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平和の神

NO. 49

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1855年11月4日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン」。――ロマ15:33


 パウロはいったんはローマ人たちに奮闘するように勧めている。本日の聖句の3節前で、実際、彼は力を尽くせとの勧告を彼らに与えている。だが、ここで彼が発している祈りは、平和の神が彼らすべてとともにいてくださるように、というものであった。彼を闘争型の人間と思い込まないように、その節を読んでみるがいい。彼は云う。「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください」[ロマ15:30]。これは聖なる奮闘であり、私たちが常に教会の中に見たいと願う類の奮闘である。祈りにおける奮闘、御座をともに包囲する奮闘、神のあわれみの座を攻め立て、神の前で叫び声を上げ、現実にそうしたことを自分たちの祈りにおいてともに力を尽くして奮闘するまでに高めることである。もう1つの種類の奮闘も、教会の中では許されており、それは最高の賜物を求めて熱心に奮闘することである。自分たちのうちのだれが愛において、義務において、信仰において、他のすべてをしのぐ者になるかという甘やかな競争である。願わくは神が私たちの諸教会の中に、もっとこうした類の奮闘を送ってくださるように。祈りにおける奮闘、義務における奮闘を。そして、こうした奮闘について言及するとき、私たちはそれらが非常に平和な種類のものであることに気づき、本日の聖句の祝祷に立ち戻ることになる。「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン」。何も前置きはつけずに、私たちはまず、この称号――「平和の神」――を考察しよう。次に、この祝祷――「平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン」――を考察しよう。

 I. まず第一に、この称号である。異教徒たちの間で、マルスは戦いの神と呼ばれていた。ヤヌスは抗争と流血の時期に礼拝されていた。だが私たちの神エホバは、ご自分のことを戦いの神ではなく、平和の神と呼んでおられる。神はこの世の中に種々の戦争を許しておられる――時として必要かつ有益な目的のために――とはいえ、また、そうした戦争を支配しており、ご自分のことを戦いに力ある主[詩24:8]とすら呼んでおられるとはいえ、その恵みに満ちた霊は人々が殺戮し合うのを見ることを喜ばない。神は、断固として、全く、完全に、また無条件に、「平和の神」であられる。平和は神の喜びである。「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」[ルカ2:14]。天における平和(その目的のために神は[堕落した]御使いたちを放逐された)。ご自分の全宇宙にわたる平和こそ、神の最高の願いであり、その最大の喜びなのである。

 もしあなたが神を、そのご位格における三位一体において、少し考察するならば、そのそれぞれのお方――御父、御子、聖霊――において、この称号、「平和の神」が適切かつ正しいものであるのを見てとるであろう。まず、永遠の父なる神がおられ、この方は平和の神である。というのも、このお方は永遠の昔から、かの大いなる平和の契約を計画なさったからである。その計画によってこのお方は、反逆者たちをご自分に近寄せ、他国人や寄留者を聖徒たちと共同の相続者とし[エペ2:19; 3:6]、ご自分の御子キリスト・イエスとの共同相続人[ロマ8:17]とすることがおできになるのである。このお方が平和の神であられるのは、魂を義とお認めになり、それによって平和を魂に植えつけ、キリストを受け入れ、また、平和の神として、キリストを死者の中からよみがえらせなさったからである。また、この永遠の契約の血によって、ご自分の子どもたちとの平和、永遠の平和をお定めになったからである。この方は平和の神であられる。それと同じく、イエス・キリスト、第二の位格も、平和の神であられる。というのも、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわ……された方」[エペ2:14]だからである。キリストは、神と人との間に平和を作り上げられた。神の燃える御怒りの上に注がれたこの方の血は、それを愛に変えた。あるいは、むしろ、永遠に愛でありながらも、憤りをもって発出したに違いないはずのものが、イエス・キリストの素晴らしい仲保者職を通して、いつくしみとして発露されることが許されるようになった。またキリストが平和の神であられるのは、このお方が良心と心の中に平和を作り出してくださるからである。キリストが、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」、と云われたとき[マタ11:28]、キリストは人を休ませ、その休みとともに、「人のすべての考えにまさる神の平安」をお与えになる。そうした平安が、私たちの心と思いを守るのである[ピリ4:7]。さらにキリストは教会の中において平和の神であられる。というのも、イエス・キリストは、どこに宿っていても、そこに聖なる平和を創造されるからである。古のアロンの場合のように、キリストの頭の上に注がれた油は、その衣のえりにまで滴り落ち[詩133:2]、それによってキリストは平和を――くちびるの実たる平安[イザ57:19]を、また心の実たる平安を、真摯にイエス・キリストを愛するすべての者にお与えになる。同じように、聖霊も平和の神であられる。太古の昔、御霊は、混沌の物質が泡立っていたとき、御翼で抱きかかえることによって平和をもたらされた。御霊は、かつては暗闇と混沌のほか何もなかった所に、秩序が現われるようになさった。そのように、暗く混沌とした魂の中で、御霊は平和の神であられる。シナイの山々から風が吹き、地獄の穴からの突風が苦悩する魂を吹き抜けているとき、また、安息を求めて私たちの魂がさまよい、自らの内側で弱り果てているとき、御霊は私たちの苦難に平和を告げ、私たちの霊に安息を与えてくださる。地上の心遣いによって私たちが海鳥のように、波くぼから波頭まで、上へ下へと翻弄されているとき、御霊は、「黙れ、静まれ」[マコ4:39]、と云ってくださる。御霊こそ、聖日に御民を静謐な状態に導き、こう喜ぶよう命じてくださるお方である。

