何の危険もないときに眠っているとしたら何の不思議もない。なぜ教会はいま眠っているのだろうか? 教会も、スミスフィールドに火刑柱が林立していたとしたら眠ってはいないであろう。バーソロミューの警鐘が耳に鳴っているとしたら、シチリアの晩鐘が明日の晩に鳴り響くとしたら、眠りはしないであろう。今も日常的に虐殺が起こっていたとしたら、眠りはしないであろう。しかし教会はいかなる状況にあるか? だれもが自分のぶどうの木と自分のいちじくの木の下に座っており、だれからも脅かされてはいない。静かに歩け! ぐっすり眠っているのだから、と。教会よ、目覚めよ! さもなければ、私たちはそのいちじくの木を切ってはあなたの耳元に打ち倒すであろう。立ち上がるがいい! いちじくは熟れており、あなたの眠たげな口元に垂れ下がっているのだから。あなたは、無精者すぎて、それを噛みきろうともしていない。

 さて、もう1つの危険な時期は、霊的な事がらにおいて、万事順調なときである。獅子たちが道の途中にいるときに、基督者が眠りに行ったなどとはどこにも書かれていない。基督者は、死の川を渡って行こうとしているときにも、巨人絶望者の城にいるときも、アポルオンと戦っているときも、決して眠りはしなかった。可哀想に! 彼は、そうしたときに眠れさえしたらと、ほとんど願ったことであった。しかし、彼が《難儀が丘》の中腹まで登って、可愛い小さなあづまやに至ったとき、彼は中に入り、腰を下ろしては自分の巻物を読み出した。おゝ、彼がいかにくつろいだことか! いかに自分の靴紐を解き、疲れ切った両足を揉んだことか! たちまち彼の口は半開きになった! 彼の腕はだらりと下がり、彼は深い眠りに落ちてしまった。また、かの《魅惑境》は非常になだらかで平坦な場所であり、巡礼を眠り込ませがちな所であった。あなたは、そうしたあずまやについてのバニヤンの描写を覚えているであろう。「やがて彼らはあずまやに来た。それは暖かくて巡礼者たちを大いに元気づけそうであった。頭上には見事な細工が施され、緑樹が美しくあしらってあり、腰掛やいすが備えてあった。中には柔らかな寝台があって疲れた者はそれによりかかることができた」。「このあずまやは怠け者の友と呼ばれ、巡礼者たちが疲れたとき、できればそこに休息するように誘惑するためのものであった」*4。請け合ってもいいが、なだらかな場所においてこそ、人々はその眼を閉じて、忘却という夢見心地の国へとさまよい出すのである。老アースキンは、うまい指摘をしている。「私は、眠っている悪魔よりも、吠えたける悪魔の方が好きだ」。いかなる誘惑といえども、何の誘惑も受けないよりは半分も悪くはない。苦悩する魂は眠らない。自信と完全な確信に至った後でこそ、私たちは眠りこける危険があるのである。喜びに満ちている人は用心するがいい。喜びきわまりない思いをしているときほど、私たちが眠りに陥りがちな時期はない。弟子たちが眠りに落ちたのは、かの山の上でキリストの変貌を見た後であった。喜んでいるキリスト者よ。用心するがいい。陽気な気分は非常に危険である。それらはしばしばあなたを眠り込ませ、熟睡させてしまう。

