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天 国

NO. 56

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1855年12月16日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです」。――Iコリ2:9、10


 聖書の章句は、何としばしば誤り引用されることか! 私たちは、聖書に目を向けて、そこに何が書かれているか見てとり、「あなたはどう読んでいますか」[ルカ10:26]、と云う代わりに、互いの言葉を引用し合うのである。このようにして、ある聖書箇所が、誤って引用されたまま、一種の伝統のように、父から子へと受け継がれ、キリスト者であるという非常に多くの人々の人口に膾炙している。私たちの祈祷会においても、いかにしばしば私たちは、兄弟たちが天国のことを思い描くこともできない場所として云い表わすのを聞くことか! そうした人々は、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」、と云っては、そこで止まってしまい、この箇所全体の肝が、その次の言葉に存することを見てとらない。――「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです」。それで、天国における種々の喜びは、(もしもこの箇所が天国について暗示しているとしたら――それは一部の人々が考えているほど明々白々なことではないと思うが――)、結局のところ、私たちが思い描けない事がらではないのである。というのも、「神はこれを、御霊によって私たちに啓示された」からである。

 今しがたほのめかしたように、この箇所は、通常は天国にあてはめられているし、私も、今朝はこれを、ある程度まで天国にあてはめたいと思う。しかし、前後関係を読めばだれでもわかるように、使徒が語っているのは、決して天国についてではない。彼はただこう語っているのである。――この世の知恵は神の事がらを見いだすことができない。――ただの肉的な精神は、私たちの最も聖い信仰に関わる、深い霊的な事がらを知ることができない、と。彼は云う。「私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです」[Iコリ2:7-10]。それから彼は、さらに低く下って云う。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです」[Iコリ2:14]。私の考えでは、この聖句は、1つの大きな一般的事実を述べており、それが、いくつかの個別の事がらに適用されるのである。そして、その大きな事実とはこうである。――すなわち、神の事がらは、目でも、耳でも、心でもわかるものではなく、神の御霊によって啓示されるしかないものであって、真の信仰者にはみな、それが啓示されているのである。私たちは、この思想を受けて、今朝はそれをふくらませてみたいと思う。そして、天国について、他の天的な事がらとともに説明してみたいと思う。

 新しい経綸のとば口に立った預言者であれば、だれしも、この言葉を格別な力を込めて口にできたであろう。彼は、自分の目に神から聖霊の目薬を塗られて未来を見通したとき、こう云ったであろう。「『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです」、と。私たちは無代価の恵みの経綸をいくつかの時代に分けてみよう。まず、族長時代から始めたい。族長によっては、アブラハムのように、将来への洞察力を賦与されて、レビ記時代を待望できる者があった。栄光に富むその幕屋と、その神の臨在と、その華麗な垂れ幕と、その燃える祭壇を待ち望むことができた。彼は、ソロモンの壮麗な神殿を瞥見し、エルサレムに集まった大群衆が立ち上らせる聖歌すら、期待しつつ聞けたかもしれない。玉座についたソロモン王が、あふれるほどの富に囲まれ、民が、約束の地で平和と平穏のうちに安らっている姿を見たかもしれない。そして、族長時代に生きている自分の兄弟たちに目を向けて云ったかもしれない。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの」、次のご経綸において、「神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」、と。あなたがたは、いかに明確に神が《過越の小羊》においてご自身を啓示なさるかを知らない。――いかに甘やかに民が導かれ、養われ、道案内を受け、指導されて、荒野の全行程を歩むことになるか、――いかに甘やかで麗しい国を受け継ぐことになるかを知らない。目は、乳とともに噴き出す小川も、蜜とともに流れる川々も見たことがなく、耳は、シロの娘たちの美しい調べの声を聞いたことがない。また、シオンの人々の喜びは人の心に思い浮かんだこともない。だが、「神はこれを、御霊によって私たちに啓示された」。

