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増し加えられた信仰の必要

NO. 32

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1855年7月1日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューパーク街会堂


「使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増してください。』」。――ルカ17:5


 まことに、使徒たちがこう云ったからには、私たちの誰も彼もがこう祈るべきである。もし万軍の主の軍勢中、最強の十二人がこのように乞い願うべきであったとしたら、私たち――ただの弱卒にすぎず、聖徒の中でも最もひ弱な者たち――は、何と云うべきだろうか? もしあなたがたが勝利を得たいと思うのなら、私たちは、「私たちの信仰を増してください」、と祈るのが至極当然ではないだろうか?

 この言葉がいかなる際に口にされたかは、議論の種となっている。ある人の考えによると、その説明は、この章の前後関係にあるという。そこでイエス・キリストが弟子たちに教えておられたのは、もし彼らの兄弟が彼らに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度彼らのところに来るなら赦してやるべきだ、ということであった。これが引き金となって使徒たちは、「私たちの信仰を増してください」、と云ったのである。彼らは、絶えず赦免を与え、不断に赦すというのは非常に厳しい義務であると思った。それで、信仰が大幅に増し加わらない限り、それを成し遂げることはできないと感じたのである。他の人々の考えによると、――こちらの方が、より真実である可能性が高いが――この願いがなされたのは、使徒たちがあのあわれな悪霊につかれた者から悪霊を追い出そうと努力して、その試みに失敗した際であったという。「そして彼らはイエスに言った。『なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。』イエスは言われた。『まことに、もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、「根こそぎ海の中に植われ。」と言えば、言いつけどおりになるのです』」*[マタ17:19-20; ルカ17:6参照]。そのとき彼らは主に、「私たちの信仰を増してください」、と云ったのである。しかしながら、この特定のやりとりがいかなる際になされたにせよ、私たちがこの祈りをささげる機会は、常住不断に立ち起こるであろう。それに、今朝のこのとき、私たちひとりひとりが、「私たちの信仰を増してください」、と神に申し上げるべき特別の必要がないとだれにわかるだろう。

 単刀直入にこの主題に進むこととして、私たちが考察したい第一のことは、彼らの切望の対象である。それは、彼らの「信仰」であった。第二に、彼らの心の願いである。――「私たちの信仰を増してください」。そして第三に、彼らがいかなるお方に頼って、自分たちの信仰を強めようとしたかである。――「彼らは主に言った。『私たちの信仰を増してください。』」*。

 I. まず第一に、《彼らの切望の対象は、彼らの信仰であった》。信仰は、キリスト者にとってきわめて重要なものである。この世のいかなるものにもまして、私たちは自分の信仰について細心の、また真剣な配慮をすべきである。私はこのことをあなたに示すために、7個か8個の理由をあげたい。願わくは神が、それをあなたの心に深くお示しになり、魂の底まで達させてくださるように。私たちひとりひとりが、深く真剣にこう自問できるように。すなわち、果たして自分は、《小羊》に自分を結びつけ、自分の魂に救いをもたらす、真に生きた信仰を持っているだろうか、と。

 1. 愛する方々。私たちは自分の信仰について――その正しさについても、その強さについても――格別な注意を払うべきである。それは、何よりも第一に、救いにおいて信仰が占める位置を考えるときにそうである。信仰は、救いの恵みである。私たちは愛によって救われるのではない。恵みによって救われるのであり、信仰によって救われるのである。私たちは勇気によって救われるのでも、忍耐によって救われるのでもない。信仰によって救われるのである。すなわち、神はその救いを信仰にお与えになるのであって、他のいかなる美徳にもお与えにならない。愛する者は救われる――などとはどこにも書かれていない。忍耐深い罪人は救われる――などとはどこにも記されていない。だが、こう云われている。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。信仰は救いの要である。人がもし信仰を欠いていれば、すべてを欠いている。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」[ヘブ11:6]。もしある人に真の信仰があるなら――たといその人が、他の美徳をいかに僅かしか有していなくとも――、その人は安泰である。しかし、かりに人が、この世のありとあらゆる美徳を備えられたとして、外見上は、使徒パウロその人と同じくらいキリスト者らしく見えたとしよう。熾天使と同じくらい熱心であったとしよう。自分の《主人》への奉仕において、いと高き所の御使いと同じくらい熱心であると考えられるとしよう。それでも、「信仰がなくては」、と神のことばは宣言している。――「神に喜ばれることはできません」。信仰は、救いに至る恵みである。――それは、魂とキリストを繋ぐ環である。それを取り去れば、すべてが失われる。信仰を取り除けば、船の竜骨を挽き切ったのと同じく、沈没するしかない。信仰を取り去れば、盾を取り去られたのと同じで、切り殺されるしかない。信仰を取り除けば、キリスト者のいのちは存在を停止する。即座に絶え果てる。というのも、「義人は信仰によって生きる」からである[ロマ1:17; ガラ3:11]。信仰なしに、彼らは、一体いかにして生きられるだろうか? ならば、こう考えるがいい。信仰が救いにおいてそれほど重要であるからには、私たちひとりひとりは、自分に信仰があるかないかを、いやまして熱心に調べるのが当然である、と。おゝ、私の兄弟たち。この世には、にせものがごまんとある。――信仰の模造品がごまんとある。だが、真の、生きた、救いに至る信仰はただ1つしかない。観念的な信仰はいくらでもある。――健全な信条をいだくことに最も重きを置く信仰、人に命じて偽りを信じさせる信仰、まだ苦い胆汁と不義のきずな[使8:23]の中にいる人をも安全だという確信でくるみこむような信仰、増上慢に自分を信頼することを根本とするような信仰。偽りの信仰はいくらでもある。だが、真の信仰は1つしかない。おゝ! もしあなたがたが、最後には救われたいと願っているというなら、もしあなたがたが自分をごまかしたまま、目をつぶって断罪へ行進していきたくないというなら、今朝、あなたの信仰を手に取って、それが純粋なポンド貨幣かどうか見てみるがいい。私たちは、自分の信仰について他の何よりも注意を払うべきである。確かに私たちは、自分のふるまいを吟味すべきである。自分の行ないを調べるべきである。自分の愛を試すべきである。だが、何にもまして自分の信仰を試すべきである。というのも、もし信仰が間違っていれば、すべてが間違っているからである。もし信仰が正しければ、私たちはそれを自分の真摯さの試金石とすることができる。「神の御子を信じる者のうちには、永遠のいのちがとどまっている」*[ヨハ3:36参照]。

