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聖霊――偉大な教師

NO. 50

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1855年11月18日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです」。――ヨハ16:13


 今の時代は、徐々に、またほとんど気づかないうちに、はなはだしく不敬虔な時代になってきている。現在の時代における人類の病の1つは、彼らのひそかな、だが深く根ざした不敬虔さである。それによって彼らは、神を知る知識[コロ1:10]からはるかに遠く離れてしまった。科学は数々の第二原因を私たちの前で発見しつつある。それによって多くの人々は、第一の《偉大な原因》、万物の《創始者》をあまりにも忘れてしまった。人は種々の秘密を窺い知ることができるようになったがために、ひとりの神が存在しておられるという偉大な公理を軽視しすぎるようになっている。信仰を告白するキリスト者たちの間でさえ、そこにはキリスト教信仰のかたちが大いに見られる一方で、はなはだ敬虔さが欠けている。外的に形式張ることは大いになされているが、内面で神を認めることがあまりにも少なく、神に立って生きること、神とともに生きること、神により頼むことはあまりにも少ない。ここから悲しい事実が生じている。すなわち、わが国の礼拝所の多くに入ると、確かに神の御名が口にされてはいるものの、祝祷のときを除いて、《三位一体》の神がおられることがほとんどわからない、ということである。エホバにささげられている多くの場所で、イエスの御名はあまりにもしばしば押し隠されている。聖霊はほとんど全く無視されている。そして、御霊の聖なる影響力についてはきわめて僅かしか語られない。信心深い人々でさえ、この時代には、相当ひどく不敬虔になってしまっている。私たちは悲しいほどに、神に関する説教をいやまさって必要としている。救われるべき被造物ではなく、賞揚されるべき《大いなるお方》としての神に重点を置いた説教を、いやまさって必要としている。私の堅く信ずるところ、私たちは、聖なる神格、驚嘆すべき《一致せる三位一体》を尊重すればするほど、神の御力がより大きく示されるのを見ることになり、神の威力が私たちの諸教会でより輝かしく現わされるのを見ることになる。願わくは神が私たちに、キリストをあがめ、御霊を愛する牧会を行なう人々を送ってくださるように。――聖霊なる神をそのあらゆる職務において宣言し、《救い主》なる神を私たちの信仰の創始者であり完成者[ヘブ12:2]として賞揚し、かの偉大なる神、御民の御父、すべての世に先立って私たちを御子キリストにあって選び、その義によって私たちを義と認め、最後まで私たちを保って、最後の偉大な日に万物が完成するとき、私たちを1つに集めてくださるお方をないがしろにしない人々を送ってくださるように。

 本日の聖句は、聖霊なる神に関するものである。このお方の甘やかな影響力が私たちの上にとどまる限りにおいて、私たちは、このお方について、また、このお方についてのみ語りたいと思う。

 弟子たちは、ある程度の初歩的な教理については、すでにキリストから手ほどきを受けていた。だが、イエスはその弟子たちに、いわゆるキリスト教信仰のイロハ以上のことは教えておられなかった。主はその理由を12節で告げておられる。「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません」。主の弟子たちは、御霊の持ち主ではなかった。彼らは、回心の働きに関するところまでは御霊を有していたが、輝かしい照明や、深遠な教えや、預言や、霊感に関わる事がらについてはそうではなかった。主は云っておられる。「わたしはいま離れて行こうとしている。そして、あなたがたのもとから去るとき、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わす。今あなたがたは、これらのことに耐える力がない。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れるのだ」[ヨハ16:5-13参照]、と。主がその使徒たちに与えられた同じ約束は、主の子ら全員にとっても依然として真実である。この約束の吟味にあたり、私たちは、これを自分たちの分け前であり、相続財産であると受け取るものであり、決して使徒たちの領分に闖入したり、彼らの独占的な権利や特権に足を踏み入れたりしているとは考えない。イエスは私たちに対してもこう云っておられると思うからである。「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」。

 本日の聖句だけに話を絞ることにして、私たちは5つのことを考えたい。まず第一に、ここには1つのことが達成されると云われている。――すべての真理を知ることである。第二に、ここには1つの困難が示唆されている。――すなわち、私たちがすべての真理に入るには導きが必要である。第三に、ここにはひとりのお方が与えられている。――「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」。第四に、ここには方法が暗示されている。――「あなたがたをすべての真理に導き入れます」。第五に、ここには御霊の働きのしるしが示されている。――私たちは、御霊が働いておられるかどうかをこう見分けることができる。御霊は「私たちをすべての真理に導き入れて」おられるか。――すべてに――いくつかの真理ではなく真理に――導き入れておられるか。

 I. ここには、《1つのことが達成されると云われている》。知っての通り、ある人々は、教理的知識などほとんど重要ではなく、実際的には無用の長物だと思っている。私たちはそうは考えない。私たちの信ずるところ、十字架につけられたキリストという科学および聖書の教えをよく調べることは、この上もなく有益なものである。私たちの見るところ、キリスト教の牧会活動が単に人を刺激するだけでなく教化するものであること、ただ覚醒させるだけでなく啓蒙するものであること、単に情動に訴えるだけでなく理性に訴えるものであることは正しい。私たちは、ただ教理的知識に二義的な重要性があると考えるどころではない。私たちの信ずるところ、キリスト者生活における最優先事項の1つは、真理を知り、それを実践することである。今朝、御国の事がらにおいてよく教えを受けることが私たちにとっていかに望ましいことか、あなたがたに告げる必要はほとんどないであろう。