 だが、もう1つのことがある。そしてもし私が何か1つでも恐れることがあるとしたら、私は自分の厳かで、尊ぶべき信仰の父祖たちの前で、この事実を語ることを恐れるべきである。すなわち、私たちが眠りに最も陥りがちな場所の1つとは、私たちが自分の旅路の果てに近づいたときである。このようなことは、子どもが語るには不都合なことである。それゆえ私は、これをかの偉大な水先案内人ジョン・バニヤンの言葉で裏打ちすることにしよう。「というのはこの魅惑境は巡礼者の敵が持っている最後の隠れ家の一つですから。そのためにご覧のとおりこの道のほとんど端にあるのです。それ故敵にとってはそれだけ有利な位置にあるわけです。このばか者共が疲れた時ほど腰を下ろしたいと思う時はあるまい、また旅のほとんど終りに来た時ほど疲れそうな時はあるまいと敵は考えるのです。魅惑境がこんなにベウラの国に近く、また巡礼者の行程の終りに近くあるのはそのためです。そんなわけですから、巡礼者は自分自身に気を付けるがよいのです。ご覧のとおり寝込んでしまって、だれも起こすことのできない人たちに起こったことが自分の身にも起こらないようにね」*5。子どもが、自分よりもはるかに年数においても経験においても進んでいる人々に向かって語ってよいだろうか? しかし私は、説教しているときは子どもではない。講壇の上で私たちは神の大使として立っており、神は子どもも老人もかたより見ることをなさらない。神は、ご自身の望む者を教え、みこころのままにお語りになる。私の兄弟たち。これは真実である。恵みにおいて年数を重ねた人々は、最も眠りやすい危険にさらされている。どういうわけか私たちは、物事を型どおりにこなしていくようになる。私たちが神の家に行くのは普通のことである。教会に属するのは普通のことである。そして、そのこと自体が人々を眠たくさせがちなのである。ロンドンにある非国教徒の教会のいくつかに入ってみるがいい。するとあなたは、この上もなく香気高い説教が、ひとり残らず熟睡しきった人々に向かって語られているのを聞くであろう。その理由は、その礼拝が十年一日のごとく同じだからである。彼らは知っているのである。自分が三番目の「天にまします我らの父よ」に達したとき、自分が一般の告白を通り過ぎたとき、自分が説教に達したとき、――それが二十分間眠る時間であることを。もし教役者が教会風に拳を聖書に打ちつけたり、自分の精神機能を活気づかせるために鼻をフンフンいわせたり、自分の手巾を用いたりしさえするならば、彼らは目覚めるであろう。それは、通常のやり方をはずれたものだからである。あるいは、教役者が突飛な文句を口にするならば、彼らは目を覚まして、彼が第五十九戒を破ったものと考える。会衆の一部を微笑ませたからである。しかし彼は決して古典的な演説作法を破らない。謙譲さの鏡として立ち、秩序立った物事すべての権化として立っている。これは余談である。だが、あなたは私が何を云っているのかわかるであろう。常に同じ道を行ってばかりの場合、私たちは眠りがちになる。もしモアブが安らかで、器から器へあけられたこともないとしたら[エレ48:11]、彼は眠り続けるものである。何の変化も知らないからである。そして、幾多の歳月が、私たちの道に敬虔さのわだちをえぐってきたとき、私たちは自分の馬の手綱を投げ捨てて、ぐっすり眠りやすくなるのである。

 IV. さて最後に、眠っているキリスト者に対していくつか《良い助言》を与えさせてほしい。しかし、キリスト者よ。もしあなたが眠っているとしたら、あなたには私の言葉が聞こえないであろう。私は静かに話すことにして、あなたを眠らせておこうか。否、そうはしない。私はあなたの耳元で叫ぶであろう。「眠っている人よ。目をさませ! 死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。あなたの栄光の装いを着よ。生ける神の教会よ」[エペ5:14; 箴6:6; イザ52:1]。

 しかし今、あなたがこの魅惑境を通っていこうとするとき、何が目を覚ましておくための最上の策だろうか? この書が私たちに告げるところ、最上の策の1つはキリスト者の人々と交わること、そして主の道について語り合うことである。基督者と有望者は語り合った。「眠けざましに、ともに語り合いましょう」。基督者は云った。「兄弟よ。どんなところから始めましょうか」。そこで有望者は云った。「神が私たちに対して始められたところから」。いかなる主題にもまさって、人を目覚めさせておくと思われる主題は、神がその人への働きを始められた場所について語ることにほかならない。キリスト者である人々が語り合うとき、彼らは一緒に眠り込みはしないであろう。キリスト者との交わりを続けるがいい。そうすれば簡単には眠りに陥らないであろう。孤立して、ひとりきりで立つキリスト者たちは、長椅子か柔らかな寝椅子の上に寝て横たわり、眠り込む可能性が非常に高い。だが、もしあなたがたがかつてしていたように、ともに多くのことを語り合うなら、あなたはそれがきわめて有益であることを見いだすであろう。主の道の途中でふたりのキリスト者が語り合うとしたら、彼らはひとりきりの場合よりもずっと早く天国に行くであろう。また、全教会が心を合わせて主の恵み深さについて語るとき、真実愛する方々。これほど彼らを目覚めさせておくものはない。

