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霊的暗黒にある魂の願い

NO. 31

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1855年6月24日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューパーク街会堂


「私のたましいは、夜あなたを慕います」。――イザ26:9


 夜は、ことのほか静思の時に都合のよい時間に思える。その厳粛な静けさに助けられて、精神は、世の心遣いが常時持ち込んでくる喧噪から解き放たれる。また、天から私たちを見下ろしている星々の輝きは、あたかも私たちを神に引き寄せたいというかのようである。私は、あなたが真夜中の荘厳さからいかなる影響を受けるかはわからない。だが私は、ひとり座って大いなる神と、広大な宇宙に思いをひそめるとき、本当に神を礼拝できるように感じてきた。というのも、夜は、まさに崇敬のための神殿として広がっているように思われ、月は大祭司のように、礼拝者たる星々の間を歩き、私自身、彼らが神に向かって歌うこの沈黙の歌に唱和していたからである。「神よ。あなたは大いなる方。あなたのみわざによって大いなる方。あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」*[詩8:3-4]。私が見るに、この真夜中の力を感じとっているのは、キリスト教信仰を有する人々に限らない。ある詩人は、ことによると人格的にはいかに非難しても到底足りないかもしれず、真のキリスト教信仰を理解することからは、はるかに遠く離れている。その人のことは、不信心者で、最悪の種類の自由思想家であると呼んで差し支えないであろう。だがしかし、この人物は、その詩の1つで、夜についてこう云っているのである。――

   「褐色の 山々の上(え)に 真夜中ありて、
    冴え冴えと 円月(つき)は輝き 下界に照りぬ。
    蒼き大波 流れ去り、 蒼き天空
    広がれり、高きにかかる 海洋(わたつみ)のごと。
    きらきらと 海面(みなも)を飾る 光る島々
    いとも激しく 妙(たえ)にも明(あか)し。
    その輝きて かこつことなく 地に向くを
    凝視(みつめ)る者は たえて願わず、
    地より飛び立ち 永久(とわ)の光箭(ひかり)に
    入り混じりうる 両のつばさを」。

たといいかに無宗教な人物であっても、たといいかに霊的思いからかけ離れた人間であっても、夜の荘厳さと静けさの中には、何かしら人を神に引き上げる力があると思われる。私たちの中の多くの人々は、ダビデのようにこう云えると思う。「私は絶えず、あなたを尊び、夜ふけて私はあなたの御名を思います。私は切に、夜あなたを慕います」[詩63:6参照]。しかし私は、こうした思想を全く取り上げないでおこう。自然界の夜については、詩的な思想と表現を考察すべき余地が大いにあるかもしれないが、口にはしないでおこう。私は二種類の人々に向かって語りかけ、この聖句の意味であると私が考えるところを努めて示そうと思う。願わくは神が、それをあなたがた双方にとって有益なものとしてくださるように。第一に、私はすでに信仰を得たキリスト者たちに語りかけよう。そして、この聖句から、そうした人々の場合に即した所見をいくつか述べよう。第二に、私は、新たに覚醒させられた魂に語りかけ、そうした人々の中に、こう云える人がだれかいないか探ってみよう。「私のたましいは、夜あなたを慕います」、と。

 I. 私はこの聖句を、すでにはっきり信仰を得た信仰者に対して提示したいと思う。さて、ここから最初に引き出したい第一の事実は、――その人が一も二もなく認めるに違いない真理であるが――、《キリスト者は、明るく輝く日差しを常に受けているわけではない》、ということである。キリスト者には、暗黒と夜の時期がある。確かに、神のことばにはこう書かれている。「その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である」[箴3:17]。また、信仰が――生ける神を信ずる真のキリスト教信仰が――天上にいる人間に至福を与えるのと同じように、下界にいる人間にも幸福を与えるものであることは、大きな真実ではある。しかし、それにもかかわらず、経験が私たちに告げるところ、たとい義人の道が「あけぼのの光のようで、いよいよ輝きを増して真昼となる」*[箴4:18]ものだとしても、時として、その光は暗くなることがある。時期によっては、雲と暗闇が太陽を覆い隠し、輝く日差しが全く見えなくなり、暗黒の中を歩み、何の光も見えなくなることがある。さて、多くの人々は、しばらくの間は神の臨在を楽しんだことがある。そうした人々は、そのキリスト者生涯の初期の段階において、神が与えてくださった陽光に浴してきた。「緑の牧場」に沿って、「いこいの水」のほとりを歩んできた[詩23:2]。ところが突如として――ほんの一月か二月もしないうちに――その人々は、この輝かしい空が曇ってくることに気づく。「緑の牧場」の代わりに、砂だらけの砂漠を踏みしめなくてはならない。「いこいの水」があった所に見いだすのは、味はまずく、霊にとっては苦々しい流れであって、そうした人々は云う。「確かに、もし私が神の子どもだとしたら、このようなことは起こらないに違いない」、と。おゝ! 暗黒の中を歩んでいる人よ。そのように云ってはならない。いかにすぐれた神のしもべたちにも、その夜はあった。神の最愛の子どもたちも、うんざりするような荒野を歩き通さなくてはならなかった。不断の幸福を享受してきたキリスト者などひとりもいない。常に喜びの歌を歌える信仰者などひとりもいない。四六時中喜び歌っている雲雀など一羽もいない。常に見えている星など1つもない。そして、常に幸福なキリスト者などひとりもいない。ことによると、《聖徒たちの王》があなたに、最初、非常な喜びの時期をお与えになったのは、あなたが新兵であって、徴募されたばかりのあなたを激戦区に配備することをお望みにならなかったからかもしれない。あなたは柔らかな若木であって、主はあなたが、過酷な気候にも立っていられるようになるまで、温室の中で大切に育てられたのである。あなたは幼い子どもであった。それゆえ、主はあなたを毛皮でくるみ、この上もなく柔らかな外套で包まれたのである。しかし、今やあなたが強くなった以上、事情は異なっている。要衝カプアで休暇にふけるのは、ローマの兵士にふさわしくない。また、それはキリスト者にもそぐわないであろう。私たちは黒雲や暗黒があればこそ、自分の信仰を発揮でき、自分を頼む思いを放棄でき、より大きな信頼をキリストに置くようになり、証拠や、経験や、心持ちや感情には、あまり信頼を置かないようになれるのである。いかにすぐれた神の子どもたちにも――いま霊の抑鬱を感じている人のために、私はもう一度云う。――その夜があるものである。時として、それは教会全体が同時に覆われる夜である。そして、残念ながら、私たちは今そうした夜を大いに有しているのではないかと思う。シオンは雲の下になる時がある。美しい黄金が曇り、シオンの栄光が去る時がある[哀4:1; Iサム4:21]。私たちには、みことばの明瞭な説教が聞かれなくなる時期がある。種々の教理が差し押さえられ、ヤコブの神、主の栄光が曇り、その御名が高められず、聖霊の霊感の代わりに人間の言い伝えが教えられる時期がある。そして、そうした時期こそ、教会全体が暗くなるときである。もちろん、キリスト者ひとりひとりがそれにあずかる。人は歩き回って、泣いては、こう云う。「おゝ、神よ。あわれなシオンは、いつまで押さえつけられているのでしょうか? いつまでその牧者たちは、『ほえることもできない、おしの犬』*[イザ56:10]なのでしょうか? その見張り人たちは、ずっと盲目のままなのでしょうか? 銀の喇叭はもはや吹き鳴らされないのでしょうか? 福音の声は、もはやその通りでは聞かれないのでしょうか?」 おゝ! 時には暗黒が全教会に及ぶ時期がある! 願わくは、私たちが二度とそうした暗黒をくぐり抜けずにすむように! むしろ、今の時期から始まって、決して沈むことのない太陽が昇り、栄光の海のように、燦然たる光が世界中に広まるように!

