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いのちに至る悔い改め

NO. 44

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1855年9月23日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」。――使11:18


 キリスト教信仰がこれまで打ち勝ってきた障害物の中でも、最大のものは、その最初期の信者たちの精神を支配していた、根深い偏見であった。ユダヤ人信者たち、十二使徒たち、イエス・キリストがイスラエルの離散した人々の中からお召しになった者たちには、救いはユダヤ人から出る[ヨハ4:22]との考え方が、骨の髄までしみついており、アブラハムの子孫のほか何者も――あるいは、何はともあれ割礼を受けた者のほかは何者も――救われることはできないと考えていた。このため彼らは、イエスがあらゆる国民の《救い主》としてやって来られたという考えも、イエスによって地のすべての民族が祝福されるという考えも、自分からいだくことはできなかったのである。彼らがこうした考え方を容認できるようになるまでには、大きな困難があった。これは彼らがユダヤ人として教え込まれてきたことに真っ向から反していたのである。それで彼らはここで、ペテロをキリスト者たちの会議の前に呼びつけて、「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした」、と非難しているのである[使11:3]。ペテロも自分の嫌疑を晴らすには、事の一部始終を繰り返して話す以外になく、神が幻によって彼に現われ、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」[使11:9]、と宣言なさったこと、主がコルネリオとその家の者らに福音を宣べ伝えるよう彼にお命じになったこと[使10:19-20]、それは彼らが神を信ずる者らであったからということを述べなくてはならなかった。この後で、恵みの力が圧倒的な力をもって臨み、一座のユダヤ人たちはもはやそれに抵抗できなかった。そこで彼らは、それまで受けてきたあらゆる教育にもかかわらず、たちまちキリスト教の広大な原理を受け入れ、「『それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。』と言って、神をほめたたえた」。私たちも神を賛美しようではないか。今や私たちはユダヤ教の桎梏から自由にされており、逆にユダヤ人を排斥してきた異教の束縛の下にもなく、かの来たるべき時の間近に生きているのである。その時には、ユダヤ人も異邦人も、奴隷も自由人も、私たちの《かしら》なるイエス・キリストにあって、自分たちが1つであると感ずることになるであろう。しかしながら、私は今、この件についてくどくどと語るつもりはない。むしろ今朝の私の主題は、「いのちに至る悔い改め」である。願わくは神が、あなたがたに語りかける私に豊かな恵みを与えてくださり、そのみことばを鋭利な剣として、「たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通」[ヘブ4:12]してくださるように。

 「いのちに至る悔い改め」ということで私たちは、魂の中の霊的いのちに伴い、それを有するあらゆる人に永遠のいのちを確保するような、あの悔い改めと理解すべきであると思う。私は云う。「いのちに至る悔い改め」は、それとともに霊的いのちをもたらすのである。否、むしろ、霊的いのちの最初の必然的結果なのである、と。ある種の悔い改めは、天性のいのち以外の、何のいのちのしるしでもない。なぜなら、それらは単に良心の力と、人間の中で語りかける天性の声によってもたらされたものでしかないからである。しかし、ここで語られている悔い改めは、いのちの《創始者》によって生じさせられたものであり、それがやって来るとき、それは魂の中に1つのいのちを生み出す。そのため、「罪過と罪との中に死んでいた」者が、キリストとともに生かされ[エペ2:1、4]、何の霊的感受性もなかった者が、今や「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れ」[ヤコ1:21]、腐敗の真っ直中でまどろんでいた者が、神の子どもとされ[ヨハ1:12]、その御座近くにはべる特権を受けるのである。これこそ私は、「いのちに至る悔い改め」――死んでいる霊にいのちを与える悔い改めだと思う。また私は、この悔い改めが永遠のいのちを確保するとも云った。というのも、巷で口にされるのが聞かれる、ある種の悔い改めは、魂の救いを確実にもたらしはしないからである。一部の説教者たちは、人は悔い改めて信仰を得ても、転落して滅びることがありえると断言するであろう。私たちは今朝、わざわざこうした人々の過誤をあばくことに時間を使い尽くすつもりはない。私たちは、こうしたことを以前からしばしば考察してきたし、彼らの教義を擁護するために云われうるあらゆることを論駁してきた。それよりも無限にすぐれた悔い改めのことを考えようではないか。本日の聖句の悔い改めは、彼らの云う悔い改めではなく、「いのちに至る悔い改め」、キリストにある永遠の救いの真のしるしたる悔い改めである。このつかのまの世にいる間ずっと私たちをイエスのうちに保ち、私たちが永遠に移されるときには、決してそこなわれることのない至福を私たちに与える悔い改めである。「いのちに至る悔い改め」は魂の救いの行為であり、救いのあらゆる本質をうちに含んだ胚芽であり、それらを私たちのために確保し、私たちをそれらのために整えるものである。

 私たちは今朝、「いのちに至る」というこの「悔い改め」に、非常に念入りな、祈り深い注意を払いたいと思う。第一に、しばし私は偽りの悔い改めについて考察したい。第二に、真の悔い改めの目印となるいくつかのしるしについて考察したい。そしてその後で私は、天来の慈悲を賞賛したい。その慈悲についてこそ、こう書かれているのである。「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」。

