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意気阻喪した人への慰め

NO. 51

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1855年11月25日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに」。――ヨブ29:2


 大方の場合、恵み深い《羊飼い》は、ご自分の民をいこいの水のほとりに導き、緑の牧場に伏させてくださるが[詩23:2]、時として彼らは、水のない荒野をさまよい、住むべき町へ行く道を見つけられなくなることがある。飢えと渇きに彼らの魂は衰え果て、この苦しみのときに、彼らは主に向かって叫ぶ[詩107:4-6]。御民の多くは、ほとんど絶えざる喜びのうちに暮らし、キリスト教信仰の道が楽しい道であり、その通り道がみな平安である[箴3:17]のを見いだしている。だが、少なからぬ数の人々が、火の中を通り、水の中を通り、人々がその頭の上を乗り越えて行く[詩66:12]。こうした人々は、ありとあらゆる苦難と悲しみを忍んでいる。さて、様々に異なった性格の人々に説教するのは、教役者の義務である。時として私たちは自信満々な人々を訓戒する。彼らが死の眠りに落ち込まないようにするためである。また、私たちはしばしば意気阻喪した人々を慰める。そして、それが今朝の私たちの務めである。――たとい慰めることにはならなくとも、何がしかの勧告を与えたいと思う。神の御助けがあれば、それは、いま陥っている悲しい状態から彼らを引き出す手段となり、こう叫ばなくともよくなる日をいつかは来たらせるであろう。――「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに」!

 単刀直入に主題に入る。1つの苦情。その原因と治療法。そして、しめくくりとして、あなたがそうした立場にある場合、あなたのきよい思いをかき立てるための、1つの勧告である。

 I. 第一に、ここには1つの《苦情》がある。いかに多くのキリスト者が、過去を快く眺めながら、恐怖とともに将来に思いを馳せ、悲しみとともに現在を眺めていることか! 多くの人々は、自分が主を恐れつつ過ごしていた日々を、かつて過ごした中でも最も甘やかな最良の日々として振り返るが、現在について云えば、それは、陰鬱とやるせなさという陰気な衣裳をまとっている。こうした人々は、若かりし時代をもう一度過ごしたい、またイエスのそば近くで暮らしたいと願う。というのも、今の彼らは、自分が主のもとからさまよい出てしまったか、主が御顔を隠しておられるかのように感じているからである。それで彼らは叫んでいるのである。「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに」、と。

 1. いくつかの事例を1つずつ取り上げてみよう。最初は、自分の証拠の輝きを失ってしまい、「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに」、と叫んでいる人の場合である。この人の独白を聞くがいい。「おゝ、昔の日々を呼び戻せればいいのに! あの頃の私は、自分の救いに何の疑いも持っていなかった。だれかが私のうちにある希望について説明を求めるならば、優しく、慎み恐れながらそれに答えることができた[Iペテ3:15-16]。いかなる疑いにも悩まされず、いかなる恐れにも苦しめられなかった。私はパウロとともに、『私は、自分の信じて来た方をよく知っている』*[IIテモ1:12]、と云えたし、ヨブとともに、『私は知っている。私を贖う方は生きておられることを』*[ヨブ19:25]、と云えたものだ。

   『わが堅固(かた)き魂(たま) 恐れずありしは
    鉄壁の岩 波涛(なみ)砕くごと』。

私は自分が岩なるキリスト・イエスの上に立っていると感じていた。私は云ったものだ。――

   『憂きや悩みの 氾濫(おおみず)来れど
    よし悲しみの あらし降るとも
    われは安けく 家路につかん
    わが主、わが天、わがすべてへと』。

しかし、あゝ! それが今では何と変わってしまったことか! 雲1つなく晴れ渡っていた空は、ことごとく雲に覆われてしまった。私は、『わが称号(な)をさやかに』読みとれたところに、同じくらい明瞭に自分の断罪が読みとれるのではないかと思って震えている。自分はキリストに信頼しているものと思っていたが、今は暗黒の考えが立ち上って来る。お前は偽善者であり、自分をも他人をもだましていたのだ、と。せいぜい私は、このようにしか云えない。――『私は、自分がまだ主のうちにいるだろうと思いたい。たとい主の御顔ので清新にされることがなくとも、それでも主のみつばさの陰に信頼しよう』。もし主から離れたら、他に何の《救い主》もいないと感じてはいる。だが、おゝ! 何と分厚い暗闇が私を取り巻いていることか! 古のパウロのように、私の日々は、昼となく夜となく太陽も月も星も見えない[使27:20]。私は[『天路歴程』の基督者のように]、あずまやで巻物をなくしてしまい、それを私の懐から取り出すことも、旅路の間にそれを読んで自分を慰めることもできないのだ。だが、恐ろしいのは、道の果てにたどり着いたとき、彼らが私の入城を拒否するのではないかということだ。なぜなら、私は主の恵みを受け、主の愛を知るという扉を通って来たのではなく、欺かれ、肉的な空想を御霊のみわざと取り違え、天性的な確信を聖霊なる神のお働きにすりかえてきたのだから」、と。

 これが1つの状態であり、非常によく見られるものである。あなたは、このように叫んでいる多くの人々に出会うであろう。――「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに」!