 まず第一に、天性そのものが(恵みによって聖められているときには)すべての真理を知りたいという強い願いを与えている。生まれながらの人は、おのれを切り離し、すべての知識に干渉する[箴18:1 <英欽定訳>]。神は1つの本能を人に与えておられ、それによって人は、神秘をその根源まで突きとめない限り満足できない。秘密の謎が解けるまで決して満たされない。私たちが好奇心と呼ぶのは、神から与えられた衝動の1つで、世の物事に関する知的探求へと私たちを駆り立てるものである。その好奇心は、御霊によって聖められると、天的な科学や天界の知恵に関する問題に向かわされる。「わがたましいよ」、とダビデは云う。「主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ」[詩103:1]。もし好奇心が私たちのうちにあるとしたら、それは真理の探究のために用いられ、発達させられなくてはならない。御霊によって聖められた「私のうちにあるすべてのもの」が発達させられるべきである。そして、実際キリスト者となった人は、自分の無知を葬り去り、知恵を得たいという強い渇望を覚えるものである。もしその人が、生まれながらの状態にあってさえ、地上的な知識をあえぎ求めていたとしたら、神のことばの神聖な奥義を、可能な限り解きほぐしたいという願いは、いかにいやまさって熱烈なものとなることか! 真のキリスト者は、常に聖書を熱心に読み、調べている。それは、その主たる枢要な諸真理について自分で立証できるようになるためである。私は、教理を理解したいと思わないような人にはあまり感心しない。自分が虚偽を信じていようが真理を信じていようが、異端的であろうが正統的であろうが、神のことばを書かれた通りのものとして受け入れていようが人間によって水増しにされて誤り解釈されたものとして受け入れていようが、どうでもよいと考えるような人が正しい立場にあるとは私には思えない。神のことばは、キリスト者にとっては常に、非常な熱望の的であろう。キリスト者は、内なる聖い本能に導かれて聖書を詮索し、それを理解しようとするものである。おゝ! 一部の人々は、このことを忘れている。いわゆる高踏的な諸教理に言及することを故意に避けようとする人々がいる。高踏的な教理に言及するのは危険だからだといって、それらを押し隠すのである。愚か者たち! こうした人々は、人間の性質について全然わかっていない。というのも、これっぽっちでも人間性について理解していたとしたら、こうした事がらを隠すのは、それらを探求させるように人を駆り立てるも同然だとわかったはずである。こうした人々は、それらについて言及しないという事実によって、それらが口にされ、それらだけが宣べ伝えられている場所へと人を追いやっているのである。こうした人々は云う。「もし私が選びや、予定や、こうした謎めいた事がらについて説教したら、人々はみな即座に出て行って、無律法主義者になってしまうだろう」。私は、そうした人々を無律法主義者と呼んでも、痛くもかゆくもないのではないかという気がしないでもないが、ともかく聞くがいい。おゝ、あなたがた、こうした真理を包み隠している教役者たち。こうした諸教理について沈黙しておくこと、それこそ彼らを無律法主義者にする方法にほかならない。好奇心は強いものである。その真理をひったくってはならないと告げたなら、人は確実にそうするであろう。だが、もしあなたがそれを、神のことばの中であなたが見いだす通りに伝えるたしたら、彼らはそれを「もぎ取ろう」とはしないであろう。光を受けた人々は真理を得ようとするものであり、もし彼らが聖書の中に選びを見てとるとしたら、こう云うであろう。「ここに書いているではないか。ならば、私はどういうことかつきとめることにしよう。もしある場所でそれを教えてもらえなければ、別の場所に行って教えてもらうだけだ」、と。真のキリスト者には、それを求める内なる切望と熱望がある。その人は、義のことばに飢え渇いており、この天のパンで養われる必要があり、ぜがひでも養われようとする。さもなければ、いかなる危険が降りかかろうとも、不健全な教職が彼らに差し出す豆かすなど捨てて行こうとするであろう。

 このことを達成するのが願わしいのは、天性がそうするよう教えているからばかりでなく、真理の知識こそ私たちの慰めにとって必須のものだからである。私が真実信ずるところ、多くの人々がその一生の半分を苦悩のうちに過ごすのは、真理について明確な見方をしていないという事実から来ている。例えば、多くのあわれな魂は、罪の確信のもとにあって、悲嘆に暮れた思いで長い間過ごすが、もし義認という大問題についてだれかから指導を受けていたとしたら、その期間は三分の一から四分の一で済んでいたはずである。それと同じく、ある信仰者たちは、しばしば自分が転落するのではないかと悩んでいる。だが、もしその魂の中に、私たちは信仰により、神の恵みによって守られており、救いをいただくのだ[Iペテ1:5参照]という大いなる慰めがあったとしたら、彼らは二度とそのことで悩みはしないであろう。それと同じくらいよく見受けられるのは、赦されざる罪について苦悩している人々である。だが、もし神がその教理について教えてくださり、真に覚醒されたいかなる良心もその罪を犯すことがありえないこと、むしろ、それが犯されるとき神は私たちを無感覚な良心に引き渡し、私たちは決して後で恐れることもおののくこともないことを示してくださるとしたら、そうした苦悩は楽にされるであろう。嘘ではない。あなたが神の真理を知れば知るほど――他のすべての事がらが等しければ――あなたはキリスト者として、より安楽になっていくであろう。この世の何にもまして大きな光をあなたの通り道に与えることができるのは、天来の事がらに関する明確な理解にほかならない。昨今宣べ伝えられるのが通弊となっているような、ごたまぜの「福音」こそ、キリスト者たちに憂鬱な顔つきをさせているものなのである。喜びに顔を輝かし、福音の響きに目をきらめかせている会衆がいる場合、私は、神ご自身のことばを彼らが受けていると確信するであろう。そうしたものとは違って、あなたがしばしば目にするのは、陰鬱な会衆である。その顔は薬を呑まされつつあるあわれな者らの苦々しい顔と大差ない。なぜなら、語られている言葉が、その恵みによって彼らを慰める代わりに、その律法主義によって彼らを怖がらせているからである。私たちが愛するのは朗らかな福音であり、「すべての真理」にはキリスト者を慰める傾向があるだろうと私たちは思う。

