HOME | TOP | 目次

福音を宣べ伝えよ

NO. 34

----

----

1855年8月5日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います」。――Iコリ9:16


 使徒時代に最も偉大であった人物は、使徒パウロである。彼はあらゆることにおいて常に偉大であった。もしあなたが彼を罪人として考えるならば、彼は極度に罪深い者であった[ロマ7:13]。彼を迫害者として見れば、彼はキリスト者たちに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行った[使26:11]。彼を回心者として取ってみれば、彼の回心は、記されたものの中では最も目覚ましいものであった。それは奇蹟的な力によって、また天から直接語りかけるイエスの御声によってなされた。――「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」[使9:4]。――彼を単にキリスト者として取ってみても、彼は非凡な人物であった。他の人々にまさって自分の《主人》を愛し、他の人々にまさって神の恵みを自分の生き方で体現しようと努めていた。しかし、もしあなたが彼を使徒として、またみことばの説教者として取ってみると、彼は説教者の君主として傑出し、王たちへの説教者として傑出している。――彼はアグリッパの前で説教し、ローマ皇帝ネロの前で説教したからである。――彼はキリストの御名ゆえに皇帝や王たちの前に立った。パウロの特徴は、何をするにしても、全心全霊を傾けて行なうということであった。彼は、半分しか身を入れず残り半分は手を抜くなどということができない人種のひとりで、何らかの働きに手をつけると、自分の全精力――全神経、全筋肉――を傾けて、その働きを、良きにつけ悪しきにつけ、成し遂げようとした。それゆえパウロは、自分の伝道活動について、経験から語ることができた。なぜなら、彼は教役者たちのかしらだったからである。彼が語ることに無意味なものは何1つなかった。それはみな、魂の底から出てきた言葉であった。そして私たちは確かにこう思ってよいであろう。彼はこの言葉を書いたとき、それをくっきりとした決然たる筆致で書いたのだ、と。――「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います」。

 さて、パウロのこの言葉は、現代の多くの教役者たちにあてはまると私は思う。特別に召されたすべての人々、聖霊の内的な衝動に導かれて、福音の教役者たる立場を占めるに至ったすべての人々にあてはまると思う。この節を考察するにあたり、今朝、私たちは3つの問いかけをしてみたい。――第一に、福音を宣べ伝えるとはいかなることか? 第二に、なぜそれは教役者の誇りにはならないのか? そして第三に、「そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います」、と書かれている中の、どうしてもしなければならないことや、わざわいとはいかなることか?

 I. 第一の問いかけは、《福音を宣べ伝えるとはいかなることか?》、である。この問いに関しては、多種多様な意見があり、おそらく私の話を聞いている方々の中でも意見は分かれるであろう。――私たちの教理的な意見は、私も非常に似通ったものであると信じてはいるが――、福音を宣べ伝えるとはいかなることか、というこの問いについては、たちどころに2つや3つは答えが返ってくるであろう。それゆえ私は、神の御助けがあれば、自分の判断に従って、この問いに自分なりの答えを返してみようと思う。そして、もしそれが正しい答えでないようなことがあるとしたら、あなたが家に帰ってから、それよりも良い答えを出してもらってかまわない。

 1. この問いに対して私が第一に返す答えはこうである。福音を宣べ伝えるとは、神のことばに含まれているあらゆる教理をはっきりと語り、あらゆる真理をしかるべく明らかにすることである。人々は、福音の一部を宣べ伝えることはするかもしれない。その中の、ただ1つの教理だけを宣べ伝えることはするかもしれない。そして私も、ある人が信仰による義認の教理を主張していさえすれば、その人が福音を宣べ伝えていないとは云わないであろう。――「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです」[エペ2:8]。私はその人を福音の教役者であるとみなすべきである。だが、福音全体を伝える教役者とみなすべきではない。ほむべき神の真理をただの1つでも、それと知りながら故意に省くような人が、神の福音の全体を宣べ伝えているということはできない。私のこの批評は、非常に痛烈なものであるに違いない。これは、いくつかの特定の真理を、それが恐ろしいからといって信徒から隠しておくのをほぼ通例としているような多くの人々の良心を突き刺すはずである。一、二週間ほど前に、ある高名な信仰告白者と会話していたとき、その人は私にこう云った。「先生。私たちが選びの教理を説教すべきでないことはわかりきっていますよ。それは罪人たちを回心させそうもありませんからね」。「しかし」、と私はその人に云った。「神の真理に難癖をつけようなどとするのはだれですか? あなたは私に向かってそれが真理であると認めておられる。だのに、それを説教してはならないと云うのですか。私はそんな大それたことを云ったことはありません。ある教理を説教すべきでないなどと云うのは、途方もない傲慢だと思います。全知なる神がそれを啓示するのをふさわしいと見られたのですよ。それに、福音の全体は罪人たちを回心させるためのものではないでしょうか? 特定のいくつかの真理を神は罪人たちの回心のために祝福なさいます。ですが、聖徒の慰めになるべき他の部分もあるではないでしょうか? そしてそれらも、その他の部分と同じように、福音の伝道活動の主題たるべきではないでしょうか? そして私は、その一方を見て、もう一方をないがしろにするようなことをしてよいでしょうか? いいえ。神が、『慰めよ。慰めよ。わたしの民を』[イザ40:1]、と仰せになっており、選びが神の民を慰めるものである以上、私はそれを説教しなくてはならないのです」。しかし私は、結局において、この教理が罪人たちを回心させそうもないかどうかについても、それほど確信は持てない。というのも、かの偉大なジョナサン・エドワーズの告げるところ、彼が経験した信仰復興の1つで、その最も大いなる興奮期に彼は、人間の救いもしくは断罪における神の主権を説教し、もし神が人々を地獄に送るとしても、神は無限に正しいことを示したというのである! また、もし神がひとりでもお救いになったとしたら、神は無限にあわれみ深く、それはすべて神ご自身の無代価の恵みから出たことである、と。彼はこう云っている。「私の知る限り、この世のいかなる教理にもまして思考をかき立て、何物にもまして心の奥深くに入っていくもの、それはこの真理の宣言にほかならない」。同じことが他の教理についても云えよう。神のことばの中のいくつかの真理は、沈黙されるべきものと断じられている。それらは、実に口にされることがない。なぜなら、ある人々の理屈によると、こうした教理を見ても、ある特定の目的を押し進めるものとは到底思えないからである。しかし、神の真理に判決を下すのは私のなすべきことだろうか? 私は、神のことばを秤皿に乗せて、「これは良い、それは悪い」、などと云うべきだろうか? 私は神の聖書を手に取り、それを2つに裂いて、「こちらは殻で、こちらは麦だ」、などと云うべきだろうか? 何か1つの真理を投げ捨てて、「こんなものは説教すまい」、と云うべきだろうか? 否。断じてそのようなことはない。神のことばに何が書かれていようと、それはみな私たちを教えるために書かれている。そして、その全体が、戒めと慰めと義の訓練とのために有益なのである[IIテモ3:16参照]。神のことばのいかなる真理も差し止められるべきではなく、そのあらゆる部分が、それぞれにふさわしい秩序をもって説教されるべきである。

