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栄光に富む住まい

NO. 46

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1855年10月14日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです」。――詩90:1


 モーセは、霊感を受けて三種類の霊想的な文章の著者となった。まず第一に私たちが見いだすのは、詩人モーセである。彼の歌った歌は、適切にもイエスの歌と合わせられ、黙示録で、「モーセの歌と小羊の歌」[黙15:3]と語られている。彼は、パロとその軍勢が紅海に投げ込まれ、その「えり抜きの補佐官たちも葦の海におぼれて死んだ」[出15:4]際に、ひとりの詩人となった。さらに、その生涯の終わりの時期に、私たちが発見するのは、彼が説教者としての役割を果たしている姿である。そのとき、彼の教えは露のようにしたたり、彼のことばは雨のように下った[申32:2]。それは、輝かしい比喩表現と豊かな詩情に満ちた申命記の各章に見いだせよう。そして今、詩篇の中で私たちは、彼が1つの祈りを記しているのを見いだす。「神の人モーセの祈り」である。何と幸いな組み合わせであろう、詩人と、説教者と、祈りの人と! こうした3つのことが一緒に現われるとき、その人は自分の同胞たちから抜きんでた巨人となる。往々にして説教する人は、ほとんど詩才の持ち合わせがなく、詩人である人は、大集会の前で説教することも自作の詩を云い表わすこともできず、ひとりきりでそれを書くことしかできない。真の敬虔さと、詩才と雄弁の霊が、同一の人のうちに現われるのは希有の組み合わせである。あなたはこの詩篇に、素晴らしい霊性の深みを見てとるであろう。詩人が神の人の内側に沈潜していることに気づくであろう。そして、没我の境に至った彼が、いかに自らのはかなさを歌い、神の栄光を宣言し、自分の天の御父の祝福が常に自らの頭上に宿るように願っているかを見てとるであろう。

 この第一節を、ことさら興味深いものとするのは、このようにモーセが祈ったときに、彼がどこにいたかを思い出すことであろう。彼は荒野にいた。パロの大邸宅のいずれかではなく、ゴシェンの地の住居でもなく、荒野にいた。そして、ことによると、山上からイスラエルの部族が、おのおのの天幕を畳み、行進していくのを眺めながら、彼は思っていたのかもしれない。「あゝ! あわれな旅人たち。彼らは、どこでもほとんど休むことがない。自分の住める、安住の住まいを有していない。ここには、彼らの永遠の都[ヘブ13:14]がない」、と。だが、彼はその目を上げて、云った。「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです」。自分の目を過去の歴史に走らせて、彼は、神の民が住んでいた1つの大いなる神殿を見てとった。そして、その預言者的な目を、聖なる熱情によって見開きながら、こう予見することができた。未来の全時代を通じて、神に格別に選ばれた者たちは、「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです」、と歌うことができるであろう、と。

 この節を今朝の私たちの話の主題として、私たちは、まず第一に、それを説明するであろう。それから、古の清教徒たちの云い方によれば、それを改善するであろう。それは、この聖句を改善するということではなく、この節の考察を通じて、人々を少し善い者に改めることである。

 I. 第一に、私たちはこれを少々説明してみたい。ここには1つの住まいがある。「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです」。二番目に、ありふれた言葉を使ってよければ、ここにはその賃借権がある。「あなたは代々にわたって私たちの住まいです」。

 第一のこととして、ここには1つの住まいがある。「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです」。無限の空間すべてを満たす、力あるエホバ、《永遠者》、《永劫者》、《大いなる「わたしはある」お方》は、ご自分がものにたとえられることを拒んではおられない。確かに神は、御使いの目も見たことのないほど高きにいまし、智天使の翼も達したことのないほどの高みにおられ、不滅の霊たちの達しうる極限まで行っても決して神ご自身の限界を見いだすことはなかったが、――それでも神は、御民がご自分のことをこのように親しげに、「エホバは代々にわたって私たちの住まいです」、と語ることに反対してはおられない。私たちは、このたとえをよりよく理解するために、この思想と、荒野におけるイスラエルの状態とを比較し、その次に、私たちの家に特有のことと比較することによって、二、三の指摘をしてみよう。それは、私たちが自分の住居の持ち主となって初めて享受できる、いくつかのことである。

 最初に、私たちはこの思想、「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです」、と荒野の中を旅しつつあったイスラエル人たちの特有の立場とを比較してみたい。

