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律法と恵み

NO. 37

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1855年8月26日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」。――ロマ5:20


 律法と恵みの間に存する関係ほど、人が大きな間違いを犯す点はない。ある人々は、福音を無視して律法を云い立てる。他の人々は、律法を無視して福音を云い立てる。またある人々は律法と福音を修正しては、結局、律法も福音も宣べ伝えない。そして他の人々は、福音を持ち込むことによって、完全に律法を廃棄する。多くの人々は、律法が福音であると考え、人間は慈善や、正直さや、義や、節制によって救われることができると教える。そうした人々は誤っている。その一方で多くの人々は、福音が律法であると教える。福音には、その中にいくつかの命令が含まれており、それらに従順であるとき、人間はその功徳によって救われるのだという。この人々も真理を誤っており、それを理解していない。ある種の人々が主張するところ、律法と恵みは混じり合っており、部分的には律法を遵守することによって、部分的には神の恵みによって、人間は救われるのだという。こうした人々は真理を理解しておらず、にせ教師である。今朝、私が神の御助けによってあなたに示したいのは、律法は何のためのものか、福音の目的は何か、ということである。律法が来たのは、その目指すところによって説明される。「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです」。それから、福音の使命が来る。「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」。

 私は今朝、この聖句を2つの意味によって考察したい。第一に、世界全般と、そこに律法がはいって来たことに関して。第二に、罪を確信させられた罪人の心と、その良心に律法がはいって来ることに関して

 I. 第一に私たちは、この聖句を《この世に関するもの》として語りたいと思う。律法を世に送った神の目的は、「違反が増し加わるため」であった。しかし、そこに福音がやって来たのは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれ」たからであった。では、まず全世界に関してである。神が律法を世に送られたのは、「違反が増し加わるため」であった。罪は、神が律法を送られるはるか以前から世にあった。神がその律法をお与えになったのは、違反が違反とみなされるようになるため、左様、そして、律法がやって来ない場合にくらべて、はなはだしく違反が増し加わるためであった。シナイが煙に包まれるはるか以前から罪はあった。その山が《神格》の重みの下で震え、角笛の音が非常に高く長く鳴り響いた[出19:13-19]ときよりもはるか昔から、そむきの罪はあった。そして、律法が一度も聞かれたことがなかった所、そのことばが一度も発布されたことのない異教国においても、それでもそこには罪がある。――なぜなら、人々は、自分が一度も見たことのない律法に対して罪を犯すことはできなくとも、みな自然の光に対して反逆し、良心の命ずるところに反逆し、神が人間を創造して以来、人類につきまとってきた、伝統的な善悪の記憶に対して反逆することはできるからである。あらゆる国のすべての人には良心があり、それゆえすべての人は罪を犯すことができる。神について全く聞いたことのない、無知蒙昧なホッテントット族も、外的に善であるか悪であるかという事がらにおいては、その違いを見分けるに足るだけの自然の光を有している。そして、確かにその人は愚かにも木片や石を伏し拝んでいるとはいえ、もし用いられるならば、それ以上のことをその人に教えるはずの識別力を有している。もしその人が、自分の才質を用いようとするなら、ひとりの神がいることを知ることもできるであろう。というのも使徒は、自然の光しか有していない人々について語る中で、はっきりこう宣言しているからである。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」。ローマ1:20。神の啓示なしにも、人々は罪を犯すことができ、はなはだしい罪を犯すことができる。――良心、天性、伝統、理性、これらのそれぞれが、それらの戒めが破られたことについて、人々を断罪するに十分である。律法は、いかなる人をも罪人にすることはない。すべての人はアダムにあって罪人なのであり、実際上は、律法が導入される以前から罪人だったのである。律法がはいって来たのは、「違反が増し加わるため」にほかならない。さて、一見これは非常にとんでもない思想のように思われ、多くの教役者は、この聖句を全く忌避しようとしてきた。しかし私は、自分に理解できない節を見いだすときには、普通、それを自分が研究すべき聖句であると考える。そして私は、それを私の天の《御父》の前で探求しようと努め、その後、御父が私の魂にそれを開いてくださったときには、それを、御霊の聖なる助けによって、あなたに伝えることを私の義務とみなすものである。「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです」。私はあなたに、いかにして律法が違反を「増し加える」かを示してみたいと思う。