   「かの聖き平安 かの甘き静寂
    感ずるはただ そを知る者のみ」。

また、御霊が平和の神であられるのは、人生の最終刻にヨルダンの流れを静め、悪鬼の咆哮をすべて黙らせ、私たちにイエス・キリストにある神との平和を与えて、無事に天国へ至らせてくださるときである。ほむべき《三位一体の神》よ! いかに私たちがあなたを考えても、御父として、御子として、聖霊として考えても、それでもあなたの御名は、三倍も平和の神、愛の神の御名にふさわしいものです。

 この主題に入ることにして、神がいかなる点で平和の神であられるかを見てみよう。私たちが神を平和の神と云うのは、神が平和を最初に創造されたからである。神が平和の神であられるのは、幾多の戦いが罪を通して勃発しても、神は平和を回復なさるからである。神が平和の神であられるのは、神が、作られた平和を保っておられるからである。そして、神が平和の神であられるのは、神が究極的には、その全被造物とご自分との間における平和を完成させ、極限に至らせなさるからである。このようにして、神は平和の神であられる。

 まず第一に、神が平和の神であられるのは、神が平和のほか何も創造されなかったからである。あなたの想像力によって、威光ある御父がその孤独から足を踏み出し、創造のみわざを開始されたときに思いを馳せてみるがいい。御父がみことばを発し、最初の物質が形作られた瞬間を心に描いてみるがいい。その時までは、ご自分のほかは、いかなる空間も、時間も、他の何1つ存在していなかった。御父がお語りになると、それは成り、お命じになると、それは堅く立つ。見よ、力あるその御手で、金床から散る火花のようにおびただしい数の星々を振りまいておられるお方を。目の当たりにするがいい、いかにそのみことばによって世界が形成され、種々の重々しい天体が、御父により真っ先にその住まいと定められた無限の空間を通って回転するかを。さあ目を上げて見るがいい。御父がすでに創造された、こうした大いなる物事を。あなたの空想の翼につかまって、広漠たる空間と、無窮の深淵を巡り、見てとるがいい。そこに少しでも戦いのしるしや痕跡を見つけ出せるかどうかを。北から南まで、東から西まで行き巡り、1つでも不和のしるしを見つけ出せるかどうか、1つの普遍的な調和がないかどうか、万物が愛すべきもの、きよいもの、聞こえの良いものでないかどうかに注目するがいい。見てとるがいい。自然という大いなる立琴の中に、《作り主》の指が触れるとき、不協和音を奏でる弦が一本でもあるかどうかを。見てとるがいい。神が造られたこの大いなる風琴の音管がみな調和して鳴らないかを。よくよく注目し、注意するがいい。こうしたとりでは戦いのために造られたのだろうか? これらは槍であり剣だろうか? 喇叭であり角笛だろうか? 神は、ご自分の被造物たちを滅ぼし、ご自分の領土を荒廃させるようなものを何かお造りになっただろうか? 否。万物は、天上でも、地上でも、その回りのいずこにおいても、平和なものであった。すべては平和であり、平穏と穏やかさのほか何もなかった。御父が御使いたちをお造りになったときのことを聞くがいい。御父がお語りになる。――翼ある熾天使たちが飛び回り、智天使たちが炎の翼によって宙を走り抜ける。御父がお語りになると、多種多様の階梯にある御使いの大群衆が作り出され、御使いたちの力ある《君主》としてイエス・キリストが彼らのかしらと定められる。さてこうした御使いたちのだれかのうちに、1つでも悲しみのしるしがあるだろうか? 神が彼らを造られたとき、その中のどれかをご自分の敵としてお造りになっただろうか? 彼らの中のだれかを、その胸に少しでも無慈悲さや悪意をいだくものとして形作られただろうか? この輝かしい一団に尋ねるがいい。彼らはあなたに告げよう。「私たちは戦いのためにではなく、平和のために造られました。神は私たちを戦争の霊としてではなく、愛と喜びと静けさの霊に形作られました」。そして、たとい彼らが罪を犯したとしても、御父は彼らが罪を犯さないように造られた。彼らがそうしたのである。彼らが自分から進んで災いを世にもたらしたのである。神は何の戦いも創造なさらなかった。かの悪しき御使いがそれを最初にもたらしたのである。その自由意志にまかされていた彼は堕落した。恵みによって確かにされている、選ばれた御使いたち[Iテモ5:21]は、堅く立って揺るがなかった。だが神は、いかなる戦い、いかなる争いの作者でもあられなかった。サタンが自ら進んで反逆を心にいだいたが、神はその作者ではなかった。神は永遠の昔からそのことを予見しておられたかもしれず、ある意味では、ご自分の正義とご自分の栄光を現わすため、また、人間を贖うことによってご自分のあわれみと主権を示すために、神がそれをお定めになったとさえ云えるかもしれない。だが神は、いかなる点でもそこに手出しをなさらなかった。《永遠者》は、戦いを誓って慎んでおられ、その作者ではあられなかった。サタンこそ、その主導者であった。かの明けの明星、一度は残りの者とともに歌っていた者は、自ら堕落したのであって、神は彼の錯乱の作者ではあられず、むしろ永遠のほむべき秩序の作者であられた。また、この世界の創造における神を眺めるがいい。エデンの園の中に入るがいい。その木陰をあちこち歩き回り、その木々の下で頭をもたせかけ、その果実を食べるがいい。全世界を巡り歩くがいい。海辺に腰を下ろすか、山の上で体を伸ばすかするがいい。少しでも戦いのしるしなど見てとれるだろうか? そのようなものは何1つない。争乱も、騒音も、破滅への備えも何もない。アダムとエバを見るがいい。彼らの日中は不断の晴天であり、彼らの夜は甘やかな休息を伴う香りよい晩であった。神は彼らの心に、彼らをかき乱すようなものを何もお入れにならなかった。神は彼らに対していかなる悪意も有しておらず、逆に、そよ風の吹く[創3:8]夕方には、木陰で彼らとともに歩んでおられる。神は、身をへりくだらせてご自分の被造物と語り合い、彼らとの交わりを保っておられる。いかなる意味においても神は、この世界の現在の混乱の作者ではあられない。それは私たちの最初の親たちによって、悪しき者の誘惑を通してもたらされた。神はこの世界を争いのために創造されたのではない。神が最初にこれを形作られたとき、平和、平和、平和こそが、その時代の普遍的な基調であった。願わくは、もう一度この大いなる地上に平和が、この世界に静穏が回復される時がやって来るように! あなたは神が、最初に平和を創造されたがゆえに、平和の神であられることに注目しないだろうか? 神がご自分の被造世界を「非常によかった」[創1:31]と宣言なさったとき、それは全くいかなる例外もなしに、平和のうちにある被造世界であった。神は平和の神であられる。