 それから思い起こしてほしいのは、もしあなたが興味深い物事を眺めるならば、あなたは眠らないであろうということである。そして、この《魅惑境》においてあなたが目覚め続けていたければ、一番よいのは、あなたの目の前にあなたの《救い主》を掲げ続けることである。ある事がらは、それを眼前につきつけておくと、人の目を閉じさせないという。カルバリの上で十字架につけられたイエス・キリストは、そうしたものの1つである。私は十字架の足元で眠り込もうとするようなキリスト者をひとりとして知らない。むしろ、その人は常にこう云う。――

   「甘き瞬間(とき)かな、豊けき祝福(めぐみ)、
    十字架のもとで われは過ごしぬ」

そして、その人はこうも云う。――

   「ここにぞ永遠(とわ)に われは立たん
    あわれみ流るを 血の川に見ん」。

しかし、その人は決して、「ここにぞわれ寝て まどろまん」、とは云わない。というのも、あの悲痛な叫び、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」[マコ15:34]が耳に響く中で眠ることはできないからである。「完了した!」との言葉が魂そのものの中に響きわたっているときに眠ることはできない。十字架の近くにい続けるがいい。キリスト者よ。そうすれば眠らないであろう。

 それから私があなたに助言したいのは、風をあなたに吹きつけさせることである。聖霊の息吹が絶えずあなたの宮に吹きつけるようにすれば、あなたは眠らないであろう。聖霊の影響のもとで日々生きるように努めるがいい。あなたの力のすべてを御霊から引き出すようにすれば、あなたはまどろまないであろう。

 最後に、力を尽くして、あなたが行こうとしている場所の価値を深く自分に印象づけるがいい。もしあなたが、自分は天国に行こうとしているのだと思い出すなら、途中で眠りはしないであろう。地獄が自分の背後にあるのだ、悪魔が自分を追いかけているのだと思えば、私は確信するが、あなたは眠りたい気分にはならないであろう。人を殺した者は、血の復讐をする者が背後に負い迫っているとき、また逃れの町が自分の前にあるとき、眠るだろうか? キリスト者よ。真珠の門が開かれ、御使いたちの賛歌があなたの声の加わるのを待っているというときに、あなたは眠るだろうか? 喜びで飾られた冠が、あなたの額に戴かされようとしているというのに眠るだろうか? あゝ、否。

   「すでに踏み来し あゆみ忘れて、
    ひたすら前へ 汝が道すすめ」。
   「汝れ弱くとも 気を失せまさず
    よし気失せすとも 死ぬることなし。
    聖徒(みたみ)の力 主、与え給い
    いと高きより 汝れを助けん」。