 さらにまた、それと同じく、レビ記時代が幕を閉じる頃に、預言者たちが、そのように来たるべき栄光を予言した。古のイザヤは、神殿の真ん中に立ち、そのいけにえと、そこから立ち上るほの暗い煙を見ながら、神の御霊によって目を開かれて云った。――「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」[イザ64:4参照]。彼は信仰によって十字架につけられたキリストを見た。ゲツセマネの園でご自身の血に染まっておられるキリストを目にした。弟子たちがエルサレムから出て行き、神のことばを至る所で宣べ伝えているのを見た。メシヤの御国の進展に注目し、はるか下ってこの終わりの日を見通した。神の葡萄と無花果の木の下にいるあらゆる者が神を礼拝し、だれも彼らを恐れさせることのない時代のことを見た。また彼は、このような言葉でバビロンの捕囚たちを勇気づけることもできた。――「今はあなたがたは座り込んで泣いている。そして、異国ではシオンの歌を唄う気にもならない。だが、頭を上に上げるがいい。贖いが近づいたのだ。目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのだ」。そして今、愛する方々。私たちは、1つの新時代のとば口に立っている。仲保的な時代はほとんど終わろうとしている。預言の解釈が完全に誤っていない限り、もうほんの数年もすれば、私たちは別の状態に入ることになるであろう。この私たちの、あわれな、暗闇に包まれていた大地は、光の衣を身にまとうであろう。彼女は長い間、産みの苦しみに呻吟していた。じきに彼女の呻き苦しみは終わりを告げる。血で汚されたその表面は、じきに愛によってきよめられ、平和の宗教が打ち立てられることになる。来たるべき時には、嵐が静められ、暴風雨は知られなくなり、つむじ風や暴風はその強大な力をとどめられ、「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものと」[黙11:15]なる。しかし、あなたは私に尋ねるであろう。それはいかなる種類の国となるのか、それがどのようなものか示すことができるのか、と。私の答えは否である。「『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの」、次の千年期において、「神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」。だが、「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです」。時として、私たちが上へ登っていくとき、一瞬、この節を理解できるような観相の時がある。「そこから主イエス・キリストが天から現われておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」*[ピリ3:20; IIテサ1:7]。そして、私たちが待ち望むことのできる、限りない至福の時には、王の王がご自分の頭に宇宙の冠を戴き、王笏の束を腕の下に置き、――あらゆる王侯の頭から冠を集めて、それを1つの冠に融合しては、ご自身の頭に置き、万の幾万倍もの者たちの叫び声の真ん中に立って、その称賛の声に包まれるのである。しかし、私たちに推測のできるその驚異の光景は、せいぜいその程度でしかない。

 しかし、人々は《千年期》とはいかなる種類の時代なのか知りたがるものである。彼らは問う。神殿がエルサレムに建立されるのだろうか? ユダヤ人たちは、確実に彼らの故国に回復されるのだろうか? 異なる国々がみな1つの言語を話すのだろうか? 彼らはみな1つの神殿に詣でるのだろうか? その他、ありとあらゆる類の質問がなされる。愛する方々。私たちはあなたに答えることができない。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」。私たちは、こうした事がらの詳細を理解しているなどとは云わない。私たちには、終わりの日の栄光が近づいていると信ずるだけで十分である。それがやって来つつあると確信することで、私たちの目は喜びに潤む。また、私たちの《主人》が、この広大無辺の世界を統治することになり、それをご自分のものとされると考えるとき、胸が一杯になる。しかし、もしあなたが私たちに質問し出すなら、私たちはあなたに、私たちには説明できないと告げる。律法の時代には種々の予型や影がありながら、大部分の人々はそれらの中に全くキリストを見てとらなかった。それと全く同じように、今の時代にも次の時代の予型となる種々の事がらが非常に多くあるが、それは、私たちがより多くの知恵と、光と、教えを受けるまで、決して解き明かされないであろう。光を受けたユダヤ人が、ある程度までは、福音がいかなるものとなるかを律法によって予見したのと同じように、私たちも現在によって《千年期》を推測できるであろうが、私たちには十分な光がない。こうした事がらを完全に説明できるほど、神の深みで十分に教えられた者はほとんどいない。それゆえ、私たちはやはり人類の大部分についてこう云うものである。――「『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』 神はこれを、御霊によって」、ある程度は、「私たちに啓示されたのです」。そして神は、次第により多くを啓示してくださるであろう。

 そして、ここから私たちは、この主題を天国そのものへと適用したいと思う。見ての通り、ここでは天国がはっきり意味されているわけではないが、そうした意味合いを持たせることは容易にできるであろう。というのも、信仰者たちがみな急速に向かいつつある天国について、私たちはこう云えるからである。「『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです」。