 しかし、第二に、神が平和の神であられるのは、神が平和を回復させてくださるからである。ある人が大いに平和を好んでいることを何にもまして示すのは、その人が他の人々の間に平和を作ろうとするときである。あるいは、他の人々から腹立たしいことをされても、その人が自分と相手の人々の間に平和を作ろうと努力するときである。もし私が常に自分自身とは平和を保ち、だれにも喧嘩を売ったりしないでいることができるとしたら、もちろん私は平和な人だと思われるであろう。だが、他の人々が私に喧嘩を売り、私と仲違いするときにも、私が和解をもたらそうと願い、意識的にそのための働きを始めるとしたら、だれもが私のことを平和の人だと云うはずである。「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」[マタ5:9]。神は大いなる《平和を作る者》である。そして、このようにして神は実際に平和の神なのである。サタンが堕落したとき、天には戦いが起こった。神はそこに平和を作られた。というのも、神はサタンを打って、彼と、彼の反逆の全軍勢を永遠の火へと落とされたからである。神はその大能と力と威光によって平和を作られた。というのも、神はサタンを天国から追い出し、その燃えるたいまつによって彼を放逐し、二度とこの神聖な至福の床を汚させず、二度と天国における自分の同輩たちを誤り導くことによってパラダイスを危険に陥れさせないようになさったからである。しかし、人間が堕落したとき、神はその力によってではなく、そのあわれみによって平和を作られた。人はそむきの罪を犯した。あわれな人間よ! いかに神が人を追い、人との平和を作ろうとされたかに注目するがいい! 「アダムよ。あなたは、どこにいるのか」。アダムは決して、「神よ。あなたは、とごにおられますか」、とは云わなかった。しかし、神はアダムを追って出て来られ、愛情と憐憫のこもった声でこう云っておられるかのように思える。「アダムよ。あわれなアダムよ。あなたは、どこにいるのか。あなたは神のようになったのか? 悪の霊が、あなたは神のようになるだろうと云ったが、そうなったか? 今あなたはどこにいるのか、あわれなアダムよ? あなたはかつては聖さと完璧さのうちにあったが、今あなたはどこにいるのか?」 そして神はごらんになった。横着者のアダムが自分の《造り主》から逃げ出し、この偉大な《平和を作る者》から逃げ出して、庭の木々の下に身を隠す姿を。またしても神は呼びかけられる。「アダムよ。あなたは、どこにいるのか」*[創3:9]。しかし、彼は答える。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました」。すると、神は云われる。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか」[創3:10-11]。これは何という親切さであろう。あなたは、神がこうしたときにさえ《平和を作る者》であられるのを見てとれよう。だが、蛇を呪い、この呪われた者をびしゃりと地に叩きつけてから、神がアダムに向かって語りかけようとするとき、やはりあなたは、なおも神が《平和を作る者》であられることを見てとれよう。神は云われた。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」[創3:15]。そこで神は、十字架の血によって平和を作っておられる。しかしながら、これが神のお作りになった最初の平和の備えだと考えてはならない。それは、その最初の表明ではあったが、神は永遠の昔から平和を作っておられた。神が永遠の昔にイエス・キリストと結んだ契約により、神の民は神との平和を得ていた。神は、人間が堕落することを見てとっておられたし、ご自分の選民が残りの者とともに正道から離れて、ご自分の敵となるだろうことを予見しておられた。だがしかし神は、堕落のはるか以前に、イエスとの1つの契約を作成しておられた。その契約において、イエスはご自分が自分の民全員の負債を払うと明記し、御父は彼らのために現実に、明確に彼らの罪を赦し、彼らの人格を義と認め、彼らの咎を取り除き、彼らを無罪とし、ご自分との平和へと受け入れ、迎え入れられた。これは堕落までは決して展開することなく、私たちひとりひとりにとっても信ずるまでは知らされなかったことだが、しかし神と選民の間には常に平和があったのである。私は、ある事故にあった、ひとりの貧しい煉瓦職人の話をしなくてはならない。だれもが彼が死ぬだろうと考え、実際に彼は死んだ。ひとりの教職者が彼に云った。「お気の毒だが、お前さんはもう長くはないと思う。お前さんの平和を神と作るようにするがいい」。目に涙を浮かべて彼は教職者の顔を見上げて云った。「あっしの平和を神と作るですって、先生? ありがてえこってす。神は、あっしが生まれるずっと前から、イエス・キリストによる永遠の契約の中で、あっしのための平和を作っておられやしたから」。愛する方々。その通りなのである。そこには1つの平和があった。神がご自分の御子と作られた完璧な平和があった。イエスは、単に私たちの大使というだけでなく、私たちの平和であられた。単に平和を作るお方というだけでなく、私たちの平和であられた。そして、すべての世に先立ってひとりのキリストがおられた以上、すべての世に先立って平和はあったのである。キリストは今後も常におられる以上、神と、この契約にあずかっているすべての者たちとの間には、常に平和があるであろう。おゝ、もし私たちが自分が契約の中にあると感じられるなら、もし私たちが自分は選ばれた種族とともに数えられており、贖いの血によって買い取られていることがわかるなら、それを私たちは喜ぶことができる。なぜなら、神は私たちにとって不和を《修復する者》、町々を住めるように《築く者》であり、私たちがかつて失った平和を私たちに与えてくださった。神は、平和の《回復者》である。

