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賢明な願い

NO. 33

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1855年7月8日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューパーク街会堂


「主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を」。――詩47:4


 キリスト者は、聖書の中にキリストが見てとれるとき、常に喜びと楽しみを感ずる。自分の主の足跡が見つかりさえするなら、また聖なる記者たちが主について何か言及をしていると発見できさえするなら、それがいかに不明瞭でぼんやりしたものであっても、それを喜びとする。聖アウグスティヌスは云う。「聖書は、人の子キリスト・イエスの産着であり、そのすべてが彼を包み込むべき神聖な衣にほかならない」。その通りである。そして、私たちの喜ばしい務めは、この顔覆いを持ち上げ、その衣を取り除き、主のご人格、主のご性質、主の数々の職務を目の当たりにできるようにすることである。さて、この聖句はイエス・キリストに関するものである。――キリストこそ、「私たちの受け継ぐ地を私たちのためにお選びになる」お方であり、知恵と知識との宝をすべて宿しておられる[コロ2:3]このお方こそ、予定のかしらとして選び出された偉大な《存在》――私たちの受ける分と私たちの割当て地を選び、私たちの運命をお定めになるお方である。まことに、愛する兄弟たち。あなたと私は、私たちの《救い主》が私たちのために選んでくださるという、この偉大な事実を喜ぶことができる。というのも、もし私たちがみな古のイスラエルのように、どこかの大きな平原に集められ、自分たちのために王を選ぶことになったとしたら、第二の候補者を指名することなどありえないからである。そこにいるひとりのお方は、キシュの子サウルのように[Iサム10:23]、他のだれよりも頭と肩が抜きんでているであろう。このお方をこそ私たちは、ただちに私たちの王、また私たちのための《摂理》の支配者として選び出すべきである。私たちは、どこかの思慮深い賢者や、深く教えを受けた哲学者を求めはしないであろう。いかに経験を積んだ古老をも選ばないであろう。むしろ、そのご人格の威光を明らかにしたイエス・キリストを直接に見てとった私たちは、一瞬のためらいもなく、この詩篇作者の言葉によって云うであろう。私たちを贖われたお方、私たちの身代金を支払われたお方、私たちを愛されたお方、――「主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を」、と。

 私はかつて、ある会堂に行ったところ、たまたまこの節が主題聖句とされていたときのことを覚えている。講壇に立っていた善良な人は、アルミニウス主義者に毛が生えたような人物であった。それゆえ、のっけから彼はこう云った。「この箇所が言及しているのは、私たちが現世で受け継ぐものについてのみである。それは私たちの永遠の運命とは全く関わりがない。というのも」、と彼は云った。「私たちは、天国か地獄かという件で、私たちに代わってキリストに選んでもらう必要などないからである。常識がひとかけらでもある人なら、だれしも天国を選ぶだろうことは明々白々である。いかなる人も、地獄を選ばないくらいの分別はある。私たちは別に、私たちのために天国か地獄かを選ぶ卓越した知性や偉大な存在など必要ない。それは私たち自身の自由意志にゆだねられており、私たちには、自分で正しい判断を下すに足るだけの、十分な知恵が与えられている。それゆえ、彼が非常に論理的に推断したように、イエス・キリストであれ、だれであれ、私たちに代わって選択する必要など何もない。私たちは、何の手助けがなくとも、受け継ぐべきものを自分で選択できたはずであろう」。あゝ! だが、私の善良なる兄弟よ。確かに私たちは、選択できたはずだったとはいえようが、現実に正しく選択するには、常識以上の何かがなくてはならないと思う。というのも、あなたは思い出さなくてはならない。これは単に天国か地獄かを選ぶ問題ではない。これは地上の楽しみ、すなわち栄誉による痛みか、迫害かを選ぶ問題なのである。そして非常にしばしば人は思い惑う。もし人が選ばなくてはならないのが地獄でしかなかったとしたら、だれも好んでそれを選びはしないであろう。だが、それが地獄を生じさせる罪であり、人を罰に至らせる情欲であるがゆえに、困難が起こるのである。というのも、生まれながらに私たちはみな、下に向かわせる道を辿りがちであり、生来私たちは、かの穴に至らせる路を喜んで歩くものだからである。――私たちはかの穴そのものを求めているのではないが、そこへ至らせる路を求めているのである。――そして、主権の恵みがなければ、私たちのだれひとりとして、天国への通り道を辿ろうなどとは思いもしなかったであろう。私が日に日に確信を深めるところ、ある人ともうひとりの人の違いは、その人の意志の用い方の違いではなく、その人に授けられた恵みの違いである。それで、もしある人がその「天にある相続地」を有しているとしたら、それは、キリストがその人のために、その人の受け継ぐものを選んでくださったからである。そして、もし別の人が地獄にその人の場を有するとしたら、それは、その人が自分で自分の受け継ぐものを選んだからである。この件において、私たちには、私たちのために選んでくれるだれかが事実必要なのである。私たちは、私たちの御父によって自分たちの永遠の運命を定められ、自分たちの名をいのちの書に書いていただかなくてはならない。さもないと私たちは、自分だけにまかされた場合、地獄への路を自然と選ぶであろう。さながら一個の無生物が、自らを助けて坂を登るよりも、下へと転がっていくのが自然であるのとそれは全く異ならない。

 しかしながら、他の人の意見は放っておき、単刀直入に本日の聖句に進むことにしよう。「主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を」。第一に、私はこの聖句を1つの栄光に富む事実として語ろうと思う。――「主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を」。そして第二に、それを1つの非常に正しく、賢明な祈りとして語ろうと思う。――「私たちのためにお選びになってください。私たちの受け継ぐ地を」。