 別の時期において、キリスト者の魂を覆うこの暗黒は、現世的な悩みから生ずる。その人は、いわゆる不運な目に遭ったのかもしれない。――その人の商売で何かうまく行かないことがあったか、敵がその人に何かを仕掛けた。死が愛児を打ち倒してしまった。――死別によって、最愛の者が突然奪われてしまった。農作物が枯れてしまった。逆風によって、その人の持ち船が帰航できなくなる。一隻の船は座礁し、別の船は沈没し、何もかもうまく行かない。今週、私のもとを訪ねてきた紳士のように、その人はこう云うことができる。「先生。私は、世俗的な人間だった頃の方が、キリスト者になってからよりも、はるかにずっと順風満帆でしたよ。なぜって、それからというもの、私がやることなすこと、ことごとく失敗続きのように見えるんですからね。私の考えでは、キリスト教信仰には、来世のための約束と同じくらい、現世のための約束もあったと思うのですが」。私はその人に云った。しかり。その通り。そして、結局最後にはそうなるであろう、と。しかし、その人が思い出さなくてはならなかったのは、キリストはご自分の民に1つの大きな遺産を残された、ということである。そして私は、その人がその遺産の分与にあずかるようになったことを喜んだ。――「あなたがたは、世にあっては患難があります。わたしにあっては平安を持ちます」*[ヨハ16:33]。しかり! あなたはこの件で悩むであろう。こう云うであろう。「だれそれを見るがいい。いかに彼が、おい茂る野性の木のようにはびこっているか見るがいい[詩37:35]。彼は、しいたげる者であり、悪人であるのに、やることなすことうまく行く」。あなたは彼の死にすら注目して、彼の死には苦痛がない、と云うであろう。「人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない」[詩73:4-5]。あゝ! 愛する方々。あなたは今朝、神の聖所に入ってきた。そして今、彼らの最後を悟るであろう。神は彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされる[詩73:17-18]。キリスト者の悲しみの日々を持つ方が、この世の子らの快楽の日々を持つよりもましである。キリスト者の悲しみを有する方が、この世の子らの喜びを有するよりもましである。あゝ! パウロとともに地下牢に鎖で縛り付けられた方が、アハブとともに宮殿の中で支配するよりも幸いである。貧困の中で神の子どもである方が、富貴の中でサタンの子どもであるよりもましである。ならば、意気消沈した霊よ。もしこれがあなたの試練であるとしたら、元気を出すがいい。多くの聖徒たちが同じ道を通って行ったことを思い出すがいい。そして、いかにすぐれた、いかに卓越した信仰者たちにも、その夜があったのである。

 「しかし、おゝ!」、と別の人は云う。「先生。あなたは私の夜のことは云い表わしていません。私は商売ではさほど不都合はありません。たとい不都合があったとしても、気に病みません。――ですが、私には自分の霊の中に夜があるのです」。「おゝ、先生」、と別の人は云う。「私には、自分が今キリスト者だという証拠が1つもありません。私は神の子どもでした。それはわかります。ですが、今の私は全然神のものではない、と告げるものがあるのです。以前には私も、敬虔や神について幾分かはわかっていると自分にへつらった時期がありました。ですが今の私は、自分がこのことについて何の関係もないし、それにあずかることもできない[使8:21]のではないかと疑っています。私は尽きることのない炎の中に住むだろうとサタンがほのめかしているのです。私には何の希望もないように思えます。残念ですが私は、自分が偽善者ではないかと思います。私は、自分が教会をも自分自身をも欺いていたと思います。恐れながら私は全然神のものではないと思います。神の聖書をめくっても、そこには何の約束もありません。自分の内側を見つめても、真っ黒な腐敗が目の前に広がっています。そして、他の人々が私を褒めている間、私は、ありとあらゆる罪と腐敗について自分を非難しています。私は、自分がこの半分ほども悪人だとは考えてもいませんでした。残念ですが、私の心の中で恵みのみわざがなされていたはずなどないと思います。さもなければ、私がこれほど多くの腐った想像や、汚らわしい願望や、神に関するかたくなな考えを有しているはずがありません。これほど多くの高慢、これほど多くの利己心とわがままさを有しているはずがありません。残念ですが、私は絶対に神のものではありません」。さて、これこそ――あなたがこのように云えるということこそ――まさに、あなたが神のものであるという理由である。というのも、神の民は夜をくぐり抜けるものだからである。彼らには、その悲しみの夜がある。私は人がこのように語るのを聞くのを嬉しく思う。むろん、いつもそうしていてほしくはない。その人は、時には、「キリストがその人を解放して得させてくださった自由」*[ガラ5:1]に入るべきである。しかし、私は、しばしば奴隷のいましめが霊をとらえることを知っている。しかし、あなたは云う。「確かに、だれもこれほどの苦しみは受けていないに違いありません」。私は告白するが、私もそうした苦しみを絶えず受けており、非常にしばしば、自分がイエス・キリストにあって選ばれていることも、子とされていることも、証明できないようなときがあるのである。とはいえ、ほとんどの場合、私はこう叫ぶことができはする。――