 「また慰めか」、と別の人は云う。「年がら年中、慰めばかりだ」、と。あゝ、だが私たちが真理を尊ぶ理由はもう1つある。私たちの信ずるところ、すべての真理を真に知ることは、私たちを非常に多くの危険から守ってくれる。何にもまして人を罪から保護するであろう教理は、神の恵みの教理である。これを放縦な教理と呼ぶ人は、この教理について全く何も知らないのである。あわれな無知の輩たち。彼らがほとんどわかっていないのは、彼ら自身の邪悪なしろものこそ、天の下にある中でも最も放縦な教理だということである。もし神の恵みを本当に知っていたとしたら、彼らはたちまち見てとるであろう。私たちが嘘をつくのを防ぐ最上のものは、私たちが世界の基の置かれる前から神によって選ばれた者だという知識にほかならない、と。感謝の念という単純な動機だけからしても、私の永遠の堅忍と、私の御父の愛情の不変性ほど、私を神に近くいさせることができるものはない。神の真理の近くにとどまり、神のことばの近くにとどまるがいい。頭を正しく保っているがいい。そして特に、あなたの心を真理について正しく保っておくがいい。そうすれば、あなたの足はさほど大きく道から離れることはないであろう。

 さらにまた、すべての真理を知るのを達成することが非常に望ましいと主張したい理由は、それが世の中全般において、私たちを用いられる者とするからでもある。私たちは利己的であるべきではない。あることが他の人々の益となるかどうかを常に考えているべきである。すべての真理を知れば、私たちは、この世で非常に役に立つ者となるであろう。熟練した医者となるであろう。いかにすればあわれな苦悩する魂をわきに連れ出し、その目に指を当てて、そのうろこを取り去って、天の光の慰めを受けられるようにできるかを熟知した医者となるであろう。いかなる性格の人であれ、いかに困惑させられる特殊な状態の人であれ、私たちは、その人に語りかけ、慰めることができる。真理を保持している人は、普通、最も用いられる人である。ひとりの善良な長老派の兄弟が、いつだったか私にこう云った。「私も神があなたをことのほか祝福してくださって多くの魂を取り入れさせておられることは承知しています。ですが、尋常ならざる事実は、私の知る限り、魂の取り入れにおいて用いられているすべての人が――ほぼひとりの例外もなく――、神の恵みという大いなる教理をいだいているということなのです」。教会を生き生きと成長させ、建て上げていることにおいて、神の祝福を受けており、人々がその回りに群がっている人はみな、終始一貫して、キリストの完成された救いによる、無代価の恵みを信奉している。用いられるためには、過誤を含んだ教理を有している必要があるなどと考えてはならない。一部の教職者たちは、その説教の前半ではカルヴァン主義を説き教えながら、アルミニウス主義でしめくくっている。そうすることで用いられるだろうと考えているからである。用いられるものか!――断言しよう。真理によって用いられない人が、過誤によって用いられる人にはならない。神の純粋な教理は、異端的な教えを持ち込まなくとも、十分罪人に対して宣べ伝えることができる。私の知る限り、私はこれまでの一生の間、一度も罪人に語りかけるのに妨げを感じたり、狭苦しく感じたことはない。私は、様式こそ違え、説教する際の熱烈さということでは、神の真理について正反対の考えをいだく人々におさおさ劣ってはいない。神のことばを保っていさえすれば、人々に語りかけるのに何も不真実なことをつけ加える必要はない。神の剛毅な真理は、あらゆる人の心のすべての琴線に触れるものである。もし私たちが、神の恵みによって、人の心に手を差し入れることができるとしたら、その人を心底から感動させ、心を動かすのに必要なものは真理の全体だけである。本物の真理と、真理の全体ほど人を用いられるようにするものはない。

 II. さて、さらにここには、1つの《困難が示唆されている》。すなわち、――私たちには、私たちを真理に導き入れる導き手が必要だ、ということである。この世に生まれ出たいかなる人も、生まれつき心に真理を有してはいない。これまで形作られたいかなる被造物も、堕落の後では、生得的で天性的に真理の知識を有してはいない。そもそも生得観念なるものがあるかどうかすら、哲学者たちの論議するところである。だが、全く論議する必要もないのは、真理の生得観念があるかどうかである。そのようなものは何1つない。あらゆることについて、そこには誤った、また悪の観念しかない。むしろ私たちのうち、すなわち、私たちの肉のうちにはが住んでいない[ロマ7:18]。私たちは罪ある者として生まれ、咎ある者として産み落とされ、罪ある者として母は私たちをみごもった[詩51:5]。私たちのうちには何も善なるものはなく、義へ向かう傾向は全くない。ならば私たちは、真理とともに生まれていない以上、それを探り求める務めがある。もし私たちがキリスト者としてこの上もなく役立つ者となるという祝福を受けたければ、啓示された事がらにおいてよく教えを受けなくてはならない。だが、ここに困難がある。――私たちは導き手がいなければ、真理の曲がりくねった通り道を辿ることができないのである。なぜだろうか?