 I. まず第一に、いくつかの《偽りの悔い改め》について考察したいと思う。手始めに、この一言から始めよう。――福音の響きの下で震えおのくことは、「悔い改め」ではない。忠実な福音の説教を聞くとき、それによって激しく心をかき乱され、感動させられる多くの人々がいる。みことばに伴う何らかの力によって、神はそれがご自分のことばであると証言なさり、それを聞く者たちは心ならずも震えおののかされる。私が目にしてきたある人々は、聖書の真理がこの講壇から発されている間、膝をがくがく鳴らし、目から涙をとめどなく流していた。私は彼らの霊が深い憂悶に沈むを目撃した。そのとき――彼らの何人かが私に告げたように――彼らは身も世もなく震えおののき、この声に堪えられない思いをする。というのも、それは恐ろしいシナイの喇叭のように聞こえ、彼らの滅びしか轟かせていないからである。よろしい。話をお聞きの方々。あなたは、福音の説教のもとでいかに激しく心をかき乱されても、あの「いのちに至る悔い改め」を有していないことがありえる。神の家に行き、非常に真剣で厳粛な感動を覚えるのをいかに自覚しても、しかし、かたくなな罪人のままであることがありえる。この言葉を1つの実例によって確証させてほしい。――パウロが両手に鎖をかけられたままペリクスの前に立ち、「正義と節制とやがて来る審判」について説教したとき、「ペリクスは恐れを感じ」た、と書いてある[使24:25]。だがしかし、ぐずぐずと先延ばしをしたあげくにペリクスは、いま滅びに至っている。「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」、と云った他の人々も彼と同様の運命を辿った。あなたがたの中にも、神の家に集えば必ず恐怖に陥るという多くの方々がいる。あなたは、神が自分を罰するだろうという思いに何度となく震え上がることがあった。神に仕える教役者のもとで、真摯な情緒へと至らされたことがしばしばあった。だが、あなたに云わせてほしい。結局のところ、あなたは神から見捨てられるであろう。なぜなら、あなたは、自分のもろもろの罪を悔い改めることも、神に立ち返ることもしなかったからである。

 さらにまた、あなたが神のことばの前に震えおののくだけでなく、人当たりの良い、一種のアグリッパとなることも、きわめてありうることである。あなたは、「ほとんど」[使26:28 <英欽定訳>]キリスト者になるところだが、しかし何の「悔い改め」も有していない。あなたは、それよりさらに進んで、福音を慕い求めてさえいるかもしれない。あなたはこう云うかもしれない。「おゝ! この福音は何と立派なものだろう。これを自分のものにできれば何とよいことか。これによって私は、現世では多くの幸福を確実に自分のものとすることができ、来世では多くの喜びを確実に自分のものとすることができる。これを自分のものと呼べたら何とよいことか」、と。おゝ! このように、この神の御声を聞くことは良いことである。だが、あなたは、どこかの力強い聖句が見事に説き明かされている間、座席に座って、「なるほど、これは真実だ」、と云っているかもしれないが、それがあなたの心に入って行かない限り、決してあなたが悔い改めることはできない。あなたは祈りのために膝をかがめ、唇をわななかせながら、これが自分の魂にとって祝福となるようにと祈っていてさえ、結局は全く神の子どもでないことがありえる。あなたはアグリッパがパウロに云ったように、「あなたは、ほとんど、私をキリスト者にするところだった」[使26:28 <英欽定訳>]、と云うが、それでも、アグリッパのように、決してその「ほとんど」以上に進むことがないかもしれない。彼は「ほとんどキリスト者に」なるところだったが、「全く」なりはしなかった。さて、この場にいるあなたがたのいかに多くが、永遠のいのちへの道に「ほとんど」踏み込んでいながら、実はまだ入っていないことであろう。いかにしばしばあなたは、罪の確信に打たれて膝をかがめ、「ほとんど」悔い改めそうになりながら、その状態にとどまり、実際には悔い改めてこなかったことであろう。あの死体が見えるだろうか? ついさっき死んだばかりである。まだ青ざめた死相はほぼ全く見られず、まだ生きているような血色をしている。その手はまだ温かい。それはまるで生きているとしか思えないし、ほとんど息をしているかのように見える。何もかもそこにある。――虫がわいていることもなく、分解作用が始まるのはまだ先のことであり、おぞましい死臭など全くない。――だがいのちは失われている。そこにいのちはない。あなたもそれと同じである。あなたは、ほとんど生きている。キリスト者が有している、キリスト教信仰の外的な器官は、ほとんどみな有している。だが、あなたには、いのちがない。あなたは悔い改めの一種を有しているかもしれないが、真摯な悔い改めではない。おゝ、偽善者よ! 私は今朝あなたに警告する。たといあなたが、単に震えおののくだけでなく、神のことばに対して満足を覚えているとしても、それでも結局、「いのちに至る悔い改め」を有していないことはありえる。あなたはあの底知れぬ穴に沈み込み、こう云われるのを聞くことがありえる。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ」[マタ25:41]。