 まず指摘したいことだが、彼らは非常に落ち着きのない状態にあったに違いない。日暮れになると、あるいは、雲の柱が動きを止めると、天幕が張られ、彼らは横になって身を休めた。ことによると、その翌日、朝日が昇る前から喇叭が吹き鳴らされ、彼らは寝床から起こされたかもしれない。起きると契約の箱が動き出しており、燃え立つ雲のような柱が彼らに先立って、山腹を上る細道へと、あるいは荒野の不毛の砂漠の中に向かって行っていたかもしれない。彼らは、自分たちの天幕の中にある、なけなしの家財道具を整え、何もかも居心地よくする暇もないうちに、こうした響きを耳にした。「去れ! 去れ! 去れ! ここがお前たちの安息の地ではない。お前たちはまだカナンめざして先へ旅しなくてはならないのだ!」 彼らは自分の天幕の回りの僅かな地面に種を蒔くこともままならなかった。自分たちの家をきちんと設計し、自分たちの家具を整えることもできなかった。その地面の場所に愛着を持つようになることもできなかった。たとい、ある天幕がしばらくの間とどまっていた場所に、彼らの父親が葬られたばかりだとしても、それでも彼らは出発しなくてはならなかった。彼らはその場所に何の愛着も持てなかったに違いない。彼らは、快適さや、安楽や、安息と呼べる何物も持てず、常に旅をし、常に移動していなくてはならなかった。さらに彼らは外部に対して無防備に近く、その天幕の中でも大して心地よくしていることは決してできなかった。あるときには、砂塵を含んだ熱風が吹きつけてきて、天幕の中にいる彼らをほとんど生き埋めにしかけることがあった。しばしば、照りつける太陽が彼らを焼き焦がし、彼らの天幕布はほとんど身を守る助けにならなかった。別の折には、身を切るようなような北風が彼らの周囲を凍てつかせ、天幕の中でも彼らは身を震わせ、火の回りに縮こまっていた。彼らにはほとんど安らぎがなかった。だが、神の人モーセが感謝とともに認識している対比を見るがいい。「あなたは私たちの天幕ではありません。私たちの住まいです。確かにここでは、私たちは居心地が悪く、幾多の困難に翻弄されています。確かに私たちは、荒野をついて旅しており、それが険しい通り道であると身にしみています。確かに私たちは、ここで腰を下ろしても安らぎがどういうものかわかりません。それでも、おゝ、主よ。あなたのうちに私たちは、家というものによって提供されるあらゆる慰め、安らぎを有しています。邸宅や宮殿が王侯に与えることのできるすべてを持っています。その寝椅子の上で思う存分に身を伸ばし、羽根布団の上で休息できる王侯の慰安を。主よ。あなたは私たちにとって慰めです。あなたは家であり、住まいです」。あなたは、慰めという意味で神をあなたの住まいとすることがいかなることか、少しでも知っているだろうか? 嵐を背にした海鳥が、まさにその嵐によって陸地に吹きやられたときいかなる気分がするか知っているだろうか? 時として自分の敵によって檻に閉じ込められるときに、天来の恵みによって解放してもらうことがいかなることか知っているだろうか? 自分の鳩小屋にたちまち飛び帰る鳩のように、天界をついて疾駆し、自らを神のうちに見いだしたことがあるだろうか? 波また波に翻弄されているときに、《神格》の深みに没入し、そこで困難の波にそよとも霊を波立たされない境地を楽しみ、あなたの《全能の父》なる神とともに穏やかに安らうことがいかなることか知っているだろうか? あなたは、このうら寂しい旅路の不快さすべてのただ中で、そこに慰めを見いだせるだろうか? イエスの御胸は、あなたの頭にとって甘やかな枕だろうか? 《神性》の胸にそのようにもたれかかることができるだろうか? 《摂理》の流れに身を浮かべ、全くもがくことなく漂い流れ、周囲に――神によって導かれ、神によって率いられて――このように歌う御使いたちを侍らせていることができるだろうか?――「われらがあなたを運びます。《摂理》の流れに沿い、永遠の至福という大海へと!」 あなたは、神の上に寝そべること、あらゆる心労を投げ捨てること、心配を追い出すこと、そして――無鉄砲さからではなく、聖なる無頓着さによって――何をも思い煩わないこと、むしろ、「願いによって、あなたの必要を神に知っていただく」*[ピリ4:6]ことがいかなることか知っているだろうか? もしそうなら、あなたがたは、この言葉から最初に教えられることを自分のものとしているのである。「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです」。

 また、イスラエル人たちは、天幕で生活していたことによっても、放浪生活という性質によっても、あらゆる種類の奇怪な生物たちに対して非常に無防備であった。あるときには、燃える蛇が彼らの敵であった[民21:6]。夜には野獣が彼らの周囲をうろついた。もしも炎の柱が彼らを囲む火の防壁となり、彼らのただ中で栄光となっていなかったとしたら、彼らはみな砂漠を歩き回る野生の怪獣のえじきとなっていたであろう。それよりさらに悪い敵は、人間であった。アマレク人は山地から猛然と襲いかかってきた。獰猛な流浪の略奪団は絶え間なく彼らを攻撃してきた。彼らは決して身の安全を感ずることがなかった。というのも、彼らは敵地を通る旅人だったからである。彼らは、自分たちがお呼びでない国の中を通って、別の国へと急ぎつつあった。その別の国でも、彼らが到着したなら、彼らを撃退しようという手段を備えつつあった。キリスト者とはそうした者である。キリスト者は敵地を通って旅しつつあり、日々危険にさらされている。その天幕は死によって取り壊されることがありえるし、中傷する者は後ろにあり、公然たる敵は前にいる。夜にうろつく野獣と、真昼に荒らす疫病[詩91:6]が、絶えず滅ぼそうとねらっている。自分の居場所に何の安息も見いだせない。自分が無防備だと感じる。しかし、モーセは云う。「私たちは野獣や猛々しい人間どもに無防備な天幕の中で暮らしているとはいえ、あなたは私たちの住まいです。あなたのうちにあるとき、私たちは無防備ではありません。あなたのうちにあって、私たちは自分が安泰であるのを見いだし、あなたの栄光に富むご人格のうちに私たちは、難攻不落の防備の塔に住んでいるかのように、あらゆる恐れや懸念から逃れて、自分たちが安泰であると知っていられます」、と。おゝ、キリスト者よ。あなたは、知っているだろうか? 戦いの真っ最中にあって、あなたの盾に受けとめられないほど多くの矢が身の回りに降り注ぐときも、あたかも、どこかの強固な砦の中の、矢も届かず、喇叭の響きすら耳を乱せないような場所で、腕組みをして休んでいるかのように安泰に立っていることがいかなることかを。あなたは知っているだろうか? 神のうちに安全に住まい、《いと高き方》のうちに入って、人々の怒りも、渋面も、嘲りも、軽蔑も、誹謗も、中傷も笑い飛ばすことがいかなることかを。《いと高き方》の大天幕という安全な場所に上り、《全能者》のかげの下にとどまり、自分が安泰であると感ずるのがいかなることかを。そして、よく聞くがいい。あなたはそのようにすることができるのである。疫病のときも、虎列剌と死のただ中を、このよう歌いつつ歩くことは可能なのである。――