 さて、愛する方々。今から私が天国について語ろうとする理由はこうである。知っての通り、私はだれのためにも一度も告別説教をしたことがないし、そうしたことを行なうつもりは一切ない。私たちの教会内でも多くの方々が亡くなったが、私は告別説教を麗々しく行なうことは何もせずに過ごしてきた。だが、それにもかかわらず、最近三、四名の友人が世を去ったことにより、私は、天国について少し語ることで、あなたがたを元気づけることができ、神はそのようにして、彼らの召天を祝福とすることがおできになると思ったのである。しかしながら、これは決して告別説教にするつもりはない。――故人に関する賛辞は一切ないし、みまかった人について雄弁をふるうようなこともない。ありがちな告別説教を私は骨の髄から忌み嫌うものであり、私の信ずるところ、そうしたものは神が許し、承認なさるものではないと思う。故人について、私たちは良い点のほか何も語るべきではないし、講壇においては、それすらごく僅かしか語るべきではない。非常に傑出した聖徒の場合は例外となるかもしれないが。そこで、私たちは人間については、ごく僅かしか語らず、「御座にすわる方と、小羊とに、誉れが永遠にあるように」*[黙5:13]しよう。

 さて、天国とは一体何だろうか? 第一に、それは何でないだろうか? それは、《感覚》による天国ではない。「目が見たことのないもの」。目は、いかに栄光に富むものを見てきたことか! 私たちは、華やかな仮装行列が陽気な町通りを練り歩いているのを見たことがないだろうか? 国王や君主たちの行列を見たことがないだろうか? 私たちの目は、光輝く軍服や、ふんだんにちりばめられた金や宝石の飾り、壮麗な乗物や馬たちを見て楽しんだことがあり、ことによると、神の聖徒たちの行進は、こうしたものによっておぼろに示されているのだろうと思ったことがあるかもしれない。しかし、おゝ、それは私たちのあわれで幼稚な精神の考えでしかなく、偉大な真実から遠くかけ離れたものである。私たちは、古代のペルシヤ人の君主たちの壮大さや、金銀で覆われた宮殿や、宝石のはめ込まれた床について聞くであろう。――だが私たちは、そこから天国についての考えを得ることはできない。というのも、それは、「目が見たことのないもの」だからである。しかしながら、私たちは神のみわざのもとに来て、それらに目をとめたときには、天国がいかなるものであるかについて、多少はこの地上でも垣間見られるに違いないと考えたことがある。夜に私たちは目を上げて青い蒼穹を眺め、星々を見たことがある。――かの、神が天空の青い牧場で養っておられる、黄金の羊毛をした羊たちを。そして私たちは云った。「見よ! あれが、はるか上空にある天国の床の釘なのだ」。そして、もしこの地球がこれほど栄光に富む屋根を有しているとしたら、天の御国はいかなるものに違いないだろうか? また、私たちの目が星から星へと移るとき、私たちはこう思った。「今や私は、天国がいかなるものか、その床の美しさによってわかった」。しかし、これはみな間違いである。私たちが見ることのできるすべては、決して私たちが天国を理解する助けにはなりえない。別の時に私たちは、何か壮麗な風景を見たことがある。私たちは、白い川が新緑の野を、翠玉の縁取りをつけた銀の筋のように、うねり流れているのを見たことがある。山が空に屹立し、霧が立ち上るか、黄金の日照が東側の全面を光輝で覆っているのを見たことがある。あるいは、別れを告げる太陽の光で西側が赤々と染まっているのを見たこともある。そこで私たちは云った。「確かに、こうした偉観は天国に似たものがあるに違いない」。私たちは手を打ち鳴らし、こう叫んだことがある。――