 I. まず第一に、私はこれを《1つの栄光に富む事実》として語りたい。神がご自分の民のためにその受け継ぐものをお選びになるというのは、1つの偉大な真理である。「主が彼らの受け継ぐ地をお選びになる」、と云われること、これは神のしもべたちに授与される、非常に高い誉れである。この世の子らの場合、神は何かをその者にお与えになるだけだが、キリスト者の場合、神は最良の分け前を選び出し、その人のためにその受け継ぐものをお選びになるのである。ひとりのすぐれた神学者がこう云っている。「キリストの教会が有する最大の栄光の1つ、それは私たちの大いなる《造り主》また私たちの《友》なるお方が、常に私たちのために私たちの受け継ぐ地を選んでくださる、ということである」。主はこの世の子らに穀物の殻をお与えになるが、ご自分の民には甘やかな果実をえりすぐって選び出してくださる。葉の間から果実を摘み集め、御民が最上の食べ物を有し、最も豊かな喜びを味わえるようにしてくださる。おゝ! 神の民を満足させるのは、この心おどらせる真理、すなわち、主が彼らのために、彼らの相続するものを選んでくださるということが信じられる、ということである。しかし、このことに異論を唱える人が数多くいるため、いくつかの事実を思い起こさせ、それらに言及することによって、あなたの思いをかき立てさせてほしい。そうした事実によってあなたは、まことに神は私たちの受ける分を選び、私たちのために私たちの受け継ぐものを割り当ててくださることをはっきりと見てとるであろう。

 では最初に、こう問いかけてみよう。私たちはみな、すべてを越えて支配する摂理と、エホバの御手の定めとを、私たちをこの世にあらしめた手段として認めざるをえないではないだろうか? こうした人々によると、結局のところ私たちは、自分の歩みの中であれやこれやを選べるのだから、自分自身の自由意志にまかされているのだという。だがこうした人々も、私たちがこの世に生起したことは、私たち自身の意志ではなく、そこで神が私たちの上に御手を働かせたことによっていると認めなくてはならないはずである。私たちがいかに力を働かせれば、自分の親としてある特定の人を選ぶことなどできただろうか? 私たちはそれに何か関与していただろうか? 私たちの両親、私たちの生地、私たちの友人たちは、神がおひとりでお定めになったのではないだろうか? 神は、私をホットントット族の肌をした者として生まれさせ、不潔な母親に産み落とさせ、その「小屋」の中で育てさせ、異教の神々を拝礼するように教えさせることがおできになったではないだろうか? また、それと同じくらい容易に、毎朝毎晩、私のために膝をかがめて祈ってくれるような敬虔な母親を私に与えることもおできになったではないだろうか? あるいは、もしお望みになれば神は、どこかの放蕩者を私の親として与え、その口から、恐ろしい、汚れた、猥褻な言葉を早いうちから私が聞いていたこともありえたではないだろうか? 神は私を、酔いどれの父親がいる所に置き、その父親が私を無知の地下牢の奥深く閉じ込め、犯罪の鎖につないで育てることもありえたではないだろうか? 私の両親は、ふたりとも神の子らであり、主を恐れることを私に努めて教えてくれたが、私がこれほど幸いな境遇を得たのは、神の摂理ではなかっただろうか? あなたがたはみな、自分の生まれを――良きにつけ悪しきにつけ――だれに負っているだろうか? それを辿れば、神の定めに行き着くではないだろうか? 神の予定があなたを、あなたのいた場所に置いたのではないだろうか? あなたの生まれた場所、その時刻を定めたのは主ではなかっただろうか? また、あなたのからだを見てみるがいい。そこに神の行ないを見ないだろうか? いかに多くの子どもたちが片輪として世に生まれ出ているだろうか? いかに多くが、その心身の機能のいずれかに欠陥を持ちつつ生まれ出ることだろうか? しかし、私たちを見てみるがいい。ことによると、あなたは容姿端麗かもしれない。そうでなくとも五体満足ではある。あなたの骨々はきちんと組み合わされているし、あなたは元気にしている。――あなたはこれを神にまで辿らなくてはならないではないだろうか? あなたは、神があなたのために、あなたの人生の出だしを整えてくださったことがわからないだろうか? あなたは、あなたの生涯をそこで、あるいはそこで、あるいはそこで始めていたこともありえる。だが神はあなたをその特定の場所に、あなたの許しも得ずに置かれた。神はあなたに向かって云われただろうか? おゝ、土くれよ! わたしは、いかなる形にお前を形作ろうか?、と。あるいは、あなたを生んだお方は、あなたがいかなる者になりたいか、あなたに尋ねただろうか? 否。神はあなたをみこころのままにお造りになり、もしあなたが今、種々の機能や満足な五体を有しているとしたら、あなたはそこには神の定めがあったと認め、告白しなくてはならない。また、さらに云えば私たちは、いかに多くの神の指を自分の気質や体質について認めなくてはならないだろうか? いかなる人も、人間が生まれつき同じ気質や体質をもって生まれてくるなどと云うほど愚かではないと思う。確かに、ある人々は他の人々と非常にはなはだしく異なっている。少なくとも私は、そうした人々と少しは異なっていたいと思う。――そうした人々の中には、その人のそばに座っているくらいなら土砂降りの雨の中に立っている方がいい、安楽椅子でその隣に座っているくらいならずぶぬれになった方がいい、と一瞬たりとも思わずにはいられないような人がいる。ある人々は、あまりにも烈火のごとき気性をしているため、その素振りや会話によって、実際に焼け焦がしを作るほどである。――そうした人は不機嫌で、短気で、向かっ腹を立てずに話すことができない。さて、こうした人々がしばしば自分たちの癇癪にまかせるとはいえ、それでも私たちは、ある程度は、彼らにも弁解の余地があると認めなくてはならない。なぜなら、そうした人々はそれを(世の詩人が云うであろうところの)自分の母親から与えられた性質、すなわち、持って生まれた気質にまで辿ることができるからである。あたかも、この場にいる他の人々が、生まれつき愛想がよく――親切で情の深い精神をしており――そう簡単には激怒したりせず、人をして自らをその同胞よりも思い上がらせるような、あの愚かしい高慢を持っていないのと同じである。だれが、そうした人々を正しく形作り、これほど善良な者としたのだろうか? 神がそれをなさり、ご自分が《主権者》であられることを明らかにされたのではないだろうか? そして私たちはこのことのうちに、神が何らかのしかたで私たちの運命を定められたことを見てとらざるをえないではないだろうか? 人生の芽吹きが完全に神の御手のうちにあるという事実そのものからそうではないだろうか? 神が私たちの存在の出だしをお定めになった以上、その未来のいくばくかにも支配を及ぼしておられることは、ある程度証明されたとするのが理にかなっていると思われる。