   「あわれみにのみ 負い目ある身は
    契約(ちかい)のあわれみ ただ歌いなん」。

それでも、別の時期の私は確かに、イェスの囲いの最も卑しい小羊でさえ、私よりは一万倍も進歩しているものとみなすし、自分が天の御国の最も粗末な長椅子に腰かけることができさえしたなら、と思い、私がそこに入ったとわかりさえしたら、と思う。私は自分の全財産を交換することになっても、かつて世に存在したキリスト者のうちで、自分がイエスの救いにあずかっていることがわからなくなったことがないだの、それを疑ったことがないだのいう者がひとりでもいるとは信じない。思うに、だれかが、「私は決して疑いません」、と云うとき、それはまさに私たちがその人を疑ってしかるべき時、私たちがこう云い始めてしかるべき時である。「あゝ、あわれな魂よ。残念ながら、あなたはまだ道に足を踏み入れてないのではないかと思う。というのも、もしあなたがそうしているとしたら、あなたは自分のうちに、きわめて多くのものを見てとり、キリストのうちに、あなたに値する以上のきわめて多くの栄光を見てとるため、自分を恥じるあまりこう云うだろうからである。『これが本当だなんて、話がうますぎる』、と」。

 2. さて、経験によって完全に認められる第一の部分は、キリスト者である人々には、非常にしばしばその夜がある、ということである。しかし、ここには第二の部分があり、それは、キリスト者たる人の信仰は、夜の間も、その旗幟を鮮明にする、ということである。「私のたましいは、夜あなたを慕います」。世の中には、何とおびただしい数の銀の上履きめいた信仰があることか。人々は、だれもが「ホサナ! ホサナ!」と叫んでいるときはキリストに従う。そのときには大群衆が主の回りに群がり、日当たりも風向きも良いときには、主を王とするために、むりやりに連れて行こうとする[ヨハ6:15]。彼らは、岩地の上の植物のようで、すぐさま芽生えると、多少の間は青々としているが、太陽が昇って焼きつくように暑くなると、たちまち枯れてしまう。デマスや、現世執着者や、他の非常の多くの人々は、安閑とした時代には、ことのほか敬虔な人々である。彼らは陽光のもとでは常にキリストとともに歩み、世の流行がキリスト教信仰にその寵遇という疑わしげな恩恵を与えている間は行をともにする。しかし彼らは、夜には主とともに歩まない。ある種の物品は、日光のもとでしかその色を見ることができない。――そして、多くの信仰告白者たちは、その旗幟を日光のもとでしか見ることができない。彼らが困難や迫害の夜の中にあるとき、あなたは彼らのごく僅かな者しか見いださないであろう。彼らは日光のもとでは良いが、夜には悪い。しかし、愛する方々。あなたは、キリスト者を試す最良の試験が夜であることを知らないだろうか? 夜啼鳥が、どんな鵞鳥もクワックワッと鳴いている日中に鳴くとしたら、鷦鷯(みそさざい)以上の音楽家とみなされはしないであろう。キリスト者が、どんな臆病者も大胆にしている日光のもとでしか堅固にしていられないとしたら、どうなるだろうか? その人の勇気には何の美しさもなく、その人の勇敢さには何の栄光もないであろう。しかし、その人が夜に歌えるからこそ――ほとんど絶望にかられるほどのときにも歌えるからこそ――、このことはその人の真摯さを証明するのである。それは夜にその栄光を有する。星々は日光のもとでは見えないが、日が沈んだときに現われるようになる。あまたのキリスト者たちの場合、その敬虔さは、順境にあるときには大して燃え立たない。だが、逆境にあるときには、それと知られるのである。私はそれを、現在ここにいる兄弟たちの何人かにおいて目にしてきた。それは、彼らがさほど遠からぬ昔に、深い試練に陥った場合のことである。それ以前には、私は彼らがキリストについて大いに語ることなど聞いたことがなかったのに、神の御手が彼らから彼らの慰めを奪い去ったとき、彼らのキリスト教信仰はそれ以前よりも無限にはっきり際立ったものになったのを私は思い出す。私たちのキリスト教信仰を発揮させるものとして、これにまさるものはない。金剛石を少し研磨すれば、それが煌めくのが見えるであろう。キリスト者に困難を負わせさえすれば、それを耐え忍ぶことによって、その人はイスラエルの真の子孫であることが証明されるであろう。