 1. まず第一に、律法は、付加的な光がない限り、罪とは思われなかったはずの多くの事がらが罪であると私たちに告げる。自然の光や、良心の光や、伝統の光を有してはいても、私たちは、律法によってそれと教えられなかったならば、ある種の事がらを決して罪とは信じなかったはずである。さて、いかなる人が、自然の光によって、安息日を聖として守ろうとするだろうか?――その人が聖書を読んだことも聞いたこともないと考えてみるがいい。もしその人が南洋諸島の住民だとしたら、その人はひとりの神がいることは知っているであろうが、自分の時間の七分の一を神のために取り分けるべきだと見つけ出すことは到底できなかったに違いない。私たちの見るところ、異教徒たちの間にも種々の祭礼や祝祭があり、彼らは何日かを自分たちの想像上の神々に祝意を表するために取り分けてはいる。だが、私が知りたいのは、何らかの七日目にその日を神のために取り分け、神の祈りの家で費やすべきであるということを、どこで彼らが発見できるのかということである。実際、創造神エホバによって原初にその日が聖別されたという事実が伝承によって受け継がれていない限り、いかにして彼らがそれを見つけ出せただろう? 良心であれ理性であれ、このような戒めを彼らに教えることが可能であったとは考えられない。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――」[出20:8-10]。さらに、もし「律法」という言葉の中に儀式的祭儀を含めるとしたら、明らかに、外見上は全くどうでもいいように見える多くのことが、律法によって罪となることがわかるであろう。反芻せず、ひづめが分かれていない動物を食べること[レビ11]、交ぜ織りの織物を身にまとうこと[レビ19:19]、らい病人によって汚された寝床に座ること――その他おびただしい数の事がらはみな、それ自体としては全く罪に見えないが、律法はそれらを罪としており、違反を増し加えたのである。

 2. これは、あなたが自分自身の心の動きを眺めることで証明できる事実だが、律法には、人間を反逆させる傾向がある。人間性は、押さえつけられることに反抗する。律法が、「むさぼってはならない。」と云わなかったら、私は情欲を知らなかったであろう[ロマ7:7]。人間の堕落した性質は、律法の発布によって反逆心をかき立てられる。私たちは途方もなく堕落しており、何かが禁じられているというだけで、たちまちその行為を犯したいという願望を心にいだく。私たちがみな知っている通り、概して子どもたちは、してはならないことをしたがり、何かに触ってはいけないと云われると、機会があり次第そうするか、そうしたいと切望するものである。それと同じ傾向を、人間性を観察している人であれば、人間全体について見てとることができる。それでは、律法が私の罪について責めを負うべきなのだろうか? 絶対にそのようなことはない。「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです」。ローマ7:7、8、11。律法は聖であり、正しく、また良いものである。律法は非を有していないが、罪はそれを機会にして違反を犯し、従うべきときに反逆するのである。アウグスティヌスは、この真理を明白に照らし出して、こう云う。――「律法に非があるのではなく、私たちの邪悪でよこしまな性質に非があるのである。それは、あたかも石灰の堆積が、そこに水が注がれるまでは、おとなしく静かにしているが、そこに水を注ぐと煙を発して燃え出すのと変わらない。それは水に非があるためではなく、水に耐えることのできない石灰の性質と本性からそうなるのである」。このように、これが、律法がはいって来ることによって違反が増し加わるという第二の意味である。

 3. だがさらに、律法は、無知という弁解を一切取り除くことによって、罪の罪深さを増し加える。人は律法を知るまでは、罪を犯しても、少なくともある程度は無知という云い訳が通用するが、目の前に規則の法典が広げられているとき、彼らの違反は、光と知識に背いて犯されたものである以上、はるかに大きなものとなる。良心に背いて罪を犯す者は断罪される。では、エホバの御声を軽蔑し、その聖なる主権に挑戦し、その命令を故意に踏みにじる者は、いかにいやまさる罰を受けるに値すると考えられるであろうか。光があればあるほど咎も大きくなる。――律法はその光を与えるがゆえに、私たちを二重に違反者とするのである。おゝ、あなたがた、エホバの律法を聞いている地の国々よ。あなたの罪は増加し、あなたの違反は増し加わっている。