   「大水(みず)の彼方の 甘き沃野よ
    新緑(みどり)の衣 まといて立ちぬ」。

私たちは、天国には実際、野原があり、地上の物事は天国にある物事のひな型だと想像した。それはみな間違いである。それは、「目が見たことのないもの」である。

 それと等しく、本日の聖句の主張によると、それは、「耳が聞いたことのないもの」である。おゝ! 時として私たちは聖日に、神からの使者が、御霊によって私たちの魂に語りかける甘やかな声を聞いたことがないだろうか! そのとき私たちは天国が少しは分かったと思った。別の時、私たちは説教者の声に、また、その人が口にする驚くべき言葉に我を忘れたことがある。私たちはその人の雄弁にすっかり魅了されてしまった。私たちの中のある者らは、座席の上で交互に泣いたり微笑んだりするのがいかなることかを知っている。一部のすぐれた説教者は、ダビデがその立琴をつまびくかのように巧みに私たちの感情を操る強大な力を有している。そこで私たちは云った。「この声音を聞くのは何と甘やかなことか! この人の雄弁の何と栄光に富んでいることか! その弁舌の力の何と素晴らしいことか! 今こそ私は天国がいかなるものか少しはわかったと思う。私の精神はこれほど夢中にさせられ、私の情動はこれほど興奮させられ、私の想像力はこれほど高められ、私の精神のあらゆる力がかき立てられて、この説教者が語っていることのほか何も考えることができないほどなのだから!」 しかし、耳はあなたが天国について何かを推測できる手段ではない。それは、「耳が聞いたことのないもの」だからである。別の時に、ことによると、あなたは甘美な音楽を耳にしたことがあるかもしれない。そして、音楽には、私たちの中のある者らのような野蛮な心にも、魅力を有しているではないだろうか? 私たちは音楽を聴いたことがある。それが――世界で最も高貴な楽器たる――人の肺から注ぎ出されたものであれ、あるいは、何らかの器楽奏から出たものであれ、私たちは思った。「おゝ! これは何と栄光に富んでいることか!」 そして思い描いた。「これこそヨハネが黙示録で意味したことだ。――『私は声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった』*[黙14:2]。これこそ天国に似た何か、栄化された者らのハレルヤに似た何かに違いない」。しかし、あゝ! 愛する方々。それは間違いであった。それは、「耳が聞いたことのないもの」である。

 ここには、多くの人々が天国について誤りに陥ってきた根本的な原因がある。彼らは天国に行きたいと云った。何のためにか? この理由によってである。彼らはそれを、自分が肉体的苦痛から自由になる場所とみなした。そこには何の頭痛も歯痛もなく、肉体が受け継ぐべきいかなる病もない。それで彼らは、神がその御手を彼らの上に置かれるときには常に、天国にいられたらと願い出すのである。なぜなら、彼らはそれを、感覚の天国であるとみなしているからである。――目が見たことのあるもの、耳が聞いたことのあるものとして。大間違いである。というのも、確かに私たちは苦痛から解放されたからだを持つことにはなるが、それは、私たちの感覚がほしいままに楽しまされる天国ではないからである。労働者はこう思いたがるであろう。すなわち、天国という場所は、

   「そこに緑と 花咲く山あり
    疲れし魂 座りていこう」、と。

別の人は、天国とは自分が腹一杯食べられて、からだが満足する場所だと思いたがるであろう。こうしたことは、比喩として用いる分にはかまわないが、私たちはあまりにも堕落しきっているため、正真正銘のマホメット的天国を作り上げては、そこではあらゆる肉の喜びを満喫できるのだと考えがちである。そこでは、甘美な赤葡萄酒の鉢から飲み、いくらでも自分の気ままにふるまい、肉体に味わえる限りの喜びに耽溺できるのだ、と。このようなものを思い描くとは、何たる過ちであろう! 天国は、単なる感覚の楽しみのための場所ではない。私たちは感覚的なからだへとよみがえらされるのではなく、霊的なからだへとよみがえらされるのである。私たちは、感覚を通しては決して天国の概念を得ることができない。そうした概念は常に御霊から来なくてはならない。それが私たちの考えるべき第一のことである。それは、種々の感覚によって把握されるべき天国ではない。

 しかし、第二に、それは《想像力》の天国でもない。詩人たちは、天国について語り出すとき、その想像力の翼を解き放って飛翔する。そして、彼らの描写する天国の何と栄光に富んでいることか! それらを読むとき私たちは云う。「では、これが天国なのか? 私もそこにいられたら、どんないにいいことか」。そして私たちは、詩歌の本を読むことによって、天国について何からの観念を得たと思う。ことによると、説教者が空想という精緻な金銀細工を織りなし、その口の言葉によって、一瞬のうちに魅力的な宮殿を打ち立ては、その屋根を黄金で覆い、壁を象牙で描き出すかもしれない。彼はあなたに向かって、太陽よりも燦然たる光を描き出し、霊たちがその輝く翼ではばたいている場所や、天空を貫いて彗星たちが閃く場所を描写する。彼があなたに告げる野では、不老不死の神饌を食べることができ、いかなる毒草も生えることなく、甘やかな花々が牧草地を覆っている。そこであなたは座席の上で云う。「この人が語るのを聞くのは甘やかなことだ。我を忘れてしまう。まるで、自分がそこにいるかのような気分になる。この人は、私が今まで一度も思い描いたことがないようなものを想像させてくれる」。そして、あなたは知っているだろうか? 想像力ほど大きな力はないということを。私は、想像力のない人間など一文の値打ちもないような気がする。もしその人が群衆を動かそうとしても、何の役にも立たない。もしあなたが私から想像力を取り去ってしまうとしたら、私は死ぬしかない。甘やかな事がらを想像すること、それは下界における小天国である。しかし、決して想像力で天国を描き出せると考えてはならない。それが最も崇高になるとき、それが最も地の塵から解放されているとき、それが最も偉大な知識によって持ち上げられ、最も際立った用心によって安定させられているときでさえ、想像力は天国を描き出せない。「人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」。想像力は良いものであるが、私たちに天国を描き出すべきものではない。あなたの想像上の天国が全くの間違いであることに、あなたは徐々に気づいていくであろう。あなたが壮麗な楼閣の上に楼閣を積み上げたとしても、やがてそれらが空中の楼閣であることに気づき、それらは強風の前のもやのように消え失せるであろう。というのも、想像力は天国を作れないからである。それは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの」なのである。

