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キリストの受肉と誕生

NO. 57

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1855年12月23日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」。――ミカ5:2


 一年の中でも今の時期は、好むと好まざるとにかかわらず、キリストの誕生について、いやでも考えさせられる時期である。私が思うに、この天の下にある何にもまして馬鹿げたことの1つは、12月25日を特別な日として祝うことに何か信仰上の意義があるなどと考えることである。私たちの《救い主》イエス・キリストがその日に生まれたなどという蓋然性は全くなく、それを遵奉するのは、どこから見てもローマカトリックに端を発したしきたりにほかならない。疑いもなく、カトリック教徒なら、それを崇めてもよい権利があるに違いないが、いかにして首尾一貫したプロテスタント教徒が、その日を少しでも神聖なものと考えることができるのか、私には皆目見当がつかない。しかしながら、私は一年の中に、十二、三回は降誕日があればよいと思う。世の中には労働がありすぎ、もう少し休みがあっても労働者の人々を駄目にはしないだろうからである。実際、降誕日は、私たちにとって恩恵である。特に、それによって家族が炉辺を囲むことができ、友人たちと旧交を温めることができるからである。私は、主イエスの受肉と誕生について考えることに何の害があるとも思わない。私たちは、このような人々と同列に考えられたくはない。

   「祝日(やすみび)を 悪しけく過ごす 念の良さ
    正しく過ごす 人にまされり」。

古の清教徒たちは、降誕日に労働に励む姿を誇示していた。そうした遵奉に抗議することを示したいが一心であった。しかし、私たちの信ずるところ、彼らの主張した抗議はあまりにも徹底的にすぎた。その後裔たる私たちは、その日によって、はからずも授けられる善は受け取り、その迷信性は迷信深い人々にまかせておきたい。

 さて、あなたに語りたいことに単刀直入に進むことにしよう。第一に、キリストをお遣わしになったのはどなたか。父なる神はここでこう云っておられる。「あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る」。第二に、キリストは、受肉された時、どこにおいでになったか。第三に、キリストは何のために来られたか。「イスラエルの支配者になる」。第四に、キリストは、それ以前に来られたことがあったか。しかり。来られたことがある。「その出ることは、昔から、永遠の昔からあったことである」<英欽定訳>。

 I. まず第一に、《だれがイエス・キリストを遣わしたのか?》 その答えは、この聖句の言葉で返されている。「あなたのうちから」、とミカの口によってエホバは語っておられる。「わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る」。考えるだに甘やかなことに、イエス・キリストは、その御父の許しと、権威、同意、援助なしにやって来られたのではなかった。主は、その御父によって、人間の《救い主》となるために遣わされた。悲しいかな、私たちは、あまりにもこのことを忘れがちである。《三位一体》には位格としての区別はあっても、その誉れに区別はない。だが私たちは、非常にしばしば、私たちの救いの誉れを、あるいは少なくとも、そのあわれみの深みとその慈悲のきわみを、御父に帰すよりも多くイエス・キリストに帰している。これは、非常に大きな間違いである。イエスが来られたとは、どういうことだろうか? その御父がイエスを遣わしたのではないだろうか? イエスが幼子とされたとしたら、聖霊がイエスをお生みになったのではないだろうか? イエスが素晴らしいことばをお語りになったとしたら、その御父がイエスの御口に恵みを注ぎ入れ、イエスが新しい契約の力ある奉仕者となれるようにされたのではないだろうか? たといイエスがその苦き杯を飲まれたとき、御父がイエスを捨てられたとしても、それでも御父はイエスを愛してはおられなかっただろうか? また、御父は、やがて三日の後に、イエスを死者の中からよみがえらせ、ついには多くの捕虜を引き連れたイエスを高い所に迎え入れてくださった[エペ4:8]ではないだろうか? あゝ! 愛する方々。御父と御子と聖霊をしかるべく知っている人は、決してどれかおひとりを他の前に置いたり、どれかおひとりに他にまさる感謝をささげたりしはしない。その人は、三者すべてをベツレヘムにも、ゲツセマネにも、カルバリにも見てとり、三者すべてが等しく救いのみわざに携わっておられるのを見てとる。「わたしのために……出る」。おゝ、キリスト者よ。あなたは自分の信頼を人間キリスト・イエスに置いているだろうか? あなたは全く彼にのみより頼んでいるだろうか? また、彼と結び合わされているだろうか? ならば、あなたが天の神と結び合わされていることを信ずるがいい。人間キリスト・イエスにとってあなたが兄弟であり、最も親密な交わりを結んでいるからには、そのことによってあなたは《永遠の神》とつながっており、かの「年を経た方」[ダニ7:9]はあなたの御父であり、あなたの友なのである。「わたしのために……出る」。あなたは、父なる神がその御子を、この大いなるあわれみの事業のためにお授けになったとき、エホバの心に深い愛があったことを一度も悟ったことがないのだろうか? 《天国》にはかつて悲しい日があった。サタンが堕落し、天の星々の三分の一を自分とともに引きずり落としたのである[黙12:4]。その日、神の御子は、かの《全能者》の大いなる右の御座から雷電を投げつけ、反乱軍を打ち砕き、滅びの穴へ叩き落とした。だが、もし天国に悲嘆があると思い描けるとしたら、それよりもさらに悲しい日だったのは、《いと高き方》の御子が、すべての世に先立って宿っておられた御父のふところを離れたときであった。「行くがいい」、と御父は云われた。「そして、汝が《父》の祝福が汝が頭の上にあるように!」 それから脱衣の時が来た。いかに御使いたちが周囲に寄り集まって、神の御子がその衣服を脱ぐのを見守ったことか! 御子はその冠をわきへやって云われた。「父よ。わたしは万物の《主》であり、とこしえにほめたたえられるべき者ですが、自分の冠をわきへやり、定命の人間たちのようになりましょう」。御子はその輝く栄光の胴衣を脱ぎ、「父よ」、と云われた。「私は、人間たちが着ているような、土の衣服を着ましょう」。それから御子は、ご自分を美しく飾っていた、あらゆる宝石類を取り外した。星をちりばめた外套と、光の衣服をわきへやり、ガリラヤの田舎者の着る粗末な衣を身にまとった。それは何と厳粛な脱衣の儀であったことか! その次に、かの退出の様子を思い描けるだろうか! 御使いたちは列をなして《救い主》に付き添い、通りを進み、ついに諸門に達した。ひとりの御使いが叫ぶ。「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ[詩は24:7]。栄光のを王を通らせよ!」 おゝ! きっと御使いたちは、イエスとともにいられなくなったとき泣いたに違いない。――《天の御子》が、そのすべての光が、彼らから喪われたのである。しかし、彼らは御子の後を追った。彼らは御子とともに下った。そして、御子の霊が肉の中に入り、御子が赤子となられたとき、それは御使いたちの大群によってかしずかれていた。彼らは、御子が無事にその母の胸にいだかれたのを見届けてから、天へ戻る道すがら、羊飼いたちの前に姿を現わし、御子がユダヤ人の王としてお生まれになったと告げた。御父が御子をお遣わしになった! この主題をよく思い巡らすがいい。あなたの魂でこれをつかみ、御子の生涯のあらゆる時期において、御子が御父の望まれた苦しみを苦しまれたことを思うがいい。御子の生涯のあらゆる一歩に、かの偉大な《わたしはある》お方の承認が刻印されていることを思うがいい。あなたがイエスについていだくあらゆる考えが、かの永遠の、とこしえにほめたたえられるべき神にも結びつけられているようにするがいい。というのも、エホバは、「わたしのために……出る」、と云っておられるからである。さて、主を遣わしたのはどなただろうか? 答えは、その御父である。

