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教会の驚くべき増加

NO. 63

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1856年1月27日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「雲のように飛び、巣に帰る鳩のように飛んでくる者は、だれか」。――イザ60:8


 古の教会は、こうした終わりの日における力強い増加を見通して、驚愕のあまり両手を上げている。また、主の恵みが一小国に限定されてきたのを見慣れていたため、驚嘆して叫んでいる。「雲のように飛び、巣に帰る鳩のように飛んでくる者は、だれか」、と。愛する方々。私たちも幾分か似たような立場にある。私たちの御父は、現代におけるあらゆる前例を越えて、私たちの教会員を増加させてくださった。高年層の会員の方々は、神が非常に大きく祝福してくださった昔の日々を覚えているであろう。また、教会員数が激減して落ちぶれた、悲しくも難儀な日々のことを覚えているであろう。疑いもなくその方々の多くは今朝、この教会の現在の盛況ぶりを思っては、その両手を上げて、こう云っているに違いない。「雲のように飛び、巣に帰る鳩のように飛んでくる者は、だれか」。私は、どの晩に回心者との面会日を設けても、決まって呆然とさせられる。その後で私にできるのは、ただ立って手を打ち鳴らし、家へ帰っては喜びの涙を流すことしかない。思ってもみてほしい。私たちの神のことばが、これほどまでに伝播し、広まり、豊かに増し加わっているのである。また、郵便が届くたびに私は、わが国の各地から手紙を受け取る。ある地域から、また別の地域から、英国だけでなく、スコットランドからも、海を越えたアイルランドからも、あろうことかクリミアからさえ届くのである。――私は驚愕の念に圧倒されている。そして、こう叫ばざるをえない。「だれが私に、この者たちを生んでくれたのだろう」[イザ49:21]? 「雲のように飛び、巣に帰る鳩のように飛んでくる者は、だれか」。

 教会は、こうした言葉を発したとき、3つの種類の感情に打たれていたように思える。第一に、驚嘆である。第二に、喜びである。第三に、不安である。こうした3つの感情をあなたがたも感じてきた。あなたがたにとって、これらは無縁の感情ではない。これから私は、神の子らとしてのあなたがたに対して、いかにして私たちは驚嘆と、喜悦を感ずると同時に不安を感じることができるかを語っていくが、あなたがたはそれを理解するであろう。

 I. 第一に、古の教会も今の私たちの教会も、これほど多くの人々が主を知るようになっているのを見たとき、《驚嘆》に打たれているように見受けられる。「雲のように飛び、巣に帰る鳩のように飛んでくる者は、だれか」。この聖句の初めの句をまず取り上げるがいい。「雲のように飛んでくる者はだれか」*。

 まず第一に教会は、その回心者の数に驚嘆した。彼らは、「雲のように飛んで」きた。ちらほらと回心者がいたのではない。――ほんの時たま回心者が出たのではない。――砂漠でぽつんとしている針ねずみたちのような回心者がいるのではない。むしろ、「雲のように飛んでくる」のである。隕石のように、まれにしか見られず、天空を閃きわたっては、暗闇を喜ばせ、それからいなくなってしまうような、ほんの時たまの回心者ではない。rara avis[珍品]のような時たまの回心者ではない。――霊的な怪物ではない。「しかし、この雲のように飛んでくる者はだれか」、と教会は云う。教会は彼らの数に驚嘆する。しかし、私の兄弟たち。なぜ私たちは驚くべきだろうか? 使徒ペテロは、一度の説教で三千人を回心させる器とならなかっただろうか? また私たちはホイットフィールドのことを聞いたことがないだろうか? 一万人もの人々が彼に耳を傾ける中で、二千人の人々が自分の心に神の力が現わされたのを感じたと知られているのである。また、なぜ私たちは何百人もの人々がいま神のもとに導かれたとしても驚くことがあるだろうか? 「主の御手が短くて救えないのだろうか。その耳が遠くて、聞こえないのだろうか」*[イザ59:1]。私たちはヤコブの神に叫び求めたことがなかっただろうか? そして、神にとって何か不可能なことがあるだろうか? 思い出すがいい。いかに神が「ラハブを切り刻み、竜を刺し殺した」かを[イザ51:9]。紅海のほとりにおける神の驚異を思うがいい。ツォアンの野で行なわれたその奇蹟を思うがいい[詩78:12]。「主に不可能なことがあろうか」[創18:14]。おゝ! 疑り深い教会よ。あなたは主が多くの子どもたちをお与えになったからといって驚愕するのか? こう書かれていないだろうか。――「夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ」、と主は仰せられる[イザ54:1]。私はあなたに告げる。主はあなたに、それよりもさらに大きなことを見せてくださる。私たちの経験したような増加は、神がお望みになれば、それをさらにしのぐものとなるであろう。神に不可能なことはない。ひとりの人を回心させるお方は、同じくらいたやすく百人を回心させることがおできになるし、百人を贖い出すお方は、それと同じ力で千人を救うことがおできになる。イエスの血は十分ではないだろうか? 聖霊は十分に力強くあられないだろうか? また、力ある《三一の神》は、「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる」[エペ3:20]お方ではないだろうか? だが、これが現実である。私たちの期待はあまりにも小さく、私たちはあまりにも神のあわれみを受ける用意ができていない。それで、神が私たちに祝福を注ぎ出されるとき、私たちにはそれを受け入れるだけの余地がなく、窓という窓を閉め始めては、こう考えるのである。「確かにこれは神から来たものではありえない。これほど大量に来るのだから」。だが、それこそ、それが神から来たものだと信ずべき当の理由なのである。もしごく僅かな回心しかなかったとしたら、私たちはそれが人間のわざではないかと震え、恐れてよいかもしれないが、これほど多くの回心がある場合、神以外の何者にもそれを引き起こすことはできない。ひとりかふたりが教会に加わりたいと導かれてくるとき、私たちは恐れて身震いし、用心深く彼らを吟味してよいであろうが、彼らが雲のように飛んでくるときには、こう云うことしかできない。「神よ。あなたは偉大であり、あなたのみわざは驚くべきものです。私のたましいは、それをよく知っています」*[黙15:3; 詩139:14参照]。兄弟たち。疑いもなく私たちは、神の御力についてより大きな見方をし、信仰を増し加えられてこの驚異が減じられるまでは、常に驚愕して立ちつくし、こう云うことであろう。「雲のように飛び、巣に帰る鳩のように飛んでくる者は、だれか」。

