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キリスト者の死

NO. 43

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1855年9月9日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「あなたは長寿を全うして墓にはいろう。あたかも麦束がその時期に収められるように」。――ヨブ5:26


 私たちは、ヨブの友人たちが云ったことすべてを信じてはいない。彼らは非常にしばしば、霊感されていない人間のように語った。というのも、彼らが真実でない多くのことを云っているのを私たちは見いだすからである。また、もしヨブ記を読み通すなら、彼らに関しては、こう云ってよいであろう。「あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ」、と[ヨブ16:2]。彼らは、神のしもべヨブについて真実を語らなかった[ヨブ42:8参照]。しかし、それにもかかわらず、彼らは、多くの聖く敬虔な言葉を発した。それは、十分な敬意に値する言葉である。というのも、その時代において学識と、才質と、能力において際立っていた三人の人物、また、経験から自分の知っていることを語ることのできた三人の白髪の貴人から出た言葉だったからである。彼らの種々の過ちも無理はない。なぜなら、当時の彼らは、この現代の私たちが享受しているようなくっきりとした、明るい、輝かしい光を有していなかったからである。彼らは、ともに相会う機会などほとんどなかった。当時、御国の事がらについて彼らに教える預言者たちはほとんどいなかった。福音の啓示の光なしに、彼らがこれほど多くの真理を悟れたことに、私たちは驚くしかない。しかしながら、この章について私は一言云っておかなくてはならない。すなわち、私はこれを、この人物――ここで語っている者――テマン人エリファズ――の発言というよりは、まさに神のことばがこの人物のうちにあったのだとみなさずにはいられない。ヨブを叱責した愚かな慰め手の無知な云い草というよりは、ご自分の民を慰め、真実を語ることのできる唯一のお方たる、かの偉大な慰め主の言葉であるとみなさずにはいられない、ということである。この意見を正当化するのは、この章が使徒パウロによって引用されているという事実である。エリファズは13節で云っている。「神は知恵のある者を彼ら自身の悪知恵を使って捕える」。そして私たちは、パウロがコリント書でこう云っているのを見いだすのである。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える」[Iコリ3:19]。こうして彼は、この箇所が神によって霊感されたもの、何がどうあれ確実きわまりなく真実なものであると是認しているのである。間違いなくエリファズのような人物の経験は、大いに敬意に値するものである。ここで神の民の一般的な状況が語られるとき、すなわち、舌でむち打たれるときも、彼らが隠されること、「破壊の来るときにも、彼らはそれを恐れない」*[ヨブ5:21]こと、また、彼らが破壊とききんとをあざ笑うこと[ヨブ5:22]その他が語られるとき、私たちは彼の言葉を経験によって証明され、霊感によって立証されたこと受け入れてよい。「あなたは長寿を全うして墓にはいろう。あたかも麦束がその時期に収められるように」。ここには、非常に美しい比喩がある。年老いたキリスト者――それは、この聖句から一目瞭然と思えるからだが――と麦束の比喩である。刈り入れ時の畑に出てみれば、あなたは麦がいかに老いた信仰者を思い起こさせるかがわかるであろう。その畑では、いかに多くの心労が費やされてきたことか! その種が最初に芽吹いたとき、農夫は、若芽に虫がつかないか、葉がむさぼり食われないか、あるいは厳しい霜がかよわい植物に食い入り、枯れ果てさせはしないかと気を揉んだ。それから、季節が巡る月を追うごとに、いかに気遣わしげに彼は天を見上げて、雨が降るのを、あるいは温暖な陽光が、その生気を与える光の洪水を畑に注いでくれるのを切望したことか。その麦がそれなりに成熟したときには、いかに彼は、白渋病や葉枯れ病が、大切な穂をしなびさせないかとやきもきしたことか。だが今それは畑に立っている。そして、ある意味で彼はその心配から解放されている。彼の労苦の月々は終わった。彼は、大地の貴重な実りを忍んで待っていた[ヤコ5:7]が、今や実りはそこにあるのである。そして、同じことが白髪の人についても云える。いかに多くの不安な年月を彼は過ごしてきたことか! その幼児期に、いかに彼は死によって打ち倒されるように思われたことか。だがしかし、彼は無事に青年期、成人期、そして老年期を通り抜けてきた。いかに種々雑多な事故が防がれてきたことか! いかに《摂理的な守り手》の大盾が我の頭上にあって、疫病の矢や、彼のいのちを打ったかもしれない重い事故から彼を守ってきたことか! いかに多くの心労を彼自身いだいてきたことか! いかに多くの悩みを彼は経てきたことか! このしらが頭の老兵士を見るがいい! 彼の額に数々の苦悩が加えた傷跡に注目するがいい! そして見るがいい。彼の胸に深く記された、彼が忍んできた激しい葛藤と試練の暗い記憶を! だが今や、彼の心労はそれなりに終わっており、彼は安息の停泊所の間際にある。もうほんの数年、試練と困難の年を経れば、彼は美しいカナンの岸に上陸することになり、私たちは、農夫が麦に目を注ぐのと同じ喜びをもって彼を眺める。なぜなら、その心労は終わりを告げ、安息の時が今や近づきつつあるからである。いかにその茎が弱くなっていることか! いかにあらゆる風がそれを前後左右に揺らすことか。それは枯れ乾いているのである! 見るがいい、いかに穂先が地面に垂れ下がり、まるでちりに接吻するかのように見え、自らの生え出たもとを示しているかを! そのように、老いた人に注意するがいい。その歩みはよろめき、「窓からながめている女の目は暗くなり、粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ、いなごでさえ重荷となる」*[伝12:3、5]。だが、そうした弱さにおいてさえ、そこには栄光がある。それは、柔弱な葉の弱さではない。完全に熟した穀物の弱さであり、その成熟ぶりを示す弱さであり、栄光に輝く弱さである。まさに黄金色をした麦が、新緑の青々しさをまとっているときよりも麗しく見えるのと同じように、白髪の人はその頭に光栄の冠を戴いているのである[箴16:31]。その人は、若い男がその力において栄光に富み、若い娘がその美しさにおいて栄光に富むのにまさって、その弱さにおいて栄光に富んでいる。また麦束は、それがまもなく家に携え入れられることを思えば、人間の状態の比喩としてさらに美しいものではないだろうか? 刈り入れ人が近づきつつある。今でさえ、私には鎌の研がれる音が聞こえる。刈り入れ人はそれを鋭利にし、すぐに麦を刈り倒すであろう。見よ! 彼が畑を横切って、その収穫を刈り入れにやって来る。そして、ほどなくしてそれは、倉に収め入れられ、無事に貯蔵されるであろう。もはや葉枯れ病にも、白渋病にも、虫にも、病にも遭うことはない。いかなる雪も降り積もらず、いかなる風にも悩まされることのない場所で、それは安泰になるであろう。そして、収穫の完了が宣言され、完全に熟した麦束が農夫の穀倉に収め入れられるときは、喜ばしい時となるであろう。年老いた人もそれと同じである。その人も、じきに家に連れて行かれることになる。死は、今しも、彼の鎌を研いでおり、御使いたちは、彼を空へ携え上げる、その黄金の戦車の支度をしている。倉は建てられている。家は用意されている。すぐに偉大な《主人》が云われるであろう。「毒麦を束にして焼きなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい」*[マタ13:30]、と。