 ある人々は常々、故意に4つか5つの主題についてしか語ろうとしない。そうした人々の会堂に足を踏み入れるとき、彼らがどこから説教しているかには、普通は見当がつく。それは、「肉の欲求によってではなく、ただ、神の意志によって」*[ヨハ1:13]という箇所からか、さもなければ、「父なる神の予知に従って選ばれた人々」*[Iペテ1:2]という箇所である。あなたが中に足を踏み入れた途端、その日は、選びと高踏的な教理のほか何も聞かされないに違いないことはわかる。このような人々も、1つの真理をあまりにも突出させ、他の真理をないがしろにしている以上、他の人々に全く劣らず間違っている。この場所で説教されることは何事も、「みな、あなたがそれをいかなる名で呼ぼうと、高踏的だと決めつけようと、低踏的だと決めつけようと、――聖書であり、聖書全体であり、聖書以外の何物でもない」。悲しいかな! 悲しいかな! 多くの人々は、自分たちの諸教理の回りに鉄の輪を作り、その狭い輪の中からあえて出ようなどとする者は、正統的でないとみなされるのである。ならば、神が異端者を祝福してくださるように! 神がそうした異端者をもっと多く私たちに送ってくださるように! 多くの人々は神学を一種の踏み車にしており、その車は、5つの教理からなっていて、永遠に回っているのである。というのも、彼らは決してそれ以外の何かに向かわないからである。あらゆる真理が説教されるべきである。そして、もし神がご自分のことばに、「信じない者は……すでにさばかれている」[ヨハ3:18]と書かれたとしたら、そのことは、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」[ロマ8:1]という真理に何ら劣らず宣べ伝えられるべきである。もし私が、「イスラエルよ。あなたは自分を滅ぼしたのだ」と書かれているのを見いだすとしたら、人が罪と定められるのは、その人自身の責任であって、私はそれを、その次の句、「わたしの中にあなたの助けは見いだされる」と何ら劣らず説教すべきである[ホセ13:9 <英欽定訳>]。教役者の務めをゆだねられている私たちひとりひとりは、すべての真理を説教しようと努めるべきである。そのすべてを告げることが不可能であろうことはわかっている。かの真理の高嶺は、山頂部に霞がかかっている。いかなる定命の目もその頂上を見ることはできず、人間の足がそれを踏みしめたことは一度もない。しかし、たとい頂上を描写することはできないとしても、その霞を描写することはしようではないか。その困難を解きほぐすことはできなくとも、困難そのものを描き出そうではないか。何も隠し立てしないようにしよう。むしろ、真理の山の頂に雲が群がっているとしたら、こう云おうではないか。「雲と暗やみが主を取り囲む」*[詩97:2]、と。それを否定しないようにしよう。また、その頂が見えず、その頂上に到達できないからといって、その山を私たち自身の基準まで切り落とそうなどと考えないようにしよう。福音を宣べ伝えたいと思う人は、福音のすべてを宣べ伝えなくてはならない。忠実な教役者であると云われたい人は、啓示のいかなる部分も差し止めてはならない。