 2. 第二に、――自分の信仰を気遣わなくてはならないのは、あなたのすべての恵みがそれにかかっているからである。信仰は、根元的な恵みである。他のあらゆる美徳や恵みが、そこから生じている。愛はどうか。いかにして自分が信じてもいないお方を愛せるだろうか? もし私が、神がおられること、神を求める者には報いてくださる方であることとを信じていないとしたら[ヘブ11:6]、一体いかにして私は神を愛せるだろうか? 忍耐はどうか。いかにして信仰も持たずに忍耐を働かせられるだろうか? 信仰は、報酬が与えられるときを待ち望むからである。信仰は、「すべてのことが働いて益となる」[ロマ8:28 <新改訳聖書欄外訳>]、と云う。私たちの苦悩から、より大きな栄光が生ずると信ずる。だからこそ耐え忍べるのである。勇気はどうか。信仰がないとしたらだれが勇気を持てるだろう? あなたがいかなる美徳を取り上げても、それは信仰に依存していることがわかるであろう。信仰はあらゆる恵みの真珠を通しておくべき銀の糸である。それを断ち切れば、その糸を切ったのと同じである。――真珠は地面に散らばり、あなたを飾るため身につけられなくなってしまう。信仰はあらゆる美徳の母である。信仰はいけにえを焼き尽くす火である。信仰は根を養う水である。信仰は、あらゆる枝に活力を分け与える樹液である。もしあなたに信仰がなければ、あなたの恵みはみな死なざるをえない。そして、あなたの信仰が増し加わるにつれて、あなたのあらゆる美徳も増し加わるであろう。すべてが同じ度合にではないにせよ、すべてがある程度は増し加わるであろう。小さな信仰の持ち主は、小さな愛の持ち主である。大きな信仰の持ち主は、大きな愛情の持ち主である。神を信ずる大きな信仰を持っている人は、神のために死をも選べるが、神を信ずる信仰が小さな人は、その愛がひ弱なために火刑柱から尻込みするであろう。あなたの信仰に気を遣うがいい。というのも、あなたの美徳は信仰にかかっているからである。そして、もしあなたが善であること、「愛すべきこと、評判の良いこと」*[ピリ4:8]、自分にとって誉れとなり、神を喜ばせることを努めて身につけたければ、あなたの信仰をよく守るがいい。あなたの信仰に、すべてが基づいているからである。

 3. 第三に、――あなたの信仰を気に留めなくてはならないのは、キリストがそれを高く評価しておられるからである。新約聖書の中には、尊いと呼ばれているものが3つある。――その1つは、知っての通り、キリストの尊い血である[Iペテ1:19]。もう1つは、尊い、すばらしい約束である[IIペテ1:4]。そして、信仰は、三番目のものたる栄誉が与えられている。――「私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ」[IIペテ1:1]。こういうわけで、信仰は神が尊ぶ3つのものの1つなのである。これは、神が他のすべてにまさって評価される物事の1つにほかならない。昨日、私は古い神学書を読んでいて非常に驚くべき思想に出会った。その著者は、神が信仰にまとわせておられる栄誉について、こう云っているのである。「キリストは、ご自分の頭から冠を外して、信仰の頭の上に置かれた」。注意するがいい。主が、いかに頻繁に、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです」、と云われたことか[ルカ7:50; 18:42]。とはいえ信仰が救うのではない。キリストがお救いになるのである。「あなたの信仰があなたを癒したのです」*[マタ9:22; マコ5:34]、と主は云われる。とはいえ信仰が癒したのではない。キリストがお癒しになったのである。だが、キリストはご自分から冠を外しても、信仰に冠をお与えになった。主は、救いの王冠をご自分の頭から取って、それを信仰の額にかぶせ、そのようにして信仰を「王の王」とされた。――そのとき信仰は、王の王[黙17:14]だけが戴くことのできる冠――「救いの冠」を戴いているからである。あなたは、「私たちは信仰によって義と認められる」*[ガラ3:24]と書かれているのを知らないだろうか? さて、ある意味でこれは事実ではない。義認の実質は、転嫁されたイエス・キリストの義だからである。私たちはキリストによって義と認められる。だが、キリストは信仰をご自分の王服で着飾らせ、それを真に光輝くものとしてくださる。イエス・キリストは、常に信仰を栄誉ある座につかせておられる。あの病気の娘を持ったあわれな女がやって来たとき、主は云われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです」[マタ15:28]。主は、「ああ、あなたの愛はりっぱです」、と云うこともおできになった。りっぱな愛があればこそ彼女は群衆を押し分けて進み、娘のために懇願したからである。あるいは、「あなたの忍耐はりっぱです」、と云うこともおできになった。主が彼女を「犬」と呼んだときも、彼女は主にすがりつき、離れようとしなかったからである。あるいは、「あなたの勇気はりっぱです」、と云うこともおできになった。彼女はこう云ったからである。「ただ、小犬でも……パンくずはいただきます」。あるいは、「あなたの知恵はりっぱです」、と云うこともおできになった。彼女はかしこい女で、苦味の中から甘みを引き出すことができ、こう云っているからである。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも……パンくずはいただきます」[マタ15:27]。しかし、主はこれらすべてを見過ごしにして、こう云われた。「あなたの信仰はりっぱです」。よろしい。キリストが信仰をこれほど評価しておられる以上、私たちはそれをこの上もなく尊重すべきではないだろうか? キリストが最も価値あるものとみなしておられる宝石を、私たちが高く評価しすぎるなどということが可能だろうか? 主が信仰を美徳の額の最前面に据えておられる以上、また主がそれをキリスト者の冠の最上の宝石であるとみなしておられる以上、おゝ! それによって私たちは目覚めさせられ、自分が信仰を有しているかどうかを見てとらされるではないだろうか? というのも、それを有していれば、私たちは富んでいるからである。――信仰と約束に富んでいるからである。しかし、もし有していなければ、他に何を有していようと、私たちは貧しい。――現世で貧しく、来世でも貧しい。