 今朝、私たちが考えたいのは、単に年老いたキリスト者の死だけでなく、キリスト者たち一般の死である。というのも、今からあなたに示すように、この聖句は年老いたキリスト者に関係しているように見受けられるものの、実は大声で、信仰者であるあらゆる人に語りかけているからである。「あなたは長寿を全うして墓にはいろう。あたかも麦束がその時期に収められるように」、と。

 この聖句の中には私たちが注目したい4つのことがある。第一に考察したいのは、死は不可避だということである。なぜなら、ここには、「あなたは……はいろう」、と書かれている。第二に、死は受け入れることができるということである。なぜなら、「わたしはあなたを墓にはいらせる」、とは云われず、「あなたは……墓にはいろう」、と記されているからである。第三に、死は常に時宜を得ている。「あなたは長寿を全うして墓にはいろう」。第四に、キリスト者にとって死は常に栄誉あるものである。というのも、この約束がその人には宣告されているからである。「あなたは長寿を全うして墓にはいろう。あたかも麦束がその時期に収められるように」。

 I. 第一に云いたいこと、すなわち、死は、キリスト者にとってさえ《不可避》であるということは、ごく当たり前の、単純で、ありふれたことであり、ほとんど口にする必要もないことである。だが、この事実の上に、二、三さらに語りたいことがあるので、最初にこう云っておくことが必要なのである。すべての人が死ななくてはならない、というのは、陳腐きわまりない考えであり、その上に何が云えるだろうか。だがしかし、私たちは臆面もなくそう繰り返して云う。というのも、これは周知の事実ではあっても、これほど忘れられることの多い事実はないからである。私たちはみな、理屈の上ではそれを信じており、頭では受け入れているが、心にそれを銘記することの何とまれなことであろう。死の姿は、私たちにそれを思い出させる。厳粛な鐘の音は、私たちにそれを語りかけている。私たちは、鐘が時を打ち、私たちの死すべき定めを宣べ伝えるとき、重く響く時の音を聞く。しかし、普段の私たちはそれを忘れている。死は万人に不可避である。しかし私は、死に関して1つ意見を述べたいと思う。すなわち、「人間には、一度死ぬこと……が定まっている」[ヘブ9:27]と記されている一方で、やがて来たるべき時に、一部のキリスト者は全く死ぬことがない、ということである。だれもが知るように、アダムが決して罪を犯さなかったなら、彼は死ぬことがなかったであろう。死は罪の罰だからである。また私たちは、エノクとエリヤが死ぬことなく天に移されたのを知っている。それゆえ、死はキリスト者にとって絶対の必然ではないと云えるように思える。さらに聖書が告げるところ、イエス・キリストがやって来られるときに、ある人々は、「生き残っている」のである。使徒はこう云う。「私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです」[Iコリ15:51-52]。そのとき、生き残っている人々がいるはずだが、そうした人々について使徒はこう云っている。「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」[Iテサ4:17]。私たちも知る通り、血肉のからだは神の国を相続できない「Iコリ15:50」。しかし、肉体が何らかの霊的作用によって精錬されることは可能であり、それさえあれば肉体が分解する必要はなくなるであろう。おゝ! 私はこのことを非常にしばしば考えてきたし、果たして私たちの中のある者らが、死を見ることがないというこの幸いな人数の中に入ることは可能だろうかと思い巡らしてきた。たとい私たちがそうならなくとも、この考えには非常に心励まされるものがある。キリストが徹底的に死を打ち負かされたので、主はその監獄の中から正当な虜囚を解放するばかりでなく、この怪物の顎から一団の者たちを救い出し、彼らを無傷のままご自分の隠れ家へ至らせるのである! 主は死者を生き返らせ、この残忍な大鎌によって切り殺された者たちに新しいいのちを吹き込まれるだけでなく、脇道を通って、ある者たちを現実に天国に連れて行かれるのである。主は死に向かってこう云われる。――「立ち去れ、怪物め! この者たちに、お前の手をかけることは決して許さない! これらは選ばれた者たちなのだ。お前の冷たい指で決して彼らの魂の流れを凍らせてはならない。わたしは彼らを、死を経ずに直接天国へ連れて行こう。わたしは彼らを、お前の陰気な正門をくぐり抜けることなく、お前の荒涼たる影の国のとりことすることなしに、肉体のまま移すことにしよう」、と。これは何と輝かしい考えであろう。キリストは死を打ち破り、ある人々は死ぬことがないのである。しかし、あなたは私に云うであろう。「そのようなことが、どうしてありえようか。肉体はその本質そのものに定命性を混ぜ合わせているというのに」、と。私たちが著名な人々から真実であると告げられるところ、自然界には死の必要があるという。ある動物は別の動物を補食せざるをえず、たといすべての動物が獲物を食べるのをやめるようしつけられたとしても、それらは植物を食べざるをえず、その中にひそんむ、ある種の微小な昆虫をむさぼり食うことになるからである。それゆえ死は自然の法則であるように見える。覚えておくがいい。人間たちは、すでに現在、割り当てられている期間をはるかに越えて生きている。そして、一千年も生存することのできる被造物が、その期間を超過できるだろうことは、ごく容易に想像がつく。しかし、この反論はなりたたない。聖徒たちはこの世で永遠に生きることになるのではなく、栄光の法則が自然法則に取って代わる住まいへと移されることになるからである。