 だがさらに、人はこれよりなおも先へ進むことが可能であり、はっきりと神の御手のもとで自らをへりくだらせながら、それでも悔い改めとは全く縁もゆかりもないことがありえる。彼らの誠実は朝もやのようでも、朝早く消え去る露のようでも[ホセ6:4]なく、説教を聞いて彼らは家に帰り、自分で悔い改めのわざと考えるものを行なう。ある種の悪徳や愚行と縁を切り、荒布を身にまとい、自分のしてきたことを思ってさめざめと涙を流す。彼らは神の前で泣く。だがしかし、これらすべてにもかかわらず、彼らの悔い改めは一時的な悔い改めでしかなく、彼らは自分のもろもろの罪に舞い戻っていく。あなたは、このような悔い改めがあることを否定するだろうか? 1つの例を語らせてほしい。アハブという名の男が自分の隣人ナボテの葡萄畑をぜがひでもほしいと思った。ナボテは金をもってしても、代わりの地所をもってしても、それを売ろうとはしなかった。アハブが妻のイゼベルの意見を聞いたところ、彼女は悪巧みによってナボテを殺し、こうしてその葡萄畑を王[アハブ]のものとした。ナボテが殺され、アハブがその葡萄畑を手に入れた後で、主のしもべがアハブのもとを訪ね、彼にこう云った。「『あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ。主はこう仰せられる。犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。今、わたしはあなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去……る』」*[I列21:19、21]。アハブは恐れかしこみ、へりくだったと記されている。そこで主は云われた。「彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間は、わざわいを下さない」。主は彼にある種のあわれみをお授けになった。だが、まさにその次の章にはアハブが背いたことが記されており、ラモテ・ギルアデの戦いで彼は、あの主のしもべが語った通り、そこで殺された。それで、まさにナボテの葡萄畑で、「犬どもが彼の血をなめ」たのである[I列22:38]。私はあなたに云う。あなたもまた、神の前で一時はへりくだるかもしれないが、それでも自分のそむきの罪の奴隷であり続けることがありえる。あなたは永遠の断罪を恐れているが、罪を犯すことは恐れていない。地獄を恐れているが、自分の不義を恐れてはいない。かの穴に投げ込まれることを恐れてはいるが、神の命令に背いて自分の心をかたくなにすることは恐れていない。おゝ、罪人よ。あなたが震えおののいているのは、実は、地獄に対してではないだろうか? あなたを悩ませているのは魂の状態ではなく、地獄なのである。もし地獄が消滅したなら、あなたは以前よりも大手を振って罪を犯し、あなたの魂はかたくなになり、魂の主君に対して反逆するであろう。私の兄弟たち。思い違いをしてはいけない。あなたがたは、信仰に立っているかどうか自分を吟味するがいい[IIコリ13:5]。自分が「いのちに至る悔い改め」であるものを有しているかどうか自問してみるがいい。というのも、あなたは一時的にへりくだっても、決して神の前で悔い改めていないことがありえるからである。

 多くの人は、こうしたことの先まで進んでも、恵みに達さないでいる。あなたは自分のもろもろの罪を告白しても、それでも悔い改めていないことがありえる。あなたは神に近づき、自分が実にみじめな者であることを神に告げ、自分が犯してきたそむきの罪ともろもろの罪とを指折り数えて並べ立てていながら、決して自分の咎を憎むべきものだと感ずることも、あなたの所業に対する心からの憎悪をみじんも感ずることもないことがありえる。あなたは自分の数々のそむきの罪を告白し、認めるが、それでも罪をおぞましく思うことが全くないことがありえる。そして、もしあなたが神の力によって罪に抵抗することをしなければ、もしあなたが罪と縁を切ることがなければ、この想像上の悔い改めは、単なる化粧塗りを目立たせる金箔でしかないであろう。それは火に耐える黄金と変わる恵みではない。私は云う。あなたは自分の過ちを告白しても、それでも悔い改めを有していないことがありえる。

 さらにまた、私はここで、この点に関して述べなくてはならない極限のところまで行くが、あなたは悔い改めにふさわしい何らかの行ないをしていても、それでも悔悟していない者でありえる。このことの証明として、霊感によって立証された1つの事実をあげさせてほしい。

 ユダは、自分の《師》を裏切った。そして、それを行なった後で、自分のしでかした途方もない悪の罪悪感にのしかかられた。彼の罪責感は悔い改めの希望をことごとく埋没させ、真に悔いた悲しみによってではなく、絶望に陥って彼は、自分の罪を大祭司らに告白して、こう叫んだ。「私は罪のない人の血を売った」*。彼らは云った。「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」。こう云われて彼は銀貨を神殿に投げ込んで、自分が咎の代価を身に負ってはいられないことを示してから、それを置き去りにして立ち去った。そして、――彼は救われただろうか? 否。「彼は外に出て行って、首をつった」*[マタ27:4-5]。また、そのときでさえ、神の復讐は彼の後を追った。というのも、彼が首をつったとき、彼は自分のぶらさがった高みから落ちて、八つ裂きになったからである[使1:18]。彼は失われた。そして彼の魂は滅びた。だが、この男が行なったことを見るがいい。彼は罪を犯した。自分が悪かったと告白した。その金子を突き返した。それでも、これらすべての後でも、彼は神に見捨てられていた。これは私たちを震えおののかせないだろうか? あなたにもわかるであろう。いかにキリスト者に酷似した猿真似をすることが可能であることか。またそれにより、いかに知性そのものでさえ、道徳的なものでしかなければ、ころりと欺かれかねないことか。

