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雲とは何か?

NO. 36

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1855年8月19日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「雲はその足でかき立てられる砂ほこり」。――ナホ1:3


 人は、多くの本を読みすぎるということがありえる。私たちは、学びを軽蔑するつもりも、学問の探究を見下すつもりもないし、そうしたものの取得は非常に望ましいことである。また学識のある人は、その才質が神のために聖別されるとき、御霊の御手によってしばしば、無知で学問のない人よりも、はるかにすぐれて有益なものとなる。だが、それと同時に、ある人が自分の知識を全く書物からしか得ていない場合、その人は自分があまり賢くない人間であることに気づくであろう。世の中には、あまりにも多くの書物を頭の上に積み重ねすぎて、頭脳が働けなくなるということがある。――活字、文字、草稿、書類、印刷物、小冊子、単行本、大冊、二折判の書籍を、倦み疲れた頭の上に堆積させたあまり、頭脳が完全に埋没し、ぴくりとも動けなくなってしまうことがある。確かに私たちも書物によって学ぼうと努めるものではあるが、多くの人々は、神が私たちに与えておられる幾冊かの偉大な書物をないがしろにしていると思う。私たちはこの偉大な書、聖書をないがしろにしている! さらに、自然という偉大な書物についてあまり注意深く研究してこなかったかもしれない。また、もう一冊の偉大な本、人間の心のことも忘れてきた。私としては、それなりに心を研究するものでありたいと願っている。そして私は、本を読む中から得たよりもはるかに多くのことを同胞の人々との会話から学んできたと思う。また、私自身の経験と、私自身の心の働きとを吟味する方が、これまでに精読したことのあるいかなる形而上学的な本よりも多くのことを人間性について教えてくれたと思う。私は、自分の同胞たる被造物という本を読むことを好んでいる。私を何にもまして喜ばせるのは、そうした彼らが大群衆をなして集まっている姿を見ること、あるいは、そうした人々の心が私の心に流れ込み、私の心がそうした人々の心に流れ込んでいく機会を得ることにほかならない。人間の心を研究しもせず、自分の同胞や自分自身について全く知ろうともしないのは、賢明な人ではないであろう。しかし、もし私が神の書に次いで、他の何よりも読むのを好む本が一冊あるとすれば、それは自然という書物である。私は、いかなる文字を読もうと気にならない。それが彼方の星々によって綴られた神の黄金の御名であろうと、それよりも粗雑な描線で、うねる大水の上に記入された神の御名であろうと、あるいは峨々たる山々や、轟々と流れ落ちる大瀑布や、波打つ森に象形文字でそれが記されているのを目にしようと、気にならない。自然のいずこに目を投げかけても、私は生きた文字で私の御父の御名が綴られているのを見分けることができ嬉しく思う。そして、ムーアフィールズや、スミスフィールドや、スパーフィールズよりも、もう少し青々とした野原に出られるとしたら、私はイサクと同じように、夕暮れ近く、野に散歩に出かけ[創24:63]、自然の神について思い巡らし、瞑想したい。私は、昨晩の涼気の中で考えにふけっていた。私は、私の神とともに、その聖霊によって思いをひそめ、神が私にいかなる使信を与えてくださるかを悟ろうとしていた。それで私は座って雲を眺め、《自然》という大学の大講堂で1つの課程を学んだ。私が空を流れて行く白い雲を見ていたとき、私を最初に打った思想はこうであった。――すぐに私は、私の《救い主》が大きな白い御座につき、天の雲に乗って、人々を審きに召すためにやって来られるのを見るであろう[マタ24:30]。私の想像力は、その光景を容易に描き出すことができた。そこでは、生きている人と死んだ人とが、主の大きな白い御座の前に立ち、その御声が、彼らの変わることのない運命を宣告するのを聞くことになるであろう[IIテモ4:1; Iペテ4:5; 黙20:11]。さらに私は、箴言にあるあの聖句を思い出した。「風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない」[伝11:4]。私は、私自身と私の兄弟教役者たちが、いかに多くの折に雲を見ていることかと思った。私たちは、思慮と用心の声に聞き従ってきた。雲を見てきた。蒔いていてしかるべきときに、群衆への恐れによって、それを取りやめてきた。あるいは、刈り入れをして人々を私たちの教会に取り込むのを、どこかの善良な兄弟がそれは性急すぎると考えているがために、拒んできた。私は立ち上がって、自分に向かって云い聞かせた。私は雲にも風にも頓着するまい。むしろ、風が暴風となって吹くときには、両手で種を投げ散らそう。大嵐がそれをさらに遠くまで運ぶかもしれない。また、雲が密集するときには、それでも刈り入れをしよう。たとい雲の下で取り入れようと、陽光の下で取り入れようと、神はご自身の麦を保ってくださると確信していよう、と。それから、雲が空を疾駆する中で、座って神に思いをひそめているとき、ある考えに私は打たれた。その考えを私は今朝、あなたがたに話さなくてはならない。そうした考えは、私に何がしかの教訓を与えてくれたし、おそらくあなたにも教訓を与えてくれるだろうと思う。「雲はその足でかき立てられる砂ほこり」。