 しかし、第二に、この聖句のカルデヤ語訳に含まれている観念は、数ではなく、速さである。その速さにおいて「雲のように飛んでくる者は、だれか」。あなたがたは雲が、駿馬に引かせた戦車のように驀進しているのを見たことがあるであろう。あるいは、敏速な風に追われて、敗残軍のように飛びかけていくのを見たことがあるであろう。そして云ったであろう。「あれ見よ。雲が何と速く空をひた走っていることか」。そして注目に値することに、キリスト教の偉大な信仰復興において、人々は通常、鈍重で退廃した時代よりも、信仰的な成長と経験がずっと迅速なのである。ある人は云う。「左様。ここでは何とすぐさま人々が教会に加わることか! 何とたちどころに信仰の確信に達することか! 何とあっという間に福音の諸教理を理解することか。私の時にはそうではなかった。私は、何箇月も何箇月もかかって、長い間葛藤した上でようやく勇を奮って私の《主人》に従おうと考えたのだし、『私は自分の信じて来た方をよく知っています』*[IIテモ1:12]と云えるようになったのだから」。まさにその通りであった。だが今は、あなたの時代よりも明るい時代であり、あなたは今、回心者たちが非常に速く飛んでいくというので不思議がっている。しかし、それこそまさにこの聖句に込められた思いである。「雲のように素早く飛んでくる者は、だれか」。兄弟たち。私も知る通り、私たちの諸教会の習慣は、回心者がやって来ると、一夏と一冬の間その人を待たせておく――夏冬の間、囲っておく――ことであった。さて、これは非常に思慮深く、非常に賢明なことである。だが、全然聖書的ではない。神のことばのどこを探しても、それは支持されていない。イエスとその使徒たちの模範は、そうした習慣に全く反している。そして私が思うに聖書は思慮よりも優先されるべきであり、主の模範は常に人間の知恵よりも上に置かれるべきである。なぜ今時の神の民は暇取るべきなのだろうか? 急がせるがいい。時をおかずに主の戒めを守るようにするがいい。そして、たとい若い人々が、あなたの時よりも早く恵みにおいて成長しているとしても、それがどうだというのか? ことによると、神は今、より豊かにその御霊を注ぎ出しておられるのかもしれない。神は私たちをより明るい時代に置いてくださった。そして、暖かい陽光の中にある植物は、霜の中にある植物よりも早く育つものである。知っての通り、スウェーデンの短い夏には、収穫物が二、三箇月か、もっと短い間に熟成する。なぜ私たちはスウェーデンの小麦が早めに熟するからといって文句を云わなくてはならないだろうか? それは、数箇月かけて熟するわが国の小麦と同じくらい良いものなのである。主はご自身の欲するまま、みこころのままに行なわれる。それで、たといある者らが迅速に飛びかけ、他の者らがゆっくり進むとしても、ゆっくり行く者は、自分たちが少しでも歩を進めていることについて神をほめたたえるがいい。だが他の者らが多少速く進んでいくことについてつぶやいてはならない。それにもかかわらず、これは常に神の教会にとって驚異のもとである。「雲のように素早く飛んでくる者は、だれか」。

 アラム語訳には、別の観念があり、それはあからさまさである。「雲のように飛んでくる者は、だれか」。知っての通り、雲が飛びかけるときは、だれでもそれを見ることができる。それと同じように、こうした回心者たちは世の前に公然と飛んでくる。この教会にとっても、どこで増し加わっている神の教会にとっても、賞賛の的となるのは、その回心者たちが大胆きわまりなく、大っぴらに飛んでくることである。教会の最初期に、ユダヤ人の指導者だったニコデモは、夜イエスのもとにやって来た。彼は幾分恥じていたのである。会堂から追い出されたくなかったのである。アリマタヤの金持ちヨセフは、自分の主を告白するのを怖がり、イエスを愛してはいても、「ユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」[ヨハ19:38]。しかし、神が聖霊を注ぎ出されてペテロが説教した日には、恐れた者がいたとは一言も書かれていない。むしろ彼らは、「家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し……た」[使2:46-27]。彼らは神殿の美しの門に行き、あらゆる民の面前で、ペテロとヨハネは足なえの男をいやした[使3]。その奇蹟を万人の前で公然と行なった。彼らは恥じなかった。そのように、魂が栄光に富んだしかたで集められるとき、常に目につくのは、人々がいかに大胆になるかということである。左様。この場に集っている人々ほど面の皮の厚い集団はこれまで決していなかった。この人々は自分たちのキリスト教信仰を恥じてはいない。左様。私は人々がバプテスマを受ける水へと、恐れつつ、震えつつ、おののきながらやって来るのを何度も見たことがある。だが、見たところ、この場所でバプテスマを授けられた大部分の人々はそうではない。彼らは、自分の《主人》を認めるのを誇りとしているように思われる。彼らは、こう歌うことができる。――