 2. また、福音を宣べ伝えるとはいかなることか、私は問われているだろうか? 答えよう。福音を宣べ伝えるとは、イエス・キリストをあがめさせることである。ことによると、これは私が返すことのできる最良の答えかもしれない。私が悲しく思うのは、一部の最良のキリスト者たちでさえ、いかに僅かしか福音が理解していないかをしばしば目にすることである。少し前に、ある若い婦人が、魂の大きな苦悩を覚えていた。彼女が非常に敬虔なキリスト者のところに行くと、彼はこう云った。「お嬢さん。あなたは家に帰って祈らなくてはなりません」。よろしい。私は心中こう思った。それは全く聖書のしかたではない、と。聖書は決して、「家に帰って祈れ」、などと云ってはいない。このあわれな少女は家に帰った。祈った。だが、なおも苦悩は続いた。彼は云った。「あなたは待たなくてはなりません。聖書を読んで、それを学ばなくてはなりません」。それは聖書のしかたではない。それはキリストをあがめさせることではない。非常に多くの説教者たちが、こうした類の教理を宣べ伝えているのを見いだされる。彼らは、罪を確信した、あわれな罪人にこう告げる。「あなたは家に帰って祈らなくてはならない。そして聖書を読まなくてはならない。牧師の話をよく聞かなくてはならない」、云々。行ない、行ない、行ないである。――「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われた」[エペ2:8]、というのではなく。もしもある悔悟者が私にところにやって来て、「救われるためには、何をしなければなりませんか」[使16:30]、と尋ねたとしたら、私は云うであろう。「キリストだけがあなたを救うお方です。――主イエス・キリストの御名を信じなさい」、と。私は祈りにも、聖書を読むことにも、神の家に集うことにも差し向けないであろう。むしろ単純に信仰へと、神の福音を信ずる、素朴な信仰へと差し向けるであろう。私は、祈りを蔑んでいるわけではない。――それは信仰の後でやって来る。聖書を調べることに文句を云いたいわけでもない。――それは神の子どもたちの絶対確実な目印である。神のことばが語られる場所に出席することにけちをつけているわけでもない。――断じて違う! 私は喜んで人々がそこに集うのを見たいと思う。しかし、こうした事がらの1つたりとも救いの道ではない。聖書のどこを見ても、「会堂に集う者は救われます」だの、「聖書を読む者は救われます」だのと書かれてはいない。また、「祈って、バプテスマを受ける者は救われます」とも書かれていない。むしろ、「信じる者」――「人となられたキリスト・イエス」を――彼の《神性》を、彼の人性を信ずる素朴な信仰を持つ者が、罪から解放されるのである。信仰だけが救うと宣べ伝えることこそ、神の真理を宣べ伝えることである。また私が一瞬たりとも福音の教役者と名乗るのを認めたくないのは、イエス・キリストを信ずる信仰以外の何かを救いの計画として説教しているような者たちである。信仰、信仰、主の御名に対する信仰だけである。しかし、私たちの中のほとんどの人々は、自分の考えの中で非常に甚だしく混乱している。私たちは、功績だの行動だのといった行ないがあまりにも自分の脳の中に詰め込まれ、自分の心の中に織り込まされているため、私たちが信仰による義認を明瞭に、また完全に説教するのはほとんど不可能なのである。また、私たちがそうしたとしても、話を聞く人々は、それを受け入れられないのである。私たちは彼らに告げる。「主イエス・キリストの御名を信じなさい。そうすればあなたは救われます」。しかし、彼らがいだいている考え方によると、信仰とはあまりにも素晴らしく、あまりにも神秘的な何かであって、それ以外に何かを行なわない限り手に入れることは全く不可能である。さて、《小羊》に結び合わされる信仰とは、神からの即時の賜物であって、主イエスを信ずる者はその瞬間に、他にいかなるものがなくとも救われるのである。あゝ! 愛する方々。私たちは、私たちの説教の中に、もっとキリストをあがめさせるものが求められていないだろうか? 私たちの生き方の中に、もっとキリストをあがめさせるものが求められていないだろうか? あわれなマリヤは云った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです」[ヨハ20:13]。そして、彼女が墓からよみがえることができたとしたら、当節にも同じことを云えるであろう。おゝ! キリストをあがめさせる牧会活動を有したい! おゝ! キリストをそのご人格において賛美し、その神性をほめたたえ、その人性を愛する説教を有したい! キリストを預言者として、祭司として、王として御民に示す説教を有したい! 御霊が神の御子をその子らに現わすような説教を有したい! 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]、と云うような説教を有したい! ――カルバリの説教、カルバリの神学、カルバリの書籍、カルバリの説教を有したい! こうした事がらこそ私たちの欲するものであり、カルバリがあがめさせられ、キリストが賛美させられる度合に従って、福音は私たちの思いの中で宣べ伝えられるのである。