 II. さて、ここまで私は、多くの偽りの種類の悔い改めについて警告してきたが、これからしばしの間は、《真の悔い改め》について、また、「いのちに至る」という「悔い改め」を自分が有しているかどうかを見分けうるしるしについて、二言三言語ってみたいと思う。

 まず第一に、イエス・キリストのもとにやって来る人々が非常にしばしば犯す一、二の間違いを正させてほしい。1つのこととして、彼らはしばしばこう考える。すなわち、人は、律法と地獄に対する深甚な、身の毛もよだつほどの、すさまじい恐怖をまざまざと感じない限り、悔い改めたとは決して云えないのだ、と。私が会話を交わしてきた人々のうち、非常に多くが私に向かって云ったことを、今朝あなたがたに対して平易に云いかえてみれば、このようなものとなるに違いない。「私は十分に悔い改めていません。私は自分を十分に罪人だと感じていません。私は多くの人たちのような、毒々しく、邪悪にそむく者であった試しがありません。――自分がそのような者であったらよかったのにとさえ思いたいくらいです。罪を愛しているからではなく、そうだとしたら私は、自分の咎をもっと深く確信し、自分が本当にイエス・キリストのもとに来たことをもっと確かに感じられると思うからです」、と。さてこれは、非常に大きな間違いである。来たるべき審きについて恐ろしく、身の毛もよだつような思いをすることと、「悔い改め」が正当なものであるかどうかは、全く何の関係もない。そうした思いは非常にしばしば、神の賜物でも何でもなく、悪魔のほのめかしにほかならない。また、たといそれが律法によってもたらされ、生み出されたものである場合でさえ、それを、「悔い改め」に不可欠な部分であるとみなしてはならない。そうした思いは、悔い改めの本質的部分ではない。「悔い改め」とは、罪に対する憎悪である。罪に背を向けて、神の力によって、それを捨てる決意をすることである。「悔い改め」は罪への憎悪であり、それを捨てることである。人が、律法へのぞっとするような恐怖を現わすこともなしに悔い改めることは可能である。シナイの喇叭の音を聞くことがなく、その雷鳴のゴロゴロ鳴るのを遠くから聞くことしかしていない人が悔い改めることもありえる。人は、全くあわれみの声の力だけによって悔い改めることがある。ルデヤの場合[使16:14]のように、神は、ある心を信仰へと開いてくださる。他の心を神は、必ず来る御怒りという大槌で殴打される。神は、ある心は恵みという錠前あけでお開きになり、ある心は律法という金梃子でこじあけられる。これらは、そこへ達するための異なるしかたであるが、問題は、神がそこに達しておられるのか、そこに神はおられるのか、である。しばしば起こることだが、主は嵐の中にも、地震の中にもおられず、「かすかな細い声」[I列19:12]の中におられる。