 第一に、真理そのものの尋常ならざる複雑さのためである。真理そのものが、決して簡単に発見できるものではない。自分は何もかも知っているのだと思い込み、「われわれこそ人だ。われわれが死ぬと、知恵も共に死ぬ」*[ヨブ12:2]、というような精神で、四六時中、独断的な物云いをしている人は、もちろんいかなる思想体系を信奉していようと何の困難も見てとらない。だが、私の信ずるところ、最も真剣に聖書を学ぶ人は、聖書の中に見いだすものによって途方に暮れるであろう。聖書をいかに真剣に読んでも、深遠すぎて理解できない神秘を見いだすであろう。その人はこう叫ぶであろう。「真理よ! 私はお前を見いだすことができない。お前がどこにいるかわからない。お前に手が届かない。お前を見抜くことができない」。真理は非常に狭い通り道であって、ふたりの者が一緒には歩けない。狭い道は、普通、一列縦隊で歩くものである。そのように、ふたりの人が腕を組んで真理を歩けることはめったにない。大筋では同じ真理を信じている人も、一緒にその通り道を歩くことはできない。それは狭すぎるのである。真理の道は非常に険しい。ほんの一吋でも右にそれれば危険な過誤に陥り、少しでも左側に外れれば同じくらい容易に沼沢に落ち込んでしまう。一方には切り立った断崖絶壁があり、もう一方には底なしの泥沼がある。髪の毛一筋でも正しい線に沿っていない限り、道に迷ってしまう。真理は実に狭い通り道である。それは鷲の目すら見てとったことのない通り道であり、潜水夫も訪れたことのない深淵である。それは、鉱山にある金属の鉱脈のようであって、しばしば、これ以上ないほどに薄い。そればかりか、1つの層に連続して走ってはいない。いったんそれを見失うと、何哩掘り進んでも二度と見つけられないことがある。目を凝らして不断にその鉱脈の方向に注意していなくてはならない。真理の粒子は、オーストラリアの河川にある金の粒のようなものである。――忍耐強くふるいにかけて、誠実という流れで洗わなければ、純金が砂と混じり合ってしまう。真理はしばしば過誤と混じり合っており、それを識別するのは並大抵のことではない。だが、神はほむべきかな。こう云われているのである。「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」。

 私たちが導き手を必要とする別の理由は、過誤の油断ならなさである。過誤はしきりに私たちに忍び寄って来る。しばしば私たちは、こう評してよければ、あの途方もない霧に包まれた木曜の夜のようになってしまう。あのとき私たちの中のほとんどの者は、ただ手探りするばかりで、一体全体自分はどこにいるのかと思い惑った。鼻先の一吋ほども見えなかった。三叉路のある場所に来た。なじみの場所なのでよくわかっていると思った。そこに街灯があった。さあ、左に大きく曲がればよいのだ。だが、そうではない。小さく右へ行くべきだったのである。私たちは、敷石の一枚一枚を知っていると思えるほど何度も同じ場所に来たことがあるし、通りの真向こうには自分の友人の店がある。暗くはあっても、自分が全く正しいと思う。だがその間ずっと私たちは、完全に道を間違えており、半哩も道をそれていたことに気づくのである。真理という問題も同じである。私たちは、これが正しい通り道に違いないと考え、悪い者の声も、「それが道だ。これに歩め」、と囁く。ところが、そうすると、非常にうろたえ落胆させられることに、真理の通り道どころか、不義と過誤の教理の通り道を歩んでしまっているのである。いのちの道は迷宮である。緑を敷きつめた、最もうっとりさせられる通り道は正道から最も遠く、最も気をひくような道は、数々の歪曲された真理で飾り立てられている。私の信ずるところ、ある種の過誤は、贋金が本物の貨幣に似ているのと全く同じくらい真理に似ている。一方は卑金属であり、もう一方は本物の金だが、外見上は瓜二つなのである。

 また、やはり私たちが導き手を必要とするのは、私たちが道をはずれがちであるからである。左様。たとい天国の通り道が、バニヤンが描写したほど真っ直ぐで、右にも左にも曲がっていないとしても――そして疑いもなくその道はそうしたものであるが――、私たちはあまりにも道をそれやすく、右手の《滅びの山々》に向かうか、左手の暗い《荒らしが森》へと向かってしまう。ダビデは云う。「私は、滅びる羊のように、迷い出ました」[詩119:176]。これは、ごく頻繁にそうなるということである。もし羊が野原に二十回置かれるとして、それが二十一回外に出てこないとしたら、それは羊がそうできないからである。その場所が垣で囲まれ、その羊には垣根に穴を見つけられなかったのである。もし恵みが人を導かないとしたら、たとい天国への道すべてに道標があったとしても、その人は道をそれてしまうであろう。たとい、「のがれの町、のがれの町、のがれの町はこちら」と記されていても、その人は脇へそれて、血の復讐者に追いつかれてしまうであろう[民35:27]。そうされないためには、だれか導き手が、ソドムでの御使いのように、その手をその人の肩にかけて、こう叫ぶしかない。「逃げなさい。いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない」*[創19:17]。こういうわけで、これらが、私たちが導き手を必要とする理由である。

 III. 三番目のこととして、ここには《ひとりのお方が与えられている》。それは神以外の何者でもなく、この神は一個の人格にほかならない。この人格とは、「その方、すなわち……御霊」、「真理の御霊」であられる。ただの影響力でも神からの流出物でもなく、現実の一人格であられる。「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」。さて、私があなたがたに望みたいのは、この導き手を眺めて、いかにこの方が私たちにうってつけのお方であるかを考えてみることである。

 第一のこととして、この方は無謬であられる。この方は何でも知っておられ、私たちを踏み迷わせることがありえない。たとい私が、自分の袖を別の人の外套に刺し通しておくとしても、その人は、道の半ばまでは私を正しく導いてくれるかもしれないが、やがて自分でも誤った道に向かい始め、私はその人とともに踏み迷ってしまうであろう。だが、もし私が聖霊に自分をゆだね、その導きを乞い求めるとしたら、私が脇道へそれる恐れは何もない。