 II. では第二に、《主はどこにおいでになっただろうか?》 ベツレヘムについて多少語りたい。私たちの《救い主》がベツレヘムでお生まれになったことは、ふさわしく、正しいことであったと思われる。それは、ベツレヘムの歴史と、ベツレヘムという名と、ベツレヘムの立場――ユダの中で最も小さいもの――のゆえである。

 1. 第一に、キリストがベツレヘムでお生まれになることが必要だったのは、ベツレヘムの歴史のゆえである。あらゆるイスラエル人にとって、ベツレヘムという小村は大切なものであった。エルサレムは壮麗さにおいてそれをしのいでいたであろう。そこには全地の栄光たる神殿が建っており、「高嶺の麗しさ、全地の喜びはシオンの山」*[詩48:2]だったからである。だが、ベツレヘム近郊には、あらゆるユダヤ人の思いにとって、それを常に快いいこいの場とするような数々の事件が関係していた。キリスト者でさえ、ベツレヘムを愛さずにいることはできない。ベツレヘムについての最初の言及は、思うに悲しいものであった。そこでラケルが死んだのである。創世記35章に目を向けると、16節でこう云われているのがわかる。――「彼らがベテルを旅立って、エフラテまで行くにはまだかなりの道のりがあるとき、ラケルは産気づいて、ひどい陣痛で苦しんだ。彼女がひどい陣痛で苦しんでいるとき、助産婦は彼女に、『心配なさるな。今度も男のお子さんです。』と告げた。彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき、彼女はその子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。こうしてラケルは死んだ。彼女はエフラテ、今日のベツレヘムへの道に葬られた。ヤコブは彼女の墓の上に石の柱を立てた。それはラケルの墓の石の柱として今日に至っている」[創35:16-20]。これは異様な出来事――ほとんど預言的とも云える出来事であった。マリヤはわが子イエスを彼女のベン・オニと呼べたではないだろうか? というのも、イエスは悲しみの子となるはずだったからである。シメオンは彼女に云った。「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです」[ルカ2:35]。しかし、彼女はイエスをベン・オニと呼んだかもしれないが、その父なる神は何と呼ばれただろうか? ベニヤミン、「私の右手の子」である[新改訳聖書 創35:18欄外注参照]。ベン・オニは人としてのイエス、ベニヤミンはその《神格》についてのイエスである。この小さな事件は、ほとんど預言のように思われる。ベン・オニが――ベニヤミンが、主イエスが、ベツレヘムでお生まれるになるだろう、という。しかし、別の婦人が、この場所を名高いものにした。この婦人の名はナオミである。後の時代、おそらくはヤコブの愛惜の墓碑も苔むして、その碑銘も覆い隠されてしまっていた頃に、そこにはナオミという名の別の婦人が住んでいた。彼女も喜びの娘であったが、苦しみの娘となった。ナオミは主が愛し、祝された婦人だったが、異国へ行かなくてはならなかった。そして彼女は云った。「私をナオミ(快い)と呼ばないで、マラ(苦しむ)と呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから」*[ルツ1:19-20、新改訳聖書 欄外注参照]。しかし彼女は、すべてが失われた中にあっても、孤独ではなかった。そこには、彼女にすがりつくモアブ人女性ルツがいたからである。彼女の異邦人としての血が、ユダヤ人の純粋で汚れない血潮と結びつき、そこから主なる私たちの《救い主》、ユダヤ人と異邦人双方の偉大なる王が生み出されることとなったのである。あの非常に美しい『ルツ記』は、そのすべての情景がベツレヘムに置かれている。ベツレヘムにおいてこそ、ルツはボアズの畑に落ち穂拾いに出かけた。そこでこそ、ボアズは彼女に目をとめ、彼女はその主人の前でひれ伏した。そこでこそ、彼女の結婚は祝われた。またベツレヘムの通りにおいてこそ、ボアズとルツは豊かな子宝に恵まれるようにとの祝福を受けた。それで、ボアズはオベデの父となり、オベデはエッサイの父となり、エッサイはダビデの父となった。この最後の事実こそ、ベツレヘムを栄光で飾るものである。――それは、そこでダビデが生まれたという事実である。――ペリシテ人の巨人を打ち殺し、主君に不満をいだく者らを国から連れ出し、後には、歓迎する民衆の完全な賛意によってイスラエルとユダの王冠を戴くことになった偉大な英雄である。ベツレヘムは王家の町であった。そこから王たちが輩出したからである。ベツレヘムは、小さくはあったが、大いに尊ばれるべきであった。なぜならそれは、欧州に点在する、いくつかの公国のようだったからである。そうした公国が高名を馳せているのは、ひとえに英国王室に嫁ぐ配偶者たちの出身地であるがためである。ならば、歴史からして、ベツレヘムがキリストの生誕地となることは正しかった。