 しかし、ここから第二のことを述べたい。私は分別のある人に向かって、また何にもまして、この場にいる真剣なキリスト者に向かって問いたい。あなたの人生の中には、本当に神が「自分のために、自分の受け継ぐものを選んで」くださったと、きわめて明確に見てとれる、特定の時期がなかっただろうか。あなたは若者である。――あなたはどんな仕事に就きたいか聞かれる。あなたはこれこれのことを選ぶ。あなたは、その特定の仕事の徒弟になる直前になる。――そこに何か不運が起こる。――そういう具合には行かなくなる。あなたの同意や意志もなしに、あなたは別の立場に置かれる。あなたの意志はほとんど全く顧慮されなかった。あなたの両親は何がしかの権威を振るったが、その一方で摂理の手があなたに向かって、「こうでなくてはならない」、と云っていたかに思える。――そして、あなたは自分ではどうすることもできなかった。別の場合を取り上げてみよう。あなたはある事務所を設立した。――突然、何か壊滅的な不運がやって来た。あなたがそれを避ける力は、蟻一匹に雪崩を止める力がないのと同じくらいなかった。あなたは商売の場を追われ、今やあなたの現在の立場を占めている。他にできることが何1つなかったからである。それは神の御手だったではないだろうか? あなたはそれをあなた自身まで辿ることはできない。あなたは、はっきりとあなたの計画を変えるよう強制されたのである。そう駆り立てられたのである。ことによると、あなたにはかつて、頼りにしていた友人たちがいたかもしれない。あなたは世の中に乗り出すとか、他人の支援を受けずに独立するなどということはまるで考えていなかった。だが突如として、摂理の一撃によってひとりの友人が死ぬ。それからもうひとり、またひとり、そしてあなた自身の意志とは全く関わりなく、あなたは、渦巻きの中で翻弄される木の葉のような状況に置かれる。そして、あなたがいま就いている職業は、あるいはあなたが従事している務めは、あなたが自分で選んだものではなく、神から出たものではないだろうか? 私は、あなたがた全員がこの点で私に同調するかどうかはわからないが、あなたは、ある場合か別の場合に、神があなたのためにあなたの受け継ぐものを実際に選ばれたことを、いやでも見てとらざるをえないと思う。たといあなたがそうできないとしても私には見える。人々が呼ぶであろうところの一千もの偶然がすべて、1つの巨大機械の車輪のように、相働いて私を今まさに私がいるところへと固定したことを。また、私には振り返ることができる。もしそうした小さな車輪の1つでも脱線したとしたら――もし私という存在の大いなる渦巻きの中にある小原子の一粒たりとも横にそれていったとしたら――、私がここ以外のどこかに行っていて、全く異なる立場を占めていたであろうような、数百もの場所を。たといあなたにはそう云えなくとも、私は、自分が力をこめてそう云えることを知っている。私の経てきたあらゆる足どりにおいて、神の御手を、私の誕生した時に至るまで辿れることを知っている。実際に神が私のために私の受け継ぐものを割り当ててくださったことを、私は感じることができる。もしあなたがたの中のだれかが、自分には自分の存在の中に神の御手など見ようとは思わない、すべては摂理などなしに自分の意志によってなされたのだと云い張ろうとするほど片意地な暗愚さにとどまり続け、存在という大洋を横切る航路は自分にまかされているのだ、自分が今こうしてあるのは、自分自身の手が舵柄を導き、自分自身の腕が舵を切っていたからだと云うのであれば、私に云えることはただ1つ、私自身の経験はは、その事実が偽りであることを示しており、今この場にいる多くの人々の経験は立ち上がってあなたに反証し、こう云うだろうということである。「歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではない」[エレ10:23]。――「人は計画するが、神が成否を決する」。そして天の神は、手持ちぶさたにしてはおらず、ご自分のみこころに従って、常にあらゆることを上から支配し、秩序づけ、変更し、働いておられるのである。

