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炉の中にある神の民

NO. 35

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1855年8月12日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「わたしは悩みの炉であなたを選んだ」。――イザ48:10 <英欽定訳>


 国内を旅行しているとき、しばしば気づくのは、あちらこちらに古い岩石が土の下から顔をのぞかせ、さながら私たちに、地球の骨が何からできているか、この世界の堅い土台がいかなるものであるかを知らせてくれているように思えるということである。それと同じように、聖書をくまなく調べていると、そこここに教えがあり、戒めがあり、叱責があり、慰めがあるが、往々にして昔ながらの諸教理が、古い岩石のように、他の事がらの真中に突き出していることに気づかされる。そして、ほとんど予期してもいないときに、選びや、贖いや、義認や、有効召命や、最終的堅忍、すなわち契約による安全が提示されることに気づかされる。それは、福音の堅固な土台がいかなるものであるか、また、福音の教え全体が基盤としなくてはならない、こうした深遠で神秘的な諸真理がいかなるものであるかを、私たちに見てとらせるためにほかならない。そのようにして、例えばこの聖句は、神がご自分の民をお選びになる教理に言及する必要などほとんどないかに思える章の中にあるが、突如として聖霊は、預言者の唇を動かして、この「わたしはあなたを選んだ」ということばを口に出すよう彼に命じておられる。わたしはあなたを、わたしの永遠の、主権的な、分け隔てをする恵みによって選んだ。わたしはあなたを契約の諸目的において選んだ。わたしはあなたを、私の選びの愛に従って選んだ。「わたしは悩みの炉であなたを選んだ」。よろしい。こうした事がらが、時として私たちのほとんど予期せぬときに言及されるのはよいことである。物事の中には、私たちが忘れがちなものがあるからである。現代の多くの人々は、あらゆる教理的知識を軽んじ、「われわれは、あることが真実であろうとなかろうとどうでもいい」、と云うことが少なくない。この時代は浅薄な時代である。表土よりも深く耕す教役者たちはほとんどいない。福音の内部にまで立ち入って、私たちの信仰の基盤たるべき堅固な事がらを論ずるような人々はごくまれである。それゆえ、私たちは聖霊をほめたたえ、賞賛するのである。御霊はこうした栄光に富む諸真理を、かくもしばしば書き表わし、結局において選びというようなことはあるのだと私たちに思い起こさせておられる。「わたしは悩みの炉であなたを選んだ」。しかしながら、私はそのことについて詳しく語ろうとは思わない。むしろ、二、三の予備的な所見を述べた後で、悩みの炉こそ神の選びの者たちが不断に見いだされる場所であるという主題に話を進めたいと思う。

 さて私が述べたい最初の所見はこうである。悩みの炉の中にいるあらゆる人が選ばれているわけではない。この聖句は云う。「わたしは悩みの炉であなたを選んだ」。裏を返せば、この炉の中には選ばれない者たちがいることもありえるのである。また、疑いもなくいるのである。いかに多くの人々が、自分たちは、試みられ、悩まされ、誘惑されているのだから神の子どもなのだ、と考え、その実、全然そうした者ではないことか。神の子どもがみな患難に遭うということは、大いなる真理だが、患難に遭っている者がみな神の子どもだと云っては偽りである。神の子どもはみな、何らかの試練を受けるであろう。だが、試練を受けている人がみな天国の相続人だということにはならない。神の子どもは貧困の中にあるかもしれない。――しばしばそういうことはある。だが、だからといって私たちは、貧乏な人がだれでも神の子どもだと推断してはならない。というのも、そうした者らの多くは堕落し、荒れすさみ、神を冒涜し、不義に埋没しているからである。神の子どもの多くは自分の財産を失う。だが、だからといって私たちは、あらゆる破産者、あらゆる支払い不能者があわれみの器だと結論すべきではない。実際、そこにはしばしば、それとは逆のことを示すいくばくかの疑いがあるであろう。神の子どもは、その作物が枯らされ、その田畑が白渋病に襲われることがありえる。だが、それがその人の選びを証明するわけではない。というのも、決して神に選ばれていないおびただしい数の人々が、その人と同じように白渋病や枯れ病に遭ってきたからである。その人はそしられるかもしれず、人格を中傷されるかもしれない。だが、それは、邪悪きわまりないこの世の子らにも起こりうることである。というのも、世の中にはキリスト教信仰など鼻にもひっかけない者でありながら、――政治や文学の立場において――中傷されている人々がいるからである。いかなる患難も、恵みによって聖められたものでない限り、私たちを神の子どもたちであると証明しはしない。むしろ苦難は、あらゆる人が共通して受ける分である。――人は生まれると困難に会う。火花が上に飛ぶように[ヨブ5:7]。それゆえあなたは、たまたま貧乏であるか、病んでいるか、思い悩みの中にあって困難を覚えているからといって、自分は神の子どもなのだと推断してはならない。もしあなたがそのように想像しているとしたら、あなたは偽りの土台の上に建てているのであり、間違った考え方をしているのであり、この件において全く誤っているのである。私は今朝、できるものなら、あなたがたの中のある人々、何の権利もなく魂に膏薬を塗りつけているような人々の心をぐらつかせたいと思う。もしできるものなら、私は非常に明確に、こう示したい。すなわち、たといあなたがいかに多くの苦しみを受けていようとも、それでもあなたは、多くの苦しみを経て[使14:22]地獄の国にはいることがありえる、と。世の中には、試練を通して破滅の穴に行くということがある。悪人の道は必ずしも安逸ではなく、罪の通り道は常に快適というわけではないからである。不敬虔な者の進む道には試練がある。彼らが苦しまなくてはならない困難の中には、神の子どもたちの困難と全く同じくらい激しいものがある。おゝ! あなたの困難に信頼してはならない。あなたの思いをイエスに堅く据えるがいい。イエスをあなたの信頼する唯一の対象とし、これを唯一の試金石とするがいい。「『私はキリストと1つになっているだろうか? 私はキリストにより頼んでいるだろうか?』 もしそうなら、私が試みを受けていようがいまいが、私は神の子どもなのだ。だが、たとい私がいかに激しく試みられても、『私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません』[Iコリ13:3]」。苦しみを受けている多くの人々は神の子どもではない。あなたがたの中の多くの人々は、疑いもなく、これまでの人生において、悩みによって良くなるかわりに悪くなった人々のことを思い起こせるであろう。そして、非常に多くの人々については、アロンが云ったように、こう云えるであろう。「私が黄金を炉に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです」*[出32:24]。この炉の中からは多くの子牛が出て来る。多くの人は、炉の中に入れられると、以前よりも悪くなって出て来る。――子牛になって出て来る。イスラエルの列王の時代、人々は火の中をくぐり抜けた。――モレクの火をくぐり抜けた。だが、モレクの火は彼らをきよめることも、益することもなかった。逆に彼らをさらに悪い者とし、彼らを偽りの神にささげられたものとしてしまった。また、神のことばが私たちに告げているところ、ある種の人々は、炉の中に入れられても、それによって全く益を受けることがなく、全く神の子どもたちではなかった。しかし、私の云ったことをだれも疑わないように、エゼキエル書22章17節、18節にある箇所に目を向けるがいい。「次のような主のことばが私にあった。『人の子よ。イスラエルの家はわたしにとってかなかすとなった。彼らはみな、炉の中の青銅、すず、鉄、鉛であって、銀のかなかすとなった。それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたはみな、かなかすとなったから、今、わたしはあなたがたをエルサレムの中に集める。銀、青銅、鉄、鉛、すずが炉の中に集められるのは、火を吹きつけて溶かすためだ。そのように、わたしは怒りと憤りをもってあなたがたを集め、そこに入れて溶かす』」。これでわかったであろう。主のものでなくとも、炉の中にいるように感ずる者はいるのである。解放の約束が何も与えられていない者たち、その炉によって、いやまさってきよくなることも、さらに天国にふさわしくなることもない者たちがいる。むしろ逆に、神は、金滓を放っておくように彼らを放っておき、完全に焼き尽くされるままにしておかれる。彼らは地上で地獄の前味を味わい、悪鬼のたいまつは現世においてすら、その患難の中で彼らに灯されるのである。偽りの根拠に立って自分の救いを築いているすべての人は、こうした思想を心中深く受けとめるがいい。患難は決して子たる証拠ではない。子たることに常に患難が伴うとしても関係ない。