 II. さて次に来る甘やかな思想は、死はキリスト者にとって常に《受け入れることができるもの》だということである。「あなたは長寿を全うして墓にはいろう」。老キャリルは、この節にこう注記している。――「死への望みと朗らかさ。あなたははいろう。あなたは、あなたの墓に引きずられてくるのでも、せき立てられてくるのでもない。かの愚かな金持ちについて云われているのとは違う。『おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる』(ルカ12)。むしろ、あなたは墓にはいろう。いわば穏やかに、微笑みながら死ぬであろう。あなたは、あなたの墓へ、さながら自分の足で立っていくかのように赴き、あなたの墓所へと運ばれて行くというよりも、歩いていくのである」。悪人は、死ぬとき、その墓へ押しやられるが、キリスト者はその墓にはいるのである。1つたとえ話をさせてほしい。見よ。ふたりの人が同じ家の中に座っていたところ、《死》がそれぞれの人のもとにやって来た。彼は一方の人に向かって云った。「お前は死ぬのだ」。その人は《死》を見つめ――涙が目に一杯になり、震えながらこう云った。「おゝ、《死》よ。私は死ねない! 死にたくない」。彼は医者を探し出して、こう云った。「私は病気です。《死》が私を見つめたのです。奴の目で私は青ざめました。このままでは死んでしまいます。先生、ここに私の財産があります。私を健康にして、生かしてください」。医者はその男の財産を受け取るが、いかに手を尽くしても、健康にすることはできなかった。その男は医者を取っ替え引っ替えして、少しはいのちの糸を引き延ばすことができるかもしれないと考えた。しかし、悲しいかな! 《死》がやって来て云った。「私はお前に時間を与えて、お前の様々な逃げ口上を試させた。私とともに来るがいい。お前は死ぬのだ」。そして《死》は男の手足を縛り上げ、暗黒の影の国へと行かせた。男はその道行きの間、途中に立つ柱の一本一本にしがみついたが、《死》は鉄の手で彼を引っ立てて行った。道すがら生えている木は一本もないのに、男はそれをもつかもうとした。だが《死》は云った。「さっさと来い! お前は私のとりこなのだ。お前は死ぬのだ」。そして、ぐずぐずとなかなか学校に行こうとしない学童のように、男はしぶしぶ《死》とともにその路を辿っていったが、《死》が彼をそこに連れて行ったのである。――墓が彼のもとにやって来たのである。

 しかし、《死》はもう一方の男に云った。「お迎えに来ましたよ」。その男はにっこりと答えた。「あゝ、《死》よ! 私はあなたを知っています。あなたとは何度も会ったことがあります。あなたとは交わりを持ってきました。あなたは、私の《主人》のしもべで、私を家に連れ戻しにやって来たのですね。行って、私の《主人》に云ってください。私は、みこころのまま、どこに行く覚悟もできております、と。《死》よ。あなたと一緒に行く用意はできています」。そして彼らは連れだって路を行きながら、楽しい時を過ごした。《死》は彼に云った。「私は、悪人を怯えさせるために、この骸骨の骨を身につけてはいますが、恐ろしい様子をしているわけではないのです。私はあなたに私の姿をお見せしましょう。ベルシャツァルの壁に文字を書いた手が恐ろしかったのは[ダニ5:5-6]、だれにも手しか見えなかったからです。ですが」、と《死》は云った。「私はあなたに私の全身をお見せしましょう。人々は私の骨ばった手しか見ずに、恐ろしがっているのですよ」。そして道を歩きながら《死》は、帯を解いて自分の全身をキリスト者に見せて微笑んだ。というのも、それは、ひとりの御使いのからだだったからである。《死》には智天使のような翼と、ガブリエルのように輝かしいからだがあった。キリスト者は彼に云った。「あなたは、私が思っていたような方ではありませんね。あなたとなら楽しい旅になるでしょう」。とうとう《死》は信仰者にその手で触れた。――それは、母親がふざけてその子をちょっと叩くかのようであった。子どもは、自分の腕に感ずる愛のこもったその痛みを愛する。それは情愛の証拠だからである。それと同じように、《死》はその指をその人の鼓動の上に置き、一瞬それを停止させた。するとキリスト者は、自分が《死》の優しい指によって1つの霊に変えられたことに気づいた。しかり。自分が御使いたちの兄弟になっていることに気づいた。彼の肉体は天上界に属するものとなっており、彼の魂はきよめられ、彼自身は天国にいた。あなたは、これはただのたとえ話ではないか、と云うであろう。だが、その裏づけとなるいくつかの事実をあげさせてほしい。私はあなたに、死に行く聖徒たちの臨終の床における救いを何例か語り、彼らにとって《死》が快い訪問者、彼らが恐れを感ずることのない訪問者であったことを示すであろう。今まさに死のうという人々を信用できないということはないであろう。そのようなときに偽善者ぶるのはぞっとしない行為であろう。劇が終われば役者は仮面をはずすものである。それと同じことが、死に臨んだこうした人々にもあてはまる。――彼らは、厳粛な、むき出しの真実において際立っている。