 I. さて、私がこの言葉について最初に述べたいのは、――神の道は、普通は隠された道だということである。このことは、この節のつながり具合を見ればわかる。「主の道はつむじ風とあらしの中にある。雲はその足でかき立てられる砂ほこり」。神がその不思議を行なわれるとき、神は常にご自分をお隠しになる。その御足の動きすら雲をかき立てる。そして、もしこうした雲が、「その足でかき立てられる砂ほこり」だとするなら、《永遠者》の額を覆う濃密な暗闇の何と深遠なものに違いないことか。もし神がかき立てるほんの小さな砂ほこりが、私たちの雲にひとしいほど巨大なものだとしたら、――もし私たちが「その足でかき立てられる砂ほこり」を想像するための比喩として、天の雲以外のものを見つけられないとしたら、《永遠の》お方の動きはいかに人目につかないもの、いかに包み隠され、暗闇に覆い隠されたものに違いないことか! この聖句によって示唆されている偉大な真理は、種々の事実によって十分に確証されている。神の道は隠された道である。クーパーは、こう歌ったとき正鵠を射ていた。――

   「主は足跡(みあと)を 波間に下ろし
    嵐に乗るなり」。

神の足跡は見ることができない。それは海の上に下ろされ、次の波がそれを洗い流してしまうからである。また、嵐の中に下ろされ、そのときの荒れ狂う大気によって、神の戦車のあらゆる痕跡はたちまちかき消されてしまう。神を見つめるがいい。神が行なおうと計画されたことを何であれ見つめるがいい。そのときあなたは、常に神が隠された神であられたことを見てとるであろう。神はご自身を隠してこられ、その道のすべては、この上もなく徹底的な神秘で覆われてきた。神の救いのみわざを考えてみるがいい。神は、人類を救おうと決意しておられたというのに、いかにしてご自身をお隠しになっただろうか? 神は先祖たちにご自身を明らかには現わされなかった。彼らには、預言というほの暗いあかり[IIペテ1:19]をお与えになっただけであった。それは、「女の子孫は、蛇の頭を踏み砕く」*[創3:15]というような言葉によって光るだけであった。そして、四千年の間、神は御子を神秘の中に包み隠しておられ、だれも神の御子がいかなるお方か理解できないでいた。香の煙が彼らの目を曇らせ、それはイエスについていくばくかを示してはいても、それ以上に、イエスを隠すものであった。焼かれているいけにえは、その煙を空へと上げたが、そのいえにえの薄暗い霞を通してでなければ、敬虔なユダヤ人は《救い主》を見てとることができなかった。私たちの告げられるところ、御使いたち自身、救拯の神秘をはっきり見たいと願っている[Iペテ1:12]が、いくらその目をひたと据えてはいても、カルバリの上で救拯が顕現した時に至るまで、ただひとりの御使いにも、それを理解することはできなかった。この世の誰よりも深遠な賢者ならば、いかにして神ご自身が義であり、かつ不敬虔な者を義とお認めになることがありえるのか、突きとめようとしたことがあったかもしれない。だが、その人はその探求において失敗したであろう。だれよりも熱心で敬虔な人ならば、当時の預言者たちに与えられていた神の御霊の割りあての助けによって、この大いなる主題について考えを巡らしたかもしれないが、この敬虔の奥義――「神は肉において現われ」[Iテモ3:16 <英欽定訳>]――がいかなるものかを発見することはできなかった。神は雲の中を行進し、「つむじ風の中を歩まれた」。ご自分が行なおうとしていることを世に告げるようなことはなさらなかった。というのも、そのご計画は、ご自分の回りに暗闇を巡らすことにあり、「雲はその足でかき立てられる砂ほこり」だからである。あゝ! そして、このことは恵みについてと同じく、《摂理》についても常にそうである。神は決して、身をへりくだらせ、ご自分の被造物に向かって物事を洗いざらい明らかにされることはない。神は常に正しく行なわれる。それゆえ、ご自分の民には、ご自分が正しく行なうことを常に信ずるように求めておられる。しかし、もし神が彼らに、ご自分がそう行なっておられることを証明するとしたら、そこには彼らの信仰の余地がなくなるであろう。

 あなたの目を歴史の各頁に向けて、神のなさり方がいかに神秘的であったか見てみるがいい。エジプトに売られたヨセフが全民族を救い出す手段となるなどと、だれが思っただろうか? 敵が国土に乗り込んできたとき、それが結局は神に栄光をもたらす手段になるなどと、だれが考えただろうか? 娼婦の血が混じり合ったような系図から、かの偉大なメシヤ、イスラエルのシロ[創49:10]が出てくるなどと、だれに想像できただろうか? これほど小さなものが、神の大いなるご計画を達しえるなどと、だれに思い描けただろうか? 摂理は常に隠されたものであった。

   「底(そこい)なき 宝庫の深く
    つゆも尽きざる 手練のわざに
    明(あけ)き計画(たくみ)を 主は隠されて
    主権(たか)き意志(こころ)を 働かせ給う」。