 3. この問いに対する第三の答えはこうである。福音を宣べ伝えるとは、あらゆる種別の人々に、それぞれ適切なものを与えるということである。「講壇に立ったなら、あなたは神の愛する人々に向かってのみ説教すべきです」、とある執事がかつてひとりの教役者に云った。そこで教役者は云った。「私が見てわかるように、彼ら全員の背中に目印をつけてくださいましたか?」 この広い会堂は、もし私が神の愛する人々に向かってのみ説教するべきだとしたら、何の役に立つだろうか? そうした人々はごく僅かしかいない。神の愛する人々は、教会付属室の中におさまるくらいしかいないであろう。この場には、神の愛する人々以外にもたくさんの人々がおり、もし私が神の愛する人々に向かってのみ説教するよう云われるとしたら、それ以外の人が、それを自分のことででもあるかのように受け取らないかどうか、私にどうして確信できるだろう? それとは別の時に、ある人はこう云うかもしれない。「さて、罪人たちには必ず説教するように気をつけてください。もしあなたが今朝、罪人たちに向かって説教しないとしたら、あなたは福音を説教してはいないのです。われわれは、あなたの話を一度しか聞くことはないでしょう。そして、もしあなたがたまたま、この特定の日の朝、この特定の説教において、罪人に向かって説教しないとしたら、われわれはあなたが正しくないと確信することでしょう」。何というたわごとであろう! 愛する方々。子どもたちが養われなくてはならない時もあれば、罪人たちが警告されなくてはならない時もあるのである。違った対象には、違った時があるのである。もしある人が神の聖徒たちに説教しているとして、たまたま罪人たちに向かってはほとんど何も語られなかった場合、その人はそのために責められるべきだろうか? もしその人が、聖徒たちを慰めているのではない別の折には、特に自分の注意を不敬虔な人々に向けているとしても責められるべきだろうか? 私はいつか、ひとりの頭脳明晰な友人から、うがった言葉を聞いたことがある。ある人が、『ホーカー博士の朝ごとに夕ごとに』に難癖をつけていた。それらが罪人たちを回心させるとは思われないからという理由でである。私の友人は、その紳士に云った。「あなたは、グロートの『ギリシヤ史』を読んだことがありますか?」 「ええ」。「よろしい。あれは衝撃的な本ではありませんか。なにしろ、罪人たちを回心させるとは思えませんからね」。「それはそうですが」、と相手は云った。「グロートの『ギリシヤ史』は、罪人たちを回心させるための本では全然ありませんよ」。「そうですね」、と私の友人は云った。「では、もしあなたが『ホーカー博士の朝ごとに夕ごとに』の序文を読んだとしたら、あなたにもわかるでしょうが、それは決して罪人たちを回心させるための本ではなく、神の民を養うための本なのです。そして、もしその本がこの目的にかなっているとしたら、この人は賢明だったのですよ。それとは他の目的を目ざさなかったとしてもね」。あらゆる種別の人々が、それぞれ適切なものを受けとるべきである。年がら年中、聖徒たちにばかり説教している人は、福音を宣べ伝えてはいない。罪人に向かってばかり常に説教している人、決して聖徒に向かって説教しない人は、福音の全体を宣べ伝えてはいない。この場には、種々の人々が入り混じっている。ここには、確信に満ちた強い聖徒がいる。弱く、信仰の薄い聖徒がいる。信じたばかりの回心者がいる。どっちつかずによろめいている[I列18:21]人がいる。道徳的な人がいる。罪人がいる。無頼漢がいる。社会の屑がいる。それぞれの人に、言葉を聞かせるがいい。それぞれの人が、それなりの時期に、食物の分け前を受けられるようにするがいい。あらゆる時期にではなく、それなりの時期にである。ある種別の人々を無視するような人は、福音全体を宣べ伝えるとはいかなることか知っていないのである。何と! 私は講壇に立たせられて、いくつかの真理だけに限定して語り、神の聖徒たちを慰めるべきだと告げられなくてはならないのだろうか? 私はそのようなことを許しはしない。神は人々に同胞を愛する心を与えておられる。では人は、その心を発達させるべきではないだろうか? もし私が不敬虔な人々を愛しているとしたら、私は彼らに語りかけるすべを何1つ持つべきではないのだろうか? 私は彼らに、やがて来たるべき審きについて、義について、彼らの罪について告げてよいではないだろうか? 私がこれほど自分の性質をだいなしにし、自分を残忍にするなどということは断じてあってはならい。私は、自分の同胞たちの滅びを考えても涙1つこぼさずに、ただ突っ立ってこう云うべきだろうか? 「お前たちは死んでいる。私には、お前に云うことは何もない!」、と。そして、言葉に出してではなくとも、実質的には、この極度に憎むべき異端を説教すべきだろうか? すなわち、もし人々が救われることになっているとしたら救われるであろう。――救われないことになっているとしたら、救われないであろう。それゆえ、必然的に、人はただじっと座っているだけで、何もしてはならない。人が罪の中に生きていようと、義の中に生きていようと問題ではない。――何らかの強力な運命が堅固無比の鎖で彼らを縛りつけているのだ。彼らの運命は確実きわまりないため、罪の中で生き続けてもかまわないのだ、と。私は、彼らの運命が確実であると信じている。――選ばれた者なら、彼らは救われるであろうし、選ばれていなければ、永遠に罪に定められている。しかし、それゆえに人々には何の責任もないとか、ただじっとしていればよいとか結果的に推断するような異端を私は信じない。それは、私が常に、悪魔の教理であって神の教理では全然ないと抗議してきた異端である。私たちは天の意志を信じている。予定を信じている。選ばれること、選ばれないことを信じている。だが、それにもかかわらず、私たちは、人々にこう説教しなくてはならないと信じている。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます」。だが、主を信じなければ、あなたは罪に定められる、と。

 4. 私はこの問いにもう1つの答えを返そうと考えていたが、時間が足りない。その答えは、こういうものとなっていたはずである。――すなわち、福音を宣べ伝えるとは、福音についていくつかの真理を説教することではないし、人々について説教するのではなく、人々に対して説教することである。福音を宣べ伝えるとは、福音とは何であるかについて語ることではなく、福音を心の中に、自分の力によってではなく聖霊の影響力によって、説教することである。――まるで御使いガブリエルに向かって話しかけ、何かを告げるかのように、突っ立って語るのではなく、人間として人間に話し、自分の心を同胞の心に注ぎ込むことである。私が思うに、これこそ福音を宣べ伝えるということであり、それは、どこかの干からびた原稿を日曜の朝と日曜の夜にもぐもぐ云うことではない。福音を宣べ伝えるとは、自分に代わって副牧師を遣わして自分の義務を果たさせることではない。自分の上品な法服をまとって、それから立って、何か高尚な思弁を宣言することではない。福音を宣べ伝えるとは、主教の手によって、何か美しい祈りの見本をめくり、その後で再び降りてきて、どこかの卑しい者に語らせるにまかせることではない。否。福音を宣べ伝えるとは、喇叭のごとき舌と、燃え上がる情熱をもって、キリストの測りがたい富[エペ3:8]を宣告し、人々にそれを聞かせ、理解させ、彼らが心の底から神に立ち返ることができるようにすることである。これこそ、福音を宣べ伝えるということである。