 第三に、神は平和の保護者であられる。私は、この世の中に平和を見るときは必ず、それを神に帰し、そして、それが継続するとしたら、常に、それは神の介入によって戦いが避けられているからだと信ずる。この大いなる世界を構成している材料は、きわめて燃え上がりやすく、私は常に戦争について案じている。私は、ある国が別の国と争うことを素晴らしいとは思わない。国々が武装など全くしていない方が、ずっと素晴らしいことだと思う。何が原因で、戦いや争いがあるのだろうか? 世の中にある欲望が原因ではないか[ヤコ4:1]。この世にどれほど多くの欲望があるかを考えるとき、世には、私たちが目にしている以上の戦いがあるだろうと考えてよいであろう。罪は種々の戦いの母であり、罪がいかにおびただしく存在しているかを思い出せば、それがおびただしい数の戦いをもたらしているとしても驚く必要はない。私たちは、それを期待してよい。もしキリストの来臨が本当に近づいているとしたら、私たちは、戦争のことや戦争の噂[マタ24:6]を、地のありとあらゆる国々で聞くと予期しなくてはならない。だが、平和が守られているとき、私たちはそれを、神の直接的な干渉によるものと考える。ならば、もし私たちが国々の間に平和を願うとしたら、それを大いなる《仲裁者》なる神に求めようではないか。だが、内なる平安というものは、神だけにしか守れないものである。私は自分自身と、世界と、私の《造り主》との平和を得ているだろうか? おゝ! もし私がその平和を保ちたければ、神だけがそれを保護することがおできになる。私は、かつては平和を享受していたが、今はそれを持っていない人々がいることを知っている。あなたがたの中のある人々は、かつては神に信頼を置いていたが、それを失っているかもしれない。あなたはかつて、自分が栄光に富む状態にあると思っていたが、今のあなたは幾分そこから離れてしまっている。愛する方々。心の中の平和を保つことのできるお方は神だけである。神こそ、それを心に入れることのできる唯一のお方だからである。ある人々は疑いや恐れについて語り、それらを許容しても、まずさしつかえないと考えているかのように思われる。私はある人がこのように云うのを聞いたことがある。「陽射しの中なら、船乗りは自分の船位がよくわかるし、自分の位置を人に告げることができ、何の疑いも持ちません。だが太陽が翳ると、自分の経度も緯度も告げられず、自分がどこにいるかわからなくなるものです」。しかしながら、それは信仰の公正な描き出し方ではない。常に太陽を欲するのは、見るところによって生きることを欲することである。だが、信仰によって生きるとは、こう云うことである。「私には自分の経度も自分の緯度も見分けがつきませんが、《船長》が舵を握っているのを知っています。ならば私は、どこにいても彼を信頼しましょう」、と。しかし、それでもあなたがそうした精神の平和な状態を保つことができるのは、神がその船にいて、嵐にあってもあなたを助けて微笑ませてくださる場合に限る。私たちは時には平和な者としていられるが、神が去ってしまわれれば、いかにして私たちは自分といさかいを始めることか! 神だけが平和を保つことがおできになるのである。信仰後退者よ! あなたはそれを失ってはいないだろうか? 行って、再び神に求めるがいい。キリスト者よ! あなたの平安には傷がついていないだろうか? 神のもとに行くがいい。そうすれば、神はあらゆる疑いに向かって、「疑いをしばりつけよ」、と云われ、あらゆる恐れに向かって、「出て行け」、と云うことができおできになる。――あなたの魂に吹きつけるあらゆる風に向かって語りかけ、「黙れ、静まれ」、と云うことがおできになる。というのも、神は平和の神であり、それを保護されるからである。神に信頼するがいい。