 私はだれかがこう云っているのが聞こえるような気がする。「そんなものを増し加えるために律法をやって来させるとは、何と浅はかなことか!」 一見すると、世界の偉大な創始者によって私たちに与えられた律法が、義と認めさせるのではなく、間接的に私たちの断罪をいやまさるものとするというのは、非常に残酷であるように思われないだろうか? これは、恵み深い神が啓示するのでなく、差し控えておいてしかるべきものに見えないだろうか? しかし、あなたがたは知るがいい。「神の愚かさは人よりも賢い」*のである[Iコリ1:25]。また、ここにおいてすら、1つの恵み深い目的があったことを理解するがいい。生まれながらの人々は、義務を厳格に果たすことによって、恩恵を獲得できると夢見るものだが、神はこう云われるのである。「わたしは、律法を宣言するすることによって、彼らに己の愚劣さを示そう。その律法はあまりにも高潔であるため、彼らはそれに到達することに絶望するであろう。彼らは行ないが十分自分を救うだろうと考えている。彼らは誤った考えをしており、その間違いによって滅ぼされるであろう。私が彼らに送る律法は、あまりにもすさまじい非難であり、あまりにも容赦のない要求であるため、彼らは到底それに従うことはできず、絶望にすら駆られるであろう。そして、イエス・キリストによるわたしのあわれみのもとに来て、それを受け入れるであろう。彼らは律法によって救われることはできない。――今のままの自然の律法によっては救われることができない。彼らはそれに反して罪を犯している。だがしかし、彼らが愚かにもわたしの律法を守ろうと希望していること、律法の行ないによって義と認められようと考えていることをわたしは知っている。だが、わたしは云う。『律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいない』[ガラ2:16]、と。それゆえ、わたしは、1つの律法を書き記そう。――それは暗黒の、重い律法となろう。――その重荷を彼らは担うことができず、そのとき彼らは背を向けて云うであろう。『私は、これを成し遂げようなどとするまい。私の《救い主》にお願いして、私に代わって背負っていただこう』、と」。1つ想像してみるがいい。――ある若者たちが海に出ようとしているとする。私の予測するところ、その海で彼らは嵐に遭遇することになるであろう。かりに私が、その嵐が起こる前に、もう1つの嵐を起こせるとする。さて、自然の暴風雨がやってくる頃には、この若者たちは海上遠くに出てしまっていて、連れ戻して保護する間もなく、難破して、溺死してしまうであろう。では、何を私はするだろうか? 左様、彼らがまだ河口にいるうちに嵐を送り、最大級の危険に遭わせることで、彼らが息せききって岸に戻り、救われるようにするであろう。このように神は行なわれたのである。神は1つの律法を送り、彼らにその旅の険しさを見せつけておられる。律法の嵐によって彼らは、無代価の恵みという停泊地に、いやでも引き戻され、さもなければ陥っていたはずの、すさまじい破滅から救い出されるのである。律法は決して人々を救うためにやって来たのではない。それは決して律法の意図するところではなかった。それがやって来た目的は、行ないによる救いが不可能であるという証拠を完全なものとし、それによって神の選民を福音の完成された救いへと駆り立てて、全くより頼ませることにあった。さて、私の云っていることのほんの例証として、もう1つのたとえで、このことを云い表わさせてほしい。あなたがたはみな、あのアルプスと呼ばれる大山嶺を覚えているであろう。よろしい。もしあのアルプスがもう少し高かったとしたら、それは非常にありがたかったであろう。いずれにせよ、ナポレオン麾下の兵士たちにとってはそうであったろう。彼はその大軍を率いてアルプスを越え、その途中で何千人もの死を招いたからである。さて、もしアルプス山頂の上にもう1つのアルプスを積み上げ、アルプスをヒマラヤよりも高くすることが可能だったとしたら、このようにいや増した困難によってナポレオンはその冒険を思いとどまったではないだろうか? そして、数千人の死が防げたではないだろうか? ナポレオンは、「それは可能か?」、と詰問した。答えは、「かろうじて可能です」、であった。「Avancez[進め]」、とボナパルト[ナポレオン]は叫び、たちまち全軍が山腹の道を苦労して登り始めた。さて、自然の光によると、私たちが行ないというこの山を乗り越えることは実際、可能のように見える。だが、あらゆる人々が、そう試みる過程で滅んでいたことであろう。この低地の丘の通り道さえ、定命の者が踏みしめるには狭すぎるのである。それゆえ神は、もう1つの律法を、1つの山のようにその頂上に置かれたのである。それで今や罪人は云うのである。「私は、あれを登り切ることはできない。それはヘラクレスの力をも越える難事だ。私の目の前には一本の狭い道がある。――イエス・キリストのあわれみという名の道だ。――十字架の道だ。私は、そちらの方に足を向けることにしよう」。しかし、もしあの山が高すぎるように見えなかったとしたら、その人は登って行き、登り続けて、ついにはどこかの深い割れ目に落ち込むか、大雪崩に呑み込まれるか、別の何らかのしかたで永遠に滅んでいたであろう。しかし律法がやって来るのは、全世界が行ないによって救われることの不可能を見てとるためである。

 今度は、この主題のもっと喜ばしい部分に目を向けよう。――恵みの余りある豊かさである。罪の惨害と有害な行為について嘆き悲しんだ後で、私たちの心を喜ばせてくれるのは、「恵みも満ちあふれ」たと確証されることである。

 1. 恵みは、その支配下に至らされる人数において、罪を凌駕している。私の堅く信ずるところ、救われる人の数は、罪に定められる人々の数をはるかにしのぐものとなるであろう。聖書では、イエスがすべてのことにおいて、第一のものとなられると記されている[コロ1:18]。では、このことがなぜ除外されていいだろうか? サタンの方がイエスよりも多くの人を従えることになるなどと考えられるだろうか? おゝ、否。というのも、贖われた者たちはだれにも数えきれぬほど大勢であると書かれてはいるが[黙7:9]、失われた者たちが数え切れないとは記されていないからである。まことに、私たちは目に見える選民が常に残された者[ロマ9:27]であると知ってはいるが、そこに加えられるべき他の人々がいるのである。いま天国にいる、おびただしい数の幼児の霊について、しばし考えてみるがいい。これらはみなアダムにおいて堕落したが、みな選びの民であるがゆえに、みな贖われ、みな新生させられ、母の乳房のもとからそのまま栄光へと飛び来たる特権にあずかったのである。これは、そうした運命を免れた私たちがうらやんでよい幸いな運命である。また、忘れてならないのは、千年期における回心者の大群衆が大いに局面を一変させるということである。というのも、そのとき世界はきわめて人口稠密となり、千年もの恵みの支配は、罪がその六千年にわたる暴政のもとで積み上げた優位を、簡単に逆転して余りあるであろう。その平和の時期には、身分の低い者も高い者もみな主を知るようになり、神の子どもたちは、巣に帰る鳩のように飛び[イザ60:8]、《贖い主》の家族はおびただしく増えるようになる。

