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傷ついた人への癒し

NO. 53

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1855年11月11日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」。――詩147:3


 この次の節は、神の力を雄大に宣言している。「主は星の数を数え、そのすべてに名をつける」。ことによると、この世の何物にもまして神の偉大さを崇高に見せつけられるのは、星々を散りばめた天空を凝視するときかもしれない。夜に私たちが目を上げて、だれがこれらを創造したかを見るとき、また、神がその万象を数えて呼び出し、1つ1つ、その名をもって呼ばれること、精力に満ちておられ、1つももれるものはないことを思い起こすとき[イザ40:26]、そのとき実際に私たちは、ひとりの力ある神をあがめているのであり、私たちの魂は、天の万軍を率い、おびただしい数の星々を整列させるお方の御座の前で敬虔な畏怖に打たれ、われ知らずひれ伏してしまう。だが、ここで詩篇作者は、神の驚異的な行為のかたわらに別の事実を置いている。彼の宣言するところ、星々を導き、その数を数え、そのすべてに名をつけるこの同じ神は、心の打ち砕かれた者をいやし、彼らの傷をお包みになるのである。この次あなたが、天上にある神の壮麗な神殿の星々を散りばめた床を眺めることで、何事かを神について思わさせられるときには、努めてあなたの黙想をこの思いへと駆り立てるがいい。――すなわち、星々を進ませるこの同じ力強い御手は、傷ついた心に塗り薬をつけてくださるのだ。みことばによって諸世界を発生させ、今もこうした重々しい天体をその軌道に沿って推進している同じ存在が、あわれみをもって傷ついた者を励まし、心の打ち砕かれた者を癒しておられるのだ、と。

 私たちは長々と前置きを語るようなことはせず、すぐさま2つの思想に目を向けることにしよう。第一に、ここには1つの大いなる不幸――打ち砕かれた心――がある。そして第二に、大いなるあわれみがある。――「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」。

 人間は二重の存在である。肉体と魂で構成されており、いずれの部分も怪我や傷を負うことがありえる。肉体の傷には鋭い痛みが伴い、からだを壊すほどの傷の場合、その苦悶は著しく激しいものである。だが、あわれみに満ちた神は、傷が癒され、怪我が治る手段を備えてくださった。戦場から引き揚げてきた兵士は、手術すれば弾丸を摘出でき、特定の軟膏と塗り薬をつければ傷が癒えることを知っている。私たちは肉体的な病についてはすぐさま手当しようとする。そうした痛みがつのると、じっと眠っていられない。それに駆り立てられて私たちは、矢も盾もたまらずに内科医か外科医を訪れて癒されようとする。おゝ、もし私たちが、自分の内なる人の一層深刻な傷についても、それと同じくらい素早く行動するとしたら、どんなによいことか。もし私たちが霊的な怪我についても、それと同じくらい鋭敏であったとしたら、いかに熱心に「愛する医者」に叫び立て、いかに素早くこのお方の救いの御力を経験することか。私たちは、自分の原初の親の手によって急所をえぐられ、自らの罪によって頭から爪先まで不具にされていながら、まだ鋼のように無感覚で、無頓着で、無感動なままである。それは、傷があるとわかってはいても、それが感じとれないためにほかならない。だが、怪我した手足を直すことよりも、壊れた兜を修理することにこだわるような兵士は愚か者とみなすべきである。私たちは、朽ちていく肉体組織を重んじて、不滅の魂をないがしろにするとき、いやがうえにも罪と定められるのではないだろうか? しかしながら、あなたがた、打ち砕かれた心を有する人々は、もはや無感覚ではいられない。あなたは、無関心のまま眠っているには鋭すぎる痛みを感じている。あなたの霊は血を流しながら、慰藉を求めて泣いている。願わくは私の栄光に富む《主人》が、あなたにとって時宜にかなった言葉を私に語らせてくださるように。私たちがこれから語ろうと思うのは、打ち砕かれた心と、それに対して備えられている大いなる癒しという重要な主題についてである。

 I. まず、この《大いなる不幸》――打ち砕かれた心――から始めよう。これは何だろうか? 私たちは、打ち砕かれた心にはいくつかの形があると答えたい。ある心は、云ってみれば天性的に打ち砕かれており、ある心は霊的に打ち砕かれている。私たちは、しばらくの間、天性的に考察された場合のこの悪のいくつかの形に言及しよう。そして、もしも打ち砕かれた心に苦しむ人が耐えている悲惨さの十分の一でも示すよう求められたとしたら、まことに私たちの務めは陰鬱なものとなるであろう。