 II. 第二の問いはこれである。――《いかなるわけで、それは教役者の誇りにならないのか?》 「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません」。ある種の雑草はどこにでも生ずる。そして、そうした雑草の1つは、《高慢》である。高慢は、岩の上にも、庭園に全く劣りなく生ずるものである。高慢は、靴磨きの心にも、参事会員の心に全く劣りなく生ずるものである。女中の心にも、その女主人の心にも、全く等しく生ずるものである。そして高慢は講壇の中にも生ずる。これは、すさまじいばかりに繁茂する雑草なのである。これは毎週刈り込まれる必要があり、さもないと、私たちの膝まで達するであろう。この講壇は、高慢が好むひどく悪質の土壌である。それは、恐ろしいほどに生い茂る。そして私は、自分にとって最大の誘惑が高慢であると告白しないような福音の説教者がどこかにいるかどうか、ほとんどわからない。だれもからも善良であるとほめそやされ、五、六名しか出席しない《市立》の教会を有している教役者たちでさえ、高慢に誘惑されると私は思う。しかし、それが事実にせよそうでないにせよ、私はこれが確実だと思う。すなわち、大人数が集まる所ではどこであれ、また、だれかについて、途方もないほどの評判や物議がかもされる所ではどこであれ、そこには大きな高慢の危険がある。そして、よく聞くがいい。人は高慢になればなるだけ、最終的なその墜落が大きなものとなるものである。もし人々が、ある教役者をその手の中にかざして、彼をつかまえておくことをせず、放っておくと、何もかもが終わったとき、あわれな者よ、彼はいかなる転落を味わうだろうか? 多くの人々がそのような目に遭ってきた。多くの人々は、人間たちの腕によって支えられ、賞賛の腕によって支えられてきており、祈りの腕の支えを受けてはいない。こうした腕たちは弱くなり、下に落ちてきた。私は云うが、講壇には高慢への誘惑がある。だが、講壇には高慢になるべき根拠が何もない。そこには生えるための土壌が全くない。むしろ、それは他に何もなくとも生えてくるのである。「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません」。しかし、それにもかかわらず、私たちが誇りとすべき理由なるものが、現実にはありえなくとも、私たちにはそう見えるような形で、しばしばやって来るのである。

 1. さて、いかにして真の教役者は、自分には「誇りになる」ものが何もないように感ずるのだろうか? 第一に、その人は、自分自身の不完全さを非常に意識しているからである。いかなる人にもまして、自分についての正確な意見を常に形成しつつあるのは、常時絶え間なく説教することを求められている人であろうと思う。かつてある人が、自分は説教ができると考え、講壇に立つことを許された。だが彼は、自分の言葉が自分の期待したほど自由には全く出てこないことに気づき、極度の戦慄と恐れの中で、講壇に寄りかかって、こう云った。「愛するみなさん。もしあなたがここに登りたいと思うとしたら、それはあなたからことこごとくうぬぼれを取り去ることでしょう」、と。まことに私は、もし人々が一度でも自分に説教できるかどうかを試せたとしたら、それは非常に多くの人々からうぬぼれを全く取り去るに違いないと思う。それは彼らから批判的なうぬぼれを取り去り、結局これはさほど容易な働きではなかったのだと考えさせるであろう。最上の説教をする人は、最悪の説教をしていると感ずる。自分の思いの中に、雄弁とはいかなるものか、熱心な訴えとはいかにあるべきかについて、高遠な模範を何か打ち立てている人は、自分がいかに遠く及ばない者であるかを知るものである。その人は、何にもまして良いことに、自分の欠乏を知るときに、自分を叱責することができる。私は、ある人が何かを上手に行なうとき、それゆえにそれを誇りにするということを信じない。その人は自分自身の不完全さの最上の審判者になり、それをだれよりもはっきりと見てとるであろう。その人は自分がいかにあるべきかがわかっている。他の人々はわかっていない。彼らは目を見張り、まざまざと見つめ、これは素晴らしいと考えるが、その間その人は、それを驚くほどばかげたものだと考え、もっとうまくできたのではないかと思いながらその場を去る。真の教役者であればだれしも自分に欠陥があると感ずるものである。その人は自分をホイットフィールドのごとき人々と比較し、清教徒時代の説教者たちのごとき人々と比較し、こう云うであろう。「私は何者なのか? 巨人のかたわらのこびとのようなもの、山の隣にある蟻塚のようなものだ」。聖日の夜、自室に戻って休むとき、その人は寝床の上で輾転反側するであろう。なぜなら、自分が的を外したと感じ、自分の立場にふさわしい熱心さ、厳粛さ、必死の一途さがなかったと感じるからである。その人は自分を責め、なぜあの点をもっと十分詳しく語らなかったのか、なぜあの点を避けたのか、なぜある主題について十分明らかにしなかったのか、なぜあのことを長々と語りすぎたのか、と考えるであろう。その人は自分の過失を見てとるであろう。というのも、神は常に、ご自身の子どもたちが何か間違ったことをしたとき、夜に彼らを懲らしめなさるからである。私たちには、だれか他の人々から叱責される必要はない。神ご自身が私たちを御手で取り上げなさる。神の前で最も高い栄誉を与えられている者は、しばしば自分自身の評価では恥辱を与えられたように感ずるものである。

 2. また、私たちにあらゆる誇りをやめさせるもう1つの手段は、神が私たちに、私たちのすべての賜物は借り物であると思い起こさせてくださるという事実である。そして私は今朝、およそ次のように書かれた新聞を読むことによって、この偉大な真理――私たちのすべての賜物は借り物であるということ――を愕然と思い起こされた。――

 「先週、ニュータウンの閑静な住宅街は、同地域全体に陰鬱な影を投げかける出来事に騒然となった。栄えある学位を大学でかちとり、相当な学識を有していたひとりの紳士が、この数箇月の間、精神に異常をきたしていた。彼は、若い紳士たちのための私立学校を経営していたが、自らの精神異常により、その職業をやめざるをえなくなり、しばらくの間、同地域の一軒家で一人暮らしをしていた。家主は、強制退去状を取得した。だが、手錠をかけることが必要とわかり、彼は、悲しむべき手違いにより、大勢の群衆が見守る中、階段上にとどまらされざるをえなくなった。とうとう一台の車が到着し、彼を癲狂院まで移送した。彼の生徒のひとりには(と新聞は語っている)スポルジョン氏がいる」。