 4. 次に、キリスト者よ。あなたの信仰によくよく気を遣うべきなのは、思い出してほしいが、信仰こそ、あなたが祝福を獲得できる唯一の道だからである。もし私たちが神から祝福を授けてほしければ、信仰による以外、何物もそれを天から取ってくることはできない。祈りが神の御座から答えを引き下ろせるのは、それが信仰を持っている人の熱心な祈りである場合に限る。信仰は、私の魂が天に一歩一歩上っていくためのはしごである。もしそのはしごを壊したとしたら、いかにして私は私の神に近づけるだろうか? 信仰は、魂と天国の間の天使めいた使者である。その天使が引っ込んでしまえば、私は祈りを上に送ることも、その答えを上から受けとることもできない。信仰は、地上と天国を繋ぐ電信線である。――その線の上を神の祝福は瞬時に走り、私たちが呼ぶ前から神は答え、私たちがまだ語っている間に神はお聞きになる。しかし、もしその電信線がぷっつり切れたら、いかにして私たちは約束を受け取れるだろうか? 私が困難に陥っているとする。私は信仰によって困難への助けを獲得できる。私が敵に打ち叩かれているとする。私の魂は、信仰によって、かの愛し隠家(いえ)に頼る。しかし、信仰を取り去ってしまえば、――私が神を呼んでも無駄である。私の魂と天国の間には何の道もない。信仰こそ、厳寒の真冬にも祈りの馬が旅することのできる道路である。――左様、身を切るような霜があればなおのことである! しかし、その道路を遮断してしまえば、いかにして私たちは、私たちの偉大な王とやりとりできるだろうか? 信仰は私を神性と繋いでいる。信仰は私に神格の衣をまとわせている。信仰はエホバの全能性をして私に味方させている。信仰は神の御力を私に与える。というのも、それはその力を私のために確保するからである。それは私に地獄の軍勢を向こうに回して一歩も引かせない。それによって私は、自分の敵を屈服させ、勝ち誇って歩むことができる。しかし信仰がなければ、いかにして私は主から何かを受け取れるだろうか? 疑っている者――海の大波のような者――は、神から何かをいただけると思ってはならない![ヤコ1:6-7] おゝ、ならば、キリスト者たち。あなたの信仰をよく見張るがいい。というのも、信仰があれば、あなたは、いかに貧しくとも、あらゆるものをかちとれるが、信仰がなければ、何1つ獲得できないからである。マイダス王は、自分の手で触れる物をことごとく黄金に変える力があったという。それと同じことが信仰についても云える。――それはあらゆるものを黄金に変える。だが、信仰が損なわれれば、私たちは自分のすべてを失ったのである。私たちは、みじめで、貧しい者となる。なぜなら、私たちは御父とも、御子イエス・キリストとも、何の交わりも保てないからである。

 5. 次に、愛する方々。あなたの敵たちのゆえにあなたの信仰に不断に注意を払うがいい。なぜなら、たとい友人たちとともにいるときには信仰を必要としなくとも、あなたの敵に相対するときには、それを必要とすることになるからである。あの勇敢な老戦士パウロは、かつてエペソ人たちを武器庫の中に導き入れ、彼らが身につけるべき履き物や、帯や、胸当てや、かぶとや、剣を彼らに示した後で、こう厳粛に云っている。「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい」[エペ6:16]。万が一かぶとを忘れるようなことがあっても、大盾だけは手に取るようにするがいい。たといあなたからかぶとが跳ね飛ばされても、大盾があれば打撃を避けることができ、頭部を守れるからである。あなたは、「平和の靴や正義の胸当て」を身につけるべきだが、何か1つを省くとしても、「信仰の大盾」だけは手に取っているように注意するがいい。「それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます」。よろしい。さて、信仰は、人が敵を向こうに回しているとき、その人を非常に強める。もしある人が自分は正しいと信ずるならば、それが天性のものの見方によるとしても、――真理のために君主や王たちの前に連れ出されるとき、いかにその人が獅子奮迅の働きをすることか! その人は云うであろう。「私は屈することができない。屈することはありえない。真実が私の味方をしているのだから」。左様、たとい他の人々がそれを度し難い頑固さだと呼ぼうと、人をして、「私は屈さない」、と宣言させるのは魂の真の気高さである。それよりさらに強いのが、真に霊的な信仰である。それは殉教者を火刑柱へと赴かせ、炎に包まれたときも、その人に歌わせることができた。また、それは別の人を海へと赴かせた。そして、私たちが古い殉教者列伝で読む人物のように、それは年老いた老婦人すら助けて、「キリスト様こそすべてです」、と叫ばせた。信仰は火の勢いを消し、獅子の口を閉ざし、弱い者なのに私たちを強くしてきた[ヘブ11:33-34]。それは、世の征服者たちの全軍勢よりも多くの敵を打ち負かしてきた。私は、ウェリントンのおさめた数々の勝利など聞きたくない。ナポレオンの数々の戦いなど語らぬがいい。信仰が何を成し遂げたかを告げるがいい! おゝ! もし私たちが信仰の誉れのために記念碑を立てるとしたら、その巨大な台座にはいかに種々の名前を刻むべきだろうか? 私たちは、ここに「獅子の穴」を刻み、あそこに「豹の戦い」を刻むべきである。あるいは、ここに、信仰がいかに紅海を2つに分けたかを記録し、そこに、いかに信仰がミデヤン人を打ったか、また、そこには、いかに信仰によってヤエルがシセラを殺したかを記すべきである。いかなる信仰の争闘を私たちは彫刻しなくてはならないだろうか? おゝ、信仰よ! お前の旗は高く翻っている! お前の紋章入りの盾ほど輝かしいものはない! お前は偉大であり、勝利に満ちている! おゝ、信仰よ。お前によって私はこの世に挑戦し、勝利を確実におさめる。小さな子どもを私と戦わせてみるがいい。だが信仰がなければ、――小さな女中の前のあわれなペテロと同じく、私は震えて、自分の《主人》を否定するであろう。しかし、同じペテロは、信仰を備えていたとき、渋面をした議会の前で恐れることなく立っている。スコットランド女王メアリーは、「ジョン・ノックスの祈りと信仰の方が、一万人の軍隊よりも恐ろしい」、と云った。そして、分別のある敵であれば、それほど無敵のものが自分と戦っている場合、震えて当然であろう。私は、信仰の人が私に立ち向かって戦うことだけは御免こうむる。この世が私を憎んでいると告げるがいい。私はそれを喜ぶであろう。だが、信仰の人が私を押しつぶそうと決心したと告げるがいい。そのとき私は震えざるをえない。というのも、その人の腕には権威があるからである。その人の打撃にはすさまじい力がこもっている。そして、その人が強打するときには、鉄の杖をもってするように、深手を負わせる。震えるがいい。あなたがた、神の敵たち。信仰は勝利せざるをえないからである。そして、おゝ、あなたがた、生ける神のしもべたち。あなたの信仰をよく守るがいい。というのも、これによって、あなたがたは勝利を得るからである。また、岩のように立ち、嵐の最中でも動かされず、迫害の暴風によっても揺るがされないからである。