 第三の事実に言及させてほしい。もしあなたが霊感の書の頁に向かって、最も卓越した聖徒たち何人かの生涯を読むならば、あなたは彼らの経歴の中に、取り違えようもないほど明らかな神の摂理の目印を見てとらざるをえないであろうと思う。例えば、ヨセフの生涯を取り上げてみるがいい。そこには、ごく若い時から神に仕えてきた青年がいる。その生涯を読み進め、彼が自分の骨について命令した最晩年の時期まで至れば、あなたは摂理の驚異的なお取扱いに感嘆せざるをえないであろう。ヨセフは自ら選んで兄たちから憎まれたのだろうか? だがしかし、彼らのねたみこそ、彼の運命の重大な背景だったではないだろうか? 彼は自ら選んで穴の中に投げ込まれたのだろうか? しかし、その穴の中に投げ込まれたこともまた、彼がエジプトの支配者となるためには、パロの夢と同じくらい必要だったではないだろうか! ヨセフは自ら選んで彼の女主人から誘惑されたのだろうか? 彼はその誘惑を拒否することを選んだが、彼がこの試練を選びとったのだろうか? 否。神がそれを送られたのである。彼は自ら選んで地下牢に入れられたのだろうか? 否。また、彼はあの調理官の夢や、パロの夢に何か関わりを持っていただろうか? あなたにはわからないだろうか? 最初から最後まで、――あの、パロが夢を解き明かす者を求めるという定められた時が来るまで、ヨセフについて話すのを思い出さなかった献酌官の忘れっぽさにおいてすら――、そこにはずっと神の御手があったではないだろうか? ヨセフの兄たちは、彼を穴に投げ込んだとき、まさに自分たちのしたいように行なった。ポティファルの妻は彼女自身の放埒な情欲の命ずるままに彼を誘惑した。だがしかし、彼らの意志の全くの自由さにもかかわらず、ヨセフを王座につけることは、神によって定められており、この偉大な目的を果たすために相働いたのである。というのも、彼自身が云っているように、「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それは、あなたがたを生かすようにするためでした!」*[創50:20] そこには、太陽に光があるのと同じくらい明確に、神の《摂理》の定めがあったのである。あるいはまた、モーセのごとき人物の生涯を取り上げてみるがいい。彼がかごに入れられ、まさにパロの娘が水浴びにやって来る場所に置かれたことの中に《摂理》があったことは、だれひとり否定すまいと思う。また彼女が、「その子に乳を飲ませるため、行って、うばを呼んできておくれ」、と云い、彼の母ヨケベテが彼に乳を飲ませたのが摂理であったことをだれが否定するだろうか? 私が思うに、その子が見目麗しかったこと、エジプト人のすべての知恵を教え込まれたこと、知識を受けるに足るだけの広大な知性を有していたことに、《摂理》が欠けていたなどと考える者はひとりもいまい。また、彼をホレブの山腹に導き、エテロの娘のもとに至らせた摂理をあなたは否定しないであろう。また、あなたは、一瞬でも否定できるだろうか? 後に彼を王であるパロの前に導き、行く道でことごとく彼を助けた摂理があったことを。この人は神の人であった。彼のすべての行ないにおいて、彼の額の上には神が刻印されていたように思われる。彼の人生を区分する3つの四十年のすべてにおいて、王宮で過ごした四十年であろうと、荒野で過ごした四十年であろうと、彼がエシュルンの王であった[申33:55 <英欽定訳>]四十年であろうとそうである。これらすべてにおいて、人間の行為を越えて神はきわめて明らかに支配しておられるように思われ、あなたはこう云わざるをえないであろう。「ここには《全能者》がおられる! ここには、人間が行なうすべてのことのうちに神の御腕がある!」、と。そしてあなたがたはモーセの経歴から目を上げて云うであろう。「まことに神がこの所におられたのに、私はそれを知らなかった」*[創28:16]、と。私はあなたにダニエルの生涯を指し示すこともできよう。それは興趣尽きせぬ物語であり、その書の中にあなたは、いかに彼の足どりが、まず最初には捕囚の憂き目のうちに連れ去られ、バビロンへと導かれたかを見るであろう。だがしかし、追放という落魄の中から、ダニエルの幻の壮麗さが立ち上っているのであり、ダニエルの人格は、その一点曇りなき晴朗さとともに現わされている。それであなたは、1つの賢明な御手が彼を取り扱っていたこと、また、彼の美徳と気高さを発達させていたことを見てとらざるをえないであろう。ここではこれ以上を語るまい。なぜなら、あなたには、自分自身で聖書を参照してほしいと思うからである。聖書は、私たちがかつて読んだことのある摂理の本の中でも最良のものである。もしだれかが私に、摂理について例証する逸話の本を一冊教えてほしいと云うなら、聖書を指し示すであろう。そこにその人は、素晴らしい物語を見いだすであろう。ひとりの女が遠い国に行ったが、留守にしている間に自分の相続地を失ってしまった。ある日、彼女がそのことについて願い事をしようと王のもとに行くと、彼女がやって来たまさにそのとき、ゲハジはその王に、エリシャが息子を生き返らせたという女について話をしていたのである。――そして彼は云った。「王様! これがその女です。これが、その子どもです!」*[II列8:5]。そこにゲハジと王がいて、そのことについて語り合っていると、その女がまさにちょうどそのときにやって来たのである。だがしかし、世の中にはそれを「偶然」などと呼ぶ馬鹿者たちがいる。左様、方々。これは何物にもまして明瞭な定めである。そしてそれは、神が人間の諸事の中に臨在しておられることを見てとれる、聖書に記されたおびただしい事例のほんの1つなのである。