 次の点は、それは《知性》の天国ではないということである。知識人であると自認する人々や、ごく謙遜に、また慎み深く哲学者であると自称する人々は、天国を、私たちがあらゆることを知ることになる場所として描写するのが普通である。そして、こうした人々のいだく最も壮大な天国観は、そこで自分たちがあらゆる秘密を悟ることになる、というものである。そこでは、私たちにその起源を語ろうとしない岩が、自らの歴史をまくし立てる。そこでは、私たちにその年代を告げようとせず、その住人について口を割らせることのできない星が、たちまちそのすべての秘密を解きほぐす。そこでは、あまりにも長い間、地の他の化石とともに埋められていたため、その造りの推測すらつかなかった動物が、再び動き始め、その姿や形がどのようであったかがわかるようになる。――そこでは、この私たちの地球の断固たる秘密、彼らが決して発見することのできなかった秘密が、あらわになり、彼らは、自分がある星から別の星へ、惑星から惑星へと旅行し、自分たちの高貴にされた知性――と今の彼らが好んで呼んでいるもの――をありとあらゆる種類の人間知識で満たすのだと思い描く。彼らは、天国が、《創造主》のみわざを理解することであろうとみなしている。そして、ベーコンその他の偉大な哲学者たち――その敬虔さについて、私たちが普通ほとんど何の証拠も有していない人々――については、その伝記の末尾にこう記されている。――「今や彼は旅立った。私たちにかくも栄光に富む事がらを地上で教えてくれた、かの高貴な霊は、知識の泉をすすり、そのあらゆる過誤を正され、そのもろもろの疑いを晴らされることとなったのである」。しかし、私たちはこうした類のことを決して信じはしない。知性よ! お前にはこれがわからないのだ! 「人の心に思い浮んだことのないもの」。それは高い。お前に何がわかるだろうか? それは深い。お前に何が悟れるだろうか? 御霊のほかに、お前に天国を推察させることのできるものはない。

 さて、私たちはこの点に達した。――「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです」。私が思うに、これは、それが御霊によって使徒たちに啓示され、その一部を彼らが《聖なるみことば》の中に書き記した、という意味である。だが、これは、あなたがたがみな信じていることなので、この点については、暗に指すにとどめて、先へ進もうと思う。私たちが考えるに、これは、あらゆる個々の信仰者をも指している。そして、あらゆる信仰者が、地上でも天国を垣間見ることがあり、神が信仰者に天国を啓示しておられ、信仰者はある程度までは天国がいかなるものかを悟っているということだと思う。私にとって、御霊が人間に及ぼす影響について語るのは非常に嬉しいことである。私は、聖霊による衝動の教理、影響の教理、指示の教理、教えの教理を堅く信じている。私は御霊が千人にひとりといない解釈者であると信ずる。御霊は人々に自分の罪深さを啓示し、その後で、キリスト・イエスにある義をその人に教えてくださる。ある人々がこの教理を濫用し、自分の思いをよぎったいかなる聖句も御霊からのものだとしていることは承知している。聞いたところ、ある男が、自分の隣人の薪置き場のそばを通りかかったとき、自宅に一本もなかったので、何本か失敬しようという考えを起こしたという。そのとき、この聖句が脳裡をよぎった。――「ヨブは、こうしたすべてのことにおいて罪を犯さなかった」[ヨブ1:22 <英欽定訳>]。しかしながら、たちまち良心が、「盗んではならない」[出20:15]、と囁いた。そして彼がそのとき思い出したのは、いかなる聖句も、それが罪の云い訳をしたり、罪に陥らせようとする場合、御霊によって心に入れられたものではありえない、ということであった。しかしながら、私たちは、ある人々が過ちを犯しているからといって、衝動の教理を放棄しはしない。そして、私たちは今朝、その多少の部分――神の恵み深い御霊の教えのごく一部を取り上げるであろう。そこで御霊は、私たちに、天国とはいかなるものであるかを啓示しておられる。