だがしかし、愛する方々。あなたや私は、常に神が何をなさるのかを知りたがっている。クリミヤでは戦争が行なわれている。私たちは、セヴァストポリで何度か大損害を被り、新聞をめくっては、「一体神は何をなさっておられるのだろう?」、と云う。神は前の戦争では何をなさっただろうか? 何がその恩恵だったろうか? 私たちの見るところ、ナポレオンでさえ善を施すための手段であった。彼は貴族政治を解体し、あらゆる王侯たちに民衆の未来、権力、権利を尊重させるようにしたからである。私たちは、先日のすさまじい暴風さえ、良い結果をもたらしているのを見ている。それは、さらに多くの人命を呑み込んでいたはずの疫病を吹き飛ばしてしまった。しかし私たちは、「神はこの世界で何をしているのか?」、と問う。いかなる結果になるかを知りたがる。かりに私たちがロシアを地にまみれさせるとしたら、それはいかなる末路を辿るだろうか? トルコは独立王国として保たれるだろうか? その他一万もの疑問が生ずる。愛する方々。私は常にこう考える。「陶片には、陶片どうしで争わせておくがいい」。そして、――私の古き良き友人が云っているように――、もしそれらが望むならば、互いに砕き合わせるがいい。私たちは何も邪魔立てしないであろう。もし陶片たちが互いに粉砕し合うというのであれば、左様、ならば、そうせざるをえまい。私たちとしては、懐かしき英国が、それらすべての中でも最も無事を保ってほしいと願う。しかし、私たちは、それほどむやみに結果を知りたいとは思わない。私の信ずるところ、この戦いには、他のすべてと同じく、利益をもたらす傾向があるであろう。私たちが歴史の中に見る限り、この世界はいつも一歩後退ばかりしてきた。そして、神はいつもそれをその軌道上で動かしておられる。それで世界は常に、一見、退行しているように見えるときでさえ、進歩してきたのである。

 あるいは、ことによると、あなたがたは、国家における《摂理》については心を騒がせていないかもしれない。あなたは、そこでは神が実際ご自分を隠しておられると信じている。だが、あなた自身については、はっきり説明してもらいたいと切望している問題がある。グラスゴーにいたとき私は、スコットランドでも一二を争う巨大な鋳造所を見学した。そして、そこで私は一台の非常に強力な蒸気機関が、全施設の機械類を動かしているのを見た。その鋳造所では、無数の車輪が回転していて、ある車輪はこちら側に、ある車輪はそちら側に回っており、私はそれらが一体全体何をどうしているのか見当もつかなかった。しかし、おそらく、私の頭がもう少し良ければ、また、もし私がもう少し機械学について教えを受けていたとしたら、どの車輪が何をしているのかが理解できただろうと思う。実際のところ、それらは車輪の寄せ集めがただ非常に高速に回転しているだけで、何もしていないかのように見えていたが、それでもそれらはみな、何かを行なっていたのである。そして、もし私が立ち止まって、「あの車輪は何をしているのですか?」、と尋ねたとしたら、機械工の人は、「それは、別の車輪を回しているのですよ」、と答えたであろう。「よろしい。では、その車輪は何をしているのですか?」 「その車輪で動かされる別の車輪があり、さらにそれで動かされる別の車輪があるのですよ」。そして最後には、その人は私を連れて行って、云うであろう。「これが、すべての機械類が行なっていることです」。そこでは、1つの重々しい鉄の棒が、溝を刻まれ、切断され、形を整えられ、磨き上げられているであろう。――「これが、すべての車輪によって成し遂げられつつあることです。ですが、私は、個々の車輪がそれぞれ何をしているかを云うことはできません」。すべてのことは相働いて益となりつつある[ロマ8:28]。だが、その1つ1つの事がらが何をしているかは、説明不可能であろう。だのに、アダムの子よ。あなたは、その有限の知性をもって絶えず立ち止まっては、「これはなぜですか?」、と尋ねている。子どもが死んで揺りかごの中に横たわっている。なにゆえ幼児が突然死んだのか? おゝ、非情な死よ。お前は成熟した麦を刈り取ることもできたろうに、なぜ薔薇の蕾をひったくっていくのか? 枯れた葉の花飾りの方が、こうした柔らかな花々よりも、お前に似つかわしいではないか、と。あるいは、あなたは《摂理》にこう詰問している。なぜお前は私の財産を取り去ったのか? 私は親の残したもので不自由なく暮らしていたのに、どこかの強欲な蛭が私の全資産をさらっていってしまった! 一切合切なくなってしまった。おゝ、神よ。なぜこうなったのですか? なぜ悪者を罰さないのですか? なぜ罪のない者がこのように苦しまなくてはならないのですか? なぜ私は、私のすべてを奪われなくてはならないのですか? 別の人は云う。「私は正直でまっとうな商売を始めた。もし神が繁昌させてくださるなら、私の富を神にささげるつもりだった。だが私は貧乏だ。私の商売は全然うまく行っていない。主よ。これはなぜなのですか?」 さらに別の人は云う。「ここで私は朝から晩まで骨折り仕事をしている。私が何をしようと、自分の仕事から解放されることはできない。それで私はキリスト教信仰から非常に遠ざけられている。私は、私の神に仕える時間がもう少しあったなら、より少ない収入で暮らすこともいとわないのに」、と。あゝ! 有限の者よ! あなたは神にこうした事がらを説明するよう要求するというのか? 私はあなたに云う。神はそうなさらないし、そうすることがおできにもならない。――なぜかというと、それをあなたは理解できないからである。蟻は鷲に向かって、なぜ高々と空を舞うのか尋ねるべきだろうか? レビヤタンに小魚が問いかけるべきだろうか? こうした被造物たちなら、自分たちの行動を被造物に向かって説明するかもしれない。だが、《全能の創造主》、創造されざる《永遠者》は、ご自分の創造した定命の者たちに向かって、ご自分の行動の動機を何もかも釈明することはおできにならない。私たちには神が理解できない。私たちは、神の道が常に暗闇の中にあること、自分たちが決してこの世では多くを見てとれないと予期しなくてはならないことを知るだけで十分である。