 第四に、神が平和の神であられるのは、神が平和を最後には完成させ、極限に至らせてくださるからである。今の世には戦いがある。悪の霊がさまよいながら、落ちつきなく、熱心に、食い尽くそうとする獅子のように、水のない地を歩き回って休み場を捜すが、見つからないでいる[マタ12:43; Iペテ5:8]。また、その悪の霊に惑わされた人々がいて、神と戦い、自分たち同士で戦っている。だが、やがて来たるべき時がある。――もう少し待っていよう。――その時には、地上は平和になり、神の支配権すべてにわたって平和になる。もう数年の間、私たちは恒久的で永続的な平和が地上にもたらされるのを待ち望むものである。ことによると、明日、神の御子イエス・キリストは再びやって来られるかもしれない。今度は罪を負うためにではない[ヘブ9:28]。私たちは、人の子が来るその日、その時を知らない[マタ25:13]。だが、まもなく彼は、号令と、喇叭の響きのうちに、天から下って来られる[Iテサ4:16]。彼はやって来られるが、かつて来られたときのような卑しく、貧しい人の姿でではなく、栄光に富み、高くあげられた君主としてやって来られる。そのとき、彼は戦いをやめさせるであろう。その日以来、永遠に、人々は用無しの兜を棚晒しにし、二度と戦いのことを習わなくなる[イザ2:4]。獅子は子やぎとともに伏し、牛のようにわらを食う。蛇や蝮はその有毒な力を失う。乳離れした子が獅子や豹をそれぞれのひげをつかんで追っていく[イザ11:6-7]。来たるべき日、急速に近づきつつある日には、地上にはただのひとりも、自分の兄弟を憎む者はいなくなり、それぞれ人が互いのうちに兄弟を、また友を見いだすことになる。私たちは、古の詩人が云ったように、だがそれよりも大きな意味において、こう云えるようになる。「余には、生きた英国人のうち、毫も争うべき者はいない。今夜生まれた赤子ほどにも」[『リチャード三世』2.1]。私たちはみな結び合わされる。国と国の対立などなくなる。それらは1つの国となり、主イエス・キリストが全地の王となられるからである。その時から平和の完成がやって来る。すでに最後の大いなる日は過ぎ去っており、義人は悪人と切り離されており、ハルマゲドン[黙16:16]の怪物戦争が戦い抜かれて、勝利されており、義人はみな天国に集められ、失われた者らは地獄に送られてしまっている。では、戦いの余地などどこにあるだろうか? 敵の者どもを見るがいい。傷つき、切り苛まれたまま穴の中にいて、永遠にうなり声を上げる、神の復讐のえじきとなっている。彼らから戦いが起こる恐れはない。そこにはサタンそのひとが、うなだれたまま、傷つけられ、叩き潰され、打ちつけられている。彼のかしらは砕かれている。そこで彼は、略奪され、冠のない王として横たわっている。彼から戦いが起こる恐れはありえない。また、かつては彼の主権のもとにあった、かの御使いたちに注目するがいい。彼らは立ち上がれるだろうか? 否。彼らは苦悶にもだえ苦しみ、惨めさの中で自分を縛る鉄の帯を噛む。彼らには、天の神めがけて槍を持ち上げる何の力もない。また、罪深い人間を眺めるがいい。自らの罪のために罪に定められて、こうした堕落した生き物とともに住むようになった人間を。彼はもう一度自分の《造り主》を怒らせることができるだろうか? 再び冒涜するだろうか? 福音に反抗できるだろうか? 否。焼いた鉄の地下牢で傷ついた彼は、落魄し、破滅した霊である。万の幾万倍もの失われ、滅んだ罪人たちがそこにはいる。だが、彼らが大同団結して死の縄目を砕き、正義の法を断ち切ることがあったとしても、天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる[詩2:3-4]。平和が完成されるのは、敵が粉砕されるからである。彼らは彼方を見上げる。こうした輝かしい霊たちからは、いかなる戦いの恐れも起こらない。御使いたちは、今や堕落することがありえない。彼らの試験期間は永遠に過ぎ去っており、第二のサタンが天の星の三分の一を自らに引き寄せる[黙12:4]ようなことは決してない。いかなる御使いも二度とよろめかず、贖われた霊たち、血で買い取られ、イエスの血の泉で洗われた者たちは、決して再び堕落しない。普遍的な平安がやって来る。橄欖の枝は月桂樹よりも長く生き、剣は鞘におさめられ、旗は畳まれ、血の汚れは世界から洗い流される。再びそれは、その軌道を動き始め、その姉妹である星々のように歌う。だが、その唯一の歌は平和である。というのも、それを造られた神は平和の神だからである。

 II. さて、私たちはこの祝祷へと目を転じよう。「平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように」。私が今から語りかけようとしているのは、心の中にある内的な平和についてではない。確かに私は何にもまして、あなたがたが自分の良心との平和を楽しみ、神との平和を得ていることを願っている。願わくはあなたが常に、自分の訴えの土台たるイエスの血を有していること、自分を覆うイエスの義を有していること、自分の償いをするイエスの贖いを有していること、自分を傷つけることのできるものが何1つないことを知っていられるように。だが、私は、教会としてのあなたがたに語りかけ、平和を勧告したいと思う。