 第一に、オーウェン博士が何と云ったか告げさせてほしい。――かの有名な、カルヴァン主義者の王者オーウェン博士である。彼の著作集が見られる限り、人が《無代価の恵みの福音》を擁護する議論に事欠く心配はないと私は思う。そのオーウェン博士のもとに、ある友人が訪れ、博士の『キリストの栄光に関する瞑想』の出版手配ができたと告げた。すると、彼のどんよりした目に一瞬のきらめきが浮かび、彼はこう答えた。「それは嬉しいことだ。おゝ!」、と彼は云った。「長年待ちわびていた時がついにやって来た。これから私は、いまだ味わったこともないような、あるいは、この世では決して味わえないようなしかたで、かの栄光を見ることになるであろう」。

 しかし、あなたは、これはただの神学者ではないか、と云うかもしれない。ある詩人が語る言葉を聞いてみよう。

 ジョージ・ハーバートは、何度か激しい身悶えをした後で、悲嘆にくれて泣き叫ぶ妻と姪に部屋を出るように求めると、その遺書をウッドノット氏の手に託し、こう声を張った。「私は死ぬ用意はできている。――主よ。いま私を捨てないでください。私の力は尽きています。ですが、私の主イエスのいさおのゆえに、あわれみをお与えください。そして今、主よ。わが魂をお受けください」。それから身を床に横たえ、息を引き取って神のもとに行った。こうして、この詩人は死んだ。彼のあの輝かしい空想力、その気になれば陰鬱な事がらも描き出せたはずの空想力は、御使いたちが喜悦する光景のために発揮されただけであった。彼自らよく云っていたように、「私は天の教会の鐘が鳴るのが聞こえると思う」。そして、彼は実際にその鐘の音を、かのヨルダン川に近づいたときに聞いたのだと私は思う。

 「しかし」、とあなたは云うであろう。「ひとりは神学者、もうひとりは詩人ですよ。――それはみな空想かもしれません」。では、ひとりの活動家、ひとりの宣教師――ブレイナード――が何と云ったか知るがいい。

 彼は云った。「私は今、永遠の中にあるのも同然です。そこに行くことを望みます。私の働きは終わりました。すべての友人と別れる時が来ました。私にとって世のすべては価値がありません。聖なる御使いたちとともに神をほめたたえ、神をあがめるために、天国に行くことを望みます」。これがブレイナードの云ったことである。イエス・キリストを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思い「ピリ3:8」、粗野で無教育な北米土人たちの間で福音を宣べ伝えるために出ていった人物の、これが言葉である。

 しかし、あなたがこう云うこともありえる。「こうした人々は、過去の時代の人々ですよ」。では、現代の人々が何と云っているか教えよう。

 まず最初に、かの偉大な卓越せるスコットランド人説教者ホールデーンの云ったことを聞くがいい。彼は少しからだを伸ばすと、はっきりとこの言葉を繰り返した。「私たちのいのちであるキリストが現われると、そのとき私たちも、キリストとともに、栄光のうちに現われます」*[コロ3:4]。そのとき彼は、自分が故郷に向かっていると思うかどうか尋ねられた。彼は答えた。「まだ、そうとも云い切れないね」。そこでホールデーン夫人が愛情をこめて云った。「ならば、あなたは、まだすぐには私たちを置いていかないのですわ」。彼は微笑んで答えた。「世を去ってキリストとともにいる方が、はるかにまさっているよ」*[ピリ1:23]。大きな平安と幸福を感じているかと尋ねられて、彼は二度こう繰り返した。「尊い、すばらしい約束」[IIペテ1:4]、と。それから彼は云った。「だが、私は起き上がるに違いない」。ホールデーン夫人は云った。「あなたには、起き上がれませんわ」。彼は微笑んで、こう答えた。「私は目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」*[詩17:15]。彼女は云った。「それが、あなたの云った起き上がることですの?」 彼は答えた。「そうだ。それが私の云った起き上がることだ。私は起き上がるに違いない!」

 さてここで、かの偉大な博愛主義者ハワードは何と云っただろうか? 彼は、真のキリスト教信仰を有し、この上もなくすぐれた、傑出したキリスト者でありながら、その率直で常識的な行動のしかたから、決して狂信者とも熱狂主義者とも疑われることのないであろう人物である。その死の数年前に、彼の病気の症状が最も恐ろしい様相を呈し始めたとき、彼はプリーストマン提督にこう云った。「あなたは、死についてあれこれ考えることから私の思いをそらそうと努力していますが、私は非常に違う意見を持っていますよ。死は私にとって何の恐怖でもありません。私は、常に喜びをもって、とは云えなくとも、常に朗らかに死を待ち望んでいます」。

 しかし、ことによると、あなたはこう云うかもしれない。「私たちは、そうした人たちをひとりも知りません。だれか私たちの知っている人のことを聞かせてくれませんか」、と。よろしい。あなたには、あなたも私が愛情をこめて言及するのを再三聞いたことのあるひとりの人のことを聞かせよう。その人は私たちの教派に属してはいないが、まさにイスラエルの君主のひとりである。――私が云っているのは、ジョウゼフ・アイアンズのことである。あなたがたの中の多くの方々は、彼の口から出てきた甘やかで幸いな言葉を聞いたことがあるであろうし、もしかすると、彼について伝えられている話を証言できるかもしれない。間を置いて彼は、聖書の短い箇所を繰り返し、こういった文章を選んでいる。「主よ、いつまでですか」[イザ6:11]。「主イエスよ、来てください」[黙22:20]。「私は切に家へ帰って休みたい」。愛しい妻が涙を流しているのを見て、彼は云った。「私のために泣いてはいけない。私は、あの測り知れない、重い永遠の栄光[IIコリ4:17]を待ち望んでいるのだから」。息を整えるために少し休んでから、彼はこう云い足した。「私をこのように保ってくださったお方は、決して私を離れず、また、私を捨てない。恐れてはならない。何も不都合はない。キリストは尊い。私は家に帰るのだ。私は完全に熟した麦束なのだから」。さて、これはあなたがたの多くが知っていた人物である。そしてこれは、私が主張してきた事実、すなわち、キリスト者にとって死は、それがいつやって来ようと、受け入れられるものだということを証明するものである。私は、この場にいる多くの兄弟たちとともに、こう云えるものと確信している。すなわち、もしいま私に、定命の者に願える限りの最高の恩恵が授けられるとしたら、私は自分が死ぬことを願うであろう。私は決してそうした選択が自分に与えられることを願いはしない。だが、死ぬことは、人が有しうる最高に幸いなことである。なぜなら、それは心配をなくし、思い煩いを消滅させ、愛する者に特有の眠りを得ることだからである。ならば、キリスト者にとって、死は受け入れられるものに違いない。