 3. ここで、すでに信仰を得たキリスト者について第三に言及されるのは、キリスト者が夜に望むのは、自分の神しかない、ということである。「私のたましいは、夜あなたを慕います」。昼間には、キリスト者が自分の主のほかに願い求めるものはたくさんある。だが、夜にその人が求めるのは自分の神のほかにない。私たちの霊の腐敗によるものと説明するしか理解できないことだが、私たちは、何もかもうまく行っているときには、自分の愛情をあの物に、――それから別の物に注いでいる。そして、そうした願いは、死のように飽くことを知らず、よみのように深くて、決して満足しておさまることがない[ハバ2:5参照]。私たちは常に何かを欲し、常にまだ先にあるものを願い求めている。しかし、ひとたびキリスト者が困難に陥るや、あなたは見いだすであろう。彼は、今や黄金を欲さない。――今や肉的な誉れを欲さない。――今や自分の神を欲する。キリスト者とは船乗りのようだと思う。順風に乗って航海するときには、上天気を喜び、甲板の上で自分を楽しませてくれるあれこれのものを欲する。しかし、突風が吹きつけるとき、彼が欲する唯一のものは安全な停泊所である。彼はそれ以外に何も願わない。乾パンはかび臭いかもしれないが、気にも留めない。水はまずいかもしれないが、気にも留めない。嵐の中でそのようなことを考えはしない。そのとき彼が考える唯一のことは停泊所である。これと全く同じことがキリスト者についても云える。キリスト者は、何もかも順調なときには、あれこれの慰めを欲する。この地位を憧れ求めたり、あれこれの昇進を欲したりする。しかし、ひとたびその人がキリストに自分があずかっているかどうか疑うと、――ひとたび何らかの魂の苦悩や困難に陥って、非常な暗闇に包まれると、――その人は、このようにしか感じなくなる。「私のたましいは、夜あなたを慕います」。子どもを二階の寝室で寝かせると、あかりが点いている間はおとなしく横たわって、窓の前の木々が震えているのを眺め、星々が瞬き出すのを一心に見つめたりする。だが、部屋が暗くなっても、まだ眠らないでいると、その子は泣いて親を呼び求める。それ以外の何で面白がらせることもできない。それと同じく、日光のもとではキリスト者は何でも見つめるであろう。その人は目をあちこちへやっては、この快楽やあの快楽を眺める! だが、暗黒が深まっていくとき、それはこうなるであろう。「わが神! わが神! どうして、私をお見捨てになったのですか?」 「遠く離れて私をお救いにならないのですか? 私のうめきのことばにも」[詩22:1]。そのとき、こうなるのである。

   「キリストなくば、われは死ぬのみ。
    余のもの決して 満ち足らわせじ」。

 4. しかし、すでに信仰を得た聖徒たちへの語りかけを終える前に、もう1つだけ言及したい。いかなる聖徒にも、願うほか何もできないときがある。私たちには、敬虔さを示すおびただしい数の証拠がある。ある証拠は実際的で、ある証拠は経験的、ある証拠は教理的である。そして、もちろん、人が自分の敬虔さについて有する証拠は多ければ多いほど良い。私たちは、数多くの署名によって捺印証書が、可能ならば、より有効なものとなるのを好む。財産を多数の受託者に投資するのを好む。そうすることで、より安全になるからである。それと同じく、私たちは多くの証拠を有するのを好む。法廷に立つ証人は少ないよりも多い方が、私たちを勝訴させるであろう。そのように、私たちの敬虔さを証言する証人は多いにこしたことはない。しかし、時としてキリスト者にはいかなる証人もいなくなる時期がある。その人は、自分の敬虔さを立証する証人を、ほとんどひとりも出すことができない。良い行ないに向かって、ここに来て、自分のために語ってくれと頼む。しかし、その人の回りにひどい暗黒の雲があるのと、その人の良い行ないがどす黒く見えるために、その人はそうした行ないによる証拠など考える気にはならない。その人は云うであろう。「確かに、私はこれが正しい実であればと思います。私は自分が神に仕えてきたのであればよいと思います。ですが、私はこうした行ないを証拠として云い立てる気にはどうしてもなれません」。その人は、確信を失ってしまい、それとともに神との交わりを喜ぶ心も失ってしまう。ことによると、その人は、「私は神との交わりを得ていたこともあった」、と云うであろう。そして、その交わりを呼び出して、証拠にしようとするであろう。しかし、その人はそれを忘れており、それは出てこない。そしてサタンはそれは空想だったのだと囁き、この交わりというあわれな証拠はその口にさるぐつわを噛まされ、何も喋ることができない。しかし、ごくまれにしかさるぐつわを噛まされることのない証人がひとりいる。そして、それこそ私が思うに、夜でも神の民が常に助けを求めることのできる証人である。すなわち、「私のたましいは、夜あなたを慕います。あなたを慕います」、ということである。「そうです。主よ。たとい私があなたを信じていなかったとしても、私は夜あなたを慕ってきました。そして、たとい私があなたに仕えるために、大いに喜んで財を費やすことも、私自身を使い尽くすこともなかったとしても、それでも私は、1つのことだけは知っていますし、悪魔も私をそれから叩き出すことはできません。私はあなたを慕っています、それを私は知っています。――そして、私は夜もあなたを慕っています。だれも私を見ることがなく、数々の困難が私を取り巻いている夜にも」。

 さて、愛する方々。私は今朝この場にいるあなたがたの中の多くの人々が信仰において強くあってほしいと思う。ことによると、あなたは、私がここまで語ったことを必要としていないかもしれない。だが私は、この気付け薬を受け取るようあなたに忠告しよう。そして、たといあなたが今はそれを飲みたくないと思うにせよ、それを小さな薬瓶に入れて、飲みたくなる時まで持ち歩くがいい。あなたがいつ気を失うことになるか、だれにもわからない。そして、大勇氏が基督女に葡萄酒の瓶を渡し、彼女が疲れたときには飲めるよう持ち歩かせたのと同じように、あなたもこれを受け取るがいい。また、自分と同じくらい強くないからといって、あわれで惨めな信仰者を笑い飛ばしてはならない。いつの日か、あなた自身もこれを必要とすることになるであろう。私はあなたに云うが、時としてキリスト者は、天国に入れさえするなら、鼠の穴にすら喜んでもぐり込もうという気分になるときがある。自分の恐れから逃れるためなら、すべてを捨ててでも、喜んで小さな割れ目に入りたくなることがある。いかにつまらない証拠でも、黄金より尊く思われることがある。陽光の最もかすかな陽射しでさえ、ペルーのあらゆる富にまさる価値があるときがある。そして、これっぽっちの慰めも、他のときであればその天国全体であったものよりも、ずっと甘やかであることがある。あなたも同じ状態に陥るかもしれない。だから、この箇所を携え、常に備えをしておくがいい。――御座でこう云い立てることができるように備えておくがいい。「私のたましいは、夜あなたを慕います」。