 6. さて六番目の理由である。あなたの信仰に注意を払うべきなのは、さもないと、あなたは自分の義務をよく果たせないからである。信仰は、魂が戒めの道を行進していくための足である。愛はその足をよりすみやかに動かせるであろう。だが、信仰こそ魂を運んでいく足である。信仰は、聖なる献身と熱心な敬虔さの車輪をより円滑に動かせる潤滑油である。だが信仰がなければ、その車輪は戦車から外れ、私たちはのろのろと身を引きずることになる。信仰があれば、私には何でもできる。信仰がなければ、私は神への奉仕において、いかなることを行なう気持ちも力もなくなるであろう。もしあなたが神に最も良く仕えている人々を見いだすとしたら、そうした人々が最も大きな信仰の人であることに気づくであろう。小さな信仰も人を救うであろうが、小さな信仰に大きなことは行なえない。あわれな薄信者に「アポルオン」と戦うことはできなかった。否。それを行なうのは「基督者」でなくてはならなかった。あわれな薄信者に、「巨人絶望者」を打ち殺すことはできなかったであろう。この怪物を打ち倒すには、「大勇氏」の腕が必要であった。小さな信仰も確実きわまりなく天国に達することができるが、それはしばしば、団栗の殻の中に逃げ隠れしなくてはならず、その宝石以外のすべてを失ってしまう。もし大きな戦闘があり、なすべき大きな働きがあるとしたら、そこには大きな信仰がなくてはならない。確信は山々をも背負うことができる。小さな信仰は、もぐらづかにもつまずく。大きな信仰は、ヨブ記の巨獣のように、「ヨルダン川を一息で鼻から吸い込む」*[ヨブ40:23]。小さな信仰は、雨粒の一滴で溺れてしまう。それは、少しでも困難があると、すぐに引き返すことを考え出す。大きな信仰は神殿を建てることができる。それは城をも築ける。福音を宣べ伝えることができる。キリストの御名を敵どもの前で宣言できる。一切のことを行なうことができる。そして、もしあなたが本当に偉大になり、あなたの《主人》に大きく仕えたいと思うのなら――私はあなたがそう思っていると信じているが――、あなたは信仰が増し加えられることを望むであろう! そうすることによってあなたは義務においてより勤勉になるからである。おゝ、あなたがた、活動的なキリスト者たち。信仰に満たされるがいい! あなたがた、多忙なキリスト者たち。信仰を確実に守るがいい! ひとたびそれが倒れたら、あなたがたはどうしようというのか? 日曜学校の教師として、説教者として、病人の訪問者として、あるいは何があなたの義務であるとしても、信仰があなたの強さであり確信でなくてはならないと心に思い定めるがいい。もしそれがくじけるなら、そのときあなたはどこにいるだろうか?

 7. また、あなたの信仰に注意を払うべきなのは、信仰だけが困難に陥ったときのあなたを慰められるからである。左様、とある人々は云う。それこそ、あなたがたが四六時中考えていることなのだ。困難なことがあれば、信仰を用いて慰めを受けるわけだ、と。さて私は、神の民が慰めを求めるからといって、決して彼らを笑い飛ばそうとは思わない。私の信ずるところ、彼らが甘いものを好むこと、それは彼らが子どもである非常に大きな証拠である。もし彼らがそうしなかったとしたら、残念ながら彼らは全然神の子らではないのではないかと思う。しかし、私は教役者たちがこう云っているのが聞こえる。「あゝ、あなたがたは常に云ってるのだな。慰めがほしい、慰めがほしい、と」。左様、確かに私も、彼らがそう云っていると云うものである。だが、彼らがそれを欲するのは、彼らが決してそれをあなたからは得られないからなのだ。私の信ずるところ、神の民には慰めが必要である。確かに彼らは、それを有すべきでないときにも、それを欲しすぎるきらいがあるとはいえ。しかし、彼らは約束を非常にしばしば必要とするし、それを有すべきである。さて、信仰は魂にとって最上の気付け薬である。おゝ、何か非常に大きな困難が迫りつつあるとき、いかに信仰が慰めとなることか! 「あゝ!」、と信仰は云う。「神は云っておられる。『あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように』[申33:25]と」。「あゝ!」、と信仰は云う。「これは、険しい道だ。茨は鋭く尖っている。火打ち石がばらまかれている。だがそのとき、『あなたのくつは、鉄と青銅である』[申33:25 <英欽定訳>]」。そして信仰は、その強い古靴を見つめて、「思い切ってやってみよう」、と云う。そして信仰は出立する。小さな信仰は、片隅でぶつくさ云いながら座り込んでいるが、大きな信仰は火の中でも歌っている。「彼らは寝床で声高く神をたたえ、火の中で高らかに賛美を歌う」。小さな信仰は意気消沈して立ちつくし、その涙を大水と混ぜ合わせる。大きな信仰は云う。「あなたが川の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、大水にも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」*[イザ43:2]。あなたは慰めに満ちて幸福になりたいだろうか? 陽気な、陰気くさくないキリスト教信仰を持ちたいだろうか? ならば、より多くの信仰を求めるがいい。あなたは、ごくごく小さな信仰によっても救われるであろうが、幸せな救われ方はしないであろう。たといあなたが、この上もなくちっぽけにしか信じていなくても、死後あなたは幸せになるであろう。だが、あなたが地上で幸せになれるのは、あなたが完全に、不断に、そして真剣に信ずるとき、――エホバの真実な約束を、そのご人格のあらゆる輝かしい威厳によって、また、その恵みの真実さと不変性の一切において強く信じるときにほかならない。もしあなたがたがキリスト者の雲雀になろうとし、キリスト者の梟になりたくないというのであれば、より多くの信仰を求めるがいい。もしあなたがたが暗闇を愛し、その暗闇の中を陰鬱に、また惨めに飛び回っていたいしというなら、小さな信仰で満足しているがいい。しかし、もしあなたがたが日差しのもとで上へ昇り、昼間の鳥のように喜び歌いたいというなら、強い確信を求めるがいい。