 たとい迷信に欺かれ、情欲によって滅ぼされた人々が数千単位で数えられなくてはならないとしても、――それでも恵みはその優位を譲らない。サウルは千を打ったが、ダビデは万を打った[Iサム18:7]。私たちも罪に定められた人々の数が膨大なものであることは認めるが、私たちの考えるところ、幼児期と、千年期の栄光という2つの状態には、途方もない数の聖徒たちの蓄えをなしており、それがキリストに勝利を得させるであろう。失われた者らの行進は長く、滅びた人々は何万、何百万もいるに違いない。だが、王の王のさらに偉大な行進は、そうした者らさえも超えた大群衆となるであろう。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」。無代価の恵みの賞杯は、罪の賞杯よりもはるかに多いであろう。

 2. さらにまた、恵みが「満ちあふれ」るのは、――やがて来たるべき時に世界はことごとく恵みに満ちるが、世界の歴史において、それが完全に罪に引き渡された時代は一度もなかったからである。アダムとエバが神に反逆したとき、それでも世界には恵みが示されていた。というのも、その園で、夕暮れに神は云われたからである。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」[創3:15]。そして、その最初のそむきの罪以来、恵みがその足がかりを地上で完全に失ったことは一瞬たりとも決してなかった。神は常にそのしもべたちを地上に有しておられた。時として彼らは五十人ずつほら穴に隠されることもあったが[I列18:13]、彼らは一度も根絶されたことがない。恵みは低調になることがあり、その流れは非常に浅くなることがあるが、決してからからに干上がることはない。この世には常に、罪の力を中和する恵みの塩があった。黒雲が白昼の明るさをかき消すほどになったことは一度もなかった。しかし、いま急速に近づきつつある時には、恵みが私たちのあわれな世界全体に広がり、普遍的なものとなるであろう。聖書の証言に従って、私たちが待ち望んでいる大いなる日には、この世界を暗闇に包み込んできた暗い雲が取り除かれ、それはその姉妹惑星たちのすべてと同じように再び輝くようになるのである。それは長い年月の間、罪と腐敗によって曇らされ、覆われてきた。しかし、最後の火がその襤褸布と荒布を焼き尽くすであろう。その火の後で、義にある世が輝くのである。今は私たちの共通の母の内部で眠っている溶解した塊が、浄化の手段となるであろう。宮殿も、王冠も、民衆も、帝国も、みな溶け落ちる。そして、疫病の家のように現在の被造世界が完全に焼き尽くされた後で、神がその熱された塊に息を吹きかけると、それは再び冷たくなるであろう。それを見て神は、最初にそれを創造されたときと同じように微笑み、新たに造られた山々を幾筋もの川が流れ下り、新たに造られた海峡に海洋が浮かび、世界は再び永遠に義人の住まいとなるであろう。この堕落した世界は、その軌道に回復されるであろう。神の王笏から失われた、かの宝石は、再び填め込まれるであろう。しかり。神はそれを印形として御腕のかたわらに着けておかれるであろう。キリストは世のために死なれた。そして、ご自分が死を賭した相手を、ご自分のものとなさるであろう。主は全世界のために死なれた。そして、全世界を主は、浄化し、きよめ、ご自分にふさわしいものとした後でお持ちになるであろう。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」。というのも、恵みは普遍のものとなるが、罪は決してそうなったことがないからである。

 もう1つの思想がある。この世は罪によってその所有物を失っただろうか? だがそれは、はるかにまさるものを恵みによって獲得している。確かに私たちは、平安と、愛と、幸福とが栄光に富んで宿っていた歓喜の園から放逐された。確かにエデンは私たちのものではない。その芳しい果実も、その至福のあずまやも、黄金の砂の上を流れる河々も失われた。だが私たちは、イエスによって、さらに美しい住まいを得ている。主は私たちを、ともに天の所に座らせておられる[エペ2:6]。――天国の平野は、かの楽園の野をしのいでいる。そこには、絶えず新しい喜びが供され、いのちの木と、御座から流れ出てくる川[黙22:1-2]とが、天界の住民たちを楽園以上の状態に置くからである。私たちは、生まれつきのいのちを失い、罪による痛ましい死に身を引き渡しただろうか? 恵みは、そのためなら喜んで死ねるような不滅を明らかにしていないだろうか? アダムにあって失われたいのちは、キリストにあっていやまさって回復されている。私たちも、私たちの原初の衣がアダムによって引き裂かれたことは認めるが、イエスは私たちを、天来の義でまとってくださった。その衣は、創造された際の、しみ1つない無垢の衣をさえ、価値においてはるかにしのいでいる。私たちは、罪による私たちの卑しくみじめな状態を嘆いているが、今や自分たちが、堕落する前よりもずっと安泰であること、堕落しないでいた場合とくらべてはるかに親しいイエスとの縁に至らされたことを思って喜ぶであろう。おゝ、イエスよ! あなたが私たちにためにかちとられた資産は、アダムがその愚行によってかつて失ったものよりもはるかに広大なものであった。あなたが私たちの金箱を満たしてくださった富は、私たちの罪がかつてばらまいたいかなる富にもまして大いなるものであった。あなたの恵みは、私たちのもろもろの罪を圧倒するものであった。「恵みも満ちあふれました」。