   「イエスを恥と すべきほどなら
    宵に夕星(ゆうづつ)恥じさせよ!
    イエスを恥と すべきほどなら
    夜闇に昼を恥じさせよ!」

あなたは「福音を恥とは思」っていない。というのも、それはここで、信じる多くの人にとって、救いを得させる神の力となっているからである[ロマ1:16]。私は若い回心者たちの大胆さを見て喜んでいる。彼らが真理に敵対する人々と戦っているのを聞いている。彼らが、軽蔑やあざけりや中傷を向こうに回して、自分の《主人》のために大胆に立ち上がっているのを見てとっている。そして、教会は彼らについて云うのである。「雲のように公然と飛んでくる者は、だれか」。

 しかし私は、ここにもう1つの意味があると思う。それは、ギル博士がその非常に価値ある注解書の中で示している観念である。一致して「雲のように飛んでくる者は、だれか」。注意するとわかるように、これは雲々ではなく、1つの「雲」である。2つか3つの切れ切れではなく、1つに結びついた、まとまった塊である! ここに力の秘訣がある。私たちは、ばらばらに分断されれば、打ち負かされてしまう。だが、1つの堅固な密集隊形になれば無敵である。私たちがひとりの人のように堅く結合したなら、サタンでさえ決して私たちを引き裂くことはできない。私たちが解きほぐされ、私たちの縦糸と横糸が引き離されたならば、くず繊維となり、敵の火花1つで燃やされてしまう。しかし、神に感謝すべきことに、私たちは「ひとりの人の心のように」[IIサム19:14]なっている。私は、水曜日に開かれた私たちの《教会集会》では驚かざるをえなかった。いかにすべての人が、1つの雲となって飛んでいるように見えたことか。ある件が提案されるや否や、全教会が、ただ1つの異論もなしに、その心底を占めている1つの思いにより、抵抗しがたい力で押し流されていくように思えた。ある教会が真に一致しているのを見ることはごくまれである。だが神は私たちを一致させてくださった。私たちにとって、「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」である[エペ4:5]。しかし、それでも教会はそれに驚嘆し、それをほとんど理解できない。「これはだれなのだろう?」、と教会は云う。「この、1つのまとまった、堅固な雲のように飛んでくる者は、だれか」。願わくは神が、常に私たちをそうあらせてくださるように! 私たちの中のひとりについて何が云われようとも、私たち全員についてはそう云われるようにしようではないか。私たちは、てんでばらばらな者にはならないようにしよう。軍のしんがりから遠く離れて行く者は常に危険にさられており、軍の側面でぶらぶらしている者らも同じくらい危害と損害をこうむりやすいものである。私たちは列伍を組み、肩を並べて行軍し、号令1つで一斉に剣を抜き、全員が指揮官の命令通りに行なうようにしよう。そうすれば、真理が勝利するのと同じくらい確実に、一致が征服し、私たちの王は私たちに誉れを与え、私たちを祝福し、私たちが絶えず敵を足で踏みにじり、自分たちを愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者[ロマ8:37]になれるようにしてくださるであろう。

 さらに、ここにはの観念もある。だれが雲にくつわをかけたり、その行進を止めたりできるだろうか? いかなる人が、疾駆する雲を言葉1つで抑えたり、静止させたりできるだろうか? 北に向かって突き進んでいる雲の方向を、だれが南に転ずるように命じられるだろうか? だれが雲の方向を制御し、西へ向けて暗闇の戦車を引いていくのを禁じられるだろうか? 雲はだれにも屈さない。いかに威厳ある者も雲を制することはできない。雲は君主の王笏をあざ笑い、軍隊が軍刀を鳴らしても動いていく。だれも雲を止めることはできない。雲は無敵であり、手に負えない。そして、威厳をもって、天の王侯のように荘厳に進んで行く。では、だれがシオンの回心者たちを止められるだろうか? だれがエルサレムの子どもたちを引き留められるだろうか? 主が「その民の捕われ人を帰らせる」*[アモ9:14]とき、だれが彼らを止められるだろうか? 古の御民がバビロンにいたとき、「双葉のとびら」[イザ45:1 <英欽定訳>]は彼らを閉じ込めておけただろうか? クロスは、その全軍をもってしても彼らを囚人にしておけただろうか? 否。双葉のとびらは開かれ、青銅のかんぬきは道を譲った。そしてクロスそのひとが、彼らを故国へ送り、その神殿建造のための金銀をも与えた。また終わりの日には、ユダヤ人たちが再び彼らの国に戻り、神を礼拝することになるが、だれが彼らを止められるだろうか? ロシアの強大な力がそうできるだろうか? エジプトの権力がそうできるだろうか。トルコの暴政がそうできるだろうか? だれか彼らをとどめておけるだろうか? 否。町はその廃墟の上に建て直され[エレ30:18]、主の部族はやがて、自分の父祖たちがかつて拝礼した場所で再び神を礼拝しに上ってくる。おゝ、神の民よ。あなたがたもそれと同じである。「雲のように飛んでくる者は、だれか」! 試してみよ。おゝ、敵よ。主の鳩の一羽でも巣に帰るのを止めようと試してみよ! お前にはそうできない。おゝ、兄弟よ。悪魔はあなたが主のもとに行こうとしていたとき、あなたを止めようとしなかっただろうか? あゝ! 確かにそうした。だが、それはことごとく無駄であった。また、あなたが教会に加わろうとして来たとき、いかに多くの困難がその途上にあったことか! しかし、あなたが神へ召されているとき、あなたは恐れないであろう。雲のように飛んでくるであろう。あゝ! この世は私たちがそのうち止まるだろうと云う。私たちの成功はみな何ほどのものでもない、すぐに静まってしまうだろう、ただの興奮に過ぎず、たちまちやむだろう、と云っている。あゝ! 云いたければ云わせておくがいい。私たちは雲のように飛んでいく。私たちの中には神がおられる。私たちの中には善がある。私たちの教会の中には《神格》の力がある。では、だれが私たちを止められるだろうか? この地上の勇者たちよ、来るがいい。肉的な理性よ、私たちに対して陣を構えるがいい。批評家の知恵よ、私たちを止めようとしてみるがいい。しかし、彼らにはそうできない。神の弱さは人よりも強い[Iコリ1:25]。私たちを羊の囲いから取って、御民イスラエルを導くようにさせたお方は、そのダビデをお見捨てにはならない。ご自身の民の前に私たちを置かれたお方は、私たちを投げやることもしなければ、ご自身の教会を置き去りにすることも、ご自身の選ばれた者らを打ち捨てることもなされない。「雲のように飛び、巣に帰る鳩のように飛んでくる者は、だれか」。

