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胸壁への強襲

NO. 38

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1855年9月16日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「その城壁に上って滅ぼせ。しかし、ことごとく滅ぼしてはならない。その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。――エレ5:10 <英欽定訳>


 先週の間、私たちは、「赫々たる勝利」や、「輝かしい成功」や、「攻囲戦」や、「強襲」といったことをふんだんに語り合った。私たちは、自分たちが得意げに話していることの恐ろしい現実について、ほとんどわかっていない。もし私たちが、ある都市への強襲や、ある町の奪取や、兵士による略奪、怒りにまかせた蛮行、上がる血しぶき、延々たる遅延によって狂気に駆られた兵士らを目の当たりにできたとしたら、もし私たちが、朱に染まった血みどろの戦場を見ることができたとしたら、もし私たちが、累々たる死体や半死半生の人々の間に一時間でもいることができたとしたら、また、もし私たちが戦闘の騒音や、砲声の轟きを耳に届かせることができさえしたら、これほど歓喜することはないはずである。私たちが、自国民に対するのと変わらぬ思いやりを、他国民に対しても感じている限りは、そうであろう。すべての人は私の兄弟ではないだろうか? イエスはそう私に告げていないだろうか? 私たちはみな、1つの肉体から造られているではないだろうか? また、神は、「ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ」[使17:26]たではないだろうか? ならば私たちは、敵軍が完膚無きまでに打ち負かされ、数千人が戦死したと聞くときも、彼らの死を喜ぶのはやめようではないか。それは、キリスト教信仰とは完全に矛盾した精神を露呈するであろう。それは、イスラム教精神か、仏陀の猛烈な教義に近いものであっても、絶対に、栄光に富む神の福音の諸真理と相容れるものではない。だがしかし、それにもかかわらず私は、この国が味わっている喜びを押しとどめようというつもりは毛頭ない。戦争の重圧がとうとう取り除かれる日を期待できるようになったのである。おゝ、大英帝国人よ。手を打ちならすがいい! あなたがた、アルビオンの子らよ。喜ぶがいい! あなたの剣が再び鞘におさまり、あなたの兵士らが、大鎌の前の草のように刈り取られずにすむ希望が出てきたのである。あなたの炉辺が寂しくなることが食い止められ、暴君が高慢の鼻をへし折られ、平和が回復される希望が出てきたのである。こうしたことのためとあらば、私たちは喜びおどろう。私たちに勝利を与えてくださった神に向かって歌おう。大地の上の傷がふさがれること、その血がもはや流れずにすむこと、平和が、望むらくは永続的な足場の上に確立されるであろうことを喜ぼう。これこそ、キリスト者的なものの見方であろうと思う。私たちは、よりすぐれた事がらを期待して喜ぶべきである。だが、すさまじい死と、恐るべき大殺戮については悼み悲しむべきである。それがどの程度のものかは、まだわからないが、歴史はそれを暗黒の物事として書き入れるであろう。私が熱心に祈るのは、私たちの勇敢な兵士たちが、欠乏への忍耐や、攻撃における豪胆さに劣りなく、勝利における穏健さにおいても自らの誉れを現わすことである。この件については、これ以上何も云うことはない。いま私は、それとは異なる種類の攻囲戦、別の種類の都市奪取について語りたいと思う。

 エルサレムは神に対して罪を犯し続けてきた。《いと高き方》に反逆し、自分のために偽りの神々を立て、その前にひれ伏してきた。また、神が懲らしめをもたらすと威嚇なさったときも、自分の回りに強固な胸壁や稜堡を築いた。エルサレムは云った。「私は安全で安泰だ。たといエホバがどこかへ行ってしまっても、私は諸国の神々に信頼しよう。神殿が倒壊させられても、私たちは、自分たちの立てた砦や堅固な要塞により頼もう」。「あゝ!」、と神は云われる。「エルサレムよ。わたしはお前を罰そう。お前はわたしの選んだもの。それゆえ、わたしはお前を懲らしめよう。わたしはつわものを集め、彼らに語りかけよう。わたしは彼らに命じてお前のもとに来させよう。そして彼らは、こうした事がらのゆえにお前を罰そう。わたしは、このような国に復讐しよう」。そして神は、カルデヤ人とバビロン人を召集し、聞き慣れない言語を喋る、この荒々しい人々に対して云った。「その城壁に上って滅ぼせ。しかし、ことごとく滅ぼしてはならない。その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。このように神は、邪悪な人々を用いて、それよりもさらに邪悪な国、だが今なお神の情愛と愛の対象である国を懲らしめるための鞭とされたのである。

 今朝、私は本日の聖句を取り上げ、四通りのしかたで、相異なる種別の人々に向かって語りかけたいと思う。最初に、これは神によって、神の教会に関して語りかけられたものであろうと思う。「教会に向かって攻め上れ」、と神は教会の敵に向かって云われる。「その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。これは、多くのキリスト者に対して語られたものでもあろう。神はしばしば困難や敵たちに命じて、キリスト者に向かって攻め上らせ、主のものでない胸壁を取り除かせなさる。またこれは、自分に信頼し、まだへりくだらされていない半端な回心者に対して語られたものでもありえる。神は、疑いや、恐れや、罪の確信や、律法に向かって云われる。「彼に向かって攻め上れ。ことごとく滅ぼしてはならない。その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。そして最後に、これは傲慢な罪人に対して語られたものでもあろう。自分自身の強さにより頼み、互いに手を携えることで罰されずにすまそうと期待している罪人のことである。神は、最終的にはご自分の御使いたちに云われる。「彼に向かって攻め上れ」。しかしながら、神は、この最後の場合には、次の語句をこう変えられる。――「ことごとく滅ぼせ。その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。