 ある心は、人から捨てられることによって打ち砕かれている。ある妻は、かつては彼女の愛慕の対象であり、今でさえいとしく愛している夫からないがしろにされている。以前は彼女にあらゆる愛情のしるしをふんだんに与えてくれた男性から蔑まれ、嫌われている彼女は、打ち砕かれた心がいかなるものかを味わっている。ある人は、自分が頼りにし、心と心が1つになるほど緊密に結びついてきた友人から捨てられたことで、自分の心が打ち砕かれているのを感じている。自分の半身が切り裂かれてしまっているからである。アヒトフェルがダビデを見捨てたとき、また、私たちが常に自分の嘆きを打ち明けてきた親切な友人が私たちの信頼を裏切ったとき、その結果はおそらく打ち砕かれた心となるであろう。人が同輩から捨てられること、子どもたちが親に忘恩で報いること、親がわが子に無情な仕打ちをすること、仲間から秘密を漏らされること、友人の心が移り気で気まぐれであることなどを始めとして、人から捨てられることはざらにあるが、多くの心を打ち砕いてきた。私たちの知る限り、この世で最も心を打ち砕いてきた原因は、私たちの愛情の対象から受けた失望――信頼していた相手から裏切られたとわかることである。それは決して私たちが、いたんだ葦によりかかり、それがぽきっと折れたというだけではない。――それだけでも十分に悪いことだが――そのようにして倒れた私たちが、一本のとげの上に落ち、それが私たちの心臓の中心を刺し貫いたということなのである。これまで多くの人々が墓に下っていったのは、病に打たれたのでも、剣で殺されたのでもなく、剣によってつけられる傷よりもはるかにすさまじい傷、毒によって引き起こされる死よりもずっと絶望的な死によってであった。願わくはあなたが、決してこのような苦悶を知ることがないように。

 また私たちは、心が死別によって打ち砕かれるのも見ている。いたいけな妻がその夫を墓に横たえ、その墓場に立ち尽くして、孤独の苦悩のあまり心が砕け散らんばかりとなるのを私たちは知ってきた。愛する子どもたちと次々に死に別れてきた親たちを見てきた。そして、最後の子どもの上で、かの厳粛な言葉、「土は土へ、ちりはちりへ、灰は灰へと還る」を聞かなくてはならなくなるとき、彼らが墓場を後にしながら、喜びに別れを告げ、死をこがれ、生を忌み嫌うようになるのを見てきた。こうした人々にとって、この世は牢獄となってしまう。索漠とした、冷たい、云い知れようもなく悲惨な牢獄となってしまう。みみずくと針ねずみだけが彼らに同情するように思われ、この広い世界の中のいかなる喜びも、彼らの悲惨さをあざ笑うためのものとしか見えない。しかしながら、こうした所でも天来の恵みは彼らを支えることができる。

 いかにしばしば、こうしたことが、今時戦争に携わっている私たちの勇敢な同国人に起こると考えられているだろうか? 彼らは、自分たちの戦友の喪失を感じている――それも痛切に感じている――のではないだろうか? ことによると、殺戮と死に取り巻かれている人々は、自然な優しい感情を麻痺させられていると想像する人がいるかもしれない。あなたがもしそのように夢見ているとしたら、ひどい間違いである。兵士たちの心は恐れを知らないかもしれないが、同情を忘れてはいない。周囲の恐るべき闘争によって、悲しみの門への通常の敬意や崇敬を表することはできないが、手短な深夜の葬礼の方が、本国での勿体ぶった葬列による得々とした虚飾よりも、しばしば本物の悲嘆を含んでいる。もし私たちが軍営の間を歩くことができたとしたら、私たちには、本日の聖句を用いるべき、あふれるほどの必要を見いだすであろう。滅ぼす者の前で、自分のえり抜きの同輩たちが倒されるのを見てきた多くの戦士たちは、この聖句を気付け薬とする必要があるであろう。

 おゝ、あなたがた、嘆く者よ! 自分の傷につける香膏を求めるがいい。それをあなたに告げ知らさせてほしい。あなたは、それについて無知ではないと思う。だが、あなたがすでに信頼を置いているものをあなたに適用させてほしい。天の神はあなたの悲しみを知っておられる。では、その御座に頼り行き、自分の不幸を率直に申し上げるがいい。それから、あなたの重荷を神に投げかければ、神がそれを背負われるであろう。――あなたの心を神の前で打ち明ければ、神がそれを癒されるであろう。自分に望みはないと考えてはならない。愛とあわれみの神がおられなければ、そうかもしれないが、エホバが生きておられる限り、嘆く者が絶望する必要はない。

 貧窮もまた、悲惨さの軍勢の中で大きな貢献を果たしている1つである。痛切な欠乏の中、慈善の世話になどならずに誇り高く歩みたいと気高い志を有しながら、職を得られない状況は、時として人を絶望的な手段に追いやることがある。多くの立派な杉の木が湿気のないために枯れてきたが、同じように多くの人々も、極度の貧困という窮乏のもとでやせ衰えてきた! 適度に満ち足りた生活に恵まれた人々は、欠乏の子らが忍んでいる痛みをほとんど考えられない。特に、かつては豊かであった人々の場合の痛みについてそうである。だが、おゝ、苦しみの子よ。忍耐するがいい。神はその摂理においてあなたを見落としてはおられない。雀を養われるお方は、あなたにも必要なものを与えてくださる。絶望の中に座り込んではならない。希望を持ち続け、常に希望しているがいい。武器を取って心配の大海と戦うがいい。そうすれば、これからはあなたの反抗が、あなたの苦悩を終わらせるであろう。ひとりのお方がおられて、あなたのことを気遣っておられる。赤貧の中にあるあなたの家においてすら、1つの目があなたに据えられており、1つの心があなたの不幸のゆえにあわれみに脈打っており、全能の手が必要な助けをあなたに差し伸ばすはずである。いかに暗い黒雲も、時にかなって散らされ、いかに黒い暗影にも、その朝があるはずである。この方は、あなたがその家族のひとりであるなら、恵みの包帯によってあなたの傷を包み、あなたの打ち砕かれた心を癒される。