 しかし、結局において聖書は、私たちに提示できるいかなる教理をも最高に証明するものなので、その中にある、二、三の聖句をぜひ参照させてほしい。まず第一に、イザヤ45:6、7の箇所へと注意を向けてほしい。「わたしが主である。ほかにはいない。わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者」。さて、ここには何よりも直接的な、万事における神の御力の主張がある。神は平和を作り、わざわいを作る。――光を創造し、やみを創造する。私たちは古の預言者がしたように問うてよいであろう。「町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか」[アモ3:6]。摂理的な災いすら、神に帰されるべきなのである。そして、いくつかの驚異的な、私たちには理解することも、はかり知ることもできない意味において、神の定めは、人々の罪にさえ関係している。「主は悪者さえも御怒りの日のために造られた」*[箴16:4]。「滅ぼされるべき怒りの器」[ロマ9:22]でさえ、主の誉れをふれ知らせる。あなたの状態の善し悪しを、あなたは常に神のみわざとみなさなくてはならない。今朝のあなたの状況がいかなるものであれ――あなたが病であれ、貧困のうちにあれ、大きな悩みのうちにあれ、悪は善と同じく神のみわざである。そして、人は幸いを主から受けるのだから、それと等しい忍耐をもって、わざわいをも受けなければならないではないか[ヨブ2:10]。あなたは、神がみこころのままにお与えになるあらゆるものを神から受けとろうとはしないのだろうか? 神ご自身がこう主張しておられるのである。「わたしは光を創造し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいをつくる」*。そこで次に、ヨブ14:5にある箇所に目を向けるがいい。――「彼の日数は限られ、その月の数もあなたが決めておられ、越えることのできない限界を、あなたが定めておられる」*。何と厳粛な思想であろう! 神は、「私たちの限界を定めておられる」。預言者のひとりはこう云う。「あなたは、いばらで私の道に垣を立て、私が通い路を見いださないように、石垣を立てました」*[ホセ2:6]。そして、このことはまず第一に人間のいのちについて真実である。その「限界」は「定められ」ている! 人間はこの「限界」の中を歩んでいるにすぎない。この範囲を踏み出すことはできない。もしこれが万事における神の御手を暗示していないとしたら、私は何がそうしているのかわからない。次に、かの賢人の格言に目を向けてみるがいい。――箴言16:33。「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」。そして、もしくじの決定が主のものであるとしたら、私たちの全人生の取り決めはだれのものだろうか? あなたは、アカンが大きな罪を犯したとき、全部族が集められ、そのくじがアカンに当たったことを知っている[ヨシ7:18]。ヨナが船にいたとき、彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たった[ヨナ1:7]。ヨナタンが蜜をなめたとき、彼らがくじを引くと、ヨナタンが取られた[Iサム14:42]。人々が、脱落したユダの後を継ぐ使徒のためにくじを引くと、そのくじはマッテヤに当たり[使1:26]、彼はその働きのために取り分けられた。くじは神によって決される。そして、もし単純なくじ引きが神によって導かれるとしたら、いかに大きく私たちの人生全体の出来事はそうであろう。――特に私たちのほむべき《救い主》によってこう語られているのである。「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」*[マタ10:30-31]。もしそうだとすると、もしこの髪の毛が数えられているとすると、もしその一本一本にさえ在庫目録が記帳されているとすると、そして、もしこうした髪の毛のそれぞれの存在が書き留められ、測量されているとすると、いかにいやまさって私たちのいのちは主の御目にとって尊いものであろう。もう一箇所、エレミヤ10:23を取り上げてみるがいい。「主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを」。エレミヤは、「私は知っています」、と云った。そして、彼は霊感された人物であった。それで私たちは満足である。「私は知っています」。私は時として、使徒パウロからある箇所を引用するとき、こう答えを返す人に出会うことがある。「実はわれわれは、パウロを他の聖書記者たちほど偉大な権威であるとは考えてはいないのですよ」、と。私は以下のような会話がふたりの若い人の間で交わされていたと聞いて仰天したものである。そのひとりがこう評した。「スポルジョン氏は、教理では高踏的すぎますわね」。彼女の友人はこう云った。「聖パウロほど高踏的じゃありませんよ」。「そうね」、と彼女は云った。「でも、私の意見では、聖パウロがすべて正しいとも思いませんことよ」。私は、パウロと同じ舟に乗って沈んでいくのを非常に嬉しく思った。というのも、もしパウロが、惨めなあわれむべき生き物たちの見解において正しくなかったとしたら、まことにスポルジョンが四の五の云うこともないであろう。私は、だれか他の人とともに正しいと云われるよりは、パウロとともに間違っていると云われたい。なぜなら、パウロは霊感されていたからである。しかし、こうした人々は旧約聖書の一部をも切り取ろうとするだろうか? エレミヤをもあえて間違っていると非難するだろうか? エレミヤは云う。「私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを」。

 私は、この教理に敵対するいかなる人に対しても、私の主張を証明できなかったかもしれない。だが、信ずるあなたがたにとっては、私がそれを曲がりなりにも確証したことを私は疑わない。もう一言云わせてほしい。ことによると、私の話を聞いているだれかはこう云うであろう。「ならば、あなたは、キリスト者の場合には神が罪の作者だというのですね。もし彼らの人生が神から定められたものだと信ずるならそうでしょうが!」 私は一度もそんなことを云ってはいない! 私がそう云ったと証明してみるがいい。そうすれば、私はあなたの裁きを受けもしようし、自分を告発しもしよう。しかし、この口が、神は罪の作者である、と云うのを聞くまでは、立ち去って、何よりもまず、真実を語るとはどういうことかを証明するがいい。私たちはそのような邪悪な教理を何1つ主張したことはない。だが私は、神が罪の作者であると実際に云っている者がだれかをあなたに教えよう。――それは、生まれながらの堕落を信じていない人である。――その人が神を罪の作者にしているのである。私は、この岩礁に激突して、すさまじい破船に遭ったひとりの教役者のことを覚えている。ある子どもが、正しいとは到底云えないようなことを何かしていたとき、ある友人が云った。「あれを見なさい。兄弟。原罪は子どもの中にもあるのです。ごく幼少の頃から、それがいかに罪を犯すか見てみなさい」。「いいえ」、とその人は云った。「あれは単に、神があの子のうちに置かれた何らかの力が自らを成長させているだけのことです。それは神がもともとお与えになった性質なのです。あの子は神の完璧な被造物の1つですよ」。こうした紳士たちは、神を罪の作者にしているのである。なぜなら、彼らはその性質を神になすりつけているからである。だが、確かに私たちが堕落していなかったとしたら、私たちのだれしも完璧な性質をもって生まれたはずではあったろうが、私たちは堕落しているため、私たちのうちにあるいかなる良いものも神の賜物であり、悪しきものは私たちの親たちから、アダムの堕落した肉的な子孫によって、自然と湧き出しているのである。私は決して神が罪の作者だなどと云ってはいない。お気遣いには痛み入るが、その告発はあなた自身に投げつけるがいい。