 I. まず第一に、私はこの聖句を《教会》に関して語られたものとみなしたい。神はしばしば、《教会》の敵たちに向かってこう云われる。「教会に向かって攻め上れ。しかし、ことごとく滅ぼしてはならない。その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。神の教会は、自分の神から是認されていないような城壁を築くことを非常に好む。教会は、神の御腕により頼むことに満足せず、神が全く忌み嫌われるような助けを何か外側につけ足そうとしがちである。「高嶺の麗しさは、全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる」[詩48:2; 125:2]。しかし、御民は、神が彼らを取り囲むことで満足せず、何か他の防護を求める。教会は、非常にしばしば大王[ホセ5:13]のもとに行って助けを求めるか、この世のもとに行って援助を求めてきた。それで神は、教会の敵たちに対して云われた。「教会に向かって攻め上れ。しかし、ことごとく滅ぼしてはならない。その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ。そのようなものがあってはならない。わたしが教会の胸壁なのだ。教会は、他のいかなる胸壁も有してはならない」。

 1. 私に言及できる最初のことは、こうである。神の教会は、時として政治体制をその胸壁にしようとすることがあった。昔、ローマには1つの教会があった。聖く敬虔な神の教会で、その教会員たちはイスラエルの神を礼拝し、その前にひれ伏していた。しかし、コンスタンティヌスという、ひとりの狡猾な君主が、もし自分がキリスト者になれば、そうすることで帝国をより堅固に確保でき、司祭たちの協力を受けている他の様々な軍団長たちを押さえつけることができるだろう、そして自分の目的を果たすことも、自分の栄誉を高めることもできるだろうと信じて、空に幻を見たという狂言を打ち、キリスト者になると告白し、自らを教会の首長とし、信者たちの指導者におさまった。教会は、彼の腕の中に落ち込み、そのとき国家と教会は緊密に結びつくようになった。左様、教会は腐った不潔な塊となり果て、その最後の痕跡が拭い去られるのが早ければ早いほどよいというほど、この世のつらよごしとなった。これは、教会が主のものではない砦を築いたからであった。それで神は、教会の敵たちに云われた。「その城壁に上って滅ぼせ」。しかり。彼女の背教は今やあまりにも大きなものとなっており、疑いもなく、全地の《審き主》は彼女を「ことごとく滅ぼす」であろう。そして、黙示録のあの預言が成就するであろう。「それゆえ一日のうちに、さまざまの災害、すなわち死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は力の強い方だからです」[黙18:8]。現存する真のプロテスタント教会の中にも、政治体制と不浄な提携を結んでいるものがある。キリストは、「わたしの国はこの世のものではありません」[ヨハ18:36]、と云われたが、こうした教会は、国王や王侯たちの足元で小さくなってきた。それらは、国家からの寄贈と下賜金を得てきた。それで、それらは高く、強く、栄誉あるものとなり、屈従を拒んでいる純粋な諸教会を笑い者にする。地の諸王との不品行を犯すまいとし、《救い主》の王なる主権を守り通し、キリストだけを《教会》のかしらとして仰ぎ見ようとしている諸教会を笑い者にする。彼らは私たちに、「分離者」だの、「非国教徒」だの、そういった類の形容を当てはめる。だが、私の信ずるところ、神はやがて、あらゆる国教会について、それが英国国教会であれ、アイルランド国教会であれ、スコットランド国教会であれ、他のいかなるものであれ、こう云われるであろう。「その城壁に上って滅ぼせ。しかし、ことごとく滅ぼしてはならない」。というのも、そうした教会の中には何万人もの敬虔な人々がいるからである。「その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。今でさえ、私たちは、こうした胸壁を取り除こうとする動きを世界中で目にしつつある。過去数年の間に、英国国教会の中には、驚くばかりに聖く敬虔な人々が増加した。国教会の中で非常な改善がなされつつあるのを見るのは喜ばしいことである。いかなる種別のキリスト者たちにもまして、迅速に改革に向かって前進しているのは、この人々だと思う。彼らは、その胸中にざわめきを覚えており、こう云っている。「なぜ私たちは、これ以上、政治体制の下にいなくてはならないのだろうか?」 多くの聖職者たちはこう云っている。「私たちには、この連合を支持する気持ちは全くない。私たちは、いかなる国家管理からも喜んで離脱したいと思う」。果たして彼らは、そのように離脱し、自らの確信に従うだろうか。彼らは云っている。「その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。だが、たとい彼らがそれを自分たちで取り除かないとしても、私たちは、微々たる歩みながらも前進しており、天からの助力によって、いずれそのうち彼らに代わって、彼らの胸壁を取り除くであろう。そして彼らは、目覚めてみると、教会維持税や十分の一税が廃止されていることに気づくであろう。また、自分たちが立つも倒れるも自分たち次第であること、神の教会は政治体制などなくとも自立できるほど強いことに気づくであろう。それは英国国教会にとって幸いな日となるであろう。――神の祝福があらんことを! 私は英国国教会を愛している。――こうした胸壁が除かれ、国家の庇護という最後の石が投げ捨てられ、国王や君主たちからの余計な援助が拒まれるとき、そのとき、この教会は栄光に富む教会となって現われるであろう。――洗い場から上って来る雌羊[雅4:2]のように。その教会は、わが国の誉れとなるであろう。今その教会に対して冷淡にしている私たちも、その胸に飛び込んでいく見込みがはるかに高くなるであろう。というのも、英国教会の信仰箇条は真理の精髄であり、その教会の子らの多くは地にあって威厳のある人々[詩16:3]だからである。おゝ、御使いよ。すみやかにあなたの戦いの角笛を吹き鳴らし、命令を下すがいい! 「その城壁に上って滅ぼせ。しかし、ことごとく滅ぼしてはならない」。それはわたしの教会の1つだからである。「その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。神は、そのような胸壁と何の関わりもない。それを憎悪の的となさる。――国家との連携は、イスラエルの神にとって不快なものである。そして、王たちが、真に世話をする者[イザ49:23]となるとき、彼らは今とは別のやり方でシェバの黄金を提供し、自由意志によって、その敬神のささげ物をするであろう。