 II. 第二の思想は、《私たちにとって大きな事がらは、神にとっては小さな事がらだ》ということである。雲は私たちにとっていかに大きなものであろう! 私たちが目を向けると、雲はしずしずと天空に広がっていく! それから、それは急速に増え広がり、ついには大空の全体が黒ずみ、暗い影が世界に落とされる。私たちは迫りつつある嵐を予想して、雲の山々を前にして震える。それが大きなものだからである。大きなもの? 否。それらは神の足でかき立てられる砂ほこりにすぎない。天空の面に広がるいかに大きな雲といえども、《全能のエホバ》の御足のかき立てたほこり一粒でしかない。雲の上に雲が重なり、嵐が荒れ狂うとき、それは神の戦車でしかなく、それが天を疾走するとき、ご自分の回りに小さなほこりを舞い上げているのである! 「雲はその足でかき立てられる砂ほこり」。おゝ! 愛する方々。あなたがたに、この考えがつかめただろうか? そうでないとしても、もし私にその考えをあなたの魂におさめられる言葉が用いられるとしたら、確かにあなたは居住まいを正して、私たちの父、あるいは、私たちの《審き主》なる偉大な神に対する厳粛な畏れに打たれるであろう。考えてみるがいい。人間にとって最大に大きなものが、神にとってはちっぽけなものなのである。私たちは山々を大きいと云うが、それらは何だろうか? 「はかりの上のごみ」でしかない。私たちは国々を大いなるものと呼び、強大な帝国について語るが、国々は神の御前では「手おけの一しずく」にすぎない。私たちは島々を大いなるものと呼び、私たちの英国諸島について誇らしげに語る。――「主は島々を細かいちりのように取り上げる」[イザ40:15]。私たちは偉人や勇士について語る。――「地の住民は主の御目にはいなごのようだ」*[イザ40:22]。私たちは、壮大な天体が私たちから何百万哩も彼方を動いていると語る。――神の御目には、それらは存在という陽光の中で揺れ動いている微小原子にすぎない。神にくらべれば、偉大なものなど何1つない。まことに、人間にとっては小さなものでも、神にとっては大いなるものが少しはある。例えば、私たちの罪を私たちは些細なことと呼ぶが、それは神にとって大きなことである。また、神の種々のあわれみを、時として私たちは小さなものと考えるが、私たちのような罪人にとってそれらが非常に大きなあわれみであることを神は知っておられる。私たちが大きいとみなす物事は、神にとっては非常に小さい。もしあなたがたが、私たちの語ることを神がいかに考えておられるか知っているとしたら、あなたは自分自身に驚くであろう。私たちに何か大きな困難があるとする。――私たちはその重荷を負って、こう云う。「おゝ、主なる神よ! 何と大きな困難を私は負わされていることでしょう」。だが私が思うに、神は私たちに向かって微笑んでおられるであろう。私たちは時々、幼児のようにふるまうからである。幼児は、自分では持ちきれないような荷物(しかし、大人なら指先でもつまみあげられるような荷物)を持ち上げて、よろめいては、こう云う。「父さん、この荷物は重たすぎるよ」。そのように、自分が背負っていると思い込んでいる大きな困難の下でよろめいている人々がいる。大きなだと! 愛する方々。大きな困難など全くありはしない。「雲はその足でかき立てられる砂ほこり」である。もしあなたがこのことを考えようとしさえするなら、あなたにとって最大の物事も、神にとっては小さなことでしかないであろう。今かりに、あなたがたが、世界中のあらゆる人々のあらゆる困難を有しているとして、それらがみな、わが身をかえりみないあなたの頭の上に怒涛のように押し寄せてきたとする。だが神にとって困難の大瀑布など何だろうか? 左様、「主は山々をはかりの上のごみのように取り上げる」*[イザ40:15]。そして神は簡単にあなたの試練を取り除くことがおできになる。ならば、煩いと欠乏の子よ。腰を落ちつけて云うがいい。「私の困難は大きすぎる」、と。あわれみの御声を聞くがいい。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」[詩55:22]。ここで二人のキリスト者が語り合っているのを聞くとしよう。そのうちのひとりは云うであろう。「おゝ、私の困難と、試練と、悲しみよ。それらは大きすぎて、私には到底支え切れない。私は自分の患難に日々どうやって耐えられるかわからない」。もうひとりは云うであろう。「あゝ! 私の困難や試練は、それより少しも楽なものではないが、それにもかかわらず、それらはないも同然である。私は、どんな不可能なことも笑い飛ばし、それは実現できると云える」。この人々の違いは何が理由だろうか? その秘密は、ひとりは自分の困難をかかえており、もうひとりはそうしていないことにある。ある運搬人にとって、荷物がいくら重いかなど、自分のかわりに全部運んでくれる別の人を見つけることができさえするなら、どうでもいいことである。しかし、もしそれを全部かかえなくてはならないとしたら、もちろんその人も重い荷物を好みはしない。それで、ひとりの人は自分の困難を自分で背負い、その背中が折れんばかりになっているが、もう人の人は自分の困難を主の上におろしているのである。あゝ! いかに重い困難であろうと、それを主の上に降ろすことができさえすれば、どうでもいいのである。それが重ければ重いほど好都合である。というのも、あなたが荷を降ろせば降ろすほど、《岩》の上に置かれるものが増えるからである。決して困難を恐れてはならない。それがいかに重くとも、神の永遠の肩はそれらを背負うことができる。回転する諸惑星により、膨大な諸世界の体系により、その全能性を証言されているお方は、十二分にあなたを支えることがおできになる。その方の腕は短くて、あなたを救えないだろうか[イザ59:1]? あるいは、その方は疲れていて、あなたを堅く保つことができないだろうか? あなたの困難は神にとっては何ほどのものでもない。というのも、「雲はその足でかき立てられる砂ほこり」だからである。