 キリスト者は、死によって何も失うものがない。あなたは、友人たちを失わなくてはならないと云う。私はそれはどうかと思う。あなたがたの中の多くの方々は、地上よりも天国に、ずっと多くの友人を持っているかもしれない。一部のキリスト者は、下界よりは天界において、ずっと多くの親しく愛する者たちを有している。あなたはしばしば身内の者たちの数を数える。だが、あなたは、ワーズワースが語っているあの少女のようにしているだろうか? 彼女は、「ご主人様、私は七人家族ですわ」、と云った。そのうちの何人かは死んで天国に行っていたが、彼女は、彼らもみな、まだ兄弟であり姉妹であると云いたがったのである。おゝ! いかに多くの兄弟姉妹が、階上の、私たちの御父の家の二階にいることか。いかに多くの親愛な人々、私たちと血縁で結ばれた人々がいることか。そうした人々は、今もかつてと変わらず私たちの親類だからである! 復活において、彼らは決してめとることもとつぐこともない[マコ12:25]とはいえ、それでも、かの大いなる世界において、情愛の絆が断たれるとか、そこでも私たちが、イエス・キリストと縁者であるのと同じように、互いに縁者であることを云い交わせないなどと、だれが云っただろうか? 死によって私たちは何を失わなくてはならないだろうか? 彼がいつやって来ようと、私たちは彼のために扉を開けるべきではないだろうか? 私は、いまわの際で、このように云った婦人と同じように感じたいと思う。「私は、私の主をお迎えしようと開くのを待っている、鍵をかけていない扉のような気がします」。家の中が片づいていて、もう整頓することが何1つないというのは、甘やかな状態ではないだろうか? 死が悪人のもとにやって来るとき、死は彼が堅く固縛されていることに気づき、そのもやい綱を断ち切って、彼の船を海へ追いやる。だが、キリスト者のもとにやって来るときには、彼が錨を巻き上げていることに気づき、こう云う。「あなたがあなたのわざをなし終えており、錨を定位置におさめているので、私はあなたを故郷に連れて行きましょう」。甘やかな呼気で、死は彼に息を吹きかけ、船はふわりと天国まで運ばれていく。そこに生への未練はなく、御使いが船首にいる。霊たちは舵を導き、甘やかな歌は索具を伝ってやって来て、帆布は光で銀色に輝いているのである。

 III. では第三に、キリスト者の死は常に《時宜にかなっている》。――「あなたは長寿を全うして墓にはいろう」。「あゝ!」、とある人は云う。「それは正しくありません。善良な人々も、他の人たちより長生きするわけではありません。この上もなく敬虔な人も、青春の真っ盛りに死ぬことがあります」、と。しかし、本日の聖句を見るがいい。それは、あなたは老年になってから墓にはいる、と云ってはいない。――「齢を全うして」 <英欽定訳> と云っているのである。よろしい。人がいつ「齢を全う」するか、だれが知っているだろうか? 「齢を全う」するのは、いつであれ、神がご自分の子どもたちを家へ連れて行かれるときのことである。ご存じのように、ある種の果物は熟するのが遅く、降誕祭になるまで、あるいは厳寒期をくぐり抜けるまで、芳しい香りがしてこないと思う。一方、別の種類のものは、いま食卓にあげることができる。すべての果物が同じ時期に熟れて、完熟するわけではない。キリスト者もそれと同じである。彼らは、「神が彼らを家に連れて行くのを選ばれるとき」に齢を全うするのである。彼らが二十一歳で死ぬとしたら、そのときに齢を全うしたのである。その後、九十歳まで生きたとしても、そのとき以上に全うされるわけではない。ある種の葡萄酒は、収穫の後すぐに飲める。他のものは保存しておく必要がある。しかし、その酒樽の口を開けたときに、本格的な芳香がたちのぼる限り、時期の違いなど何ほどのことがあるだろう? 神は決して葡萄酒が完熟するまで、ご自分の樽に口をお開けにならない。キリスト者には2つのあわれみがある。第一に、キリスト者は、決して早すぎる死を迎えることがない。第二に、決して遅すぎた死を迎えることがない。