 2. しかし、さらに、その場所の名前にも考えるべきものがある。「ベツレヘム・エフラテ」。ベツレヘムという言葉には2つの意味がある。それは、「パンの家」と「戦争の家」を表わす。イエス・キリストは「パンの家」に生まれてしかるべきではなかっただろうか? 主はその民の《パン》であられ、彼らを養う食物である。先祖たちが荒野でマナを食べたように、私たちはこの下界でイエスを食して生きるのである。この世によって飢えさせられた私たちは、その影を食べて生きることはできない。その豆がらは、世俗の子らの豚のような味覚は満足させるかもしれない。彼らは豚だからである。だが、私たちに必要なのはもっと実質のあるものであり、天のほむべきパン――私たちの主イエスの傷ついたからだで作られ、その苦悶という炉で焼かれたパン――のうちに、私たちは幸いな食物を見いだすのである。意気阻喪した魂にとっても、精強な聖徒にとっても、イエスのような食物はない。神の家族の最も小さな者も、そのパンを求めてベツレヘムへ行く。また、堅い食物[ヘブ5:14]を食べる最も強い者も、それを求めてベツレヘムへ行く。パンの家よ! 私たちはお前以外のどこから滋養が得られるだろうか? 私たちはシナイを試してみたが、そのごつごつした急斜面には何の食物も育たず、その茨だらけの高地では、私たちの食物になるような何の穀物も実らない。私たちは、キリストが変貌なさったタボル山そのものにさえ頼っていったが、それでも、そこでは主の肉を食べ、主の血を飲むことができなかった。しかし、ベツレヘムよ。パンの家よ。その呼び名の何と正しいことか。そこでこそ、いのちのパンが、最初に人間の食物として手渡されたからである。また、それは「戦争の家」とも呼ばれた。なぜなら、キリストは、人にとって「パンの家」でないとしたら、「戦争の家」だからである。キリストは義人にとって食物である一方で、悪人にとっては、そのみことば通り戦争を引き起こす。――「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります」[マタ10:34-36]。罪人よ! もしあなたがベツレヘムを「パンの家」として知らなければ、それはあなたにとって「戦争の家」となるであろう。もしあなたが、イエスの口から甘やかな蜜を飲んだことが一度もないとしたら、――《シャロンの薔薇》から甘美な蒸留酒をすする蜜蜂のようになっていないとしたら、同じ御口から、あなたに向かって両刃の剣[黙1:16]が突き出されるであろう。そして、義人がそのパンを引き出す御口は、あなたにとっては破滅の御口、あなたの災厄の元となるであろう。ベツレヘムのイエス、パンの家、戦争の家よ。私たちは、自分があなたをパンとして知っているものと思いたい。おゝ! 願わくは今あなたと戦争状態にある人々が、その耳ばかりでなく、その心においても、この歌を聞くことができるように。――

   「地には平和と 優(あま)きあわれみ
    神と罪人 和解(やわらぎ)得たり」。

 さて、次に「エフラテ」という言葉である。これは、ユダヤ人が愛して保ち続けた、この土地の古名である。その意味は、「豊穣さ」、または、「豊かさ」ということである。あゝ! イエスは豊穣の家にお生まれになってしかるべきであった。というのも、私の兄弟よ。私の豊穣さもあなたの豊穣さも、ベツレヘム以外のどこからやって来るだろうか? 私たちのあわれな不毛の心が1つでも果実か花を生じさせるには、そこに《救い主》の血という水を注がれるしかない。その受肉こそ、私たちの心の地味を肥やすものである。主がやって来られる前のその地表には、至る所に棘だらけの茨が密生し、猛毒がしたたっていた。だが、私たちの豊穣さは主からやって来る。「わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ」[ホセ14:8]。「私の泉はことごとく、あなたにある」[詩87:7]。もし私たちが水路のそばに植わった木のようで、時が来れば実をならせているとしたら[詩1:3]、それは私たちが生まれながらに豊穣であったためではなく、私たちがそのほとりに植えられた水路のおかげである。イエスこそ、私たちを豊穣にしてくださるお方である。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」[ヨハ15:5]。栄えあるベツレヘム・エフラテよ! その名にかなう地よ! 豊穣なパンの家――神の民への豊かな食糧の家よ!