 そして、請け合ってもいいが、このことは教職の働きにあって、私を勇気づけることである。というのも、この広い世界を見る目のある人ならだれでも認めるように、英国の上に、また世界の上には、多くの雲が垂れ込めているからである。私は最近、ハルに住む一紳士からある手紙を受け取ったが、その人は、教会全体の状態に関する私の見解に同感するということである。私は、キリスト教界が現代ほど悪い状態になったことがあるかどうかわからない。いずれにせよ、私はそれが決してそうならないように神に祈るものである。サフォークの諸教会の状態を述べた記事を読むがいい。同地は、福音が曲がりなりにも活発に信じられている所であるが、あなたはこの一年間で、そうした諸教会が全く増加していないことを知って驚くであろう。それであなたが教会から教会へと渡り歩いてみると、成長しつつある教会はほとんど見いだすことがない。そこここには人々で一杯になった会堂があり、そこここには熱心な教役者が見いだされ、そこここには人数を増加させつつある教会があり、そこここには健全な祈祷会が持たれている。だが、これらは単に緑の斑点でしかない。私が英国中のどこへ行こうと、シオンの栄光がいかに雲の下にあるかを見て嘆かないことはない。純金にたとえられるシオンの尊い聖徒たちが、いかに陶器師が手でこねた土の水差しのようになり果てていることか。私が、全教会の審査委員長に勝手に成り上がるべきだとは思わないが、正直なところ私は、こう云わざるをえない。霊的ないのちと、火と、熱心と、敬神とは、一万もの場所において欠如しているように見える、と。私たちにはおびただしい数の諸機関がある。よくできた仕組みはある。だが教会は、最近、火の消えた、また汽罐に何のお湯も入っておらず、全く蒸気のない大きな蒸気機関によく似ている。そこには、何もかもそろっているが、蒸気がない。何でもあるが、いのちがない。英国は雲に覆われている。不信心の雲にではない。英国にいくら不信心者がいようと、私はどうでもいいと思っているし、グラント氏がわざわざ追い回すことなどないと思う。また私は、この良き英国におけるローマカトリック教について恐れているのでもない。私は英国がそれに立ち戻ることなどないと思う。――確かに英国は決してそのようなことをすまい。しかし、私が本当に恐れているのは、私たちの諸教会の上に臨んでいる、この生気のなさ、この怠惰さ、この無関心さである。高山の上にいて、冷気から死の眠りへと麻痺させられようとしている人のように、教会が必要としているのは身震いである。教会は、熱心がないために、火がないために、眠りに落ちてしまっている。健全な教理を保持している人々でさえ、眠り込み出している。おゝ、願わくは神が教会をかき立ててくださるように! 1つの大きな黒雲が、そこここの破れ目からちらほらと陽光の光が射し込んでいるほかは、私たちのこの幸いな島をすっぽりと覆い隠しているように思える。しかし、愛する方々。そこには慰めがある。というのも、「雲はその足でかき立てられる砂ほこり」だからである。神は、そうした雲を一瞬で追い散らすことがおできになる。ご自分の選ばれたしもべたちを立てることがおできになる。彼らがその口を喇叭に当てて、一吹きしさえすれば、眠っている歩哨たちを目覚めさせ、眠り込んでいる陣営を飛び上がらせるであろう。神は、もう一度何人かの伝道者たち、飛びかける御使いたちを送り出しさえすれば、諸教会は驚きのあまり再び立ち上がり、荒布を着ていた教会は、その憂いの外套を脱ぎ、憂いの心の代わりに賛美の外套[イザ61:3]をまとうであろう。その日は来たりつつあると私は希望する。シオンが、もはやその王冠なしに、無冠で座るのではなくなるとき、その冠を頭上に戴き、その旗印を掴み、その大盾をとって、全国民を覚醒させた古の英雄時代の乙女のように、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行く[黙6:2]ときが来つつあると。私たちはこのように多くを希望する。なぜなら、「雲はその足でかき立てられる砂ほこり」だからである。