 また、この御霊がありがたいのは、常にそこにいてくださるからである。私たちは時々困難に陥る。私たちは云う。「おゝ、もしこの問題を私の教役者のもとに持って行けたら、それを説明してくれるだろうに。だが私はあまりにも遠くに住んでいるので、会いに行くことはできない」。そこで私たちはまごつかされ、その聖句を何度も何度もためつすがめつ眺めてみるが、何1つ閃かない。私たちは注解者たちを調べてみる。敬虔なトマス・スコットの注解書を手に取ってみるが、例によって彼は、難解な箇所ではだんまりを決め込んでいる。それで私たちは聖なるマシュー・ヘンリーに向かう。そして、もしそこが易しい聖書箇所であれば、確かに彼はそれを解説しているはずである。だが、もしそれが理解の難しい聖句だと、もちろん、それは彼自身のうす暗がりの中に置かれたままになっているのが通例である。そして、注解者の中でも最も堅実なギル博士そのひとでさえ、難解な箇所に来ると、明らかにそれをある程度まで避けているのである。しかし、手近に何の注解者も教役者もないときでさえ、まだ聖霊がおられる。そして、1つ小さな秘訣をあなたに告げさせてほしい。ある聖句を理解できないときにはいつでも、自分の聖書を開き、膝をかがめ、その聖句について祈ることである。それでもその聖句を分解できず、その意味が明らかにならなければ、もう一度やってみるがいい。もし祈りによって意味が明らかにならなければ、それは神があなたに知らせようとしてはおられないことの1つであって、あなたはそのことについて無知であることに満足していてよい。祈りは奥義の飾り箪笥を開く鍵である。祈りと信仰は、奥義を開く神聖な錠前破りであり、偉大な宝を獲得する。聖なる教育を受ける者にとって、御霊の神学校にまさる学校はない。御霊は常にそこにいてくださる指導教官であり、私たちはただ膝をかがめされすれば、このお方が私たちのそばに来られ、偉大な教師として真理を講解してくださるからである。

 しかし、この導き手の適切さについて、もう1つ尋常ならざることがある。私は、これがあなたの心を打ったかどうかわからないが、――聖霊は「私たちを真理に導き入れる」のである。さて、人間は私たちを真理の方向へと導くことはできるが、聖霊だけが「私たちを真理に導き入れる」ことがおできになる。「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き」――次の言葉に注意するがいい。――「入れます」。さて、例えば、ある人々を選びへと導くには長いことかかる。だが、彼らにその正しさを見てとらせた後でも、あなたは彼らをそこへ導き「入れた」わけではない。あなたは彼らに、それが聖書にはっきり言明されていることを示せるかもしれないが、彼らはそれに背を向け、それを憎むであろう。あなたは彼らを別の偉大な真理のもとに連れて行くが、彼らは別の流儀の中で育ってきており、あなたの種々の議論に答えられなくとも、「この男は、もしかすると正しいのかもしれない」、と云ってから、こう呟くのである。――それは良心そのものですら聞き取ることができないほど低い呟きである。――「だが、それは私の偏見と真っ向から対立しているので、私には受け入れられない」、と。人を真理へと導き、それが真理であると見てとらせた後で、その中へと導き入れることの何と困難なことか! 私の話を聞いている人々の中の多くは、人間の堕落という真理へと導かれはしているが、その中へ導き入れられてはいない。それを感じさせられてもいない。あなたがたの中のある人々は、神が私たちを日々守っておられるとの真理を知らされはしたが、その中に入り込んで、聖霊なる神に絶えずより頼んで生きていく人、御霊から清新な養いを引き出していく人はめったにいない。肝心なのは、――その中に入り込むことである。キリスト者は真理に対して、蝸牛がその貝に対してするように行なわなくてはならない。――その中で生きるとともに、それを自分で背負って、絶えず自分でそれをかかえていくのである。聖霊は私たちをすべての真理に導き入れると云われている。あなたは、あふれるほどの金銀が満たされた部屋の前まで至らされるかもしれないが、その中に入らない限り、これっぽっちも以前より金持ちにはならないであろう。その二重の門の掛け金を外し、私たちを真理の中へと至らせてくださるのは御霊のみわざである。そのようにして私たちは内陣へ入ることができ、親愛な老ローランド・ヒルが云ったように、「真理をつかむだけでなく、真理が私たちをつかみとる」のである。

 IV. 第四に、ここには《方法が示唆されている》。「あなたがたをすべての真理に導き入れます」。さて、1つ例話をあげなくてはならない。私は真理を洞穴か岩屋にたとえてみよう。それは、あなたも聞いたことがあるような、見事な鍾乳石が上から突き出し、下からもごつごつと生えている洞穴である。壁面がきらきらと鉱物で光る、驚嘆に満ちた洞窟である。その洞窟に入る前にあなたは、火のついたたいまつを持った道案内人を頼む。彼はあなたを相当な深さまで案内し、その洞穴の真ん中に連れて行くであろう。色々な穴の中に案内するであろう。ここでは、岩間を走る小さな小川を指さして見せ、それが噴き出してあちこちへ流れる様子を示す。あちらでは、自然にできた大広間にあなたを連れて行き、いかに多くの人々がかつてはその中で宴会を開いていたかを話して聞かせる、といったことをする。真理は一続きの大きな洞穴であるが、非常にありがたいことに、私たちには、これほど偉大で賢い案内人がついている。その暗黒の中に自分が入り込むことを想像してみるがいい。御霊は私たちの真ん中で輝き、私たちを導く光である。そして、その光によって御霊は私たちに驚嘆すべき事がらを示してくださる。3つのしかたで聖霊は私たちを教えてくださる。それは、示唆と、指示と、照明によってである。