 このように私は、キリストの教会の驚嘆すべき姿をあなたに示そうとしてきた。「雲のように……飛んでくる者は、だれか」。さて、神の教会よ。あなたを後にする前に、一言だけあなたに云っておきたい。あなたの成功は一方では驚嘆すべきだが、別の方向から眺めれば驚嘆すべきではない。あなたが人を眺めるならば、だれかひとりでも救われるというのは驚嘆すべきことである。だが神を考えるなら、それは驚嘆すべきことではない。荒野を眺めれば、それがサフランのように花を咲かせる[イザ35:1]のは驚嘆すべきことである。だが、エホバを思えば、それは何の驚きでもない。砂漠がカルメルやシャロンの威光[イザ35:2]を有するようになるのは驚異であるが、神が天の軍勢もみこころのままにあしらい[ダニ4:35]、この下界で望む通りにふるまわわれるお方であることを思い起こせば、いかなる驚異も消え失せる。おゝ、神の教会よ! あなたの神に誉れと栄光をささげよ。あなたの神だけにささげよ。その御名をあなたの旗印に書き記し、あなたのいけにえの煙を神の前に立ち上らせよ。他の何者も前にも立ち上らせてはならない。いかなる人にもあなたからの誉れを受けさせてはならない。それを神にささげるがいい。神にこそ、勇士の盾[雅4:4]は属している。「わたしがそれだ。わたしの他にはいない」。神の前にひれ伏すがいい。もしあなたが被造物をたたえ、もしあなたが自分が何事かをしたと考え、「この大バビロンは……私が建てたものではないか」[ダニ4:30]、と云うとしたら、神は云われるであろう。「あなたがレバノンの杉のように自分を高く上げたので、わたしはあなたを地に引き降ろし、あなたの栄光はあなたから取り去られる」、と。願わくは主がそのあわれみによって私たちを高慢から守ってくださり、私たちを主に頼って生き、主の大能を信じ、主の力に頼り続ける者とさせてくださるように!

 II. ここから、私たちの講話の第二の部分に移る。それは、《教会の喜び》である。「雲のように飛び、巣に帰る鳩のように飛んでくる者は、だれか」。

 第一に、教会は自分のもとにやって来る者たち――「鳩」たち――の性格によって、ことのほか喜ばされている。教会に加わる人々が正しい種類の者たちであるとき、私たちは常に神に感謝すべきである。というのも、悲しいかな! 何に役にも立たない人々が大挙して教会に加わることもあるからである。多くの軍隊は、その隊列の中に、全く何の戦力にもならない新兵をかかえて水太りしている。そして、多くの偉大な信仰復興において知られてきたことだが、そこに集まった大勢の人々は六箇月とたたないうちに真理を捨ててしまうのである。私の知っているある教会は、十二箇月の間に八十人の教会員を、風紀紊乱や、真理を放棄したかどで除名したという。こうした人々は、その一年前に、例の信仰復興運動家たちのひとりによって引き起こされた発作的衝動から百人かそこらほど加入した人々であった。こうした、くわせものの運動家たちは、大騒ぎをしながら登場しては、何の善も施さず、他の人々が御国の良い種を蒔いてきたであろう地を焦土と化すのである。驚きなのは、そもそも自分のことを信仰復興運動家だと自称したり、信仰復興の起こし手だなどと告白できる者がいるということである。私の意見をはっきり云っておく。こうした人々は厄介者であり、それ以上の何者ではない。しかし、教会が用心しているところ、教役者が綿密な吟味を実行し、可能な限りのあらゆる手段によって性格を見きわめようとしているところでは、人々が正しい種類の者たちであることによって私たちは大きな喜びを与えられる。あゝ! あなたは時々は私たちの教会集会に出席し、そこで口にされる経験の甘やかな言葉を聞くべきである。確かにあなたは云うであろう。彼らは「巣に帰る鳩のように飛んでくる」、と。時おり私の前には、カーカー鳴く老鴉が加入したいとやって来るが、私たちはたちまち鴉と鳩の見分けをつける。時おりは、鴉が私たちの教会に入り込むこともあるであろう。だが私は、大多数の者は鳩であると期待したい。私たちの見るところ、彼らは非常に謙遜で、非常に柔和で、イエスだけに信頼しており、臆病な鳩のようで、あなたに対して語りかけるのも口を開くのも半ば恐れていながら、だがしかし、非常に愛にあふれており、まるで、これまでイエスの指の上に座っていて、イエスの唇から出た食事をしていたかのように思える。こうした人々のふるまいを後から注意してみても、それは聖く、首尾一貫している。私たちは世の前で誇りとするであろう。私たちに加わった人数にもかかわらず、私たちはこの世のいかなる教会よりも少ない人数しか切り落とす必要はなかった。――私たちのこの膨大な教会の中で、一年にたった一名である! しかも、その一名とは他教会からの転入者であって、一度も徹底的な吟味を受けたことはなかった者なのである。おゝ、私の兄弟たち。あなたの鳩のような生き方によって、常に教会に喜びを与えるよう努めるがいい。「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」、とあなたの《主人》の教えにいう[マタ10:16]。あなたの性格をこのようなものとするがいい。――