 第一に、キリスト者は決して早すぎる死を迎えることがない。何年か前に燃えるような輝きを放っていたスペンサーは、非常に素晴らしい説教を行なっており、多くの人々によって、1つの偉大な光が着実に輝き続け、多くの者らが天国へと導かれるだろうと期待されていた。だが、突如としてその光が暗闇の中で消し去られ、まだ青年であった彼が溺死したとき、人々は涙にくれて、「あゝ! スペンサーは死ぬのが早すぎた」、と云った。詩人のカーク・ホワイトについても同じことが歌われた。数々の研究に精力的に取り組んでいた彼は、自分を殺した矢についていた羽根がわが身から出た羽毛であったことに気づいた鷲のように、彼自身の研究がその死の手段となった。そして、この詩人は自分が死ぬのは早すぎると云った。これは正しくない。彼は早すぎる死を迎えたのではない。いかなるキリスト者にもそのようなことはない。しかし、ある人は云う。「もし彼らが死ななかったら、いかに有益な働きをなしえたことか」。あゝ! だが、いかに破滅的な働きもなしえたことか! そして、早めに死んだ方が、後で自らに恥辱を招き、キリスト者の人格に泥を塗るようなことをするよりもましではないだろうか? 自分たちの働きが進みつつあるうちに眠りについた方が、後で自らそれを破壊するよりもましではないだろうか? 私たちは、いくつかの痛ましい実例を見てきた。神の御国を進展させることにおいて非常に用いられていたキリスト者たちが、後になると痛ましく転落し、彼ら自身は救われて、最後には回復されたものの、キリストに不名誉をもたらしたのである。私たちは、彼らが生き長らえるよりも死んでくれていたらと願いたいほどである。こうした、ごく若くして取り去られた人々の生涯が、いかなるものとなりえていたか、あなたにはわからない。あなたは彼らがそれほど多くの善を施すことになっていたと、心底から確信しているのだろうか? 彼らは多くの悪をなしていたかもしれないではないだろうか? 私たちは、未来の夢を見て、彼らがいかなる者になり果てていたかを見ることができたとしたら、こう云うはずである。「あゝ、主よ! まともなうちに、止めさせてください」、と。楽しい音色が鳴り響いているうちに眠るがいい。後になると、おぞましい音となるかもしれない。私たちは、目覚めたまま陰鬱な調べを聞いていたくはない。キリスト者は良い死に方をする。早すぎる死を迎えはしない。

 また、キリスト者は決して遅すぎる死を迎えることがない。八十歳になる老女がいる。彼女は、みじめな部屋に座っており、わずかな火の回りで震えている。彼女が生きているのは慈善事業のおかげである。彼女は貧しくみじめである。「あの人が何の役に立つだろう?」、とだれもが云う。「あの人は長生きをしすぎたのだ。数年前なら、いくらかは人のためにもなったかもしれない。だが今の彼女を見るがいい! 口に入れてもらわなければ、食べ物を食べることもほとんどできない。動くこともできない。では、あの人が何の役に立つだろう?」 あなたの《主人》の働きにけちをつけてはならない。神は最高の農夫であられ、ご自分の麦を畑の中に長く置きすぎて腐らせるようなことは決してなさらない。行って彼女を見るがいい。あなたは叱責されるであろう。彼女に語らせてみるがいい。彼女は、あなたの人生であなたが一度も知らなかったような事がらを告げることができるであろう。たとい彼女が何も話せなくとも、彼女の静かな、愚痴を云うことのない静謐さ、彼女の絶えざる従順さは、いかに苦しみを耐えるべきかをあなたに教えるであろう。それで、彼女からはまだ学べることがあるのである。古い葉っぱがあまりにも長く木にくっついていると云ってはならない。一匹の虫がまだその中でのたくっており、それを自分の住まいに仕立てるかもしれない。おゝ、かの古いひからびた葉っぱが、とうの昔に吹き飛ばされていればよかったのだと云ってはならない。やがて来たるべき時に、それは静かに地面の上に落ちるであろう。だが、それは考えなしの人々に向かって、その人生のはかなさを宣べ伝え続けているのである。神が私たちひとりひとりに何と語りかけておられるか聞くがいい。「あなたは齢を全うして墓にはいろう。あたかも麦束がその時期に収められるように」。虎列剌よ! お前は国中を飛び回り、空気を汚染できるかもしれないが、私は「齢を全うして」死ぬであろう。私は今日説教できるであろうし、今週中、好きなだけ説教できるであろう。だが、私は齢を全うして死ぬであろう。いかに熱心に労働していても、私は齢を全うして死ぬであろう。患難がやって来て、私の生き血を抜き出させ、私という存在の力や活力そのものを干上がらせるかもしれない。あゝ、だが患難よ。お前が早めにやって来ることはできない。――私は齢を全うして死ぬであろう。そして、待ち受けている人よ! 待ちこがれている人よ! あなたは云っている。「主よ。いつまでですか? いつまでですか? 家へ帰らせてください」。あなたは、あなたの愛するイエスから、一時間たりとも必要以上に長く引き離されていることはない。あなたは、あなたの準備が整い次第、即座に天国に行けるであろう。天国はあなたのための準備が整っている。そしてあなたの主は、あなたの齢が全うされたとき、こう仰るであろう。「ここへ上ってきなさい!」、と。――だが、それ以前にも、それ以後にも、決してそう仰ることはないであろう。