   「疫病(えやみ)や死すら わがそば駆けん、
    みむねの時まで、われ死せざらん」。

極度の危険にさらされたまま立っていてもなお、聖なる静謐さを感じつつ、恐れを笑い飛ばすことは可能である。その静謐さが、あまりにも大きく、あまりにも強大で、あまりにも力強いがために、一瞬たりとも、びくびくとした臆病さに屈することはできない。そうしたことが可能である。「私たちは、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私たちのお任せしたものを……守ってくださることができると確信しているからです」*[IIテモ1:12]。家なき者らがさすらうときも、あわれな苦悩する霊たちが、嵐に打たれ、何の隠れ家も見いだせないときも、私たちは神のうちにはいり、信仰の扉を背後で閉ざして、こう云うのである。「風よ、うなれ。嵐よ、吹け。野獣よ、吠えよ。盗人よ、やって来い!」

   「神をおのれの 隠れ家とせば
    上なく安けき 住まいをぞ得ん。
    みかげのもとを 日中(ひなか)は歩み、
    こうべにやすらぎ 夜にはやどる」。

主よ。こうした意味において、あなたは私たちの住まいです。

 また、あわれなイスラエルは、荒野において、絶えず変化にさらされていた。彼らは決して1つ所に長くいなかった。時には、ある場所に一箇月もとどまっていることができた。――あの七十本のなつめやしの木の近くでである[出15:27]。毎朝外へ出て、その泉のかたわらに座し、その清浄な流れを飲めるとは、何と甘く心地よい場所であったことか! だが、「前へ進め!」、とモーセは叫んだ。そして彼らを連れて行った場所は、ごつごつとした岩々が山腹から突き出し、赤く焼けた砂が足の下に広がり、周囲から毒蛇が飛び出し、さわやかな野菜のかわりに、とげだらけの藪が生えていた。何という変化を彼らはこうむったことか! だが、翌日、彼らはそれよりもずっと荒涼とした場所にやって来る。彼らはきわめて狭く細い峡谷の隘路を歩む。そのような牢獄には、太陽の光も恐れをなして射し込まず、二度と外へ出て来ることなどできないように思われる! 彼らは場所から場所へと、常に移り変わりながら先へ進み、一箇所に落ちつくことが決してできない。決して、「さあ、もう安全だ。この場所にわれわれは住みつこう」、と云うことはできない。ここでもまた、この対照は、この聖句の意味を照らし出している。――「あゝ!」、とモーセは云う。「私たちは変転絶え間ない状態にあっても、主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです」、と。キリスト者は、神とのことでは、いかなる変化も知ることはない。その人は今日は富んでいて、明日は貧乏になっているかもしれない。今日は病んでいて、明日は健やかになるかもしれない。今日は幸せでも、明日は苦悩しているかもしれない。だが、その人と神との関係については、いかなる変化もない。もし神が私を昨日愛しておられたとしたら、今日も愛してくださる。私は神の中では、今まで以上に良くも悪くもならない。明るい見込みがしおれても、希望がしなびても、喜びが枯れ果てても、白渋病がすべてを害しても、私は神のうちにおいて有しているものを何1つ失ってはいない。神は私の強大な住まいであり、そこに私はいつでも行くことができる。キリスト者は神に関しては決して貧しくなることも富むこともない。その人はこう云うことができる。「ここには、決して過ぎ去ることも変わることもありえないものがある。《永遠者》の額には、決して皺が寄ることはない。その頭髪は、寄る年波で白くなったりしない。その御腕は、弱さで麻痺したりしない。その心は、その情愛において変わりはしない。その意志は、その目的において変化しない。神は《不変のエホバ》であられ、堅く永遠に立っておられる。あなたは私たちの住まいです! 家が変わりなく同じ場所に立っているように、私は若い頃からあなたを見いだしてきました。母の乳房から初めてあなたにゆだねられときに、私はあなたが私の《摂理》の神であることを見いだしました[詩22:10]。あなたしか与えることのできない霊的知識によって、私が最初にあなたを知ったとき、私はあなたが確かな住まいであることを見いだしました。そして、私は今もあなたがそのようなお方であることを見いだしています。そうです。私が老いて白髪になっても、私はあなたが私をお捨てにならないことを知っています。あなたは代々にわたって同じ住まいであられましょう」。