 II. さて、私たちはこの主題の第二の部分に話を進めよう。それは、《心に律法がはいる》ということである。私たちは、内的な事がらを扱う際には、慎重にことを進めなくてはならない。この小さなもの、心について語るのは容易なことではない。多くの人は、彼らの魂の法則について私たちが干渉し始めると激昂するが、私たちは彼らの怒りを恐れはしない。私たちは今朝、隠れた人を攻撃したいと思う。律法がそうした人々の心にはいったのは、罪が増し加わるためだったが、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」。

 1. 律法が違反を増し加えるのは、罪を魂に悟らせることによってである。いったん聖霊なる神が律法を良心に適用なさると、隠されていたもろもろの罪が明るみに出され、小さくなっていた罪が、その真の大きさへと拡大され、一見無害な物事が非常に罪深いものとなる。心を探り、思いを調べる[詩7:9]この恐ろしいお方が魂におはいりになる前には、それは義で、正しく、美しく、聖く見えている。だが、この方が、隠れされていたもろもろの悪を明らかになさるとき、その光景は一変する。かつては、ちょっとした過ち、些細なこと、若気の至り、愚行、わがまま、うっかり云々で済まされていた違反は、その真の姿を鮮明にし、神の律法に対する違背であり、当然の罰を受けてしかるべきものであることが明らかになる。

 ジョン・バニヤンは、その有名な寓話からの抜粋によって、私が何を云っているかを説明してくれるであろう。「それから彼は基督者の手をとって、非常に大きな広間につれて行ったが、そこは一度も掃除をしたことがないので、ほこりが一杯であった。しばらくそれを見渡した後、解説者は男を呼んで掃除を命じた。さて彼が掃き始めると、ほこりがあたり一面に富んだので、基督者は息がつまりそうになった。そこで解説者は側に立っていた乙女に水を持って来て、部屋にまきなさいと言った。乙女がそのとおりにすると、気持よく掃き清められた。そこで基督者は言った、これはどういう意味でしょうか。解説者は答えた、この広間は福音のさわやかな恵みによって一度も清められたことのない人の心です。ほこりはその原罪であり、内部の腐敗であって、それが彼の全人格を汚してしまったのです。最初に掃除しかけた男は『律法』ですが、水を持って来てまいた乙女は『福音』です。さて、君が見たとり、初めの男は掃除を始めるとすぐほこりがあたり一面に立ったので彼は部屋を清めることができず、君はそのために息がつまりそうになりました。これは君に次のことを示すためです。すなわち、『律法』は(その働きによって)心を罪から清めないで、罪をあらわにして禁じるとき、かえってそれを魂の中によみがえられせ、力づけ、増大させる。つまり、律法は罪をおさえつける力を与えるものではない、ということです。さらにまた君が見たように、乙女が部屋に水をまくと、それは気持よく清められました。これは福音がその美しく貴い感化をもって心に来ると、ちょうど乙女が床に水をまいてほこりを静めたのを見たように、罪は克服され、魂はその信仰によって清められて、その結果栄光の王がその中に住まわれるのにふさわしくされるのです」*1

 心は、暗い穴蔵のようなもので、その中には蜥蜴や、油虫や、南京虫や、ありとあらゆる種類の爬虫類や昆虫が満ちている。それらは、暗いままでは見えないが、律法が鎧戸を引き落とし、光を射し込ませると、その悪が見てとれるようになる。そのようにして、罪が律法によって明らかになるがために、律法は違反を増し加えると書かれているのである。