 IV. さて最後のこととして、キリスト者は《誉れ》をもって死ぬであろう。「あなたは長寿を全うして墓にはいろう。あたかも麦束がその時期に収められるように」。あなたは、人々が虚礼の葬儀に反対するのを聞いているし、私も確かに、多くの葬式が執り行なわれる際の途方もない豪華さや、しばしば持ち込まれる、愚にもつかない馬鹿さ加減には異議を申し立てるものである。もしもだれかがこうしたことを払拭できるとしたら、それは幸いであろう。また寡婦たちが、自分でも喉から手が出るほど必要な金銭を、必要もない虚礼のために費やすよう強制されなくなるとしたら、幸いであろう。そのような儀式は、死を誉れあるものとするのでなく、軽蔑すべきものとしている。しかし、確かに死はけばけばしく飾り立てるべきものではないが、私たちの中のだれもが行ないたいと願うような、誉れある葬儀というものもあると思う。私たちは、ただの毒麦の束のように運び去られたくはない。それよりは、敬虔な人々によって墓まで運んでもらい、私たちのために大いに嘆き悲しんでほしいと思う。私たちの中には、「収穫の完了」に非常によく似た葬儀を見たことがある人々がいるであろう。今も思い出すが、ある高徳な教役者の葬式に私は出席したことがある。その講壇には黒布がかけられ、人々が群れをなして参集した。そして、キリストの軍隊に属する、ひとりの年老いた古強者が立ち上がり、彼の亡骸を前に弔辞を語り始めた。そこに立つ人々は、その日イスラエルでひとりの王が倒れたことを嘆き悲しんでいた。そのとき、まことに私は、ジェイ氏がロウランド・ヒルのための告別説教を行なったときに経験したに違いないことを感じた。「もみの木よ。泣きわめけ。杉の木は倒れ……たからだ」[ゼカ11:2]。そこには、非常にもの悲しい荘厳さがあった。だがしかし、私の魂は喜びに燃え立つようにも思われた。それで、私たちの中のある人々は同じ感情をともにすることができるし、同じ涙を、私たちがやがて死ぬときにも、私たちのために注ぐことができるだろうと思うのである。あゝ! この場にいる私の兄弟たち。私の同労の兄弟たち。この教会にいる私の兄弟たち。あなたが世を去るとき、自分の死が私たちにとって、何にもまして深甚な嘆きと、痛切な悲しみのもととなるとわかっていれば、それは多少ともあなたの心を励ますであろう。あなたの埋葬は、エホヤキムについて預言されたようなものとはならない。――ろばが埋められるような、だれも悼まないようなものではない[エレ22:18-19]。むしろ、敬虔な人々が集まって、こう云うであろう。「ここに横たわる執事は、何年もの間、その《主人》に忠実に仕えてきました」、と。「ここに横たわる日曜学校の先生は」、と子どもも云うであろう。「《救い主》の御名を幼い私に教えてくれました」、と。そして、もし教役者が倒れたならば、人々は群れをなして墓まで彼の後に従い、さながら「その時期に収められる」麦束に対するような葬儀を行なうであろうと思う。私の信ずるところ、私たちは世を去った聖徒たちの肉体には大きな敬意を払うべきである。「正しい者の思い出はほめたたえられる」[箴10:7 <英欽定訳>]。そして、あなたがた、教会内の小さな聖徒たちよ。あなたが死んだときには、自分が忘れられるなどと考えてはならない。あなたには何の墓石もないかもしれない。だが、御使いたちはあなたがどこにいるかを、墓石があろうとなかろうと知っている。あなたのために、だれかが泣くであろう。あなたは、さっさとお払い箱になるのではなく、涙とともにあなたの墓に運ばれるであろう。

 しかし、あらゆるキリスト者には2つの葬式があると思う。1つは、からだの葬式であり、もう1つは、の葬式である。だが待った。魂の葬式だと? 否。私はそういう意味で云ったのではない。そういう意味ではない。それは魂の結婚である。というのも、魂がからだを離れるや否や、御使いの刈り入れ人たちがそれを連れ去るべく待ちかまえているからである。彼らは、以前エリヤに対してそうしたように火の戦車を持ってくることはないかもしれない。だが彼らには、その大きく広げた翼がある。私の喜ばしく信ずるところ、御使いたちは護衛隊のようにして、天上界の平野を横切って魂のもとへやって来る。見よ! 頭のところにいる御使いたちは、上り行く聖徒を支え、愛情をこめてその顔を見下ろしながら、彼を運び上げて行く。また、足のところにいる御使いたちは、天空を越えた彼方へと彼を軽々と運んでいくのを助けている。そして、農夫たちが家から出てきて、「喜ばしき取入れの完了」、と叫ぶように、御使いたちも天国の門から出てきて、こう云う。「取入れ完了! 取入れ完了! ここにまた、完全に熟した麦束が集められ、納屋に入れられるのだ」、と。思うに、キリストが天にお入りになったことに次いで、私たちが目にすることになる最も誉れある、最も栄えある光景は、神の民のひとりが天国に入る姿にほかならない。私には、ひとり聖徒が入るたびにそれが祝日になると考えられる。そして、それは絶え間なく続き、彼らは不断の祝日を守っているのである。おゝ! 私が思うに、ひとりのキリスト者が天国に入るときには常に、天に1つの叫びがあがる。大水の音[黙19:6]よりも大きな叫びである。1つの宇宙の轟きのような歓声も、この、贖われた者たちのあげる大歓呼の中では囁き声ででもあるかのようにかき消されてしまう。彼らは叫ぶ。「またひとり、そして、またひとりが来るぞ」。そして高まり行く声とともに、彼らがこのように歌う歌が絶え間なくあふれる。「ほむべき農夫よ。ほむべき農夫よ。あなたの麦が取り入れつつあります。完全に熟した麦束が、あなたの納屋に集められつつあります」。よろしい。愛する方々。しばし待つがいい。もうほんの数年もすれば、あなたも私も、御使いたちの翼に乗って天界を越えて運び込まれるであろう。いま私が死んで、御使いたちが近づいてくるとする。私は智天使たちの翼に乗っている。おゝ、いかに彼らが私を運び上げることか。――いかに敏速に、だが、いかに手際よくそうすることか。私は、定命性をそのあらゆる痛みとともに置き去りにする。おゝ、私の飛翔の何という迅速さであろう! たったいま、私は明けの明星を通り越した。今や私の遥か後方に諸惑星がきらめいている。おゝ、いかに迅速に、またいかに甘やかに私は飛んでいることか! 智天使らよ! あなたがたの飛翔は何と甘やかなことか、何という腕に私はよりかかっていることか。また、その途中であなたがたは、愛と情愛のこもった口づけを私にしてくれている。あなたがたは私を兄弟と呼んでくれる。智天使らよ。私があなたがたの兄弟なのか? 今の私は、土くれの住みかのとりこでしかない。――私があなたがたの兄弟なのか? 「そうです!」、と彼らは云う。おゝ、聞けよ! 私には玄妙に調和した音楽が聞こえる。何と甘美な音色が私の耳に入ってくることか! 私はパラダイスに近づいているのである。まさにその通り。霊たちが喜びの歌をもって出迎えているのだろうか? 「そうです!」、と彼らは云う。そして彼らが答えるよりも先に、見よ、彼らがやって来る。――栄光に輝く護衛隊である! 私は、彼らがパラダイスの門の前で大いなる閲兵式を行なう姿が目に入る。そして、あゝ! そこに黄金の門がある。私は中に入る。そして、私のほむべき主を目にする。これ以上あなたに語ることはできない。他のすべては、肉の身には口にすることが許されないであろう。わが主よ! 私はあなたとともにいます。――あなたの中に沈められています。――大海洋に呑み込まれる一滴の水のように――輝かしい虹の中に一粒の色彩が呑み込まれるように、あなたの中に呑み込まれています! 栄光に富むイエスよ。私はあなたの中に呑み込まれているでしょうか? 私の至福は極点に達したのでしょうか? ついに婚礼の日が来たのでしょうか? 私は本当に婚礼の礼服を着たのでしょうか? そして、私はあなたのものなのでしょうか? しかり! 私はそうなっている。他のものはみな私にとってどうでもよい。あなたがた、御使いたちよ。あなたがたの立琴はむなしい。他のすべてはむなしい。私をしばらく放っておいてほしい。あなたがたの天国は、後で徐々に見知っていくであろう。私に何年か、しかり、何時代か与えてほしい。わが主のこの甘やかな胸にもたれかからせていてほしい。永遠の半分ほども与えてほしい。この微笑みの陽光に私を浴させてほしい。しかり。それを私に与えてほしい。イエスよ。何か云われましたか? 「しかり。永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した[エレ31:3]。そして今、あなたはわたしのものだ! あなたはわたしとともにいる」。これが天国ではないだろうか? これ以外に私は何もほしくない。もう一度あなたに云う。あなたがた、ほむべき霊たちよ。私はあなたを後で徐々に見知っていくであろう。しかし、わが主とともにいるとき、私は今、私の愛の饗宴に着いているのである。おゝ、イエスよ! イエスよ! イエスよ! あなたが天国です! 私は他に何も欲しません! 私はあなたに呑み込まれています!