 もう1つの思想によって、イスラエル人たちの立場を私たちと対比させてみよう。――それは、倦怠である。イスラエルはあの荒野でいかにうんざりしていたに違いないことか! 彼らの足の裏は、その絶えざる旅路によって、いかにくたびれ果てていたに違いないことか! 彼らは、休息や享楽や安息の地にいたのではなく、旅路と倦怠と困難の土地にいた。私は彼らの姿が目に見えるような気がする。旅をしながら、額の熱い汗をしきりに拭い、こう云っている姿が。「おゝ! 私たちに休めることのできる住まいがあったらどんなによいことか! おゝ! 葡萄と柘榴のなる土地、恐れから全く免れていられる町に入ることができたなら、どんなによいことか! 神はそれを私たちに約束してくださったが、私たちはまだそれを見いだしていない。休みは、神の民のためにまだ残っている[ヘブ4:9]。おゝ、私たちがそれを見いだせたら、どんなによいことか」。キリスト者よ! 神はこうした意味においてあなたの住まいである。神はあなたの安息であり、あなたは決して神のうち以外に安息を見いだすことはない。私は、全く神を有していない人に向かって、魂を安らがせてみるがいい、と云いたい。イエスを自分の《救い主》として有していない人は、常に落ちつきのない霊をしているであろう。バイロンの詩を何編か読んでみるがいい。そのときあなたは彼が(もし正直に自分のことを描き出していたとしたら)、ふらふらと「さまよいながら、休み場を捜し、一つも見つからない」[ルカ11:24]霊のまさに化身であることに気づくであろう。ここに、彼の詩の1つがある。――

   「われは宙(そら)飛ぶ 鳥のごと
    求めん 家といこいをば。
    心労(なやみ)を癒す 香膏と
    不幸な胸満つ 至福(さいわい)を」。

だれでもいいから、福音の義認を全く有していない、あるいは神を知る知識を全く有していない人の伝記を読んでみるがいい。あなたは彼らが、自分の巣を壊され、どこで休めばよいかわからず、飛び回り、さまよい、住まいを求めている可哀想な鳥のようであることに気づくであろう。あなたがたの中のある人々は、神以外の安息を見いだそうとしてきた。あなたはそれを、あなたの富のうちに求めてみた。だが、それを枕に寝てみたところ、そこにはちくりと頭を突き刺すものがあった。あなたはそれを、あなたの友人のうちに求めてみた。だが、その友の腕は、強固な城壁であってほしかったのに、いたんだ葦であった。あなたは神のうち以外に決して安息を見いだすことはないであろう。神のうち以外にいかなる隠れ家もない。おゝ! いかなる安息と平静さが神のうちにはあることか! それは眠り以上のもの、平穏以上のもの、静かさ以上のもの、物音1つ立っていない海が、その深海部において、いかなるさざ波にも乱されず、いかなる風にも決して押し入ってこない所で有する死の静謐よりも深いものである。世にはキリスト者しか知ることのない聖なる平穏さ、甘やかな落ちつきがある。それは、上方の碧空の寝床でまどろむ星々に似たもの、あるいは、幸福を得た霊たちが、御座の前で絶えずひれ伏しているときに有しているだろうと思われる、熾天使のごとき安息に似たものである。――それは非常に深く、静穏な、また静かで、落ちついた、深い安息であって、言葉で云い尽くせぬほどのものである。あなたはそれを試してみた。そして今、それを喜ぶことができている。あなたは主があなたの住まいであられること、――あなたの甘やかで、平穏で、不変の家であられることを知っている。そこであなたは、代々にわたって平安を楽しめるのである。しかし、私は、この主題のこの部分にあまりにも長くとどまりすぎてしまった。それで、このことを別のしかたで語ってみよう。

 まず第一に、人の住みかは、その人がからだを伸ばして、居心地良くしていることができ、また気兼ねなく話ができる場所である。この講壇で私は、ある程度自分の言葉に気をつけなくてはならない。私が相手にしているのは、私の揚げ足を取ろうと、常に私の言葉を窺い、あれこれと云い振らそうとしている世の人々である。――私は用心しなくてはならない。あなたがた、商売をしている方々も、取引所にいるときや、店にいるときには、用心しなくてはならない。だが、人は自宅ではどうしているだろうか? 自分の胸襟を開いて、自分の好きなことをしたり、云ったりする。それは、自分の家なのである。――自分の住まいなのである。そして、自分こそ、そこの主人ではないだろうか? その人は自分のものを自分の思い通りにしてよいではないだろうか? 確かにそうである。その人は、そこで伸び伸びできると感じられるからである。あゝ! 愛する方々。あなたは今まで、神のうちにあって伸び伸びしていられると感じたことがあるだろうか? キリストとともにいて、あなたの秘密を主の耳に語り、何の遠慮もなしに自分がそうできるのに気づいたことがあるだろうか? 私は普通、他人に秘密を語ったりしない。というのも、もし私たちがそうして、彼らが決してそれを口外しないと約束したとしても、彼らがそうしないのは、他のだれかに出会うまでのことだからである。秘密を打ち明けられたほとんどの人は、こう云われているある貴婦人に似ている。彼女は自分の秘密を二種類の人々にしか告げなかったという。――彼女にそれを尋ねた人と、それを尋ねなかった人である。あなたはこの世の人々を信頼してはならない。だが、自分の秘密をすべて祈りにおいて神に告げるとはいかなることか、あなたの思いのすべてを神に囁くことがいかなることか、あなたは知っているだろうか? あなたは神には、自分の罪を、その極度の醜さすべてを含めてことごとく告白するのを恥じはしない。神には何の弁解もすることなく、あらゆる忌まわしい部分を云い表わし、自分の卑しさのきわみまで描写する。それから、あなたの些細な必要について、あなたはそれを他人に告げるのを恥ずかしく思うであろう。神の前では、あなたはそれらをすべて告げることができる。自分の親友にも囁かないような嘆きを神には告げることができる。神とともにいるとき、あなたは常に伸び伸びしていられる。何に束縛されていると感ずる必要もない。キリスト者はすぐさま神に自分の心の鍵を渡し、すべてを熟読するにまかせる。その人は云う。「これが、あらゆる箪笥を開く鍵です。私の願いは、あなたがそれらをすべて開いてくださることです。もしそこに宝石があれば、あなたのものです。もしそこにあるべきでないものがあれば、叩き出してください。私を調べ、私を探ってください[詩139:23-24参照]」、と。神がキリスト者のうちで生きておられるようになればなるほど、そのキリスト者は神を愛するようになる。神がその人に会いに来られるのが頻繁になればなるほど、その人は自分の神を愛するようになる。そして神は、御民がご自分と親しむとき、それだけ彼らを愛するようになる。あなたはこうした意味において、「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです」、と云えるだろうか?