 多くの人々が救いについて考える際に犯すもう1つの間違いがある。それは、――自分には十分に悔い改めることができない、ということである。彼らは、ある特定の程度まで悔い改めることができない限り、救われないと思い込んでいるのである。「おゝ、先生!」、とあなたがたの中のある人々は云うであろう。「私には、十分なだけの悔悟がありません」、と。愛する方々。あなたに云わせてほしい。救いには、一定の卓越した水準の「悔い改め」がなくてはならないなどということはない。あなたも知る通り、信仰には様々な程度があるが、しかし最も小さな信仰も人を救うことができる。そのように、悔い改めにも様々な程度があるが、最も小さな悔い改めでも、真摯なものであれば魂を救うのなのである。聖書は、「信じる者は、救われます」*、と云う[マコ16:16]。そして、そう云うとき、そこには、非常にごく小さな程度の信仰も含まれている。そのように、聖書が、「悔い改めて救われよ」、と云うとき、それは、ごく僅かしか真の悔い改めを有していない人をも含んでいるのである。さらに悔い改めは、この定命の状態にあっては、いかなる人においても、決して完全なものになることはない。私たちは決して、疑いを全く混ぜ合わせていない完全な信仰を得ることはない。そして、私たちは決して、いかなる心のかたくなさも全く混じっていないような悔い改めを得ることはないのである。あなたの知る中で最も真摯な悔悟者でさえ、部分的には自分が悔悟していないのを感じるであろう。悔い改めは継続的な一生の行為でもある。それは継続的に成長していくものである。私の信ずるところ、臨終の床に着いたキリスト者は、以前にいつ行なったよりも激しく悔い改めるであろう。これは一生の間なすべきことなのである。罪を犯し、悔い改めること、――罪を犯し、悔い改めること、その連続がキリスト者生活である。そして、悔い改めて、イエスを信ずること、――悔い改めて、イエスを信ずること、その連続がキリスト者の究極的な幸福なのである。あなたは、「悔い改め」において完全になって初めて救われるなどと期待してはならない。いかなるキリスト者も完全にはなれない。「悔い改め」は恵みである。ある人々はそれを救いの条件であると説教している。条件などたわごとである! 救いの条件など何1つない。神ご自身が救いを与えてくださる。そして、神だけが、ご自分のお望みになる人々にそれを与えてくださるのである。神は云われる。「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」[ロマ9:15]。ならば、もし神があなたに、ごく小さな悔い改めを与えておられるとしたら、もしそれが真摯な悔い改めであるとしたら、そのことゆえに神を賛美するがいい。そして、その悔い改めが、あなたが前進するに従い、より深く深く育っていくことを期待するがいい。ならばこの言葉は、あらゆるキリスト者にあてはまるに違いないと思う。キリスト者たる人々よ。あなたは自分が十分に深い悔い改めを有していないと感じている。あなたは自分が十分に大きな信仰を有していないと感じている。何をあなたはすべきだろうか? 信仰が増し加わるように願うがいい[ルカ17:5]。そうすれば、それは育つであろう。悔い改めもそれと同じである。あなたは深い悔い改めを得ようとしたことがあるだろうか? 愛する方々。たといそのときうまく行かなかったとしても、それでもイエスに信頼し、日々、悔悟の霊を得ようとするがいい。もう一度私は云う。最初から完全な悔い改めを持てるなどと期待してはならない。真摯な悔悟をあなたは持たなくてはならない。そして、それからあなたは、天来の恵みのもとで力から力へと進み[詩84:7]、最後には罪を蛇蝎のように憎み、忌み嫌うようになるであろう。そして、それからあなたは悔い改めの完成に近づく――非常に近づく――であろう。さて、こうしたことが、この主題の始めにあたり考えるべきことである。さてあなたは云うであろう。神の御前における真の「悔い改め」のしるしとは何だろうか?

 第一に、私はあなたに云う。そこには常に悲しみが伴っている。いかなる人も、悔い改めている場合、何の種類の悲しみも伴わないということはありえない。神がその人を召しておられるしかたや、その人の以前の生き方に応じて、その強さには大小があるが、そこには何らかの悲しみがなくてはならない。それがいつやって来ようとどうでもいいが、何らかの時点でそれはやって来なくてはならない。さもなければ、それはキリスト者の悔い改めではない。私の知っているある人は、自分が悔い改めたと告白しており、確かに外見に関する限りは変えられた人格をしていた。だが私には、その人が罪に対する真の悲しみを少しでも有しているとは全く見てとれなかったし、その人がイエスを信じていると告白したときも、その人の内側に悔悟している目印は全く見えなかった。私にとって、それは、その人のうちにおいてなされた、一種の忘我的な恵みへの跳躍であると考えられた。そして、後になって私は、その人が、それと同じくらい忘我的な罪への跳躍を再び行なったことを知った。その人は神の羊ではなかった。というのも、その人は悔悟によって洗われたことがなかったからである。神の民はみな、その罪から回心したとき、悔悟によって洗われなくてはならないからである。いかなる人も、罪が憎むべきものであるとわからない限り、キリストのもとに来て、自分の赦免を知ったはずがない。罪こそイエスを殺したものだったからである。あなたがた、涙を浮かべていない目、かがんでいない膝、砕かれていない心をしている者たち。いかにしてあなたは、自分が救われているなどと考えられるのか? 福音は、ただ真に悔い改める人々にだけ救いを約束したのである。

 しかしながら、あなたがたの中のある人々を傷つけたり、私が意図してもいないことを感じさせたりしないように、一言云わせてほしい。私は、あなたが実際に涙を流さなくてはならないとは云っていない。一部の人々は、あまりにも剛直な性分をしているために、涙をこぼすことができないであろう。私の知っているある人々は、溜め息をついたり呻いたりすることはできても、涙を流すことはない。よろしい。私は云う。確かに涙はしばしば悔悟の証拠となるが、涙なしに「いのちに至る悔い改め」を有することもありえる。私があなたに理解してほしいのは、そこには何かしら真の悲しみがなくてはならない、ということである。たといその祈りが声に出されないとしても、それは隠れたものでなくてはならない。そこに何の言葉がないとしても、そこには呻きがなくてはならない。何の涙もないとしても、溜め息がなくてはならない。それがほんの小さなものであるにしても、悔い改めを示す溜め息がなくてはならない。