 3. 次に私たちが注意したいのは、ベツレヘムの立場である。それは、「ユダの氏族の中で最も小さいもの」と云われている。これはなぜだろうか? イエス・キリストは常に小さい者たちのもとにおいでになるからである。主は「ユダの氏族の中で」も最も小さな所にお生まれになった。バシャンの高原でも、ヘブロンの堂々たる山の上でも、エルサレムの宮殿の中でもなく、粗末だが、誉れの高いベツレヘムという村でお生まれになった。ゼカリヤ書には学ばされる箇所がある。――そこによると、赤い馬に乗ったひとりの人が、ミルトスの木の間に立っていたという[ゼカ1:8]。さて、ミルトスの木は谷底に生える。そして、赤い馬に乗った人は常にそこで馬に乗られるのである。彼は山の頂上で馬に乗ることなく、心のへりくだった者たちの間で馬に乗られる。「主の御告げ。――わたしがともに住む者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」*[イザ66:2]。今朝この場にいるある人々は小さい者たちである。――「ユダの氏族の中で最も小さいもの」である。あなたの名などだれも聞いたことがないではないだろうか。たといあなたが埋葬され、墓石にあなたの汝が刻まれても、だれひとりそれに目をとめないであろう。通りすがりの人は云うであろう。「これは私には何の意味も持たない。聞いたこともない人だ」。あなたは、自分のことを大して知っていないか、大して評価していない。ことによると、あなたはほとんど文字が読めないかもしれない。あるいは、多少は才質や能力があったとしても、人々の間では蔑まれている。人々から蔑まれていなくとも、自分で自分を蔑んでいる。あなたは最も小さい者のひとりである。よろしい。キリストは常に最も小さい者たちの間にあるベツレヘムにお生まれになる。大きな心は決してキリストをその中に入れることがない。キリストは大いなる心の中ではなく、小さな心の中におられる。偉ぶった高慢の霊は決してイエス・キリストを有することがない。というのも、主は低い扉からやって来られ、高い扉からは来ようとなされないからである。打ち砕かれた心と、へりくだった霊の持ち主は《救い主》を自分のものとするが、他のだれにもそうはできない。主は、君主や王を癒すのではなく、「心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」[詩147:3]。思うだに甘やかなことよ! 主は、最も小さな者たちのキリストである。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る」。

 私たちは、この点から先へ進む前に、ここでもう1つのことを考えずにはいられない。すなわち、いかに素晴らしく神秘的な摂理によって、イエス・キリストの母は、その子を産もうとする、まさにその時に、ベツレヘムへと導かれたことか! 主の両親はナザレに住んでいた。では、なぜ彼らがこのような時期に旅行したいなどと思っただろうか? 当然、彼らは自宅にとどまっていたはずである。主の母が、これほど普通でない状態にあるときに、ベツレヘムへの旅に出かけるなどということは、到底ありえないことであった。だが、皇帝アウグストの発した勅令は租税のための住民登録をせよと命じていた。よろしい。ならば、彼らはナザレで登録すればよかったでないか。否。彼は、全住民がそれぞれ自分の町に行くことを望んだのである[ルカ2:1-3]。しかし、なぜ皇帝アウグストは、この特定の時点でそのようなことを思いついたのだろうか? まぎれもなく、人は心に自分の道を思い巡らすが、王の心は主の手の中にある[箴16:9; 21:1]からである。左様。この世の云い方で云えば、一体何がどうまかり間違えば、このような出来事を生じさせることになっただろうか! まず第一に、皇帝はヘロデと反目し、ヘロデ王家のひとりが退位させられた。皇帝は云った。「私はユダヤに人口登録を行なわせ、それを独立王国ではなく、属州の1つにしよう」。よろしい。それがなされなくてはならなかった。しかし、いつそれがなされるべきだっただろうか? この人口登録は、最初はクレニオが総督だったときに開始された。しかし、なぜこの人口調査が、この特定の時期――例えば、12月――に行なわれなくてはならなかったのだろうか? なぜそれが10月に行なわれなかったのだろうか? また、なぜ人々は自分の居住地で登録することが許されなかったのだろうか? 彼らの税金はどこであろうと同じくらい通用したではないだろうか。それは皇帝の気まぐれであったが、神の定めであった。おゝ! 私たちは、永遠の絶対的な予定という崇高な教理を愛するものである。一部の人々は、それが人間の自由な意志行為と一貫しないとして疑う。それは私たちも重々承知しているが、私たちはこの主題に何の困難も見てとらない。私の信ずるところ、困難を作り出したのは形而上学者たちである。私たちとしては何の困難も感じない。私たちはこう信ずるだけで十分である。人は思いのままに行なうが、それにもかかわらず、常に神が定められた通りのことを行なう、と。ユダはキリストを裏切ったにしても、「そうなるように定められていた」のである[ルカ22:22参照]。また、パロはその心をかたくなにしたが、しかし、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示すためである」*[ロマ9:17]。人はほしいままにふるまうが、神もご自分の望むとおりのことを人にさせているのである。否。人の意志がエホバの絶対的な予定のもとにあるだけではない。あらゆる物事が、大きなものも小さなものも、みな神のものなのである。かの善良な詩人の言葉は至言である。「疑いもなく雲の帆走には摂理の舵取りあり。疑いもなく樫の根の節くれには特別な目的あり。神はすべてを囲い込み、地球を大気のように覆われる」。大きなことであれ小さなことであれ、神から出ていないことはない。夏の塵がその軌道上を動くのは、星々を回転させているのと同じ御手に導かれてのことであり、露の雫が生じて、薔薇の葉の上を滴るのも、神に命じられるままである。しかり。森のしなびた葉が嵐によって吹き上げられるとき、それらはあらかじめ定められた場所に落ちてきて、それを越えることはできない。大いなるもののうちにも、小さなもののうちにも、神がおられる。――神はすべての中におられ、万物をご自分のみこころの計画に従って働かせておられる。そして、人間がその《造り主》に逆らって行こうとしても、そうすることはできない。神は海の境界を砂で仕切り、たとい海が波に波を重ねようとも、その定めの水路を越えることはない。万物は神から出ている。ならば、星々を導き、雀を飛べるようにし、惑星を支配しながら原子をも動かし、雷鳴を発しながら西からのそよ風をも吹かせるお方に栄光があるように。というのも、神はすべてのうちにおられるからである。