 やはり数多いのは、失望敗北が霊を押しつぶしてしまった場合である。国のために戦っている兵士は、たとい隊伍が乱されるのを見ても、ひとかけらでも勝利の希望が残っている限り、心が打ち砕かれることはない。戦友たちが背後でよろめき、自分自身、傷を負っていても、大声をあげて、「進め! 進め!」、と叫んで、塁壁によじ登る。手に剣をもっては突進し、敵軍を恐怖させる。彼自身は勝利の見込みに支えられている。だが、いったん彼が勝利を望んでいた場所で敗北の叫びを聞き、軍旗が地に踏みにじられ、その鷲のしるしの軍標が奪取されたとわかり、いったん「逃げたぞ、逃げたぞ」、と云われるのを聞き、士官も兵士も崩れ立って逃げ去るのを見て、いかに英雄的な勇気も、いかに死に物狂いの剛胆さも全く役に立たないと確信すると、そのとき彼の心は恥辱の念のもとで張り裂け、ほとんど死んだ方がましだと思う。自国の栄誉が汚され、その栄光に泥が塗られたからである。こうしたことを英国兵士たちはほとんど知らない。――願わくは彼らが、その勝利の剣によって、すみやかに私たちのために平和を切り開いてくれるように。まことに人生という大きな争闘にあって敗北ほど耐えがたいものはない。頂上に登るためなら、いかに苦労に苦労を重ねることも我慢できるが、そこに達する前に死ななくてはならないとしたら、それは実際、打ち砕かれた心となるであろう。自分が心定めた目標を達成するためとあらば、私たちはまさに自分の心血をも注ごうとするが、いったん自分の人生の目的が成し遂げられないと悟り、栄冠をつかめると望んでいたときにそれが引っ込められたのを、あるいは他の手がそれをつかんだのを見ると、そのとき心は打ち砕かれてしまう。だが、覚えておくがいい。たとい私たちの心が窮乏や敗北によって打ち砕かれようと、「心の打ち砕かれた者を包み、彼らのすべての傷を癒す」御手があるのである。彼らの天性的な傷口さえもエホバはじっと見つめておられ、その満ち満ちたあわれみによって、御民のひとりひとりのあらゆる傷に乳香をつけてくださるのである。私たちは、「乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか」[エレ8:22]、と問う必要はない。こうした天性的なすべての傷を癒すことができ、悩みに満ちた顔つきに喜びを与え、胸の動揺を取り除き、今は悲嘆があふれている心を静めることのできる乳香があり、医者がいるのである。というのも、この方は、「心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」からである。

 しかし、天性の心が忍ぶ災いや悲しみについて私たちが言及してきたことすべてで、本日の聖句を説明し尽くしたことにはならない。苦悩や失望によってではなく、罪ゆえに打ち砕かれた心こそ、神が特に喜んで癒される心である。他のありとあらゆる苦しみを針鼠のように突き立てられた胸があったとしても、その的となった人が赦されても救われてもいないことはありえる。だが、もしその心が罪ゆえに聖霊によって打ち砕かれているとしたら、究極的には救いが生み出され、天国がその結果となるであろう。新生の時、魂は1つの内なる働きを受けており、そこには相当な苦しみが引き起こされる。この苦しみが続くのは、魂が《救い主》の血の尊さにより頼むようになるまでだが、それが引き続いている間は、その後一生忘れられないような思いをさせられる。決して誤解しないでほしいが、これから私たちが描写しようとしている痛みは、天国の相続者が地上にある限り絶えず伴うものではない。それは、重度の酔いどれが更正しようとする際に味わう苦悶のようなものである。それは、その更正によってではなく、彼の古い習慣から必然的に起こるのである。それと同じことを、この打ち砕かれた心は、聖書がこう語っている変化を受ける際に感じるのである。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」[ヨハ3:3]。御霊の実は、後になれば喜びと平安だが[ガラ5:22]、私たちが救われるとすれば、しばらくの間は大きな精神的苦悶を忍ばなくてはならない。あなたがたの中にだれか、自分が神の命令に背いてきたといって、今この瞬間に、心乱れ、霊の苦悩を覚えている人がいるだろうか? また、あなたは、この感覚が純粋に心砕かれ、悔いている現われかどうか知りたいと切望しているだろうか? ならば聞くがいい。これから手短に、あなたの悔い改めがいかに真実なもので、いかほどの価値があるかを識別できるような試験をいくつかあげてみよう。

 1. あなたが打ち砕かれた心の人であるとは到底思えないのは、この世の楽しみがあなたの喜びとなっている場合である。私たちは、あなたが世の娯楽場に出入りするようなことをしていても、別に文句なく、あなたのことを気立てが良く、尊敬に値する、立派な人だと呼べるかもしれない。だが、打ち砕かれた心とそうしたことが両立しえるなどと云うのは、あなたの常識に対する裏切りであろう。だれがあえて主張するだろうか、あなたがた、陽気に酒盛りをしている者らが打ち砕かれた心を有しているなどと? その人は、あなたがそのようなことを示唆したら、侮辱されたと思うのではないだろうか? いま大気を汚している猥褻な歌は、心砕かれた罪人の口から出てきているのだろうか? 悲しみで満たされている泉に、このような流れを湧き出させることができるだろうか? 否。愛する方々。放蕩する人々、好色な人々、飲み騒ぐ人々、不敬の人々は、心砕かれた者だなどと自称するほど愚かではない。そのような主張が明白に馬鹿げたものであるのを見てとっているからである。彼らは、そうした呼び名を卑しく、けちなものと蔑む。自由な生き方を愛し、キリスト教信仰など口先だけの偽善だとみなす人間にふさわしくないと思う。