 2. この大きな苦情のもう1つの状態は、これも非常に頻繁に生じがちだが、私たちの嘆きの原因が――救いの証拠の瑞々しさを失ったということよりも、それ以外の問題について、常時、心の平安を享受していないことにあるものである。「あゝ」、とある人は云う。「あゝ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに。あのときには、いかなる悩みや試練が私に降りかかっても、何ほどのこともなかった。私はこう歌うことができていた。――

   『父よ、みこころ 日々われ待たん。
    わが受くものを 分配(わ)け給え、常に。
    汝が最善(みむね)を なし給え、我に。
    死と天その余を 啓示(あか)すときまで』。

私は、神にはすべて明け渡せると感じていた。たとい神があらゆるあわれみを取り去られたとしても、私はこう云うことができた。――

   『よし汝れすべて 取らせ給えど
    なお我れ云わじ 逆らい言(ごと)を。
    それらわが手に わたる前には
    ことごと汝れが ものなれば』。

私は、将来に対していかなる恐れも覚えていなかった。母親の胸に抱かれる子どものように、安らかに眠っていた。私は云った。『アドナイ・イルエ。私の神は備え給う』*[創22:14]、と。私は自分の仕事を御手にまかせた。日々の務めに出かけて行くときには、朝に目覚めた小鳥のようであった。どこからその朝食がやって来るかはわからなくとも、小枝にとまって、こう歌っていた。――

   『弱者(よわき)よ、やめよ、労し嘆くを
    神が明日に 備え給わば』。

私もそれと同じだった。私は、自分のいのちそのものをも、妻をも、子どもたちをも、何もかも神にゆだねることができた。すべてを御手に明け渡し、毎朝こう云うことができた。『主よ。私に自分の意志はありません。あるいは、まだそれがあるとしても、あなたのみこころがなるようにしてください。あなたの願いは私の願い、あなたの望みは私の望みです』、と。しかし、『ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに』! いかに私は変わってしまったことか! 私は仕事のことでやきもきし出している。また今の私は、1ポンド紙幣でも現金をなくしたとしたら、不安で不安でたまらなくなるだろうが、以前の私なら、それが一千ポンドであろうと、それを私に与えてくださる神に感謝できるのと同じくらい容易に、それを取り去られる神に感謝できていたのだ。何とちっぽけなものによって私は心乱されることか。少しでも何か災難がふりかかるかもしれない懸念があると、その翳りが分厚い黒雲のように魂の上によどんでしまう。私は四六時中利己的で、常に自分の願いをかなえることだけを望んでいる。私は、すべてを神の御手におまかせできるなどとは云えない。何かしら、ゆだねきれないものがある。私の心には、利己愛という名の悪の植物がからみついていて、私の魂の神経や腱そのものの内部に根を織り込ませている。私には、私の神以上に愛する何かがある。今の私はすべてを明け渡すことができない。だが、『ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに』! そのときには、私の幸福は本物だった。神の幸福だった。あゝ」、と彼は云う。「『できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに』! 私は、今かかえているような悩みを耐え忍ばなくともよかったはずだ。どんな重荷がのしかかっていても、それを主に投げかけていたはずだ。おゝ! もし私が自分の肩の上から重荷を取り去り、それをみな持ちこたえることのできる《岩》の上に置くという天的な科学を知っていられたとしたらどんなによいことか! おゝ! もし私が以前のように、いかにすれば自分の嘆きと悲しみを注ぎ出せるかをわきまえていたとしたら、どんなによかったことか! 私は愚かだった。途方もなく愚かだった。まさに馬鹿者だった。かつて《救い主》に対していだいていた甘やかな信頼の念から逃げて行くなど! その頃の私は主の耳元に飛んで行き、自分の嘆きをみなお告げしていたものだ。

   『われ、悲しみと 嘆き注ぎぬ
    わが神の 優しき御胸に。
    試みのとき 主われを助け
    われに重荷を 耐えさせ給う』。

しかし今、私は愚かにも、それらを自分で背負っており、自分の胸にかかえているのだ。あゝ!

   『いかに安けき 時のありしか!』

そうした時が私に戻ってくれば、どんなによいことか!」

 3. ことによると、別の人はこのように語っているかもしれない。それは、神の家と恵みの手段における自分の喜びについてである。「あゝ」、とある人は云う。「できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに。あの頃は、神の家に行くと、いかに甘やかな言葉を聞けたことか! 左様。私は座っては、自分の耳を開き、まるで御使いが語ってでもいるかのように言葉をとらえた。また私が耳を傾けているとき、いかに涙が頬を流れ落ちることがあったことか! また、何か栄光に富んだ、キリスト者にとって喜びあふれることが云われて、魂がかき立てられたとき、いかに私の目がきらめいたことか。おゝ! いかに私は聖日の朝に目覚めては、こう歌ったことか。

   『ようこそ、甘き 憩いの日、
    よみがえられし 主を見し日。
    今はわが胸 目覚めたり、
    わが目に喜び 満ちてあり』。

そして、人々が神の家で歌っていたとき、その歌声は自分のもののように喜ばしかった。礼拝から帰る途中は、光を踏んで行くようであった。私は友人や近隣の人々の所に行き、いかに栄光に富む知らせを聖所で聞いてきたかを告げ歩いた。あれは甘やかな聖日だった。また、祈祷会の日が巡り来るとき、いかに私は熱心に出席し、祈りが本当に私の霊にとって祈りであったことか。だれが説教しようと、それが福音である限り、いかに私の魂は、その説教のもとで養われ、肥やされてきたことか! というのも、私は喜びの饗宴の席についていたからである。聖書を読むとき、それは常に照明されていて、それを開けば常に、栄光がその神聖な頁に黄金の光を照らし出していた。膝をかがめて祈るときには、自分の魂を神の前に注ぎ出すことができたし、その務めを私は愛していた。膝をかがめて祈る時を費やさないと幸せになれないような気がした。私は私の神を愛し、私の神は私を愛しておられた。だが、おゝ! 今は何と変わってしまったことか! 『ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに』! 私は神の家に行く。語っているのは同じ声である。私があれほど愛していた同じ人がやはり私に語りかけている。だが、今の私は全く頬を涙で濡らすことがない。私の心は、この人に牧会されていてもかたくなになってしまった。愛という情緒を私はほとんど有していない。私が神の家に行くときには、少年が学校に行くときと同じように、ほとんど愛を感じていない。そこから出て行くときも、魂をかき立てられてはいない。密室の祈りで膝をかがめるとき、私の戦車からは車輪がはずされ、進むのが非常に困難になる[出14:25]。何とか歌おうとしても、私に云えることはただ1つ、『可能ならそうしたいのですが、私にはできません』、である。『ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに』! 主の燭台が私たちの回りを明るく照らしていたあの頃のように」! 