 さらにまた、人の家は、その人の情愛の中心となる場所である。願わくは神が、自分の家を愛さないような人々から私たちを救い出してくださるように! 自分の家に対して何の愛情もいだいていないというほど卑しく、無感覚な人が生きているだろうか? そうだとしたら、確かにキリスト教の火花は完全に消え失せてしまったに違いない。人々が自分の家を愛するのは自然なことである。彼らが、それをさらによく愛するのは、霊的なことである。自分の家において私たちは、自分が常に最も愛着を感じているに違いない人々を見いだす。そこに住まうは、わが愛友(とも)親族(みうち)である。私たちがさまよい歩くとき、私たちは巣から離れた鳥のようで、落ちついた家を決して見いだせない。私たちは戻りたいと思い、再びあの笑顔を目にし、もう一度あの暖かな手を握り、自分が愛情の絆で結ばれている人々とともにいるのを見いだす。自分の家族に対して私たちが感じたいと願う――そして、あらゆるキリスト者が感じるであろう――思いは、彼らが自分の性質の縦糸と横糸であり、自分が彼らの切っても切れない一部分となること、また、そこが自分の愛情の中心となることである。その人は、自分の愛をあらゆる所に気前良く注ぐ余裕はない。それは、この特定の場所、この暗く砂漠のような世の中における1つの肥沃地に集中させる。キリスト者の人よ。神はそうした意味においてあなたの住まいだろうか? あなたは自分の全霊を神にささげているだろうか? 自分の全心を神に持って行けると感じているだろうか? そして、こう云えるだろうか? 「おゝ、神よ! 私は魂から愛します。最も熱のこもった熱心さによって、あなたを愛します。

   『わが知るいかな 愛(いと)し偶像も――
    よしその偶像 いかなものたれ――
    その玉座より 引きもぎ離し
    ただ汝れのみを 拝させ給え』。

おゝ、神よ! 確かに私は時折さまよいはしますが、それでも自分のさまよいの中にあってもあなたを愛しています。私の心はあなたに据えられています。被造物がいかに私を騙しても、私はその被造物を忌み嫌います。それは私にとってソドムの林檎のようです。あなたは私の魂の主人であり、私の心の皇帝です。右大臣ではなく、王の王であられます。私の霊は、私の魂の中心としてあなたに据えられています。

   『汝れこそ愛の わたつみにして
    わが楽しみは すべてうねれり。
    わが情動(おもい)のみな 動ける円にて
    これわが魂の 中心(まなか)なり』。

おゝ、神よ! あなたは代々にわたって私たちの住まいです」。

 私が次に指摘したいのは、この住まいの賃借権に関してである。神は信仰者の住まいである。あなたも知る通り、時として人々は自分の家から追い出されたり、あるいは自分の耳元で家屋が瓦解することがある。だが私たちの住まいがそうなることは決してない。神は代々を通じて私たちの住まいである。過去の時を振り返れば、神が私たちの住まいであられたことを見いだすであろう。おゝ、あの古い家の家庭よ! だれがそれを愛さないであろう。私たちの子ども時代の場所、古びた屋根の、古い田舎家よ! 世界中のいかなる村といえども、私たちが生まれた、あの特定の村の半分ほども良いものは1つもない! 確かに、その門も、かまちも、柱も取り替えられている。だがそれでも、そうした古い家々には付属しているものがある。庭園の古木、古いつたで覆われた塔がある。ことによると、それはあまり画趣に富むものではないかもしれない。だが、私たちは行ってそれを見ることを愛する。私たちは自分の少年時代に絶えず出入りしていた場所を見たいと思う。あの時計が立っていた古い階段には、また祖母が膝をかがめ、私たちが家庭礼拝を持つのを常にしていた部屋には、何か心楽しいものがある。そうした家のような場所は結局1つもない! よろしい。愛する方々。神は、過ぎ去った歳月の間、キリスト者の住まいであられた。キリスト者よ。あなたの家は実に尊ぶべき家であり、あなたはそこに長い間住んでいたのである。あなたはそこに、あなたがこの罪深い世に生まれ出る前から、キリスト教というお方において住んでいた。また、それは代々を通じてあなたの住まいとなるはずである。あなたは決して別の家を求めはしないであろう。あなたは常に、いま有している家で満足しているであろう。決して自分の住まいを替えたいとは願わないであろう。そして、もしあなたがそう願ったとしても、あなたにそうすることはできないであろう。というのも、神は代々にわたってあなたの住まいだからである。願わくは神があなたに、この家をその長い賃借権において自分のものとするとはいかなることか、また神を永久にあなたの住まいとするとはいかなることかを知らせてくださるように!