 しかし、私が述べたい二番目の予備的言及は、ご自分の民に対する神の愛の不変性である。「わたしは悩みの炉であなたを選んだ」。わたしは、あなたがここに来る前にあなたを選んだ。しかり。わたしはあなたが存在する前に、あなたを選んだ。あらゆる被造物がわたしの前で、創造以前の塊でしかなく、わたしが意のままに創造することもしないこともできたそのときに、わたしはあなたを選び、永遠のいのちに定められたあわれみの器として創造した。そして、あなたが他の全人類と同じように堕落したときも、わたしは、あなたを彼らとともに粉砕し、あなたを地獄に叩き落とすことができたにもかかわらず、堕落した状態にあるあなたを選び、あなたの救拯のための備えをした。時満ちるに及んでわたしは、わたしの御子を遣わした。彼はわたしの律法を成就し、それを誉れあるものとした。わたしは、あなたが誕生したときあなたを選んだ。無力な赤子として、あなたの母に抱かれて眠っていたあなたを選んだ。あなたが子どもとして成長し、あなたのあらゆる愚かさと、あなたのあらゆる罪を身につけていくときも、わたしはあなたを選んだ。あなたのを救いを決意していたわたしは、あなたがサタンの盲目の奴隷として死をもてあそんでいたときも、あなたの行く道を見守っていた。成人に達したあなたが、横柄な態度でわたしに逆らって罪を犯したときも、あなたの放逸な情欲が、あなたをしゃにむに地獄へ突き進ませていたときも、わたしはあなたを選んだ。そして、あなたが冒涜し、悪態をつき、わたしから非常に遠く離れていたときも、わたしはあなたを選んだ。あなたが罪過と罪の中で死んでいたとき[エペ2:1]でさえ、わたしはあなたを選んだ。私はあなたを愛していた。あなたの名前はなおもわたしの書の中に保たれていた。定められていた時が来た。わたしはあなたを、あなたの罪から贖い出した。わたしはあなたが愛するようにさせた。あなたがあなたの罪を離れ、わたしの子どもとなるようにあなたに語りかけ、そのときあなたをもう一度選んだ。その時以来、いかにしばしば、あなたはわたしを忘れたことか! だが、わたしは決してあなたを忘れなかった。あなたはわたしから離れてさまよった。わたしに反逆した。しかり。あなたは、非常に激しくわたしをなじった。また、わたしからわたしの誉れを盗んだ。だが、そのときでさえ、わたしはあなたを選んだ。では、わたしがあなたを炉の中に投げ入れた今、あなたはわたしの愛が変わったと思うのか? わたしは冬になると逃げ去る、夏の間だけの友だろうか? わたしは、順境のときはあなたをちやほやするが、逆境になると冷たい仕打ちをするような者だろうか? 否。炉によって試されている者よ。わたしのこのことばを聞くがいい。「わたしは悩みの炉であなたを選んだ」。ならば、困難の中にあるとき、神があなたを捨て去ったなどと考えてはならない。あなたが試練や困難に全く遭わないとしたら、神があなたを捨て去ったと思うがいい。だが、炉の中にあるときには、こう云うがいい。「主は、あらかじめ私に告げておられなかっただろうか?