 しかし、もしあなたがたの中のだれかが、悪の霊にまんまと欺かれ、肉の欲の中に生きていながら、自分は御約束にあずかっているのだと考えているとしたら、あなたは間違っていると厳粛に警告させてほしい。真摯に罪を悔い改めている人は、罪を憎み、罪に何の喜びも覚えず、その心が砕かれている時期には、悪が近づいてくることすら、蛇蝎のごとく忌み嫌うものである。そのとき、その人の耳に歓楽の歌は悲歌となるであろう。――「心配している人の前で歌を歌うのは……ソーダの上に酢を注ぐようなものだ」[箴25:20]。もしも罪によって浮かれ騒ぐ人が心砕かれているとしたら、その人は偽善者の王に違いない。本当の自分以上に悪い者のふりをしているからである。私たちがよく知っているように、傷ついた人には、この世が差し出す気付け薬以上のものが必要である。咎によって心乱されている魂は、肉的な快楽が差し出せる音楽を越えたもので、安らかな憩いへと眠らされなくてはならない。居酒屋、悪徳の家、放蕩者らとのつきあいは、悔悟した魂にとっては、傷を負った人が群衆の押し合いへし合いに耐えられないのと同じくらい耐えがたいものである。

 2. さらに、私たちが一瞬たりとも認められないのは、自分を義とする人が打ち砕かれた心を有している、ということである。その人に祈らせてみるがいい。自分があらゆる点で正しいことを神に感謝するであろう。自分の生き方の不義ゆえに泣く必要などどこにあるだろうか? その人は自分が賞賛に値する者、咎からかけ離れた者であると堅く信じ込んでいる。その人は自分の宗教的な義務を果たしており、その敬虔そうな形式的行為については厳格きわまりなく、たといそうしたことにかかずらっていなくとも、いずれにせよ、そういうことをしている人々と全く同じくらい善良なのである。その人は、いかなる人にも決して捕われておらず、むしろ自分の罪について一滴も涙を流すことなく天国を見上げることができる。私が全くの空想から話をしていると思ってはならない。不幸にして、こうした高慢な、自分を称揚する人々はあまらにもたくさんいるからである。その人は、私がこう云うとき怒るだろうか? あなたがたは、今しがた私たちが叱責した人々よりも寸分も天国に近くない、と。それとも、私がこう述べるとしたら、同じくらい憤りにかられはしないだろうか? あなたがたは自分の罪のために心砕かれる必要がある、と。それにもかかわらず、それが実態なのである。そして、パリサイ人たちもいつの日か恐怖とともに思い知ることになるであろう。自分を義とするのは神がお憎みになることである、と。

 しかし、打ち砕かれた心とは何だろうか? 私は云う。第一に、打ち砕かれた心には、罪ゆえの、非常に深く痛烈な悲しみが含まれている。打ち砕かれた心――それを想像してみるがいい。もしあなたが、人間と呼ばれているこの大いなる神秘の内側を眺め、そこで何が行なわれているか見ることができたとしたら、あなたはその不思議さに驚嘆するであろう。だが、その心を見ることができたとしたら、いかにいやまさって驚愕することであろう。それは単に2つに分かれているどころか、粉みじんに分解しているのである。あなたは叫ぶであろう。「何と悲惨なことが起こったに違いないことか! 何と重い一撃がここに落ちたに違いないことか!」 生来、心は1つの堅固な一体をなしており、下臼のように硬い。だが、神がそれを打たれるとき、それは深い苦しみのうちに粉々に砕ける。私が、罪ゆえに悲しみを感ずる人の状態を描写するとき、ある人は私が何を云っているかわかるであろう。朝、その人は膝をかがめて祈ろうとするが、恐ろしくて祈れないと感じる。神の御座にあえて近づこうとするなど冒涜だと思う。実際に少しでも祈るとしても、その人はこう思って立ち上がる。「神が私の祈りを聞くなどありえない。神は罪人の祈りをお聞きにならないのだから」。仕事に行くと、多少は気がまぎれるかもしれない。だが、少しでも気を抜くと、同じ暗黒の思いが押し寄せてくる。「お前はすでにさばかれているのだ」。その人の見かけと様子に注目するがいい。陰鬱なものがただよっている。夜、家に帰ってくるが、家の中にはほとんど何もその人を喜ばせるものがない。微笑みを浮かべるかもしれないが、そこには裏側にひそんでいる悲嘆がにじみ出ている。再び膝をかがめるとき、その人は夜闇を恐れる。自分の寝床に入るとき、それが自分の墓になるのではないかと思ってこわくなる。そして、眠れないまま横たわっている場合には、死について考える。第二の死[黙21:8]、罪に定められること、滅びについて考える。また、夢を見る場合には、悪霊どものこと、地獄の火炎のことを夢に見る。その人は再び目覚め、自分が夢に見た苦悶をありありと実感しているかのように思う。朝には夕方であればいいのに、と思い、夕方には朝であればいいのに、と思う[申28:67]。「私は日々の食物も厭わしい」、とその人は云う。「何もかもどうでもいいことだ。私はキリストを有していないのだから。私はあわれみを有していない。平安を有していない」。その人は天国への路を走り出し、両耳に指を突っ込み、他の何も聞こうとすまいとする。その人に舞踏会や演奏会のことを告げてみよ!――その人には無価値である。その人は何も楽しむことができない。あなたは、ある種の天国にその人を置いてやれるかもしれないが、それはその人にとってある種の地獄であろう。贖われた者たちの歌声も、栄化された者たちのハレルヤも、燃える智天使たちの賛美歌も、打ち砕かれた心のもとにある限り、この人を魅了して悲哀を追い出すことはないであろう。さて私も、あらゆる人が、天国に達する前には同じ量の苦しみを受けなくてはならないと云いはしない。私が語っているのは、罪ゆえにこの特別な心のみじめさを感じている人々のことである。そうした人々は全くみじめである。バニヤンが云ったように、「彼らは気も転倒してどうしていいのか分からなかった」。――そして、こう考える。「主に誓います。私と永遠の死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません」*[Iサム20:3参照]。おゝ、永遠に主はほむべきかな! もしあなたがたの中のだれかがこのような状態にあるとしたら、ここにこそあわれみがある。この傷は地上の薬屋では手当されないが――これを癒せる医者はひとりもみつからないだろうが――、だが、「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」。少しでも打ち砕かれた心を有するのは祝福である。