 II. さて、このように教理について語り終えたので、ほんの数刻、これを《1つの祈り》としての考えてみたい。「私たちのためにお選びになってください。私たちの受け継ぐ地を」。愛する方々。無味乾燥な教理はほとんど無益である。私たちを助けるのは教理ではなく、教理に対する私たちの同意である。さて、今朝、私が説教してきたのは、私たちの人生を神がお定めになる、ということであった。ある人には気にくわないことである。そうした人にとって、この真理は何の役にも立たない。しかし、あなたがたの中のある人々は、もしこのことが真実でないとしたら、それが真実であってほしい、と云うであろう。というのも、あなたは、あなたの祈りの中で、こう云うであろうからである。「私のためにお選びになってください。私の受け継ぐ地を」、と。

 第一に、「私のために私の境遇をお選びになってください」。愛する方々。あなたと私は、しばしば自分自身の境遇を選ぼうとする。神はその知恵によって、ある人を富ませてくださるかもしれない。「あゝ!」、とその人は夜に云う。「私の思いを悩ませ、私の不安をかき立てる、こうした富などなければよかったのに。私のために骨折り仕事をしているどんな小作人も、私よりはずっと安らかにしていることだろう」。貧民である別の人は、熱い汗を額からぬぐいながら云う。「おゝ、御父よ。私はあなたに貧しさも富も私に与えないように願いました[箴30:8]。だのに、ここで私はひどい貧乏で、自分のパンのために絶え間なく骨折らなければなりません。私の境遇は、富者の間に得られたらよかったのに」。ある人は、種々の才能を持って生まれる。その人は教育によってそれらを改善し、この生来の諸力の改善には、その人にとって恐るべき責任が必然的に伴う。それで、その人は朝から晩まで自分の思考と自分の頭脳を発揮していなくてはならない。時としてその人は、しみじみとこう思う。「私が、あらゆる人間の中で最も重労働をしている者でなかったならなあ。商店でも構えている人間なら、店仕舞いができる。だが、私はそれを四六時中開いている。そして、私は常にこの責任にのしかかられている。私はどうすればいいのだろう。どうすれば私は休めるのだろう?」 自分の手で骨折って働かなくてはならない別の人はこう考えている。「おゝ! もし私が、あの教役者のように有閑紳士めいた生き方を送れたらなあ。あの 人は全然激しく働くことがないのだもの。ただ考えたり読んだりするだけだ。もちろそれは重労働でも何でもない。もしかすると夜の十二時まで起きていて、自分の説教を準備しているのだろうが、そんなものは労働でも何でもない。私もああいう境遇になってみたいものだなあ」。それで、私たちはみな自分の境遇について叫び求めており、自分の天命を選びたがるのである。「おゝ!」、とある人は云う。「私には健康がある。だが、それがなくとも、富さえあればやっていけると思う」。別の人は云う。「私には富がある。だが、頑健な体質が得られさえするなら、私の黄金をみな与えてもかまわない」。ある人は云う。「今の私はこの薄汚いロンドンに押し込まれている。田舎に行って暮らせさえしたら、何をも惜しまないのだが」。田舎に住んでいる別の人は云う。「ここには便利なものが何もない。医者に行くのにも、何をするにも、何哩も馬車に乗らなくてはならない。ロンドンに住めたらどんなにいいことか」。それで、私たちはだれひとりとして自分の境遇に満足していない。しかし、真のキリスト者は云う。あるいは、云うべきである。「あなたが私のためにお選びになってください。私の受け継ぐ地を」、と。身分の上下、富者か貧者か、町か田舎か、富か貧乏か、才能か無知か。「私のためにお選びになってください。私の受け継ぐ地を」。

 さらに、私たちは自分の仕事の選択を神にゆだねなくてはならない。「おゝ!」、とかの説教者は云う。――そして、私も心ひそかに、そうした邪念をいだくことがあった。――「自分の仕事は週日の間に全部終えてしまい、聖日には会衆席に座って説教を聞き、心さわやかになれるとしたらどんなにいいことだろう」。確かに、説教を聞けるとしたら私は喜ぶべきであろう。私が最後に説教を聞いてから随分と久しい。しかし、いざ他人が説教するのを聞く段になると、私は常にうんざりさせられる。――私はそれを改良したくなる。いかに私は、四六時中神の家族の中で給仕をしている代わりに、腰を落ちつけて、神の家の饗宴のいくらかを自分でも食したいと願うことか。神に感謝すべきかな! 時には私も自分のためにパンくずひとかけらくらいは盗み出すことができる。しかし、そのとき私たちは心に描くのである。おゝ、私があの仕事に就いていなかったとしたら! おゝ、ヨナのように私たちは、あの大きなニネベに行くのを避けて、タルシシュへ逃げて行きたい。別の人は、ある日曜学校の教師である。その人は云う。「私は、この扱いにくい男子や女子を相手に座っているよりも、病者訪問に行きたいものだ。それに、別の教師たちは私によそよそしすぎるような気がする」。この日曜学校の教師は、教えること以外であれば何でも上手にできるように思う。だがそこへ、病者訪問をしている友人が階下に降りてきて云う。「ぼくは小さな子どもたちを教えられるし、ちょっとは説教もできると思うよ。でも、病人の訪問だけはできないよ。こんなに辛い仕事はないし、とんでもなく自分を殺さなきゃいけないしね」。別の人は云う。「私は小冊子を配布しています。せっかく持っていった小冊子が、行く先々の玄関先で次々にはねつけられるのは、容易な仕事じゃありません。それに、こっちを見る人々の目と来たら、まるで盗人にでも来たかのような目つきなんですからね。私は会衆の前に立って話をすることはできますが、この仕事はできません」。それで私たちは自分の仕事を選んでいるのである。あゝ! だが私たちはこう云うべきである。「あなたが私のためにお選びになってください。私の受け継ぐ地を」、と。そして、私たちのなすべき仕事は神におまかせするべきである。ある善良な人がこう云っている。「もし天国にふたりの御使いがいたとして、そこに、なすべき仕事が2つあったとする。1つは町を治める仕事であり、もう1つは交差点を掃き清める仕事だとする。――その御使いたちは、一瞬も、自分がどちらを行ないたい、と云いはしないであろう。彼らはどちらであれ、神が彼らになすようにお告げになったことを行なうであろう。ガブリエルはその箒をかついで、朗らかに交差点を掃くであろうし、ミカエルは町を治める笏を手に持っているからといって、ほんの少しも高慢にはならないであろう」。それとキリスト者は全く同じである。