 III. ここから第三の点に移る。《イエスは何のために来られたのだろうか?》 主が来られたのは、「イスラエルの支配者」になるためであった。これは実に異様なことである。イエス・キリストは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった」[マタ2:2]。いまだかつて「王として生まれた」ことのある人はほとんどいない。人は王子としては生まれるが、生まれたときから王である人はめったにいない。あなたも、歴史の中で生まれたときには王であった幼子の例など見つけられまいと思う。ことによると、その子は英国皇太子だったかもしれない。そして、自分の父親の死を何年か待った上で、人は彼を王に仕立て上げる。そのために、その頭には王冠を戴かせ、聖油だの何だのとった愚劣なものをふりかける。だが、彼は王として生まれたのではない。私の思い出す限り、王として生まれたお方はイエスただひとりである。そして、私たちが歌ったこの一節には、非常に著しい意味があるのである。――

   「汝が民すくう ためにぞ生まれ
    幼子(こ)として生まれ 王にてありき」。

主は、地上に来られた瞬間から王であられた。その成年を待つことなく、その帝国をお取りになった。むしろ、その目に陽光が入るや否や、王となられた。その小さな御手が何かをつかんだ瞬間から、それは王笏をつかんでいた。その脈が打ち始め、その血液が循環し出すや否や、その心臓は王として鼓動し、その脈拍は帝王として拍子を打ち、その血液は王者として流れた。主は王としてお生まれになった。主は「イスラエルの支配者になる」ために来られた。「あゝ!」、とだれかが云う。「ならば、彼が来たのは無駄だったのだ。というのも、彼はほとんどその統治を行なわなかったのだから。『この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった』[ヨハ1:11]。彼はイスラエルにやって来られたが、彼らの支配者ではなかった。むしろ、『さげすまれ、人々からのけ者にされ』[イザ53:3]、彼ら全員によって投げ捨てられた。やって来た当の相手たるイスラエルから捨てられたのだ」。左様。だが、「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく」[ロマ9:6]、アブラハムの子孫だからといって、全員が召されているわけではない。あゝ、しかり! 主は肉によるイスラエルの支配者ではなく、霊によるイスラエルの支配者なのである。そうしたイスラエルは多くの者が主に従った。使徒たちは主の前にひれ伏し、主を王と認めたではないだろうか? そして今、イスラエルはその支配者たる主に敬礼していないだろうか? 霊によるアブラハムの子孫、すなわち、信仰を持つ者は――というのも、アブラハムは「信仰者の父」*[ロマ4:12]だからである――みな、認めているではないだろうか? キリストにこそ勇士たちの盾は属している[詩47:9 <英欽定訳>]、なぜならキリストは全地の王であるからだ、と。主はイスラエルを支配しておられないだろうか? 左様。まさしく主は支配しておられる。そして、キリストから支配されていない者たちは、イスラエルの者ではないのである。主はイスラエルの支配者となるために来られた。私の兄弟よ。あなたはイエスの統治に服従しているだろうか? 主はあなたの心の支配者だろうか、支配者ではないだろうか? 私たちはこのことによってイスラエルを知ることができる。キリストが彼らの心に来られたのは、彼らの支配者となるためである。「おゝ!」、とだれかは云う。「私は私のしたいようにするのだ。私は決してだれの奴隷になったこともない[ヨハ8:33]」、と。あゝ! ならば、あなたはキリストの支配を憎んでいるのである。「おゝ!」、と別の人は云う。「私は私の教役者に、私の教職者に、あるいは私の司祭に服従しています。そして、彼が私に告げてくれることで私は十分だと思います。彼は私の支配者なのですから」。そう思うのか? あゝ! あわれな奴隷よ。あなたは、自分の尊厳を知らない。というのも、主イエス・キリスト以外のいかなる者もあなたの正当な支配者ではないからである。「そうですとも」、と別の人は云う。「私はキリストを信ずる宗教の告白をしたし、キリストに従っています」。しかし、キリストはあなたの心の中で支配しておられるだろうか? あなたの意志の支配権を握っておられるだろうか? あなたの判断を導いておられるだろうか? あなたは、何らかの困難に遭うとき、常にキリストからの助言を求めるだろうか? キリストの栄誉を高め、キリストの頭に栄冠を載せることを願っているだろうか? キリストはあなたの支配者だろうか? もしそうなら、あなたはイスラエルのひとりである。というのも、「イスラエルの支配者になる者が出る」、と書かれているからである。ほむべき主イエスよ! あなたは、あなたの民の心の支配者であられ、これからも永遠にそうあられます。私たちは、あなた以外のいかなる支配者も望みません。他のだれにも従いたいと思いません。私たちは自由である。なぜなら、キリストのしもべだからである。私たちは解放されている。なぜなら、キリストが私たちの支配者だからである。私たちはいかなる奴隷状態にも、隷属にもない。なぜなら、イエス・キリストだけが私たちの心の君主だからである。キリストが来られたのは、「イスラエルの支配者になる」ためである。そして、注意するがいい。そのキリストの使命はまだ成就していない。終わりの日の栄光に至るまで成就することがない。もうしばらくすれば、あなたはキリストが再びやって来るのを目にするであろう。それは、ご自分の民イスラエルの支配者となるためであり、彼らを、霊的イスラエルとしてだけでなく、生まれながらのイスラエルとしても支配なさるためである。というのも、ユダヤ人は自分たちの故国に回復され、ヤコブの部族は自分たちの神殿の広間で歌うことになるからである。神に向かって、再びヘブル語で賛美歌がささげられるようになり、不信仰を続けるユダヤ人の心は、真のメシヤの足元で溶かされるのである。もうじき、その誕生の際に東方人たちからユダヤ人の王として拝まれ、その死の際に西方人によってユダヤ人の王と記されたお方は、至る所でユダヤ人の王と唱えられるであろう。――しかり。ユダヤ人の王であり、異邦人の王でもあるお方として――この普遍的な君主国において唱えられるであろう。その国の領土は地上の居住可能な全域に広がり、その存続期間は時間そのものと等しくなるであろう。主はイスラエルの支配者となるために来られた。そして、やがては、この上もない絶対的な支配者となられるであろう。そのとき主は、ご自分の民の間で、その長老たちとともに、栄光に満ちた統治を行なわれるであろう。