 8. もう1つの理由がある。あなたの信仰に注意を払うべきなのは、愛する方々。それがしばしば非常に弱く、あなたの心を完全に傾注する必要があるからである。私は、あなたがたの中のだれかが、自分の信仰を強すぎると感じているかどうかは知らない。だが私は、一度として自分の信仰が十分に強いと感じたことはない。それは、一日の苦労を担うに足るだけの強さはあるように思える。だが、それが鉋がけを受けて、ほんの一片でも削ぎ落とされたとしたら、立っていないであろう。私は一原子たりとも切り落とされる余裕はない。それは十分に満足だが、それ以上ではない。私たちの中のある人々について云えば、私たちの信仰はあまりにも弱いため、いかに小さな困難によっても、食い尽くされる恐れがある。山羊が通りすぎては、その若葉を噛み取るであろう。冬になれば、それは冷えこまされ、凍てつかされ、今にも死にそうにされる。そして私の信仰は、非常にしばしば、貧弱きわまりない糸にぶらさがっているようなものである。それは、今にも息を引き取りそうに見える。あなたの信仰に注意を払うがいい。キリスト者よ。あなたの信仰に注意を払うがいい。夜、戸外に何を置きっぱなしにするとしても、この信仰という小さな子どもを放置しておいてはならない。いかなる植物が霜にさらされようと、信仰は屋内に入れておくがいい。信仰に注意を払うがいい。それは通常はごく弱く、よくよく保護される必要があるからである。

 このようにして私は今朝、自分にできる限り、私たちの信仰に注意すべきである大きな必要について述べてきた。そして私たちの祈りは、使徒たちの願いと同じように、「私たちの信仰を増してください」、でなくてはならない。

 II. ここから、私たちが第二に考察させられるのは、《使徒たちの心から欲した望み》である。「私たちの信仰を増してください」。彼らは、「主よ。私たちの信仰を生かし続けてください。主よ。それを現在の状態に維持しておいてください」、とは云わなかった。むしろ、「私たちの信仰を増してください」、と云った。というのも、彼らは、キリスト者が少しでも生きたものであり続けるには、増し加えられることによるしかないと、よくよく承知していたからである。ナポレオンはかつてこう云った。「私は幾多の戦闘を戦わなくてはならない。そして、それらに勝たなくてはならない。征服によって私は今の私になっているのであり、征服によって私は保たれなくてはならない」、と。そして、これはキリスト者にとっても同じである。昨日の戦闘が今日の私を救うのではない。私は前へ進み続けなくてはならない。一本の輪は、動いている限りは立っているが、静止しようとした途端に倒れる。キリスト者である人々は、向上することによって救われる。絶えず前進することによってキリスト者は生きたものであり続ける。もし私に止まることが可能だとしたら、私は自分のいのちがどうなるかわからない。キリスト者は前へ進まなくてはならない。矢は、進み続けている限り上へ昇っていくが、上昇する力が途絶えた途端に失墜する。それで使徒たちは主に、「私たちの信仰を増してください」、と云ったのである。