 II. 私の説教の第二の部分を占めることになるのは、《新たに覚醒した魂》に対する語りかけである。そして、すでに信仰を得たキリスト者に対して4つの言及をしたように、ここでは新たに覚醒した人々に対して、その3つの質問に答えてみようと思う。

 そうした人々が私に発する最初の質問は、こうであろう。私の願いが私の魂における恵みのみわざの証拠であることは、いかにすればわかるのでしょうか? あなたがたの中のある人々は云うであろう。私はこの聖句の云う限りのところまでは行ける。――私は神を慕っている。私は、自分が救われたいと願っているのがわかる。私はイエスの血の恩恵にあずかりたいと願っている。だが、それが神から送られた願いであることは、いかにすればわかるのか、またいかにすれば、それが回心に終わるものかどうかがわかるのか? では、聞くがいい。私はいくつかの試験を提示しよう。

 1. 第一に、あなたは自分の願いが神からのものかどうかを、それが不断のものであることによって知ることができる。多くの人は、心をかき立てるような説教を聞くと、救われたいという非常に強い願望をいだく。だが、帰宅すると、それを忘れてしまう。その人は、鏡で自分の顔を見た人のようで、立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまう[ヤコ1:23-24]。その人はもう一度やって来る。再び矢が《王》の敵の心臓にぶすぶすと突き刺さる。だがその人は、帰宅するやその矢を引き抜き、その誠実は朝もやのようで、朝早く消え去る露のようになる[ホセ6:4]。あなたもそうであっただろうか? あなたも、そのような願いをいだいたことがあるだろうか? 明日の商売が、その願いを取り去ってしまうだろうか? あなたは、今日はキリストを欲していても、明日にはキリストを軽蔑するのだろうか? ならば、残念ながらあなたの願いは神から出たものではないと思う。それは単に、生まれながらの良心が覚醒されていだいた願い、ただの天性の動揺でしかなく、天性の及ぶ所までは進むが、それ以上には達さない。しかし、もしあなたの願いが不断のものだとしたら、元気を出すがいい。そうした願いはどれだけ長く続いているだろうか? あなたは、この一箇月の間、あるいはこの三箇月、あるいは四箇月の間、キリストを慕ってきただろうか? あなたは祈りにおいてキリストを長いこと求めてきただろうか? そして、あなたは自分が、日曜日と同じく月曜日にも、キリストを慕い求めていることがわかっているだろうか? あなたは商売の合間合間に許される限りにおいて、店でもキリストを慕っているだろうか? 夜にもキリストを求めているだろうか?――厳粛な孤独の中で、いかなる教役者の声もあなたの耳を打たず、いかなる真理もあなたの良心を襲うことがないときにも求めているだろうか? それは、結核患者の消耗性紅潮があなたの頬に現われただけでしかないのだろうか? それは健康の目印ではない。それとも、それは、健全な魂の目印たる、真の願いの本物の熱情なのだろうか? あなたは絶えず神を慕っているだろうか? 確かに、私たちのより真摯な願いにも浮き沈みがあることは私も認める。だが、ある程度まで不断に続くことは、それが掛け値なしに天来のみわざの証拠であるためには不可欠なのである。