 左様。そして、いかに雲がこの広大な世界の上にとどまっていることか! カトリックの迷信、イスラム教、そして偶像礼拝の何という黒雲か。しかし、これらはみな何だろうか? 兄弟たち。私たちはこうしたものを全然たいしたことではないとみなすものである。一部の人々によると、私は後の日の栄光について、また私たちの《救い主》イエス・キリストの来臨について、非常に熱狂的になりつつあるという。よろしい。私にはわからない。だが私は、熱狂的になればなるほどますます幸せになるので、このことについて詳しく語り続けるであろう。というのも、この世の何にもまして神のしもべを慰めるのは、その人の《主人》がやって来られると信ずることだからである。私は主を見ることを希望している。私は明日の朝イエス・キリストを見ることになるとしても驚かない。主はそのときに来られることもありえる。「人の子は、思いがけない時に来るのですから」[マタ24:44]。キリストが来られるのを待ち受けるようになっている者は、決して主が来られるとき驚かされはしないであろう。主人が帰って来たときに、忙しく自分の義務を果たしているのを見られるしもべは幸いである[マタ24:46]。しかし、一部の人々は、まだ主がやって来られるはずがないという。空にはあまりも多くの雲と、あまりにも多くの暗闇があり、太陽が昇るなどとはまだ期待できない、と。これは道理にかなっているだろうか? 雲は太陽の邪魔などするだろうか? 太陽は、いかなる霞をもものともせずに動く。そしてイエス・キリストは、雲があろうとあるまいとやって来ることがおできになる。私たちは、主が現われる前に光がほしいとは思わない。主がやって来て、その後で、光を私たちに与えられるであろう。ご自分の目の栄光で暗闇を追い散らすであろう。しかし、あなたは云う。「いかにして、こうした偶像礼拝の諸体系を投げ倒せるのか?」、と。神は、お望みになれば、そのようなことを一時のうちに行なうことがおできになるであろう。キリスト教信仰は、決して年単位や週単位で動くものではない。偽りの宗教が雨後の竹の子のように育つように、真の信仰はそれよりもさらに早く育つ。偽りの宗教は、ほんの数年のうちに途方もない図体に達した。イスラム教の場合を取ってみるがいい。――イスラムという新しく生まれた信仰が何百万人もの宗教になったのは、信じられないほど短期間のうちにおいてであった。では、偽りの宗教がこれほど迅速に普及できたからには、真の宗教は、神がおびただしい数のたりになるときには、刈り株の間の火のようにみるみる増え広がるではないだろうか? 雲は単に「その足でかき立てられる砂ほこり」にすぎない。少し前に、私たちの中の一部の人々は、モルモン教について苛立ちを感じて、こう云った。「あれは決して打倒されえないであろう」。米国の一部の馬鹿者たちは、あわれなモルモン教徒を殺し始め、そのようにして彼らを聖徒として刻み込んだ。それは、まさに彼らを確立することであった。キリスト者たちは身震いして云った。「これはいかなることになりえるだろうか? 私たちは再びソドムを持つことになるだろう」。しかし、先週の木曜の『タイムズ』紙をあなたは読んだだろうか? そこにあなたは、いかにして神が雲を追い散らし、それらをご自分の足のほこりとなさるかについて、素晴らしい実例を見るであろう。神は、ユタ州ソールトレーク近郊の地面の中から、無数の蟋蟀(こおろぎ)および、ありとあらゆる害虫を出てこさせ、作物をむさぼり食わせなさった。ユタでは以前に見られなかったような生物たちが、蝗の群れとともに出現したのである。そして、これほど文明化された国々から遠く離れた人々は、もちろん砂漠を越えて作物を運ぶことはできないため、彼らは飢えという刑を宣告されるか、さもなければ、ばらばらに解散するしかないであろう。どこから見ても、モルモン教徒たちの共同社会全体は、完全に打倒されざるをえないと思われる。そして、それをなしたのは、芋虫や、蟋蟀や、蝗の軍隊なのである。

 III. さて、もう1つ云いたいことがある。「雲はその足でかき立てられる砂ほこり」である。ならば、私たちがここから学ぶのは、《自然界におけるいかに恐るべきことも、神の子どもにとっては何の恐怖でもない》ということである。時として雲は、船乗りたちにとって非常に恐るべきものとなる。彼らは、雲と暗闇が寄り集まるのを見るとき、嵐が来るのを予測する。私たちの中の多くの人々にとって雲は、それが嵐の前兆となるとき、非常に不愉快なものとなる。しかし、本日の聖句を読ませてほしい。そのとき、あなたは、私がこう云うことで何を意味しているかがわかるであろう。自然界におけるいかに恐るべきことも、神の子どもにとっては何の恐怖でもないのである。「雲はその足でかき立てられる砂ほこり」。――神の御足でである。あなたは、私が何を云いたいかわからないだろうか? 今やそこには何も恐るべきものはない。なぜなら、それは私の御父の足の砂ほこりだからである。あなたは、自分の父親の足の砂ほこりを恐がる子どもなど見たことがあるだろうか? 否。もしその子が父親の足の立てる砂ほこりを遠くから見たとしたら、何をするだろうか? それが父親であるといって喜び、走って出迎えに行くであろう。そのように、自然界の最もすさまじい物事も、雲でさえも、神の子どもにとっては、そのあらゆる恐怖を失ってしまう。なぜなら、その人は、それらが自分の御父の足の砂ほこりにすぎないのを知っているからである。たとい私たちが雷雨の真っ直中に立っているとしても、閃光とともに向こうのレバノン杉が引き裂かれ、森の樫の木が真っ二つに裂かれ、もう1つの閃光が続き、また1つ続き、ついには天空全体が炎の海となっても、私たちは恐れない。というのも、それらは私たちの御父が空で薙払っておられる剣の閃きにすぎないからである。聞けよ。雷が地を揺すぶり、雌鹿に産みの苦しみをさせ、大森林を裸にするのを[詩29:8-9]。私たちはその音に震えはしない。

   「神は 高みで統べ治め
    御旨のままに 雷(いかづち)発し
    荒ぶる空に 乗り行きて
    大わたつみも つかさどらん。
   「こは我らが 気高き神、
    我らが父、我らが愛なり」。