 II. さて、この聖句を改善/善用したいと思う。最初に、これを《自己吟味》のために善用しよう。私たちはいかにして自分がキリスト者であるかそうでないか、主が私たちの住まいであって、代々を通じてそうであられるかどうかがわかるだろうか? 私はあなたに自己吟味のためのいくつかの心得を示したい。そのため私は、ヨハネの手紙第一の中で見いだしたいくつかの箇所を参照するることにする。神を住まいとして語っているほとんど唯一の聖書記者が、あの最も愛された使徒ヨハネであるというのは、尋常ならざることである。その書簡の中の数節は先ほど読んだ通りである。

 彼は4章12節で私たちに、私たちが神のうちで暮らしているかどうかを知る1つの手段を告げている。「もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」。また、さらに先の方ではこう云っている。「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます」[4:16]。ならばあなたは、自分がこの大いなる霊的な家の居住者かどうかを、自分が他者に対していだく愛によって知ることができる。あなたは聖徒たちに対する愛を有しているだろうか? よろしい。ならばあなたは自分自身、聖徒である。山羊は羊を愛さないであろう。そして、もしあなたが羊を愛しているとしたら、それはあなたが自分自身、羊である証拠である。主の弱い家族の多くの者らは、自分たちの回心の証拠として、このこと以外に決して何も得られない。――「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです」[Iヨハ3:14]。そして、これはごく小さな証拠ではあるものの、それでも、いかに強い信仰もしばしば、さほど上回ることのできないほどの証拠である。「たとい私が神を愛していなくとも、私は神の民を愛していますし、たとい私がキリスト者でなくとも、私は神の家を愛しています」。何と! 悪魔があなたに、あなたが主のものではないと告げたのだろうか? 《哀れな臆病者》よ。あなたは主の民を愛しているだろうか? 「はい」、とあなたは云う。「私は、彼らの顔を見たり、彼らの祈りを聞くのを愛しています。彼らの服のすそに口づけすることさえできると思います」。それは本当だろうか? あなたは、彼らが貧しければ、彼らに施そうとするだろうか? 彼らが病んでいれば、彼らを訪問し、彼らが助けを必要としていれば、彼らの世話をしようとするだろうか? 「あゝ! そうですとも」。ならば、恐れてはならない。神の民を愛している人は、その《主人》を愛しているに違いない。私たちは、もし互いに愛し合っているなら、自分が神のうちにいることがわかるのである。

 13節には別のしるしがある。「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります」。私たちは、自分のうちに神の御霊を有しているだろうか? これは、私が問うことのできる、最も厳粛な質問の1つである。あなたがたの中の多くの人々は、神の御霊を全然有していないにもかかわらず、宗教的感情によって興奮するとはいかなることか知っている。私たちの中の多くの者らは、自分がその御霊を受けていないのではないかと、非常なおののきを感じるべき必要がある。私は何度となく自分を、それぞれ異なるしかたによって試したことがある。自分が本当に神の御霊を有しているかどうかを知ろうとしたことがある。こうした考えを世の人々が鼻で笑って、こう云うことは私も承知している。「だれであれ、神の御霊を持つことなど不可能だ」、と。ならば、だれにとっても天国に行くのは不可能である。というのも、私たちは、そこに行く前に、神の御霊を有し、御霊によって新しく生まれなくてはならないからである[ヨハ3:5]。これは何と深刻な質問であろう。「私は、自分のうちに神の御霊を有したことがあるだろうか?」 確かに私の魂は、時として高みに引き上げられ、熾天使のように歌える気がする。確かに、時として私は、深い敬虔な思いによって溶かされ、恐ろしいほど厳粛に祈ることができる。しかし、ことによると、それは偽善者たちもできることかもしれない。私は神の御霊を有しているだろうか? あなたは、あなたの内側に、あなたが御霊を有しているという何らかの証拠があるだろうか? あなたが迷妄と夢の下で労しているのでないのは確かだろうか? あなたは現実に神の御霊を自分のうちに有しているだろうか? もしそうなら、あなたは神のうちに住んでいる。これが第二のしるしである。

 しかし、使徒は15節でもう1つのしるしを告げている。「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます」。《救い主》を信ずる私たちの信仰を告白することは、私たちが神のうちに生きているもう1つのしるしである。おゝ! あわれな心よ。あなたはこのしるしのもとに来ることができないだろうか? あなたには大胆なところがほとんどないかもしれないが、こう云えないだろうか? 「私は、主イエス・キリストの御名を信じています」、と。もしそうなら、あなたは神のうちに住んでいる。あなたがたの中の多くの人々が、こう云うことは、私も承知している。「私は説教を聞くと感動します。《神の家》にいるときには、自分が神の子どもであるような気がします。でも、世の中の取引や、心遣いや、困難が私の気をそらしてしまうのです。それで、恐らく私は、自分が神の子どもではないのではないかと思います」。しかし、あなたはこう云うことができる。「私はキリストを信じます。私は、自分をキリストのあわれみにゆだねていること、キリストによって救われたいと希望していることを知っています」、と。ならば、もしあなたが信仰を持っているなら、自分が神の子どもではないと云ってはならない。

 しかし、私たちが自分を吟味しなくてはならない、もう1つのしるしが3章24節にある。「神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます」。神の命令への従順は、神のうちに住んでいることを示す、ほむべきしるしである。あなたがたの中のある人々は、宗教的な話を大いにしているが、宗教的な歩みは大してしていない。外面的な敬虔さの蓄えは多いが、あなたの行動のうちに現わされる、真の内的な敬虔さはほとんどない。これは、バプテスマを受けることが正しいことだと知りながら、受けていない、あなたがたの中のある人々に対する助言である。あなたは、これが神の命令の1つであると知っている。「信じた者はバプテスマを受けるべきである」。だのにあなたは、自分の義務と知っていることをないがしろにしている。あなたは、疑いもなく神のうちに住んでいる。だが、あなたには欠けた証拠が1つある。すなわち、――神の命令に対する従順である。神に従うがいい。そうすれば、あなたは自分が神のうちに住んでいることがわかるであろう。