 2. さらに、そうした願いが正しいものか間違ったものかは、その効力によって見分けられる。ある人々は非常に熱心に天国を慕い求めるが、酒に酔うのをやめたいと願うことはない。救われたいと願いはするが、日曜日の朝に自分の店を閉じてもかまわないというほど、あるいは、自分の舌にくつわをかけて、隣近所の人の悪口を云わなくてもかまわないというほど、救いを慕ってはいない。彼らは救いを慕っている。だが、時々は平日にも福音を聞きにやって来てかまわないというほど慕ってはいない。あなたは、自分の願いの真実さを、その効力によって知ることができる。もしあなたの願いが、あなたを真に「悔い改めにふさわしい行ない」[使26:20]に至らせるとしたら、それは神から出たものである。承知の通り、あれをしたいこれをしたいと願うだけで、実行されなければ何にもならない。「あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのです」。「努力して狭い門からはいりなさい」[ルカ13:24]。はいりたいと思うだけでは、どうにもならない。そこには努力がなくてはならない。私たちの預言者はここでこう教えてくれている。すなわち、彼は神を夜慕っているが、その願いは非常に効力のあるものであった。というのも、8節で彼はこう宣言しているからである。「主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み……ます」。この願いが、私にあなたのさばきを待ち望ませています、と。何と多くの人々から私は、私は神を待ち望んでいます、自分の願いはただそれだけです、と聞かされることか。私はそのベテスダの池のところに横たわっています。いつの日か、御使いがやって来て、池をかき回してくれるでしょう[ヨハ5:4]。だが待て! いかにしてあなたは、自分で自分を欺いていないとわかるのか? ある友人が、私がお茶にやって来るのを待っているとする。私はその部屋に入るであろう。そこには、薬缶が全然火にかかっておらず、私が食べるものは何もない。「先生。お待ちしておりました」。しかし、その家の中には、何1つ準備されたものがない! 私はそんな人々を信じない。彼らが私を待っていたとしたら、その準備をしていたはずである。そして、神を待ち望むことは常に、準備をしておくことを含んでいる。ある人は云う。「私は神を待ち望んでいます」。しかし、その人は神のための備えを全くしていない。今でも飲んだくれ続けており、家は散らかり放題である。これまでと変わらず世俗的である。その人は待っている。しかり。だが待つことには、準備しておくことが含まれる。そして、準備していない者は決して待ってはいないのである。あなたが乗合馬車を待っているとしたら、必ず自分の外套と帽子を手の届くところに置いておき、いつ来るかと玄関に目を注いでいるはずである。そして、あなたが神を待ち望んでいるとしたら、必ずやあやたは神とともに行く準備をしているはずである。だれも、私は神を待っている、などと云うべきではない。しかり、愛する方々。普通は神こそ私たちを待っておられるお方であって、私たちのうちのだれかが神を待っているのではない。むろん、いかなる罪人も、前もって神とともにあることはできない。しかし、預言者は、「神のさばきの道で」神を待ち望んでいた。すなわち、正しい場所で待ち望んでいた。――神の家で待ち望んでいた。――福音の響きの聞こえるところで待ち望んでいた。そして、そのとき、この願いに導かれて彼は求めることとなったのである。「私の内なる霊はあなたを切に求めます」[イザ26:9]。これが、彼を導いて神を求めさせたのである。おゝ! あなたがたの中のある人々のあわれな、浅ましい願いは、ほとんど何の役にも立たない。古のある著者がこう云っている。「地獄は幾多の良い意図によって舗装されている」、と。私は、そこに舗装などあるかどうかわからないと思う。――地獄に底はないからである。だが、それと同時に私の信ずるところ、その穴の両脇には、幾多の良い意図が丸くつるされているはずである。そして人々は、右へ左へ寄るたびに、自分たちがかつて思いついたが、決して実行に移さなかった幾多の良い意図で、突き刺される苦痛を味わうであろう。――誕生とともに絞め殺された子どもたち――決して生きた行為に至らされなかった願望――雨後の竹の子のように生え出ては、茸並みに一掃されてしまった願い――煙突から出る煙のように、暖炉の火が消えるとともに途絶えてしまった願望。おゝ! 兄弟たち。もしこうしたものがあなたの願いだとするなら、それは中身のあるものでも、神から出たものでもない。しかし、もしあなたの願いがあなたにあなたの泥酔をやめさせ、――あなたが劇場に行くことを非難せざるをえなくさせ、――あなたをしいて全心全霊をあげて神を求めさせ、――次から次へと情欲をやめるようにあなたを仕向けてきたとしたら、――元気を出すがいい。あなたの願いが実質のあるものであるならば、あなたは正しい道にあるのである。

 3. さらに、こうした願いは、その切迫した様子によって見きわめることができる。あゝ! あなたがたの中のある人々は救われたいと欲しているが、それは来週の日曜でなくてはならない。しかし、聖霊がお語りになるときには、こう仰るのである。「きょう、もし御声を聞くならば……心をかたくなにしてはならない」[ヘブ3:15]。今でなければ次はない。「きょう、私に恵みを与えてください。きょう、あわれみを与えてください。きょう、赦しを与えてください」。あなたがたの中のある人々は、死ぬ前には――自分の上で穴が口を閉じる前には――救われたいと希望している。イエス・キリストが後何年かしたらあなたを見下ろしてくださるのを希望している。あなたは、それが何年先のことかはっきり決めてはいないと思う。だが、それは常に、はるかにおぼろな将来のことである。しかし、真の願いはである。首に縄を巻きつけて絞首台の上に立っているあわれな男は、「一年以内に赦しを与えてください」、などと云うだろうか? 否。彼は自分が一分後には永遠に乗り出していることになるのを恐れている。自分に迫る危険を感ずる人は、「いま!」、と叫ぶであろう。霊的に覚醒した人は大声で叫ぶであろう。「今すぐに!」、と。何と! 罪人よ。救いを延期しても差し支えないのだろうか? あなたの心は、救いなど徐々にで良いとあなたに語っているのだろうか? 何と! 火があなたの小さな部屋の壁板越しにまさに吹き出そうとしているというのに? 何と! あなたの船が岩礁に打ちつけて、水があふれこみつつあるというのに? しかり。その船には水があふれこみつつあり、もう一方の端からは火が押し迫りつつある。そして、火も水も、あなたを滅ぼそうとしているのである。あなたは、「明日」、と云おうというのだろうか? 何と、あなたは明日の太陽が昇る前に死んでいるかもしれない。明日! それはどこにあるのか? 悪魔の暦の中にである。それは地上のいかなる書にも書かれてはいない。明日! それは、遥か遠方の海にある空想上の小島であって、船乗りたちが到達したことのないものである。明日! それは馬鹿者の願いである。決して得られないものである。鬼火のように人の目の前で踊っているが、人を苦悩の沼沢にしか至らせない。明日! そのようなものは存在していない。それは神のものである。そのような日があるとしても、私たちのものであるはずがない。ティロットソンの言葉は至言である。――「年中、生き方を改めようと考えていながら、決してそれに着手するための時間を見つけようとしないというのは、あたかも人が、飲み食いや睡眠を一日ごとに先延ばしにしたあげく、飢えて死んでいくのと同様である」。