 こうした言葉に声を合わせることのできる人は、あなたがたの中にそれほど多くはないと思う。というのも、あなたがたが神の家にやって来るのを愛していると私は知っているからである。私は、みことばを感じている人々に向かって説教するのを愛している。それは、みことばに同意するしるしを見せている人々――説教の間に時折涙をこぼすことのできる人々――福音を聞くと血がたぎるように思われる人々である。あなたがたは、私がいま描写している言葉の大部分を理解できないと思う。だが、それでもあなたは、多少は理解できるであろう。みことばは、かつてそうだったほどには、あなたにとって甘やかでも快くもないかもしれない。そして、そのときあなたはこう叫ぶであろう。――「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに」、と。

 4. しかし私は、ことによると、あなたの口から漏れ出てくるかもしれない1つの点を告げることにしよう。あなたがたの中のある人々が、ことのほか嘆いているのは、私たちの良心が、かつてそうであったほどには鋭敏でない、ということである。それゆえ、私たちの魂は苦々しく叫ぶ。「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに」、と。「私が主を初めて知ったときには」、とあなたは云う。「道を踏み外すのではないかと恐れて、ほとんど一歩も前へ踏み出せなかった。私は何事も石橋を叩いてから渡るようにしていた。何かが罪ではないかという疑惑を感ずる場合、私は誠実にそれを避けた。いかに僅かな蛇の痕跡があろうとも、すぐさま私は背を向けた。人々は私を清教徒と呼んだ。私はあらゆることを監視した。私は口をきくことを恐れた。本当は許されるようなある種の行ないをも、徹底的に断罪した。私の良心はそれほど鋭敏だった。私は、繊細な植物のようだった。もし罪の手によって触られれば、私の葉はあっというまにすくみ上がるのだった。私は触れられることに耐えられなかった。それほど敏感だった。私は全身傷だらけで、だれかが私をかすっただけで叫び声をあげた。神に罪を犯さないように、私は何をすることも恐れていた。悪罵を聞けば、身の裡で骨が震えた。聖日を破る人を見れば、震えて恐れた。どこへ行っても、いかに小さな罪の囁きさえ私をぎょっとさせた。誘惑を聞いたときには、悪霊の声のように思えた。そして私は、『下がれ。サタン』、と激しく云った。私は罪に耐えられなかった。蛇から逃げるように罪から逃げた。その一滴たりとも味わえなかった。だが、『ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに』。確かに私は主の道を捨ててはいない。主のおきてを完全に忘れてはいない。確かに、自分の人格を汚すようなことはしていない。人々の前で公然と罪を犯してはいない。神のほかだれも私の罪を知ってはいない。だが、おゝ! 私の良心は、かつてとは違っている。それは以前は大喝していたが、今はそうしていない。おゝ、良心よ! 良心よ! お前は眠り込みすぎている。私はお前を阿片剤で麻痺させた。そしてお前は、語っているべきときにまどろんでいる! お前は見張り人だが、かつてしていたように夜の時を告げてはいない。おゝ、良心よ! 時として私はお前が私の耳の中で大騒ぎするのを聞き、それが私を飛び上がらせたことがあったのに、今やお前は眠りこけており、この次には私は罪を犯すようになってしまう。私はほんのちょっとしたことしか行なっていないが、それでも、そのちょっとしたことが道を示している。わらしべでも、風がどっちへ吹いているかは指し示す。そして、私は、自分が1つの小さな罪を犯してしまったことによって、私の魂がどの方角に傾いているかを明らかに示されていると感ずるのだ。おゝ! 私がもう一度鋭敏な良心を持てたなら! おゝ! 私がこの犀の角の角質のような良心を持っていなければどんなによいことか! この良心を覆う堅い皮膚は、律法の弾丸でも貫通できない! おゝ! 私がかつて有していたような良心を持てたなら! 『ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに』!」