 IV. さて今、最後のこととして、《イエス・キリストは、それ以前に来られたことがあったのだろうか?》 私たちは、来られたことがある、と答える。というのも、本日の聖句でこう云われているからである。「その出ることは、昔から、永遠の昔からあったことである」 <英欽定訳>。

 第一に、キリストはその《神格》において出ることがあった。「永遠の昔から」。キリストは決して、この瞬間まで秘密の、沈黙していたご人格などではなかった。この生まれたばかりの子どもは、今からはるか昔に数々の驚異を行なっておられた。その母の腕の中で眠っている幼子は、今日は幼子であっても、永遠の年古りたる者である。そこにいる子どもはこの世の舞台にはまだ登場しておらず、割礼を受けた者たちの暦にはその名が記されてはいないが、それでも、あなたが望まなくとも、「その出ることは、昔から、永遠の昔からあったことである」。

 1. 昔、主は、選びにおける私たちの契約上の首長として出てこられた。「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び」[エペ1:4]。

   「キリストよ、わが 最初(さき)の選民(たみ)たれ。神のたまいて、
    我らの魂 選び給いき。われらが頭(かしら)キリストにて」。

 2. 主は、その御民のために、彼らが世に生まれてからこのかた、彼らの代理者として御座の前に出てこられた。永遠の昔に、主の力強い指先は、時代の鉄筆という洋筆をつかみ、ご自分の御名、永遠の神の御子という御名を書き記された。永遠の昔に、主はその御父との契約に署名された。それは、主がご自分の民のため、血には血を、傷には傷を、苦しみには苦しみを、苦悶には苦悶を、死には死をお支払いになるという契約である。永遠の昔に、主は一言もつぶやくことなく、ご自分を引き渡し、ご自分の頭の天辺から足の裏まで、血の汗を流し、つばきをかけられ、槍で刺され、嘲られ、引き裂かれ、死の苦しみを嘗め、十字架の苦悶を味わうことを受け入れられた。私たちの《保証人》として主が出てこられたのは永遠の昔であった。わが魂よ、しばし立ち止まって、驚き呆れよ! お前は、永遠の昔からイエスというお方において出ていたのだ。お前がこの世に生まれ出たときにキリストはお前を愛されただけでなく、キリストの喜びは、いかなる人の子らも生ずる前から人の子らとともにあったのだ。キリストはしばしば彼らについてお考えになった。永遠から永遠にわたり、主はご自分の情愛を彼らに注がれた。何と! 信仰者よ。主はこれほど長くあなたの救いを手がけておられたのか。では、主はそれを成し遂げなさらないだろうか? 主は永遠の昔から私を救うために出ておられたのなら、いま私を手放されるだろうか? 何と! 主は私をその尊い宝石として御手に握っておられたというのに、その尊い指先の間から、いま私をすり抜け落とすなどということがあるだろうか? 山々が生まれる前から、深海の水底が浚われる前から、主は私を選んでおられたというのに、いま私を手放されるだろうか? 不可能である!