 しかし、あなたは云う。「もし私が神を慕っているとしたら、なぜ私の願いは今より前にかなえられなかったのですか? なぜ神は私の求めにお答えにならなかったのですか?」

 第一のこととして、あなたが、そのような質問をする権利は全くない。というのも、神はみこころのままに、あなたの嘆願をかなえたり、かなえなかったりなさる権利をお持ちだからである。そして、人間が神に向かって、「あなたは何をされるのか」[ダニ4:35]、などと云ってよいはずがない。神は主権者であり、ご自分の望む通りのことを行なう権限がおありである。しかし、あなたが恐れによってそうした質問を口走った以上、私にも恐れつつ、あえてそれに答えさせてほしい。ことによると、神があなたの願いをかなえられなかったのは、それをあなた自身の益となさるおつもりだったからである。神は、あなたの心の絶望的な邪悪さを、あなたにより一層示して、後になってから、あなたが自分の心に頼るのを恐れさせようとされたのである。神は、罪の暗黒と恐ろしい穴の暗闇をあなたにもっと見せて、火傷を負った子どもが一生、火を遠ざけるようにさせたいと望まれたのである。神は、地下牢の中にあなたが降りていくのを許して、自由がやって来たときにあなたが一層それを尊ぶようになさったのである。そして、神がさらにあなたを待たせ続けておられるのは、あなたの切なる望みが奮い起こされるためである。神は、遅れによって願いが煽られることをご存じであり、もし神があなたを待たせ続けているとしたら、それはあなたにとって損失にはならず、大いにあなたの得となるであろう。なぜなら、あなたは自分の必要をより明確に見てとり、神をより熱心に求め、より痛切に叫ぶようになり、あなたの心はより熱心に神を求めるだろうからである。それに加えて、あわれな魂よ。神があなたを待たせ続けておられるのは、ことによると、神の恵みの富を、最終的に、より完全にあなたにお示しになるためかもしれない。私の信ずるところ、神によって長い間待たされた後で神を見いだした、ある人々は、ことによると、即座に神を受け入れた場合よりも一層神を愛し、神の御恵みと深いあわれみを一層多く語れるのかもしれない。ジョン・バニヤンは、悪魔によって長年引きずり回されていなかったとしたら、あのような書物[『天路歴程』]を書くことはできなかったであろう。あゝ! 私は懐かしい基督者の姿を愛している。私は、最初にあの本を読んで、基督者が背中に重荷をかついでいる古い木版の挿絵を見たとき、この可哀想な男に感情移入したあまり、このあわれな者がその重荷をかくも長い間背負って行った後で、ついにそれを取り除いたときには、私も喜びで飛び上がりたい気がしたほどである。あゝ! 愛する方々。ならば神は、あなたや私にも、長いこと重荷を負わせた後でそれを取り去り、私たちが、解放されたとき、その分高く喜びで飛び上がるようになさるのであろう。というのも、請け合ってもいいが、悔悟者という悔悟者の中でも、最もあわれみを愛するのは、しばらくの間それを求めて行きつ戻りつしていた者にほかならないからである。ことによると、これこそ神があなたを待たせ続けておられる理由であろう。

 ここには、もう1つ考えるべきことがある。ことによると、それはすでに来ているのかもしれない。私が思うに、あなたがたの中のある人々は赦されてはいるが、それを知ってはいないのである。思うに、あなたがたの中のある人々は赦されている。あなたがしるしとして、何か素晴らしいものを期待しているとしても関係ない。そのようなしるしをあなたは決して受け取らないであろう。ある人々は、回心についてこの世で最も奇妙な考え方をしている。私が聞いたある人々の話は、人がいかにして回心するかについて、あなたに想像できる限り、最も奇矯な話であった。もちろん私はそんな話を信じなかった。だが私が思うに、あなたがたの中のある人々は、自分の体に電撃のようなもの――ガルヴァーニ電気か、そういったものの一種――、自分が今まで一度も経験したことのないようなものが走ると考えているであろう。今は、いかなる奇蹟をも期待していてはならない。自分が幻を見るまでは赦されていないと考えるなら、あなたは何年も何年も待たなくてはならないであろう。ある人々が自分は赦されていないと思っているのは、彼らが一度も、ある声を耳で聞かなかったからである。私は、自分の救いが私の心に適用された何か1つの聖句にかかっているとしたら、ひどく情けなくなるであろう。私は、それが悪魔によって囁かれたか、自分の背後で唸っていた風だったかと恐れるであろう。私は、それよりも確実なものを欲する。しかし、ことによると、あなたは赦されているが、それをまだ知らないのかもしれない。神は、あわれみの訪れをあなたの霊に語っておられるのに、あなたはまだそれを聞いていないのかもしれない。なぜなら、あなたは、「これがそれであるはずがない」、と云っているからである。もしあなたがじっと座ってこのことを考えさえしたら――「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」[Iテモ1:15]――、私が思うに、結局はあなたは、自分は除外されていないことに気づくであろう。あなたが頼りにしているような、そうした奇蹟的な事がらはさほど必要ではない。神はそうしたものを御民のある者らにお与えになるかもしれないが、決してそう約束しておられはしない。ならば、ことによると、この質問はこう云うことによって答えられるであろう。「そこに赦しはある。だが、あなたはそれを知らないのだ」、と。おゝ! 願わくは神があなたの魂に大声で語りかけてくださるように! そして、あなたが本当に、また確実に、神があなたを赦しておられることを知ることができるように!