 第一に私があなたに思い起こさせたいのは、あなたがた全員には、この祈願をすべき大きな必要があるということである。なぜなら、あらゆる社会には、平和を脅かす種々の敵が常にひそんでいるからである。ペトラルカ[1304-74]によると、平和には5つの大敵がいるという。――強欲、野心、ねたみ、怒り、高慢である。私はそれをやや変えたいが、同じ数を用いるようにしよう。強欲の代わりに私は、過誤から始める。平和を破壊する最大の手段の1つは過誤である。教理上の過誤は、教会の平和にとって、この上もなく嘆かわしい結果を招く。私の注目してきたところ、だれにもまして大きく云い争っているのは、教理においてだれよりも誤った人々である。私も、カルヴァン主義者と呼ばれる人々の一部が、最も喧嘩っ早い意気込みをしていることは認めるが、その理由はこうである。――彼らはおおむね真理を有しているが、彼らの中の多くの者らは何か重要なものを取り落としており、それゆえ神は、彼らがご自分の最良の子らの一部であるがゆえに、彼らを懲らしめておられるのである。彼らがこれほどまでに真理を熱心に追求していること、彼らが殺し合っても、それを得ようとしていることは、いのちのしるしかもしれない。だが私は、彼らがその喧嘩をやめてほしいと願う。それは私たちのキリスト教信仰にとって不名誉だからである。もし彼らがより大きな平和を有するようになれば、私は真理の進展をより願えるであろう。あらゆる人が私に云う。「あそこにいる、あなたの兄弟たちを見るがいい! 私は自分の人生の中であんな人殺しども見たことがない。私の知る限り、彼らが福音を有している教会という教会で、彼らは常に衝突しあっている」、と。よろしい。それは、きわめて真実に近いことであり、私は恥じながらそれを告白するものである。しかしながら、私は神に祈る。福音を送ってくださったところに、もう少し平安を送ってくださるように、と。しかしながら、私たちの反対者たちの間にも、私たちの目につかない抗争があるのである。司教はその強大な手を用い、人々はあえて異を立てない。牧師には強大な権力と権威があって、その鉄拳の一撃はあらゆるものを平身平頭させるに十分である。そこには何の自由もないからである。さて、私は、教会の中で教会員が全員熟睡しているよりは、むしろいざこざがあってほしいと思う。人々が無関心なまま座っているよりは、対抗しあっていてほしいと思う。あなたは決して死んだ教会に喧嘩が起こることなど期待できない。だが、少しでもいのちのあるところに過誤が起これば、それは常に抗争を生み出す。いま存在している中で最も論争好きな教派は何だろうか? いかなる人も、私たちの卓越した友人たるウェスレー派の人々を指摘することに困難を覚えはしないであろう。というのも、今まさにこの瞬間にも彼らは、抗争しあい、互いに難癖を付け、無数の分派に分かれたり、改革された諸教会を形成したり、といったことをしているからである。何がその原因だろうか? 彼らが教会政治やその他のいくつかの事がらに関して全く誤った道を辿っているからである。あえて云えば、ジョン・ウェスレーは諸教会を作ることに長けた人であった。だが、彼は現在の教会がいかにあるべきかについて理解していなかった。百年前なら彼のやり方も通用したであろうが、彼は自分のあわれな信奉者たちをあまりにもきつく締め付けすぎた。それで今、彼らは自由と解放へと殺到しつつあるのである。もし彼らが最初に正しければ、そのまま続けていたであろうし、千年経っても彼らの組織は駄目になっていなかったであろう。それは当時と同じく今も通用したであろう。過誤は、教会内の苦々しさの根である。健全な教理、健全な慣行、健全な教会政治がありさえすれば、あなたは平和の神が私たちとともにおられることに気づくであろう。私の兄弟たち。あなた自身の心から過誤を根こぎにすべく努めるがいい。もしあなたがたの中のだれかが本気で福音の枢要な大教理を信じていないとしたら、私はあなたに切に願う。教会の益のために、そこから離れてほしい。というのも、私たちは真理を愛する人々にいてほしいからである。

 平和にとって第二の敵は野心である。「かしらになりたがっているデオテレペス」[IIIヨハ4]は、多くの幸いな教会を害してきた。ことによると、ある人はかしらになりたがってはいないかもしれないが、その場合、別の者がかしらになるのを恐れて、相手を引きずり落とそうとする。このようにして、兄弟たちがけなし合い、誰それが先走りするのではないかと恐れ、何某が先走りするのではないかと恐れている。最善の道は、が行くのと同じ速さで行こうとすることである。ある人が少しばかり人より上の位置にあるからといって、けちをつけても何にもならない。結局のところ、上だの下だのと云っても、それは何だろうか? それは、一匹のちっぽけな極微動物が、もう一匹よりも上だということである。水のしぶきを見てみるがいい。その雫の1つは、別のものより五倍も大きいが、私たちはそんなことを考えもしない。あえて云うが、彼は非常に大きく、こう考えている。「私は、自分の雫の中でもかしらたるものだ」、と。しかし彼は、パーク街の人々が彼について口にすることさえないのを考えていない。そのように私たちは、この世の小さな雫の中で生きており、神の評価においては、手桶の中の雫ほども大きくない。そして私たちの中のある者は、他のだれかれよりも少し大きく、芋虫同士の中では少し背が高い芋虫のように見受けられる。だが、おゝ、何と私たちは大きくなることか! そして私たちは、もう少し大きくなりたがり、もう少し目立った者になりたがりはするが、それが何になるのか? というのも、私たちは、どれほど大きくなっても、神が場所を告げてくださらなければ、御使いすら私たちを見つけることができないほどちっぽけな小粒なのである。上空の天国では、だれが皇帝や王たちのことなど聞いたであろう? 小さく、ちびた昆虫。神には極微動物を見ることができ、それゆえ私たちを見ることができるが、もし神が最も小さなものも見られる目をお持ちでなかったとしたら、神は決して私たちを見つけ出すことがなかったであろう。おゝ、願わくは私たちが決してこの教会の中で野心を持つことがないように。最良の野心とは、だれが全員のしもべとなれるか、ということである。異邦人は人を支配しようと努めるが、子どもたちは父に支配してもらおうと努め、父だけにそうさせようとする。

 平和にとって次の敵は怒りである。世の中には、ちょっとしたことでも怒りを爆発させずにはいられないという人々が何人かいる。そうした人々は突如として激怒し始める。逆に、激しやすくなく、そう簡単には怒らない人々も、いざ語るとなると、すさまじい見幕である。まるで何も語らない他の人々は、さらに始末が悪い。というのも、彼らはその怒りを内側に溜め込んでいるからである。

   「その憤り撫し 熱く保たんと」。

彼らは、いきなりむっつりとし、だれの意見にも逆らい、永遠にぶつくさ云っている。彼らは群れの中の犬のようで、――ただ吠えるだけで、全然羊毛をもたらさない。おゝ、この腹黒い怒りよ! もしこれが教会の中に入り込んだら、教会は粉々に分離するであろう。どうしたわけか私たちは、時として怒らずにいられなくなる。おゝ、私たちが教会に来るとき、自分自身を後に置いて行ければどんなによいことか! 私がいかなる人の二倍以上もその前から逃げ出したいと思うのは、私自身である。愛する方々。自分の癇癪を抑えるようにするがいい。そして、あなたが別の兄弟とわかり合えないときには、相手をぶんなぐってでもわからせてやることが必要だと思ってはならない。それはこの世で最悪のことである。その人はそうされたからといって全然わかりはしないであろう。