   「わが名は御手の 掌中にあり
     永遠すらも よく消すをえじ。
    御心(みむね)に刻印(きざ)まれ、つゆ変わるまじ
     拭えぬ恵みの しるしぞあらば」。

私は確信する。主がかくも長きにわたって私を愛していながら、私を愛するのをおやめになるなどということはない、と。もし主が私に飽き飽きすることに決めたとしたら、今からはるか昔にとうに飽き飽きしておられたであろう。もし主が私を、地獄ほど深く墓ほども云い知れようのない愛で愛してこられたのでなかったとしたら――もし主がその全心を私にお与えになっておられなかったとしたら、私は確信する。主は、とうの昔に私から顔を背けておられたであろう。主は私がどのようになるか知っておられ、その件について考えるべき十分な時間を持っておられた。だが私は主に選ばれた者であり、それで事は決している。いかに私が無価値な者だとしても、主が私に満足していさえするなら、私がぶつくさ云う筋合いはない。しかし主は私に満足しておられるのである。――満足しておられるに違いない。――というのも、主は私の数々の欠点をお知りになるに十分なだけ長く私を知っておられたからである。主は、私が自分を知るようになる前から私を知っておられた。しかり。私が私になる前から知っておられた。私の肢体が形作られるはるか以前から、それらは主の書物に書き記された。「しかも、その一日もないうちに」[詩139:16]、主の愛情に満ちた目はそれらに注がれた。主は、私がいかに主に対して悪逆にふるまうか知っておられた。だがしかし、主は私を愛し続けなさった。

   「過去(すぎ)し主の愛 つゆ思わせず、
    困難(なや)めるわれを 主、捨て沈めんとは」

しかり。というのも、「その出ることは、昔から、永遠の昔からあったことである」以上、「永遠に」続くであろうからである。

 第二に、私たちの信ずるところ、キリストは、古の人々のもとにやって来られ、人々がご自分を見るようになさった。私は、わざわざあなたがたに、イエスこそ、あのエデンの園でそよ風の吹くころ歩き回っておられるお方であった[創3:8]と告げるつもりはない。主の喜びは人の子らとともにあった。また私は、主がその民のもとにやって来られた幾多のしかたを指摘して、長々とあなたを引きとめるつもりはない。主は、契約の御使いや、《過越の小羊》、青銅の蛇、燃える柴その他の、聖なる歴史の至る所に記された、ありとあらゆる予型の形をとって、やって来られていた。だが私はむしろ、私たちの主イエス・キリストが、この私たちの救いのための偉大な受肉以前に、人のようにして地上に現われてくださった、4つの例指摘したいと思う。その最初として、ぜひ創世記18章を開いていただきたい。そこではイエス・キリストがアブラハムの前に現われておられる。こう記されている。「主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした」[創18:1-2]。だが彼はだれに向かってひれ伏したのか? 彼は云った。「ご主人」[3節]。たったひとりにである。他のふたりの間に、ひとりの人が立っていた。そのご栄光が最も際立っていた人がいた。その人は神-人なるキリストだったからである。他のふたりは被造物たる御使いたちであり、一時、人間の姿をとっていた。しかし、この人は人間キリスト・イエスであった。「そして言った。『ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください』」[3-4節]。あなたは、この威光ある人、この栄光に富むお方が、アブラハムと話をするために後に残ったことに気づくであろう。22節でこう云われている。――「その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った」。すなわち、次の章を見ればわかる通り、彼らのうちふたりがそうした。だが、「アブラハムはまだ、主の前に立っていた」。あなたは、この人、主が、アブラハムと甘やかな会話を交わし、ご自分が滅ぼそうとしている町のためにアブラハムが嘆願するのをお許しになられたのを認めるであろう。主は、はっきりと人間のかたちをとっておられた。それで、主がユダヤの通りを歩かれたとき、それは主が人であられた最初の時ではなかったのである。主は以前にも、「マムレの樫の木のそばで……日の暑いころ」、そうなさったことがあった。もう1つの例は、――主がヤコブに現われた場合である。それは創世記32章の24節に記されている。彼の全家族は去っていた。「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。するとその人は言った。『わたしを去らせよ。夜が明けるから。』しかし、ヤコブは答えた。『私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。』その人は言った。『あなたの名は何というのか。』彼は答えた。『ヤコブです。』その人は言った。『あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。』」[創32:24-28]。この方は、人ではあったが、神であられた。「あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」。そこでヤコブは、この人が神であられることを知った。というのも、彼は30節でこう云っているからである。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」。別の例は、ヨシュア記に見いだせるであろう。ヨシュアがヨルダンの狭い流れを渡り切り、約束の地に入って、これからカナン人を追い払おうとしていたとき、見よ! この力強い人-神がヨシュアに現われたのである。5章13節には、こう記されている。――「さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。『あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。』すると彼は言った。『いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。』」[ヨシ5:13-14]。そしてヨシュアはたちまち相手に神性が宿っていることに気づいた。というのも、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、こう云ったからである。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか」[14節]。さて、もしこれが被造物たる御使いであったとしたら、彼はヨシュアを叱責し、「私は、あなたと同じしもべのひとりです」[黙19:10参照]、と云ったであろう。しかし、否。「すると、主の軍の将はヨシュアに言った。『あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。』そこで、ヨシュアはそのようにした」[ヨシ5:15]。もう1つの尋常ならざる例が、ダニエル書3章に記録されている。そこには、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが火の燃える炉の中に投げ込まれたと記されている。その炉ははなはだ熱かったので、彼らを投げ込んだ者たちが火炎で焼き殺されたほどであった。突如、王はその顧問たちに尋ねた。――「『私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。』彼らは王に答えて言った。『王さま。そのとおりでございます。』すると王は言った。『だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。』」[ダニ3:24-25]。いかにしてネブカデネザルにそれがわかったのだろうか? 考えられることはただ1つ、この驚異に満ちた《人》には何か高貴で、威光に満ちたものが伴っており、貪り食らう火焔の焼き尽くす歯をも驚くべきしかたでへし折るような、恐るべき影響力に包まれていて、神の子らを焼き焦がせないようにしていたのである。ネブカデネザルは彼の人間性を認めている。彼は、「私には、三人の者と御使いが見える」、とは云わず、「私には、はっきりと四人の人間が見える。そして第四の者の姿は神々の子のようだ」、と云った。これであなたは、主が「永遠の昔から」出ておられた意味がわかるであろう。