 私の有する人間的な学問のすべてを手ほどきしてくれた人物が、今や支離滅裂な狂人となって《癲狂院》にいるのである! その記事を見たとき、私はへりくだった感謝の念とともに膝をかがめるべきだと感じ、私の神に感謝した。私の理性はいまだ動揺してはおらず、こうした諸力がいまだ去ってはいないのである。おゝ! 私たちは、自分の才能が私たちのものとして保たれていること、私たちの精神が失せていないことについて、いかに感謝すべきであろう! これほど私の心胆を寒からしめるものはなかった。ひとりの人がいた。懇切丁寧に私を指導してくれた、非凡な才質と能力の持ち主であった。だがしかし、今のその人は! 何という下落か! 何という下落か! いかにすみやかに人間の性質は、その高い状態から滑り落ち、獣以下の水準に身を落とすことであろう? 愛する方々。あなたの才能のゆえに神をほめたたえるがいい! あなたの知性のゆえに感謝するがいい! 単純素朴な知性かもしれないが、それで十分である。もしあなたがそれを失ったら、すぐにその違いに気づくであろう。用心して、いかなることにおいても、「この大バビロンは私が建てたものではないか」*[ダニ4:30]、などと云わないようにするがいい。というのも、思い出すがいい。こても漆喰も、みな神から出たものでしかないのである。いのちも、声も、才能も、想像力も、雄弁も、――すべては神の賜物である。そして、最大の賜物を有する人は、神にこそ勇士たちの盾[IIサム1:21]が属していると感じるに違いない。というのも、神はご自分の民に力を与え、ご自分のしもべたちに強さを与えておられるからである。

 3. この問いにはもう1つ答えがある。神がご自分の教役者たちを誇りから守られる別の手段はこのことである。神は彼らに、自分が絶えず聖霊により頼まなくてはならないことを感じさせられる。一部の人々がそう感じないことは私も認める。ある者らは、神の御霊なしに、あるいは、御霊に懇願することなしに平然と説教するものである。しかし、真にいと高き所から任命された人はだれしも、そのような大それたことはしないだろうと思う。その人は自分が御霊を必要としていることを感じるであろう。一度、私がスコットランドで説教していたとき、神の御霊は私からお離れになり、私は普通していたように語ることができなくなった。私は集まった人々に、戦車の車輪が取り去られたこと、この戦車が非常にのろのろとあがきながら進んでいることを告げざるをえなかった。私はそれ以来、この恩恵を深く感じてきた。それは私を痛烈にへりくだらせた。というのも、私は豆殻の中にもぐりこみ、穴があったら入りたいような気分になったからである。私は、もう二度と主の御名によって語るのはやめだと感じた。そのとき、こうした考えがやって来た。「おゝ! お前は恩知らずだ。神はお前によって何百回となくお語りになったではないか? だのに、この一回だけ、神がそうしようとされないと、お前はそれゆえに神を叱責しようというのか? 否。むしろ神に感謝するがいい。何百回も神がお前のそばにいてくださったことを。そして、ひとたび神がお前をお捨てになったとしたら、このようにお前をへりくだらせておこうとなさった神のいつくしみ深さを賞賛するがいい」。人によっては、私がこのような状況に立ち至ったのは学び不足のためではないかと想像するであろうが、私は正直に、そうではないと断言できる。私は、聖書を読むことに身を入れるべきであるし、口からでまかせを語って御霊を誘惑することは厳に慎むべきだと思う。通常ならば私は、私の《主人》に説教を求め、それを私の精神に印象づけてくださるように乞い求めることを義務と考えるが、その時に限っては、私は通常よりもいやまさって念入りに準備していたと思う。だから、準備不足が理由ではなかった。単純な事実はこうであった。――「風はその思いのままに吹き」[ヨハ3:8]、そして風は常に暴風のように吹きはしないのである。時として、風そのものがとまることがある。それゆえ、もし私が御霊により頼むとしたら、私は常にその力を同じように感ずると期待することはできない。天の影響力なくして私に何ができるだろうか? というのも、それに私はすべてを負っているからである。こうした思いによって、神はそのしもべたちをへりくだらせなさる。神は私たちに、自分がいかにはなはだしくそれを必要としているかを教えてくださるであろう。私たちが、自分の力で何もかも行なっているのだなどと考えさせないであろう。「否」、と神は云われる。「あなたには何の誇りもないであろう。私はあなたを取り下ろすであろう。あなたは、『私がこれを行なっているのだ』、と考えているのか? わたしは、あなたがわたしなしで何者かを示してみせよう」。そこにサムソンが行く。彼はペリシテ人に打ちかかる。彼らを打ち殺せると思い込んでいる。だが、彼らが彼を取りひしいでしまう。彼の両目はくり抜かれる。彼の栄光は去ってしまう。なぜなら、彼は自分の神により頼まず、自分により頼んだからである。あらゆる教役者は、御霊に自分が依存していることを感じさせられるであろう。そのとき、その人は、力を込めて、パウロと同じように云うであろう。「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません」、と。