 第一に、その範囲において「私たちの信仰を増してください」。それが受け取る範囲においてである。通常、私たちがキリスト者生活を始めるとき、信仰はさほど多くのことをわかっているわけではない。それは単に、ほんの僅かな初歩的教理を信じているだけである。私の見るところ、多くの初信の回心者たちは、イエス・キリストが罪人のために死なれたと信ずる以上のことを大して自分のものとしてはいない。こうした人々は、徐々に少し進歩して、選びを信ずるようになる。だが、そこで受け入れるよりも、なおも先には何かがあり、何年かを経て初めてこうした人々は、福音の全体を信ずるようになるのである。話を聞いている方々。あなたがたの中のある人々、また、いま私の話を聞いてはいないおびただしい数の人々は、みじめで、ちっぽけで、狭苦しい魂である。あなたは融通のきかない信条を習い覚えており、そこから決して外に出ようとしない。どこかのだれかが、5つか6つの教理を書き上げて、「これが聖書の教えだ」、と云ったので、あなたがたはそれを信じている。だがあなたは、自分の信仰を増し加えられる必要がある。あなたは、聖書の中にまだたくさんあるものを信じていないからである。私は、自分が信じていることにおいては、超カルヴァン主義に立ついかなる兄弟たちとも異なっていないと思う。だが私は、彼らが信じていないことにおいて、彼らと異なっている。私が信じていることは、いささかも、彼らが信じていることより少なくない。むしろ私は彼らよりも、やや多く信じているのである。私たちは、成長するに従い信仰内容が増し加わるものだと思う。私たちは単に、自分の船を東西南北に向けるに足るだけの枢要な教理をいくつか学ぶだけにとどまらず、北西や北東、そして東西南北の四点の間にあるどの方角についても何かしら学び始めるべきである。多くの人々は、自分がそれまで普通聞いてきたことに少々反することを聞くと、たちまち「これは健全でない」、と云う。しかし、だれがあなたを何が健全か健全でないかの裁判官にしたのか。世の中には、自分をイスラエルのさばきつかさにまつりあげている、何人かの卑小な人々がいるもので、あらゆる人が自分の信ずる通りに信じなくてはならず、そうしないような者は明白に間違っていると考え、その人とはいかなるキリスト者的な交流も交わりも持とうとしない。確かに私はこうした人々のために主に祈ってよいであろう。――「彼らの信仰を増してください」、と! 彼らを助けて、もう少し多く信じさせてください。彼らを助けて、世にはキリスト者のウェスレー派もいるのだ、健全な国教徒もいるのだ、特定バプテスト派が健全きわまりない種類の人々であるというだけでなく、神の選民は至る所にいるのだ、と信じさせてください、と。確かに私は、偏狭頑迷なすべての人々が、もう少し広い心を持てるようにと祈るものである。私は彼らの心をもう少し押し広げたい。しかし、否。彼らは ultima thule [世界の果て]に達してしまった。彼らは、極楽島の最後に到達している。そこを越えた所にはいかなる岸もないのだ。船乗りが自分の帆を未知の海に張るのは危険なのだ。「ここまで」、と敬虔なるクリスプは云う。それゆえ、多くの人々は空想する。「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない」[ヨブ38:11]、と。ギル博士は、ぎりぎりここまでしか宣言していない。では、だれが恐れ多くも、それ以上のことを云おうとするのか。あるいは、ことによると、カルヴァンが基準とされているかもしれない。では、だれが、これっぽっちでもカルヴァンを越えるような考え方をするなどという大それたことをしてよいだろうか? 神はほむべきかな。私たちはそれよりも多少は先に進んでいる。そして、「私たちの信仰を増してください」、と云うことができる。私たちは、こうした偉大な権威ある神学者たちに対して決して賞賛を惜しむものではないが、彼らの小さな鉄のかごの中に自分を閉じ込めておく気持ちにはならない。むしろ私たちは云う。「その扉をあけてください。私を飛ばせてください。――私が自由であることを、まだ感じさせてください。私の信仰を増して、もう少し信じられるように助けてください」。私は、この数箇月の間に、自分の信仰が一、二の点について増し加わったと云えると思う。私は長いこと、聖書の中に《千年期》というようなものを見いだすことができないでいた。私はキリストの《再臨》を信じてはいたが、大して喜ばしく思うことができないでいた。だが、次第に私の信仰はこの主題に対して開かれ出してきたため、今の私は、主イエス・キリストの来臨を待ち望み、かつ、それを早めようとすること[IIペテ3:12]に、幾分かは自分の食べ物や飲み物を見いだしている。私の信ずるところ、私は、まだ聖書のイロハを学びだしたばかりにすぎず、絶えず主に、「私の信仰を増してください」、と叫ぶであろう。私がより多くのことを知り、より多くのことを信じ、はるかに良くあなたのみことばを理解できるようにしてください。範囲において、「私の信仰を増してください」、と。

 次に、その強さにおいて「私の信仰を増してください」。信仰は、その範囲においてと同じく、その力においても増し加えられる必要がある。私たちは、ある人々が川に対して行なうように行動したくはない。そうした人々が堤防を切り崩すと、川は牧草地一帯に広がり、浅くなってしまうが、私たちが望むのは、それが表面積を増大させると同時に、その深さも増し加わることである。「私たちの信仰の強さを」増してください! 信仰は、最初は神のあわれみを開いた手のひらで受け取る。信仰が増し加わるにつれて、それを指先でつまむが、さほどしっかり握りはしない。だが、信仰が強く成長すると、あゝ! それを鉄の万力ででもあるかのように握りしめ、死もハデスも、強くなった信仰の手から約束をもぎ取ることはできない。未熟なキリスト者は、最初はその信仰において堅固ではない。ちょっと風が吹いただけで、すぐに震える。だが、老練なキリスト者となったその人を揺るがせるには、古の北風神ボレアースが、その五十もの突風を巻き起こすしかないであろう。私の愛する方々。あなたは、自分の信仰がその強さにおいて増し加えられる必要があると感じていないだろうか? あなたはウォッツとともにこう歌いたくはないだろうか?

   「われは求めん、強き信仰を、
    さらば幕屋の 内側(うち)をば眺め、
    主のみ誓いを よく信ぜん、
    そのみことばの ゆめ違(たが)わずば」。

あなたのあわれで小さな信仰は、その前にほんの何尋も見ることができない。回り中を暗黒の雲が取り巻いているからである。だが強い信仰は、「晴朗」と呼ばれる山を登り、その頂上から天上の都を、また遥か彼方の国を見ることができる。おゝ! 願わくは神があなたの信仰を増し加えてくださり、あなたがしばしば天国を眺め渡せるようになるように。――モーセがピスガの頂で歌ったであろうように、こう甘やかに歌えるようになるように。

   「おゝ! 我れ忘れさせ、たましい奪う
    彼方の景色ぞ 我れは目にせり。
    緑の沃野に 飾られし野も、
    喜ばしげに 流れる川も」。

そこにあなたが登り、その壮麗さに目を浴させ、至福の川に魂を没入させ、忘我の極みに達し、やがて自分のものとなるはずの幸福の状態をうち眺めては心を奪われるように、私は、こう神に叫ぶことをあなたに勧めたい。天国を悟る力において、また、他のあらゆるしかたにおける力において、「私の信仰を増してください」、と。