 ここでしばし、こうした4つの偉大な出来事がみな、ひときわすぐれた義務に携わっている聖徒たち、あるいは、それに携わろうとしている聖徒たちに起こっていることに注目するがいい。イエス・キリストは、その聖徒たちに毎日はお現われにならない。主は、ヤコブが苦悩に陥るまでは彼のもとにおいでにならなかった。主は、ヨシュアが義の闘いに携わろうとする前には、彼を訪れなさらなかった。異常な時期においてのみ、キリストは、このようにご自分を御民に現わしてくださる。アブラハムがソドムのためにとりなしたとき、イエスは彼とともにおられた。というのも、キリスト者にふさわしい、最も気高く最も高貴で務めの1つは、とりなしの務めであり、それに携わるときこそ、キリスト者がキリストの姿を目にする公算が大きいからである。ヤコブは祈りの格闘に携わっていた。これは、キリスト者の義務の1つであるが、あなたがたの中のある人々は決してそこまで到達することがない。その結果、あなたのもとには、めったにイエスが訪れてこないのである。ヨシュアが勇敢にふるまおうとしたそのときこそ、主は彼とお会いになった。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴも同様である。彼らは、義務を厳守したがゆえに、迫害のきわみにさらされていた。そのとき主は彼らのもとに来て云われたのである。「あなたが火の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにいる」、と[イザ43:2参照]。私たちが主と出会うためには、独特の場所に入って行かなくてはならない。私たちは、ヤコブのように大きな困難に陥らなくてはならない。ヨシュアのように、大きな働きの中にいなくてはならない。アブラハムのように、大きなとりなしの信仰を持たなくてはならない。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのように、義務の実行において堅く立っていなくてはならない。さもないと、私たちは、「その出ることは、昔から、永遠の昔からあったことである」というお方を知ることはないであろう。あるいは、知っているとしても、「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができ」るようにはならないであろう[エペ3:18-19]。

 甘やかな主イエスよ! あなたが出ることは、昔から、永遠の昔からありました。あなたは、まだ出ることをおやめになっていません。おゝ! あなたがこの日、出てきてくださり、気失せし者を励まし、衰え果てた者を助け、私たちの傷を包み、私たちの苦悩を慰めてくださるように! 出て来てください。お願いします。罪人たちを征服し、かたくなな心を屈服させ、――罪人たちの情欲という鉄の門を打ち砕き、彼らの罪の鉄心を粉微塵に断ち割ってください! おゝ、イエスよ! おいでになってください。そして、あなたがおいでになるときには、私のもとに来てください。私はかたくなな罪人でしょうか? 私のもとに来てください。私にはあなたが必要です。

   「恵みでわが魂(たま) 打ち伏せ給え、
    われ引かれ行かん 勝ち誇りつつ。
    望みてわれは 主のとりことなり
    誉れ歌わん、汝がみことばの」。

 あわれな罪人よ! キリストはまだ出ることをやめてはいない。そして、キリストがおいでになるときには、思い出すがいい。ベツレヘムに出てこられる。あなたは、心の中にベツレヘムを有しているだろうか? あなたは小さい者だろうか? 主はまだあなたのところに出てこられる。家へ帰って、熱心な祈りによって主を求めるがいい。もしあなたが罪ゆえに泣けたことがあったとしたら、また、自分が注意を引くにはちっぽけすぎると考えたことがあったとしたら、家へ帰るがいい。小さな者よ! イエスは最も小さな者たちのところへ出てきてくださる。その出ることは、昔からであり、今も出てきてくださる。主はあなたのあわれな古ぼけた家に来てくださる。あなたのあわれな、惨めな心に来てくださる。あなたが貧しくとも、襤褸をまとっていても、貧窮していても、苦しめられ、苛まれていても、来てくださる。主は来てくださる。というのも、主の出ることは、永遠の昔からあったからである。主に信頼するがいい。信頼するがいい。そうすれば、主は出てきてくださり、あなたの心に永遠に住んでくださる。

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キリストの受肉と誕生[了]

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