 III. さて第三の問いを語ってしめくくることにしよう。《なぜ私たちは、福音を宣べ伝えることを、どうしてもしなければならないのだろうか?》

 1. 第一に、どうしてもそうしなくてはならない理由の大きな部分は、この召しそのものから生じている。もしある人が真に神から教役者になるよう召されているとしたら、私はその人に、そうせずにいられるならそうしてみよ、と云いたい。聖霊が説教するよう自分を召しておられる、という天来の感覚を真に自らの裡に有している人は、そうせずにはいられない。その人は説教せざるをえない。骨の中の火[エレ20:9]のように、その影響力は燃え盛らずにはおかないであろう。その人を友人たちは押し止め、敵たちは批判し、さげすむ者たちはあざけるであろうが、その人は決して屈さない。天の召しを受けている人は説教しないではいられない。全世界が去って行くかもしれない。だがその人は、不毛の山頂に向かって説教するであろう。もし天の召しを受けているならば、たとい会衆がひとりもいなくとも、その人は滔々と流れ落ちる滝に向かって説教し、小川に自分の声を聞かせるであろう。その人を黙らせることはできないであろう。その人は、「主の道を用意せよ」、と荒野で叫ぶ声になるであろう[マタ3:3]。私は、教役者たちを止めることが可能だとしたら、天の星々を止めることも可能だと信ずる。真に召しを受けたある人に説教することをやめさせることが可能だとしたら、幼児用の杯をもって、どこかの大瀑布に向かって、水を飲ませてくれと頼むことで、それを止めることも可能だと思う。その人は天に動かされているのに、だれにその人を止められるだろう? 神に触れられているのに、だれにその人を妨げられよう? 鷲の翼をかって飛翔せざるをえないのに、だれがその人を地上に鎖で繋ぎとめられよう? 熾天使の声で語らざるをえないのに、だれがその人の口を止められよう? そして、御霊が語らせてくださる通りに人が語るとき、その人は天国に類した聖なる喜びを感ずるものである。また、それが終わるとき、その人は自分の働きに戻りたいと願い、もう一度説教したいと切望する。一週間に一度説教しただけで自分の義務を果たしたなどと考える青年たちは、いかなる大きな働きにも神から召されていないと私は思う。もし神がある人を召しておられるとしたら、神はその人を多かれ少なかれ絶えず精を出すように突き動かされるであろう。また、その人は、自分は国々の中でキリストの測りがたい富[エペ3:8]を宣べ伝えなくてはならないと感ずるであろう。

 2. しかし、もう1つのことが私たちをして宣べ伝えさせる。もし福音を宣べ伝えなかったら、私たちはわざわいに会うように感ずるであろう。そしてそれは、このあわれな堕落した世界の悲しむべき窮乏である。おゝ、福音の教役者よ! しばし立って、あなたのあわれな同胞たちのことを思い起こしてみるがいい! 彼らが急流のように永遠へと殺到しつつあるのを見るがいい。――この厳粛な一瞬ごとに、万(よろず)の民は、終焉(はて)なき家へ飛び去りつつあるのである! 見るがいい、その流れの終点を。かの途方もない大瀑布が、魂の奔流をかの穴に叩き込んでいる姿を! おゝ、教役者よ。思い起こすがいい。人々は、毎時間ごとに数千人単位で罪に定められつつあり、あなたの脈が1つ打つごとに、また1つの魂がその目を地獄の苦悶の中で開くのである。思い起こすがいい。いかに人々が、破滅へのその道を疾走しつつあるかを。いかに「多くの人たちの愛は冷たくなり」、「不法がはびこる」[マタ24:12]かを。私は云う。あなたには、どうしてもしなければならないことがあるではないだろうか? もし福音を宣べ伝えなかったら、あなたはわざわいに会うではないだろうか? いつか、夕まぐれになり、暗闇が人々を覆う頃に、夜のロンドンの通りを歩いてみるがいい。あそこの不品行な女がその呪わしい働きに急ぐのが目に留まらないだろうか? 何千人も何万人もの人々が、毎年滅んでいくのが見えないだろうか? 病院や、癲狂院から1つの声が立ち上っている。「もし福音を宣べ伝えなかったら、あなたがたはわざわいに会う」。かの堅固な壁に囲まれて立てられた巨大な場所へ行き、その地下牢に入り、その生涯を何年も罪のうちに費やしてきた盗人たちを見るがいい。時には、ニューゲートの悲しい広場へと足を向け、殺人者が絞首刑になる姿を見るがいい。あらゆる矯正院、あらゆる監獄、あらゆる絞首台から1つの声がやって来て云う。「もし福音を宣べ伝えなかったら、あなたはわざわいに会う」。一千もの臨終の床に行き、いかに人々が無知のうちに、神の道を知らぬままに滅んでいくか目にとめるがいい。救われるとはいかなることかを全く知らず、その道すら知らぬまま、自分の《審き主》に近づいていく彼らの恐怖を見るがいい。そして、自分の《造り主》の前で震えている彼らを見るとき、1つの声を聞くがいい。「教役者よ。もし福音を宣べ伝えなかったら、あなたはわざわいに会う」。あるいは、別の方角に行ってみるがいい。この大首都を行き巡り、ある場所の扉の前に立ち止まるがいい。そこでは鐘がチリンチリンと鳴り、詠唱と音楽が聞こえるが、バビロンの淫婦が支配しており、嘘八百が真理として説かれている。そして、あなたが自宅に帰り、ローマカトリック教とピュージー主義について考えるとき、1つの声をあなたのもとに来させるがいい。「教役者よ。もし福音を宣べ伝えなかったら、あなたはわざわいに会う」。あるいは、あなたの《造り主》の御名を冒涜する不信心者の広間に足を踏み入れるがいい。あるいは、煽情的でみだらな芝居が演じられる劇場に座るがいい。すると、こうした悪徳の根城すべてから、この声がやって来る。「教役者よ。もし福音を宣べ伝えなかったら、あなたはわざわいに会う」。そして、最後に、失われた者らの独房へとあなたの厳粛な歩みを進めるがいい。地獄の深淵を訪れ、そこに立って聞くがいい。