 5. この悲しい状態は、また別な形をとることがある。愛する方々。私たちの中のある者らは、以前そうしていたほどには、神の栄光と人々の救いについて大きな熱心を有していない。昔であれば、ある魂が滅びに向かいつつあるのを見ると私たちの目はたちまち涙で一杯になったものだった。人が罪に傾いているのを見ただけで、私たちは目に涙を浮かべてその人の前に走りより、そうした人々を救うためなら自分を犠牲にすることすら願った。道を歩くときには、決まって人に小冊子を渡すか、その罪を指摘せずにはいられなかった。主イエスについて絶えず語っていなくてはならないと思っていた。何か善を施せることがあれば、いつでも真っ先に、また最も熱を込めて取り組んでいた。何とかして、幾人かでも救いたい[Iコリ9:22]と願っていたし、そのときには、ひとりの魂でも地獄からかすめ奪うことができさえするなら、自分を捨ててもいいと思っていた。同胞に対していだく愛の深さ、熱烈さのあまり私たちは、たといキリストの御名への愛ゆえに全世界から嘲られても、野次られても、迫害されても、何らかの善を施せさえするなら満足だった。私たちの魂は、魂を慕いあえいで燃えていたし、それ以外のすべてを卑しく無価値なことと考えていた。だが、あゝ! 今や私は、魂が断罪されるとしても、涙一滴浮かばない。罪人たちが地獄の焼けるような穴に沈むとしても、呻き1つ漏れない。何千もの人々が日ごとに一掃されつつあり、底なしの災厄に沈んでいくとしても、これっぽっちも心が動かない。私たちは涙もなしに説教することができる。心も込めずに彼らのために祈ることができる。人々の切迫した必要を感じもせずに、彼らに語りかけることができる。醜行の巣を通り過ぎても、――中にいる人がもっと善良になればいいのにと願う。それだけである。私たちの同情心すら枯渇してしまった。かつての私たちは、地獄の瀬戸際近くに立って、毎日のように滅びに落ちた霊たちの悲鳴やわめき声が耳に鳴り響くかのように思っていた。そのとき私たちは云った。「おゝ、神よ。私を助けて、この穴の中に落ちていく同胞たちを救い出させてください!」、と。しかし今の私たちはそれをみな忘れている。私たちは人々に対してほとんど愛を有していない。かつて持っていた熱心と精力の半分も持っていない。おゝ! もしこれがあなたの状態であるとしたら、愛する方々。もしあなたがこうした言葉に声を合わせられるとしたら――悲しいかな、あなたのあわれな教役者もある程度までそうできるが――、私たちはこう云ってしかるべきであろう。「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに」!

 II. しかし、いま私たちは、こうした個々の性格1つ1つを取り上げて、その《原因と治療法》をあなたに告げたいと思う。

 1. こうした嘆かわしい事態を引き起こす原因の1つは、祈りの欠如である。そして、もちろんその治療法は、この原因のすぐ隣にある。あなたは、「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに」、と云っている。さあ、兄弟。この問題の根源に分け入ってみよう。あなたが昔の月日のようでない1つの理由は、こうである。あなたは、かつてのようには祈っていない。この世の何物にもまして人の魂をこのようにやせこけさせるのは、祈りの不足である。ないがしろにされた密室が、あらゆる悪の生誕地であるとはよく云ったものである。あらゆる善は密室で生まれ、あらゆる良いことはそこから湧き出す。密室でキリスト者はそれをつかみとる。だが、キリスト者が自分の密室をないがしろにすると、そこからあらゆる悪が生じてくる。いかなる人も、自分の密室を捨てるなら、恵みにおいて進歩することはできない。その人がどのくらい強い信仰を持っているかはどうでもよい。太った人は、身につけた贅肉に頼って少しは生きられるという。だが、いかなるキリスト者であれ、古い恵みに頼って生きられるほど贅肉に満ちてはいない。脂肪太りのキリスト者は、ころりと死にはしても、自分の脂肪に頼って生きることはできない。自分ひとりで強く頑健な者たちも、祈りなしでそうあり続けることはできない。たといある人が自分の内側に、神のえり抜きのキリスト者五十人分の霊的力を持っていたとしても、耕すことを続けない限り死ななくてはならない。兄弟よ。あなたは過去を振り返って、こう云えないだろうか? 「三、四箇月前には、私の祈りは、今よりもっと規則正しく、もっと定期的で、もっと熱心になされていたが、今の私の祈りはかすかで、真摯でなく、熱烈でも、熱心でもない」、と。おゝ、兄弟よ。あなたの嘆きの原因をだれかに尋ねてはならない。これほど明らかなことはない。それについて質問する必要などない。そこに原因があるのである。では、どこに治療法があるだろうか? 左様。より多くの祈りにである。愛する方々。あなたが引き降ろされたのは、あまり祈らなくなったがためである。あなたを引き上げるのは、大いに祈ることであろう。祈りの欠如によってこそ、あなたは貧窮に陥らされた。では祈りを増し加えることによってこそ、あなたは再び富み栄えるようになるであろう。牛がいなければ穀物倉はきれいだ[箴14:4 <英欽定訳>]。耕す牛がいないところには、人間の食べるものは何もない。そして、土を耕す祈りが全くないところには、あなたの養いとなるものが何もない。私たちはもっと祈りに熱心にならなくてはならない。おゝ! 愛する方々。壁から突き出ている梁が、私たちを責めて叫ぶではないだろうか? 私たちの埃だらけの密室は、私たちがひそかな静思の時をないがしろにしてきたことを証ししてはいないだろうか? 愛する方々。もしキリスト者を蒸気機関にたとえることができるとしたら、聖霊によって送り込まれたその祈りは、キリスト者の動きを維持する火そのものであるに違いない。祈りは、神がお選びになった恵みの伝達手段であり、それをないがしろにするのは賢くないことである。この件に関しては二重に真剣にならせてほしい。そして、ある人々の心をえぐるような言葉を語らせてほしい。愛する方々。祈りをないがしろにすれば、魂は、きわめて危険な状態に陥る。――そうあなたは云うが、あなたはそれを本気で云っているだろうか? 自分の云っていることを信じているだろうか? もしそうだとしたら、私はこれ以上あなたに語りはすまい。というのも、あなたは、自分のこの嘆かわしい叫び、「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに」、に対する治療法を容易に思いつけるだろうからである。ある商人が、以前のと同じくらい金持ちになりたいと願っていたとする。――かつての彼は、自分の船を黄金の国に派遣しては、黄金の貨物を持ち帰らせるのを常としていた。だが、最近、彼の船は全然出航することをしていない。では彼は、自分が黄金の貨物を持っていないことを不思議がることができるだろうか? そのように、人は祈るとき、一艘の船を天国に遣わしているのであり、それが黄金を満載して戻ってくるのである。だが、もしそうした人々が請願するのをやめるなら、彼の船は悪天候のため出航できず、足止めされているのであって、彼が貧しい人になるとしても何の不思議もない。