   「試し、痛みを?――主はかく予言(つ)げぬ。
    御言(みこと)も云えり――救いの世継ぎ
    数多(さわ)の苦しみ 経て、主に従(つ)かんと」。

おゝ、ほむべき黙想よ! それによって慰められようではないか。主の愛は変わることがない。それを変更させることはできない。炉が私たちを焼き焦がすことはありえず、私たちの髪の毛一筋すら失われることはない[ルカ21:18]。私たちは火の中にあっても、火の外にいるときに劣らず安全である。主は、私たちが患難の深みにあるときも、喜びと歓喜のきわみにあるときと同じくらい、私たちを愛しておられる。おゝ! 友人たちから愛されている者よ。「あなたの父、あなたの母が、あなたを見捨てるときは、主があなたを取り上げてくださる」*[詩27:10]。このように云える者よ。「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた」[ヨハ13:18]。エホバは云われる。「たとい全部の者があなたを見捨てても、私はそうしない」。おゝ、シオンよ。神から忘れられたと云ってはならない。神がこうお語りになるのを聞くがいい。――「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」。「わたしは手にあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある」*[イザ49:15-16]。ならば喜ぶがいい。おゝ、キリスト者よ。考え直すがいい。神の愛は、炉の中にあっても絶えることなく、炉と同じくらい熱く、それ以上に熱いのである。

 さて、本題に移るが、それは――炉の中にある神の民――ということである。そして、このことについて論ずるにあたり、私たちがまず第一に証明しようと思うのは、この事実、すなわち、もし神の民に会いたければ、彼らは炉の中に見いだされる、ということである。第二に私たちが示したいのは、なぜ炉があるのかという理由である。第三に、その炉の恩恵、第四に、炉の中にある慰めである。願わくは神がそうする私たちを助けてくださるように!

 I. まず第一に私が言明したい事実は、《もしあなたが神の民に会いたければ、普通は炉の中を探さなくてはならない》ということである。原始時代の世界、アダムとエバが園から追い出されたときの世界を眺めてみるがいい。見よ、彼らにはふたりの息子、カインとアベルが生まれた。どちらが神の子どもだっただろうか? そこに横たわっている方である。棍棒でなぐられ、死んだ亡骸となっている方である。今の今まで、自分の兄の敵意と迫害という炉の中にあった者――それが天国の相続人である。それから数百年が経つ。どこに神の子どもがいるだろうか? その耳を、悪人たちの会話で絶えず悩まされているひとりの人がいる。神とともに歩んでいる人がいる。すなわち、エノクである。彼は神の子どもであった。さらに時代を下って、ノアの時代に行き着くがいい。あなたがそこに見いだすのは、笑いものにされ、黙っていろと云われ、馬鹿だ間抜けだ大うつけだと野次られ、乾いた陸地の上で船を造る者よと囃し立てられ、中傷と嘲笑という炉の中に立っている人、それが神に選ばれた人、ノアである。なおも歴史の中を進むがいい。アブラハム、イサク、ヤコブの名の前を通り過ぎるがいい。彼ら全員について、あなたはこう書けるであろう。「これらは、試みられた神の民であった」、と。そしてイスラエルがエジプトに入国した時代に下るがいい。あなたはどこに神の民がいるかと尋ねるだろうか? 私はあなたをパロの宮殿には連れて行かず、メンフィスの広壮な広間を歩いたり、百の門を構えるテーベに行くようあなたに求めはしない。私は荘厳さや、栄光や、王侯たちの威光で飾り立てられたいかなる場所にもあなたを連れて行かない。むしろ、エジプトの煉瓦窯へ連れて行く。そこの鞭で痛めつけられている奴隷たちを見るがいい。このしいたげられた者らの叫びは天にまで届いている。彼らの煉瓦の総数は倍増しにされ、しかも、それらを作るための藁はない。そこに神の民がいる。彼らは炉の中にある。歴史の通り道を辿るとき、神の家族は次にどこにいるだろうか? 彼らは荒野という炉の中にいて、欠乏と痛みに苦しんでいる。燃える蛇が彼らに向かってシューシュー云う。太陽に照りつけられ、足は弱り、水はなく、パンもなくなり、ただ奇蹟によってのみ必要を満たされている。彼らは決して願わしい立場にはいなかった。だが彼らの中には――というのも、イスラエルから出る者がみな、イスラエルではないからだが[ロマ9:6]――選ばれた者たちがいた。その最も激しい炉の中にいた者たち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは、民から石で打ち殺されそうになった。彼らは神の子らであった。彼らは、選ばれた民の中から選ばれた者として、その同胞から抜きんでていた。さらに聖なる頁をめくり『士師記』を通り過ぎてサウルの時代に行くがいい。そのとき神のしもべはどこにいただろうか? 王が栄誉を与えたいと願う者はどこにいるだろうか? 神の心にかなう人はどこにいるだろうか? 彼は炉の中にいる。――エン・ゲディの洞窟という洞窟をさまよい、山羊の通り道をよじ登り、容赦ない敵からしゃこのように狩り立てられている。そして、彼の時代の後には、どこに聖徒たちはいただろうか? イゼベルの大広間にはおらず、アハブの食卓についてもいない。見よ。彼らは五十人ずつ洞穴にかくまわれ、パンと水で養われている[I列18:4]。見よ。そこにいる、毛衣を身にまとって山頂に立っている人を。一時彼の住まいはちょろちょろ流れる小川のそばであり、烏が彼にパンと肉とを運んできた[I列17:6]。別の時には、やもめが彼を養ったが、彼女の持っているものといえば、少しの油と、一握りの粉だけだった[I列17:12]。――その炉の中にエリヤは、神の選びの民の残りの者は立っている。連綿たる歴史を見てみるがいい。それをずっと辿る必要はあるまい。さもなければ、私はマカベア家の時代について告げることができるであろう。そのときには無数の神の民が、それまで聞いたこともなかったような、ありとあらゆる苦しみを受けて殺された。私はキリストの時代について告げることができるであろう。そして、あの蔑まれた漁師たち、笑いものにされ、迫害された使徒たちを指し示せるであろう。私は、ローマカトリックの時代を通じて、山々の上で死に、平野で苦しみを受けた人々を指摘できよう。神の軍隊の行進は、彼らが後に残した自らの灰でなぞることができる。燦然ときらめく彗星が突進する際、その後方に一瞬の閃光を残していくように、教会もその背後には迫害と困難という烈々たる炎を残していった。義人の道は地上のふところに瘢痕を残しており、《教会》の記念碑は、その殉教者たちの墓所である。大地は、彼らが生きていた所ではどこででも、深いすき跡を残して耕されてきた。あなたが神の聖徒たちを見いだす場所には、いずれも燃える炉が彼らを取り巻いているのを見いだすであろう。これは、最後の時代まで続くだろうと思う。私たちが自分の葡萄の木と自分のいちじくの木の下に座り、だれも私たちを恐れさせたり、あえてそうしようとしたりすることがなくなる時が来るまで、私たちは苦しみを受け続けるのを予期しなくてはならない。もし私たちが中傷されることも嘲りの的となることもないとしたら、私たちは自分が神の子どもであるとは思わないであろう。私たちは、戦いの日に自分が傑出して立つことを誇りとする。私たちは、私たちの敵たちが放つあらゆる矢に感謝する。その一本一本が、私たちの御父の愛の証拠を運んで来るからである。私たちは、私たちの敵兵たちの一突き一突きに感謝する。それは私たちの鎧を切り裂き、私たちの鎖かたびらを鳴らすだけで、私たちの心臓には決して達さないからである。私たちは、彼らがでっちあげるあらゆる中傷、彼らが捏造するあらゆる嘘っぱちに感謝する。というのも、私たちは、自分の信じて来た方をよく知っており、こうしたいかなる事がらも、この方の愛から私たちを引き離すことはできないと知っているからである[IIテモ1:12; ロマ8:38-39]。しかり。私たちは、これを自分たちが召されている目印であると受け取る。神の子らなればこそ、私たちは義のため迫害に苦しむことがあるのである[マタ5:10]。