 III. この点について詳しく語る時間はないが、しめくくりの前に私は、ごく手短に《使徒たちがその願いを向けているお方》について言及しなくてはならない。使徒たちは主に云った。「私たちの信仰を増してください!」、と。彼らが向かったのは、正しいお方であった。彼らは自分に向かって、「私は自分で自分の信仰を増し加えよう」、とは云わなかったし、教役者に向かって、「慰めに満ちた説教を1つ語って、私たちの信仰を増してください」、とも叫ばなかった。また、「私はこれこれの本を読むことにしよう、そうすれば私の信仰は増し加わるだろう」、とも云わなかった。否。彼らは主に向かって、「私たちの信仰を増してください」、と云った。信仰の創始者[ヘブ12:2]だけが、信仰を増し加えることがおできになる。私は、あなたの信仰を増上慢になるほどふくれあがらせることはできるが、それを成長させることはできないであろう。信仰を養うのは、最初に信仰にいのちを与えるのと同じく、神の働きである。そして、もしあなたがたの中のだれかが、生き生きと育つ信仰を持ちたいと願っているとしたら、今朝、あなたの重荷を携えて神の御座のもとに行き、こう叫ぶがいい。「主よ。私たちの信仰を増してください!」、と。もし自分の困難が増し加わっているように感じるとしたら、主のもとに行って、「私たちの信仰を増してください!」、と云うがいい。もし自分の貯蓄が増加しつつあるなら、主のもとに行って、「私たちの信仰を増してください」、と云うがいい。というのも、あなたは、より多くの富を持つようになるに従い、より多くの信仰を必要とするようになるからである。もしあなたの財産が減りつつあるなら、主のもとに行って、「私たちの信仰を増してください」、と云い、あなたが片方の秤皿で失ったものを、もう片方の秤皿で得るようにするがいい。あなたは今朝、病弱で、全身が痛んでいるだろうか? あなたの《主人》のもとに行って、「私たちの信仰を増してください」、忍耐を失うことなく、よく耐え忍べるようにしてください、と云うがいい。あなたは倦み疲れているだろうか? 行って、「私たちの信仰を増してください!」、と乞い願うがいい。あなたの信仰は小さいだろうか? それを神のもとに携えて行くがいい。そうすれば神は、それを大きな信仰にしてくださるであろう。繊細な植物を育てるための、ありとあらゆる温室の中でも、幕の内側[ヘブ6:19]――神の臨在が住まう、神の幕屋――ほどのものはない。

 私は、非常に大きな痛みの中で語ってきた。だが、できるものなら私は、しめくくりとして、キリスト者であるあなたにこう尋ねたい。あなたは、自分の状態にとって、この祈りが非常に必要であると思っているだろうか? ひとりひとり自分に問いかけてみるがいい。私はもっと信仰が必要だろうか? 主イエス・キリストにある私の兄弟姉妹たち。心に思い定めるがいい。あなたは、この尊い恵みをいくら有していても決して十分ではない。あなたが天国までの旅費を全額払っていくとしたら、天国の門についた時のあなたは、びた一文余らせてはいないであろう。もしあなたがその間の旅路で信仰を糧としていくとしたら、ひと壺のマナも残ってはいないであろう。ならば、信仰が増し加えられるように祈るがいい。あなたはこの教会が立ち行くことを望んでいるではないだろうか。これは、あなたがたが信仰の人である程度に応じてのみ立つことができるのである。私は、あなたがたが祈りの人となるよう勧めることもできる。それは承知している。だが、信仰こそ土台石であって、祈りはその次に来るのである。信仰を抜きにした祈りなど、中身のないまやかしものであろう。神から何1つかちとれないであろう。あなたは私たちが立つことを望んでいるだろうか? あなたは、この世が私たちのことを何と云っているか知っているだろうか?――パーク街の借家人たちの宗教的熱狂が何と云われていることか。それを保ち続けるには、あなたがたの信仰によるしかない。あなたの教役者の両手を高く支えておくものは、あなたの信仰とあなたの祈りしかないではないだろうか? 信仰をかのアロンとするがいい。祈りをかのフルとするがいい。そうすれば、丘の下で軍隊が敵と戦っている間、信仰と祈りはモーセの両手を高く掲げていられる[出17:10-13]。あなたがたは倒れずにいたいだろうか? ならば信仰において強くならなくてはならない。小さな信仰は倒れるが、強い信仰は立ち続ける。あなたは勝利を得て、そうした者だけが期待できる、星をちりばめた輝かしい冠をかぶって天国で支配したいだろうか? ならば、信仰を増し加えられるがいい。また、あなたがたは神に大いなる誉れをささげ、勇敢に戦い、冠をかちとった後で[IIテモ4:7-8]天国に入りたいだろうか? ならば、私は、「私の信徒たちの信仰を増してください」、と乞い求め、「私の信仰を増してください」、との祈りをささげるであろう。

 しかし、愛する方々。この場にいるあなたがたの中のある人々は、この嘆願を口にすることができず、口にしようとも思っていない。あなたがそうしないとしたら、これが何になるだろうか? あなたに何の信仰もないとしたら、存在してもいないものをいかにして増し加えることができるだろうか? むしろ、あなたが真っ先に必要としているのは、素朴な信仰の胚芽を自分のものとすることである。おゝ! 話を聞いている方々。私が驚きを禁じえないのは、信仰だけが与えることのできる慰めもなしに、あなたがたの中のある人々がいかに生きていけるかということである。あなたがたの中には、極貧の人々がいる。あなたは、信仰もなしに、いかにしてあなたの骨折り仕事や困難をしのいでいるのだろうか? どこにあなたの慰めがあるのだろうか? 私は、あなたが飲んだくれようと、居酒屋で放蕩しようと、この世であなたが他に何の慰めもないとしたら、全く不思議には思わない。私は、この教会の裏路地のいくつかに足を踏み入れ、そこに住む人々の貧しさを見たとき、こう思った。「もしこの人々がキリスト教信仰を有していないとしたら、彼らにどんな慰めがあるのだろうか? 彼らは、何にでも耽溺できる金持ちとは違う。彼らがこの世で生きがいにできるものがあるだろうか?」 私は、こうした人々にも何らかの幸福はあると思う。それがいかなる種類のものかはわからない。それは私にとって絶えざる疑問の種である。そして、あなたがた、富める人たち。信仰もなしにあなたは何をしようというのだろうか? あなたは、やがて自分の財産すべてを後に残して行かなくてはならないことを知っている。確かに、このことは死という考えをあなたにとって恐ろしいものとするであろう。私は、あなたが何か幸福を有しているとしても、それすら理解できない。私にわかっているのは、このことである。