 2. しかし、自分たちのために胸壁を作っている教会は他にもある。こうした教会は、他の教派と同じく私たちの間にも見いだされる。それは、自分の教会員たちの富によって胸壁を作っている教会である。それは、お上品な会衆、お体裁の良い教会で、教会員のほとんどが裕福な人々である。彼らは、互いにこう云い交わしている。「われわれは強く裕福な教会だ。われわれを傷つけられるものは何もない。われわれは堅く立っていられる」。こうした考えが精神を握っているところでは例外なく、祈祷会にほとんど人が集っていないことがわかるであろう。彼らは、自分たちの働きが支えられるために大いに祈ることなど必要ないと考えているのである。ある兄弟は云う。「もしも五ポンド紙幣が必要なら、われわれが与えられるよ」。彼らは、大群衆を引き寄せる説教者が必要だとは考えない。自分たちだけで十分強いのである。彼らは、物静かな名士たちの栄光ある一団であり、応接間で語るような説教者の話を聞きたがる。庶民にも理解できるような話を楽しむなど、自分たちの沽券にかかわると考えるであろう。そのようなことをすれば、彼らの高貴で誉れある立場はがた落ちであろう。私たちも知る通り、現在、一部の教会では――名指しでそう云われるのは不愉快であろうが――富と身分が第一のこととみなされている。さて、私たちも実際、私たちのただ中に富と身分のある人がいることは大歓迎である。私たちは、自分たちの中に、真理の前進のために何かを行なえる人々が連れて来られたときには、常に神に感謝する。金銀をふんだんに持っていて、自分の賜物の一部を主の家族の貧しい人々に与えることのできるザアカイを見るときには、神をほめたたえる。私たちは、君主たちや王たちが、全地の《王》[詩47:7]の前に贈り物を携えてきて、伏し拝むのを見たいと思う。だが、もし何らかの教会が黄金の子牛を拝んでいるとしたら、この指令が下るであろう。「その城壁に上って滅ぼせ。しかし、ことごとく滅ぼしてはならない。その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。そして、その教会は失墜し、神はそれを卑しめ、高い立場から引き下ろすであろう。こう云われるであろう。「あなたが岩々の上に座し、天の星々の間にあなたの家を建てていようと、そこからでさえ、わたしはあなたを引き落とし、この右の手であなたをつかもう」。神は、ご自分の教会が人間により頼んだり、君主たちに信を置くことをお許しにならないであろう。「そのような者はのろわれよ」、と神は云われる。「そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、その葉は枯れて、実が熟するまでにならない」*[エレ17:5-6; ルカ8:14]。

 3. 別の教会は、学識と博学により頼んでいる。そうした教会の教役者たちの学識は、大いなる城砦、稜堡、城郭のように見える。例えば彼らは云う。「この無学で、野暮ったい説教者たちに何ができよう? このような者らが何の役に立とう? われわれが好むのは、論理的な議論のできる人々、聖書批評学を滔々と論じられる人々、このことと、あのことと、そのことを解決できる人々なのだ」、と。彼らは、自分たちの教役者により頼んでいる。教役者が彼らの力のやぐらである。彼らのすべてのすべてである。彼が、たまたま学識のある人であると、彼らは云う。「彼に逆らって何になろう? あの学識の量を見るがいい! 左様、彼の敵たちはずたずたに引き裂かれるであろう。彼は途方もなく強力で、学識があるのだから」、と。決して誤解しないでほしいが、私は学識や真の知識を軽蔑したことはない。学識や知識は、できる限り自分のものとしよう。学識のある人々が教会に加えられ、神が彼らを有益な者としてくださるとき、私たちは神に感謝する。しかし、最近の教会は、あまりにも学識に信頼を置きすぎ始めている。神のことばの代わりに哲学や、人間の理解により頼みすぎ始めている。実際、私の信ずるところ、信仰を告白するキリスト者たちの大きな部分は、その信仰を人の言葉に置いており、神のことばには置いていない。彼らは云う。「神学者の誰それがそう云ったのだ。また、何某がこの箇所を美しく説明したのだ。だから、それは正しいに違いない」、と。しかし、このことで教会が何をしようと、神は云われるであろう。「その城壁に上って滅ぼせ。しかし、ことごとく滅ぼしてはならない。その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。