 事実として云う。あなたは、キリスト教信仰を炉の中に見いだすであろう。もしキリスト教信仰をロンドンで見いだせと云われたら、私は抗議する。この世のいかなる場所にもまして、それを探すべき所として考えられないのは、向こうにある巨大な、栄光においては下手な王宮をもしのぐ構築物である。そこでは、バビロンという古の娼婦自身がかつては愛したような、あらゆる玩具で人々が飾りたてられているのが見える。むしろ私は、それよりも卑しい場所に行くべきである。人々が政府の助けを得ているような場所や、一国の権力者や貴顕たちを後ろ盾にしているような場所へ行くのではなく、通常は、貧しい人々の間、蔑まれている人々の間、炉が最も熱く燃え盛っている場所へと行くべきである。そこにこそ聖徒たちを見いだせると期待すべきである。――だが、わが国のご立派で瀟洒な諸教会の間でそれを期待すべきではない。ならば、神の民がしばしば炉の中にあるということ、それは事実なのである。

 II. さて第二に、《このことの理由》である。なぜ神の子どもたちはそこに陥るのだろうか? なぜ神は、彼らを炉の中に入れることをふさわしいとごらんになるのだろうか?

 1. 私に云える第一の理由は、――それが契約の証印だからである。ご存じのように、ある種の文書が法律上正式のものとなるためには、政府の証印がそこに押されていなくてはならない。この証印がなくとも、こうした文書を書くことはできるが、それは全く正式のものではなく、法廷でそれに訴えることはできない。さて、私たちは救いの契約の証印がいかなるものかを告げられている。そこには2つの証印がある。参考までに創世記15:17を引用させてほしい。そこにあなたは、その2つが何であるかを見てとるであろう。「さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた」。この2つのものが、契約を保証した証印であった。「燃えているたいまつ」――神の民の光、彼らの暗闇を照らす光、天国への全道中において彼らを導く光、そして、そのたいまつの傍らにある「煙の立つかまど」である。ならば私は、あなたがその煙の立つ炉の方をちぎりとるよう望んでよいだろうか? 私はそれを取り除きたいと願うだろうか? 否。というのも、そうすれば全体が無効なものとなってしまうからである。それゆえ私は朗らかにそれを忍ぼう。それは、その契約を有効なものとするために絶対に必要なものだからである。