 また、ある人が打ち砕かれた心を有するとき、その人は単に罪ゆえに悲しみを感じるだけでなく、自分にはそれを取り除くことが完全にできないと感じる。自分で自分を救えると信じている人は、決して打ち砕かれた心の意味がわかっていない。生き方を改めれば過去を償えるとか、今後はずっと正しくしていられるなどと想像している人々は、まだ救いに至るように自分自身を知らされていないのである。否。愛する方々。私たちは塵の中にへりくだらされ、すべてをキリストのうちに求めさせられなくてはならない。さもなければ、私たちは結局欺かれるであろう。だが、あなたは自分自身に愛想を尽かしているだろうか? だれか自分をあわれみの病院へ運んでいってくれと泣いている負傷兵のようになっているだろうか? 自分よりも力強いだれかの助けを切に願っているだろうか? ならば、元気を出すがいい。あなたのためには、大いなる救いが見いだされるであろう。あなたが儀式や、祈りや、善行により頼んでいる限り、永遠の恵みを見いだすことはない。だが、あらゆる強さと力をはぎとられたとき、あなたは主イエスにある輝かしい救いを得ることであろう。たとい道徳が打ち砕かれた心のかけらをつなぎ合わせることができるとしても、その接合剤はすぐにはがれ落ち、その人は再び前と同じくらい薄汚れた者となるであろう。私たちは新しい心と新しい霊を持たなくてはならない。さもなければ、私たちのあらゆる希望はむなしいであろう。

 私が慰めたいと願う人々の性格について、何か別のことを描写する必要があるだろうか。あなたがたはもうわかったことと思いたい。おゝ! 私のあわれな兄弟よ。私はあなたが苦悩の中にあるのを見て悲しんでいる。だが、イエスによる赦免がある。――あなたにさえも赦しはある。あなたのもろもろの罪が石臼のようにあなたの肩にのしかかっているとしても、それらがあなたを地獄に沈み込ませることはない。さあ、立つがいい! この方が――私の恵み深い主が――、あなたをお呼びになっている[マコ10:49]。主の足元に身を投げ出し、その愛と慰めに満ちたおことばの中に、あなたの嘆きを消え去らせるがいい。あなたは、こう云えるとしたら、救われているのである。

   「咎あり、弱く、甲斐なき虫けら、
    われは優しき 御手に身を投ぐ。
    主こそわが身の 力にして義、
    わがイエスにて わがすべて」。

 II. 私たちは長いこと、打ち砕かれた心という、この大いなる不幸について語ってきた。次に考えたいのは、《大いなるあわれみ》である。――「主は心の打ち砕かれた者をいやし」。

 第一に、主だけがそれをなさる。人々は苦しみを軽くできるかもしれない。苦しんでいる人を慰め、苦悩する人を励ませるかもしれない。だが、心の打ち砕かれた人を癒すことはできず、その傷を包むことはできない。それは人間的な雄弁でも、定命の者の知恵でも、アポロ並みの弁舌でも、説教者の王の素晴らしい言葉でもない。神の「かすかな細い声」[I列19:12]こそ、唯一、「すべての考えにまさる神の平安」[ピリ4:9]を授けるものである。心を包むのは、直接神によってなされることであり、しばしば、いかなる媒介的手段もなしになされる。そして、媒介的手段が用いられるときには、それは常に、人間がその媒介を賞賛するのではなく、感謝に満ちて神に敬意を表するようなしかたでなされる。心を打ち砕く際に、神は絶えず人間をお用いになる。炎のような説教の繰り返しや、すさまじい威嚇の言葉は人々の心を実際に砕く。だが、あなたも私がこう証言するのを許してくれると思うが、あなたの心が癒されたときには、神おひとりがそれをなさったのである。あなたは、あなたの心を砕いた教役者を尊ぶ。だが、私たちがこうした癒しを何らかの媒介的手段に帰すことはめったにない。義認という行為は、普通、いかなる手段にも依存していない。神だけがそれをなさる。私は、私の心を解放する手段となる言葉を発した人がだれかは知らない。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]。私はその人がその説教の中で何を云ったか思い出せないし、確かにそれを知ろうとも思わない。私は、その場でそのときイエスを見いだした。そして、それだけで私には十分だった。あなたが自分の傷を癒されたとき、それがある教役者のもとで起こったとしてさえ、それを語ったのはその教役者でなかったかのように思われる。あなたは、それまでの一生の間、その人がそのように語ったのを一度も聞いたことがなかった。あなたは云う。「私はあの人の話をしばしば喜んで聞いてきたが、あの人は今まで以上のことをした。以前は、私の耳に語っていたが、今は、私の心に語っているのだ」。私たち、この場にいるある者らは、キリストの自由を楽しんでおり、御霊のあらゆる喜びのうちを歩んでいる。だが、私たちは、神こそ私たちを解放してくださったお方であるとし、人間や書物に恩義を感ずるのにまさって、私たちをあわれんでくださった、この偉大な《医者》に恩義を感ずる。おゝ、イエスがこのベテスダをいま通り過ぎてくださるなら、どんなによいことか。おゝ、あわれな死にかけている病人よ。咎が重くあなたの魂にのしかかっているとしたら、他のいかなる助け手にも向かわず、ただ御座の上に座っているお方にだけ向かうがいい。