 4. しかし、いま諸教会が有している最悪の胸壁は、大きな、極度の用心深さという土塁だと思う。聖書の中の、人を不快にするような、いくつかの真理を説教するのは不適切であると考えられているのである。それらを差し控えておくべきだとする理由が多々あげられている。その1つは、それによって人々がキリストのもとに来るのを妨げられがちだからである。もう1つは、ある種の人々が、福音のこうしたごつごつした先端によってつまづくであろうからである。ある人々は云うであろう。「おゝ、それらは秘密にしておくがいい! これこれの教理を説教する必要などないのだ。なぜ分け隔てをする恵みについて説教するのか? なぜ神の主権を? なぜ選びを? なぜ堅忍を? なぜ有効召命を? これらは人々をつまづかせがちだ。彼らはこのような真理に耐えられないのだ」、と。もしあなたが彼らにキリストの愛や、神の広大なあわれみや、そうしたことについて告げるなら、それは常に快く、満足を与えるであろう。だが、決して心を深く探る律法の働きを説教してはならない。心に切りつけることも、槍状刀を魂に突き入れることもしてはならない。――それは危険であろう。こういうわけで、ほとんどの教会は、極度の用心深さという屈辱的な砦の陰に立てこもっているのである。そうした教会の教役者たちは、だれからも悪口を云われないであろう。彼らは障壁の陰にいて全く安全なのである。あなたは、わが国の現代の神学者たちが、本当はいかなる教理的見解をいだいているかを突きとめようとするとき、非常に当惑するであろう。私の信ずるところ、どこかの貧しく粗末な会堂の中で半時間過ごす方が、どこかの大会堂の中で半世紀を過ごすよりも多くの教理的知識を獲得できるであろう。神の教会は、もう一度、純粋な真理、単純な福音、混じりけのない神の恵みの諸教理により頼むようにさせられなくてはならない。おゝ、願わくはこの教会が、決して神の約束以外の砦は持たないように! 願わくは神こそこの教会の力であり、大盾であられるように! 願わくは神のアイギス[ゼウスがアテナに授けた盾]が私たちの頭上にあり、私たちの絶えざる守りとなるように! 願わくは私たちが、決して信仰の単純さから離れることがないように! そして、人々が耳を貸そうが貸すまいが、私たちがこう云うように。――

   「余人(ひと)の作りし わざみなが
    狡猾(さか)くわが魂(たま) 襲うとも
    我れ虚言(そらごと)と そを呼びて
    心に福音 結びつけん」。

 II. ここから私たちはこの聖句を《キリスト者――神の真の子ども》に対して語りかけたい。真の信仰者もまた、教会と同じような傾向がある。――「主のものではない」種々様々の「胸壁」を築き上げ、自分の希望、自分の確信、自分の愛情を、イスラエルの神のことば以外の何物かに置きがちなのである。

 1. 愛する兄弟たち。私たちがしばしば身を隠すための要砦として作る第一のものは、――被造物に対する愛である。キリスト者の幸福は神のうちにあるべきであり、神だけのうちにあるべきである。キリスト者はこう云えなくてはならない。「私の泉はことごとく、あなたにある[詩87:7]。私は、あなたから、あなただけから、無上の喜びを引き出す」、と。キリストは、そのご人格において、その恵みにおいて、その種々の職務において、そのあわれみにおいて、私たちの唯一の喜びたるべきであり、私たちは、「キリストがすべて」[コロ3:11]であることを誇りとすべきである。しかし、愛する方々。私たちは、生まれながらに、水をためることのできない、こわれた水ためを掘る[エレ2:13]ことをしがちである。漏れ孔のある水差しにも、一滴か二滴はどこかに慰めがあり、私たちはそれが完全に乾ききらない限り、壊れているなどとは全く信じようとしない。私たちは、湧き水の泉[エレ2:13]より先に、それに信頼するものなのである。さて、私たちの中のだれかが被造物を胸壁とするときは常に、神は種々の患難にこう云われる。――「この者のもとに上って滅ぼせ。その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。ひとりの父親がいるとする。――その人にひとりの息子がある。その息子を目の中に入れても痛くないほど可愛がっている。だがその人は、その子を愛しいものとしすぎないように用心するがいい。さもないと、その人はわが子を《いと高き神》の座に据えてしまい、その子を偶像とすることになり、そうなれば確実に神は、患難によって、敵にこう云われるからである。「その城壁に上って滅ぼせ。その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。ひとりの夫がいるとする。その人は、自分の妻に夢中になっている。また、そうしてしかるべきである。聖書が私たちに告げるところ、人は自分の妻をいくら愛しても足りない。「夫たちよ。キリストが教会を愛し……たように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」[エペ5:25]。――これは無限の愛ということである。だが、この人は、行き過ぎをして、愚かな溺愛と偶像崇拝に至ってしまっている。神は云われる。「その男のもとに上って滅ぼせ。しかし、ことごとく滅ぼしてはならない。その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。私たちが、自分の愛と情愛を、どこかの親しい友人の上に据えており、そこに私たちの希望と信頼があるとする。神は云われる。「あなたがたは、たとい互いにはかりごとを立てても、わたしに伺いを立てたことがない。それゆえ、わたしはあなたの信頼するものを取り去る。あなたがたは、たとい敬神のうちを歩いていても、しかるべきほどにわたしとともに歩いては来なかった。おゝ、死よ! そこに上って滅ぼせ。おゝ、患難よ! その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ。わたしは、あなたをわたしに養われて生きるようにしよう。――あなたが、エフライムのように風を食べて生きる[ホセ12:1]ようにはすまい。あなたを、わたしの腕によりかからせよう。こうしたいたんだ葦の杖[イザ36:6]に拠り頼まないようにしよう。地上のものを思わず、天にあるものを思うようにさせよう[コロ3:2]。わたしは、《地》の喜びをしなびさせ、あなたの美しい収穫に葉枯れ病を送ろう。わたしは雲にあなたの太陽を曇らせるであろう。そのとき、あなたはわたしに叫ぶであろう。『おゝ、神よ。あなたは私の信頼の的、わたしの太陽、私の望み、私のすべてです』*[詩71:5]、と。