 2. また、ことによると、あなたが、「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに」、と云っているのは、あなた自身の過失からというよりも、あなたの教役者の過失からかもしれない。私の愛する方々。世の中には、出席教会の教役者の働きによって、途方もなくひどい状態に陥るということがある。人々が、われらの神の都を喜ばせるような流れで全く潤されていないとき、恵みにおいて成長するなどということを期待できるだろうか? 人々が霊的食物で養われていないとき、主イエスにあって強くなるなどと考えられるだろうか? 私たちは、ある人々が、聖日ごとに文句を云い、自分たちはこれこれの教役者の話を聞くことができないと云うのを知っている。ならば、補聴器を買えばいいではないか? あゝ! だが私は、彼の話を聞いても自分の魂の益にならない、と云いたいのです。ならば、その人の話を聞きに行ってはならない。もし長い間ためしてみて、何の益もないというのであれば、そうするがいい。私がいつも思うのは、会堂から出てくるときにぶつくさ云っている人は憐れまれるべきではなく、鞭打たれるべきだということである。というのも、その人は、そうしたければ行かずにいられるし、自分の好きなところに行くことができるからである。羊が自分たちに合ったしかたで養われることのできる場所はごまんとある。そして、だれもが、自分の魂に最も適した牧場を得られる場所に行くべきである。だが、それは、あなたがたの中の多くの人々がここに来る前にしてきたように、あなたの教役者が死ぬや否や逃げ出さなくてはならない、ということではない。あなたは、嵐がやって来て、船長がいなくなり、船があまり激しい航海に耐えられないとわかるなり、船から逃げ出すべきではない。その船とともにとどまり、水漏れを修繕し始めるがいい。神はあなたに船長を送り、しだいに天候も良くなり、万事はうまく行くであろう。だが、劣悪な教役者は、非常にしばしば神の民を飢えさせ、生きた骸骨としてしまう。その骨の一本一本が見てとれるようである。では、彼らがその教役者を飢えさせるとしても、だれが不思議に思うだろう。彼の牧会活動によって何の食物も栄養も得られていないというのに。これこそ、人々がしばしばこう叫ぶ第二の理由である。「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに」!

 3. しかし、それにまさる理由があり、あなたがたの中のある人々には、ずっと骨身にしみることであろう。それは、食物の悪さというよりも、あなたが食物をめったに食べないことから来ている。私の愛する方々。私たちは、しばしばこういうことを見ている。ひとりの人がいる。聖日には二回、神の家にやって来る。月曜の夜、その人は忙しく働いているが、その前掛けを畳んで、祈祷会にやって来る。始めから出席することはできなくとも、最後の頃に入って来る。木曜の夜にも、その人はできる限り聖所にやって来て、福音に仕えるどこかの教役者の説教を聞く。そして、夜遅くまで起きていては、朝早く起き出し、こうした信仰的な活動に費やした時間の穴埋めをする。だが、次第次第にその人はこう考えるようになる。「私は働きすぎだ。これは疲れる。歩いて行くには遠すぎる」。そこでその人は、まず集会出席を1つ減らすことにする。それから、もう1つ。そこで、こう叫び出すのである。「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに」! 左様。兄弟たち。あなたは、このことを不思議がることはない。その人は、以前ほど多く食物を口にしていないのである。少しずつ何回も、が子どもたちに食べさせるべきやり方である。もっとも今朝の私はあなたがたにたくさん与えているが。それでも、少しずつ何回も、は非常に良い規則である。私は思う。人々が週日の集会に出なくなるとき、それがどうしても余儀ない事情で出席できないのでない限り、キリスト教信仰よさらば、ということになる。「実際的な敬虔さよ、さらば」、とホイットフィールドは云う。「人々が週日に神を礼拝しないときには!」、と。週日の諸集会は、しばしばあらゆる集会の中でも最も素晴らしいものである。神はご自分の民に、聖日には乳の一杯はいった手桶をお与えになるが、しばしばその最上の乳脂を、週日のためにすくい取っておられるのである。もし人が週日に教会に来ないとしたら、こう云わざるをえなくなっても不思議だろうか? 「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに」! 愛する方々。私はあなたを責めているのではない。私はただ、「記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせ」[IIペテ3:1]ようとしているのである。ここにいるのは、どこから見てもわかりやすい人間、――そうではないだろうか? しかり。その人間は、いつも思っていることをそのまま云う。いつもそうしようとしている。者ども! 自分の旗幟を鮮明にし続けるがいい! 戦いに勝ちたければ、軍旗の近くにとどまるがいい! そして、ほんの少しでも義務に欠けるところが見受けられるときには、あなたに率直に勧告することが私たちの義務である。それは、いかなる点においても、あなたがたが自分の信仰の健全さから離れないようにするためである。