 また、主だけがこれをおできになる。私は、あらゆる兄弟たちに云いたい。できるものなら、打ち砕かれた心を包んでみるがいい、と。私はしばしばそうしようと労苦してきたが、できた試しがない。私は嘆く者に慰めの言葉をかけてきたが、ほとんど何の足しにもならなかったか、ことによると、杯に間違ったものを混ぜ合わせたかもしれないと感じてきた。主だけがそれをおできになる。あなたがたの中のある人々はバプテスマか、主の晩餐か、《祈りの家》への定期的な出席によってあわれみを求めている。また、あなたがたの中のある人々は、何らかの形式か慣習に、救いに至るようなありがたみがあるものと思い込んでいる。主に誓って云うが、こうした事がらのいずれも、聖霊を離れては、心の打ち砕かれた者を包むことはない。それらは空しい風であり、空気である。これらを有していても失われることはありえる。あなたが平安と慰めを得るには、神によって直接お取り扱いを受けるしかない。神だけが、偉大な《医者》として心の打ち砕かれた者をお癒しになるのである。あゝ! あなたがたの中のある人々は、打ち砕かれた心をかかえてあなたの教役者のところに行き、「私たちはどうすればよいでしょうか」、と云う。私は、心悩む求道者に向かってこう告げた説教者のことを聞いたことがある。「あなたは鬱病の気味がありますよ。これこれの娯楽場に行った方がいいですね。あなたは陰気になりすぎて、鬱病になりかかっていますよ」。おゝ、病院の看護婦が本物の薬を与えるべきときに、毒を投与すると考えてみるがいい! もしも自分の薬に毒を混ぜ込む人間が縛り首に値するとしたら、魂に向かって幸福が全くないような所で幸福を求めよと告げ、喜びを求めて肉的な世へ向かわせる者の咎は、いかにいやまさって大きいことか。幸福であれ喜びであれ、神以外のいかなるところにも見いだせない。

 さらにまた、神だけがそう行なってよい。かりに私たちがあなたの打ち砕かれた心を癒せるとしたも、それは何の益にもならないであろう。私は主に切に願う。神によらない限り、決して打ち砕かれた心が癒されないように、と。真に罪を確信した罪人は常に、間違った癒され方をするくらいなら、自分の心を砕かれたままにしておきたいと願うものである。私は、いま苦しんでいるあなたに問う。あなたは、自分の打ち砕かれた心を薮医者から治されて、騙されて、最後には地獄に送り込まれるよりは、心砕かれたままでいたいと思うではないだろうか、と。私はあなたの叫びがこうであることを知っている。「主よ。私の症状の最悪のことを知らせてください。槍状刀をお用いになってください。私を傷つけることを恐れず、私にそれをみな感じさせてください。高慢な肉を残しておくよりは切り落としてください」。しかし、少なからぬ数の人々が、何らかの良い行ないか義務によって自分の傷のうわべをつくろおうとしている。おゝ! 話を聞いている方々。だれにも騙されてはならない。実は死んでいるのに、名ばかりで生きていることに満足していてはならない。悪貨は地上では通用するかもしれないが、天国では純金だけが受け入れられるであろう。あなたは火に耐えられるだろうか?

 神があなたを吟味しにやって来られるときには、あなたの増上慢は無駄である。神の御手から真の癒しを受けていない限り、あなたは検閲に合格しないであろう。宗教的な考え方を身につけて、自分は安全だと思い込むのは実にたやすいが、真に救いに至るみわざは神の働きであり、神だけの働きである。司祭を求めてはならない。司祭は慰めてくれるが、それはあなたを惑わすことによってである。自分の自我を求めてはならない。あなたは自分で自分を破滅の眠りに落ち込ませるだろうからである。あなたの心がイエスの血で洗われるようにするがいい。聖霊がその宮を心に有しておられるように気をつけるがいい。そして、願わくは神が、その大いなる主権の恵みによって、あなたが自分で自分を欺かないようにしてくださるように。