 おゝ、神が「ことごとく滅ぼす」ことをなさらないとは、何というあわれみであろう! 時として自分が破滅したように思えるかもしれないが、ことごとく破滅したわけではない。時に私たちの希望は滅ぼされ、私たちの信仰は滅ぼされ、私たちの確信は滅ぼされるであろう。だが、何もかもが滅ぼされたわけではない。多少は希望が残されている。つぼの中に一滴は油が残っており、かめの中に一握りは粉がある[I列17:16]。まだ、ことごとく滅ぼされたわけではない。神が多くの喜びを取り去り、多くの希望をしなびさせ、私たちの美しい花々の多くが枯れても、神は何かを残しておられる。星が1つ空にまたたき、明るいともしびが1つ彼方のあばら屋でかすかに光っている。――おゝ、夜のさすらい人よ。あなたは完全に失われてはいない。神はことごとく滅ぼしてはおられない。だが、私たちがみもとに行かない限り、神はそうなさるであろう。

 2. さらにまた、私たちの中の多くの者は、自分の過去の経験で胸壁を作り、イエス・キリストに信頼するかわりに、それにより頼むことがあまりにも多い。そこには一種の自己満足があり、過去を振り返っては、こう云う。「あそこで私はアポリュオン[黙9:11]と戦い、あそこで私は《難儀の丘》に登った。あそこでは私は《落胆の沼》を踏み渡った」。そして、次にはこう思う。「私は何と立派な者なのだろう! 私はこれらすべてを成し遂げてきたのだ。左様。何物も私を傷つけることなどできない。しかり、しかり! 私がこれらすべてを成し遂げた以上、可能なことなら何でもできるであろう。私は偉大な兵士ではないだろうか? だれが私を恐れさせるだろうか? 否、私は自分の剛勇さを信じている。というのも、私のこの腕は多くの勝利をかちとってきたからだ。確かに、私は決してゆるがされない[詩30:6]」。このような人は、現在を軽く見ないではいられない。その人は毎日キリストと交わることなど欲さない。しかり。その人は過去に頼って生きているのである。イエスのさらなる現われなど、ほしくも何ともない。新鮮な証拠などほしくない。その人は、古びた、かび臭い証拠を眺めている。過去の恵みを、食事の味つけとなる調味料とする代わりに、自分の魂のパンそのものとしている。神の民が神を欲さず、かつて神について得ていたものを養いとし、かつて神から与えられた愛に満足している場合、例外なく神は何と云われるだろうか? 「あゝ! わたしは、あなたの胸壁を取り除こう」。神は、疑いと恐れにこう呼びかける。――「この者の城壁に上って滅ぼせ。その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。

 3. それからまた、私たちは時として、あまりにも証拠と、良い行ないに頼りすぎることがある。ラルフ・アースキンの言葉はそれなりに至言である。「私は、自分の悪い行ないよりも、良い行ないによって害を受けることがずっと多い」。これは無律法主義のように思えるが、そうではない。私たちはこれが真実であると経験から知っているのである。「私の悪い行ないは」、とアースキンは云う。「常に私を《救い主》のもとに駆り立てて、あわれみを求めさせる。私の良い行ないは、しばしば私を主から引き離し、私は自分自身に頼り始めた」。私たちもそうではないだろうか? 私たちはしばしば、自分自身について快い意見に達する。私たちは、一週間に何度となく説教している。私たちは何度となく祈祷会に出席している。日曜学校で良い働きをしている。大切な働きをしている執事である。教会の重要会員である。大金を投じて慈善をしている。それで私たちは云う。「確かに私は神の子どもである。――そうでないはずがない。私は天国の相続人である。私を見るがいい! 私がいかなる衣を着ているか見るがいい。実際、私は自分の回りに、私が神の子どもであると証明する義を有しているではないか?」 それから私たちは自分自身に頼り出し、こう云う。「確かに私はゆるがされない。私の山は堅く立ち、動かない」。あなたは、このように私たちが誇るとき、天国の通常の規則がいかなるものか知っているだろうか? 左様、敵に向かってこの命令が下されるのである。――「その者のもとに上って滅ぼせ。しかし、ことごとく滅ぼしてはならない。その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。では、その結果はいかなるものだろうか? 左様。ことによると、神は私たちが罪に陥ることをお許しになり、自己充足がやむかもしれない。多くのキリスト者が堕落するのは、自分の種々の恵みに対する増上慢な自信のためである。私が思うに、唯一の神にとって、外的な罪よりもはるかに忌み嫌うべきものは、自分自身により頼むという、このきわめて邪悪な罪である。願わくは、あなたがたの中のだれひとり、あなた自身の信仰後退という暗黒の本を読むことによって、自分の弱さを学びとるようなことがないように。より願わしいのは、神のもう1つの方法、すなわち、御霊の光を心に送り、私たちの腐敗を発展させるという方法である。サタンはそこに吠えたけりながらやって来て、良心はこう叫び出す。「人よ、あなたは完全ではない」、と。あらゆる腐敗は、ほんのしばらく鎮静していた火山のように噴き出してくる。私たちは、想像力の暗黒の小部屋に連れて行かれる。私たちは自分自身を眺めて云う。「私たちの胸壁はどこへ行ったのだろうか?」 私たちがもう一度、小山の頂上に行ってみると、その胸壁はすべてなくなっている。私たちの町の側面に行ってみる。――胸壁はみな離れ去っている。それで私たちは再びキリストのもとに行き、こう云う。