   「謙(ひく)く、素直(なおけ)く、穏やかで、
    幼子のごと 変えられて、
    主の賜物を 喜びて、
    その余の世の富 引き離さん」。

「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」[コロ3:2]。あらゆる種類の不潔な物をあさる、汚れた鳥のようになってはならない。むしろ「御国の良い麦」を食べて生きる鳩のようになるがいい。そして、自分が確かに、鳩のように、愛にあふれ、互いに親切にする者であることを確かめるがいい。鳩のように、常に自分の連れ合いを失ったら嘆くがいい。あなたのイエスがあなたのもとから去り、あなたがその喜ばしい臨在を失ったなら泣くがいい。こうした事がらすべてにおいて、鳩のようになるがいい。

 また、教会が喜びを感じるのは、彼らの性格によってのみならず、彼らの状態によってでもある。鳩のように彼らは「飛んでくる」。ラウスはこの節のこの部分を、「飛行中の鳩のように」、と訳している。教会が喜びを感じるのは、その回心者たちが「飛行中の鳩のよう」であると考えてである。愛する方々。あなたは自分が飛行中の鳩のようでなく、隠れ家の中にいる鳩、岩の裂け目の中にいて、暗闇に身を隠し、だれからも姿を見られたくない鳩のようである状況に陥ったことが一度もないだろうか? 私のことを云えば、私はしばしば飛行中の鳩のようではなく、飛ぶのを恐れて翼の下に頭を隠した鳩のようになることがある。しかし、「主は私たちの力を、わしのように新しくされる」*[詩103:5; イザ40:31参照]。主の鳩たちには、羽毛の抜け変わる時期がある。しかし彼らの羽根はまた生えてきて、彼らは、銀色に輝く鳩の翼と、黄金色の羽根を持てるようになり、イエスに向かって舞い上がることができる。そして私たちの教会は、その回心者たちがみな飛行しているように見えるとき――疑いと恐れの中にある回心者でもなく、前に出るのを恐れる臆病な回心者でもなく、むしろ飛行中の回心者のように見えるとき――イエスに向かって舞い上がる、祈り深く、勤勉で、活発な回心者のように見えるとき――、喜ぶではないだろうか。そうした人々こそ、私たちの望む回心者である。そして、教会が喜ぶのは、こう云えるときである。「この飛行中の鳩のような者は、だれか」。

 さらに、七十人訳聖書の訳は私たちに別の観念を示している。「その若鳥とともに飛んでくる鳩のような者は、だれか」。教会は、回心者たちが連れてくる人々とともにいることを喜ぶ。ある父親が自分を神の民と結び合わせたとき、彼の子どもたちを自分の後に続かせる姿は、何と麗しいことか! 少し前にここでは、二人の息子にその母親が続いた例があった。また数多くの場合に、母親の後にその娘たちが続き、娘たちの後にはその母親が続き、息子たちがその父親の後に続いた。おゝ! 鳩たちがその若鳥とともにやって来るのを見るとは何とほむべきことか! もし鳩よりも美しいものがあるとしたら、それは鳩のそばを飛ぶ小鳩である。愛する方々。あなたがたの中のある人々は、自分の子どもたちが教会の中にいるのを喜んでいないだろうか? 会衆席を見やれば、わが子たちがそこにいて、こう云えるのを喜んでいないだろうか? 「あゝ! 神に栄えあれ。そのあわれみを受けたのは私だけではなく、ここには私の息子たちもいる。私の娘たちもいる。私が汲み出しているのと同じ井戸から飲んでいる。同じ霊的なマナを糧食とし、同じ十字架を救いのために見上げ、同じ天国に望みをかけている!」 しかし、私はこの場にいるいくつかの家族が目に入る。――そうしたければ、指さすこともできる。私は悲しみとともに彼らに目をとめる。そこには、父親と母親がいて、ふたりとも天国の相続人であるが、その息子たちについては、彼らが神の子らであるといういかなる証拠も希望もない。また、愛する方々。あなたがたの中には、若い者の方が先にやって来ている人々がいる。この場にいる娘たちには、祈ることをしない母親たちがある。息子たちには、不敬虔な父親たちがある。おゝ! 子どもたちの方が親たちよりも先に御国にいるというのは、つらいことに思えないだろうか? というのも、親が滅びつつあるわが子を見るのがつらいとしたら、確かにそれよりも十倍も恐ろしいのは、子どもたちが救われて、親たちが地獄に行くこと、あなたの子らがその主の喜びに入り、あなたがた自身が「外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりする」*[マタ8:12]と考えることである。シオンの娘たち! あなたの子どもたちのために嘆願するがいい。エルサレムの男たち! あなたの子どもたちのために嘆願するがいい。