 2. もう1つの理由はこうである。――尊いものはみな精錬されなくてはならない。あなたは、一度も精錬されたことのない貴重なものなど決して見たことがないであろう。金剛石は切り磨かれなくてはならず、このあわれな宝石は厳しく切り磨かれる。もしそれに痛みを感ずることができるとしたら、この世の何よりも悩みと不安を覚えるのは金剛石であろう。黄金も精錬されなくてはならない。それは、鉱床から掘り出されたままでは、あるいは、その粒々が川で見いだされたままでは使いものにならない。それは、るつぼを通して、金滓を取り除かれなくてはならない。銀は精錬されなくてはならない。事実、何らかの価値のあるものはみな、火に耐えなくてはならない。それが自然の法則である。ソロモンは箴言17章3節でそう私たちに告げている。彼は云う。「銀にはるつぼ、金には炉」。もしあなたが錫でしかないなら、「るつぼ」の必要はないであろう。だが、まさにあなたに価値があればこそ、あなたは精錬されなくてはならないのである。それが、民数記31章23節に記された、神の律法の1つであった。「すべて火に耐えるものは、火の中を通し、きよくしなければならない」。それが自然の法則であり、恵みの律法である。火に耐えるあらゆるもの――あらゆる尊いもの――は、精錬されなくてはならない。確信しておくがいい。――精錬に耐えられないものなど、持つ価値がないのである。私は、もしこの建物が大人数の会衆という試練に耐えられず、近いうちに緩み出し、倒壊すると思っているとしたら、ここで説教しようなどと思うだろうか? 鉄道を敷いている者の中に、そこを通る重量を支えきれないような橋を造る者がいるだろうか? 否。私たちは、そうした試練に耐えられる物事を持とうとするものである。そうでなければ、そのようなものに何の価値もないと思う。一時間だけは信頼できるが、私が最も必要とする二時間目には壊れることになるものなど、私にとってほとんど役に立たない。しかし、聖徒たちよ。あなたがたは価値あるものである。それゆえ、あなたがたは試練を受けなくてはならない。あなたがたが尊いものだという事実そのものからして、あなたがたは炉の中を通らされなくてはならない。

 3. 別の思想はこうである。キリスト者は、神へのいけにえであると云われている。さて、いかなるいけにえも、火で焼かれなくてはならない。新穀をささげるときでさえ、それは火にあぶられなくてはならないと云われている[レビ2:14]。人々は若い牛をほふり、それを祭壇の上に置いたが、それは焼かれて初めていけにえとなった。人々は子羊を殺し、たきぎを置いた。だがそれは、殺しただけではいけにえにならず、焼かれて初めていけにえになった。兄弟たち。あなたがたは知らないのだろうか? 私たちは神へのささげ物であり、イエス・キリストへの生きた供え物なのである[ロマ12:1]。しかし、焼かれないとしたら、いかにして私たちはささげ物となれるだろうか? もし私たちが一度も困難の火を身の回りに灯されないとしたら、もし私たちが一度も燃やされないとしたら、私たちはそこに煙なく、炎なく、神に受け入れられないものとして横たわっているであろう。しかし、あなたがたは神のいけにえであればこそ、燃やされなくてはならない。火があなたの中に通り、あなたは、聖い、神に受け入れられる全焼のいけにえとして、神にささげられなくてはならない。

 4. 私たちが炉に入れられなくてはならないもう1つの理由は、さもないと私たちが、イエス・キリストとは似ても似つかない者となるからである。もしあなたが、黙示録にあるイエス・キリストの美しい描写を読むならば、こう書かれているのを見いだすであろう。「その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようで……あった」[黙1:15]。イエス・キリストの足は、その人性を象徴し、その頭は神性を象徴している。《神格》の頭は苦しみを受けることはない。神は苦しむことがありえないからである。だが、「その足は、炉で焼かれて光り輝くしんちゅうのよう」 <英欽定訳> であった。私たちがキリストに似た者となるとしたら、いかにして私たちの足が炉の中で焼かれずにすまされるだろうか? もし主が炎の中を歩まれたなら、私たちも同じことをしなくてはならないではないだろうか?――「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした」[ヘブ2:17]。私たちも知る通り、私たちは、キリストがその尊貴な現われによって、そのすべての聖徒の感嘆の的となられるとき[IIテサ1:10]、キリストと似たものとなるはずである。私たちはキリストのありのままの姿を見るとき、キリストに似た者となる[Iヨハ3:2]。では、私たちはこの点で主と同じようになることを恐れてよいだろうか? 私たちは、私たちの《救い主》が踏んだ跡を踏みたくないのだろうか? そこに主の足跡がある。私たちの足も同じ場所に下ろされるべきではないだろうか? そこに主の御跡がある。私たちは喜んでこう云いたくならないだろうか?――

   「御跡(みあと)われ見ゆ、われ従わん
    狭き道をば、主を見る日まで」。

しかり! 進め、キリスト者よ! あなたの救いの指揮官は、かの暗き谷を、あなたの前に通って行かれた。――それゆえ、進め! 大胆に進め! 勇敢に進め! 希望をもって進め! その苦しみにあずかることによって、あなたの《救い主》に似た者となるがいい。