   「われ罪人の かしらなるとも
    イエスわがために 死にたまいけり」。
   「わが手にもてる もの何もなし
    ただ汝が十字架に われはすがらん」。

天国はもう一度微笑む。今や心が正しくなり、魂は最もふさわしい立場にあるからである。キリスト者よ。あなたの種々の恵みに気をつけるがいい!

 III. さて、この聖句を、半端な《回心者》にあてはめてみよう。私たちの信仰的な経歴において、私たちが、神への回心、と呼ぶ状態の中にある人々のことである。あらゆる人々は、生まれながらに、自分で胸壁を築いては、その陰に身を隠す。私たちが生まれたとき、私たちの先祖アダムは私たちに、私たちの相続財産の一部として高い胸壁、それも非常に高い胸壁を与えた。そして、私たちはそれを好みすぎるあまり、それと分かれるのが辛いほどである。それは幾層にも重なっている。要砦化された壁が何重も取り囲んでいる。だが、キリストが来て心を強襲し、この都市を強襲によって勝ち取り、それをご自分のものとなさるとき、この都市を防備する、こうした幾重もの城壁は崩壊するのである。

 1. 《人霊》という都市の最前面にあって、周囲を睥睨しているのは無頓着さという壁――サタン的な石工技術の建築物である。それは、黒い花崗岩でできており、定命の者の技術では損害を与えることができない。律法を持ち出し、それを巨大な鶴嘴のようにしてこれを破ろうとしても、ひとかけらも削り取ることはできない。これに砲弾を撃ち込み、十の戒めという大迫撃砲から発射できるあらゆる熱砲弾を浴びせても、これっぽっちも揺るがすことはできない。力強い説教という破城槌を持ち出し、死人をも覚醒させ、サタンをもおののかせるような声によって語っても、人は無頓着に、かたくななまま座っている。とうとう恵み深い神はこう大喝される。――「その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。すると、一睨みでその胸壁はぼろぼろに崩れ落ちる。無頓着だった人は素直な心になり、鉄のように硬かった魂は、蝋のように柔らかくなる。かつては福音の警告を平然と笑い飛ばし、教役者の説教を軽蔑していた人は、今や居住まいを正し、一言一句におののいている。主はつむじ風の中におられる。今や主は火の中におられ、しかり、かすかな細い声の中におられる[I列19:12参照]。あらゆることが今や聞こえる。というのも、神が第一の胸壁――かたくなな心と無頓着な生き方という胸壁――を除き去られたからである。あなたがたの中のある人々は、そうしたものまで有していたが、神はそれを取り除かれた。私には、あなたがたの中の多くの方々の頬に光る涙によってわかる。――その天国の尊い金剛石は、あなたが無頓着ではないことを証ししている。

 2. 第一の城壁は打破された。だが都市はまだ占領されてはいない。キリスト者の教役者は、神の御手のもとで、次の城壁を強襲しなくてはならない。――それは自分を義とする城壁である。多くのあわれな説教が、その攻撃において失神してしまう。その多くが、この稜堡への強襲において銃剣で突き殺される。幾千もの良い説教が、これを揺さぶり、ぐらつかせようとして、無駄に費やされる。特に、あなたがた善良で道徳的な人々、神を敬う両親から生まれた子どもたち、また敬虔な親類のいる人々においてそうである。あなたの城壁の何と強固なことであろう! それは別々の石によってできているようには見えず、全体が1つの大きくて頑丈な岩のように思える。あなたは咎があり、――あなたは堕落しており、――あなたは堕ちている。しかり。あなたはそう信じており、そうすることによって口先では聖書に敬意を示す。だが、あなたはそれを感じていない。あなたは謙遜なようすで、身をへりくだらせている。――そうせざるをえない。背筋を伸ばしていることはできないからである。だが、あなたは謙遜のために自ら進んで身をへりくだらせているのでも、自分が無価値であると感じているのでもない。あなたはそう云う。自分のことを乞食だと云う。だが、あなたは自分が、「富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」、と心の中では思っている[黙3:17]。この城壁を強襲するのは、何と困難なことか! これを攻め落とすには、忠実な警告という武力を用いるしかない。これを勝ち取る道は、ただ1つ、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」[エペ2:8]との叫びとともに、大胆にこの城壁によじ登ることしかない。私たちが、あなたの自分の義を落城させるには、非常に荒々しい言葉を用いなくてはならない。左様! 私たちが征服寸前だと思ったとき、それはたちまち一夜にして再び積み上げられる。悪魔の土木工兵や地雷工兵たちがすぐに出てきて、あらゆる破れ目を補修してしまう。私たちは、強襲によってあなたを攻め落とし、あなたが失われた者、滅びた者であると証明したと考えた。だが、あなたは気を取り直し、「私は見かけほど悪くはない。やはり自分は非常に善良な者だと思う」、と云う。私たちがあなたの心に達するためには、神の恵みによって、この城壁を攻め落とさなくてはならない。