 まず第一に、私たちが思うに、あるキリスト者が天国とはいかなるものであるかを見てとるのは、主が自分のことを気遣っておられるがゆえに、試練と困難のただ中にあっても、自分のあらゆる思い煩いを主に投げかけることができたときである。苦悩の波と、患難の大波がキリスト者の上を越えて行くときも、ことのほか信仰が強くなり、身を横たえて眠ることができることがある。耳の中では暴風が轟き、大波につぐ大波が揺りかごの中の赤子のようにその人を揺らし、地は変わり、山々が海のまなかに移ろうとも、その人は云う。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」[詩46:1-2]。飢饉が起こり、地が荒廃しても、その人は云う。「たとい、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さなくとも、しかし、私は主にあって喜び勇み、ヤコブの神に頼ろう」*[ハバ3:17-18]。患難がその人を地に打ちつけても、その人は上を見上げて、「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望む」*[ヨブ13:15]、と云う。その人に対する打撃は、水を鞭で打つようなもので、たちまち覆われ、その人は何も感じないかに見える。これはストア哲学ではない。愛する者に特有の眠りである。「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」[詩127:2]。迫害がその人を取り囲むが、その人は動かされない。天国はそのようなものである。――聖なる平穏と信頼の場所である。――

   「かの聖き平安 かの甘き静寂
    感ずるはただ そを知る者のみ。
    胸のうちなる この天の平安
    甘く保証(しめ)すは 栄えの安息(やすき)
    みかみの教会(たみ)に 残されたるは、
    心労(うれい)の終わり、苦痛(いたみ)の終わりぞ」。

 しかし、キリスト者が天国を啓示される、もう1つの時期がある。それは、静かな黙想のときである。神はほむべきかな。私たちは、この世をも忘れる尊い時を持つことがある。――世から全く逃れ出て、私たちの衰え果てた霊がその骨折り仕事と苦闘との場からはるかに遠い彼方へと飛び去って行く時と時期である。そうした尊い瞬間には、黙想の御使いが私たちに幻を与えてくれる。彼は、やって来ては、騒がしい世の唇に指を当てる。私たちの耳の中で絶え間なくガタコト云っている車輪に静まれと命ずる。そして私たちが腰を落ちつけると、そこには精神の厳粛な沈黙がある。私たちは、自分の天国と自分の神を見いだす。私たちは、イエスの栄光を黙想するか、天国の至福へと天翔ることに没頭する。――過去を顧みては、選びの愛という大いなる秘密を思い、かのほむべき契約の不変性を思い巡らし、「その思いのままに吹く」*[ヨハ3:8]という風について考え、自分が神から来たそのいのちにあずかっていることを思い起こし、自分と《小羊》との、血で買い取られた結合について、光と至福の領域における彼と自分たちとの婚礼という完成について、また、そうした類の種類について考えることに没頭する。そのときこそ、私たちが天国について多少とも知るときである。おゝ、あなたがた、陽気な歓楽の子どもたち。あなたは、自分の同胞の人間たちの思想を読んでいる際に、一度も聖なる平安を見いだしたことがないだろうか? しかし、おゝ! 神のみ思いのもとに来て、それを読むこと、また、黙想の中でそれらを組み立て、織りあげることの、何という幸いであろう。そのとき、私たちには黙想の織物が手に入り、それを魔法の衣のように身に巻きつければ、目を開いたときに天国を見てとるのである。キリスト者よ! あなたは、御霊によって甘やかな黙想の時期を保つことができたとき、こう云えるであろう。――「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです」、と。というのも、天国の喜びは、黙想の喜びと似通っており、神にある聖なる平安に似通っているからである。しかし、時として私にあることだが――また、あなたがたの中のある人々にもそういうことがあると、あえて云うが――、私たちは黙想以上のものを有することがある。――私たちが瞑想によって、思索そのものをすら越えて立ち上がり、私たちの魂が、黙想という途中のピスガの頂に触れた後で、はっきりとキリスト・イエスにある天の所に飛び立っていくのである。時として霊は、この淵に立ってその翼をはばたかせるだけでなく、はっきりとヨルダン川を越えて、キリストとともに住まい、御使いたちとの交わりを持ち、霊たちと語り合うことがある。――そこでイエスに達し、その御腕をつかみ、こう叫ぶことがある。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。私はこの方をしっかりつかまえて、放しません」[雅2:16; 3:4参照]、と。私は、時として自分の脈打つ頭をキリストの胸にもたせることがいかなることかを知っている。それは、ただの信仰を越えたこと、――現実に、明確にキリストをつかまえることである。信仰によってキリストをとらえるだけでなく、現実に、明確にキリストを食物として養われること。キリストとの生きた結合を感じ、キリストの御腕をつかみ、その脈拍そのものを感じることである。あなたは、「不信者にそんなことを告げないでくれ。笑われるぞ!」、と云うであろう。笑わば笑え。だが、私たちがそこにいるときには、あなたの笑いなど気にしない。たといあなたがたが悪霊と同じくらい声高に笑うとしてもかまわない。イエスとの一瞬の交わりは、それらすべてを埋め合わせるからである。妖精の国など思い描いてはならない。これが天国である。これが至福である。「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです」。