   「意志に反して うなずける
    人の意見は なおも変わらじ」。

 それから、ねたみはもう1つの恐ろしい悪である。ある教役者は、ことによると、別の教役者をねたんでいるかもしれない。なぜなら、一方の教会は満杯で、もう一方はそうではないからである。互いの間にねたみがあるとしたら、いかにして日曜学校の教師たちが一致していられようか? ねたみがもぐり込んでいるとしたら、いかにして教会員同士は一致できるだろうか? ある教会員の考えでは、別の教会員がふさわしくないほど尊重されている。左様。愛する方々。あなたがたは全員、あまりにも尊重されすぎている。だが、結局のところ、あなたが人間によってどう思われているかは大したことではない。大切なことは、神があなたをどうお考えになるかである。――そして、神は薄信者をも、大勇氏と同じくらい思いやっておられ、落胆夫人をも基督女自身と同じくらい思いやっておられるのである。ならば、この「緑の目をした怪物」を追い払い、寄せつけないようにしておくがいい。

 また、高慢がある。これは悪感情と敵意をわき上がらせるものである。互いに愛想良くし、「身分の低い者に順応」[ロマ12:16]する代わりに、私たちは、敬意が一粒残らず自分に与えられることを望む。自分が主人となり殿様となることを願う。このようなものが存在している教会が平和になりえないことは確実である。

 さて、これらが私たちの五大大敵である。これらすべてが処刑されるのを見られたらどんなによいかと思う。これらを追放し、永遠に流刑にし、獅子や虎の間に送り込むがいい。私たちはこれらの1つだに私たちの間にあってほしくはない。だが、このように語っているからといって、それは私が、これらのいずれかが徹底的にあなたがたの間にもぐり込んでいると考えているためではない。むしろ、それらを遠ざけておきたいがためである。私はこの件にかけてはきわめて執拗である。私は常に、いかに微細な争いをも恐れている。そして、平和の神が常に私たちとともにおられることを願っている。

 さて、手短にこの祈願の適切さをあなたに示させてほしい。私たちは実際、私たちの間に平和を有するべきである。ヨセフは、兄たちが父の家のある故国に帰ろうとしていたとき、彼らに云った。「途中で言い争わないでください」[創45:24]。この勧告には、ことのほか美しいものがある。「途中で言い争わないでください」。あなたがたはみなひとりの父を有している。あなたがたは1つの家族に属している。2つの国々の人々は不和になるにしても、あなたがたはイスラエルの子孫なのである。1つの部族、国民に属しているのである。あなたがたの故郷は1つの天国なのである。「途中で言い争わないでください」。道は険しく、あなたがたを阻もうとする敵たちがいる。たとい家に帰り着いたときに云い争うとしても、途中で云い争ってはならない。団結するがいい。互いに味方し合うがいい。互いの評判を守り合い、不断の愛情を明らかにするがいい。というのも、それらすべてをあなたが必要とすることを思い起こすがいい。世は、あなたが世のものでないからといって、あなたを憎んでいる[ヨハ15:19]。おゝ! あなたがたは、互いに愛し合うよう気をつけなくてはならない。あなたがたはみな同じ家に向かっているのである。地上では意見を異にし、互いに口も聞かず、聖礼典のときさえ同席するのをほとんど恥ずかしく思うかもしれない。だが、あなたがたはみな天国では同じ席につかなくてはならないのである。それゆえ、途中で云い争ってはならない。さらに、あなたがたがみな共有している大きなあわれみの数々を考えてみるがいい。あなたがたはみな赦され、あなたがたはみな受け入れられ、選ばれ、義と認められ、聖められ、子とされている。自分たちが云い争っている一方で、かくも多くのあわれみを受けており、神が自分にかくも多くのものを与えておられるのを見てみるがいい。ヨセフはあなたがたの袋を満たしてくれた。彼がベニヤミンの袋に余分なものを入れておいたからといって、そのことでベニヤミンと口喧嘩したりせず、自分の袋が満たされていることを喜ぶがいい。あなたがたはみな十分なものを有しており、あなたがたはみな安泰であり、あなたがたはみな祝福とともに送り出されている。それゆえ、私はもう一度云う。「途中で言い争わないでください」、と。

 さて、愛する兄弟たち。今朝、私は何をもって訴えれば、あなたがたが常に平和と愛のうちに住めるようにできるだろうか? 神は幸いにも、私たちの間で、ほむべき信仰復興を開始しておられる。そして、その信仰復興は、私たちの手段のもとで、神の助けによって、王国全体に広まることであろう。私たちは、「主のことばは生きていて、力があ」*る[ヘブ4:12]のを見てきた。私たちは、何物も、その御国の進展を止めることができないことを知っている。そして、教会としてのあなたがたの成功を妨げることのできるものは、ただこのことだけである。もしその不幸な日が来るとしたら――それが来るとき、その日は呪われるがいい。――、あなたがたは互いに相争い、たちまち主の家の建築は中断することであろう。こてを持つ者、槍を持つ者[ネヘ4:21]が並び立たなくなるとしたら、主のわざは遅れるに違いない。思うだに悲しいことだが、私たちの輝かしい御国の進展は、《小羊》の弟子たちの間における種々の云い争いによってはなはだしく妨げられてきた。兄弟たち。私たちはこれまで真心をもって互いに熱く愛し合ってきたし、私は私たちが常にそうするであろうことを心配してはいない。それと同時に、私はあなたがたを執拗に守りたいと思う。万が一にも苦い根が入り込んであなたがたを悩ましたりしないようにと[ヘブ12:15]。今朝、人間の綱は投げ散らかすがいい。切れることのない三つ撚りの糸[伝4:12]であなたがたを互いに結び合わせるがいい。互いに愛し合うように切に願わせてほしい。あなたがたのひとりの主、1つの信仰、1つのバプテスマによって、一体であり続けるように願わせてほしい。私たちの大きな成功によって、私たちの一致がそれと釣り合うものとなるように、あなたがたに懇願させてほしい。思い出すがいい。「兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう」[詩133:1]。悪魔はあなたがたが仲違いをすることを望んでおり、何にもまして彼を喜ばせるのは、あなたがたが互いに対抗しあうことである。アモン人とモアブ人は切り殺しあった[II歴20:23]。私たちはそうしないようにしよう。