 しかし、この世の何にもまして私たちがしばしば選びたがるのは、私たちの十字架である。私たちのうちひとりとして、十字架を好む者はいない。だが、私たちはみな、だれか他人の試練は自分自身のものよりも軽いと考える。だが私たちはしばしばそれを選びたがる。「おゝ!」、とある人は云う。「私の困難は私の家族です。これはこの世で最悪の十字架です。――私の商売は繁盛しています。ですが、もし私が自分の商売で十字架を負い、自分の家庭内のこの十字架を取り除くことができるとしたら、私はかまいません」。ならば、話を聞いている、私の愛する方々。あなたの境遇について、あなたの仕事について、あなたの患難について、こう云うがいい。――「主よ。あなたが私のためにお選びになってください。私の受け継ぐ地を! 私は愚かな子どもでした。しばしば自分の受ける分をいじくり回しました。いま私はおまかせします。私は自分を《摂理》の流れにまかせ、浮き流されたいと思います。私は自分をあなたのみこころの影響にゆだねます」。水の中で蹴ったりもがいたりする者は確実に沈むという。だが、じっと横になる者は浮くものである。――《摂理》についてもそれと同じである。それに逆らってあがく者は下って行く。だが、それに何もかもまかせる者は、静かに、平穏に、幸いに、浮き流れていくのである。

 このように、この明け渡しの範囲についてごく手短に語ってきたので、私はその賢さについて一言述べたい。あなたには、この祈りをささげ、自分で支配しようとしないことが、単に良いことばかりでなく、あなたにとって良いことになることも示そうと思う。私は、あなたが自分を神の御手にゆだねることは良いことであると告げるであろう。なぜなら、神はあなたの欠けを理解しており、あなたの事情を知っており、あなたの必要をあわれんでくださって、あなたに最良の補給を与えてくださるであろうからである。これはあなたが自分に頼るよりも良いことがである。というのも、もしあなたが自分の困難を、あるいは自分の仕事を選んだとしたら、あなたは常にこの苦い思いをいだくであろうからである。「さあ、これは私が自分で選んだことだ。それゆえ私は、自分自身の愚劣さを責めるしかないのだ」。

 しかし、ここでもう1つの考えがある。この詩篇作者がこのように云っている原因は何だっただろうか? いかにして彼はこのように感じられるようになったのだろうか? というのも、「主よ。あなたが私のためにお選びになってください。私の受け継ぐ地を」、と本気で確言し、ここに堅く立つキリスト者はほとんどいないからである。その原因はこのことに見いだされると思う。すなわち、彼は神の知恵を真に経験していたのである。あわれなダビデは、本気で、神が彼のために受け継ぐ地を選ばれたことを感謝できた。というのも、神は、彼に非常に良いものをお与えになっておられたからである。神は、彼を王の邸宅に住ませてくださった。彼をゴリヤテに打ち勝たせ、偉大な民を治める支配者に引き上げてくださっった。ダビデは、実際的な経験から、こう云うことができた。「あなたが私のためにお選びになってください。私の受け継ぐ地を」。あなたがたの中のある人々はそう云うことができないのではないか。何がその理由だろうか? あなたは一度も《天来の》導きを目にしたことがないからである。あなたは、あなたの境遇を計る御手を一度も目の当たりに見たことがない。いくつかの事例においてその手を見たことがある、あなたがたの中のある人々は、まさに否応なしにこう云わざるをえない。

   「われここに立てん、わがエベンエゼルを」。

また、こう云わざるをえない。

   「御助けにより、われここまで来ぬと」。

私は、私をここまで導いてくださったのと同じみこころに信頼して、それが私を無事に故郷へ連れて行ってほしいと希望する。

 また、詩篇作者をして、自分は神により頼むと云わせたのは、真の信仰であった。彼は、神が自分の信頼に値するお方であると知っていた。それで、「私のためにお選びになってください。私の受け継ぐ地を」、と云ったのである。さらにまた、それは真の愛であった。というのも、愛は信頼することができるからである。――愛情は、自らの愛する者に信頼を置くものである。そして、ダビデは、神を愛していたがゆえに、自分の人生の巻物の白紙部分を取って、「主よ。あなたのお望みのままにお書きください」、と云ったのである。「私のためにお選びになってください。私の受け継ぐ地を」。