   「我れは捨てまじ、わが身の幸(さち)を。
    世の富 ほまれを いかに受くとも。
    わが信仰の 立ちしかぎりは
    我れはねたまじ、罪の黄金(たから)を」。

しかし、私はあなたに問いたい。信仰がないあなたは、来世でどうしようというのか。覚えておくがいい。あなたは今、未知の未来という広大な深淵の崖っぷちに立っている。あなたの魂は、底知れぬ暗黒の奈落の縁で震えている。あなたの脈が1つ打つたびに、あなたの魂は永遠に近づけられている。信仰は魂に翼を与える。だが翼のないあなたはどうしようというのか? 地上と天国の間は、狭い深淵によって隔てられている。キリスト者はその翼を羽ばたかせ、その翼に運ばれて、天国へと飛んでいくが、翼のないあなたはどうするだろうか? それは跳躍であろう。――破滅への跳躍であろう。そしてあなたは永遠に沈みこみ、決して自由になれない。たといキリスト者が天国への道中で沈むようなことがあっても、さほど深く沈みはしない。自分の翼を羽ばたかせれば、再び浮き上がるからである。しかし、そこにあなたはとどまるであろう。全く底のないその穴の中を永劫に下降していくであろう。――浮かび上がろうともがくが、それはできない。あなたには全然翼がないからである。もう一度云う。おゝ! 不信者よ。信仰のないあなたはどうしようというのか? というのも、信仰は魂に目を与えるからである。信仰は私たちに、見えないものを見る力を与えてくれる。それは、「望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」である[ヘブ11:1]。キリスト者は、死ぬとき、その目を開いて死の国に入っていく。そのことにより、御使いたちの大群が彼の視力に喝采するであろう。だが、あなたは盲目の、目が見えない霊として死ななくてはならない。この現世にあってすら盲人の運命は不幸であるが、かの永遠の盲目さは、いかに無限に嘆くべきであろう。それは、パラダイスの壮麗さを見させず、いかにかすかな喜び、あるいは希望の光をも、永遠に遮断するのである。そして、もう1つだけ云うが、信仰は魂の手である。キリスト者は、死ぬとき、キリストの衣をつかみ、キリストはキリスト者を天国へ連れていってくださる。輝く御使いがひとり降りてくる。――私はその御使いに抱きつき、彼は私をその翼に乗せて、ふわりと至福へと運び登る。しかし、不信者が死ぬとき、御使いは無駄足を踏むであろう。不信者には手がないからである。おゝ、罪人よ。かりにキリストがそこにいても、あなたはその衣に触れることすらできない。あなたには、そうするための手が一本もないからである。来世であなたは、手を持たずにどうしようというのか? あなたは、手もなく目もないような奇形の魂を、神が天国に置くことをお許しになると思うだろうか? 否、そのようなことはありえない。しかし、手のないあなたが、いかにして天国に入れるだろうか? あなたは天国の門を開けないであろう。あなたはどうしようというのか? あなたは、神にあわれみを乞い求めるであろう。だが、たといあわれみがあなたに差し出されたとしても、あなたはそれをつかむための手を持っていないのである。私は、あなたがたの中のある人々が、キリスト教信仰を持たずに、いかにして幸せにしていられるのか理解できない。私は、あなたが信仰もなしに死んだとしたら、どうするつもりなのかわからない。家に帰って、考えてみるがいい。もし自分がキリスト教信仰なしに死んだとしたら、どうなるかを。《永遠者》の御顔の前でも図々しくそれで押し通すつもりなのか、それとも、おとなしくあきらめるつもりなのかを。罪人よ! 信仰なくしてあなたが天国に入ることはできない。だが、あなたはどう心を決めただろうか? あなたは天国の門を引きちぎろうというのだろうか? あなたは、智天使の騎兵大隊や、御使いたちの軍団を蹴散らして押し通り、力ずくで入れるほど、自分が全能だと考えているのだろうか? さもなければ、あなたは何をしようともくろんでいるのか? あなたは、おとなしく硫黄の寝床に横たわるつもりなのだろうか? 自ら進んで、あの底なしの硫黄の池で永劫に翻弄され、そこで永遠に塩からい涙を流そうというつもりなのだろうか? あなたは自分の寝床を地獄に設けたいというのだろうか? 方々。あなたは、そのような永遠の運命に満足だというほど愚鈍なのだろうか? あなたの理性はきれいに失せ果ててしまったのだろうか? あなたの分別は、このように自らを打ち棄ててかまわないほど暗愚なのだろうか? 確かにあなたがたは何かをしようと決意したに違いない。ならば、何をあなたがたはしようというのだろう? あなたは、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」[ヘブ11:6]と書かれているというのに、信仰なしで天国に入れるなどと夢見ているのだろうか? また、神が、「信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]と云っておられるというのに、その定めをくつがえせるとでも思っているのだろうか? あなたはエホバの御座に上って、エホバご自身を否認しようというのだろうか? エホバの命令を変更し、不信者を天国に認め入れようというのだろうか? 否。あなたにそのようなことはできない! ならば、震えるがいい。不信者よ。震えるがいい。というのも、そこであなたはただ、「さばきと……激しい火とを、恐れながら待つよりほかはない」[ヘブ10:27]からである。ヨルダンの川がいっぱいに溢れるとき、あなたがたは何をしようというのだろうか? 信仰なしに、あなたの頭を水面から上げておくことはできない。願わくは神が、まるで信仰を持っていない人々にそれを授けてくださるように。そして、それ以外の人々については、彼らの信仰を増してくださるように!

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増し加えられた信仰の必要[了]

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