 しかし次に、神は実際にそうしてくださる。そう考えるのは甘やかなことである。「主は心の打ち砕かれた者をいやし」。主は《そうしてくださる》。他のだれもそれを行なうことはできず、他のだれもそれを行なうべきではないが、神はそれを行なってくださる。あなたの心は打ち砕かれているだろうか? 神はそれを癒して《くださる》。必ずそれを癒してくださる。というのも、こう書かれているからである。――そして、それは決して変わることはない。三千年前に真実であったことは今も真実だからである。――「主は心の打ち砕かれた者をいやし」。タルソのサウロは三日間盲目であった後で喜んだだろうか? しかり。そしてあなたも解放されるのである。おゝ、これは永遠に感謝すべき主題である。古の時代に嘆く者をなだめ、いつくしみ、助け出し、祝福するために身をへりくだらせながら下ってこられたのと同じ、高みと全能のうちにおられる神が、今も悔悟した人の子らの間を、あわれみによって歩んでおられるのである。おゝ、私は神に願う。あなたの座っている所に来てくださり、その御手をあなたの魂の中に差し入れ、もしそこに打ち砕かれた心を見いだすならば、それを包んでくださるように、と。あわれな罪人よ。あなたの願いを神に向かって囁き、あなたの溜め息を神の御前でもらすがいい。というのも、「主は心の打ち砕かれた者をいやし」てくださるからである。平原にあなたは傷つき倒れ、「医者はだれもいないのか?」、と叫んでいる。「ひとりもいないのか?」 あなたの回りには、同じように苦しんでいる人々がいるが、彼らはあなたと同じくらい無力である。あなたの悲哀に満ちた叫びには、何の答えも返って来ることなく、虚空だけがあなたの呻きを聞いている。あゝ! 罪の戦場を訪れる、ひとりの親切なお方がおられる。そこは、呵責と絶望という禿鷹どもの思い通りにされている場所ではない。1つの足音が近づいてくるのが聞こえる。それはエホバの優しい足音である。あわれみに満ちた心をもって、主はその悔い改めている子どものもとに急いで来られる。その御手には何の雷もなく、その御目には何の怒りもなく、その御口には何の脅しもない。主がいかに、めった切りにされた心の上に身をかがめられるか見るがいい! 主がいかに語っておられるか聞くがいい。「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる』」[イザ1:18]。そして、もしこの悔悟者が、自分に語っておられる力あるお方の顔を恐れてのぞき込めないとしたら、同じ愛に満ちた御口がこう囁かれる。「わたし、このわたしが、あなたのそむきの罪をぬぐい去る」*[イザ43:25]。見るがいい。いかに主が、イエスの御脇から流れる神聖な水で、あらゆる傷を洗ってくださるかを。注目するがいい。いかに主が、赦しの恵みという軟膏を塗りつけ、あらゆる傷を、聖徒たちの義という純白の麻布[黙19:8]で包んでくださるかを。この嘆く者は、その手術の間、気を失うだろうか? 主はその唇に気付け薬を飲ませ、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」[エレ31:3]、と叫ばれる。しかり。それは真実である。――何よりも真実である。――夢でも絵空事でもない。「《主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む》」。

 このように、あわれな見捨てられた人間を訪れてくださるとは、天の主はいかにへりくだっておられることか。女王陛下は、陸軍病院を訪問し、その高貴なお言葉によって、兵士たちを鼓舞された。このことによって陛下はご自身の名誉を現わされ、陛下の兵士たちはこのことゆえに陛下を愛するようになっている。だが、全地の神、無限の《創造主》が、身をかがめて、その被造物たちのしもべとなられるとき、あなたがたは、その威光あるへりくだりがいかなるものか思い描けるだろうか? あわれみをもって、みじめな心の上に身をかがめ、愛に満ちた指先で、生々しく開いた霊の傷口を閉じてくださるのである。おゝ、罪に病んだ罪人よ! 天の王はあなたを蔑まれない。むしろ、あなたも、主があなたの《慰め主》であり、あなたのすべての病を癒されるお方であることを見いだすであろう。さらに、よく見るがいい。いかに主が優しくこれを行なってくださるかを。あなたは詩篇の中にある、「恵みと優しきあわれみ」という箇所を思い出すであろう[詩103:4 <英欽定訳>]。神のあわれみは、「優しきあわれみ」である。神は、心の打ち砕かれた者を包もうとするとき、常に最も柔らかな塗り薬を用いてくださる。神は、戦場の軍医のように、せかせか歩き回って、「ここの足を切り落とせ、あそこの腕を切り落とせ」、などと云いはしない。むしろ穏やかに、同情深くやって来られる。神は私たちを手荒に取り扱わず、柔らかな指先で傷口を縫い合わせ、膏剤を塗ってくださる。しかり。神はそれをことのほか優しく、心を捕えるようなしかたでなされるので、私たちは、このような無価値な者らに対して神がこれほど親切であられることに対して驚嘆に満たされるほどである。

 さらに、神はそれを着実になされる。それで、その傷は二度と開くことがありえない。もし神がその膏剤を塗られたなら、それは天の法廷の膏剤であって、決してはがれ落ちることはない。もし神が癒されるなら、神は適切に癒される。ひとたび神によって救われたなら、いかなる人も失われることはない。もし私たちが信仰によってあわれみを受けるならば、決してそれを失うことはない。ひとたび神が癒されるなら、神は永遠に癒される。にせ教理を教える一部の者らの主張するところ、神の子らも失われることがありえるというが、彼らは聖書にも実経験にも何の裏づけも有していない。というのも、私たちは、神が聖徒たちをお守りになると知っているからである。ひとたび赦された者は、罰されることがありえない。ひとたび新生した者は、滅びることがありえない。ひとたび癒された者は、決して自分の魂が死に至る病を得ることはない。御名はほむべきかな。私たちの中のある者らは神の腕前を感じており、その強大な御力を知っている。そして、私たちの心がいま打ち砕かれているとしたら、私たちは一瞬も躊躇せず、すぐさま御足のもとに出てこう叫ぶであろう。「おゝ、切に願わくは、心の打ち砕かれた者を癒し、その傷を包まれる主よ。私たちの心を包み給え。傷を癒される主よ。私たちの傷を癒し給え」、と。