 第一に、御霊が私たちをすべての真理に導き入れるのは、それを示唆することによってである。私たちの思いの中には、そこで生まれたのではない思想がいくつか住んでいる。それは、天国から持ち込まれて、御霊によってそこに置かれた外来植物である。御使いたちが私たちの耳に言葉を囁き、悪霊が同じことをするというのは空想ではない。善の霊と悪の霊の双方が人間と対話している。そして、私たちの中のある者らはそれを知っている。私たちは、自分の魂の産物ではない奇妙な思想を有することがある。それは天使的な来訪者から出たものである。また私たちは、自分の魂の中で醸し出されたのではなく、地獄の毒々しい大釜から出てきた直接の誘惑や悪のほのめかしを有することがある。そのように御霊は、人の耳の中で、時には夜の闇の中でお語りになる。過ぎ去った時代において、御霊は夢や幻の中でお語りになったが、今はそのみことばによってお語りになる。あなたは時として、自分の仕事の途中で、何か説明しがたいしかたで、神と天的な事がらに関する思想が思い浮かび、それがどこから来たかわからないということがありはしないだろうか? 聖書を読んでいたわけでも研究していたわけでもないのに、ふとある聖句が思いをよぎって、押さえようとしても、水の中の木栓のように、思いの表面に浮かび上がってくるのである。よろしい。その良い思想は御霊によってそこに入れられたのである。御霊はしばしばご自分の民をすべての真理に導き入れるにあたり、示唆をお用いになる。岩屋の中の案内人がたいまつを用いるのと同じである。ことによると、彼は一言も口にしないかもしれない。だが彼は、ある通路に自分で入って行き、あなたは彼の後について行く。それと同じように御霊はある思想を示唆し、あなたの心はそれを追っていく。今でもまだまざまざと覚えているが、私は一瞬のうちに恵みの教理を学んだのである。私たちがみな生まれつきそうであるように、生来アルミニウス主義者であった私は、まだ講壇から絶え間なく聞かされていた古い事がらを信じていて、神の恵みを見てとっていなかった。だが私は、ある日、神の家で座っていたときのことを覚えている。そのときの説教は無味乾燥きわまるもので、そうした説教すべてと同じように無益なものであった。そのとき、ある思想が私の精神を打った。――いかにして私は回心させられることができたのだろうか? 祈ったからだ、と私は思った。そのとき、私はいかにして祈るようになったのか、と考えた。聖書を読むことによって祈るように仕向けられたのだ。では、いかにして私は聖書を読むようになったのだろうか? 左様――私は聖書を読んだが、何が私をそうするよう導いたのか? そして、そのとき一瞬にして私が見てとったのは、神がすべての根底におられたこと、神が信仰の創始者であられたということであった。そしてそのとき、この教理全体が私の前に開かれたのであり、そこから私は横にそれることはなかった。

 しかし、時として御霊は私たちを指示によって導かれる。かの道案内人は、指をさしてこう云う。――「ほら、旦那方。この通り道に沿って行くんでさあ。これが道でやす」。同じように御霊は、私たちの思想に方向を示し、傾向を加えてくださる。新しい思想を示唆するのではなく、ある特定の思想が形を取り始めたとき、これこれの方向に行くようにさせるのである。流れに端艇を浮かべるのではなく、すでに流れの上にある端艇の舵を取るということである。私たちが聖なる事がらを考察しているとき、御霊は私たちを、自分で始めたものよりも、一層すぐれた筋道へと導き入れてくださる。何度となくあなたは、ある特定の教理についての瞑想を始めては、説明しようのないしかたで、徐々に別の教理へと至らされ、いかに1つの教理が別の教理に依拠しているかを見てとることになった。石橋の迫持と同じように、すべての石が十字架につけられたキリストというかなめ石によりかかっているのである。あなたがこうした事がらを見てとるように導かれたのは、新しい考えが示唆されたためではなく、あなたの思念が方向付けられたためであった。

 しかし、ことによると、聖霊が私たちをすべての真理に導き入れる最上の方法は、照明によってである。御霊は聖書に説明のための光明を投じてくださる。さて、あなたがたの中に、照明された聖書を家に有している人がいるだろうか? 「いいえ」、とある人は云う。「私はモロッコ皮の聖書を持っています。数箇国語対訳の聖書を持っています。欄外に参照注のある聖書を持っています」。あゝ! それらはみな非常に良いことだが、あなたは照明された聖書を有しているだろうか? 「ええ。私は大きな絵入り家庭用聖書を持っています」。そこには、バプテスマのヨハネがキリストの頭に水を垂らしてバプテスマを授けている絵だの、他の多くのたわけたものが含まれている。だが、それが私の意味していることではない。あなたは照明された聖書を持っているだろうか? 「ええ。私が持っている聖書には、それは見事な彫版が含まれています」。しかり。あなたがそれを持っているであろうことを私は知っている。だが、あなたは照明された聖書を持っているだろうか? 「照明された聖書ということで、あなたが何を意味しているか私にはわかりません」。よろしい。キリスト者である人こそ、照明された聖書を持っている人である。その人の聖書は、買ったときからもともと照明されていたのではないが、その人がそれを読むとき、

   「黄金(こがね)の光 聖頁(みふみ)を照らし
    日輪のごと 出(いだ)せり。
    代々の時代(とき)をば 照り栄えさせん――
    そは与うるも つゆだに借りず」。

愛する方々。照明された聖書を読むほど素晴らしいことはない。たといあなたが永遠に聖書を読むことができても、御霊によって照明されていない限り、決してそれによって何1つ学ぶことはないであろう。だが、そうされるとき、言葉は星々のように輝くのである。この本は、黄金の頁でできているように思える。一文字一文字が金剛石のようにきらめく。おゝ、幸いなことよ。聖霊の光と輝きによって照らし出され、照明された聖書を読めるとは。私の兄弟よ。あなたはこれまで、聖書を読み、それを研究しても、自分の目が開かれないままであったことがあるだろうか? 行って云うがいい。「おゝ、主よ。私のために聖書を黄金で輝かせてください。それを照明し、それを照らし出してください。あなたが私に光を与えてくださらない限り、それを読んで益を得ることはできないからです」。盲目の人々はその指で聖書を読めるであろうが、盲目の魂にはそれができない。私たちに必要なのは、聖書を読むための光であり、それを暗闇の中で読んでも読んだことにはならない。このようにして聖霊は、観念を示唆し、私たちの思念を方向付け、私たちが聖書を読むときそれを照明することによって、私たちをすべての真理に導き入れてくださるのである。