私たちは恐れない。私たちが聞くのは私たちの御父の声だからである。そして、可愛がられている子どもが自分の父親の話すのを聞いて身震いするなどということがあるだろうか。私たちは、その御声を聞くのを愛している。それは深く、重々しく響きわたるが、私たちはその比類なき旋律を愛する。というのも、それは愛情の深みから発されているからである。私が海に出たとして、たとい船が吹きまくられたとしても、その風は私の御父の口の息である。雲が寄り集まったとしても、それらは私の御父の足の砂ほこりである。土砂降りが天からやって来るとしても、それは私の御父が、その地上の神殿の洗盤に御手を浸されたのである。神の子どもは何も恐れない。万物は、その御父のものである。そして今や、恐るべきものはみな、はぎ取られている。その人は、それらを平静に眺めることができる。というのも、その人は云うからである。「雲はその足でかき立てられる砂ほこり」、と。

   「主はその戦車(くるま)をば 天に駆り、
    御足の下に 雷(いかづち)鳴らん。
    主は地ゆさぶり 空をば覆う。
    わが魂(たま)、わが魂、この神あがめよ――
    こは汝が御父、汝が愛なれば」。

御足の前にひれ伏して、神を礼拝するがいい。というのも、神はその恵みによってあなたを愛しておられるからである。あなたも知るように、世の中には、私たちにふりかかるであろう多くの恐るべき出来事がある。だが、もし私たちが聖徒であるとしたら、決してそれらを恐れない。なぜなら、それらは神の足の砂ほこりだからである。悪疫が再びこの美しい町に猛威を振るうかもしれない。何千人もの人々が倒れて、私たちの町々でひっきりなしに葬列が見られるかもしれない。私たちはそれを恐れるだろうか? 否。この悪疫も、私たちの御父のしもべたちの1つにすぎず、私たちは、それが暗やみに歩き回る[詩91:6]としても、恐れはしない。作物は不作になり、家畜は群れや牛舎から断たれるかもしれない。それにもかかわらず、飢えも苦しみも私たちの御父のなさることであり、御父のなさることを私たちは恐怖をもって眺めはしない。そこに剣を手に持ったひとりの人がいる。――その人が敵であるとしたら、私はその人を恐れる。だが私の御父が剣を持っておられても、私は御父を恐れない。むしろ御父が剣を持っておられるのを喜んで見たいと思う。なぜなら、御父が私を守るためにだけそれをお用いになると知っているからである。

 しかし、やがて来たるべき1つの光景は、いまだかつて地上が目撃したいかなるものよりも壮大なもの、恐るべきもの、崇高なもの、破滅的なものである。やがて来たるべき火は、ソドムを滅ぼした火も青ざめるようなものである。そして、諸大陸を大火災が襲い、無と虚空へと沈み込んでいくであろう。愛する方々。もう何年かすれば、聖書が私たちに確証するところ、この地球とその中にあるすべてのものは、焼き尽くされることになっている[IIペテ3:10]。私たちの母なる地球の内部深くに横たわる、かの溶けた塊は噴出するのである。――固体は溶け崩れ、1つの巨大な火の球体となる。悪人は――悲鳴を上げ、呻き、呪いながら――こうした、大地の奥底から燃え上がる炎のえじきとなる。彗星群がその火を天から射かける。あらゆる雷がその電光をこのあわれな地上に投げつけ、地上は火の塊となる。しかしキリスト者はそれを恐れるだろうか? 否。聖書が私たちに告げるところ、私たちは引き上げられて、空中で主と会い、永遠に主とともにいることになるのである[Iテサ4:17]。