 また教会が喜びを感じるのは、こうした鳩たちが進みつつある方向においてである。「巣に帰る鳩のように飛んでくる者は、だれか」。鳩が、その鳩小屋以外のどこに飛んでいくだろうか? この言葉は鳩たちの住む鳩小屋を意味している。鳩たちが入っていって住みかとしている、小さな巣箱の出入り穴のことである。教会の喜びは、あわれな罪人が、人間にも律法にも飛んでいくことをせず、キリストのもとに飛んでいくこと、鳩小屋へと飛んでいくことである! 今も思い起こせるが、私もノアの手から放たれたあわれな鳩のように、大海原の広がりの上を飛んでいき、この疲れ切った翼を休めることのできる場所を見つけたいと思っていたことがある。私は北へ向かって飛んでいき、霧と暗闇を見通そうと目をこらした。何か浮かんでいるものでもあれば、私の魂の足を休められるかもしれなかったが、何も見つからなかった。再び魂は翼を頼りにして羽ばたいたが、以前ほど早くではなかった。いかなる岸も見えない大海をわたったが、それでも休み場は全くなかった。あの鴉は、波間をただよう物に休み場を見いだし、溺死人の屍の腐肉を食物としていた。だが私のあわれな魂には何も見つからなかった。私は飛び続けた。海上に一隻の船が浮かんでいるような気がした。それは律法の船であった。それで私は、その帆布の上で足を休めるか、その索具の上でしばらく休息し、何らかの隠れ家を見いだすことができようと考えた。しかし、あゝ! それは実体のない幻影であった。私はその上で身を休めることはできなかった。私の足には律法の上で休む何の権利もなかったからである。私はそれを守ってこなかった。そして、それを守っていない魂は死ななくてはならない。ついに私は、キリスト・イエスという帆船――かの幸いな箱船を見いだし、あそこまで飛んでいこうと思った。だが私のあわれな翼は疲れ切っており、私はもう飛ぶことができず、海中に沈んでいった。だが、私の翼がだらりとたれさがり、私が流れの中に落ち込んでまさに溺れようとしたとき、摂理によって私の真下にその箱船の屋根があり、私はそこから1つの手が差し出されるのを見たのである。それは私を取って、云った。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した[エレ31:3]。それゆえ、わたしは、わたしの愛する鳩の魂を引き渡して、悪者どもの仲間入りさせることはしなかった。おはいり、おはいり!」 そしてそのとき私は、自分の口に橄欖の枝があり、それがイエスの力によって裂き取られた神との平和、人との平和であることに気づいた。あわれな魂よ! お前は箱船によって休み場を見いだしただろうか? お前の巣に飛んできただろうか? それとも、おゝ、エフライムよ。お前は、あの何の心もない愚鈍な鳩のように、エジプトに下り、アッシリヤに安んずることをしているだろうか? おゝ、とお前は云う。なぜお前は探しても見つからないような場所で憩いを探すのか? 多くの者は云っている。「『だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。』主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私の上に照らしてください」*[詩4:6]! それが鳩の休み場である。それがその家である。あなたは霧のうちにあなたの家を見いだしただろうか? 見いだしていないとしたら、嵐が来るとき、おゝ、鳩よ。羽毛を逆立てたままあなたは猛速度の暴風雨の前に押し出されるであろう。流れの前の羽根一枚のように、未知の暗黒の中を先へ先へと吹き流され、ついには自分が、焼き焦がされた翼もろとも、底なしの火焔の中に落ち込んでいくことに気づくであろう。願わくは主があなたを解放し、あなたを助けてイエスのもとに飛ばせてくださるように。

 III. さて私たちは第三の点に至った。――《教会の不安》である。「あゝ!」、と教会は云う。「彼らが雲のように飛んでくるのは非常に結構。彼らが巣に帰る鳩のように飛んでくるのは何も問題ない。だが、それは誰なのか?」 教会は不安になっており、自分の宝物庫に入れられるのがすべて黄金であるかどうかを確かめたいと切望する。というのも、教会は、こうした金塊の全部が全部、黄金ではありえないと疑っているからである。教会は思う。「確かに、これらすべてが純金ではありえないに違いない。さもなければ、これほど大量にあるはずがない」。そして教会は云う。「これは誰なのか?」 それが問題である! さて私は、それに答えて不安な教会に語りかけてみよう。

 第一に、彼らは飛んでくる者たちである。本日の聖句は云う。「飛んでくる者は、だれか」。彼らが飛んでくる理由は、彼らは、自分がかつていた場所にとどまっていることができないからである。それで、逃げ場を求めて別の場所に飛んでくるのである。私たちの教会に加わった人々は、自分が住んでいた国が火で焼きつくされることになるのを確信しているものと思う。かつて住んでいた所を出て行く必要を感じ、「堅い基礎の上に建てられた都」を求める強い願いをいだいているものと思う。「その都を設計し建設されたのは神です」[ヘブ11:10]。愛する方々。私たちの希望するところ、この教会に加わった人々は、地獄から逃れようとして、天国へ飛んでいきつつある人々である。かつては何の罪についても気にかけていなかったが、今は出て行かざるをえなくなって出てきている。彼らの家があまりにも熱くなりすぎて、それ以上は自分の罪の中に住んでいられなくなったからである。ここには、罪の確信の概念がある。彼らは飛んでくる者たちなのである。彼らは、今や自分の良い行ないという巣を作ることで満足してはいない。そこここに《道徳》広場から拾ってきた綿毛を敷きつめ、ここには《律法主義》の宮からついばんできた紡ぎ糸を置き、そこには《形式尊重主義》という納屋の庭で見つけた善行の一片を入れておくようなことで満足してはいない。今や彼らは、どこにも憩いを有していないあわれな魂となっており、自分の巣に帰り着けるまで、翼も折れよと猛速度で飛んでいるのである。私の愛する方々。あなたはそのようにして教会に加わった人だろうか? それとも、そうではないだろうか? もしそうでないとしたら、あなたは私を欺き、教会を欺いたのである。というのも、私たちはあなたがそのような者だと思ったからである。私たちは、私たちのもとに飛んでくる人々のほか、いかなる者をも私たちに結び合わせたいとは思わない。自分を義とする者などひとりもいらない。自分に満足している者、善良で道徳的な人々などひとりもほしくない。私たちが欲するのは、自分が何者でもないと感じている人々、イエス・キリストをすべてのすべてとしたいと願っている人々である。私たちが欲するのは、あわれな、みすぼらしい、だがイエスによって衣をまとわされた罪人たちの教会である。あわれな死んでいた罪人たちが、イエスによって生かされている教会である。私は、魂を与え給えと神に願い求めるときには、《救い主》を求めて大急ぎで飛んでくる人々を与え給え、と願う。そして、もしあなたがたの中に、飛んでいるという告白をしながら私たちのもとにやって来たのにそうでないという人がいるとしたら、私はありとあらゆる厳粛なものにかけて、あなたに懇願したい。偽善者たちの地獄にかけて――それは地獄中の地獄である――、あなたが失うであろう天国にかけて、あなたがいかに罪深いふるまいをしているか考えてみるがいい。あなたは、キリスト教会の会員であり続けながら、実は偽善者であり、全く飛んできてもいないのである。