 そして、自分はそうした喜びをほとんど有していないと云うキリスト者は落胆してはならない。自分などには、御霊によって啓示される天国を有することができないのだと考えてはならない。私は云う。あなたにはそれができる。主の民のひとりならばできる。そして、あなたがたの中のある人々に、こう云わせてほしい。あなたが、いずこにもまして天国を見てとることを期待できる場所の1つは、聖餐式である。私の愛する方々。あなたがたの中のある人々は、地上における主の晩餐を欠席する。神の御名によってあなたに云うが、あなたは神に対して罪を犯しているだけでなく、自分から最も測りしれない特権を奪い取っているのである。もし、魂が、他のいかなる時期にもましてキリストとの親密な交わりに入れる時期が1つあるとしたら、それは聖餐式のときである。いかにしばしば私たちはそこでこう歌ってきたことか。

   「われかの園を 忘れえんや?
    汝が苦しみを そこに見て
    汝が苦悶(くるしみ)と 血汗(あせ)見てなおも
    われは汝れをば 思い出さずや?

    われ覚ゆ、汝が 痛みと汝れを、
    われへの永遠(とわ)の 汝が愛を。――
    しかり。この身の 脈打つかぎり
    われは我れをば 思い出さん」。

そして、そのときあなたは、それがいかに容易に天国へ移り変わるかを見てとるであろう。

   「つたなきこの口 黙(もだ)し行き
    思いと記憶の 失せ行きしとき
    汝が御国にて 汝れ来ますれば、
    イエスよ、われをば おぼえ給えや」。

おゝ、私の過てる兄弟たち。あなたがた、バプテスマも受けず、この聖なる晩餐を受けもしないまま生き続けている方々。私はあなたに、それがあなたを救うだろうとは云わない。――間違いなくそうではない。また、あなたが救われもしないまま、それを受けるとしたら、それはあなたに害を及ぼすであろう。――だが、もしあなたか主の民であるとしたら、なぜ離れてとどまる必要があるだろうか? 私はあなたに云う。聖餐式は、はなはだしく高い場所にあるため、そこからは非常にしばしば天国が見てとれるのである。あなたは、そこで、十字架のごく近くに達し、十字架のごく近くで息づくあまり、あなたの視力は鮮明さを増し、その大気はより明るくなり、他のどこにもまして天国の姿が大きく見えるのである。キリスト者よ。主の晩餐をないがしろにしてはならない。そうするとき、主はあなたから、ある程度まで、天国をお隠しになるからである。

 さらに、私たちがこの上もなく甘やかに天国を実感するのは、私たちが祈りのための集会に集うときである。私は、私の兄弟たちが祈祷会でどのように感じているか知らない。だが、そうした集会は、神に専心する場として、あまりにも天国に似通っており、私は実際、祈祷会では、説教を聞いているときにもまさって天国についての観念を御霊から与えられると思う。なぜなら、説教は必然的に、知性や想像力に何かしら訴えざるをえないからである。しかし、もし私たちが祈祷会において祈りの活力の中に入っていくとしたら、御霊こそ私たちに天国を啓示してくださるお方である。私は、最近の月曜夜の集会で説教した2つの聖句を思い出す。それは、私たちの中のある人々の魂にとって非常に甘やかなものであった。「いっしょにお泊まりください。……日もおおかた傾きましたから」[ルカ24:29]。もう1つは、「私は、夜、床についても、私の愛している人を捜していました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした」[雅3:1]である。そのとき、本当に私たちは天国の前味の何がしかを味わった。トマス君は自分の主がよみがえったことを信じようとしなかった。なぜか? 直前の祈祷会にいなかったからである。トマスはそこにいなかったと記されている[ヨハ20:24]。そして、霊想的な集会からしばしば身を引き離している人々は、非常に疑いがちな心持ちになりやすい。そうした人々は天国の眺めを見ることがない。集会を休むことによって、自分の視力を害しているからである。