 しかし、私には、善用としてもう一言云いたいことがある。それは《お祝い》の言葉である。あなたがた、神のうちに住んでいる人たち。どうかあなたにお祝いを云わせてほしい。もしあなたが神のうちに住んでいるとしたら、あなたは果報者である! あなたは自分を御使いたちとくらべて恥じ入る必要はない。地上にいるだれかが、あなたのような幸福にあずかっていられると思う必要はない! シオンよ。おゝ、あなたは何とほむべきことか、あらゆる罪から自由にされているのである! さてあなたは、キリストによって、神のうちに住む者とされており、それゆえ永遠に安泰なのである! キリスト者たち。私はあなたにお祝いを述べる。第一に、あなたには、住むべき壮大な家がある。あなたはソロモンの宮殿のように豪勢な宮殿は持っていない。――アッシリヤやバビロンの諸王の住まいのように広壮な大宮殿は有していない。だが、あなたは、定命の被造物には見ることもできない神を有している。あなたは、不滅の建物の中に住んでおり、《神格》の中に住んでいる。――あらゆる人間的技巧を超えたものの中に住んでいる。さらに私がお祝いを述べたいのは、あなたがこのように完璧な家に住んでいることである。地上にある家という家は、絶対にどこかしら改良の余地があるものである。だが、あなたが住んでいる家には、あなたの求めるものがすべてある。神のうちにあなたはあなたが求めるすべてのものを有している。さらに私があなたにお祝いを述べたいのは、あなたの暮らしている家が永遠に残ることである。過ぎ去ることのない住まいだということである。この世界が夢のように追い散らされるときになろうと、白波の上のあぶくのように被造物世界が消滅しようと、この宇宙全体が、消えそうな燃えさしの火花のように消え失せようと、あなたの家は、大理石よりも不朽のものとして、花崗岩よりも堅固なものとして、神のように自存するものとして、生き続け、立ち続ける。それは神だからである! ならば幸せになるがいい。

 さて、最後に、あなたがたの中のある人々に対して、《訓戒と警告》の言葉を語らせてほしい。私の話を聞いている方々。私たちが、私たちの会衆を二分しなくてはならないのは、何と残念なことであろう。私たちが、あなたがたをみなキリスト者として、ひとまとめに語りかけることができないのは、何と残念なことであろう。今朝、私は神のことばを取り上げて、それをあなたがた全員に語ることができたらと思う。あなたがたが全員、この言葉に含まれている甘やかな約束にあずかることができたら、と思う。しかし、あなたがたの中のある人々は、私がそれらを差し出したとしても、それを有することはないであろう。あなたがたの中のある人々は、私のほむべき《主人》、キリストを蔑んでいる。あなたがたの中の多くの人々は、罪を軽いことと考えており、恵みなどつまらぬものだと考えている。天国など幻であり、地獄など絵空事であるという。あなたがたの中のある人々は無頓着で、かたくなで、無思慮で、神なく、キリストから離れている。おゝ! 私の話を聞いている方々。私は、なぜ自分にこれほど薄い慈悲心しかないのか、なぜあなたにもっと熱心に説教できないのかと驚くものである。思うに、もし私があなたの魂の価値を正しく見積もることができるとしたら、私は今しているようなしかたで、もつれる舌によって語ってはいないであろう。むしろ炎が吹き出すような言葉で語っているはずである。私は自分の怠惰さを大いに恥じ入るべきである。もっとも神は、私が神の真理をできる限り熱烈に宣べ伝えようと努力してきたこと、神への奉仕に自分を使い尽くそうとしてきたことをご存じではあるが。だが私は、自分がロンドン中の通りに立って神の真理を宣べ伝えていなことが不思議に思われる。私が、この大都市にいる、イエスについて一度も聞いたことのない、イエスの言葉に耳を傾けたとことが一度もない、おびただしい数の魂について考えるとき、また、いかに多くの無知が存在しているか、いかに僅かな福音宣教しかそこでなされていないか、いかに僅かな魂しか救われていないかを考えるとき、私は思う。――おゝ、神よ! これしか魂のために労していないとは、いかに僅かな恵みしか私は有していないに違いないことか、と。