 しかしさらに、彼らは地面の上ではなく、雲のように、空の高みを飛んでくる人々である。私たちの知っている多くの教会では、人々がやって来るのは、そこに関連してふんだんに慈善活動がなされているからである。私の知っている、いくつかの田舎の国教会では、人々が出席するのは、礼拝後に決まって六ペンスが気前良く与えられるからである。これは、鬼火のように、暗い湿地を飛んでくることである。私は、たとい三ペンス硬貨1つで全ロンドンを自分の会衆として買い取れたとしても、それを与えはしないであろう。人々がそれよりも高い動機によってやって来るのでない限り、私たちはだれにも来てほしいとは思わない。しかし、私たちの中にはそうした類の人はひとりもいないと思う。彼らは、こうした地を這う者らよりも高いところを飛んでいる。シオンが喜んだのは、彼らが地面の上を飛んでいたことではなく、雲のように飛んでいたことである。彼らは世のことなど顧みず、天国を欲する人々であった。

 彼らは、雲のように雨で満ちた魂であった。あるいは、たとい豪雨を降らせる前の雲のように大きな黒雲のようでないとしても、彼らには多少は恵みを、多少は湿り気を、多少は露を含んでいた。

 そして彼らは、まさに雲のように、風によって駆り立てられていた人々であった。――自分から動くのではなく、行かなくてはならないから行く人々――自分では動く力が全くないが、背後から何かによって駆り立てられている人々であった。兄弟たち。私たちが希望するところ、この教会の回心者たちは、聖霊の力によって私たちのもとに駆り立てられてきたのであり、来ないではいられなかったのである。そして彼らは雨に満ちた人々、神がお望みになれば、それを私たちの上におびただしく降らせるであろう人々である。彼らは雲のように、人を待つこともなく、大勢寄り集まるのを待つこともなかった。今すぐ私たちとともに進んでいく。そして私たちが希望するのは、この雲たちが空中へと高く高く舞い上がり、ついには1つ1つイエスのうちに飲み込まれていくこと、聖霊の《初子の教会》という1つの集いの中に見えなくなることである。こうした人々こそ、「雲のように飛んでくる」者たちである。

 おゝ、臆病な教会よ。あなたに私たちは、もう1つ別の答えを返したいと思う。あなたに加わろうとしてやって来るのは、新生した人々である。というのも、彼らはだからである。彼らは生まれながらに鳩だったのではない。彼らは鴉であった。だが、今は鳩となっている。彼らは鴉から鳩へ、獅子から小羊へと変えられたのである。愛する方々。神の子らであるふりをするのはごく容易なことだが、実際にそうなるのは容易ではない。孔雀の羽根をつけた黒丸鴉の古い寓話は、今もしばしば現実に起こっている。何度となく私たちが目にしてきたことだが、ひとりの気取った人が、祈りの羽根を長々と後ろになびかせながら、私たちの教会にやって来る。その人は輝かしい祈りをすることができた。そして、その威光と高慢に満ち満ちたまま、気取って前に進み出る。「確かに私はやって来たに違いありません。私には、あらゆるものがそろっています。私は金持ちで礼儀正しいではないでしょうか? 学識と才能があるではないでしょうか?」 ものの数分も経たないうちに私たちは、彼が駄弁を弄しているお馴染みの黒丸鴉でしかないことに気づく。本物の羽根は一本も身につけていない。ちょっとしたことで、彼が借りてきた羽根の一本がぽとりと落ちる。そして彼が偽善者であることがわかるのである。私はあなたに切に願う。偽善者となってはならない。福音の栄光は、それが鴉を白く塗ることにも、黒歌鳥に石灰を塗ることにもなく、それらを鳩に変えることにあるのである。私たちのキリスト教信仰の栄光は、それが人を実体とは違うものに見せかけることにではなく、人を別の何かにすることにある。それは鴉を取り上げて鳩とする。その鴉のような心は鳩の心となる。変えられるのは羽根ではなく、その人自身である。栄光に富む福音よ! それは獅子を取り上げては、そのたてがみを切り落として羊の皮でくるむのではなく、小羊そのものに変じさせてしまう! おゝ、神の教会よ! その巣に帰る鳩のようにやって来る人々は、彼らを変革し、彼らをキリスト・イエスにある新しい被造物とした、新生の恵みの戦利品なのである。