   「かたく心を 合わせ住めるは
    同じ神にぞ 従う者のみ」。

絶えざる口論やねたみこそ、キリストの聖なる御名に不名誉をもたらしてきたものである。主はその友人たちの家で傷つられてきた。私たちが互いに射た矢は、いまだかつて悪魔の弓から発されたいかなるものにもまさって私たちを傷つけてきた。私たちは、自分たちの闘争によってキリストの紋章入りの盾に、いまだかつてサタンにつけることのできた以上の傷を負わせてきた。私は切に願う。兄弟たち。互いに愛し合うがいい。私は、あなたがたの間の不和のようなものと、いかにして耐えられるかわからない。私は世の嘲りや、不信者の嘲笑に耐えられるし、殉教の死にもおそらくは耐えられると思う。だが、あなたがたが分裂するのを見ることは耐えられない。私は、私の神であり《主人》であるお方に願う。私が屍衣を着ることの方が、あなたがたの分裂のゆえに重苦しい衣を着るようなことよりも早く来るように、と。私は、あなたがたの愛と情愛を注がれていること、あなたがたが互いに結びついていることを感じている限りは、地獄の悪霊どもも、地上の人々をも全く気にしてはいない。私たちはこれまで、そしてこれからも、神によって全能である。また、信仰によって、互いに対して、また神の真理に対して、堅く立つであろう。各人は自分の中でこう決意するがいい。――「たとい争いがあるとしても、自分はそれと全く関わるまい」。「争いの初めは水が吹き出すようなものだ」[箴17:14]。そして、自分は蛇口をひねりはすまい、と。もしあなたが最初の一滴を外に出すまいと心がけるなら、私は二番目の滴についても確信していよう。兄弟たち。もう一度云うが、福音のため、真理のため、私たちが敵どもを笑い飛ばせるようになるため、言葉に尽くせない喜びを喜べるようになるため、私たちは互いに愛し合おう。

 私は、今朝はこの世の子らに対して説教してこなかったかもしれないが、あなたがたが彼らに説教してくれるように頼んできたのである。というのも、あなたがたが互いに愛し合うとき、それは彼らにとって美しい説教となるからである。この目で見ることのできる説教ほど素晴らしいものはない。私は先週の水曜日に、ブリストル近郊のアシュリーダウンにある孤児院に行き、信仰の驚異を目の当たりにしてきた。――私は、かの天的な心の人ミュラー氏と少し話をしてきた。私は、そこで目にしたものほど素晴らしい説教をこれまで一度も聞いたことがない。私は少女たちに話をするように依頼されたが、こう云った。「私は何がどうあれ一言も語ることはできません」、と。私は、いかに神がこの親愛なる人の祈りに答えてこられたか、また、いかにこの三百人の子どもたち全員が、信仰の祈りを通して、私の御父によって養われてきたかを考えて涙を流し通しであった。必要なものは何であれ、やって来るのである。いかなる年間寄付金も、いかなる募金呼びかけもなしに、ただ神の御手からやって来るのである。私は、自分の聞いていたことがことごとく真実であったことを知って、シェバの女王のように、息も止まるばかりであった[I列10:5]。私にできることはただ、立って、その子どもたちを眺めて、こう思うことであった。私の天の御父は彼らを養われたのか。では、御父は私をも、神の家族の全員をも養われないだろうか? 彼らに話す? 彼らの方こそ、一言も口にしなくとも、十分私に語ってくれた。――彼らに話す? 私は、神をもっと信じていなかったというので自分のことを一万倍も馬鹿だと思った。ここに私はいる。私は日々神に信頼することができない。だが、この善良な人は、三百人の子どもたちについて神に信頼できるのである。手に六ペンスもないとき、この人は決して恐れない。この人は云うであろう。「私は神を知りすぎているので、神を疑うことなどできません。私は私の神に申し上げます。あなたは私が今日、この子たちを支えるために欲しがっているものをご存じです。そして、私は何も持っていないのです。私の信仰は決してよろめかず、私は必ず満たされることになるのです」。単純にこのように神に求めることによって、彼は(確か)一万七千ポンドを調達し、新しい孤児院の建設を行なったのである。このことを考えるとき、時として私たちはここで信仰の力を試してみようと思う。そして、私たちが十分な基金を得られないかどうかを試してみようと思う。人々が――あの群衆が――入ってきて、神のことばを聞ける場所を建てるために十分な基金を得られないかどうかを。そのとき、私たちは、信仰から出た孤児院と同じように、信仰から出た幕屋を有せるであろう。神がそれを私たちに送ってくださるように。そして、神にすべての栄光が帰されるように。

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平和の神[了]

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