 私が思うに、この悔い改めの中には、悲しみだけでなく、実践もなくてはならない。――実践的な悔い改めである。

   「こは足らず。 われ悔ゆと云い、
    日々以前(かつて)のごと 歩み暮らすは」

多くの人々は、自分たちの過去の罪について非常に悲しみ、非常に悔悟している。彼らの言葉を聞くがいい。「おゝ!」、と彼らは云う。「私は、これまで自分が酔いどれだったことを悔やんでます。また、あの罪に陥ったことを心底嘆き悲しんでます。あんなことをしたのを深く悼み悲しんでます」、と。それから彼らはまっすぐ家に帰り、日曜の午後一時になる頃には、再びそれらに手を染めているのをあなたは見いだすのである。だがしかし、こうした人々は自分が悔い改めたのだと云う。あなたは、彼らが罪人であると云い、罪を愛していないと云っても、彼らを信ずるだろうか? 彼らは罪を一時的には愛さなくなったかもしれない。だが、彼らが真摯に悔悟していながら、その後で、行って、たちまち以前していたのと変わらぬしかたでそむきの罪を犯すなどということがありえるだろうか? あなたが何度も何度もそむきの罪を犯しながら、あなたの罪を捨てないと云うなら、いかにして私たちはあなたを信じられるだろうか? 私たちは木をその実によって見分けるのであり[マタ12:33]、悔悟した人は、悔い改めのわざを生じさせるものである。私がしばしば、悔悟の力を示す非常に美しい実例であると思ってきたのは、ひとりの敬虔な教役者がかつて物語ってくれた話である。彼は悔い改めについて説教をしていた。そして、その説教の中で盗みの罪について語った。帰宅する途中、ある労務者が彼と並んで歩くことになった。その教役者は、相手の男が、その野良着の下に何かを隠し持っていることに気づいた。そこで、もはや同道には及ばないと云い渡したが、男は一緒に行くと云って聞かなかった。ついに男は云った。「おらが腕の下に持っているのは、あの農園からちょろまかしてきた踏み鍬ですだ。おらは先生が盗みの罪について説教なさるのを聞いたんで、行ってこいつを元に戻さにゃなんねえですだ」。真摯な悔悟こそ、この男に道を戻らせ、盗品を元の所に置くように仕向けたものであった。これは、あの南洋諸島の土人たちについて書かれていたことと同じである。彼らは宣教師たちの衣料や家具類を盗み出し、彼らの家から何もかも持ち去ったが、救いに至るように回心したとき、それらをみな返しにやって来たのである。しかし、あなたがたの中の多くの方々は、自分は悔い改めたと云いながら、そこからは何1つ出てこない。それは指を一鳴らししたのと同じくらい無価値である。人々は、自分は、盗みを犯したことや、賭博場を営んできたことを真摯に悔い改めていると云う。だが彼らは、その実入りのすべてが、自分たちの心を最も慰めるものとなるように、用意周到に手配しているのである。真の「悔い改め」は、「悔い改めにふさわしい行ない」[使26:20]を生み出すものであり、実践的な悔い改めにならざるをえない。

 だが、まだ先がある。あなたは、自分の悔い改めが実践的なものかどうかを、この試験によって知ることができよう。それは長続きするだろうか、しないだろうか? あなたの多くの悔い改めは、結核患者の頬にさす消耗性紅潮のようなもので、何の健康のしるしでもない。何度となく私は、にわかに身につけた、だが不健全な敬虔さを際立たせている若者を見てきた。そうした人は、自分がそのもろもろの罪を悔い改める間際だと考えていた。というのも、そうした人は、何時間か神の前で深く悔悟しており、何週間か自分の愚行をやめるからである。その人は祈りの家に集い、神の子どもとして会話する。しかし、その人は、犬が自分の吐いた物に帰って来るように[箴26:11]、自分の罪に舞い戻る。悪霊が「自分の家に帰り、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなる」*[マタ12:45]。あなたの悔悟は、どのくらい長く続いただろうか? それは何箇月保っただろうか? それとも、突然やって来たかと思うと、去っていっただろうか? あなたは云った。「私は教会に加わります。――神のためなら、あれをします。これをします。他のこともをします」。あなたの行ないは長続きするだろうか? あなたは、自分の悔い改めが半年続くと思うだろうか? それは十二箇月保つだろうか? あなたが死衣にくるまれるまで続くだろうか?

 さらにまた、もう1つ質問しなくてはならない。あなたは、たとい目の前に何の刑罰も置かれていないとしても、自分のもろもろの罪を悔い改めると思うだろうか? それとも、あなたが悔い改めるのは、罪の中にとどまり続ければ永遠に罰されることになると知ってるからだろうか? かりに私があなたに、地獄などどこにもないのだと告げるとする。そうしたければ、悪態をついてもよいのだ、望みさえすれば神から離れて生きてもかまわないのだ、と云うとする。かりに美徳には何の報いもなく、罪には何の罰もないとする。あなたはどちらを選ぶだろうか? あなたは今朝、正直にこう云えるだろうか? 「私は思っています。知っています。たとい何の報いも受けられず、義には何の得もなく、罪によって何も失われるものがなくとも、自分は、神の恵みによって義を選ぶだろう、と」。いかなる罪人も、地獄の口の瀬戸際に来たときには自分のもろもろの罪を憎む。いかなる殺人者も、絞首台のもとに来たときには、自分の犯罪を憎む。私の知る限り、子どもがいついかなるときにもまして自分の過ちを憎むのは、その子がその過ちのためにこれから罰されようという時にほかならない。もしあなたに、かの穴を恐れるべき何の理由もなく、――自分の人生を罪に埋没させてもよいこと、そうしても何の罰も受けずにいられることを知っていたとしたら、あなたはそれでも、自分が罪を憎んでいたはずだ、と感じられるだろうか? 肉の弱さによってやむをえず犯す以外に、いかなる罪も犯すことはできない、犯したくはないと感じられるだろうか? あなたはそれでも聖くなりたいと願うだろうか? それでもキリストのように生きたいと願うだろうか? もしそうだとすれば、――もしあなたが真摯にそう云えるとしたら、――もしあなたがこのように神に立ち返り、自分の罪を永遠の憎悪をもって憎むというなら、あなたは自分が「いのちに至る」という「悔い改め」を有していないのではないかと恐れる必要はない。