 しかし、もう1つ真剣な問いかけがある。それはこういうことである。「神は、最後には私の願いをかなえてくださるでしょうか?」 しかり。あわれな魂よ。まことに神はそうされる。あなたが神を慕い求めていながら――私が先に述べたような願いをもって神を慕い求めているとしたら――、失われるなどということは、完全に不可能である。というのも、私はこう考えるからである。かりにあなたが、こうした願いをなおも霊にいだきながら失われた者らの巣窟に降って行ったとする。その門の中に入ったとき、あなたはこう云わざるをえないであろう。「私は神のあわれみを願い求めましたが、神はそれを私に与えようとしませんでした。私はイエスの御手から恵みを求めましたが、彼は与えようとしませんでした」。あなたは、たちまち何と云われるか知っている。サタンは欣喜雀躍するであろう。「あゝ!」、と彼は云う。「ここにいる罪人は、祈りながら滅びたのだ。神はその約束を守らなかったのだ。神は云った。『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』[ロマ10:13]。だが、ここにいる者は、そうしたというのに、失われたのだ!」 あゝ! いかに彼らが地獄で喜びの喊声をあげることか! 彼らは《全能の神》に向かって冒涜的な歌を囃し立てるであろう。――ひとりのあわれな、慕い求めつつある魂がそこにあるからといって、そうするであろう! 私はあなたに1つのことを告げたい。私はこれまでの一生で、多くの邪悪なことを聞いてきた。――多くの人々が悪態をつき、神を冒涜するのを聞いて、身震いするほどだったことがあった。だが私は、1つのことだけは決して人が云うのを聞いたことはないし、神は絶対だれにもそのような嘘っぱちを口にするのをお許しにならないと思う。私は、酔っぱらいの男でさえ、こう云うのを一度も聞いたことはない。「俺様は、心の底から真剣に神を求めた。だが神は俺の云うことなど聞かず、俺の願いをかなえてくれず、俺を投げ捨てたのだ」、と。私は、人間が無限に邪悪になりえると知ってはいるが、これほど忌まわしい偽りを口にできる者がいるとは、絶対に不可能だと思う。いずれにせよ、私は一度もそれを聞いたことがないとは云える。そして私の信ずるところ、あなたがたの中のある人々はこう云えるであろう。「私が若かったときも、また年老いた今も、ひとりの悔悟した者が、絶望して、自分は救われていない、自分は神を求めたが神は私の云うことを聞いてくれず、自分を御顔の前から投げ捨て、自分にはあわれみを与えようとしなかった、と云うのを見たことがない」、と。そして、あなたが生きている限り、そのように云う人には出会うことがないと思う。ならば、なぜあなたがその最初の者となるべきだろうか? あわれな悔悟者よ。なぜあなたが最初の者となくてはならないのか? あなたは自分が《全能者》の矢[ヨブ6:4]の選びの目印であると考えているのだろうか? あなたは、神がその復讐の雷電のすべてを投げつける的として、神に立てられたのだろうか? あなたは、あわれみにも漏れがあるという最初の例になることになっているのだろうか? あなたは、愛の無限さに打ち勝つ最初の者となることになっているのだろうか? おゝ! そのように云ってはならない。絶望は狂気である。だが、絶望している者よ。一瞬でもあなたの理性をかき集めるがいい。神はあなたが罪に定められることを望まれるだろうか? 神はこう云われなかっただろうか? 「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決してだれが死ぬのも喜ばない。かえって、その態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ」*[エゼ18:32; 33:11]。あなたは、あなたの血を流すことが《全能者》にとって喜びとなると思うのだろうか? おゝ! 決してそのようなことを考えてはならない。あなたは、神が赦すことを愛されるとは考えないのだろうか? 神は、いつくしみを喜ばれる[ミカ7:18]と仰らなかっただろうか? また、こう書かれてはいないだろうか? 「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」[イザ55:9]。あなたの魂を滅ぼすことが、神にとって何の得になるだろう? あなたを救うことの方が、ずっと神の誉れになるではないだろうか? あゝ、確かにそうである。なぜなら、あなたは天国で神への賛美を歌うだろうからである。そうではなかろうか? しかり。だが、思い出すがいい。あなたに対して用いることのできる私の最高の議論はこれである。あなたは、神がご自分の御子を罪人たちの代わりに死なせるために与えながら、罪人たちをお救いにならないなどと考えるのだろうか? 聖書にはこう書かれている。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」[Iテモ1:15]。そしてあなたは罪人である。あなたは自分が罪人であると感じている。それを知っている。ならば、彼はあなたを救うために来られたのではないだろうか? ただそれを信ずるがいい。あわれな悔悟者として、あなたにはそれを信ずる権利がある。もしあなたがパリサイ人だとしたら、そのような権利はない。だが、悔いて、へりくだり、砕かれた魂として、あなたにはイエスを信ずる権利がある。パリサイ人にその権利はない。というのも、主が義人を救うために来られたとはどこにも書かれていないからである。そして、もしパリサイ人が、主は義人を救うために来られたのだと信ずるとしたら、それは偽りを信じることになる。だが、罪人であるあらゆる人、その称号をわがものと主張するあらゆる人には、キリストが自分のために死なれたのだと信ずる権利もある。そして、それだけでなく、それは真実なのである。キリストが世に来られたのは、ある特定の目的のためであり、キリストはご自分の目的を果たされる。彼が世に来たのは罪人を救うためであり、今やこう書かれているのである。「主イエス・キリストを信じる者は、だれでも救われます。信じない者は罪に定められます」*[使2:21; マコ16:16]。先週の金曜日、私は野外で何千人もの人々に向かって説教する特権にあずかった。それは、私が夢にも見たことがないほどの集会で、これほど大人数の人々が何かキリスト教に関係した催しのために集まってくるなど以前は絶対に考えられなかったような集会であった。そのとき私は、私が何か一言云うたびに、その最後の一語をとらえて云い返す、異様に強力なこだまがあることに気づいた。それは、さながらどこかの巨人の声が、私の云ったことを念押ししようと語っていたかのようであった。私が、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」、という言葉を繰り返すと、こだまは、「救われます!」、と云い、私が、「信じない者は罪に定められます」、と云い進むと、こだまが柔らかに、「罪に定められます!」、と云うのが聞こえるのである。私は今朝も、そのこだまが聞こえるような気がする。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」。すると、天上の聖徒たちは叫ぶのである。「救われます!」 聞けよ! いかに彼らが御座の前で歌っていることか! 聞けよ! いかにあなたの栄化された親たち、あなたの不滅の者とされた親族たちが、「救われます!」、と叫んでいることか。あなたがたには、そのこだまが聞こえないだろうか? 天の青い空から、「救われます!」、とこだまする声が。そして、おゝ! 陰鬱な思いよ。「信じない者は罪に定められます」、という言葉を私が発するとき、かの恐ろしい言葉が立ちのぼって来る。――「罪に定められます!」、と。それを立ちのぼらせている場所は、「虚ろな呻き、陰鬱(くら)き嘆き、責苦(くる)しめらるる 幽鬼の悲鳴」に満ちた所である。願わくは、あなたが、罪に定められるとはいかなることかを決して思い知ることがないように! 神が今あなたに信ずることを得させてくださるように。というのも、「きょう、もし御声を聞くならば……心をかたくなにしてはならない」からである。

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霊的暗黒にある魂の願い[了]

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