 2. さらにまた、律法は、心の中にはいって来るとき、それがいかにどす黒いものであるかを私たちに示す。このように云うのはごく簡単なことである。「罪人」という言葉は、たった二音節しかない語で、この言葉を口にしている人は多いが、この言葉を理解している人は少ない。そういう人々は、自分たちの罪を見てとってはいるが、律法が来るまで、それが極度に罪深いものとは思えない。私たちは、そこには何か罪深いものがあると考えるが、律法がやって来るとき私たちは、その忌まわしさを認めるのである。神の聖なる光は、あなたの魂に射し込んだことがあるだろうか? あなたは、あなたの大いなる堕落と悪との源が張り裂けて、「おゝ、神よ。私は罪を犯しました」、と云わざるをえないほど目覚めさせられたことがあるだろうか? さて、もしあなたが、律法によって心を張り裂かれたことがあるとしたら、その心が悪魔よりも陰険であることを見いだすであろう。私はこのことを自分自身について云える。私は、自分の心を非常に恐れている。それは、それほどに悪いのである。聖書は云う。「人の心は何よりも陰険で」――悪魔は、この「何」の中にはいる。それゆえ、心は悪魔よりも邪悪である。――「それは直らない」[エレ17:9]。私たちは、いかに多くの人々がこう云っているのを見いだすことか。「よろしい。私は心の底では非常に善良な心をしていると思う。表面的には、ちょっとばかし誤ったものがあるかもしれないが、私は根本のところでは非常に善良な心をしているのだ」、と。だが、もしあなたが、篭の天辺にあまり良くない果物が載っているのを見たら、たとい店主から、「ええ、ですが、底の方では悪くありませんぜ」、と云われたとしても、その篭を買うだろうか? 「いやいや」、とあなたは云うであろう。「天辺にあるものが一番いいものに決まってますよ。それが、天辺でこんなに悪いんじゃ、中は腐ってるに違いないじゃないですか」。多くの人々はいかがわしい生活をしているが、何人かの友だちがこう云う。「あいつは、心の底じゃあ良い心をしているんだ。ときどき酔っ払いはするが、心底ではとても良い心をしてるんですぜ」。あゝ! 決してそれを信じてはならない。人々が、その外見以上に善良であると見積もられることは滅多にない。杯や大皿は、外側がきよくても内側は汚いことはあるが、もし外側が不潔だとしたら、内側がそれよりまともであることは、まずありえないと考えてよい。私たちの中のほとんどの者は、自分の長所を窓際に飾る。――私たちの良いものすべてを正面に置いておき、悪いものは裏側に置く。あなたや私は、もし律法があなたの魂にはいったなら、自分の心の悪辣さについて云い訳をするかわりに、ひれ伏して、こう云うがいい。「おゝ、この罪よ。――おゝ、この汚らわしさよ。――どす黒さよ。――私たちの罪悪の途方もない性質よ!」。「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです」。

 3. 律法が罪の極度のおびただしさを明らかにするのは、私たちの性質の堕落ぶりを私たちに悟らせることによってである。私たちはみな、すぐに自分の咎の責任を蛇になすりつけるか[創3:13]、悪い模範の力によって道を踏み外したのだとほのめかしがちである。――だが聖霊は、心に律法をもたらすことによって、こうした夢想を蹴散らされる。そのとき、大いなる深みの源が張り裂かれ、心像の小部屋が開かれて、堕落した人間の本質そのものの生来の邪悪さがあばかれるのである。

 律法はその邪悪さの核心部に切り込み、この疾病の病巣を明らかにし、このらい病の根深さを私たちに知らせる。おゝ! 自分の川がことごとく血と変じ、自分の存在のすべてに忌まわしいものがへばりついているのを見た人が、いかに自分を忌み嫌うことか。その人は、罪が決してかすり傷ではなく、心臓への一突きであることがわかる。その毒が自分の血管に充満していること、自分の骨の髄にまで存在していること、その源を自分の内奥の心に有していることを悟る。さて、その人は自分を忌まわしく思い、何とかして癒されたいと願う。実際に犯す罪は、生まれつきの罪にくらべれば、半分も恐ろしいものではない。そして、自分がいかなる者かを考えると、その人は青ざめて、行ないによる救いなど不可能事であるとして放棄する。

 4. このように仮面をはぎとり、罪人の絶望的な状況を明らかにした後で、この容赦ない律法が違反を増し加えさせるのは、さらに、断罪の宣告を心に突きつけることによってである。律法は、審きの座に着き、黒天鵞絨の帽子をかぶり、死刑を宣告する。苛酷な、情け容赦ない声音で、それは厳粛に、「すでに審かれている」[ヨハ3:18]、という言葉を轟かせる。それは魂に向かって、弁明があれば行なうようにと命ずるが、いかなる弁解も、罪を確信させる先のみわざによって、取り去られていることは重々承知している。それゆえ罪人は無言であり、律法は渋面とともに、地獄の垂れ幕を持ち上げて、その人に苦悶を一瞥させる。魂は、その宣告が正しいものであること、その罰が厳しすぎないこと、またあわれみを期待する権利が自分に全くないことを感じる。それは、震え、おののき、気が遠くなり、周章狼狽しながら、ついには完全な絶望によって崩れ落ちてしまう。その罪人は自ら首に縄を巻きつけ、死刑囚の服を身にまとい、《王》の御座の足元に身を投げ、ただひたすら、「私はよこしまな者です」[ヨブ40:4 <英欽定訳>]、とのみ考え、ただひたすら、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」[ルカ18:13]、とのみ祈る。

 5. また律法は、その働きをここでさえ終えることはない。というのも、それは違反をより明らかにするために、罪によって引き起こされた無力さを悟らせるからである。律法は、単に罪に定めるだけでなく、現実に殺すことも行なう。かつては好きなときに悔い改めて、信じることができると考えていた者は、自分のうちにそのどちらを行なう力も全くないことに気づくのである。