   「陰鬱(くら)き呻き、虚ろな嘆き、
    責苦(くる)しめらるる 幽鬼の悲鳴を」。

あなたの耳を地獄の門につけ、あなたの耳をつんざくような苦悶とすさまじい絶望との入り混じった叫びと悲鳴をしばし聞くがいい。そして、この悲しい場所から立ち去り、その陰惨な音楽が今なおあなたを恐れさせているとき、あなたはこの声を聞くであろう。「教役者よ! 教役者よ! もし福音を宣べ伝えなかったら、あなたはわざわいに会う」。こうした事がらを目の前にしていさえするなら、私たちは宣べ伝えざるをえないであろう。宣べ伝えるのをやめるだと! 宣べ伝えるのをやめるだと! たとい太陽が輝くのをやめようと、私たちは暗闇の中で宣べ伝えるであろう。海の波がその満ち干をやめようと、それでも私たちの声は福音を宣べ伝えるであろう。世界がその回転を止め、惑星がその運行を停止しようと、それでも私たちは福音を宣べ伝えるであろう。この地球の灼熱の中心部が、その青銅の山々の分厚い肋骨を通して吹き出すまで、私たちは福音を宣べ伝え続けるであろう。宇宙的な大火災が地球を溶解し、物質が一掃されるまで、この口は、あるいは神から召された他の者たちの口は、エホバの御声を轟きわたらせ続けるであろう。私たちはそうせざるをえない。「そのことは、私たちがどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私たちはわざわいに会います」。

 さて、話をお聞きの愛する方々。あなたに一言云いたい。この聴衆の中にいる一部の人々は、神の御前でまことに咎ある者たちであろう。なぜなら、彼らは福音を宣べ伝えていないからである。私は、この場にいて、私の声の届く範囲にいる千五百人から二千人の人々の中に、私以外にだれひとり福音を宣べ伝える資格のある者がいないなどと考えることはできない。私は、自分が知性において、あるいは神のことばを説教する力においてすら、あなたがたの半分よりも優越していると考えるほど、あなたがたを見下してはいない。そして、かりに私がそのような者であったとしても、私の前にいる会衆の中に、みことばを宣べ伝える資質となるような賜物と才質を有する人が数多くいないなどとは信じられない。スコットランドのバプテスト派の間では、聖日の朝、すべての兄弟に向かって、勧めをするよう要請する習慣がある。彼らには、そうした際に説教する正規の教役者が全くおらず、立ち上がって話をしたいと思う兄弟はだれでも説教するのである。これはみな非常によいことである。ただし、残念ながら、多くの資質もない兄弟たちの方が、最も大いに語ることになることを除けばだが。というのも、これは周知の事実だが、喋る内容のない人ほど、しばしば最も長く喋り続けるのである。そして、もし私が司会者であったとしたら、私は云うべきである。「兄弟よ。聖書には『徳を高めるために話しなさい』*と書かれています[Iコリ14:26]。確かにあなたは自分の徳も自分の妻の徳も高めないでしょう。あなたは行って、まずそれを最初に試してみなさい。そして、もしそれができなければ、私たちの貴重な時間を無駄遣いしないでください」、と。

 しかし、それでも私は云う。今朝この場にいる方々の中に、ひとりも「あだに砂漠に芳香散らす」花々、海洋深く忘れられた暗い洞穴の中に横たわる「澄み切った輝きの宝石」たる人がいないなどとは、私には考えられない。これは非常に真剣な問いである。もしパーク街教会の中に何らかのタラントがあるとしたら、それを発達させるがいい。もし私の会衆の中に何らかの説教者たちがいるとしたら、彼らは説教するがいい。多くの教役者たちは、この点で青年たちを押しとどめるのを常としている。だが、もしあなたがたの中のだれかが、いかに尊い《救い主》を見いだしたかを罪人たちに告げて回りたいというのであれば、この私の手があなたを助けるであろう。私はあなたがたの間に大勢の説教者たちを見いだしたいと思う。主のしもべたち全員が預言者であればどんなによいことか。ここには預言者となるべき何人かの人がいる。ただ彼らは半ば恐れているだけなのである。――よろしい。私たちは彼らのはにかみを取り除く仕掛けを何か編み出さなくてはならない。私は、悪魔がそのしもべたち全員を働きに駆り立てているというのに、イエス・キリストのしもべがひとりでも眠り込んでいるなどと考えることに耐えられない。青年よ。家に帰って、自分を吟味してみるがいい。あなたの種々の能力を見てとるがいい。そして、もしあなたが、自分に能力があることを見いだしたとしたら、そのときは、どこかの貧しい粗末な部屋の中で、十二、三人くらいの人に向かって、彼らが救われるには何をしなくてはならないかを試しに告げてみるがいい。あなたは、そうした伝道活動からのみ、一切の生計の糧を得ようと熱望する必要はない。だが、もし神のみこころなら、そうしたことさえ願うがいい。人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしいものを求めることなのである[Iテモ3:1参照]。いずれにせよ、何らかのしかたで、神の福音を宣べ伝えようとするがいい。私がこの説教を特に行なってきたのは、この場所から、他の人々に達することになる1つの運動を開始したいと思うからである。私は、もし可能ならば、私の教会の中に、福音を宣べ伝えようと思う何人かの人を見つけたい。そして、よく聞くがいい。あなたにタラントと力がある場合、もしあなたが福音を宣べ伝えなければ、あなたはわざわいに会うのである。

 しかし、おゝ! 愛する方々。福音を宣べ伝えない場合の私たちがわざわいに会うとしたら、あなたがたは、福音を聞きながら受け入れなかった場合、いかなるわざわいに会うだろうか? 願わくは神が、私たちの双方をわざわいから免れさせてくださるように! 願わくは神の福音が私たちにとって、いのちから出ていのちに至らせるかおりとなり、死から出て死に至らせるかおりとなることがないように[IIコリ2:16]。

----

福音を宣べ伝えよ[了]

HOME | TOP | 目次