 4. しかし、こうした苦情が生ずるのは、しばしば偶像礼拝からである。多くの人々は、神以外の何か他のものに心をささげ、天にあるものではなく[コロ3:2]、地上のものに愛情を傾けている。世を愛しつつキリストを愛するのは困難なこと、不可能なことである。だが、被造物を愛さずにいることは難しい。地上に自分をささげずにいることは難しい。ほとんど、そうしないでいることは不可能であると云いたいほどである。それは困難であって、ただ神だけが私たちにそうさせることがおできになる。神だけが私たちを――私たちの心を――堅くご自分に据えさせたまま、守ることがおできになる。だが注意するがいい。私たちが金の子牛を造るときには常に、遅かれ早かれ、こうなるということに。――その子牛は粉々にすりつぶされ、それを混ぜ合わされた水を私たちは飲まされるのである[出32:20参照]。そのとき私たちはこう云わざるをえないであろう。「主は苦よもぎで私を酔わせた」*[哀3:15]。人が自分のために偶像を造って拝もうとするとき、必ずやそれは本人の上に転がり落ちて、その骨を何本か砕くことになる。道をそれて、こわれた水ため[エレ2:13]のもとに行った者のうち、そこに水を見いだした者はいまだかつてひとりもいない。むしろ、水の代わりに厭わしい生き物を見いだして、痛烈に裏切られた者たちばかりであった。神はご自分の民がご自分に――ご自分だけに――より頼んで生きるようになされ、もし彼らがご自分以外の何か他のものを頼んで生きようとすると、彼らがマラの水[出15:23]を得るように念入りにお定めになっておられる。そのように彼らの飲み水を苦くし、彼らを清冽きわなりない流れの《岩》へと追いやるためである。おゝ、愛する方々。私たちは注意して、自分の心が完全に神のもの、キリストのもの、キリストだけのものとなるようにしよう! もしそうなっているとしたら、私たちはこう叫ばなくともよいであろう。「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに」!

 5. しかしながら、私たちは、これ以上くどくど理由をあげる必要はほとんどあるまい。もう1つだけあげることにしよう。それは最もざらに見受けられるものである。ことによると、私たちは、自分に自信を持ち、自分を義とする者になってしまったのかもしれない。もしそうなら、それこそ私たちが昔の月日のようでない理由である。あゝ! 愛する方々。かの昔なじみのごろつき、自己義を、生きている限り決してあなたは追い払うことができない。悪魔が蛇のかたちで描かれたのはよくしたものである。なぜなら、蛇はいかに狭い隙間であれ、どこにでももぐり込めるからである。自分を義とする思いは蛇である。それはどこにでも入り込む。あなたがあなたの神に仕えようとしていると、「お前は何と素晴らしい奴なんだ」、と悪魔は云う。「あゝ! お前は神に対して何と良い奉仕をしていることか! お前は常に説教している。お前は立派な奴だ」。祈祷会に行くと、神があなたにちょっとした賜物を与えてくださり、あなたは自分の心を注ぎ出して祈ることができる。たちまちサタンが満足げに背中を叩いてくる。「お前は上手に祈れたなあ。兄弟たちはお前にうっとりするだろうぜ。お前は恵みにおいてぐんぐん成長しているのだ」。誘惑がやって来て、それに抵抗することができると、「あゝ!」、と彼はたちまち云う。「お前は本物の十字架の兵士だ。お前が叩きのめした敵を見るがいい。お前はやがて輝く冠を与えられるだろうよ。お前は勇敢な奴だ!」 絶対的に神に信頼し続けていると、サタンは云う。「お前の信仰はとても強いぞ。どんな試練もお前に打ち勝つことはできない。そこには、もっと弱い兄弟がいるが、あれはお前の半分ほども強くないのだ」。行くがいい、そして、お前の弱い兄弟を叱りつけてやるがいい。彼はお前よりも小人物なのだから。そして、その間ずっとサタンはあなたを元気づかせて、こう云い続けている。「お前は何と強大な戦士なのだろう! 何と忠実なのだろう――常に神に信頼している。お前には自分を義とする思いが全くない」。この教役者はパリサイ人に向かって説教しているのだ。だが、パリサイ人とお前はこれっぽっちも似通ったところがない。お前は自分で自分を義とするようなところが何もない。だが、その間ずっとあなたは、この世に存在するいかなる者にもまして、最も自分を義としているのである。あゝ! 愛する方々。私たちは、自分が謙遜だと考えているまさにそのとき、確実に高ぶっているのである。自分の高慢について呻いているとき、一般には最も謙遜なのである。過去の自分自身の評価を辿ってみるとよい。私たちは、自分が最悪だと想像していたとき、しばしば最上であり、自分が最上だと思い込んでいたとき、しばしば最悪なのである。この忌まわしい自己義こそ、私たちの魂の中にもぐり込み、私たちにぶくつさ云わせているのである。「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに!」、と。あなたのろうそくには、自分を義とする臭気がしている。あなたはそれを取り去りたいと思う。そのときあなたは全く問題なく燃えるであろう。あなたは高く上りすぎている。あなたには、《救い主》の足元にあなたを、あわれな、失われた、咎ある罪人として――無に等しい者として――引き降ろすものが何か必要である。そのときあなたは、もはやこのように叫ばないであろう。「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに」!