 私たちが天国の眺めを見る、もう1つの時は、特別な密室の時期である。平凡な密室の祈りは、私たちを平凡なキリスト者にするだけである。特別な時期――神に専心するために、例えば一時間、熱心な祈りに導かれるようなときにこそ、――なぜかはほとんどわからないが、一日の時間割を打ち切って、ひとりきりになりたいという衝動を感じるとき、そうしたときには、愛する方々。私たちは膝まづき、熱心に祈りを始める。初めは悪魔の攻撃を受けるかもしれない。敵は、私たちが大きな祝福を受けようとしているのを知れば、常に大きな騒音を立てて、私たちを追い払おうとするからである。だが、うむことなく祈り続ければ、じきに静謐な心持ちになり、悪魔の咆哮がはるか遠くにしか聞こえなくなる。たちまちあなたは、かの御使いをつかんで、云う。「主よ。私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」*[創32:26]。彼はあなたの名を尋ねる。あなたは彼に、自分の名前がいかなるものかを告げ始める。

   「かつては望みも 失せし罪人、
    汝があわれみの 御座に祈れり。
    あわれみ、彼を、聞きて解放(はなて)り。
    主よ、そのあわれみぞ われに来たる」。

あなたは、「主よ。あなたの名は何ですか」、と云う。彼はあなたに告げはしない[創32:29]。あなたは、いよいよ堅く彼にしがみつく。ついに彼はあなたを祝福してくださる。あなたがイエスとふたりきりでいるのを感じるとき、それは確かに、天国の何らかの前味である。あなたの祈りについて、だれにも知らせてはならない。それは神とあなたとの間のことである。だが、もしあなたが天国について大いに知りたければ、祈りにおいて何か特別の時を費やすがいい。というのも、神はそのときそれをその御霊によってあなたに啓示してくださるからである。

 「見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ」[使13:41]。あなたは内心こう云っている。「預言者は愚か者、霊の人は狂った者だ」[ホセ9:7]、と。出て行って、そうしたことを云い歩くがいい。だが、承知しておくがいい。あなたがたが狂気だと呼ぶものは、私たちにとっては知恵であり、あなたがたが愚かさとみなすものは「隠された奥義としての神の知恵」[Iコリ2:7]なのである。だが、もし今朝、この場に、あわれな、悔悟した者がいて、「あゝ! 先生。私は地獄の幻はいやというほど見ていますが、天国の幻は見えません」、と云っているとしたら、あわれな、悔悟した罪人よ。あなたが少しでも天国の幻を見たければ、キリストの御手を通して見るしかない。あわれな罪人が至福を見ることのできる唯一の遠眼鏡は、イエスの両手の穴によって作られたもの以外にない。あなたは知らないのだろうか? すべての恵みとあわれみは、キリストの御手の中におさめられており、それがあなたに対して流れ出るには、その御手が十字架刑によって穴を開けられるほかなかったということを。キリストは、それをあなたから差し止めておくことができない。それはひとりでに流れ出るからである。また、キリストは、それをご自分の胸におさめておくことができない。キリストの御胸には、あの槍によってつけられた裂け目があるからである。主のもとに行って、自分の罪を告白するがいい。そうすれば主はあなたを洗い、雪よりも白くしてくださるであろう。悔い改められないと感じるなら、主のもとに行って、そう告げるがいい。主は、罪の赦しをお与えになるばかりでなく、悔い改めをお与えになることによっても、ほめたたえられるからである。おゝ! 願わくは、神の霊があなたに真の悔い改めと真の信仰を与えてくださるように。そのとき、聖徒と罪人は相会って、両者ともに、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの」を知ることになるだけでなく、

   「その時われら 見て、聞き、知らん
    下界(した)でわれらの 願うすべてを
    すべての力は 甘く仕えん
    永遠(とわ)の喜び 満つるかの世で」。

その時が来るまで、私たちに有せるのは、御霊によって啓示された事がらだけである。ならば私たちは、生ける限り毎日、いやましてそれを求めるであろう。

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天国[了]

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