 さて、私の話をお聞きの、あるいは、お読みの方々。最後にあなたに語りかけよう。あなたは無頓着で不敬虔な人だろうか? あなたの友に一言云わせてほしい。死後、審きがあるのは本当だろうか? あなたは、あなたが死ぬとき、あなたが神の法廷の前に立つよう呼び出されるだろうと信じているだろうか? 悪人には、永劫の火炎が燃える地獄が定められていると知っているだろうか? しかり。――あなたは、これらすべてを知っており、信じている。――だがしかし、あなたは考えもなく、頓着もしないまま地獄に下っていこうとしている。――あなたは、自分のいのちを絶えず、すさまじい危険にさらしながら生きている。――墓の向こう側に、ひとりも友人がいないままに。あゝ、じきにあなたの様子はいかに一変することか。あなたは叱責から顔をそむけてきた。警告を笑い飛ばしてきた。だが、そのとき笑い声は吐息に代わられ、あなたの歌声は苦悶の叫喚に代わられるであろう。おゝ、私の兄弟たる人よ。再びあなたのいのちを危難にさらす前に、思うがいい。もしあなたの魂を引き渡すように要求されたら、あなたはどうするのか? あなたは《全能者》の脅かし[ヨブ6:4]に耐えられるだろうか? 永遠の火焔の中に住んでいられるだろうか? あなたの骨々が鉄でできていて、あなたの肋骨が青銅でできているとしても、来たるべき審きの光景にあなたはおののくであろう。ならばキリスト教信仰をあざけるのは慎み、自分の《造り主》を冒涜するのはやめるがいい。あなたはじきにこのお方と顔を合わせることになる。ならば、いかにしてあなたは、この忍耐強いお方に対して度重なる侮辱を加えてきたことを弁解しようというのだろうか? 願わくは主が、これからあなたを御前でへりくだらせてくださるように。

 しかし、私は苦悩している人を追い求めており、その人の慰めの手段になりたいと切望している。ことによると、私の言葉はいま、倦み疲れ、傷ついた私の同胞のひとりの耳に響いているかもしれない。あなたは長い間、思い悩みという寝床の上で輾転反側してきた。そして、思い巡らすそうした時は、あなたの魂にとって、神によって祝福されてきた。今のあなたは自分の生き方の咎を感じており、あなたのふるまいのもろもろの罪を嘆き悲しんでいる。あなたはいかなる赦免の望みも、いかなる赦しの見込みもないことを恐れ、死が、あなたの咎ある魂を、赦されないままその《造り主》の御前に至らせるのではないかと震えている。ならば、神のことばを聞くがいい。罪ゆえの痛みは、あなたの魂の中における神の働きである。神があなたを傷つけておられるのは、あなたが神を求めるようになるためである。神は、赦免を与えようと思っていなければ、あなたの罪をあなたに示したりなさらなかったであろう。あなたはいま罪人であり、イエスは罪人を救うために来られた。それゆえ、主はあなたを救うために来られたのである。しかり。主は今あなたを救いつつある。こうした魂の葛藤は、そのあわれみの働きである。一打ち一打ちの中に愛があり、一鞭一鞭の中に恵みがある。おゝ、悩む者よ。信ずるがいい。主はあなたを完全に救うことがおできになる[ヘブ7:25]。あなたが主を信じて無駄になることはない。さあ、あなたの苦悶の沈黙の中で、ご自分の打ち傷によってあなたを癒してくださった[イザ53:5]お方を見上げるがいい。イエス・キリストは、あなたのもろもろの罪の罰を受け、あなたの代わりに神の御怒りを耐え忍ばれた。見るがいい。彼方で十字架につけられている《カルバリの人》を。そして注目するがいい。その血の雫があなたのために落ちており、その釘づけられた両手があなたのために貫かれ、その開いた脇腹の内側に、あなたに対する愛に満ちた心臓があることを。

   「イエスのみなるぞ! イエスのみなるぞ!
    よわき罪人 救うるは」。

単純にイエスにより頼むことで人は救われるのである。かの黒人は云った。「旦那様。おらは御約束の上にべたっとねそべっていますだ」。そのように、もしあなたがイエスの約束の上にべったり寝そべるなら、主は決してあなたを裏切らない。主はあなたの心を包み、あなたの嘆きの日々を終わらせるであろう。私たちはいつの日か天国で相会い、へりくだり給う主にハレルヤを歌うであろう。そのときまで、願わくは、あらゆる恵みに満ちた神[Iペテ5:10]が私たちの助け主であられるように。アーメン。

   「ちからある神 ゆめ蔑まず
    悔いし心の 供えものをば。
    深き溜息 ひそかな呻き
    御座にのぼりて 受け入れられん。

    主は見ぬ 恵みの しるしもて
    震うくちびる 恥じし顔(かんばせ)。
    咎人(とがびと)祈らば 恩寵あつく
    罪を彼方に 運び去らん。

    嘆きと恥辱(はじ)に 満ちし罪人(もの)をば
    あわれみて主は 傷を癒せり。
    哀しき愁訴(ねがい) 聞きて主は見ぬ
    涙の中の 御自分(われ)の象(かたち)を」。

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傷ついた人への癒し[了]

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