 III. さて、しめくくりとなる第三の点は、「いのちに至る悔い改め」を人間に授けてくださる、《神のほむべき慈悲》である。私の愛する方々。「悔い改め」は神の賜物である。これは永遠のいのちを確実なものとする、霊的な恩恵の1つである。天来のあわれみの驚異は、それが単に救いの道を提供するばかりでなく、また、単に人々をして恵みを受け入れるように招いているばかりでなく、それがはっきり人々を救われたいと願わせるようにする、ということである。神は、ご自分の御子イエス・キリストを、私たちの罪のために罰してくださり、そこにおいて、ご自分のあらゆる失われた子どもたちのための救いを提供された。神はご自分に仕える教役者たちを遣わしておられる。教役者は人々に悔い改めて信ずるよう命じており、彼らを神のもとに引き寄せようと労している。人々は、その召しに耳を傾けようとせず、その教役者を軽蔑する。しかし、そのとき、別の使者が遣わされてくる。決して失敗することのない天的な使節である。彼は人々に向かって、悔い改めて、神に立ち返れと召還する。彼らの思いは多少反抗するが、彼――天来の御霊――は彼らに嘆願し、彼らは自分がそれまでいかなる種類の人間であったかを忘れ、悔い改めて、立ち返る。さて、もし神が受けたような仕打ちを私たちが受けたとしたらどうするだろうか? もし私たちが夕食会か祝宴を開き、私たちの使者を遣わして招待客たちを招いたとしたら、私たちはどうするだろうか? あなたは、私たちがわざわざ彼ら全員の所を回って訪問し、彼らを来させようとすべきだと思うだろうか? また、彼らが席に着いて自分には食べられないと云うとしたら、私たちは彼らの口を開けさせようとするだろうか? それでも彼らが自分には食べられないと断言したとしたら、私たちはそれでも彼らに食べさせようとすべきだろうか? あゝ! 愛する方々。あなたはそうはしないのではないかと私は思う。もしあなたが招待状に署名し、招待された人々があなたの祝宴に来ようとしないとしたら、あなたはこう云うではないだろうか? 「お前などに食べさせてやるものか」、と。しかし、神は何をしておられるだろう? 神は云っておられる。「さあ、わたしは祝宴を開こう。わたしは人々を招こう。そして、もし彼らがやって来ないとしたら、わたしに仕える教役者たちを外に遣わし、直接彼らを引っ張って来させよう。わたしはしもべたちにこう云おう。街道や垣根のところに出かけて行って、わたしの準備した祝宴にあずかれるように、無理にでも人々を連れて来よ[ルカ14:23]、と」。神が実際に人々を変えて、それを望む気持ちにさせてくださるとは、天来のあわれみの途方もない行ないではないだろうか? 神は力ずくでそうなさるのではなく、甘やかな霊的説得をお用いになる。彼らは最初、何が何でも救われまいとしている。「だが」、と神は云われる。「それは何にもならない。わたしには、あなたがわたしに立ち返るようにする力があるし、わたしはそうするであろう」。そこで聖霊が、神の子どもたちの良心に、神のことばを非常にほむべきしかたで深く送り込まれるので、彼らはもはやイエスを愛するのを拒むことができない。いいだろうか。意志に反するいかなる力によってでもなく、その意志を変える甘やかな霊的影響力によってである。おゝ、あなたがた、失われ、滅びた罪人たち! ここに立って、私の《主人》のあわれみを賞賛するがいい。神は人々の前に最良の珍味佳肴を供する祝宴を設けておられるばかりか、彼らがそこに来てそれらにあずかるように勧誘し、無理にでも彼らにごちそうを食べさせ続け、ついには彼らを永劫にして永遠の邸宅へと連れて行ってくださるのである。そして、彼らを運び上げるとき、神はひとりひとりにこう云っておられる。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた[エレ31:3]。さて、あなたはわたしを愛するか?」 「おゝ、主よ」、と彼らは叫ぶ。「私たちをここに連れて来られたあなたの恵みは、あなたが私たちを愛しておられることを証明しています。というのも、私たちはここに来たがらなかったからです。あなたは、お前は来なくてはならない、と云われましたが、私たちは、行きたくありません、と云いました。ですがあなたは、私たちを来させてくださいました。そして今、主よ。私たちはその力のゆえに、あなたをほめたたえ、あなたを愛します。それは甘やかな強制でした」。かつて私は、あがいている捕われ人だったが、今の私は喜んでそうする者とされている。