 III. さて、《この炉には、いかなる恩恵があるだろうか?》 というのも、私たちの確信するところ、こうしたすべてをもってしても、そこから引き出せる恩恵が何かない限り、神が御民を試みられる理由としては不十分だからである。それでは非常に簡潔に述べるが、この炉から引き出される1つの恩恵は、それが私たちをきよめるということである。私は、グラスゴー市当局の方々の非常な好意によって、それまで見た中でも最大の造船所を見せてもらった。私は、そこに滞在中に、彼らがいくつかの物品を鋳造するのを見た。私の注目するところ、彼らは金属をるつぼに入れ、それに激しい熱を加えた後で、それを水のように鋳型に流し込んでいた。ただし、まず彼らは表面に浮かんだ不純物を除去した。だが、そうした浮きかすは、火がなかったとしたら絶対に表面に表われなかったに違いない。彼らが金滓を抽出できたのは、それが炉の中に入れられ、溶かされたためにほかならない。これこそ、炉が神の民に施す恩恵である。それは彼らを溶かし、精錬し、きよめる。それらは、彼らの金滓を取り除く。そして、私たちは、そうした金滓を取り除くことができさえするなら、この世のあらゆる惨めさをも喜んで忍べるであろう。非常に重い病気にかかっている人も、なかなか医者の手術刀に身をゆだねる気持ちにはならないかもしれない。だが、死がその枕頭にやって来るとき、その人はとうとう云うであろう。「何でもしてください、お医者様。何でもしてください、先生。もしこの病気を去らせることができなるなら、――どうぞ好きなだけ深く切り込んでください」、と。告白するが、私はいかなる痛みをも忌み嫌うものである。だが、それにもかかわらず、より大きな痛みがあるとき、人はそれから解放されるためなら、より小さな痛みも忍べるであろう。そして、罪は神の民にとって痛みであり、我慢できないほどの苦悶であるため、彼らは、必要とあらば、自分の右手を切り落とされ、右目をえぐり出されようとも、両目と両手がそろったままゲヘナの火の中に投げ込まれるよりはよいとするであろう[マコ9:41]。キリスト者よ。炉の中は、あなたにとって良い場所である。それは、あなたにふさわしい場所である。それは、あなたがよりキリストに似た者となるのを助け、あなたを天国にふさわしいものとする。あなたは、その炉の働きを受ければ受けるほど、家に帰るのが早くなる。というのも、神は、あなたが天国にふさわしくなったならば、あなたをそこから長いこと閉め出してはおかないであろうからである。すべての金滓が焼き尽くされ、錫がなくなるとき、神は云うであろう。「あの黄金の延べ棒をここへ持ってくるがいい。わたしは、わたしの純金を地上にとどめてはおかない。わたしはそれを、わたしの天の幕屋の秘密の場所の中に、わたしの王冠の宝石ともにしまっておこう」。

 2. この炉のもう1つの恩恵は、それが私たちを、より変えられやすくするということである。鍛冶屋が冷たい鉄を一個取り上げたとする。それを鉄床の上に置き、その大鎚を渾身の力で叩きつけてみるがいい。そうして彼は働く。あゝ! 鍛冶屋氏よ。 あなたが何日重労働を積んでも、その鉄棒からは何も作り出せないであろう。「しかし」、と彼は云う。「私は、激しく打ちつけ、本気で叩きつけるつもりです。朝も、昼も、夜も、常にこの槌を鉄床とこの鉄の上で鳴り響かせずにはおきません」。あゝ! そうかもしれない。鍛冶屋氏よ。だが、そこからは何も生じないであろう。あなたが永遠にそれを打ち続けていても、それが冷たいままでは、どれほど苦労しても馬鹿者になるであろう。あなたにできる最上のことは、それを炉の中に入れることである。そうすれば、あなたはそれを溶接できるし、それを完全に溶かして鋳型に流し込めるであろう。それは、あなたの願い通りのいかなる形にでもなるであろう。わが国の製造業者たちは、もし自分の使う金属を溶かすことができないとしたら、何ができるだろうか? もし彼らが金属を融解させ、その後で鋳造することができなかったとしたら、彼らは、私たちの回りにある種々雑多なものの半分も作り出せないであろう。もしも困難が何もないとしたら、この世にはひとりも善人がいなくなることもありえる。私たちの中のひとりとして、火によって試みを受けられないとしたら、有益な者にはなれなかったであろう。生地のままの私を取り上げてみるがいい。一片のごつごつした金属である。非常に無骨な、断固たる、硬いものである。あなたは、私の少年時代に私を訓育できるかもしれない。成人になってからも鞭を使って私を訓練できるかもしれない。また、私の目の前に治安判事による刑罰や、法の恐れを置けるかもしれない。だが、あなたは、いくら鞭打っても、鉄拳を振るっても、私をみじめきわまりない者にするであろう。しかし、もし神が私を御手に取り、悩みの炉に入れ、試練によって溶かされるとしたら、そのときは神は私をご自身の栄光のかたちに形作ることがおできになり、私はついには集められて天で神とともになるであろう。炉は私たちを融かしうるものとする。私たちは、何らかのしかたで試みに遭うとき、よりよく教えへと流し込まれ、鋳造され、明け渡されることができる。

 3. そして、この炉が神の民にとって非常に有益なのは、彼らが他のどこよりも多くの光を得られるからである。バーミンガムか、他の製造業地区の近郊を旅するならば、夜、あなたは、こうしたすべての炉から発される光のまぶしさを面白く思うであろう。それは労働そのものが発する栄光の照明である。これはこの主題から離れた考えかもしれないが、私の信ずるところ、私たちがどこにもまして多くを学ぶ場所、また多くの光を聖書に照らされる場所は、私たちが炉の中にいるときにほかならない。ある真理を希望にあって読み、平安にあって読み、繁栄にあって読んでも、あなたは何とも思わない。しかし、炉の中に入れられるとき(そして、そこに入った者でなければ、そこにいかにまばゆい輝きがあるか知らない)、そのときあなたはあらゆる難解な言葉を綴れるようになり、さもなければ到底理解できなかったようなことを理解できるであろう。