 V. 最後のことは《1つの証拠》である。こういう疑問が生ずるであろう。いかにして私は、自分が御霊の影響によって光を受けているか、すべての真理に導き入れられているかがわかるだろうか? 第一に、あなたに御霊の影響がわかるのは、その統一性によってである。――御霊は私たちをすべての真理に導き入れてくださる。第二に、その普遍性によってである。――御霊は私たちをすべての真理に導き入れてくださる。

 第一に、もしあなたが、ある教役者について、その人が聖霊を自分のうちに有しているかどうかを判断しようというなら、まず最初に、その人の証言に一貫した統一性があるかどうかで御霊の影響力を知ることができる。人は、聖霊によって光を受けている場合、「しかり」と宣べ伝えて、同時に「否」と宣べ伝えるようなことができない[IIコリ1:18]。御霊は決してあるときには1つのことを云い、別のときには別のことを云ったりなさらない。実際、多くの善良な人々は、「しかり」と云って、同時に「否」と云っているが、そうした人々の正反対の証言は常に、どちらとも御霊なる神から出たものではない。御霊なる神は、黒と白、偽りと真実とに証言なさることができないからである。真理は1つ。これは常に第一の原則として信じられてきたことである。だが、ある人々は云う。「私には、聖書のある部分ではあることが云われているのに、別の部分では別のことが云われているように見える。聖書は矛盾してはいるが、それでも私は聖書を信じなくてはならない」。兄弟よ。それは結構なことである。ただし、聖書が矛盾していないとしたらの話であるが。だが、悪いのは木材の方ではなく、大工の方なのである。多くの大工は、あり継ぎのしかたがわかっていないが、同じように多くの説教者は、聖書をぴったりとかみ合わせるしかたを理解していない。これは非常に微妙な作業であり、容易に学びとれることではない。すべての教理を互いにうまく適合させるには、相当の年季を積む必要がある。一部の説教者たちは、半時間くらい非常に見事なカルヴァン主義を宣べ伝えた後で、次の十五分間、アルミニウス主義を説教するということをしている。もし彼らがカルヴァン主義者だとしたら、それを最後まで守り抜くがいい。もしアルミニウス主義者だとしたら、それを守り抜くがいい。自分の説教は、まとまった1つのものとするがいい。物事をあれこれ積み上げて、結局は全部蹴り倒すような真似をしてはならない。自分の主張は、上から全部1つに織ったもの[ヨハ19:23]とし、それを引き裂いたりしないようにしようではないか。ソロモンは、あの赤子の本当の母親をいかにして見分けただろうか? 「それを二つに断ち切れ」*[I列3:25]、と彼は云った。母親でない方の女は、もうひとりの女がその子をまるのまま手に入れるのでなければ、何もかまいつけなかったので、同意した。だが、本当の母親は云った。「あゝ、この子を生きたまま、この人にやってください。2つに切るくらいなら、この人にあげます」、と。同じように神の真の子どもは云うであろう。「降参します。私の敵に勝たせてください。私は、真理が2つに裂かれるのを見ていられません。みことばが私の好みに合わせて変えられるくらいなら、私が全部誤っていたことにする方がましです」、と。私たちは引き裂かれた聖書を持ちたくはない。しかり。私たちは生きた子をありのまま自分のものとするか、何も自分のものとしないか、いずれかである。私たちはこう確信していてよい。私たちは、二種類の糸で織ったような教理を自分のところから取り除き、二種類の種を蒔くのをやめない限り[レビ19:19]、祝福を得ることはないであろう。光を受けた精神は、自らを否定するような「福音」を信ずることができない。それは、あれかこれか、2つに1つでなくてはならない。何かが矛盾していない限り、あることと、その逆のことが同等に真実であるなどということはありえない。こういうわけで、あなたは御霊の影響をその証言の統一性によって見分けることができる。

 また、あなたはそれをその普遍性によって知ることができる。神の真の子どもが導き入れられるのは、一部の真理ではなく、すべての真理である。その人が信じた当初は真理の半分もわかっておらず、それを信じてはいても理解してはいないものである。その胚芽は有していても、その広さと長さのすべての総体は有していないものである。経験によって学ぶほど良いことはない。人は一週間で神学者を気取ることはできない。ある種の教理は何年もかかってようやくその全貌を明らかにする。百年かかってようやく美しく飾られるアロエのように、ある真理は心の中に長年おさめられていて初めて、自分が確かに知っていることとして語れるようになり、自分の見たことだとして証しできるようになる。御霊は、徐々に私たちをすべての真理に導き入れてくださる。例えば、もしイエス・キリストが地上に現存して千年間統治なさるということが真実だとしたら――いま私はそう信じる気持ちが強くなりつつあるが――、御霊のもとにある限り、私にもそれが徐々に明らかにされていき、最後には確信をもってそう宣言するようになるであろう。一部の人々は、非常にこわごわと一歩を踏み出す。人は最初は云う。「私は、私たちが信仰によって義とされ、神との平和を得ていると知っています。でも、非常に多くの人々が永遠の義認ということに反対を叫んでおり、私はそれを恐れています」。しかし、その人は次第に光を受けていき、ついには、自分の負債がみな支払われたのと同時に、完全な債務解除が与えられたこと、その罪が帳消しにされた瞬間に、選ばれたあらゆる魂が――自分の思いの中ではどうあれ――神の御思いにおいては義と認められたこと、自らの思いの中で自分を義と認めるのは後になることを見てとるように導かれるのである。御霊はあなたをすべての真理に導き入れてくださる。