   「主権(たか)き恵みよ、わが魂(たま)屈しぬ!
    手を引かれ行かん 勝ち誇りつつ。
    われは望みて 主のとりことなり
    誉れ歌わん、主のみことばの」。

 さて今、あなたは何と云うだろうか? あなたがたの中のある人々は云うであろう。「先生、私はずっと長いこと悔い改めようと努力してきました。痛みと激しい悩みの中で、私は祈ってきましたし、信じようと努力してきましたし、できることは何でもしてきました」、と。私はあなたに、そうではないことを話したいと思う。あなたは、いくら長いこと悔い改めようと努力しても、そうできるようにはならないであろう。それは悔い改めを得るしかたではないのである。私は旅行をしていたふたりの紳士の話を聞いたことがある。そのひとりが相手にこう云った。「ぼくにはどうしてもわからないんだが、君はいつも君の奥さんや、家族や、自宅での行なわれている何やかやを覚えていて、君の回りにあるすべてのことを彼らと結びつけているように見えるね。だが、ぼくは、いくら家族のことを常に思い出そうと努力しても、全然できないのだ」。「そうだろうね」、と相手は云った。「それが理由なんだよ。――君がそうしようと努力するからいけないのだ。もし君が、君の出会うあらゆる小さな状況を君の家族と結びつけることができたとしたら、君は容易にご家族のことを思い出せるだろう。ぼくは、これこれの時には思うのだ。――今ごろ、あれたちは起きているところだな。これこれの時には、――今ごろ、あれたちは朝食を取っている頃だな、と。こういう具合にぼくは、いつもあれたちを自分の前に置いているのだよ」。私は、同じことが「悔い改め」という点にもあてはまると思う。もしある人が、「私は信じたいのです」、と云って、何か機械的な方法を自分に用いて悔い改めようと努力するとしたら、それは馬鹿げており、その人は決してそれを成し遂げられないであろう。しかし、その人が悔い改める道は、神の恵みによって信ずることであり、イエスを信じ、イエスについて考えることである。もしその人が、血を流れ出させているわき腹と、いばらの冠と、あの苦悶の涙とを、目の前に思い浮かべているとしたら、――もしその人が、キリストがお苦しみになったすべての情景を思い起こしているとしたら、その人が悔い改めて主に立ち返るであろうことは請け合ってもいい。私は、霊的な事がらに関して自分が有しているなけなしの評判を賭けて云うが、――人は、神の聖霊のもとにあって、キリストの十字架をじっと見つめるとき、心砕けずにはいられない。もしそうでないとしたら、私の心は他のだれの心とも違うのである。私は、十字架のことを考え、その姿を思い起こしているときに、それが「悔い改め」を生み出し、信仰を生み出すのに気づかなかった人を、ひとりとして知らない。私たちは、救われたければイエス・キリストを眺めるべきであり、そのとき私たちは云うであろう。「驚くべき犠牲ぞ! イエスかく死にて 罪人救わんとは」、と。もしあなたが信仰を持ちたければ、覚えておくがいい。神はそれを与えてくださる。悔い改めを持ちたければ、それを与えてくださる! 永遠のいのちを持ちたければ、それを豊かに与えてくださる。神は無理にでもあなたに、あなたの大きな罪を感じさせ、あなたが悔い改めるようにさせてくださる。それは、あのカルバリの十字架の眺めによってであり、あの最大の、深甚なる死の叫び、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ!」――「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[マコ15:34]によってである。それは、「悔い改め」を生み出すであろう。それは、あなたを泣かせ、こう云わせるであろう。「あゝ! わが主 血を流せしや? かくわが君の 死に給いしや?」、と。ならば、愛する方々。もしあなたが「悔い改め」を持ちたければ、これがあなたに対する私の最上の忠告である。――イエスを見つめるがいい。そして、願わくは、あらゆる「いのちに至る悔い改め」のほむべき《与え主》が、先に私の述べた偽りの悔い改めからあなたを守り、いのちに至るための「悔い改め」を、あなたに与えてくださるように。

   「悔い改めよ!と あまつ声あり。
    もはや遅るる ことあたわじと。
    この命令(おおせ)をば さげすむ者みな
    死にて火焔(ほのお)の 日にぞ会うべし。

    もはや御神の 主権(たか)き御目は
    ひとの罪とが 見過ごし給わず
    その伝令者(ふれびと)は 四方に送られ
    広く警告(さけ)べり 罪のこの世に。

    この召し出しは あまねく届き
    地よかしこみて 恐れはべれや。
    聞けや 王家(けだか)く 生まれし者よ
    汝が家臣(しもべ)にも あい聞かしめよ!

    うちともないて 御前に額づき
    汝が咎をみな 神に告白(かた)れや。
    救いのきみを 今いだくべし、
    その御恵みを 徒(あだ)になすまじ。

    伏せよ、戦慄(おそろ)し 喇叭の音(ね)響き
    神の審問(さばき)の 座に召さるまで。
    そは憐れみも 限度(すえ)定められ
    やがて復讐(いかり)の とき来たるれば」。

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いのちに至る悔い改め[了]

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