 4. 炉のもう1つの役目は――私はこれを、神の民を憎んでいる人々のために云うが――、それが、私たちの敵たちに災害をもたらす役に立つということである。あなたは、出エジプト記でこう云われている箇所を思い出さないだろうか? 「主はモーセとアロンに仰せられた。『あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはパロの前で、それを天に向けてまき散らせ。それがエジプト全土にわたって、細かいほこりとなると……人と獣につき、うみの出る腫物となる』」[出9:8-9]。イスラエルの敵たちを何にもまして悩ませるもの、それは、私たちが彼らにふりかけることのできる、「両手いっぱいの炉(かまど)のすす」にほかならない。悪魔が、いかなる時にもまして間抜けぶりを発揮するのは、彼が神の民にちょっかいを出し、神に仕える教役者を下落させようとする時にほかならない。「下落させる!」 お前はその人を上昇させているのだ! いかなる誹謗中傷を投げつけても、お前は決してその人を傷つけることはないであろう。というのも、「両手いっぱいの炉のすす」がまき散らされ、国中の不敬虔な者らの上に災害をもたらすからである。かつていかなるキリスト者であれ、迫害によって苦しめられる――真にそれゆえに苦しみを受ける――ことなどあっただろうか? その人は迫害によって本当に失ったことがあるだろうか? 否。その全く逆である。私たちは得をするのである。あなたは、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの燃えさかる炉と、ネブカデネザルの仕打ちを思い出すであろう。あなたも覚えている通り、彼は炉を普通より七倍熱くせよと命じた。また彼の家来の中の最も屈強な者らに、この三人を縛って、炉に投げ込めと命じた。さあ、彼らはそうした! 彼らは三人を縛られたまま火の中に投げ込んだが、彼らが引き返す前に、こう云われている。彼らを投げ込んだ者たちは、その火炎の熱で焼き殺された、と。ネブカデネザルは自問した。「私たちは三人の者を縛って炉の中に投げ込んだのではなかったか。だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。第四の者の姿は神々の子のようだ」*[ダニ3:19-25]。さて、こうした点に注意するがいい。ネブカデネザルは大失敗を犯した。炉をあまりにも熱くしすぎた。これこそ、私たちの敵たちがしばしば行なうことにほかならない。もし彼らが私たちについて真実を語ることしかせず、私たちの不完全さを告げるだけだとしたら、それで十分であろう。しかし、神のしもべたちを失墜させようと躍起になるあまり、彼らは炉を熱くしすぎてしまう。彼らは、ロウランド・ヒルが云ったように、あまりにも嘘くさい臭いがするものを作り出し、それゆえ、だれもそれらを信じず、何らかの害を及ぼすかわりに、それが私たちを火の中に投げ込もうとした人々を殺してしまうのである。私が時として気づくことだが、ある特定の人を攻撃する捨てばちな記事が現われるとき、その人が正しい場合には、常にその記事を書いた人間の方がそれによって損害をこうむり、火に投げ込まれた人は無傷でいるのである。それは中傷された人に善を施す。神のしもべのひとりとしての私についてこれまで云われてきたことはみな、私に善を施してきた。それは実際、無名さという私の束縛を焼き切り、何千人もの人々に向かって話す自由を私に与えてくれた。さらに、キリスト者を炉に投げ込むことは、その人をキリストの客間に入れるということである。というのも、見よ、キリストがその人とともに歩いているのである! おゝ、あなたがた、敵たちよ。あくせくするのはよすがいい。もしあなたがたが私たちを傷つけたければ、躍起になるのはやめるがいい。あなたは、これが炉だと考えている。そうではない。これは《天国》の門なのである。イエス・キリストがそこにおられる。では、あなたは私たちを、私たちがいたいと願う当の場所に入れるほど愚かになろうというのだろうか? おゝ! 親切な敵たちよ。このようにして私たちに三倍もの祝福を与えてくれるとは。しかし、もしあなたがたが賢ければ、あなたがたは云うであろう。「放っておけ。もし事が神から出たものならば、それは立つであろう。もし神から出ていなければ、何もしなくとも倒れるであろう」、と。神の敵たちは、他のいかなるしかたによるよりも、「両手いっぱいの炉のすす」によって損害を受ける。それは、いずこへ向かっても必殺の一撃である。迫害は私たちの敵には害を与えるが、私たちを傷つけることはできない。彼らがそうし続けても、戦い続けても、彼らの矢はみな、彼ら自身の方へとはね返されて行く。そして、私たちが何らかの悪をこうむるとしても、それは彼ら自身の目的に対してなされた損害に比較したら、小さく、軽いものである。ならば、これは、この炉に関するもう1つの祝福である。――それは私たちの敵を傷つけるが、私たちは傷つけない。

 IV. さて、しめくくりとして、《炉の中にある慰め》を考察しよう。キリスト者の人々は云うかもしれない。「炉がいかなる善を施すかを教えていただくのは全く結構ですが、私たちはそこに何か慰めがほしいのです」、と。よろしい。ならば、愛する方よ。私があなたに与えたい第一のことは、この聖句そのものの慰め――《選び》である。試みを受けている方々。この思想によって自分を慰めるがいい。神は云っておられる。「わたしは悩みの炉であなたを選んだ」。火は熱いが、神は私を選んでおられる。炉は燃えているが、神は私を選んでおられる。こうした石炭は熱く、その場所を私は愛していないが、神は私を選んでおられる。それは、火炎の激烈さを和らげる優しい微風のようにやって来る。これは頬にそよそよと吹きつける穏やかな風に似ている。しかり。この1つの思想は、私たちに防火武具をまとわせ、それにはこの熱も無力である。患難よ、やって来るがいい。――神は私を選んでおられるのだ。貧困よ、お前は玄関先からやって来るかもしれない。――神はすでにこの家におられ、私を選んでおられるのだ。病よ、お前はやって来るかもしれないが、私はこのことを香膏として私の傍らに置いておくであろう。――神は私を選んでおられる。何が来ようと、私は神が私を選んでおられることを知っている。