 3. このようにして2つの塁壁が突破されたが、まだ別の城壁が私たちの前進を阻んでいる。――キリストの戦士たちには、それは、自己充足という名で知られている。「あゝ!」、と人は云う。「自分が失われ、滅んでいる罪人であることはわかる。――私の望みは私を欺いた。だが、私には、自分で自分を良くできるという別の城壁がある。私は建て上げて、修繕できる」。それでその人は城壁を積み上げ始め、その陰にあぐらをかく。その人は、恵みの契約を、わざの契約とする。信仰を一種の行ないであると考え、人はそれをもとにして救われるのだと思う。人は信じて悔い改めるべきであり、このようにして救いをかちとるのだと想像する。その人は、信仰や悔い改めが神の賜物にすぎないことを否定し、自分の自己充足の陰にあぐらをかいては、「私には、そうしたことが全部できるのだ」、と考える。おゝ! 幸いなことよ、神がこうした思いに砲撃を加えられる日は。私は、自分がこの昔ながらの考え方を長いこといだいており、自分には「できる」、「できる」、「できる」としていたことを知っている。だが私は、私の「できる」が信頼できるものでないことに気づき、私が走り出すために傾けたすべてのことによって塗炭の苦しみを味わった。そこに選びの説教がやって来た。だが、それは私を喜ばせなかった。そこに律法の説教がやって来て、私に自分の無力さを示した。だが、私はそれを信じなかった。私はそれを、どこかの古い経験的なキリスト者の気まぐれで、今の私にはあてはまらない古代の教義の何かだと考えた。それから、そこに罪と死に関する別の説教がやって来た。だが、私は自分が死んでいるなどとは信じなかった。自分が十分生きていると思っていたし、悔い改めることも、徐々に自分を改善していくこともできると思っていたからである。それから、そこに強力な勧告をする説教がやって来た。だが、私は、いつでも好きなときに身辺をきれいにできるし、それは今すぐでなくとも次の火曜日にでもできると感じた。それで私は絶えず自分の自己充足により頼んでいた。しかしながら、とうとう神が本当に私を正気に返らせたとき、神は大きな砲弾を発射し、すべてを震撼させられた。そして、見よ、私は自分が完全に無防備であることに気づいた。私は自分が、力ある御使いたち[IIテサ1:7]以上のもので、いかなることも行なえると思っていたが、そのとき自分がまるでむなしいもの[イザ40:17]であることに気づいた。それと同じように、真に罪を確信させられた罪人はみな、悔い改めも信仰も神からやって来るしかないこと、信頼は《いと高き方》にのみ置かなくてはならないことに気づく。そして、自分自身を見つめる代わりに、その人は、主権のあわれみの足元に、いやでも身を投げ出さざるをえなくなる。私が、あなたがたの中の多くの人々とともに思うところ、こうした城壁の2つは打ち崩された。そして今、願わくは神が、その恵みによってもう1つの城壁をも打ち崩してくださり、ご自分の教役者たちにこう云ってくださるように。「彼らの城壁に上って滅ぼせ。その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」、と。

 ことによると、ここには自分の胸壁が最近取り除かれたばかりの人々がいるかもしれない。そして、神は自分をまさに滅ぼそうとしているのだと思っているかもしれない。自分は破滅するしかない、自分には何の善も、何の希望も、何の助けもない。審きと激しい火とを、恐れながら待つよりほかはない[ヘブ10:27]、と考えているかもしれない。さあ、この最後の言葉を聞くがいい。「ことごとく滅ぼしてはならない」。神は、もしあなたの胸壁を取り除かなかったとしたら、あなたをことごとく滅ぼすであろう。というのも、そのときあなたは自己充足という城壁の中で死ぬことになるからである。だが、神は云われる。「ことごとく滅ぼしてはならない」、と。ならば、神の力と恵みにより頼むがいい。神はあなたを滅ぼしなさらないからである。