 IV. しめくくりに、第四の所見は、《自然界にあるあらゆる物事は、不敬虔な人々を恐れさせるためのものだ》ということである。今この場にいる不敬虔な人々よ。これは非常に厳粛な事実だが、あなたは神に敵している。神に対して罪を犯したがために、神はあなたに怒っておられる。――今日あなたに怒っておられるのではない、毎日あなたに怒り、毎時毎瞬怒っておられる。さらに、何にもまして悲しく厳粛な事実は、やがて来たるべき日には、左様、不敬虔な人々よ。この神の怒りが爆発し、神があなたを完全に破滅させ、滅ぼされる、ということである。さて、しばし私に耳を傾けてほしい。私は、全自然をして1つの厳粛な警告をあなたに勧告させようと思う。この広大な世界そのものが、ひとりの偉大な大祭司として、その指で上を示しては、《王の王》なるイエス・キリストのもとへ、あわれみを求めて逃れよとあなたに求めているのである。罪人よ。あなたは、空を連綿と流れて行く雲を見たことがあるだろうか? その雲はエホバの御足のかき立てる砂ほこりなのである。もしこうした雲が砂ほこりでしかないとしたら、神ご自身はいかなるお方だろうか? そして、そのとき、おゝ、人よ。私はあなたに問う。あなたは、このような神と敵対しようとするほど極度の馬鹿者なのだろうか? もし「雲がその足でかき立てられる砂ほこり」だとしたら、神の敵となろうとするあなたは何という愚か者であろう。あなたは、自分が神の威光に立ち向かえるとでも思うのだろうか? 私はあなたに云う。神はあなたの槍を葦ででもあるかのようにへし折るであろう。あなたは山々の中に身を隠すつもりだろうか? その山は御前で溶け去るであろう。そして、あなたが岩々に向かって自分を隠してくれと叫んでも、岩々は神の燃える両眼の前であなたにいかなる隠れ場も与えないであろう。おゝ、私の愛する同胞たち。神と敵対している人よ。ぜひ考えるがいい。あなたが御使いに反抗しようとするとしたら、それは愚かなことにならないだろうか? もしあなたが女王陛下ご自身とさえ、戦争を始めようとするとしたら、それは愚の骨頂ではないだろうか? 私はそうなるとわかっている。なぜなら、あなたがたには、彼らに対抗できるいかなる力もないからである。だが、《永遠の神》がいかにいやまさって強大なお方か考えてみるがいい。左様。人よ。神は今この瞬間にも、その御指をあなたの上に置き、私が虫をつぶせるように、あなたを潰すことがおできになるのである。だのに、この神があなたの敵なのである。あなたは神を憎んでおり、あなたは神と戦争をしている! さらに考えるがいい。おゝ、人よ。あなたがはなはだしく神に反逆してきたこと、あなたが神を心から激怒させてきたこと、神があらゆる罪人に向かって怒りと、ねたみと、激情を発しておられることを。神があなたの上に臨まれる、かの大いなる最後の審判の日に、あなたが何をしようというのか考えてみるがいい。あなたがたの中のある人々は、決して怒らず、悪人を全く憎まないような神を信じている。そのような神が、聖書の神だろうか? 聖書の神は、不敬虔な者を罰する神である。霊感による問いを尋ねさせてほしい。あなたはその憤りの前に立ちえようか? その燃える怒りに耐えられようか? その憤りが火のように注がれ、岩も主によって打ち砕かれるというのに[ナホ1:6]。考えるがいい。罪人よ。《全能者》の手に陥ることは良いことだろうか? そのお方があなたを真っ二つに引き裂こうとしているというのに。あなたは、《永遠者》の息吹が炎を煽り立てている地獄に横たわることが簡単なことだと考えようというのだろうか? あなたは、あなたが悔い改めて、立ち返らない場合、神があなたのために苦悶を発明し、あなたの破滅をより呪わしいものとするだろうことを喜ぼうというのだろうか? 何と、人よ! エホバへの恐怖はあなたにとって何ほどのことでもないのだろうか? あなたは、その憤りの猛烈さの前におののくことも震えることもないのだろうか? あゝ! あなたは今は笑えるであろう。話を聞いている方々。ここを去って、私の云ったことを思い出して微笑めるであろう。だが、その日がそれを宣言する。来たるべきその時には、――そして、それはすぐに来るかもしれない。――《全能者》の鉄の御手があなたの上に置かれる。あなたのあらゆる感覚が惨めさの門口となり、あなたの肉体は悲哀の家となり、あなたの魂は災いの縮図となる。そのときあなたは笑うことも、神を蔑むこともしないであろう。

 しかし今しめくくりとして、あなたにもう一言だけ云わせてほしい。というのも、愛する方々。なにゆえに私たちはこのような脅し文句を用いるのだろうか? なにゆえそのようなことについて語るのだろうか? これは、単にあの御使いの言葉にすぎない。ロトの肩を押して御使いはこう云った。「うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない」[創19:17]。それから、背後の火を指さして云った。「行け! 行け! あの燃えるみぞれがあなたに追いつき、あの《永遠者》からの雹があなたを沈めないように!」 私たちは、この背後の火について言及したにすぎない。それは、あなたが焼き尽くされないように、御霊があなたを山へと走らせてくださるためである。あなたは、その山がどこにあるかと尋ねるだろうか? 私たちはあなたに告げよう。《千歳の岩》には裂け目があり、そこには、罪人のかしらもまだ身を隠すことができる。――「イエス・キリスト、われら人のため、われらが救いのため、天より下り給いぬ」。そして、今朝この場に罪人としてあるあらゆる人を、いま私たちはキリストのもとへ行くよう招くものである。あなたがた、罪人と名乗ろうとしないパリサイ人たち。私たちはあなたに何の福音も宣べ伝えはしない。あなたがた、自分を義とし、自分に満足している人々よ。私はあなたに云うことは、これまで語ったこと――脅やかしの声――以外に何1つない。しかし、自分を罪人でるあと告白しようとするあらゆる人は、今朝、イエス・キリストのもとに行ける保証がある。罪人であることだけが、救いを主張しうる資格である。もしあなたが自分を罪人であると認めるならば、キリストはあなたのために死なれたのである。そして、もしあなたが自分の信頼をキリストに置き、キリストがあなたのために死なれたのだと信ずるならば、あなたはキリストにより頼んで、こう云うことができよう。「主よ。私はあなたの恵みによって救われるでしょう」、と。あなたの功績は何の役にも立たない。あなたはそれから何の恩恵も受けることができない。あなた自身の行ないは無益である。あなたは監獄で踏み車を踏んでいる人間のようなものである。――あなたは決してそれによってどこに達することもない。――あなたは何の役にも立たない牡蛎の貝殻を擦り磨いているのである。イエス・キリストのもとに来るがいい。キリストを信ずるがいい。そうすれば、あなたがキリストを信じた後で、キリストはあなたを働かせてくださるであろう。――新しい行ないをさせてくださるであろう。キリストは、もしあなたが信仰を持ちさえするなら、あなたに行ないを与えてくださるであろう。――信仰でさえキリストの賜物なのである。おゝ、私の話を聞いている方々。願わくは主がそれを今あなたに与えてくださるように。というのも、主は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる[ヤコ1:5]からである。「主イエス・キリストを信じてバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたも救われます」*[使16:31; マコ16:16]。

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雲とは何か?[了]

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