 モーセ[律法]が罪人を打ちのめすとき、彼は罪人を最初の一撃で傷つけ、叩きつぶすが、二打ちか三打ちするうちに、その人は死んだように横倒しになってしまう。私自身、そのような状態になったことがあり、もし天国がたった1つの祈りで買い取れたとしても、私は断罪されたであろう。というのも、私は飛ぶことができないのと同じくらい、祈ることができなかったからである。さらに私たちは、律法が私たちのために掘った墓の中にいるとき、あたかも自分が無感覚であるかのように感じ、自分が嘆き悲しめないことを嘆き悲しむ。恐るべき山塊が私たちの上にあって、手も足も動かすことができず、助けを求めて叫ぼうとしても、私たちの声は私たちに従うことを拒む。教役者が、「悔い改めよ」、と叫んでも無駄である。私たちのかたくなな心は溶けようとしない。彼が信ぜよと私たちに勧めても無駄である。彼の語っている信仰は、宇宙を創造しろと云うのと同じくらい私たちの能力の及ぶところではない。今や破滅はまさに破滅となる。かの轟きわたる宣告が私たちの耳を満たす。「《すでに審かれている》」[ヨハ3:18]。そして、別の叫びがそれに続く。「《罪過と罪との中に死んでいる》」[エペ2:1]。そして、第三の、いやまさってすさまじく恐るべき叫びが、そのぞっとするような警告を入り混じらせる。「必ず来る御怒り――必ず来る御怒り」[マタ3:7]。罪人の考えでは、彼は今や腐った屍体として投げ出されており、尽きることのないうじに苦しめられ、地獄で目を上げるときが訪れるのは今か今かと思われる。このときこそ、あわれみの出番である。私たちはこの主題を、罪に定める律法から、満ちあふれる恵みへと向けることにしよう。

 聞くがいい。おゝ、重荷を負っている、罪に定められた罪人よ。私の《主人》の御名によって、私は恵みの余りある豊かさを公布しよう。恵みは、その限度と効力において罪を凌駕する。あなたの罪は多いが、あわれみには多くの赦免がある。あなたの罪の数が星よりも、砂よりも、朝露よりも多くとも、一回限りの赦しの行為によって、すべてを帳消しにすることができる。あなたの咎は、山のごときものであるが、海のまなかに投げ込まれるであろう[ミカ7:19]。あなたのどす黒さは、あなたの《贖い主》の血潮というきよめの奔流によって洗い流される。聞けよ! 私はあなたの罪といった。本気で云った。というのも、もしあなたが今や律法によって罪に定められた罪人だとしたら、まさにそのしるしによって、あなたがあわれみの器であると私は知っているからである。おゝ、身の毛もよだつ罪人たち。放埒な放蕩者たち。社会の屑たち。罪人たち自身の仲間からもつまはじきにされている者たち。もしあなたがたが自分の咎を認めるならば、ここにあわれみがある。豊かで、広大で、無代価で、途方もなく大きく、《無限の》あわれみが。このことを覚えておくがいい。おゝ、罪人よ。――

   「人の犯しし すべての罪と
    意志(こころ)と言葉、思いとわざにて
    世の始めより なされし咎みな
    さる罪人の 頭(かしら)に帰すとも
    イェスの尊き 血の川ふれなば
    かのすさまじき 荷ぞみな去らん」。

 だがさらに、恵みはもう1つのことでも罪をしのいでいる。罪は私たちにその親を示し、私たちの心がその父親であると告げるが、恵みはそこで罪をも越えて、恵みの《創始者》――《王の王》を示す。律法は罪を私たちの心にまで辿る。恵みは、それ自身の起源を神まで辿り、

   「その御胸(みむね)にぞ われは見ゆ
    我れへの愛の 永久(とわ)の思いを」。

おゝ、キリスト者よ。恵みの何とほむべきものであることか。というのも、その源は永遠の山にあるのである。罪人よ。たといあなたが世界一邪悪な者であっても、もし神があなたを今朝お赦しになるなら、あなたはあなたの家系を神にまで辿ることができるであろう。というのも、あなたは神の子どもとなり、常に神をあなたの御父とすることになるからである。私はあなたがみじめな犯罪人として法廷に立っているような気がする。そこへ私は、恩赦の叫びを聞く。「彼を釈放せよ!」 彼は生気なく、病んでよろよろしており、不具です。――彼を癒せ。彼は、卑しい家柄の出です。――見よ。わたしは彼を養子としてわたしの家族に受け入れよう。罪人よ! 神はあなたをご自分の子として迎え入れてくださる。何と、あなたが貧乏だとしても、神は云われる。「わたしはあなたを永遠にわたしのものとする。あなたはわたしの相続人となる。そこに、あなたの汚れなき兄がいる。血の絆によって、彼はあなたと1つである。――イエスはあなたと実の兄弟なのだ!」 だが、いかにしてこの変化がやって来たのか? おゝ! これは、あわれみの行為ではないだろうか? 「恵みも満ちあふれました」。