 IV. さて、最後に、私はこの箇所を《最後まで不敬虔で罪人である者ら》に関するものとして取り上げなくてはならない。かの大いなる最後の審判の日には、いかに多くの人々が、自分たちの造り上げた何らかの胸壁の陰でのうのうとあぐらをかいていることであろう! ひとりの男がいる。――王侯である。「私は、だれにも責任を負っていない」、と彼は云う。「だれが私に何か責めを負わせるというのか? 私は専制君主なのだ。私のしたことについて申し開きをすることなどないぞ」。おゝ! 彼は最後には、自分の胸壁が取り除かれるとき見いだすであろう。神が皇帝たちの《主人》であり、《王たちの審き主》であることを。別の人はこう云っている。「私のものを私の思うようにしていけないなどということがあるだろうか? たとい神が私を造ったとしても、私は神に仕えはしない。私は自分の意志に従う。私の性質の中にはありとあらゆる善良なものがある。私は、自分の性質の命ずるままに行なう。私はそれに信頼しよう。そして、たとい私よりも高次の存在が何かいるとしても、彼は私に責めを負わせまい。私は単に自分の性質に従っただけなのだから」、と。しかし彼は、神がこう云われるとき、自分の望みが幻想であり、自分の理屈が馬鹿げたものであることに気づくであろう。「罪を犯した者は、その者が死ぬ」[エゼ18:4]。また、神の雷鳴のような御声は、この宣告を発するであろう。「のろわれた者ども。離れて、永遠の火にはいれ」[マタ25:41]。また、一団の人々が手に手を携えて、《永遠者》に抵抗しようと考えている。しかり。彼らは、キリストの御国をくつがえそうとたくらんでいる。彼らは云う。「われわれは賢く、勇ましい。われわれは自分を鍛えてきた。死と契約を結び、よみと同盟した」。あゝ! 彼らは、大いなる最後の審判の日に、自分たちの胸壁に何が起こるか、ほとんど考えもしていない。彼らは、それらがぼろぼろに崩れ落ちるのを見るであろう。そのとき、いかなる恐れと恐怖をもって彼らは叫ぶであろう。「岩々よ、私たちをかくまってくれ! 山々よ、私たちをかくまってくれ!」[黙6:16] 一体彼らは、神の憤りが、その燃える怒りの日に[イザ13:13]火のように発され、神が彼らの希望を溶かし、失せ去らせるとき、また、彼らの喜びをしなびさせ、彼らを御前で丸裸で立たせられるとき、何をするだろうか? それから私は、最後の審判の日に、一団の人々が地上でこう云っているのを思い描く。「われわれは神のあわれみにより頼みますす。宗教だの何だのは信じません。神はあわれみ深いお方であり、われわれはあわれみにより頼みます」。さて、かりにこう考えてみるがいい。――実際にはありえないことだが。というのも、彼らの迷妄は、彼らが死ぬと同時に追い散らされるからである。――かりに、かの恐るべき精算の日に、こうした人々が、契約に裏打ちされていないあわれみの中にうずくまっていると考えてみるがいい。審き主は彼らの都市に目をやり、こう云われる。「御使いらよ! 彼らの城壁に上って滅ぼせ。ことごとく滅ぼせ。その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。そこで御使いたちは云って、その砦のあらゆる石を突き崩す。彼らはあらゆるあわれみの希望を完全に断ち切ってしまう。一撃を加えるたびに彼らは叫ぶ。「聖くなければ、だれも主を見ることができない! 血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない! 人は恵みのゆえに信仰によって救われる。だが、あなたがたは、むき出しのあわれみに拠り頼んでいた。あなたがたがあわれみを受けることはない。あなたがたが受けるのは、むき出しの正義であり、それ以外にない」*[ヘブ12:14; 9:22; エペ2:8]。さらに、儀式や典礼という城郭を建ててきた、別の一団がいる。一方に彼らは、「バプテスマ」と呼ばれる巨大な花崗岩を有しており、もう一方には、「主の晩餐」を有しており、中央には、「堅信礼」を有している。こうした人々は、自分たちは何と壮麗な城郭を築き上げたことかと考えている。「われわれが失われるだと?――われわれは、はっか、クミン、いのんどなどの十分の一を納めている。自分の持てるすべての十分の一をささげている。恵みが儀式の中にあることはわかっている」。そこへ《全能者》が出て来て、一言で彼らの城郭をぺしゃんこにしてしまう。「その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。不敬虔な人々よ! 最後にあなたがたは何をしようというのか? 《恐るべき方》のあらしが突風のようにその城壁に打ち寄せるとき、胸壁もなく、かばってくれる岩もなく、陰に隠れることのできる城壁もないあなたがたはどうしようというのか? あなたの希望が夢か、目覚めれば消える夜の幻のように溶け去るとき、あなたがたはいかにして立とうというのか? 神があなたの心像を軽蔑し、あなたの希望が完全に消滅するとき、あなたは何をしようというのだろうか?

 キリスト者である人は、こういう思いとともにこの場を去ることができよう。すなわち、自分の胸壁は決して取り除かれることがありえない。それらは主のものだからだ、と。私たちは、エホバ――父、御子、聖霊――の選びの愛により頼む。イエス・キリスト、《永遠の御子》の贖いの血に信頼を置く。私たちは、全く、エホバ・ツィドゥケヌ――「主は私たちの正義」[エレ23:6]――の功績、血、義に身をまかせる。私たちは聖霊に信頼している。私たちは告白する。私たちが自分自身では無であることを。――事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのだということを[ロマ9:16]。私たちは完全に契約の愛、契約のあわれみ、契約の誓い、契約の真実さ、契約の不変性により頼み、これらに信頼しているがために自分の胸壁が取り除かれるはずがないと知っている。おゝ、キリスト者よ! こうした城壁があなたを囲んでいる以上、あなたはあなたのあらゆる敵を笑い飛ばす。悪魔は今あなたに手出しできるだろうか? 彼はあなたを眺めて絶望するしかない。疑いや恐れがあなたの胸壁を取り除けるだろうか? 否。それは堅く、しっかりと立っており、私たちのあわれな恐れなど、風で壁に吹きつけられた麦わらのようなものである。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」からである[IIテモ2:13]。そして、罪深い世のありったけの誘惑も、私たち自身の肉的な心も、私たちを《救い主》の愛から引き離すことはできない。私たちには1つの都があり、その城壁は強固で、その土台は永遠である。私たちには、このように云われる神がおられるのである。「わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている」[イザ27:3]。キリスト者よ。信頼するがいい。ここで神は、救いを城壁と砦のために定めておられる。これらに囲まれているあなたは、あなたの敵すべてに向かって微笑むことができる。しかし、これらに何1つつけ加えないように用心するがいい。というのも、もしあなたがたがそうするなら、その使信はこうなるであろうからである。「その胸壁を除け。それらは主のものではないからだ」。

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胸壁への強襲[了]
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