 愛する方々。これこそ、完全に熟した「麦束がその時期に収められるように、齢を全うして墓にはいる」ことではないだろうか? その日が来るのが早ければ早いほど、私たちの喜びは大きいであろう。おゝ、のろのろと進む時の車よ! お前の飛翔を早めるがいい。おゝ、御使いたちよ。なにゆえにあなたがたは、荒々しい翼をもってやって来るのか。おゝ! 天界を越えて飛びかけり、稲妻の閃きをも追い越すがいい! なぜ私は死んではならないのか? なぜここで私は待っていなくてはならないのか? あせる心よ、もう少し静かにしているがいい。お前はまだ天国にふさわしくはないのだ。さもなければ、お前がここにいるはずがない。お前はまだ仕事をなし終えていないのだ。さもなければ、お前の安息についているはずである。もう少し長く骨折って働くがいい。墓の中には十分に安息がある。そこでお前はそれを得るであろう。進み行くがいい! 行くがいい!

   「背には合切袋(ふくろ)を 手に杖をもて
    われは疾走(はし)らん 敵(あだ)の地ついて
    みち険しくとも 長くは続かじ。
    さらば望みて 歌いはげまん」。

 私の愛する、まだ回心していない方々。今朝、あなたに何事かを語る時間は私に残されていない。その時間があればと思う。しかし、私がここまで語ってきたことが、あなたにもあてはまればいいと私は願う。あわれな心よ。残念ながら私は、今のあなたに、それがあてはまると告げることはできない。私があなたがたひとりひとりに説教し、あなたがたがみな天国に行くことになるのだと云えたら、どんなによいことか。しかし、あなたがたの中のある人々が地獄への路を辿っていることを神はご存じである。そして、もしあなたが地獄への路を辿っているとしたら、天国に入ることになるなどと考えてはならない。自分が北へ進んでいるとしたら、南に着くなどとはだれも期待しないであろう。しかり。神があなたの心を変えてくださらなくてはならない。単純にイエスに信頼することによって、自分をそのあわれみにゆだねさえすれば、この世のだれよりも邪悪な人であっても、あなたは御顔の前で歌うことになるであろう。そして、あわれな罪人よ。あなたは私に向かって、こう云うであろうと思う。それは、先週の水曜に、説教を終えた後の私に、ひとりの貧しい婦人が告げたのと同じ言葉であろう。そのときの説教では、私の信ずるところ、身分の高い者から低い者まで、あらゆる人が涙にくれており、講壇上の説教者すら泣いていた。講壇から降りてきた私は、ある人に云った。「あなたは殻ですか、麦ですか?」 すると彼女は云った。「あゝ! 先生、私は今晩震えました」。私は別の人に云った。「さあ、姉妹よ。私たちは、じきにパラダイスにいることになりますね」。すると彼女は答えた。「先生はおはいりになりますわ」。それから私は別の人のところへ行き、こう云った。「さて、あなたは自分が麦とともに集められると思いますか?」 すると彼女は答えて云った。「私に云えることは1つだけです。――もし神が私などを天国に入れてくださるとしたら、私はありったけの力をこめて神をほめたたえるでしょう。私はいつまでも歌い続け、どれだけ高らかに歌っても決して足りないと思うでしょう」。この言葉に私は、ひとりの老いた弟子がかつて語ったことを思い出した。「もし主イエスが私などを救ってくださるとしたら、主も私の口をふさぐことはできないでしょう」。では、永遠に神をほめたたえようではないか。――

   「いのちと、思いと、この存在(み)が続き、
    不滅(とわ)のありさま 保(も)たん限りは!」

願わくは、いま《三一の神》が、その祝福とともにあなたがたを去らせてくださるように。

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キリスト者の死[了]

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