 私たちに加わるためにやってきた人々に関して、私が返す最後の答えは、彼らは、私たちの希望するところ、その巣に帰るために飛んできた人々、そして、私の主キリストのうちに逃れ場を見いだした人々だということである。教会の前に出てくる人について私たちが知りたい唯一のことは、このことである。あなたは、主イエス・キリストを信じているだろうか? 主の御手から赦しを受けているだろうか? 主のご人格と結び合わされているだろうか? 日々主との交わりを保っているだろうか? 主はあなたの望み、あなたの支え、あなたの逃れ場、あなたの信頼の的だろうか? もしそうなら、あなたは入って来てもよい。もしあなたが鳩小屋の中に住んでいる者だとしたら、私たちはあなたを追い出しはすまい。もしあなたが巣に帰る鳩のように飛んできたとしたら、私たちは喜んであなたを受け入れよう。しかし、ここに不安な疑問がある。――あなたはキリストのもとに飛んできただろうか? 愛する方々。世の中には、自分がキリストのもとに飛んできたと考えていながら、実はそうではない者たちがおり、自分はキリストのもとに飛んできてはいないと考えていながら、実はそうである者たちがいる。あなたがたの中には、自分が無事天国に行けると考えていながら、古のパリサイ人のように、白く塗った墓にほかならない人々がいる。これは考えるだに恐ろしいことである。残念ながらある人々は、栄光に富む復活に対する確かで確実な希望をもって、臨終の枕に頭を横たえながら、その目を地獄で開き、苦悶の中に陥るのである。あなたも知るように、鳩は、鳩小屋以外の場所にも、良い隠れ場を見いだすことができる。納屋には小さな穴があるであろうし、そうした穴に鳩はもぐり込んで、自分の巣を作り、ごく幸せにぬくぬくとしていられる。あゝ! 鳩よ。だが、鳩小屋以外のいかなる場所もあなたを守ってはくれないであろう。そして、鳩小屋は1つしかない。あなたは、あなたの木々のどれかに、居心地のいい快適な巣を作ったかもしれない。あなたは自分の希望を、あなたの何らかの功績に置いている。あなたは自分の信頼をあなた自身の何らかの行ないにかけている。それはみな無駄である。鳩小屋は1つしかない。「だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方です」*[Iコリ3:11]。あわれな罪人がエホバの正義から逃れる望みは1つしかない。そしてそれは、「悲しみの人で病を知っていた」[イザ53:3]お方、「打つ者に背中をまかせ、ひげを抜く者に頬をまかせ」*[イザ50:6]たお方である。あなたは、いかにしてその鳩小屋があなたのために作られたか知っているだろうか? それがいかにあなたのために区画されているか、いかにその扉が大きいか知っているだろうか? それは、大工の子であるイエスによって作られたのである。それは主ご自身の血によって区画されたのである。その扉は、いかに巨大な罪人でも入れるほど広いが、少しでも義を有する者は、自分の義を持ったまま入れるほど大きくはないことに気づくであろう。あわれな魂よ! あなたには鳩小屋があるだろうか? また、あなたはその中に住んでいるだろうか? もしそうなら、私たちはあなたとともに喜び、あなたを私たちの教会に結び合わせたことを喜ぶものである。というのも、私たちは主イエス・キリストを愛するすべての人々を愛するからである。だが、あなたが私たちの聖なるキリスト教信仰を理解していないというのであれば、一瞬だけで十分である。出て行くがいい。あなたは、神がシナイの上でお立てになった律法が私たち全員によって破られてきたことを知らないのだろうか? そして、神が、かの「ねたむ神」が、「罰すべき者は必ず罰」する[出34:7]ことを知らないのだろうか? そして、おゝ、罪人よ。あなたは自分がしてきたことの償いをつけるためには、何かを神にささげなくてはならないことを知らないのだろうか? 神が罪を犯す人間に対して燃やす怒りは、その人の身代わりに罪に定められ、その人に代わって罰を受ける者がいない限り、その人を罪に定めずにはおかないことを知らないのだろうか? また、私たちのキリスト教信仰が身代わりの信仰であることを知らないのだろうか?――神の御子イエス・キリストが人となられたこと、私たちの受けるはずだった罰を引き受けられたこと、私たちの負うべきだった御怒りを身に負われたこと、私たちの犯した咎を、古のアザゼルのやぎがそうしたように自分のものとされ、それを持って赦しという荒野に出て行かれたことを知らないだろうか? それは、今やこの代償に信頼を置いている罪人が罰を逃れられるようになるためであったことを知らないだろうか? 神の義は、二度払いを求めることはできない。――

   「まず我が流血(ちなが)す 保証人(みうけ)より、
   さらに再び わが手より」

求めるようなことはない。尊いイエスよ! 咎にとってあなたは何たる代償であられたことか! 甘やかな主イエスよ! 私はきょう、あなたの御傷に口づけします。《人》なる方よ! 《神》なる方よ! ヤコブと格闘なさった方よ! マムレで神の人アブラハムとともに歩かれた方よ! シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴとともに燃える炉の中に立っておられた方よ! 神の御子にして、人の子にして、抜き身の剣を手に持ってヨシュアに現われなさった方よ! 私はあなたを礼拝します。わが身代わり、わが望みよ! おゝ! 願わくは他の人々も同じように行ないますように! このおびただしい数の人々全体が、1つの心となって、主を自分の《救い主》として受け入れますように!

 

教会の驚くべき増加[了]

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