 時間さえあれば私はしめくくりに、このことが詩篇作者の思いにもたらした良き効果と、それが何をあなたの思いにもたらすかについて告げることができよう。もしあなたが常にこの祈りを祈るとしたら、それはいかに聖なる静謐さを絶えずもたらすことであろう。また、いかにあなたの思いを不安から解放し、あなたがよりキリスト者としてしかるべく歩めるようにすることであろう。というのも、人は不安に満ちていると祈れないからである。この世について思い悩んでいるとき、人は自分の《主人》に仕えることができない。その人は自分自身に仕えているのである。もしあなたが「神の国とその義とをまず第一に求め」ることができたとしたら、愛する方々。「それに加えて、これらのものはすべて与えられ」るのである[マタ6:33]。何と高貴なキリスト者にあなたはなるであろう。いかにいやまして、あなたはキリスト教信仰の誉れとなることであろう。また、いかにより良くあなたは主に仕えることができるであろう。

 さて、これまでキリストのなさるとこにいらざる手出しをしてきたあなたに云う。私はこのことをあなたに説教してきた。あなたは、自分が時としてこう歌うのを知っている。――

   「従うはわれに、満たすは主にあり」。

ならばあなたは、キリストのなさることにいらざるを手出しをし、自分の務めを置き去りにしてきたのである。「満たす」役割をしようとし続け、「従う」ことは他のだれかにまかせてきたのである。今は、従う役割を取って、キリストに満たしていただくがいい。ならば、来るがいい。兄弟たち。疑い、恐れている者たち。来て、あなたの御父の貯蔵庫を見るがいい。そして、これほど大量のものをご自分の倉に蓄えておられるお方が、あなたを飢えさせることなどあるかどうか聞いてみるがいい! 来て、主のあわれみの心を見つめるがいい。それがくじけることがありえるか見るがいい。来て、主の測り知れない知恵を見つめ、それが一度でもしくじることがあるかどうか見るがいい。何にもまして、そこであなたのとりなし手なるイエス・キリストを見上げ、自分に問うがいい。「主が訴えておられるというのに、私の御父が私のことを忘れるなどありえるだろうか?」 そして、もし神が雀さえも覚えておられるとしたら、ご自分のあわれな子らの中の最も小さな者のひとりをもお忘れになるだろうか? 「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」[詩55:22]。

 私は神の子らに対してこのことを説教してきた。さて今、この混み合った集会の別の部分に対しても一言云おう。先日、下院では非常に異様な光景が見られた。そこには、議員のために取り分けられた囲み席があるのだが、この場所にひとりの紳士が無知のため迷い込んでしまった。そのうちに、ある人が、「議会の中によそ者がいるぞ!」、と叫び声をあげた。下院の守衛官がその人のもとへ行き、肩をつかんで、そこではその人がお呼びでないことを気づかせた。――議員ではないこと――選ばれた者のひとりではないこと――国によって選ばれた者ではないことを気づかせた。もちろんその人は、非常に間抜けじみて見えた。しかし、間違いを犯した以上、その人は退場させられた。もしもその人が故意に囲み席の中に迷い込み、席に座ったしたら、それほど簡単には釈放されなかったかもしれない。私はそれを見たとき、「よそ者が中にいるぞ!」、と思った。今朝のこの建物の中には、よそ者がいないだろうか? この場には、私たちが論じてきた主題について無縁の人々が何人かいる。――真のキリスト教信仰に無縁の人々がいる。「この中によそ者がいる」のである。ここから私は、かの大いなる「天に登録されている長子たちの教会」[ヘブ12:23]のことを思わさせられた。また、先週の聖日の夜に、主の食卓を囲んで座り、聖餐にあずかろうとしていた人々のことを思った。そして、この考えに打たれた。「この中にはよそ者がいる」、と。さて、下院では、よそ者は五分もしないうちに突きとめられずにはおかない。というのも、あらゆる目がたちまちその人に釘付けになるからである。だが、キリストの教会においては――この教会においては――よそ者は見破られることなく中に座っていることができる。あゝ! ここにはよそ者たちが座っている。他の人々同様に信心深そうな顔をしている、子どもたちでない何人かの者、選ばれた者でない何人かの者、神の相続人でない何人かの者がいる。そうした人々は、「中にいるよそ者たち」である。やがて何が起こることになるか、あなたがたに告げてみよう。たとい私が信仰告白の隠れ蓑をかぶったあなたを見破ることができなくとも、たとい神の民があなたを見破らなくとも、厳格な「守衛官」がやって来つつある。――《死》がやって来つつある。――そして、彼があなたを発見する! 信仰告白者のような顔をして、キリストの教会に不法侵入していたあなたは、いかなる罰を受けるだろうか? 下界の主の家でよそ者であったとしたら、あなたはいかなる目に遭うだろうか? たとい、下界の《下院》にしばらくは座っていられたとしても、天界の《上院》に座ることはできないとわかったとき、あなたはどうなるだろうか? 「責められたる者ども。離れて行け」、と云われるとき、あなたはいかなる目に遭うだろうか? あなたは叫び声をあげるだろうか? 「主よ。主よ。私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、あなたの大通りで教えていただきました」、と。だが主は云われるであろう。「まことに、わたしはあなたがたを全然知らない!」 「あなたがたは中にいるよそ者なのだ!」――「のろわれた者ども。離れて行け!」[ルカ13:26; マタ7:23; 25:41参照] いかにして私は、この会衆席にいるだれが、また桟敷席にいるだれがよそ者かどうか見分けられるだろうか? 私たちの中のある人々はよそ者ではない! 「私たちは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです」*[エペ2:19]。よそ者であるあなたに向かって、私は願う。このことを考えて、キリストの御座のもとに行き、キリストに乞い求めるがいい。これから私をあなたの子どもにしてください、あなたの民のひとりに数えられるようにしてください、と。そのとき、その後で、私は本日の聖句についてあなたと語り合うであろうが、今はそうできない。そのとき私は、神に向かってこう祈るようにあなたに命ずるであろう。「私のためにお選びになってください。私の受け継ぐ地を」、と。

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賢明な願い[了]

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