私の愛する方々。これで私の説教は終わる。あなたがたの中のある人々は、これで去らなくてはならない。なぜなら、私はこの聖句の中に、あなたのためのものを何1つ見いださないからである。こう云われている。「ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう」。この場にいるある人々は、全然眠ることをしない。なぜなら彼らは、まぎれもなく死んでいるからである。そして、もし私よりも大きな声をもってしなければ眠っている人を目覚めさせることができないとしたら、いかにはるかに大きな声がなくては死者を目覚めさせられないことか。だが、死者に対してすら、私は語る。というのも、私にはできなくとも、神には彼らを目覚めさせることがおできになるからである。おゝ、死んでいる人よ! あなたは知らないのだろうか? あなたの肉体とあなたの魂は、無価値な腐肉であることを。あなたが死んでいる間は、あなたは神に忌み嫌われ、人に忌み嫌われるものとして横たわっていることを。じきに呵責という禿鷹がやって来て、あなたの生気のない魂をむさぼり食らうであろうことを。そして、たといあなたがこの世で神なく、キリストから離れて、七十年生きてきた(かもしれない)としても、あなたの最後の時には、呵責の禿鷹がやって来て、あなたの霊を引き裂くであろうことを。また、たといあなたが今は空を舞う猛禽を笑っていても、それがすぐにあなたの上に舞い降りて、あなたの死は悲鳴と、呻きと、わめき声と、嘆きと、叫びの寝床になるということを。さらにあなたは、やはり知っているではないだろうか? 死んだ魂は、後でトフェテに投ぜられるということを。そして、東方の国々で人々が死体を焼くように、あなたの肉体とあなたの魂がもろともに地獄で焼かれることになることを。この場を出て行ってから、これは比喩なのだと夢想してはならない。それは真実である。これは虚構だと云ってはならない。たとえにすぎないと笑ってはならない。地獄は、まぎれもなく炎である。――肉体を焼く火焔である。ただし、それは魂をも焼く。肉体のための物理的な火もあれば、魂のための霊的な火もある。おゝ、人よ。そうしたことがあなたの末路となるであろう。今でさえ、あなたの火葬用の薪は積まれつつある。罪の歳月は巨大な木々を互いに組み合わせてしまった。そして、見よ。かの御使いは、すでに火をともしたたいまつを手にして天から舞い降りつつある。あなたはその積み薪の上に死んで横たわっている。御使いは、薪の下部にたいまつをつける。あなたの病は、すでに下の部分で火焔が燃えている証拠である。あなたの種々の痛みは、その火のはぜる音である。老人よ。それはすぐにあなたに達するであろう。――あわれな病人よ。それはすぐにあなたに達するであろう。あなたは死の間近にある。そして、死があなたに達したとき、あなたは、消えることのない火、尽きることのないうじ[マコ9:48]の意味を知るであろう。それでも、まだ希望のある間は、私はあなたに福音を告げるであろう。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められ」[マコ16:16]、定められずにはおかない。主イエス・キリストを信ずる者、すなわち、単純素朴な信仰で主のもとに来て、自分の信頼を置く者は、それ以外に何もなくとも救われる。だが、信じない者は必然的に――聞くがいい。人よ。そして、おののくがいい。――信じない者は確実に罪に定められるであろう。

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追記――この説教者はしばしば非難がましいと反対されている。彼は、そうした告発に対して自分を弁護したいと望んではいない。彼は、多くの人々は自分の非難が真実であると意識しているものと確信しており、もし真実だとしたら、キリスト者としての愛からして、私たちは誤っている人々に警告せざるをえない。また、公正な人々であれば決して、教会や時代の過ちを大胆に指摘している教役者をとがめはしないであろう。その率直な叱責によって、あらゆる階級が怒りをかき立てられ、彼の頭上に彼らの怒りの鉢をぶちまけるとしても関係ない。《もしそれが邪悪なことだとしたら、私たちはさらに邪悪になろうと思う》。――C・H・S 

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*1 ジョン・バニヤン、『天路歴程』p.240-241(池谷俊雄訳)、新教出版社、1976。[本文に戻る]

*2 シェイクスピア、『ヘンリー五世』、第四幕、第三場。スポルジョンは原文の「Saint Crispin's day」を「this glorious day」と変えて引用しているので、訳文もそれにならった。[本文に戻る]

*3 シェイクスピア、『ヘンリー四世』、第三幕、第一場。[本文に戻る]

*4 ジョン・バニヤン、『天路歴程 続編』p.227(池谷俊雄訳)、新教出版社、1985。[本文に戻る]

*5 ジョン・バニヤン、『天路歴程 続編』p.229-230(池谷俊雄訳)、新教出版社、1985。[本文に戻る]

 

魅惑境[了]

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