 警告として一言云わせてほしい。あわれな魂よ。あなたは、自分が住む家を持っていないことを知っているだろうか? あなたは、からだのためには家を有しているが、魂のためには何の家も有していない。あなたは真夜中に、戸口の上がり段に腰かけて泣いている貧しい少女を見たことがあるだろうか? だれかが通り過ぎて、こう云うとする。「なぜここに腰かけているのだね?」 「あたしには家がないんです。旦那様。おうちがないんです」。「お父さんはどこにいるんだい?」 「もう死にました、旦那様」。「お母さんはどこにいるんだい?」 「母はいません、旦那様」。「友だちはひとりもいないのかい?」 「だれひとりいません」。「家がないんだね?」 「ええ、ありません。あたしは家なしなんです」。そして彼女は冷気の中で震えながら、みすぼらしい、ぼろぼろの肩掛けをかき合わせて、また泣き出した。「あたしには家がない――うちがないんだ」。あなたは彼女をあわれに思わないだろうか? 彼女が泣いているからといって責めるだろうか? あゝ! 今朝、この場にいるあなたがたの中のある人々は、家なしの魂を有している。家なしのからだを有するのはつらいことである。だが、家なしの魂を有すると考えてみるがいい! 私は、あなたが永遠の中で天国の戸口の上がり段の上に腰かけている姿が見えるような気がする。ひとりの御使いが云う。「何と! 住む家がないのかね?」 「何の家もありません」、とあわれな魂は云う。「父親はいないのかね?」 「ええ。神は私の父ではありません。そして、神以外にだれもいません」。「母親はいないのかね?」 「ええ。教会は私の母ではありません。私は教会の道を決して求めませんでしたし、イエスを愛しもしませんでした。私には父も母もいません」。「では、何の家もないんだね?」 「ええ。私は家なしの魂なんです」。しかし、そこには、それよりも悪いことが1つある。――家なしの魂は、地獄へ送られなくてはならない。地下牢へ、火で燃える池へ送られなくてはならない。家なしの魂よ! しばらくすれば、あなたのからだは失せ去っているであろう。そして、永遠の復讐という熱い雹が天からやって来るとき、あなたはどこに自分をかくまおうというのだろうか? 最後の審判の日の風があなたの上に憤りをもって吹き荒れるとき、あなたは自分の罪ある頭をどこに隠そうというのだろうか? 恐るべき方の打撃が壁に打ちつける嵐のようにやって来るとき、永遠の暗闇があなたに臨み、地獄があなたの回りで濃くなっていくとき、どこにあなたは身を隠そうというのだろうか? あなたが、「岩々よ、私をかくまってくれ。山々よ。私の上に倒れかかってくれ」*[黙6:16]、と叫んでも、それはみな無駄である。――岩々はあなたに従わないし、山々もあなたをかくまわない。洞窟の中に住むことでもできさえすれば、それはあなたにとって宮殿となるであろう。だが、あなたが自分の頭を隠すことのできる何の洞窟もないであろう。あなたは家なしの魂となり、家なしの霊となり、地獄の闇の中をさまよい、苦悶し、困窮し、苦しめられたまま、永遠にそうあり続けるのである。あわれな家なしの魂よ。あなたは家がほしいだろうか? 私は今朝、自分のみじめさを感じているあらゆる罪人に貸し出せる1つの家を有している。あなたは自分の魂のための家をほしがっているだろうか? ならば、私は貧窮した人々のもとに身を落とし、素朴な言葉であなたに告げるであろう。私には貸家がある、と。あなたは私にその値段を尋ねるだろうか? 教えよう。それは、高慢な人間性が与えたがるであろう値段よりも低い。それは、代金も代価もいらない。あゝ! あなたは、何がしかの賃料を払いたい。そうであろう? キリストをかちとるために、ぜひとも何かをしたい。ならば、あなたがその家を持つことはできない。それは、「代金も代価もなし」でなくてはならない。私は、この家についてはあなたに十分告げてきたので、その素晴らしさを描写しはすまい。しかし、私は1つのことだけあなたに告げたい。――それは、もしあなたが今朝、自分は家なしの魂だと感じているとしたら、明日その鍵を有しているであろう。そして、今日、自分は家なしだと感じているとしたら、今そこに入れるであろう。もしあなたに自分の家があるとしたら、私は別の家をあなたに差し出しはすまい。だが、あなたには他に何の家もない以上、さあ、ここにそれがある。あなたは私の《主人》の家を、地代のほか一銭も払わずに、永遠にわたって賃借したいだろうか? その地代とは、永遠に彼を愛し、彼を愛するということである。あなたはイエスを受け入れて、イエスのうちに永遠を通じて住んでいたいだろうか? それとも、家なしの魂のままで満足だろうか? ぜひ中に入ってみるがいい。それは上から下まで、あなたの欲するあらゆるものが備えつけられている。あなたの一生の間使っても使い切れないほどの黄金に満ちた地下室がある。あなたがキリストとともに楽しみ、その愛の饗宴にあずかる居間がある。そこには、あなたが永遠に食べていられる食物を満載した食卓がある。あなたが自分の友人たちを迎えることのできる、兄弟愛の客間がある。階上には、あなたがイエスとともに憩うことのできる休憩室がある。そして、その天辺には、天国そのものを見ることのできる望楼がある。あなたはその家がほしいだろうか? ほしくないだろうか? あゝ、もしあなたが家なしだとしたら、こう云うであろう。「私はその家を持ちたいと思う。だが、私などにそれが持てるだろうか?」 しかり。その鍵はある。その鍵とは、「イエスのもとに来よ」、である。しかし、あなたは云う。「私は、そんな家に入るにはむさくるしすぎます」。気にすることはない。中には衣がある。ロウランド・ヒルがかつて云ったように、――

   「来たれ、裸の汚れし者よ。来たれ、ぼろ着の、一文無しよ。
    来たれ。みじめな、不潔者よ。来たれ、汝がありのままにて」。

たといあなたが咎ある、罪に定められた者だと感じていても、来るがいい。この家があなたには過ぎたものであっても、キリストはあなたを、次第次第にその家にとって十分良いものとしてくださるであろう。キリストはあなたを洗い、あなたをきよめ、あなたはこれからモーセとともに、同じ確固たる声で歌うことができるようになるであろう。「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです」、と。

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栄光に富む住まい[了]


『ニューパーク街講壇』の読者に謹んでお知らせしたいのは、スポルジョン氏が『バプテスト信仰告白』の新しい版を編集したということである。これを氏は、健全な神学を愛するあらゆる人々に、簡潔な《神学要覧》として推薦するものである。



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