 III. さてこれから、しめくくりとして《勧告》を述べたい。

 まず最初に、慰めとなる勧告である。ある人は云っている。「おゝ! 私はこれから二度と今よりも幸いな状態にはならないのだ。私は御顔の光を失ってしまった。神は私のもとからきれいさっぱりいなくなってしまった。それで私は滅びるのだ」。あなたはジョン・バニヤンの『天路歴程』の中にある、鉄の檻に閉じ込められている人の描写を思い出すであろう。ある人が彼に云う。「あなたは、この檻から出て来られないのですか?」 「はい。絶対に」。「あなたは永遠に断罪されているのですか?」 「そうです」。「なぜそのようなことになったのですか?」 「なぜかというと、私は御霊を憂えさせては、それに去られたのです。私は一度は彼を愛していると思っていましたが、彼を軽んじて扱ったので、彼は去ってしまったのです。私は義の通り道からそれてしまい、今はここに閉じ込められて、出てくることができないのです」。しかり。だがジョン・バニヤンは、その男が決して外に出て来なかったと云っているだろうか? その檻の中にいた人々の中には、外に出て来た者たちがいたのである。今朝この場にいるある人は、長い間その鉄の檻の中に座り込んでいて、鉄格子をがたがた云わせては、それを破ろう、自分のか弱い力と膂力を使って削り切ろうとしてきたかもしれない。おゝ! 愛する方々。あなたは決して、このすさまじい檻の鉄格子を削り切ることはないであろう。あなたは決して自分の力で脱出することはないであろう。あなたは何をしなくてはならないだろうか? 篭の中に入れられた鳥のように歌うことから始めなくてはならない。そうすれば、優しい主人がやって来て、あなたを放してくださるであろう。彼に向かって解放してくださいと叫ぶがいい。そうすれば、あなたが泣いて、叫んで、彼があなたの祈りをさえぎろうとも、彼はやがてあなたに聞いてくださるであろう。そして、ヨナのようにあなたは、来たるべき日にはこう叫ぶであろう。「私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました」[ヨナ2:2]。あなたは、《難儀が丘》の下で巻物を落としていたとしても、腰掛の下に、かの巻物を見つけるであろう。そして、あなたがそれを懐に再び収めて、一時の間なくしてしまったために、今まで以上にそれをしかとかかえるとき、

   「さまよう者よ、とく帰り来て
    見よや、傷つく 父の御顔を。
    汝が胸に燃ゆ あつき願いは
    正す恵みの 点火(つ)けしものなり」。

 さて、もう1つの勧告は、あなたを慰めるというよりは、あるべき姿をさらに目指すよう、あなたを一層かき立てることである。おゝ、キリスト者たる人よ。イエス・キリストを信ずる信仰における私の兄弟姉妹たち! あなたがたの中の何人が、ただ救われるだけで満足し、天国に入れさえすればいいなどと考えているだろうか? 一体、何人の人がこう云っているだろうか? 「おゝ! かの扉の中に入れさえすれば――私が神の子どもになれさえしたら!」、と。そして、彼らは自分たちの望みを文字通り実現する。彼らは、可能な限り最も卑小なキリスト者となるからである。彼らは、キリスト教信仰においてほどほどでありたいという! しかし、キリスト教信仰においてほどほどにするとはどういうことだろうか? それは嘘である。茶番である。妻が夫に対して、ほどほどの愛情を求めたりするだろうか? 親が子どもに向かって、ほどほどに従順であれと期待したりするだろうか? あなたは、自分の召使いたちがほどほどに正直であることを求めるだろうか? 否! ならば、いかにしてあなたは、信仰もほどほどにしようなどと語れるのか? ほどほどの信仰をしているとは、信仰がないということである。人生の中心に入り込んで、影響を及ぼさないようなキリスト教信仰など、実質的にはキリスト教信仰でも何でもない。時として私は、あなたがたの中のある人々が口先だけの信仰告白者であると考えておののくときがある。あなたがた、白く塗った墓たち[マタ23:27]。あなたがたは自分たちが真っ白に塗られているからといって満ち足りている。満足している。そして、内部の納骨所をのぞき込むことをしない。あなたがたの中のいかに多くが、杯や皿の外側をきよめていることか[マタ23:25]。そして、教会が何1つあなたを責めることがなく、世間が何1つあなたに後ろ指させないからといって、杯の外側だけで十分だと考えている。用心するがいい! 用心するがいい! いつの日か、審き主が杯や皿の中をのぞき込むであろう。そして、もしそこが邪悪さで一杯であったとしたら、彼はその皿を割り、その破片を永遠に苦悶の穴の中に撒き散らすであろう。おゝ! 願わくは神があなたを本物のキリスト者にしてくださるように! 蝋づけの翼をした信仰告白者よ! あなたがたは地上では非常にうまく飛んでいられるが、イカロスのように上昇していくとき、イエスという強烈な太陽があなたの翼を溶かしてしまい、あなたがたは滅びの穴の中に落ちていくであろう。あゝ! 金鍍金をしたキリスト者たち。美しく上塗りされ、磨きをかけられ、つや出し仕上げをされたあなたがたは、最後になって価値のない金属であることが見いだされるとき、何をしようというのか? 木、草、わらなど[Iコリ3:12]が焼きつくされるとき、もしあなたが天国の純粋な貨幣ではなく、炉の中で鋳られたことがなく、いと高きお方によって鋳造されていなかったとしたら、どうしようというのか? もしあなたが本物の金でないとしたら、かの「主の大いなる恐るべき日」[ヨエ2:31]の炎に、どうやって耐えられるだろうか? あゝ! だが、あなたがたの中には、その炎に耐えられる人々がいると私は思いたい。あなたがたは神の子らである。だが、愛する方々。こう云っても見当はずれではないと思うが、私たちの中の多くの者らが知るように、私たちは神の子らではあっても、ちびた小人の子どもたちであることに満足しており、常にこう泣き叫んでいるのである。「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに」! これこそ、小人めいている目印である。もし私たちがこの世の中で偉大なことを行なおうとしているとしたら、このような叫びはめったにあげない違いない。私たちはしばしばこう歌っているに違いない。