 2. 次の慰めは、この炉の中には、《人の子》があなたとともにおられるということである。静まりかえったあなたの寝室の中で、あなたの傍らに座っておられるのは、あなたが見たことはないが愛しているお方[Iペテ1:8]である。そして、しばしば、あなたが知らないときに、この方はあなたの悩みの中であなたの寝床を整え、あなたのために、あなたの枕をなだらかにしてくださる。あなたは貧困の中にある。だが、あなたは知らないだろうか。むきだしの壁を覆うものとて何1つないあなたの寂しい家の中、惨めな藁布団の上であなたが眠る所を、いのちと栄光の主はしばしば訪れ、その土間を何度となく踏みしめ、その壁の上に御手を置いてそれを聖別しておられるのである! あなたが王宮の中にいたとしたら、主はそこにやって来なかったであろう。主は、あなたを訪ねることのできる、そのうらぶれた場所にやって来ることを愛される。《人の子》があなたとともにおられるのである。キリスト者よ。あなたは主を見ることができないが、その御手が押しつけられるのを感じるであろう。あなたにはその御声が聞こえないだろうか? これは死の影の谷である。あなたには何も見えない。だが主は云われる。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」[イザ41:10]。これは、カエサルのあの高貴な演説に似ている。「恐れるな! お前らはカエサルと、そのすべての幸運をかかえているのだぞ」。キリスト者よ。恐れてはならない! あなたは、あなたと同じ舟に、キリストとそのすべての幸運をかかえているのである! 主は同じ火の中であなたとともにおられる。あなたを焼き焦がしているのと同じ火が、主を焼き焦がしている。あなたを滅ぼしかねないものは、主をも滅ぼしかねない。というのも、あなたは、一切のものを一切のものによって満たす方の満ちておられるところ[エペ1:23]の一部だからである。あなたはイエスをつかみ、こう云うではないだろうか。――

   「火水(ひみず)越ゆとも イェスみちびかば、
    われ従わん、主の行く方向(かた)へ」。

御手にあって自分は安全だと感じながら、あなたは死をさえ笑い飛ばし、イエス・キリストがあなたとともにおられるゆえに、墓のとげにも勝利するではないだろうか?

 さて、愛する方々。私がここまで語ってきた炉とは別に、もう1つの大きな炉がある。1つの非常に大きな炉がある。「そこには火とたきぎとが多く積んである。主の息は硫黄の流れのように、それを燃やす」[イザ30:33]。1つの灼熱の炉がある。それは、不敬虔な人々が投げ入れられるとき、鍋の下でパチパチはぜる茨のようになる炉である。1つの猛烈に燃える場所がある。それは、その火炎の中で苦悶するすべての者らが、その時を「泣き悲しんで歯ぎしりする」*ことに費やす炉である[マタ13:42]。1つの炉がある。「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」[マコ9:48]。それがどこにあるか私は知らない。それはこの地面の下、地球の内部にあるのではないと思う。地球がその内部に地獄を蔵しているというのは、悲しい考えであろう。だが、それが宇宙のどこかにあることは《永遠者》が宣言しておられる。方々! あなたがた、神を愛していない人々よ。もう数年もすれば、あなたは広大な未知の領域を越えて、この場所がどこにあるかを見いだす旅に出かけるであろう。もしあなたが神なく、キリストなしに死ぬとしたら、1つの強い手が臨終の床のあなたをつかみ、抗いようもなく霊界の広大な広がりを越えて、運ばれていくであろう。あなたは、どこに向かっているかはわからないが、恐ろしいことに自分が一匹の悪鬼の手でつかまれており、それが鉄の手であなたを迅速に運び去りつつあると考える。それはあなたを投げ落とすだろうか? あゝ! 愛する方々。何という落下であろう! あなたは苦悶に満ちた絶望の国に自分がいることを見いだすのである! 願わくはあなたが決してそれを知ることがないように! それを今、言葉であなたに語ることはできない。私は、ごく僅かな、恐ろしく、ぞっとする感情をかき立てることができるにすぎない。ごく僅かな、短い、粗雑な言葉でそれを描き出すことしかできない。願わくはあなたが決してそれを知ることがないように! もしあなたがたがそこから逃れたければ、その扉は1つしかない。救われたければ、その道は1つしかない。天国に入り地獄から逃れる方法を見いだしたければ、路は1つしかない。その路とはこれである。――「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31]。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。信じるとは、イエスに信頼するということである。古のある神学者がよく云ったように、「信仰とは、イエスの上における安臥である」。しかし、この言葉は難解すぎる。彼が意味していたのは、信仰とはイエスの上で横たわることだということである。子どもが母の腕の上で横になるように、信仰もそうする。船乗りが自分の帆船に信頼するように、信仰もそうする。老人が自分の杖によりかかるように、信仰もそうする。信頼することができるとき、そこには信仰がある。信仰とは信頼することである。イエスを信頼するがいい。イエスは決してあなたを欺かない。

   「神に賭(まか)せよ またく汝が身を
    他(た)のもの頼る 心よとく去れ
    イエスのみなるぞ
    よわき罪人 救うるは」。

このようにして、あなたは悪人が投げ込まれなくてはならない火の炉から逃れることができる。願わくは神が、御名のゆえに、あなたがた全員を祝福してくださるように。

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炉の中にある神の民[了]
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