 さて、何がこの大いなる教理から引き出せる実際的な推論だろうか? 第一のことは、自分の無知を恐れるキリスト者たちについてである。いかに多くの人々が、はっきり光を受けて、天的な事がらの味を知っていながら、自分は無知すぎて救われることができないと恐れていることか! 愛する方々。聖霊なる神は、いかに無学で、いかに無教育な者をも教えることがおできになる。私の知っているある人々は、回心前にはほとんど痴愚者だったが、その後になると、その精神的機能が素晴らしく発達したものである。少し前に、ある男がいた。あまりにも無知なために読むことができず、それまでの一生の間、文法にかなった言葉遣いなど、何かの間違いででもない限り、一度も口にしたことがなかった。それどころか、近隣の人々に云わせれば、「気違い」で通っていた。しかし、その男が回心したとき、最初にしたのは祈ることであった。彼は、ほんの二言三言をどもりながら口にしたが、しばらくするうちに、その会話能力が発達し始めた。それから彼は、聖書を読めるようになりたいと思った。そして、何箇月も何箇月も努力を重ねた末に、読めるようになった。では、次に何が起こっただろうか? 彼は、説教できるようになりたいと思った。それで、彼は彼なりの素朴なしかたで、自分の家で説教を始めた。それから彼は、「自分は、もう少し本を読まなくてはならない」、と考えた。そのようにして、彼の精神は発達していき、私の信ずるところ、現在の彼は、ある田舎の村に居を構えて、神のために働く教役者として用いられているのである。神から教えられるには、知性がほんの少しあるだけでいい。もしあなたが自分の無知を感じていても、絶望してはならない。御霊のもとに行くがいい。――この偉大な《教師》のもとに――そして、その神聖な影響力を乞い求めるがいい。そうすれば、そのうちに御霊は「あなたがたをすべての真理に導き入れ」るであろう。

 このことから引き出せる、もう1つの推論は、こうである。兄弟たちの中に真理を理解していない人がいる場合には常に、そうした人々を扱う最上のしかたとして、1つの心得を自分のものとしておこう。彼らと論争してはならない。私は幾多の論争を聞いてきたが、それによって何か1つでも良いことがあったとは一度も聞いたことがない。私たちは《非宗教主義者》と呼ばれる人々と論争してきたし、彼らに対して非常に強力な議論が持ち出されてきた。だが、私の信ずるところ、最後の審判の日には、こうした人々との論戦によってなされた善はごく僅かなものでしかなかったことが明らかにされるであろう。彼らのことは放っておく方がよい。油を注がなければ火は消えるものである。彼らと論戦する人は、火に薪をくべているのである。バプテスマについても同様である。幼児洗礼論に立つ友人たちと口論しても何の役にも立たない。もし私たちがただ彼らのために祈り、真理の神が彼らを導いて真の教理を見てとらせるように願うならば、彼らは討論によるよりもずっと容易に真理に至るであろう。論争によって教えられる人はめったにいない。というのも、

   「意志に反してうなずける/人の意見はなおも変わらじ」

だからである。彼らのために祈るがいい。真理の御霊が彼らを「すべての真理に導き入れ」てくださるように、と。自分の兄弟に腹を立ててはならない。むしろ彼のために祈るがいい。叫ぶがいい。「主よ! 彼の目を開いてください。彼が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」*[詩119:18]、と。

 最後に私たちは、あなたがたの中にいる、真理の御霊についても真理そのものについても、全く知らない人々に語りかけよう。もしかすると、あなたがたの中のある人々はこう云っているであろう。「われわれは、あなたがたのどちらが正しくともどうでもよい。幸いなことに、われわれにとって、それは大した問題ではないのだから」、と。あゝ! だが、あわれな罪人よ。あなたが神の賜物を知っていたとしたら、また、どなたがその真理を語っておられるかを知っていたとしたら、「そんなことはどうでもよい」、とは云わないであろう。もしあなたが、自分の救いにとって真理がいかに欠くべからざるものであるかを知っていたとしたら、そうした口のきき方はしないであろう。もしあなたが神の真理がいかなるものであるかを知っていたとしたら――あなたが無価値な罪人であること、だが信じさえすれば、神が永遠の昔からあなたのいかなる功績とも無関係にあなたを愛しておられ、《贖い主》の血によってあなたを買い取っておられ、天の法廷であなたを義と認めておられ、あなたの良心の法廷においても聖霊を通して信仰により徐々に義と認めてくださることを知っていたとしたら、また、もしあなたが、天国と、あなたのための冠と、決して曇ることのありえない光輝とが、いかなる間違いもなく存在していることを知っていたとしたら、――そのときあなたは云うであろう。「何と真理は私の魂にとって尊いことか!」、と。左様。私の話を聞いている不敬虔な方々。過誤に陥っている人々は、唯一あなたを救うことのできる真理を、唯一あなたを地獄から解放できる福音を、取り去りたがっているのである。彼らは、無代価の恵みの諸真理を、唯一罪人を地獄からかすめ奪うことのできる根本的諸教理を、否定しているのである。そして、たといあなたがそれらに今は興味を覚えなくとも、それでも私は云いたい。あなたはそれらが押し進められるのを願うべきである、と。願わくは神が、あなたに真理を、あなたの心において知らせてくださるように! 願わくは御霊が「あなたがたをすべての真理に導き入れ」てくださるように! というのも、もしあなたが現世で真理を知らないとしたら、覚えておくがいい。やがて、かの穴の暗黒の部屋の中で、悲しみとともにそれを思い知るときが来るのである。そのとき与えられる唯一の光は、地獄の火焔なのである! 願わくはあなたが地上で真理を知ることができるように! そのとき、真理はあなたを自由にするであろう[ヨハ8:32]。そして、もし御子があなたを自由にするなら、あなたは本当に自由なのである[ヨハ8:36]。というのも、御子はこう云っておられるからである。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」[ヨハ14:6]。罪人のかしらよ。イエスを信じるがいい。その愛とあわれみに頼るがいい。そうすればあなたは救われる。御霊なる神が信仰と永遠のいのちをお与えになるからである。

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聖霊――偉大な教師[了]

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