   「恵みぞ我れを 繰り入れぬ、
    救いのきみの 家族の数に」。

恵みは罪にまさっている。それは私たちを、私たちが落ちた場所よりも高く持ち上げるからである。

 またさらに、「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれ」たのは、律法の宣告は取り消されることがあるが、恵みの宣告は取り消し不能だからである。私はここに立ち、罪に定められたと感じている。だが、ことによると、私には、無罪放免されるかもしれない希望がある。今にも絶え入りそうな希望であっても、放免される希望はまだ残っている。しかし、私たちが義と認められるとき、罪に定められる恐れは何1つない。私は、ひとたび義と認められたなら、完全に恵みによって無罪放免にされる。もし私が義と認められた人だとしたら、私はサタンに向かって、私に手をかけてみるがいいと挑戦する。義認の状態は変わりえない状態であり、分かちがたく栄光に結び合わされている。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。……しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」[ロマ8:33-39]。おゝ! あわれな、罪に定められた罪人よ。これはあなたを魅了し、あなたに無代価の恵みを愛させないだろうか? そして、これらはみな《あなたのもの》なのである。あなたの罪悪は、いったん拭い去られたならば、決して二度とあなたを責めるものにはならないのである。福音の義認は、決してアルミニウス主義によるまがいものとは違う。そのまがいものは、もし将来あなたが道を踏み外せば、取り消されることがありえるという。否。いったん支払われた借金が、二度と支払いを要求されることはありえない。――いったん忍ばれた刑罰が、二度と課されることはありえない。救われて、救われて、救われて、完全に天来の恵みによって救われているあなたは、恐れることなく、大手を振って歩くことができる。

 だがしかし、もう一言だけ云おう。罪が私たちを病ませ、嘆かせ、悲しくさせるのと全く同じように、恵みは私たちをはるかにいやまさって喜ばしくさせ、自由にする。罪は人を、うずく心をもって歩き回らせ、ついにはこの世界が自分を呑み込もうとしているか、山々が今にも自分に落ちかかってくるかのように思わせるほどになる。これが律法の効果である。律法は私たちを悲しませる。私たちをみじめにする。しかし、あわれな罪人よ。恵みは、あなたの霊にのしかかる罪の悪影響を取り除く。もしあなたが主イエス・キリストを信じさえするなら、あなたは目を輝かして、心も軽く、この場所を出て行くであろう。あゝ! 私は、自分がある小さな礼拝所へと足を踏み入れた朝のことを今もよく覚えている。私は、ほとんど地獄によってみじめにされたも同然のみじめな気持ちで、――滅びの中にあり、失われていた。それまでの私は、律法について語られる会堂にはしばしば行ったことがあったが、福音を聞いたことがなかった。私は、鎖につながれ、獄舎に閉じ込められた罪人ととして、会衆席に座ったが、神のことばがやって来て、私は自由になってそこを出た。私は地獄のようにみじめな者として中に入ったが、高揚し、喜びあふれて外へ出た。私はそこに真っ黒な者として座ったが、新雪よりも純白な者として出てきた。神は云われた。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」[イザ1:18]。私の兄弟。もし今あなたが自分を罪人であると感じているとしたら、どうしてこれがあなたの運命となっていけないわけがあるだろうか? 神があなたに求めておられるのは、あなたが神を必要だと感じること、それだけである。そう感じているとしたら、今やイエスの血はあなたの前にある。「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです」。あなたは赦されている。ただそれを信ずるがいい。選ばれた者よ。ただそれを信ずるがいい。あなたが救われているのは真実である。

 さて、最後に、あわれな罪人よ。罪はあなたを天国にふさわしくない者にしているだろうか? 恵みはあなたを熾天使とともにいることもふさわしい、まさに完璧な者とするであろう。きょうは失われ、罪によって滅ぼされているあなたは、いつの日か、自分が頭に冠を戴き、手に黄金の立琴を持ち、《いと高き方》の御座へと高められているのを見いだすであろう。考えるがいい。おゝ、酔いどれよ。もしあなたが悔い改めるなら、天国にはあなたのための冠がしまい込まれているのである。あなたがた、だれよりも咎重く、だれよりも失われ、堕落している者たち。あなたがたは、自分の良心において律法により罪に定められているだろうか? ならば、私は、私の《主人》の御名によって、あなたを招く。その血による赦しを受け入れるがいい。主はあなたに代わって苦しみをお受けになった。あなたの罪責を贖われた。あなたは無罪放免されているのである。あなたは、主の永遠の愛情の対象である。律法は、あなたをキリストに導くための養育係にすぎない[ガラ3:24]。自分を主にゆだねるがいい。救いに至る恵みの腕に身を投げかけるがいい。いかなる行ないも要求されてはいない。いかなるふさわしさも、いかなる義も、いかなる行為も必要ない。あなたがたは、「完了した」[ヨハ19:30]、と云われたお方にあって完全なのである。

   「負債(おいめ)ある者 知れよかし
    汝れ一万両を 身に負うも
    主の足元に 悔い伏さば
    恵みの神は みな赦さん 。

    重き鎖に 捕わる奴隷
    罪と地獄(ひとや)の 囚われ人よ
    請求(もとめ)よ 汝れが自由をば
    贖い主の 御名を唱えて。

    豊けき天の 相続財産(ゆずり)なるかな
    汝が喜びと 誇りあふれん。
    麗しの都(まち) 汝れを待つなり
    黄金(こがね)の通りと 真珠(たま)の門もて。

   「ほむべき住民(たみ)ぞ もはや嘆かず
    その束縛(いましめ)と 貧しきを!
    負債さらなく 愛のみ莫大(ひろ)し
    喜び高し 負債とともに」

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律法と恵み[了]

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*1 ジョン・バニヤン、「天路歴程」 p.72-74(池谷敏雄訳)、新教出版社、1976. [本文に戻る]

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