「われ罪人の かしらなるとも/イエスわがために 死にたまいけり」。

そして、朗らかな顔つきで、自分は「自分の信じて来た方をよく知っています」*[IIテモ1:12]と云えるに違いない。あなたは用いられたいだろうか? 自分の《主人》の誉れを現わしたいと願うだろうか? 重い冠を天国まで運んで行き、それを《救い主》の頭に載せたいと切望しているだろうか? そうだとしたら――そして私は、あなたがそう望んでいると知っているが――、何にもまして、あなたの魂が生き生きと、また健やかに成長するようにするがいい。――あなたの内なる人が、生命を維持するだけにとどまらず、水路のそばに植わった木のようになり、時が来ると実をならせ、その葉が枯れず、何をしても栄えるようにすることである[詩1:3]。あゝ! あなたは天国に行って、そこで、星のついていない冠をかぶりたいだろうか?――本物の冠ではあっても、あなたによって救われた魂が1つもなかったがために、何の星もついていない冠をかぶりたいだろうか? あなたが天国で席に着くときまといたいのは、キリストの衣ではあっても、この地上での報いとして神から与えられた宝石が1つもついていない衣だろうか? あゝ! 否。思うに、あなたは全き衣をまとって天国に行き、主の全き喜びに入りたいと願っているはずである。五タラントを活用すれば、五つの町である。では、だれも自分の1タラントだけで満足したりせず、それで利益を生むようにするがいい。「持っている者は、与えられて豊かになる」[マタ25:29]からである。

 そして最後に、あなたがたの中の多くの人々にとって、私が説教してきたことは、全く何の関わりも持っていない。ことによると、あなたは云っているかもしれない。「『ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに!』 あの頃なら私は、からだも元気で、陽気にしていられたのだから。あの頃なら、どんな無茶な酒飲みとも、どこでだって酒を飲めた。あの頃なら、愉快に罪に没入できた。だが今の私にはそれができない。からだをこわしてしまった。精神を害してしまった。もう以前の自分ではない。金を使い果たしてしまった。私が昔の月日のようであったらよいのに!」、と。あゝ! あわれな罪人よ。あなたには、「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに!」、と云うべき立派な理由がある。しかし、四、五分待ってほしい。そうすればあなたは、この言葉を、より一層切実に云うことであろう。かの日よりも今日の方がましだとさえ思うであろう。そして、先へ進めば進むほど、あなたは昔に戻りたいと思うであろう。というのも、地獄への通り道は下って、下って、下って、下って――常に下り坂で――、あなたは常に、「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに!」、と云っているだろうからである。あなたは、母親の祈りがあなたを祝福し、父親の叱責があなたを警告していた頃を――あなたが日曜学校に通い、あなたの母の膝に座って、《救い主》の話を聞かせてもらっていた頃を振り返るであろう。そして、良かったときのことを思い起こすのが長ければ長いほど、それにより苦痛を与えられるであろう。あゝ! 愛する方々。あなたがたは――あなたがたの中のある人々は――、立ち返る必要がある。自分がいかに遠くまで落ちてしまったか――いかに遠く離れてしまったかを思い出すがいい。だが、おゝ! あなたがたは振り返る必要もない! 後ろを向いて、「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに!」、と叫ぶ代わりに、もっと別のことを云うがいい。こう云うがいい。「ああ、できれば、私は、キリスト・イエスにある新しい人であったらよいのに」、と。現在の状態のまま最初からやり直したところで、それは何の役にも立たない。すぐにあなたは、今と同じくらい悪くなってしまうであろう。むしろ、云うがいい。「ああ、できれば、私は、キリスト・イエスにある新しい人であったらよいのに。ああ、できれば、新しい人生を始められたらよいのに!」、と。あなたがたの中のある人々は、新しく人生を始めたいと願っている。――あなたがたの中の、堕落した者たち、はるか遠くまで行ってしまった者たち! よろしい。あわれな定命の者よ。あなたはそうすることができる。「どうやって?」、とあなたは云う。左様。もしあなたがキリスト・イエスにあって新しい人になるなら、あなたは確実にやり直すことができる。キリスト者は、それまでいかなる人でもなかったも同然に新しい人なのである。古い被造物は退位させられており、その人は新しく造られた者、新しく生まれた者、新しい存在を始めた者なのである。あわれな魂よ! 神はあなたを新しい人にすることがおできになる。聖霊なる神は、あなたをもとに新しい家を建てることがおできになる。そこには古い人の棒材や石材は何1つ含まれていない。そして御霊は、あなたに新しい心を与えることがおできになる。新しい霊、新しい喜び、新しい幸せ、新しい望み、そして最後には、新しい天を与えることがおできになる。「しかし」、とある人は云う。「私はこうしたことが必要だと感じてはいますが、私にそれが持てるでしょうか?」 あなたにそれが持てるかどうか、この言葉を聞いて考えてみるがいい。――「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」[Iテモ1:15]。それは、ある程度まで受け入れるに値するものであると云ってはいない。あなたがたが、そのまま受け入れるに値すると云っているのである。もし今あなたが、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。私はそれを信ずる! 私はキリストがそうされたことを知っている。キリストは私を救うために来られたのだ」、と云うなら、あなたは、それが「そのまま受け入れるに値するもの」であることに気づくであろう。それでもあなたは、「でも、キリストは私を救ってくださるでしょうか?」、と云う。私はもう一箇所あなたに告げよう。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。あゝ! ですが、私は、私などが来てよいかわからないのです。「決して」、とこの言葉は云っている。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。「ほしい者は来なさい」、と書かれている。あなたはほしがっているだろうか? 私が語りかけているのは、ほしがっている人々、自分が《救い主》を必要としていることを知っている人々だけである。あなたは、ほしがっているだろうか? ならば、聖霊なる神は云っておられる。「いのちの水がほしい者は、来て、それをただで受けなさい」*[黙22:17]。

   「虚弱(よわ)く咎ある 孤独(さびし)き者よ、
    来たらばイエスは 蔑みまさじ。
    むしろ受け入れ 祝し救わん
    死と滅びより、地獄(よみ)と墓より」。

そしてイエスは、彼らをご自分の栄光の御国へと引き上げてくださる。願わくは神が、その御名のゆえに、この恵みを与え給わんことを。

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意気阻喪した人への慰め[了]

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